碧色の黄昏


 

 

第四話(下)


《4》


“シャリン、シャリン……”

 板張りの部屋の中、涼やかな鈴の音が響き渡る。

“シャリン、シャリン”

 それらは部屋の中央で舞う、一人の少女が左手に持つ採物(えりもの)が奏でる音だ。
 短い柄に、いくつもの鈴や色とりどりの飾り帯をつけた、神楽(かぐら)を舞うために使う小道具。──本来の役割は、神を呼ぶための道具と言われる。

 右手には、小さな剣。
 日本刀などとは違う、真っ直ぐで、両側に刃をつけた古い形の剣だ。
 もちろんこちらも、あくまで舞のための小道具であり、飾り帯は付くが刃は付いていない、装飾品である。

“シャリン、シャリン”

 それらを両手に持ち、少女は舞う。

 右の剣が天に向かって振り上げられ、それに応じるように左手の鈴が音を奏でながら地に沈み込む。
 ひとたび振り上げられた剣が弧を描き振るわれるのに応えるように、左手の鈴が涼やかに唄いながらそれと対をなす弧を描く。

 彼女の動作に従って、その短めに切りそろえられた真っ直ぐな黒髪が、小さく揺れた。

 ──ここは神社の拝殿。近づく祭りの日に備え、様々な道具が倉から運び出され、壁際に置かれている。
 そんな部屋で、彼女は神楽を待っていた。

“シャリン、シャリン”

 神具を持ち、神楽を舞っているといっても、彼女の服装は正式な物では無かった。
 飾り気のない白いタートルネックのシャツに、運動用のズボン。自宅での部屋着で、彼女は舞を練習していた。

“シャリン、シャリン”

 だがそんな格好でも、神楽を舞う彼女の姿は美しかった。

 真っ直ぐに張られた、その背筋。
 よどみない、その足取り。
 整った顔に浮かぶ、その凛とした表情。

 それらが、服装などに関係なく、彼女の舞を美しい物として形作っていた。

“シャリン……”

 最後に一つ鈴の音を鳴らし、彼女の動きが止まる。
 舞が、終わったのだ。

「……ふう」

 天井を振り仰ぎ、木観塚 弥生は、そう軽く息をついた。
 うっすらとにじんだ額の汗を、手で拭う。

「ま、こんなものかな」

 自らの舞に納得したのだろうか。そう、呟いた。

 彼女が舞っていたのは、この神社に伝わる神楽。
 いや正確には、この神社ができる遙か前から、この舞は存在している。

 弥生の家であるこの神社は、もともと島根県にある大きな神社から魂分け(たまわけ)という形で御神体を向かえ、建てられた物である。
 もっとも山奥に位置する「本家」の方は、現在では古さだけが取り柄の寂れた神社であり、大きな街にあるこの神社の方が立派な構えをしているのだが。
 とはいえ、やはりこちらが分家。弥生の父は年に2度ほど、本家の方に挨拶に行く。弥生も、何度かそれに付いて行ったことがある。

 この神楽も、元々はその本家に伝わる舞である。



 ──遙か昔、ある地方で、『山の神』が人々を悩ませていた。
 その神は近隣の村々に、日照りや山崩れ等の災害を呼び、更には気まぐれに里に下りては子供や女をさらい、これをいたぶり殺しては喜んだといわれる。

 人々は何とかその神の害から身を守ろうとしたが、神は巨大な体躯と牛馬のごとき腕力を持ち、さらには人外の呪いの力を振るい、村人達の抵抗を寄せ付けなかった。

 そうして人々が飢えと悲しみに死に絶えようとしていたその時、一人の女がその地を訪れた。
 女は占いをよくし、その力をもって山の神と対し、ついにはこれを退けた。

 そして──この部分は解釈が難しく、諸説があるのだが──女は自らが退治した神と交わり、その力を持つ児をその胎内に宿した。

 女は巫女としてその地に留まり、社を建てた。

 伝承では、それがその神社の始まりとされている。

 弥生が舞っていたのは、その巫女が山の神を倒し、そして里に平和をもたらした、その逸話を表した舞である。



「あとは、実際に衣装を着て踊ってみないと」

 気が付けば、かなりの時間をかけていたように思う。
 夕食の後かたづけをしてからだから、もうそろそろ9時くらいになるのではないだろうか。

(渚、どうしたかなあ……)

