ビールス・パニック


 

 

第11話


<報告書 ヒグチ・ウイルスMC−A群について (その6)>

XI.ヒグチ・ウイルスMC−A群生成、感染拡大の「犯人グループ」

 2008年6月11日未明から同日夕刻にかけて、「リヴァイアサン」と名乗る組織の主要構成員が、相次いで確認、逮捕された。彼らの自供、及び遺書の中身から、この時期に感染が拡大し、戦後日本初の非常事態宣言発令の要因となったヒグチ・ウイルスが、彼らによって生成、感染を拡大されたということが明らかになりつつある。
 この秘密結社自体が、ヒグチ・ウイルスの感染者を取り込んで勢力を拡大させた組織であるため、どこまでが主体的な組織の主導者で、どこからが半強制的に活動に組み込まれた被害者なのか、ウイルス感染の痕跡確認調査が完了するまでは、明確に区別が出来ない。
 ここでは、「リヴァイアサン」の指導的立場にあったことが確実視されているメンバーについてのみ記す。


a) 西堀貞敏 (2007年6月11日 自殺 享年73歳)

 西堀貞敏は、1998年から1999年にかけて、厚生労働大臣を務めた政治家であるが、世間ではそれ以前の、人権派弁護士の代表格としての彼の経歴の方が有名である。
 国選弁護人としては逆転無罪を勝ち取った回数が最も多い戦後の弁護士としても知られている。
「庶民の味方」、「虐げられた人々の最後の頼み」と評価されていた彼は、1995年、日本の薬事行政を大きく揺るがした「薬害エイズ裁判」で、患者側の初代弁護団長を務める。彼の弁護士としての名声は、この時、ピークに達した。

 その後、この事件で彼の厳しい追及を受け倒産した製薬会社、梅園製薬株式会社の要請を受け、再建中だったこの会社の、社外取締役に着任する。
 梅園製薬としては、薬害事件で彼らを訴えた仇敵、西堀の後ろ盾を得ることで、世間に対して「償い、出直し」の姿勢を強く押し出すという目論見があったと考えられる。
 名声が高まる一方の西堀は1998年、時の総理からの「一本釣り」での指名を受け、当時深刻な腐敗が噂されていた、厚生労働省の大臣に任命される。
 梅園製薬の米M&M社による買収・再建を許可し、製薬事業のグローバル化を進めるなど、功績を残した彼は、1999年には栃木4区からの選出で衆院議員となり、与党にあって新厚生族のドンと目されるほどの力を、短期間で得るに至った。

 弁護士として、政治家として、堂々とした経歴を残してきた彼が、大きな打撃を受けたのが、2001年の「大阪府連続通り魔事件」であった。犯人の米窪光(当時38歳)は、1989年に、通り魔暴行事件で起訴されていた。そしてその際に彼の逆転無罪を勝ち取ったのが、国選弁護人の指名を受け、一審有罪判決からの逆転へ全力を尽くした、西堀だった。
 大阪府連続通り魔事件の犠牲者は8人。
 彼が40年の弁護士人生で命を救ったとされる冤罪事件の被告は3人。
 結果論ではあるが、彼が人生を捧げた弁護士生活は、天秤にかけると、失った命の方が多い勘定となってしまった。
 西堀は絶望の中で、東京都弁護士会からの退会と、政治活動からの引退を決めた。
「人殺しを誘発した元人権派弁護士」との酷評を受けるようになった西堀は、苦悩の中で、法律にも政治にも頼らない、日本社会の大改造を妄想するようになったとされている。

 2007年6月11日、早朝の日課である愛犬「トーマス」の散歩を終えた西堀は、金庫より、予め準備されていた遺書を取り出し、自宅の書斎で首を吊った。
 政策秘書の烏丸より定例の電話連絡がなかったことで、「リヴァイアサン計画」の失敗を悟り、自死を選んだと考えられている。

 彼の遺書には、晩年彼が傾倒していたと言われる19世紀イギリスの社会学者、ホッブスの影響が顕著に見られる。
 曰く、「もとより強力な宗教上の戒律や道徳を持たず、戦後には地域の繋がりや共同体意識までもが解体された、現代の日本社会において、万人は万人に対して狼である。エゴイズムと個人の欲求のみが暴走するなかで、万人の万人に対する闘争が既に始まっている。各人が自然状態で生まれ持っている権利を一部、公共の利益を体現する存在に委託することで、始めて自然権の最大実現が可能となる。現代日本人各個人の判断がそれを許さないとすれば、強力な手段で個々人の判断を集約してしまうことすら、必要だと言える。」
 ヒグチ・ウイルスMC−A5を日本人全体に浸透させ、個々人の自由意志に一定の制限をかけつつ、平和で公共の福祉が成り立つ社会を再構築する。
 かつての「人権派弁護士」が落胆と絶望の中、半ば懺悔のように描いた社会像は、誇大妄想と究極の自己否定の産物として見られている。


b) 烏丸直樹 (拘留中)

「リヴァイアサン」の象徴的な指導者として名前が挙げられている西堀に対し、実質的な頭脳と両腕の役割を担ったのは、彼の政策秘書で、元厚生省官僚の烏丸直樹だったとされている。
 厚生省にキャリアとして入省した彼は、1999年、当時の西堀厚生労働大臣の大臣秘書官となる。
 米M&Mによる梅園製薬買収のシナリオを書いたのは彼とされ、厚労省での出世は早かった。

 2000年には、課長補佐のポジションで早くも、厚労省の内部からの改革を提言するが、却下され、以降冷遇されるようになる。2001年初には厚労省を退官。西堀の政策秘書となった。

 警視庁公安部の調査によって、2002年に起きた「樋口耕蔵博士、学会発表内容盗用事件」
 は実は、烏丸と諏訪岳人(当時樋口の助手)が画策した陰謀だったという見方が強まっている。
 この後頻発した、樋口博士のスキャンダルと同じように、彼の最新の研究内容を、諏訪が漏洩し、それを烏丸が息のかかった製薬会社や研究所に、先に目立たない場で発表させて、既成事実を密かに作り上げる。
 薬事行政の一線からは退いたものの、「西堀前厚生労働大臣秘書、元同省薬事局課長補佐」のネームバリューは当時未だ絶大で、当時の疑惑事件では、容易に樋口の不利となる画を描くことが出来たようだ。
 これらの陰謀は全て、彼の研究者としての社会的信用を失墜させ、手足を奪い、口封じすることが目的だったと思われる。「ノイローゼ」という診断書まで作らせて樋口博士を囲い込んだ烏丸らは、彼の研究成果を悪用して目的を遂げようとした。

 しかしこの「目的」について、烏丸の行動には多くの疑問点が指摘されている。
 晩年には国家主義的な社会観を持つに至ったが、西掘が夢見たのは、あくまでも理想郷だった。
 それと比較すると、烏丸の「リヴァイアサン」での活動は、愉快犯的な行動が多く、革命というよりは、「秘密結社ごっこ」を楽しんでいたように見える。
 優秀なキャリア官僚の組織に対しての失望が、この遠因にあるのではという見方もあるが、今後の自供結果を見守る必要があると思われる。


c) 笹沼健人 (拘留中)

 インターネットのサイトを利用して組織の拡大、詳細な指示の伝達等を行なった「リヴァイアサン」を技術面から支えたのが、システムエンジニアの笹沼だった。
 35歳を過ぎて、SEとしての先行きに不安を感じ始めた彼の前に、立ちはだかって見えたのは大きな格差が確立、再生産されつつある社会だった。
 プログラマーたちは、課せられる異常な長時間労働と比較して、十分な利益を得てきていない。
 そのように彼の目に映った、現代日本社会への彼の不信感が、リヴァイアサンという組織に彼を参加させた動機だったと見られている。
 ただし、秘密のホームページを立ち上げてからの、彼の任務遂行態度は真面目とはいいがたく、多分に享楽的で飽きやすい性格を露呈した。
 時代の閉塞感に強い不満を示しつつも、新しい世界を切り拓くというビジョンは持っていなかったと考えられる。
 逮捕後の彼は、「ネットへのアクセスに制限をしないという条件で独房に入りたい」として、司法取引を持ちかけ、当局を困惑させた。


d) 諏訪岳人 (逃亡中)

