碧色の黄昏


 

 

第四話(上)


《1》


 プルルルル………

 電子音が鳴り渡る中、ホームに着いた電車から人々が降り立つ。
 足早に改札へと向かう人の流れ。

 その中に一人だけ、ホームの中程に立ち止まる人影があった。

「ふう……」

 大きなバッグを下に置き、一息つく。

 ──美しい、という言葉が用いられるような、そんな男だった。
 年の頃は、20代半ばか。やや高めの、やせ形の体格をした男。
 長めに伸ばした黒髪。白い──本当に「白い」と言う表現が当てはまるような、そんな肌の色。
 ほっそりとした眉の下には、やや細めの、切れ長の瞳がある。
 スラリと線の通った鼻筋に、細い顎。細く長い首筋。

 そんな整った彼の顔貌の中、もっとも人目を引くのはその紅い唇だった。

 そのまま血の色を連想させるような、紅い唇。その形はやや薄いながらも、その「紅」は、真っ白な顔の中、そこだけ色を落としたかのように、鮮烈に見る者の目を引きつける。

「さて、と」

 彼はバッグからなにやら木の板のような物を取り出すと、それをなにやらいじくっていた。
 八角形の、木の板。
 見た目は中国の占いに使う、風水板に近いだろうか?

「やっぱり……この街で、間違いないか」

 そう呟いた彼の薄く紅い唇が、軽くほころぶ。

 ……いや、それを「ほころぶ」と表現していいものか。

 紅い唇の片端が、軽く笑いの形につり上がる。
 ただ、それだけの動き。なのにそこには、明らかな「歪み」が浮かんでいた。

 生き物の血を存分に吸い、赤い色になったヒルが、その身を軽くよじったような……。

 だが、それも一瞬。
 その笑みは姿を消し、彼は改めてバッグを肩に担ぐと、改札口向かって歩き出した。

「さてと。まずは、向こうしばらくの宿を見つけないとな。
 分家に顔を出すのは、その後か……」

 そう呟き、彼は街中へと歩み入った。



《2》


 ぎしぎしと、ベッドのきしむ音が周囲に響く。
 いや、それとも、きしんでいるのは、それだけではなかったかもしれない。

『ああっ、あっ』
  『ふうっ、ふうっ』

 二つのあえぎ声が、重なり、絡まりあい、そして空気に解けていく。
 そのせいで、この場所は、空間そのものが淫靡な匂いを漂わせているようにも思われる。

『そこ……、ああっ』
   『ああ、私にも、お願いします……っ!』

“彼”の体の下で、二つの白い躰がもだえている。

 一人は成熟した体つきをもつ、若い女性。
 うつぶせになり、腰を高く上げ、“彼”の剛直を必死で受け入れている。
“彼”がその腰を突き上げるたびに、その唇からうめき声とも悲鳴ともつかない音が、断続的に洩れ出す。

 そしてその女性に重なり、まるで彼女に組み伏せられているかのような体勢となった少女。
 まだ若く、恐らくは10代も半ばではないか。
 彼女の上に覆い被さった女性の手が、そのいまだ未成熟な胸のふくらみをもみしだく。
 そこから生まれる快楽に身をよじらせながらも、少女は“彼”のいきり立った物を懇願し、あえいだ。

『はあっ、はあっ』

“彼”もまた、息を荒げながら、二人を攻め続ける。

 女性の髪に顔を埋めそのうなじをなめ回し、あるいは手を伸ばし、下になった女性の肌に手を沿わせる。

 舌先に感じる、女性のきめ細やかな肌と、わずかに塩辛い汗の味、
 手のひらに感じるの張りのある柔らかな肌の感触と、その熱くたぎりきった体温。

“彼”のモノは、女性の後ろの穴の中へと突き込まれていた。
 この、体中を男の快楽に応えるよう育て上げられた彼女の肛門は、体内に捻り込まれた肉の器官を、存分に締め上げる。

 突き上げるたびに、“彼”の亀頭の先に乱暴な摩擦感が生まれ、それが痺れにも似た快感となって“彼”を喜ばす。

『くぅっ、は……あぁ』
   『あああ、う……んっ』

“彼”の動作、そのリズムに合わせ、二人の若い女があえぎ、もだえる。

“ぐち、ぐち……”

 股間からわき上がった刺激はそのまま脊髄を駆け上がり、“彼”の脳を快楽で埋め尽くしていく。
 そして重なり合った肌からは、彼女らの発する《精気》が“彼”の中へと流れ込んでいた。

 ……いや、「流れ込む」という表現は、正しくない。
 これは、この行為は、彼にとっては「摂取」である。彼女らは、彼の“贄(にえ)”なのだ。

“彼”は彼女らを、その魂そのものを、攻めたて、ねじ伏せ、引きちぎり、噛みちぎり、啜り上げ、嚥下する。

『はあっ、ああんっ!』
    『ふあっ、……っん!』

 だが“彼”は、未だ飢えていた。

 彼女らをどれほどよがらせ高揚させようが、どれほど彼女らから奪おうが、“彼”は深く、そして狂おしいほどの飢えを感じていた。

“──ドクンッ!”