 妹──従妹ということになっているが──の渚は、先日の出来事以来、弥生の家に泊まり続けている。
 怯えきっており、とにかく弥生の近くにいたいらしく、自宅にも帰ろうとしない。
 学校も休みきりで、もう三日間も休み続けだ。

(どうすればいいんだろう……)

 正直、弥生にはどうしていいのかわからない。

 先日の、あの学校の廊下での出来事。
 その晩に起きた、あの異変。

『子らよ、備えよ。
 最も古き者が、蘇る』

 あのとき、渚の口から放たれた言葉。少女の口から出されたとは思えないような声で、確かにそう言った。

 渚は昔から、「カン」の鋭い娘だった。
 彼女が「なんとなく」行った行動は、いつも結果として正しいものとなった。

 だから弥生は、渚の口から出たあのその言葉にも、何らかの意味が存在すると信じていた。──いや、それは確信と言ってもいい。
 あの言葉は、確かに「子らよ」と告げた。するとあれは、間違いなく渚と弥生を、あるいはそれ以上の人々を指していると考えられる。

 だが、何を備えればいいのだろうか?
“最も古き者”とは何のことなのだろうか?

(あのとき渚を襲ったのが、その“最も古き者”なのかしら?)

 とすれば、“それ”は恐らくは、学校に存在しているのだ。そう考えれば、渚がどうしても学校に行きたくないと主張する現状も、すんなり納得できる。

(じゃあ、いったい……)

 だが弥生にわかるのは、そこまで。
 それ以上は、あまりに情報が少なすぎる。

(どうしたら……)

 弥生は用意していたタオルを拾うと、汗を拭った。
 剣と鈴を箱にしまい、拝殿を後にする。

 なにはともあれ、まずは渚の様子を見に行くことにしよう。
 それにもしかしたら、渚ならば、いつもの「なんとなく」で手がかりを教えてくれるかも知れない。

 そう考えながら廊下を歩く弥生に、声がかかった。

「弥生。ちょっと、客間に来なさい」

 弥生の父、この神社の神主でもある、木観塚 孝平(きみづか こうへい)であった。
 年齢は今年でちょうど50歳。小柄な男性で、年齢のわりには白髪の多い髪の所為で、実際よりも老けて見られる。とはいえ年齢を多めに見られることは、この職業では有利なことも多く、染めたりはしないでいる。

「はい?」

 弥生はそう応える。
 もうこんな時間になって客とは、いったい誰なのか。

 彼女は手で軽く髪の毛を整えると、父親について客間に入る。
 と、そこには、思いもかけない相手がいた。

 細身の長身をした、一人の若者。
 長めに伸ばした髪を、本人も少しうるさそうに顔から指で払いのけている。
 男の人とは思えないほど、相変わらず真っ白な肌に、目立つ唇。それが、美しいと言えるほどに整った顔つきとも相まって、見る者に妖しい印象すら与えさせる。

「あれ? 靖彦兄さん?」

 客間の椅子に座っていたのは、弥生の従兄にあたる、木観塚 靖彦(きみづか やすひこ)だった。

「やあ、弥生ちゃん。久しぶりだね」

 彼の方も軽く手を挙げる動作をしながら、彼女にそう挨拶をする。
 顔に、朗らかな笑みを浮かべる。その笑顔は、なんだか人形じみて見える靖彦の顔を血の通ったものと変化させ、見ている弥生をほっとさせた。

 靖彦は本家の神社の次男で、弥生も父について本家を訪れる際、年に二度ほど合っている。
 たしかこの春に大学を卒業し、実家の業務を手伝っていると弥生は聞いていた。
 剣道部顧問の渡辺和人と、ちょうど一緒である。

(あ、でも、渡辺先生はたしか一年浪人してるはずだし、そうすると靖彦兄さんの方が年下か……)