 複数のリヴァイアサン構成員の証言、自供から、現在指名手配中の諏訪岳人が、ヒグチ・ウイルスMC−A群の生成、散布に深く関わっていたことが確実視されている。
 2000年末頃から樋口博士の助手筆頭として樋口感染症予防センターを切り盛りし始めた彼は、樋口博士が実験中に偶然発見した「MC−Aゼロ」の効用に着目。
 東京大学時代の友人、烏丸と密かに計画を立て始める。
 樋口の研究成果を途中で他の研究所に意図的に漏洩し、「盗用事件」を複数演出した彼らは、樋口耕蔵の社会との接点を一つずつ奪っていき、研究に縛りつけた。
 研究所から自宅への往復にまでも、烏丸の息のかかった非合法組織の者が監視につき、彼の逃げ場を奪い、研究を進展させる。
 彼の妻の身の危険をチラつかせ、従わせた。
 しかしついに樋口は良心の呵責に耐え切れなくなり、錯乱して観察途中のMC−A2を研究室近隣で散布。自殺を試みたと見られている。
 笹沼の自供によると、MC−A1からA3、A5を生成したのは、諏訪岳人であった。


 リヴァイアサンの指導層が、これだけではなかったはずだという声は、6月11日時点で既に、囁かれていた。
 さらに巨大な黒幕や協力者が政財界にいた可能性。
 そして西堀たちは「蜥蜴の尻尾切り」要員だったという可能性までもが、まことしやかに噂された。
 しかし警視庁公安部は、これが組織の全容だったという報告を行ない、今後さらなる捜査を、政府に対して行なう予定はないとしている。

( 報告その7に続く )



。。。



「重野さんも、水原さんも、ちゃんと回復すると思いますよ。本人は、治ったら意外とその時のことも憶えていなかったりして、ケロッとしてたりするんです。」

 コロナの助手席で、芳野渚が芹沢を励ます。
 自分の顔はそれ程に青ざめているだろうか。芹沢が運転中に、右手を顔にやった。
 面会謝絶だと担当医に言われつつも、警察手帳を出して無理矢理に重野千春の治療室に入った芹沢は、医療用拘束衣を着用させられて眠っている重野を見て、ショックを受けてしまった。
 長い公安の仕事の中で、精神のタフさは人並み異常に培われたと思っていた芹沢勇人だったが、元配偶者が、乱交で腫れた患部を治療されながら、拘束着に収まっている姿を見ると、やはり打ちのめされてしまった。彼女が目を覚ます前に、芹沢と芳野は治療室を出た。


「先生もここのところ、仮眠室でしか寝てないだろ?今日はアパートまで送るから、ゆっくり休んでくれ。事件は大方、かたがついた。あとは諏訪をふんじばるだけだ。ったく、このヤマもハードだったな、しかし。」

「芹沢さんは・・・。また本庁に戻るんですよね。重野さんたちを酷い目に合わせた、諏訪が捕まるまでは、ずっとこのペースで捜査を続けるつもりですか?」

 芹沢は、何も答えなかった。
 少し困ったような顔をして、頭を掻いただけだった。

「私も、捜査を続けます。今夜も本庁に泊りこみます。」

「必要ない。ウイルスのヤマは押さえつつある。逃亡中の諏訪の身柄拘束だったら、分析官殿の助言がなくても・・・。」

「違うんですっ!」

 芳野が大きな声を出す。芹沢は疲れた顔をしたまま、横目で芳野を見た。
 芳野渚の真剣な両眼が、芹沢を射抜いている。

「以前、芹沢さんは、犯人になったつもりで考えてみろって仰いましたよね。こんなこと・・・、考え過ぎかもしれませんが、私・・、私が諏訪だったら、今の状況には満足していません。」

「そりゃあ・・・、ウイルスを利用した秘密組織の活動が、俺たちに阻害されて、組織が潰されつつあるんだから、満足じゃあないだろ?」

 眠い目を擦りながら、運転中の芹沢が答える。しかし、芳野はその答えにも満足しなかった。

「違います。今のウイルスです。MC−A5の特性とネット上のサイトを使った指揮伝達は、とても相性がよかったと思います。それでも、ウイルスの研究者としては、これが法を犯して、社会を敵に回してまで得るべき、究極のウイルスだとは思えません。私がもし、究極のウイルスを目指して、社会に背を向け、世の中に無限の実験サンプルを得て・・・。ウイルスを開発するとしたら、きっとインターネットも、秘密組織も、必要としない、完結した能力を持つウイルスを生成するまで、研究を止めないと思います。それが・・・、道を外れたウイルス学者の夢想する、ウイルスの『美しさ』だと思います。」

 信号でトヨタ・コロナが停まる。芹沢は、真っ直ぐな芳野の目を、まじまじと見つめた。

「それが・・・、あんたが諏訪だったら、とると思える行動か?」

「私は絶対に諏訪なんかにはなりません。でも、もし私が諏訪だったら、絶対にそうします。」

 車内が沈黙に覆われる。気がつくと、既に信号は、とうに青になっていた。
 ゆっくりと芹沢が、灰色のコロナを発進させる。
 千代田区霞ヶ関に向けて、左折のウィンカーを点灯させた。

「しばらくボヤくのは止めよう。今回のヤマも、例によってうんざりするほど厄介だが、パートナーには非常に恵まれた。文句は言えねえな。」

 芳野の顔がパァッと明るくなった。芹沢に面と向かってここまではっきりと誉められたのは、初めてだったかもしれない。

 しかし、その芹沢は、次の信号とその次の信号、三回連続で赤信号に捕まると、すぐに舌打ちして、ボヤき始めるのだった。


。。。



 韮浦駿介は、ウイルス封鎖後の、すっかり静かになった、早朝の街角をジョギングしていた。
 梅雨の時期は、なかなか走れる日が少ない。
 しかし小雨が上がった後の、清潔な空気を醸す東京の朝は、嫌いではなかった。

 気分よく、少しペースを上げてみようとしていた韮浦は、交差点で異様な集団と遭遇した。
 様々な年齢層の男女が、全裸で手をつないで歩いている。
 先頭を引率するように歩く、柔らかい笑顔の20代半ば頃の女性が、立ち尽くす韮浦に気がついた。

「こんにちは〜。」

 後ろを歩く、30人ほどの男女が、先頭の女性の言葉を繰り返すように声を揃えた。

「こんにちは〜。」

「こ・・・こんにちは。」

 韮浦は、完全に気押されして、とりあえず挨拶を返すことしか出来なかった。
 ジロジロ見ては失礼かとも思ったが、ついつい若い女性の裸を探しては、目を止めてしまう。
 色々なタイプの女体が並んでいたが、なかにはうら若き少女や、人妻らしき女性、OLのグループらしき裸も並んでいる。
 誰一人、韮浦の視線を不快に思ったりしていないようだった。
 全員が、幸せそうな、穏やかな笑みを見せている。
 韮浦が胸を凝視すると、両手を腰の後ろに組んで胸を突き出して、より良く乳房が見えるようにしてくれる女性。
 股間に視線を感じると、淡く生え揃ったヘアを掻き分けて、中を見せてくれる学生らしき人。
 みんな、韮浦の視姦に対して、協力的ですらあった。

 集団・・・ストリーキング?
 それとも東京を封鎖に追い込んでいる、噂の淫乱化ウイルス?
 しかし韮浦には、この集団には、そのどちらも当てはまらないように感じられた。
 全員が、あまりにも穏やかな雰囲気を醸し出していたからだ。
 ストリーキングなどという行為にしては、活気がなさ過ぎる。
 そして「淫乱化」などという響きから感じられる、淫らで背徳的な空気とも、正反対だった。
 全員が伸びやかに、幸福そうな視線を韮浦に返してくる。
 この集団にはまるで、生まれてから今まで、ずっとこうして暮らしてきたような安定感があった。