“彼”の胸の奥で、何かが脈打つ。

“ドクンッ、ドクンッ!”

 それは心音に似て、決してそうではない何か。

“ドクンッ、ドクンッ、ドクンッ!!”

 その脈動は、“彼”を猛らせ、煽り、鞭打つ。
 もっと多くを喰らい、胃の腑に取り込めと、“彼”をせき立てる。

(もっと、もっと、もっと……っ!)

 彼女らでは、足りない。
 彼女らでは、まったく足りない。

“ドクンッドクンッ!“

 その音に追い立てられるように、“彼”はさらに強く、腰を振るう。

『う……ん、ああぁっ!』
    『はあぁ、はあぁ!』

 そんな“彼”の乱暴な動きに、彼女らはさらに声を上げ、髪の毛を振り乱し、汗をにじませ、快楽に身を痙攣させる。
 高揚した精神が、彼女らの躰とそして魂の奥深くから、原始的で根元的な生命の衝動があふれ出し、“彼”はそれを略奪し、吸い上げる。

 ……しかし、“彼”は満たされてはいなかった。

(もっと……っ!)

 彼女らでは、“彼”の深遠なる飢えを満たすには、あまりに矮小で、脆弱で、そしてあまりにも「何か」が足りなかった。

“ドクンッ、ドクンッ、ドクンッ、ドクンッ!!”

 胸の中の脈動は、もはや“彼”の肋骨では押さえきれないほどに高まっていく。

『──カズ兄ぃ?』

 ………………一瞬、世界が、静寂に包まれたように感じた。

 声のした方に顔を向ける。

 慶洋女子高等学校の制服を着た、小柄な女生徒。ややウエーブがかった髪の毛は、可愛らしくポニーテールに束ねられている。
 制服の裾から伸びた手足は、スラリと細く、それでいて活発そうな健康さを感じさせる曲線を描く。
 そしてその大きめな瞳は、今は不安そうな光を湛えていた。

『カズ、兄ぃ?』

 落ちつかなげに、そう呟く。

『……』

 しかし、“彼”は何も答えなかった。
 沈黙をもって、彼女に向かい合う。

 ──ついさっきまで、あれほど荒れ狂っていた胸の鼓動は、今ではすっかり落ち着いていた。
 心も同様。静かに、冷静に、ただ冷たく。

『ねえ、カズ兄ぃ。……何か、言ってよ』

“彼”は、何も口にしない。
 そのかわりに、動いた。

『え……、きゃっ!』

 手で、その少女の両腕を掴む。

 怯える少女を、そのまま床に押し倒した。

『や……っ、カズ兄ぃ、どうしたのっ!?』

 少女は、必死に“彼”に訴えかける。

『やだっ、離して!
 カズ兄ぃ、お願い!!』

 だがそんな叫びも、“彼”の耳に入ることはあっても、その心に届くことは無かった。
 無造作に、少女のブラウスに手をかける。
 軽く腕を引いただけで、ボタンが弾け飛び、服の前が開いた。

『きゃあああっっ!』

 はだけられた服の隙間から手を差し込み、胸の膨らみを無遠慮にまさぐる。
 下着のやや硬い布地越しに、それでも確かな柔らかさを手のひらに感じ、その手触りを楽しむように掌全体を動かした。

『やっ……やだっ、いやだよう……っっ!!』

 少女が叫ぶ。
 死にものぐるいの様子で体中をばたつかせ、“彼”の身体の下から抜け出そうともがく。
“彼”と比べれば遙かに小柄な彼女だったが、その必死の動きを押さえつけることは、“彼”にとっても容易なことではなかった。

(うるさいな……)

 大して考えもなく、自然に身体が動いた。
 腕を大きく振り上げると、少女の顔面に振り下ろした。

“バキンッ!”

『ゥ……っ!』

 一回、二回、……三回。
 ──それで、少女は大人しくなった。

『ああ……、う゛…あ……』

 少女の身体から、力が抜け落ちる。
 これで、だいぶ気楽になった。

『ア……あ』

(ああ、しまったな)

“彼”はさしたる感情もなく、そう思う。
 少女の顔は、“彼”の行為により、赤く腫れ上がってしまっていた。
 鼻血が流れ出し、それがだらしなく開いた口から垂れ落ちる唾液と混じり、顔の下半分を汚している。
 目はうつろになり、顔全体がだらしなく弛緩してしまっていた。