 そこまで考え、ちょっとはっとする。
 なぜそこに、渡辺先生のことが出てくるのか。

「あ、えっと、でも靖彦兄さん、どうしたの?
 こんな急に来るなんて」

 弥生の記憶にある限り、靖彦がこの神社を訪れたことは今までない。
 いつも合うのは、本家の方でだ。
 しかもこんなふうに、事前に何の連絡も無しとは。

「いや、実はこっちには昨日ついたんだ。
 まあ、宿を探したりなんだで、挨拶に来るのが遅くなちゃったんだけどね」

「宿って、何日かこっちにいるの?
 それなら、ウチに泊まればいいのに」

 驚いて、そう言う。
 父の孝平も、頷いてそれに合わせた。

「そうだよ、靖彦君。なにもお金を出して泊まるところなんて用意しなくても、ウチに泊まればいいじゃないか。
 親戚なんだし、そのくらい頼ってくれればいいのに」

 言われた靖彦は、ちょっと困ったような顔をしてみせる。

「あ〜、というか、実はしばらくこの街にいようかと思って」

「え? それって……」

 戸惑う父娘。
 そんな二人に、靖彦は頭を掻きながら説明しはじめた。

「いえ、ほら、僕は大学を卒業して、就職ができてないじゃあないですか」

「でも、実家の仕事を手伝っているんだ。
 それでいいじゃあないか」

 そんな孝平の言葉に軽く首を振って、靖彦は続ける。

「そう言えば聞こえはいいですけど、実際にはそういう問題じゃあないですからね。
 神社は兄貴が継ぐことになってるわけですし、僕はもともと家からは出るつもりで、そっちの仕事の勉強はぜんぜんしてこなかったわけで……」

 照れくさそうに、そう言った。

「今までずっと自宅に住んで、家族に面倒をみてもらいながら、25にもなっちゃって……これでも、結構コンプレックスみたいなものは持ってたんです。
 だから、一度家を出て、フリーターでも何でもいいから自分で働いて稼ぎながら、一人で生活してみたかったんです」

「じゃあ、しばらくはこっちで暮らすつもりなんだ。
 ……でも、なんでこの街に?」

 ここと靖彦の実家はかなり距離がある。しかも確かにこの街は地方都市としては大きい方だが、東京や神戸などの大都市とは違い、靖彦の言うような理由で人が集まるほどではない。
 弥生の疑問も、もっともであった。

「うん。実は3日くらい前に、神様のお告げがあって」

「お告げ?」

 鸚鵡替えしに、孝平がそう言う。
 突然出てきた言葉に、戸惑いの表情を深めている。

 だがその隣にいた弥生にとって、靖彦の言葉は衝撃に値する物だった。

(お告げ……3日前!?)

『子らよ、備えよ。最も古き者が、蘇る──』

「………弥生ちゃん? どうかしたの?」

 声をかけられ、はっとする。
 どうやら、驚きで茫然としてしまっていたらしい。
 父と靖彦が、不審そうに弥生の方を見ていた。

「あ、ううん。何でもない。
 ……それで、そのお告げって?」

 慌てて、そうごまかす。
 何とか、上手くいったのだろうか。靖彦はそれに応えて、話し始めた。

「まあ要するに、こっちの方角に行けば、いいことがあるかもしれないよ、って。そんな内容。
 その方角に、たまたま孝平叔父さんの家があったから。
 まあ正直、一人暮らしには少し不安もあったからさ。親戚が住んでる街なら、まあこれも甘えかもしれないけど、安心できるし。

 せっかくの機会というか、きっかけだったもんで。
 ここらで一つ、踏み出してみることにしたんだ」

「そうか……まあ確かに、男の子なんだし、例しに一度そういう生活に飛び込んでみるのも、悪くはないかも知れないなあ」

 孝平は、頷きながらそう言った。

「そういうことなら、頑張ってみなさい。
 何かあったなら、ウチに相談なりなんなりすればいいんだし。

 それで、もう下宿も仕事も決まったのかい?」

「下宿の方は、きのう一日歩き回って、決めてきました。ちょっと古いですけど、風呂だ何だと一通りがそろったアパートが見つかったもので。後で実家から、荷物を送ってもらうつもりです。
 仕事の方は、……実はまだ決まってないんですよね。でも昼間のうちに本屋で情報誌を買ってきましたんで、それを頼りに明日から探すつもりです」

 それを聞いて、孝平は「ふむ…」ともらした。

「そこまで決まっているなら、頑張るといい。
 まあそれでも、もしも仕事が見つからなそうだったら、言ってくれれば私も知り合いに当たってあげよう。
 あと、仕事に就くのに保証人が必要だったりしたら、私に言いなさい。私が保証人になってあげるから」