「あの・・・、その、服・・・着ないで、寒くないですか?」

 韮浦がやっと尋ねると、先頭に立っている、長い髪の、綺麗なお姉さんが肩をすくめた。

「寒くなったら、愛し合えばいいんです。あったかくなりますよ。ね?皆さん。」

「はーい。」

 笑顔の集団が答える。
 カップルのように腕を組んでいる全裸の老人と18歳ぐらいの女性が、お互いの乳首を摘まみあってクスクスと笑った。

「よろしければ貴方も。私たちと愛し合いませんか?とっても気持ちがいいですよ。」

 スレンダーで、美形の女性は、全裸の自分を隠す素振りも見せずに韮浦に近づくと、そっと彼の股間に触れた。

「こんなに、固くなってますね。私とセックスすれば、落ち着きますでしょうか?貴方の役に立てるんでしたら何でもお手伝いしますよ。私の愛を、受け取って下さい。」

 落ち着いた雰囲気の美女が、韮浦の体を包み込むように抱きしめる。
 柔らかい乳房が、彼の胸もとに押しつけられた。
 咎めるような様子もなく、全裸の集団がその様子を笑顔で見守る。
 韮浦は思わず、美女の形のいい尻を撫で回した。
 清楚な美貌を持つ、髪の長い女性は、韮浦の顎に手を添えて、顔を合わせ、ニッコリ微笑んだ後で、大胆に舌を出して彼の頬をベロリと舐めた。
 濃厚なディープキスが始まる。
 彼が舌をつつき合い、唾液を交換しながらも、空いている手で彼女の乳房を弄ぶと、嫌がる素振りを全く見せない彼女は、彼のジャージズボンの中に手を突っ込んで、同様に彼のモノをまさぐった。

 これから東京都港区の路上で、早朝に似つかわしくない、情事が始まろうとしている。
 同時にズボンとブリーフを足首まで下ろした韮浦が、歩道の真ん中に座り込んで、マングリ返しの姿勢になった美女に、覆いかぶさる。
 柔らかく熱く、そしてジットリとした彼女の内壁が、硬い彼のペニスを受け入れた。
 獣のように腰を振る韮浦の周りに、集団の中からおずおずと抜け出た若い女性たちが集まる。
 彼の乳首に左右から吸いつくOL風の女性たち。
 耳の穴に舌を入れる女子高生らしき少女。
 背中に乳首の起き上がった乳房を押しつけて円を描く人妻。
 少しでも韮浦を楽しませようと、様々なタイプの女性たちが、3分前に遭遇しただけの見知らぬ彼に、精一杯の奉仕を行なう。
 柔らかい女性の肉に、全身が包まれて愛撫されているようだった。

 早朝から大都会の街中で繰り広げられる、ハーレム状態の野外セックス。
 それに触発されるかのように、全裸の集団は互いの体を貪りあい、パートナーを持たないものは自分の体を慰め始めた。
 車道まではみだして、31Pほどの乱交が展開される。
 戒厳令下の静かな東京で、朝から「愛し合い」が存分に催されていた。
 互いの体をところ構わず吸い付いて嘗め回す、液体音。
 腰を打ちつけ合う肉の衝突音。くぐもった吐息と快感にうめく喉の音。
 抑える意図もない、あからさまな喘ぎ声。
 全裸の乱交集団は、少しずつ人数を増やしているようだった。
 誰一人、顔に不快感の欠片も表さない。
 幸福そうな人たち同士の、幸福そうな朝のセックス。
 全員が、手の届く範囲の人に最大限の快感を与えるべく、身を粉にして奉仕しあっていた。

 いつの間にか、その笑顔でまぐわう集団に、韮浦も取り込まれていた。
 幸せそうな笑顔を浮かべながら、結合しているロングヘアーの美女と快感を高めあう。
 周囲の若い女性たちに奉仕されながら、韮浦も舌や手を使って、女性たちへの快感をもたらす動作に没頭する。
 まるで幸福な肉の集合体が、互いの、そして己の快感の増幅を求めて蠕動しているように見える。
 朝日に照らされて、笑顔の全裸集団が快楽を分かち合い、奉仕し合い、体をまさぐりあっていた。

 まるで、12時間ほどもセックスに励んでいたような気がしてた。
 韮浦がエクスタシーに達し、ロングヘアーの美女の体内に自分の精を放出した後、彼は、まだ十数分しかたっていなかったことに気がつき、少し驚いた。
 彼は1秒後には、より大きな驚きと向かい合う。
 断続的に精液を美女の体内に振り撒きながら、彼は、自分の中で、オルガズムの絶頂感が退いていかないことに気がついた。

 イッた瞬間の、魂が甘美に締めつけられるような快感。
 その感覚がいつまでも無くならない。
 骨まで蕩けさせるような恍惚から、けっして体が解放されないのだ。
 先のことも考えられない、この集団セックスの異常さにも、まるで気がいかない程の心地よさ。
 つま先が反り返るような性感。全てが彼を包み込んで、彼の内部を満たし、外部を浸した。

 そんな彼の様子を見て、嬉しそうに、長くストレートな髪の美女が抱きつく。

「新しい家族が出来たみたい。嬉しいです。」

 いとおしそうに、彼女が韮浦を抱きしめる。
 永遠とも感じられるような長い口づけの後、彼女は少しずつ語り始める。
 自分が港区南麻布署に所属する婦警であること、レインボーブリッジの封鎖に当たって、救援として召集されていたこと。
 途中で不意に、全てがどうでもよくなってしまって、東京から抜け出そうとしていた一般市民を誘って、裸でのウォーキングに出かけたこと・・・。

 韮浦は、まるで一週間も連続で、彼女の話を聞いているような感覚を持っていた。
 それでも、新しい家族との会話に、満足を覚えていた。


。。。



 諏訪岳人が、低い笑い声を立てながら、保冷車を運転する。
 道筋には、ところ構わず性行為に励んでいる全裸の男女。
 嬉しそうに路上乱交パーティに興じる百人近くの東京都民。
 民家の屋根の上で大股を開いて、朝日に秘部を晒しながら、早朝オナニーに勤しむ女性たち。
 快楽に耽溺する市民たちの姿があった。

 諏訪がカーオーディオに接続された携帯用音楽プレーヤーをいじると、厳粛な中にも絢爛豪華なバロック音楽が流れ始めた。
 ゲオルグ・ルードリッヒ・ヘンデルの有名なオラトリオ。
「メサイヤ」の中にあるコーラス、「ハレルヤ」が響き渡る。
 片手で指揮者のようにリズムを取りながら、上機嫌の諏訪が街を流す。

 裸でヒッチハイクをするかのように、車に片手を上げる人々の笑顔。
 街中のいたるところで見られる複数でのセックス。スワッピング。
 封鎖中の東京を抜け出そうと、ここ甲州街道に集まりつつあった人々が、次々と服を脱ぎ捨て、穏やかな笑顔で、目に映る人々に手当たり次第に抱きつき、口づけをする。
 諏訪はオーケストラを指揮するように、想像上のタクトを振るい、東京都の人々の宴を確認していった。
 沿道の人々が、男女入り混じって、「変形シックスナイン」の鎖を作り始めている。
 諏訪の走るレーンの反対側、渋滞している八王子方面行きのレーンからも、車を乗り捨てて、服を脱ぎ捨て、この鎖に連なる人が増えていく。
 道路で寝そべる男に覆いかぶさって、その股間に顔を埋める若い女性。
 その女性の股間を舌で刺激すべく寝そべる、別の男性。互い違いに組み合わさった男女の列が、鎖になって連なっていく。全員、朝の光を浴びて、幸福そうに絡み合っている。

 諏訪は窓を開けて、歌いだしたくなるような気持ちを抑えた。
 窓を閉め切り、エアコンを内気循環にしているからこそ、このMC−A6の感染から免れている。
 飛沫核感染による、広域で短期間に感染を拡大させる、MC−A群で最も凶悪なウイルス。
 諏訪がやっと、師の研究成果を超えたと胸を張れる、究極の人格侵食ウイルスが都内各所で散布され始めていた。


。。。



<報告書 ヒグチ・ウイルスMC−A群について (その7)>

XII.ヒグチ・ウイルスMC−A6のパンデミック(世界的感染拡大)

 2008年6月の第2週より、諏訪岳人は「リヴァイアサン」の活動からもほぼ別離して、組織に対しても秘密裏に開発、研究していたA群究極形のウイルス、MC−A6を単独で散布し始めていたことが、後日の調査で判明した。

 彼が、組織にも知らせずに進められていたMC−A6開発の計画は、散布以前に最も諏訪の身柄確保まで近づいたとされる、警視庁公安部、重野警部補によって発見されたが、彼女はそれを同僚に伝えるこは出来なかった。
 そのMC−A5に感染し、正常な判断力を喪失してしまったのである。

 新型のMC−A群亜種の爆発的流行を、最初に発見したのは、彼女の捜査チームメンバー、芳野分析官であった。
 飛沫核感染(空気感染)という、最も危惧された感染経路が新たに確認されたこのウイルスは、都内からの人の拡散を、血液検査をパスした市民に絞り、それ以外の市民を封鎖するという、政府のシナリオを大きく揺るがせた。

a) 暗黒期の存在

「暗黒期」とは、細胞内に侵入したウイルス粒子が、一定期間、検知されなくなる期間である。
 エクリプスとも呼ばれるこの期間を持つ亜種は、これまでのMC−A群には確認されていなかった。

 MC−A6の場合は、感染者の体質により、発症時期が大きく異なる。
 日本人の約7割ほどは、空気中に長時間浮遊している飛沫核を呼吸によって取り込むと、肺から体内にウイルスが侵入し、爆発的な増殖を開始し、非常に短時間で発症する。
 しかし、残りの3割ほどの感染者の場合は、体内でウイルスが、上記の暗黒期に入り、数日間発症せずに潜伏する。この期間に検査を受けても、ウイルスは検出することが出来ない。
 このため、検査を受けて東京を脱出し、帰国していった外交官やその家族を通じて、世界各国に感染が拡大してしまった。
 入国検疫や国内での血液検査に力を入れていた国ほど、大きな被害を受ける結果となってしまった。

 発見から2週間で世界中で2億人を超える感染者を出したこのウイルスは、感染規模では20世紀初頭のスペイン風邪のパンデミックを早々に超えることが予測される。


b) 「A群最凶のウイルス」の特徴

 MC−A6は先行した他の亜種の特徴のいくつかを兼ね備えている。
 批判的判断力の低下。強い多幸感の発生、といった点は、MC−A2の特徴と相似している。
 感染者が衣服を身につけたがらず、不特定多数との性交渉を嬉々として行なうという部分は、MC−A3の効果と近しいとされる(ただし、A3のような貪欲な淫乱化は起こらない)。
 そして感染・発症の即効性と長期間の持続は、MC−A5と共通する特徴である。
 自己生存欲求の抑制に起因する、自分の安全、利益に無頓着な利他的行為もA5と一部共通する。

 一方で、MC−A4の症状である、性格、嗜好の極端な変化との関連性も指摘されているが、MC−A6により特徴的であると見られる、独自の症状がある。
 脳内報酬系の快楽物質分泌異常と、時間感覚の段階的喪失である。
 感染者の多くは、初期段階で不特定の相手と性行為に及ぶが、そこでオルガズムに達した後、脳内快楽物質の分泌が通常通りに抑制されにくくなる。
 所謂「エクスタシー」を感じたままの状態で長時間過ごすか、性的快感や恍惚感が退かない状態となる。

 この状態の感染者には、目に入るもの全てが輝いて見え、自分の存在が世界中に祝福されていると感じ、陶酔する。
 やがて感染者は性行為自体もしなくなり、ただ目にする人々と抱擁し、愛情を交わそうとする。
 性行為自体はなくても、オルガズムに近い快感が常に湧き出てくるので、ただ、互いの体に触れ合うだけで歓喜を感じる。
 深い愛情で結ばれたパートナーとの、性交渉と同様の喜びを、目にするもの全てに感じ、それらに対しても与えたくなる。との証言が、多くの症例でなされている。

 そして時間感覚の段階的喪失が、MC−A群にあって唯一、A6のみに確認され、危険視されている症状である。
 初期段階では、感染者は、単に一日を異常に長く感じたり、他人との15分の性交渉を三日ほどの長さに感じたりするという、時間感覚の歪みを見せる。
 しかし、症状の進行とともに、感染者の時間感覚は喪失されていき、自分の周りでどれだけの時間がたっているのかということが、認識出来なくなる。
 発症後、1週間で多くの感染者は、「時間」という概念自体を喪失することになる。
 時間が経過するということ、過去、現在、未来という概念の消滅。
 一部の認知症患者が見せるような、こうした時間概念自体の喪失が、大部分のMC−A6感染者に起こる。

 この現象と、先に述べた自己生存欲求の抑制、利己的行為の減少という症状とを、結びつけて考える研究者も存在する。
 曰く、人間は自分の未来の生存リスクを認識することが出来る数少ない生物である。
 将来に対して不安というものを感じるが故に、今日一日分に必要な量以上の資源を求め、欲求を拡大させる。未来という概念が消失すれば、空腹を感じた時に、満腹になる分量の食料だけを求めるようになる。
 自分が満腹していれば、空腹を訴える他人に残りの食料を与えてしまう、という説である。
 これは一見、倫理的な行動に見えるが、ヒトという種の持つ生命力の極端な希薄化にもつながる。
 過剰に湧き出る多幸感と、時間の喪失によって、感染者は緩やかな衰弱に向かうという報告も多い。


c) 「天使のウイルス」

 キリスト教文化圏の一部では、このウイルスに感染した患者の様子を、「天使化」、「聖人化」と呼んで好意的に評価する人々が現れた。
 全裸で街を歩き回り、誰彼ともなく性行為に興じている間は単に脅威とひんしゅくの目で見られていたが、やがて満ち足りた表情で野を駆け、遊びに興じる感染者たちを、「祝福された者」とみなす宗教団体が現れる。
 このウイルスを、神の恩寵だと唱えだす宗教指導者もあった。

 単なる時間感覚の喪失を「永遠の解放」、多幸感が作り出す歓喜の状態を「幸福そのもの」
 と定義づけてしまうのであれば、感染者たちの精神はまさにその状況にある。
 しかし、この症状を「神の恩寵による永遠の救済」と見るべきか否かの判断は、本報告の目的範囲から大きく外れると考えられる。

 医学的な事実として言えるのは、MC−A6感染者が幸福感の中で時間の認識を喪失すること。
 そして緩やかな衰弱に向かって穏やかに、しかし確実に突き進んでいくことだけである。
 脳内快楽物質の過剰分泌は脳全体に負担を与える。
 自己生存欲求の減退は、感染者を危険に向かわせる確率が高い。
 数ヶ月のうちにほとんどの感染者が、生命の危機に晒されると予測される。