「ありがとうございます」

 靖彦が、頭を下げる。

「それと、男の一人暮らしでは、食事も大変だろう。その時は、いつでもウチに来なさい。
 なあ? 弥生」

「あ、うん。もちろんだよ。
 いつでも、ごはん食べに来てね」

 弥生も、慌ててそう合わせる。

 ……しかし、弥生の頭の中は、他のことでいっぱいだった。

(3日前のお告げって……)

 これは、ただの偶然なのか。

 靖彦は、『こちらの方角がいい』というお告げをもらったという。
 それは詳しくは、どんなものだったのだろう。

(あの声は、『子ら』って言ってた。
 もし同じ日に、本当に靖彦兄さんがお告げを聞いたのだとすれば、なにか関係があるんじゃ)

 どうしても、そのことが聞いてみたい。
 もしかしたら、それで渚に何とかしてあげられるかもしれない。

 そう考え、弥生は口を開いた。

「……ねえ、靖彦兄さん。
 そのお告げって、詳しくはどんな内容だったの? それに、どんな形でお告げが来たの?」

「え?」

 靖彦が、少しビックリしたような顔で弥生を見る。
 彼女の口調、彼女の表情に、何かを感じ取ったらしい。
 訊ねるような表情で、弥生に言う。

「どうしたの、弥生ちゃん? そんな真剣な顔をして。
 何か、あったの?」

 父の孝平も、彼女をいぶかしげに見る。

 そんな二人を前にして、弥生は決心した。

(信じてもらえるかどうかは判らないけど、もしかしたら何かの手がかりが得られるかも知れないし……)

 それに父も、渚が学校を休みながらこの家に泊まっていることを不可思議に思っているはずだ。
 今はまだ、弥生を信頼し、また実の娘を無理矢理家から追い出すのも気が引けるのか、何も言わないでいるが。

 そういった意味でも、このへんで父に弥生が体験した本当の事情を話してみるのも、頃合いかもしれない。

「実は……」

 弥生は二人に、3日前に起きた出来事を話し始めた。



《5》


 閑静な住宅街。
 その中に、門柱に『鈴本』の表札を掲げた家があった。

 そんな建物の一室、薄暗い部屋の中では、二人の裸の男女が身体を絡ませあっていた。

 おそらくは居間なのだろう。低いソファーやテレビが居心地良さそうに置いてある、洋式に絨毯の敷かれた部屋。
 カーテン越しに差し込む街灯と月明かりだけが、その様子を照らしている。

 二人はそんな部屋の床の上で、淫らな行為に没頭していた。

「ふう、ふう、」
   「ああ、……あなた、いい…っ」

 二人とも、40歳をいくつか越えているだろう。もう若くはない年齢だ。

 男の方は、小柄だががっしりした体つき。年齢にしてはたくましい動作で、腰を打ち付けていた。
 その下で悶える女の方も、引き締まった体つきをしている。普段から手入れや運動に手をかけているのだろう。年齢的なものは隠せないが、それでもまだ十分に、熟れた女としての魅力を感じさせる躰をしている。

「はあっ、はあっ」
   「う……ああああっ」

 男の動作の一つ一つに応え、あえぐ女。
 部屋の中は二人の荒い息づかいと、二人から発せられる淫らな汗の匂いで充満していた。

 だがその部屋にいるのは、二人だけではなかった。

 ソファーに座り、じっとそんな二人を見下ろす一つの影。

 漆黒の、こんな薄暗い部屋の中では輪郭がぼやけ、闇と同化しているかのように見える、長い真っ直ぐな黒髪。
 そんな黒に縁取られた、白い、見た目の年齢とはそぐわない鋭利なものさえ感じられる美貌。その顔は、目の前で行われる行為を見つめながらも、ただ静かに、無表情さを保っている。