 そのような危険なウイルスにも関わらず、宗教的な価値を見出し、これを受け入れようとする人々は少なくなかった。
 感染者たちは発症直後から、上着を脱げと言われれば、下着も脱ぎ捨て、右の乳房を揉まれれば左の乳房も差し出す。
 こうした人々を「原初の楽園に住まう人間たち」と考えるキリスト教原理主義者たちは、アメリカ合衆国の中西部から南部にかけて、ウイルスを受け入れる運動を始めた。
 キリスト教国ですらない、極東の島国は、最も感染者が多く、全裸の人々が町中に溢れ、愛を交歓しあっていたことから、彼らに「東のエデン」と呼ばれ、戒厳令を無視した日本移住計画まで立てられた。



d) 国際的に注目を集めた症例

 2008年6月15日、オーストリアで行なわれていた音楽祭の途中で、楽団員たちが突如タキシードやイブニングドレスを脱ぎ始め、聴衆を煽って乱交行為を始めた。
 管弦楽団が扇情的な曲を吹き鳴らす中、世界から集まった知識人、クラシックファンの男女が、一人ずつ舞台に上がり、服を脱ぎ捨て、全裸で跳ね回った後で乱交に加わっていった。
 ヨーロッパで著名なファッションデザイナーや女流作家、ジャーナリストと言った人々も、この騒動に加わり、数十人の異性そして同性と性交渉に及んだ。

 音楽イベント中の騒動として、オーストリアの件と同列に語られるのは、アメリカ西海岸、ロングビーチで行なわれていたロック・フェスティバルでの「性と平和の祭典」事件である。
 訪れた30万人の聴衆の内の大部分がウイルスに感染し、相手構わずお互いの性器を愛撫しあった。全裸で観客席にダイブしたポップスター、アリシア・トンプソンは4時間後、州警察に保護された時には胸や臀部を始め、体の各所が揉まれ過ぎて軽度の炎症を起こしていた。
 しかし本人は満足しており、保護された後でも、歓喜の表情で自分の性器をまさぐり続けていた。
 パンク・バンド「フィルス」の美人ヴォーカリスト、アイリーン(本名・ヴァージニア・スミス)も、同様に全裸で野外セックス中に保護されたが、彼女のエージェントは、アイリーンの全身につけられた241のキスマーク跡を、記録としてギネスブックに申請すると発表している。
 数十万人規模の乱交が行なわれたという、MC−A6の事件の中でも特筆すべき事件だったが、演奏は、多くのバンドメンバーが交じり合うかたちで、性行為中も続行され、音楽的には質の高いセッションが多かったと言われている。
 60年代末の「ウッドストック・フェスティバル」の再来として、このロックフェスを評価する声もある。

 6月18日にパリのモンパルナスからフランス全土に拡大したMC−A6は、パリ市街地を「最も多様な人種、民族がまぐわりあう街」へと変貌させた。
 シャルルドゴール広場からコンコルド広場まで続く、シャンゼリゼ通りでは、一流のブティック、有名ブランド店の店員たちが、観光客らと3日間連続の耐久セックスマラソンを始めた。
 この偶発的なイベント競技が、パリ中心部の住人たちを巻き込み、巨大なムーブメントへと拡大した。

 同日、ドイツ南部のミュンヘン市でも、類似する騒動が発生している。
 ミュンヘン・ヴィッテルスバッハ寄宿学校の女学生たちが、シスターたちと示し合わせて、「恵まれない性生活を送る人々へのチャリティーセックス活動」を開始する。
 16歳から18歳の女生徒たちと、生涯の純潔を誓ったシスターたちが、列を作る男女に清らかな体を捧げる。
 MC−A6の感染拡大とともに、この活動はドイツ各地に伝播した。

 米ウィスコンシン州では、6月20日に、州最高裁判所の法廷で新進の女性弁護士が判事と不祥事を起こした。裁判の途中で自分に隠し事は何一つないと言い出した弁護士は、身につけているものを全て取り払って弁論を行なった。
 やがて法服を脱ぎ捨てた判事と濃厚なペッティングを始めた彼女に誘われるまま、陪審員たちも被告人や傍聴席の聴衆とハードな愛撫に没頭していった。
 この、セクシャルハラスメントに関する集団訴訟は、原告側と被告との8Pセックスが佳境に差し掛かったとき、和解の申し出が双方から出されたのであった。

 日を空けず、中華人民共和国でも大きな騒乱があった。
 鎮圧に当たった人民解放軍と、若い大学生男女の結成した「性の解放軍」が衝突をし、第二の天安門事件へと発展するかと危惧されたが、人民解放軍部隊の降伏と「性の解放軍」への参加という決着に至り、死傷者は出さずに済んだ。
 この事件のことを報道していた英BBCIのアンカーウーマンは、美貌と知的なコメントで知られるコリーン・ウィリアムズだったが、全裸で性器をイジリながらコメントをしていたために、中国の報道官から抗議を受けることとなった。

 大韓民国では、ソウルで行なわれた映画の授賞式で、スキャンダルが起きた。
 新作映画で話題を集めた韓国人女優、俳優たちが、メディアの取材陣のフラッシュの中で、奔放で露わな姿態を披露した。
 悪ノリしたカメラマンの要求を全て受け入れて、国際的にも有名なスターたちが、B級、C級雑誌に載るような猥褻写真を数多く撮影させてしまった。
 Y字バランスをしながら笑顔で放尿をする、清純派スター、イ・ミリの写真は、ネット上での大量不正掲示を誘発し、韓国でのインターネットサービス停止の引き金となった。

 その他、コロンビア議会の全裸解散やチュニジアでの一都市全員通姦事件等、ほぼ世界全域でMC−A6絡みの事件が発生した。
 ヒグチ・ウイルスMC−A群の感染拡大に伴う非常事態宣言や戒厳令を発令した国家は、90ヶ国にも及ぶとされている。
 なお、同時期に女性用の下着を身につけて、深夜のロンドンを徘徊しているところを拘束された英貴族院院内総務のケニー・ワイズマンは、検査の結果、ウイルスは一切検出されず、本人生来の性癖による奇行だったことが判明し、翌日議員辞職した。

( 報告その8に続く )



。。。



 連日の骨の折れる作業、活動のかいもなく、ウイルスの勢力拡大を抑えることが出来ない。
 警視庁公安部・ウイルス緊急対策分室には、覆いかぶさるような無力感が漂い始めていた。

 東京は確実に、日、一日と、無政府状態へ落ちていく。
 警察機構と自衛隊の必死の努力にも拘らず、恍惚の表情で服も身につけずに野外で暮らす感染者の数は、増える一方だった。
 首都圏、関東地方全域の4割程度が、警察も治安回復を一旦諦めて撤退している、空白地域になっていた。

「今、横浜に行けば、どんな美人とでもヤレる。」
「港区はヌーディストの共同生活コミュニティが管理していて、そこのメンバーに頼めばどんなプレイでもさせてくれるらしい。」
「九州から原付で来て、丸の内を徘徊する元OL200人とヤッた男がいる。」

 噂が噂を呼び、地方から不届きな侵入者を呼び込む。
 彼らは必ず感染し、その場で恍惚のヌーディストたちの列に加わるか、暗黒期のウイルスを地元に配達してしまっていた。

 静岡県三島市に設立された臨時政府がウイルスの拡大抑止に次々と手を打とうとするが、効果的な策は打ち出せずにいた。
 既にウイルス支配地域の前線は箱根を越えようとしており、早くも臨時政府の同県浜松市への移転計画さえ囁かれ始めていた。

 そうした状況下で、東京都の中心部、千代田区霞ヶ関に残って捜査を続ける緊急対策分室のメンバーたちの姿には、目に見えて疲労の色が濃くなりつつあった。

 芳野渚分析官は、4冊目の捜査ノートの中身をラップトップ上に整理している時に、肩をポンと叩かれる。無精髭が随分と伸びた、芹沢警部補が後ろに立っていた。

「ちょっと外、出ないか? 一昨日から篭りきりで、柏の研究室とのやり取りだの、サンプルデータの調査だのばっかりしてるだろ。たまには日の光にも当たらねえと、いいアイディアも出てこないぞ。」

 芹沢に言われて、芳野が窓の外を久しぶりに見る。
 ここ二日ほど降り続いていた雨が、いつの間にかやんでいた。
 立ち上がると、同じ姿勢で何時間も居たために、固まってしまった首や肩の筋肉や組織が、コキコキと音を立てた。

「雨・・・、やんでいたんですか・・・。でも、今も、科警研の同僚や上司たちは、突貫工事でウイルスの調査をしていますので、私ばっかり、芹沢さんに甘える訳にも・・・。芹沢さん、私のことは心配しないで下さい。それよりも、理容室に行かれたほうが・・・。」

 芹沢は、話している途中の芳野の襟首を掴んで、問答無用に引っ張っていく。

「いいから、行くぞ。」

 無理矢理にでも、芳野を屋外へ引っ張り出す。
 芹沢は芳野の、糸が張り詰めたような任務への取り組み振りを、心配していた。
 樋口博士が、自分の意志で反社会的なウイルスを開発し、悪意をもって散布したという疑惑が、解消されつつある。
 その喜びと同時に、彼女の両肩にのしかかっているのは、4ヶ月半ほど前に、博士からの電話に返答しなかったという事実だろう。
 彼の陰謀説が覆された後に、彼女に残されたのは、自分さえ恩師に救いの手を差し出すことが出来ていたら、という後悔。
 今は任務に24時間没頭することで、自責の念から逃れようとしているのではないか。
 芹沢が危惧しているのは、そうした芳野の、思いつめていく様だった。
 少しでも、気分転換に引きずり出したい。その思いで、芹沢は芳野を連れ出した。

 6月も下旬に入った現在、芹沢たちは愛車の灰色のトヨタ・コロナで外出することもままならなくなっていた。
 完全な気密性を誇る、警察の細菌防護車両。
 ワンボックスタイプのバンに乗り込んだ彼と芳野は、二人で調査に出た。

 封鎖後の東京の街を、芹沢が流していく。
 都心部ではチラホラと、裸の男女が笑顔でフラフラ歩いていた。
 女性は男性の性器を握り締め、男性は女性の尻を撫でながら、歩道を歩いている。

 芳野は無意識のうちにも、感染者たちの様子を確認している。

 A6・・・。A6・・・。
 あの人は、・・・A4?

 都心を徘徊する感染者たちの、発症しているウイルスの種類と、症状の詳細を、細かく観察する。

「A6が箱根を越えつつあることで、陸自は本格的に防衛ラインを静岡県以西に下げつつあるようだな。空白地帯は治安が悪化する。一応立川や八王子を視察してくるか。」

 芹沢は、最近自衛隊が撤退した、東京都西端に向けて車を飛ばす。
 芳野はボンヤリと、窓の外の、変わり果てた都心の状況を観察していた。

「私たちの・・・、視点も少し変えなければいけないかもしれませんね。」

「・・・ん?」

 独り言のような芳野の呟きを、芹沢が拾う。
 芳野は窓の外の景色から目を離さなかった。

「私たち・・・、ずっとウイルスに感染している人たち、感染していく地域を追っていますよね。でも・・、都内にも、まだウイルスに感染していない人が、ちゃんといる・・・。こちらをちゃんと調査していくことも、大切ですよね。」

「んん・・・。」

 芹沢は、気が利かない自分に少しばかり嫌悪感を感じながら、生返事をする。
 彼女の気分転換を手伝うつもりだったはずが、いざ彼女が話を始めると、ついつい無口で無愛想になってしまう。女性とテンポのよい会話が出来るタイプではないのだ。
 それでも、彼女が色々と視点を変えながら、話をしている様子を見て、少しばかり安心する。
 白と黒の警察カラーに塗られたワゴンが、少しずつ速度を上げていく。


 23区を出てしばらく走ると、治安の状態が目に見えて変化してくる。
 自動ドアのガラスが割られている店舗や、煙を出したままのビル。
 三鷹市を西に抜けると、自衛隊との騒乱の跡がはっきりと、暴徒の爪痕のように見えてきた。

「あ・・・、あの。芹沢さん。あの、コンビニの前・・・。あそこで・・・、喧嘩が。」

「治安維持は所轄の捜査員に委ねることになっている。」

「でも・・、あの、女の子が、襲われてませんか?」

「先生。ウイルスの感染結果としての、個別ケースのいざこざは、自衛隊統幕直轄の、衛生管理局が扱う。緊急対策分室は、少ない人員を、ウイルス問題の根本解決のために集中させる。板倉さんがきれいに線引きしただろ?」

「でも、芹沢さんっ!男の人が何人も、男の子一人と、女の子をっ!」

 走り去ろうとしたワゴンが、高い軋み音を立てて、ブレーキをかける。
 芹沢が小さく舌打ちをした。

「これは領界侵犯じゃねえぞ。ヨーグルトを買い足しておくのを忘れた。コンビニに寄るだけだ。ついでに余計な連中がちょっかいをかけてきたら、追い払う。それだけだからな。」

 防護服のチャックを上げた芹沢が、宇宙服のようなヘルメットを被って首もとの密着チャックを閉める。
 微笑んだ芳野も、遅れないように慌てて防護服を身につけた。

「ウー、ウーゥゥ。」

 警視庁のマークが入った、白と黒の細菌防護車両が赤色等が回転させて、バックしてくる。
 ガラスの破片が散らばる、コンビニ前の駐車場で、衝突している集団が、ようやく手を止めた。
 傷を負ったように足を引きずる少年が、バットを振るって数人の男を追い払おうとしている。
 隣には少女が、助けを求めていた。
 警察車両がサイレンを鳴らすと、その二人を取り囲む、5人ほどの男たちが、一瞬ひるむ。

「はい、警察でーす。戒厳令下だから、若干荒っぽいよー。」

 白い、宇宙服のような防護服に身を包んだ芹沢と芳野が車から降りてくる。
 フルフェイスヘルメットの顔の部分も遮光強化プラスチックで覆われているため、表情が全く見えない恐怖がある。
 暴徒と化していた男たちが、及び腰になった。
 互いに顔を見合わせて、不安げな視線を交わす男たち、一人が背を向けて逃げ始めると、残りの男たちも慌てて走り去る。
 がらんどうのコンビニエンスストアの前、芳野が少女と少年の前に駆け寄るった。
 遮光レンズを引き上げ、透明なプラスチックシールド越しに、自分の顔を見せた。

「もう大丈夫。警察です。貴方たちを保護します。私は芳野という警察技官です。」

 肩までTシャツの袖を捲り上げている美少女は、まだ気を引き締めたまま、芳野分析官の顔をしっかりと見据えた。

「ありがとうございます。支倉真弓と申します。こちらの、八木原潤也と、奥多摩から練馬区に戻ろうと歩いてきました。」


。。。



 ワゴンの中で、芳野が二人に簡易血液検査を行なう。

「国分寺まで歩いて来たの?都内に入ってからは、何日ぐらい経つのかしら?」

 ゴワゴワする防護服の手袋を通しての作業に不便を感じつつも、芳野はまだ、感染疑惑のある対象を前に、素肌を晒すわけには行かない。

「今日で5日目です。八王子の東側から立川にかけて、怖い人がいっぱいいて、時間がかかりました。」

 ワゴン内の簡易シートに潤也を座らせた真弓は、彼の右足の脛から横にかけて走っている傷口に、ハンカチを縛りつけて止血をする。迷いのない、よい手際だった。
 怪我を負い、憔悴している様子の潤也も、真弓の看護を、何も言わずに任せる。
 芳野の目には、この二人は苦しい状況下で強固な信頼関係を築いてきたパートナーたちとして映った。この少女は、一体、何をしてきたのだろうか?
 芳野は擦り切れた少年のズボンや、乱暴に後ろに髪を結わえた美少女の姿から、彼らの苦労を思った。陸上自衛隊が撤退した後の空白地帯には、淫乱化した女性や恍惚の感染者たちとまぐわろうと、地方から侵入者が襲いかかって暴徒化している。
 東京は、地方に食い尽くされようとしていた。