 ──沙夜香であった。

「………」

 しばらくは無言で、床の二人が繰り広げる行為を見つめる。
 何かを探るように。あるいは、何かを計るかのように。

「ふう、ふう、」
  「ああ、……あああっ、あなた、あなたっ……」

 夫婦が最後にお互いを求め合ったのは、いつだっただろう。
 しかし今、二人はただがむしゃらに、自身の中に沸き上がる欲望のままに、互いをむさぼり合っていた。

 そして男の腰の動きがいちだんと大きくなり、二人が絶頂に向けてその動きをあわせようとした、そのとき。

「止まりなさい」

 沙夜香の口から、そんな声が二人にかけられた。

「う……うああっ」
  「あああ、ああああああっ」

 その声に従い、二人の動きが止まる。
 彼等の身体を、何か見えない強制的な力が縛り、無理矢理その動きを止めさせたのだ。

「く……ううう」
   「いやぁ……ああっ」

 うめき声とも取れるもどかしげな声が、二人の食いしばった歯の間から洩れる。
 その顔は苦痛に耐えるかのように歪み、額から脂汗がにじみ出て、床にしたたり落ちる。

 少しでも腰をくねらせ、快楽を引き出そうと悶える。
 だがその身体は、いくら力を入れようが、いくら強く念じようが、ピクリとも動かすことはできなかった。

 そんな二人に、沙夜香は静かな声で言う。

「……さっき訊ねたことを、もう一度言うわね。
 あなた達の娘である鈴本渚と、木観塚弥生。二人は両親を同じとする、姉妹で間違いないのね?」

「う……うううっ…」

 必死で何かと戦おうとするかのように、身体を震わせる男。
 こちらも懸命に何かを耐えようとする、女。

 そして男の口から、意味を持つ言葉がつむぎ出された。

「う……、な、渚は、私たちの、娘……っ」

 そんな男の答えに沙夜香は軽く眉をひそめ、苛立たしげな表情を浮かべる。

 と、沙夜香の身体から、『何か』が放たれた。
 目に見えない、それでいてまるで質量を感じさせるような、『何か』。

「うあ、あぐううっ!」
   「ああああ、いやあぁ…っ!」

 床の上の二人から、苦痛の悲鳴が上がる。
 どうにも我慢できず、もどかしげに、必死で腰をゆすろうとしているのが判った。

「たの、頼むから、もっと、……もっとっ!」

 今の二人を支配するのは、ただひたすら、肉の快楽に対する渇望だった。
 躰の奥底から沸き上がる、マグマのように煮え立つ、熱い肉の欲望。それを存分に啜りたいと欲する、根元的な欲求。
 先ほどまでの行為を通して昂まりきったそれ。そして沙夜香の力によって煽られたそれ。

 だがどれほどあえいでも身体は動かず、その肥大した欲望は、行く当てもなく体中を、心を、ただ焦がす。

「ぐ……があぁぁあっ!」

 それでも、何とか家族を守ろうとする心が、二人を留める。

 が、それも長くは続かなかった。

「い……あ、あああっ! そう、そうで、すっ!!」

 先に心がくじけたのは、女の方だった。

「あああっ、なぎ、渚は、私たちの、よう……し、でっ」

 まるで酸欠にでもなったかのように、口を大きく開け、ぱくぱくと動かしながら、そう声を絞り出す。

「わたしたち、には、赤ちゃんができなくて……木観塚さんの、奥さんが…亡くなってっ、それで、そのときの赤ちゃんを……っ!」

「つまりあなた達夫婦は、木観塚弥生の父親から、赤ん坊だった娘のうちの一人を養子として引き取った。
 そうなのね?」

「は、はい、……だか、だから、…お願いしますっ! イか、いかせて…っ!!」

 息も絶え絶えな様子で、懇願する妻。

 だが、

「まだよ」

 冷たく、沙夜香は言い切る。

「二人が実の姉妹だということは判ったわ。
 それで、そのことを知っている人間は? 当の二人は、それを知っているの?」

「それ、は……」

 その問いに口を開いたのは、今度は夫の方だった。

「も、ちろん、親戚や、神社のきん…じょの、人たち……は。
 です、が、木観塚さんとも……約束して、二人には話さずに、なぎさ…は、私たちの実の娘として……っ」

「…………そう、判ったわ」

 そう応え、沙夜香はソファーから腰を上げる。
 音もない、その動作。

「いいですよ。自由に、イってしまいなさい」

「ああ、ああああああああっっ!!!」

 その言葉に、二人の枷が解かれる。

「うあ、ぐああっ!」
   「ひあっ、ああああっっ!」

 夫はただがむしゃらに、力の限り、妻を貫く。
 妻は夫の背に爪を立て、その皮膚に赤い線を描きながら、自らも快楽を求め、腰を大きく振りたてた。

「ぐ……ああああっ!」
  「い、いくっ、いやぁぁっっっ!!」

 大した間もなく、二人の身体が極限まで緊張する。
 ビクッビクッ、と男の腰が振るえ、そのリズムに合わせるように、女の身体も揺れた。

「は………あああ」

 そしてため息のような声と共に、二人の身体から、その全ての力が抜けきる。
 崩れ落ちるように、夫婦の身体は、床の上で脱力した。

「はあっ、はあっ……」
   「ふう、ふう……」

 荒い息をつきながら、ただ重なり、横たわる鈴本渚の両親。

 そんな二人を、たいして興味も無さげに見下ろしていた沙夜香だったが、その後になって思い直すかのように、少しだけ考えるようなそぶりをした。

(とりあえず、確保はしておくか)

 そう決断すると、彼女は二人の前にしゃがみ込んだ。

「あ……あああ」

 夫の髪の毛を無造作に掴むと、顔を上げさせる。
 その汗と口からだらしなく流れた唾液とに少し嫌そうに眉をひそめながら、沙夜香は彼に口づけた。

「んっ! んんんん……っ!?」

 沙夜香が彼の口の中に、何かを吹き込むような動作をする。
 それに応えるかのように、男の喉が上下し、その何かを嚥下した。

「んんんんんんっっっっっっ!!!」

 ガクガクと、その身体がまるで痙攣するかのように、デタラメに振るえる。
 目は完全に白目をむき、全身からは滝のような汗が噴き出た。

「あ……ああああ…………っっ?」

 顔すぐの上で行われるそんな風景に、男に覆い被さられた妻がそんな悲鳴にも似た呟きをもらす。
 ただ快楽への欲望に焦がれ、真っ白になった頭の片隅で、恐怖が彼女に警笛を鳴らす。

 だが、だからといって、彼女には何もできなかった。

「ふう……」

 やがて、二人の唇が離れる。
 口と口の間から、どちらのものともつかない唾液が垂れ落ち、女の顔を滴となって濡らした。

「さて、今度はあなた。
 ……まあ、こっちの方が気楽ね」

 そう呟き、沙夜香は妻にその白い顔を寄せる。

「ああ……あっ………」

 しかしその掠れた声も、長くは続かなかった。



《6》


「……ふむ」

 弥生の話を聞き終えた二人は、黙って何かを考え込んでいた。

 孝平は腕を組み、何かを思うようにただ天井を仰いでいる。
 一方、靖彦はそれとは逆に、少し眉を寄せながら、指でその男にしてはほっそりした顎の辺りをいじりながら、こちらは下の方に視線をやっていた。

(…………)

 弥生もただ黙って、二人を見ていた。
 二人がどんなふうに考え、そしてどんな言葉を出すのか。
 それを、じっと待つ。

「……その、」

 先に口を開いたのは、父・孝平の方だった。

「その、渚の口から出た、渚のものではない声。それが言ったのは、ただそれだけだったんだな?
 それ以外のことは、何か言わなかったのか?」

「ううん」

 弥生は、首を横に振る。

「ただ、それだけ。他には、何も」

「……そうか」

 再び考え込む、孝平。

「『子らよ、備えよ。最も古き者が、蘇る』、か……」

 今度は靖彦が、そう呟いた。

「『子ら』というからには、複数の人間に対する警告なわけですよね。
 あと、『最も古き者』というのが、何を示しているのか。……『蘇る』と言っていたところをみると、それについては昔に存在しており、そしてある期間は眠るなりなんなりしているということですよね」

 指で、その自らの紅い下唇をもてあそびながら、一つ々々確認するように、あるいは二人に言って聞かせるかのように、呟く。

「『蘇る』というのがいつのことなのかは、その言葉だけでは判りませんね。
 今はまだ蘇ってはいないのか、それとも、この3日間の間に蘇ったのか。あるいはその言葉が出されたときに、蘇った可能性もあるわけですよね」

 二人の言葉を聞き、弥生は内心ほっとしていた。

(よかった……)

 正直、彼等が弥生の言葉を信じてくれるかどうか、彼女にも自信は無かったのだ。
 だがその反応を見ている限り、二人は弥生の話を真剣にとってくれたらしい。
 そのことが、彼女に安堵の気持ちをおこさせた。