 ワゴンの運転席、助手席がある前列シートと、後ろの部屋は頑丈な壁と窓で仕切られている。
 一度運転席に乗り込んだ芹沢は、芳野が簡易血液検査セットを室内灯に向けてかざした後で、彼に合図を送ると、また車を降りて、後部の室内に入る。

「MC−A群のウイルス、その他疑惑のあるものは検出されませんでした。都内に入ってからも5日経っているようですので、A6の暗黒期の可能性もほぼありません。」

 芹沢が頷きながら防護車両のスライドドアを閉めると、芳野がボタン操作をして、車内の巨大なファンを回転させ始めた。

「大丈夫。強力な空気清浄機と、風のシャワーを浴びせて、服に付着したウイルスを飛ばして、車内の空気を浄化するの。もう少しの辛抱だから、我慢してね。」

 4分。随分と長く感じられる時間が過ぎて、芹沢と芳野がヘルメットを外した。

「おう、ヒーロー。あんまり武闘派には見えないけれど、さっきは格好良かったぜ。よく頑張ってたな。頭を殴られて、気持ち悪くなってるんだったら、しばらく姿勢を低くして、そのままの体勢で休んでおけ。」

 八木原潤也は、みんなを安心させるために笑顔を見せて頷いた。
 少し弱々しい笑顔になっていたかもしれない・・・、そんなことを考えながら、潤也は芹沢が差し出したカップ状のものを受け取った。

「ヨーグルトおごってやる。そこの彼女にもな。一旦、警視庁まで戻るから、そこで治療を受けて、家族に連絡するなり、目的地まで移動を手配するなり、好きにすればいい。いずれは都内からは離れた方がいいと思うがな・・・。」

 芳野分析官は、芹沢の気持ちは理解しつつも、心配そうに声を出した。

「あの、芹沢さん、頭や顔を殴られているんでしたら、口の中が切れているかもしれません。ヨーグルトは、しみて痛いと思うんですが・・・。」

「ま・・・、男の子は我慢、我慢。ヨーグルトは体にいいんだぞ。ビフィズス菌だったか、腸の働きも助けてくれる。善玉菌って言ったかな?細菌にもいい奴はいるんだ。ウイルスにも善玉がいれば、苦労しないのにな・・・。なぁ?」

 少年と美少女を交互に見て笑顔を作った芹沢だったが、芳野が反応をしないので、何気なく振り返る。
 芳野渚分析官は、驚愕の表情で、芹沢を見ていた。

「・・・また、俺、変なこと言ったか?医学的なことはド素人だって言ってるだろう。子供たちの前で、そんなに恥かかせるなよ。」

 バツが悪そうに、芹沢が頭を掻く。
 芳野は芹沢の言葉が何も耳に入らないかのように、突然動き出す。
 スライドドアのロックを2つ開錠して、そのまま車外に飛び出すと、助手席に乗り込もうとする。

「おいっ、お前、メット!」

 芹沢は舌打ちをすると、彼女の後を追って車外へ出て、スライドドアを外から閉じると、運転席に乗り込んだ。
 助手席の芳野は、早くも防護服のチャックを下ろして上半身の自由を確保していた。
 鞄の中から、ラップトップと4冊の大学ノートを引っ張り出して、調べごとに熱中している。

「おい、先生、外部はA6が浮遊しているかもしれないんだろ?軽率に出回るなって言ってたのは、アンタじゃないか。」

「芹沢さん。善玉なんですっ。善玉菌とは少し違うけれど、悪性ウイルスを撃退するのは・・・。人間の体内、免疫システムによって形成される、抗体。その抗体を作り出すためには、各人が弱毒化された悪性ウイルス、もしくは不活性化された類似ウイルスを接種する必要があります。」

「お?・・・なんだ、なんだ?ヨーグルトとビフィズス菌の話までしか、わからねぇぞ。ウイルスを弱毒化して接種?それって、要は・・・。」

『ワクチン。それとも、水疱瘡のように、一度感染して回復すると、体の中に抗体が作られる病気・・・?そういう可能性があると思って、私たち、山を降りてきたんです。』

 ワゴン車前席に、スピーカーを通じて、後部室から女の子の声が聞こえる。
 芳野と芹沢が振り返ると、理知的で聡明そうな美少女が、仕切り窓から運転席と助手席を覗き込んでいた。

「支倉・・・真弓さん。貴方は、過去にヒグチ・ウイルスに感染したことが?」

『1ヶ月ちょっと前に、罹ったんだと思います。頭がボンヤリして、まともに考えられない状態で、転んだり、いっぱいドジを踏んだりしました。ここにいる潤也に守ってもらっていなかったら、大変な目に会ったかもしれません。でも、都内から奥多摩の山に逃げた頃から症状が治まってきて、結局1ヶ月経たないうちに、元の私に戻れました。その後は、こうして東京を歩いていても、他のウイルスには感染しないみたいなんです。』

 芳野の呼吸が浅くなり、芹沢が心配になるほど荒っぽい手つきで、ノートのページを捲っていった。

「まさか・・・、まさかMC−A2は・・・。MC−A群に汎用的に利く抗体を作り出すための・・・、ワクチンウイルス?」

 芳野が唇を震わせて呟きながら、芹沢の目を見た。
 涙が両目の端に溜まってきている。
 芹沢は無線機をONにして、緊急対策分室中継ブースの北峰につないだ。
 ブースには、都筑巡査長もいた。

 真弓が話を続ける。

『私の症状が治まってから、潤也と私は、同じように都内から山へ逃げてきた人たちと助け合う、ボランティアグループを作りました。畑から野菜をもらって・・・、その、症状の緩和に使ったりしました。その中に、山に来てから別の症状を見せた人もいて・・・。不注意にもそうした人たちとも発症前に直接、接していたのに、感染していない自分に後から気がついたんです。さっき芳野さんに検査してもらって、ウイルスがいないって言ってもらって確信しました。私の体内には、既に免疫が出来ているんだと思います。これをこのパニックの解決のために、役立てて頂くことは出来ませんか?』

 芳野は必死で、ノートのページを捲り続けていた。
 後部室では、潤也も起き上がって、足を引きずって仕切り窓までやってくる。

「先生は・・・。樋口先生は、『私がウイルスを撒き散らした。お詫びのしようもない。患者をみてやってくれ。』って・・。患者を診るって・・・、看病するってことだって思っていましたけれど、『見る』だったのかもしれません。自分が散布したのだから、意図がある。患者の様子をちゃんと観察しろって、言いたかったんだとしたら・・・。私、また、何にもわかってなかった・・・。」

 ノートに涙をボロボロとこぼしながら、芳野はまるでそれに気がつかないように、気丈に自分の捜査メモを洗い出す。
 芹沢も、中継ブースの北峰と都筑も、後部室で手をつなぐ潤也と真弓も、何も言わずに芳野の様子を見守っていた。
 彼女が必ず何かを掴みかけていると、信じていた。
 その芳野渚分析官が、1冊目のノートの途中でやっと手を止めた。

「樋口博士が・・・、もし何かのメッセージを発信しようとして、A2ウイルスを散布したとしたなら・・、あった。こうした事象も、全て調べなおす必要があるかもしれません。」

 芳野のノートには、丁寧な字で、記述がされていた。

『脳内及び神経系への影響が注目を集めているが、同時に血液内、赤血球の細胞が遺伝情報複写不良を起こして、体外に排出されている。ただしこれは不活性化されている染色体のコピーエラーなので、人体への影響は極微弱。ウイルスの活動によるものかどうかも未確認。』

 芹沢が読み上げるなか、中継ブースの都筑は、かすかな記憶を手繰り寄せようとしていた。
 確かこのことは、緊急対策分室立ち上げの初日に、芳野が自己紹介後に言及していたような気がする。
 都筑が北峰に、過去の芳野報告の際に使われた、OHPの画像を出すように指示する。