「だが、本当に警告だったのかどうなのかは、まだ判らない部分はあるな。
 これだけを聞く限り、むしろ、何かのチャンスを暗示している可能性も否定できん」

「いえ、でもどうなんでしょう?
 弥生ちゃんが学校で感じたという、嫌な気配の話しもありますし。それに、やたらとカンがいいという渚ちゃんが、怯えきっているんでしょう?
 それを考えれば、やはり何らかの危機に対しての警告と考えて行動した方がいいと思いますが」

 孝平と靖彦の間で、そうしたやりとりが交わされる。

 そんな中、思いだしたように、孝平が訊ねた。

「そういえば、靖彦君。君の言っていた『お告げ』についても聞きたいな。
 それはどんな内容だったのか。それに、君がそのお告げを得た時間というのが、時刻的に弥生達のそれと一致するのか。
 それが聞きたい」

「そうですね……」

 靖彦が、応える。

「申し訳ないんですが、それがよく内容を覚えていないんですよ」

 彼は頭を掻きながら、申し訳なさそうにそう言った。

「僕の場合、弥生ちゃんが聞いたお告げほど、具体的なものじゃないんです。
 何というか……、一瞬、頭の中に、何かが通り抜けたというか。
 そんな、あいまいなもので、その中で理解できたのが、こっちの方角を指し示しているっていうことだけだったんです。

 だから正確に言うと、こっちに来ることが僕にとって本当に『良いこと』だったのかどうかも、こうなってみると何とも言えないですね」

「時間については?」

 弥生が、促す。

「そうだね。時刻的には、ちょうど一致しそうな気もする。
 僕も、3日前の、夜だった」

「……そうなんだ」

 それきり、しばらくの間、3人の間に会話はなくなった。
 それぞれが、それぞれの表情で、考え込む。

 重苦しい、沈黙。

 それを破ったのは、靖彦だった。

「そういえば、渚ちゃんは? 今、どうしてるんだろう」

「あ、多分、私の部屋にいると思うんだけど……」

 はっとしたように、部屋の雰囲気が変わる。

「ちょっと、見てくるね」

「ああ。それじゃあ私も、ちょっとトイレに行って来るよ」

 そう言って、弥生と孝平が、腰を上げる。
 二人はそれぞれに部屋を出ていき、客間には靖彦だけが残された。

 一人椅子に腰掛け、部屋の中で動かない靖彦。

 そして二人の足音が遠ざかったのを待っていたかのように、その肩が小さく振るえた。

「……く………くく…っ」

 抑えられないような、小さな笑い声。
 それは確かに、他者を嘲り、貶めるような……そんな響きをもって部屋の中の空気に染み、それを汚染するかのようにすら感じられるものだった。

「は……ははは…」

 その顔に浮かんだ、笑み。
 いや、笑っているのは、ただ唇のみ。形のいい目も、眉も……ほかの部分は、全くの無表情。
 その人形じみた美しさをもつ白い顔の中、まるで口紅でも塗ったかのように紅いその唇だけが、笑みの形に『歪んで』いた。

 彼がこの街に降り立ったとき。
 ホームの上に立つ彼の唇に浮かんだ、あの笑み。

「まいったね。そんなことになっていたとは。
 ……いや、それとも、これでいっそう面白くなってきたということか?」

 そう呟くと、彼は顔を上げた。
 部屋の中を見渡す。

 そして、ふと目に付いたものに、彼は手を伸ばした。

 さっきまで弥生が座っていた場所。
 その椅子の背もたれを軽くまさぐり、靖彦は指で何かをつまみ上げた。

 真っ直ぐな、一本の黒い糸のように見える、それ。
 長さからいっても間違いないだろう。

 弥生の、髪の毛だ。

「………」

 彼は髪の毛をつまんだ手を持ち上げると、顔の上へと移動させる。

 紅い唇が、上下に開く。
 腕が下げられ、その唇の間に、少女の髪の毛が吸い込まれるように消えた。

 小さく、細い顎が動く。

“きしり……、きしり………”

 奥歯が噛み合わされ、髪の毛とこすり合う音。
 自分にだけ聞こえるその音を楽しみながら、彼はその動きを続け、そして、口の中のものを嚥下した。

“ごくり……”

 喉仏が、上下する。

 その動きと連動するかのように、彼の紅い唇を割って、舌が現れた。

 なぜだろう? まるで人間のものとは思えないような、全く個別の生き物のようにさえ見える、その長い舌。

 その舌が、ゆっくりと、唇を舐める。
 紅い上下の唇と、紅い舌。

 それらはまるで、3匹の血の色をしたヒルが絡まり合い、交尾でもしているかのような──もしも誰かが見ていたとしたら、生理的嫌悪感にその身を震わせたであろう──そんな光景だった。

「………なるほど。少なくとも姉の方は、良質だな」

 そう呟き、彼は再び椅子に腰を下ろすと、二人を待った。





 ──同時刻


 沙夜香は一人、夜の街を歩いていた。

(誰か、手頃な……)

 連れのいない、いかにも遊んでいそうな──今夜一晩くらい姿を消したところで誰も気にしないような、そんな若い女。
 さらに美しく、生気に溢れていれば、より望ましい。

(あの様子では、先生は今頃苦しんでいるのではないかしら)

 昼間の、和人。
 彼は明らかに、『飢えて』いた。

(鈴本渚の代わりには、ならないでしょうけど……)

 恐らくは今頃、主である和人は、飢えに悶えていることだろう。

 沙夜香としても、できることであれば渚を彼のもとに届けたかった。
 そう命令も受けていたことであるし。

 だが彼女は現在、木観塚弥生の家に泊まっている、とのことだ。
 先日の失敗を考えれば、そこにいる渚を確保しようとするのは、あまり現実的な行動とは思えなかった。

 もちろん、そうしろと言われれば、彼女にはそれも可能であったろう。

 ……だが主は、それを望むまい。
 弥生を巻き込むことを彼が望むとは、沙夜香には思えなかった。

(とりあえず、今日のところは、間に合わせで済ませることにしましょう)

 ゆきずりの女であれば、和人もあまり抵抗感を覚えないであろう。

 これを何度も繰り返すのは、何者かにその存在を気づかれる恐れもあり危険だが、ごくたまに、あくまで少人数であれば、それほどのリスクも無いはずだ。

(事が済めば、あとは記憶を消して、街に捨てればいい)

 沙夜香の能力を持ってすれば、それはたやすいことである。

 もっとも、一度でも和人に抱かれ、喰われた女が、その後もそれまでの人生と全く同じ人間でいられるかどうかは、判らない。
 しかし和人はそのことを理解してはいないだろうし、沙夜香にとってはどうでもいいこと──人間の人生など、知ったことではない。
 また人間の社会も、一人や二人そうした女が出たところで、気にも掛けないだろう。

(さて、……どうしたものかしらね)

 獲物を探しつつも、沙夜香の頭の中は、全く違う事を考え続けていた。

(あの二人が、姉妹だったとは……)

 先ほど、鈴本渚の両親から得た、その情報。

 なるほど。言われてみれば、「匂い」が似ているかもしれない。
 もちろんこれは沙夜香にしかわからない、彼女のみが感じることのできる匂いだが。

(鈴本渚は、諦めるべきか?
 少なくとも先生がこれを知れば、彼女を喰らうことを良しとはしないでしょう……)

 そう、和人は、少しでも自分と関わり合いの無い人間しか、抱きたがらないだろう。
 彼の「力」はそれを欲するが、彼の人間としての心が、それを嫌がる。

 ……だが、沙夜香の心の中に浮かんできたものは、彼女のそうした考えを覆い尽くした。

「木観塚、弥生……っ」

“ギリ……”と音を立て、奥歯が噛みしめられる。

 3日前、沙夜香の心に芽生えた、その感情。

 それは冷たい怒り、あるいは憎しみか、ともかくそうした感情であった。
 あまりに冷たく、あまりに静かで、そしてあまりに深く……その感情が正確にはどんなものであるのか、彼女自身にも理解しづらかった。

 なぜそんな感情が、沙夜香に芽生えたのか。
 あのとき、渚を確保することを邪魔された──だからなのか。
 あるいはもっと、何か別の理由でも存在するのか。

 ……だがその感情は、はっきりとそこに、否定のしようも無く存在し、沙夜香の心に浸潤し、根を張りめぐらせていく。

(そう……。
 鈴本渚は、あの女の、妹……)

 そんな自分にも説明の付かない心を抱えながら、沙夜香は夜の街を歩いた。

 
 
< 了 >


 

 

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