「読んではみたものの、全く中身がわからんのだが、どういうことだ?」

 芹沢が頭を掻く。芳野がノートから目を離さずに答えた。

「女性の遺伝子にある染色体はXX。通常、同種の染色体が重複することで複写や読み取りにエラーが起きることをさけるために、片方のエックス染色体は不活性化されています。MC−A2の女性感染者の血液中から排出される代謝細胞から、一部、不自然な複写エラーが発見されたので、念のため記録していたんです。」

 芳野はさらに数ページ、前に捲った。アルファベットがページ一面に、延々と羅列してあった。

「DNAの塩基配列はアデニン、グアニン、チミン、シトシンの四種類の有機化合物が組み合わさって作り出されます。RNAの場合は、チミンの代わりにウラシルです。でも、感染者の血中代謝細胞の一部には、この塩基配列が一部ですが大きく壊れた複写エラーが出ていました。アデニンとシトシンの二種類だけが並んでいて、後の蛋白質は破損していて読めなくなっているものが少数、間を繋いでいるだけ。こんなシークエンス、これまでのゲノム解読報告でも一切報告されていなかったので、複写エラーに違いないと思っていましたが・・・・。すごく不自然な配列だったので、頭の片隅に残っていて・・・。捜査初日に報告にわざわざ付け加えたのも、その不自然さが気になっていたからです。だけど、人体への悪影響はほとんど考えられなかったので、実際の捜査が始まると失念してしまっていました。ここ・・・。末端塩基のテロメアから読み始めると、アデニン、アデニン、アデニン、シトシン、シトシン、シトシン、アデニン、アデニン、アデニン。解読不能の蛋白質が1つあって、AA。不明。CA、A、A、CAA・・・こんな配列、遺伝コードのシークエンスとしては、見たことがありません。樋口先生だったら、意図的にRNAに一定の配列を残すウイルスを作る技術があったはずなのに、この塩基配列はあまりにも・・・。」

「ちょっと待った。その、配列っていうのは、意図的に書き込むことまで出来るのか?」

 芹沢が震える声で尋ねる。芳野は少し考えた後で、首を縦に振った。

「遺伝情報は、配列が意味することを解読するのが困難で膨大な作業なんです。単に自分で思いついた配列を複写するウイルスの開発だったら、樋口先生なら数日で出来たと思います。ウイルス工学を活用した遺伝子治療研究の第一人者ですから。」

 今度は芹沢が口を開けたまま、震えていた。震えがどんどん大きくなる。
 ゴンッ!
 突然、彼が自分の額をハンドルに打ちつけたので、芳野渚も潤也も真弓も、驚いて肩をすくめた。

「節穴は俺だった・・・。公安で十年以上、諜報活動やっておきながら、捜査の相棒に、暗号のイロハ。基礎の基礎すら教えてなかったんだな。」

 中継ブースでは、都筑が腕組みしたまま、立ち上がっていた。
 既に都筑には、芹沢の言いたいことがわかっていた。

『芳野先生。遺伝情報としては全く効果のない、配列なのかもしれんが、メッセージとしてだけ存在させたいのなら、意味はありますよ。二種類の信号があれば、意思の伝達は可能なんです。』

 ハンドルに突っ伏したまま、都筑の声を聞いて、芹沢が小さく頷いた。
 芳野は少し赤くなった目を見開いて、聞き入る、まだ都筑と芹沢の意図を把握出来ずにいる。

『樋口耕蔵博士の実の父親は、確か航海士だったと、報告書には書かれていましたな?本人も一度は航海士を目指して、喘息のせいで医学の道に転進したと・・・。北峰、わからんか?』

『航海・・・。あっ!わかった。ひょっとして・・・、手旗信号ですか?・・・イテッ』

 車内のスピーカーから、よく聞き慣れた、北峰の後頭部がはたかれる音がした。

『モールス信号です。芳野先生。アデニンやらタンニンやらは、ワシにはわからんが、Aをトン。Cをツーと読めば、それが文章であることぐらいはわかる。トントントン、ツーツーツー、トントントンで、S、O、Sだ。』

 大きく息を飲んだ芳野が、両手で口を押さえた瞬間に、ノートはミッションレバーの上にバサリと落ちた。
 芹沢がそのノートを手に取り、真剣な表情で読み込み始めた。

『北峰。都筑さんは英語わかんないから、俺の読み上げる通り打ち込んで、翻訳してやれ。』

 一度頭を掻いた芹沢勇人が、複写エラーと思われた染色体の塩基配列を読み始めた。

「トトト、ツーツーツー、トトト。トト。ツート、ト、ト、ツートト・・・。SOS、I、NEED、HELP、OF、RESEARCHERS。MY、NAME、IS、KOZO、HIGUCHI・・・。」

 助手席に体を沈めた芳野は、ウィンドシールドの向こうの空を見つめながら、芹沢の言葉を一字一句、噛み締めるように聞いていた。
 北峰は分室のメンバー全員と中継を繋ぐ。
 警察庁での会議から中座した板倉も、都内で任務に励んでいた分室メンバーも、みんな手を止めて、イヤフォンから入る、芹沢の解読に聞き入った。

 後部席では、前席の様子を見守りながら、潤也が手を繋いだまま、もう片方の手を真弓の肩に当てる。
 芹沢の読み上げる言葉を北峰が翻訳システムにかけると、都筑の見つめるメインスクリーンには、やっと日本語に変換されたメッセージが表示された。


【SOS。研究者たちの助けを必要としている。私の名はコーゾー・ヒグチ。
 未完成で、安全を確認しきれないままのワクチンウイルスを散布することになる、愚かなウイルス学者だ。私が発見した、人間の脳に干渉するウイルスを改造、強化し、悪用しようとしている組織に私は現在、協力を強制されている。
 現在、私の言葉、一語にすら、信頼性は完全に失われており、社会に助けを求める手段は潰されているようだ。表立った拘束はされていないが、巧妙で綿密な脅迫と、監視を受けている。
 いまの私に出来ることは、危険なウイルスの開発に助力する振りをしながら、先に汎用的なワクチンウイルスを開発し、錯乱をよそおって世に出してしまうこと。
 しかし、私のかつての教え子が、この陰謀に手を貸していることには、先月まで気がつかずにいた。彼が、強力で凶悪なウイルスを作り上げて人類を危機に晒してしまうまで、時間がない。
 その前に、私は未完成ではあるが、ワクチンウイルス、MC−A2を散布してしまうことを決めた。あと3週間あったならば、性差を超えて安全に扱えるウイルスへの改良も可能だったかもしれない。
 しかしそれは後進の研究者にお願いするしかなくなった。
 あとわずかで、不要になった私は抹殺されるだろう。
 その前に、こうせざるを得ない。弱毒化が完全に済んでいないウイルスを非合法に散布することを、全人類に懺悔する。
 風邪と間違えて総合感冒薬や抗生物質を摂取することで、かえってMC−A2ウイルスを暴走させるといったことを回避するなど、より安全にA2を扱うための、いくつかの処方箋情報。
 そして、このウイルスを基に、完全なるMC−A群のワクチン、そして治療薬を開発するための、いくつかの視点を以下に示す。後進の研究者たちの健闘を祈っている。
 繰り返す。私の名はコーゾー・ヒグチ。私がウイルスを撒き散らした。
 お詫びのしようもない。患者をよくみてやってほしい。人類の未来を守って欲しい・・・】


 全員が沈黙している。
 芹沢はもう一度、額をハンドルにぶつけた。

「くそっ、くそっ・・・。数十万の感染者の体内に・・・。細胞の中にダイイングメッセージだと?こんなぶっ飛んだやり方・・・。全く想像出来なかった。」

 捜査チーム。潤也と真弓。板倉。芹沢以外の、誰も一言も言葉を発せずにいた。
 放心に近い状態で、AとCの蛋白質から解読されたメッセージを頭の中で繰り返していた。
 全員が雨上がりの朝の空を、呆然と見つめていた。

 
 


 

 

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