 これでは、せっかくの獲物が台無しだ。
 その可愛らしく整った顔を蹂躙してこそ、生命力に溢れた健康な肉体を蹂躙してこそ、喜びもまた大きいはずなのに。

“彼”は、やり方を変える。
 少女の細い顎を手でつかみ、むりやり顔を自分の方に向けさせた。

 茫然と中を仰ぐその目。
 その視線を、“彼”の瞳に合わさせる。

『……あ、ああっ』

 その“彼”の瞳の中にあるものを見て、彼女の口から、抑えられぬ声が洩れた。
 ついさっきまで焦点を失っていたその目には、今では明らかな感情が浮かんでいた。

 恐怖と、──そして、それ以上の“何か”。

『ああああ………ああ』

 視線を通して、“彼”の力は、彼女を縛り付けていく。
 その身体を、ではなく、その心──その魂そのものを。

『は……ああっ』

“彼”の身体の下で、少女の躰が、大きく振るえる。
 圧倒的な──あまりに圧倒的な力で握り締められた魂の震えが、少女の身体そのものをもギチギチと締め付ける。

『…………』

 そんな少女の様子に満足し、“彼”は再び動き始める。

 手を移動させながらも、“彼”の瞳は、彼女の瞳を拘束し、離さない。
 その魂と、その躰と。その両者の手触りを、“彼”は存分に堪能しながら少女の全てを犯すために、動く。

 制服のスカートをまくりあげ、ほっそりとした太股の手触りを楽しみつつ、その付け根へと指を進めた。

『ん……っ』

“くちゅり……”

 小さな水音。しかしこの静寂に包まれた場所では、そんな僅かな物音さえも、確実に少女自身と、そして“彼”の耳へも届いた。

『う…ああ……』

 絶望にも似たものがこもったあえぎ声を、少女が上げる。
 自分自身がどうなっているのか、既に彼女には理解できないでいるはずだ。

 当たり前である。既に彼女の全ては、“彼”に占領されてしまっているのだから。
 彼女の魂も、身体も、全ては“彼”に喰らわれるために、ただその為に反応しているのだから。

 そして、

(……ああ、やっぱり)

 その彼女から感じる、“彼”にとっては糧となる物。

 それは、つい先ほどまで繋がっていた二人の女とは、全く違う物だった。
 遙かに確かな充足感を持って、彼の喉に流れ込んでくる。

『は……あ、ううっ』

 少女の恐怖。少女の焦り。
  少女の絶望。少女の痛み。
   少女の苦しみ。少女の心の悲鳴。

 ──そして、少女の官能。

 その全てが、甘く、舌に心地よい。

 この少女は、“彼”を満たすためにこそ、そこに存在する。
 そんな錯覚さえも起こすほどだ。

“彼”は少女の脚に手をかけ、広げる。
 さしたる抵抗も無しに、その両足の間に身を滑り込ませた。

 股間では、“彼”の起立した物がドクドクと脈打ち、存在と欲望を主張している。
“彼”は少女の下着をずらすと、隙間から現れた少女の秘所に、その先端を合わせた。

『ふっ、う……』

 自分に押し当てられた物の存在に気がついたのだろう。
 少女の口から、そんなうめき声が洩れる。
 自分が、自分自身の最期がそこまで訪れていることを、彼女は知ったのだろうか?

“………………っっ!!”

(……?)

 今こそ少女に対して最期の蹂躙を加えようとしていた“彼”の耳に、何か聞こえたような気がした。
 不快な、何か。

“………あ………あ…”

 甘美な時間にケチをつけられたような気がして、“彼”は眉をひそめる。
 しかしその何かは、決して無視できないような存在感をもって、“彼”に届いてくる。

(くそっ……)

 耳に届くそれを無視しようと頭を振り、“彼”は改めて腰の狙いを定める。
“くちゅ”と彼の先端に、熱をもった少女の柔らかい粘膜の感触が伝わってくる。

“……ああ…あああ………………!!!!”

 そして“彼”は────





「──────ああああああああっっっっっ!!!!」

 暗闇の中、部屋中に響き渡る悲鳴で、彼は目を覚ました。

「ああああ、ああ!!!! あああっ、ああああああああっっっ!!」

 見慣れた、アパートの自分の部屋。
 なのにその叫び声は、彼のすぐ側で起こっているようだ。

 ……それが自分自身のあげる叫び声だと気づくのに、数瞬の時間を要した。

「はあっ、はあっ、はあっ……」

 ベッドの上に起きあがり、両の肩を大きく上下させ、荒く息をつく。
 流れ出た汗が全身を濡らし、寝間着代わりに着ていたTシャツが背中にべったりと張り付き、不快を煽った。

「はあっ、はあっ……」

 時計を見る。
 僅かな蛍光でしめされるその表示は、朝の4時を示していた。

「はあっ、はあっ…」

 息を整えようとするが、上手くいかない。

 両手を胸の前で交差させ、自身を抱きしめるようにして、ぎゅっと自分の腕を掴む。
 その手を伝わり、自分の震えが実感された。

「あれ……っ、いま……夢………」

 必死に自分自身の心を落ち着かせようとする。

 ──そのとき、

『ドクン──ッ』

 彼の中で、“それ”が脈打った。

「う……、グっ!」

 我慢できずに、洗面所に飛び込む。

 そして彼は、吐いた。

「う゛……あっ! ……ゲぇっっっ!!」

 何度も、何度も、胃の中の物が逆流し、口から吐き出される。

「ウぇ、…ゲェっ!!」

 昨日食べたものを吐き出し終わっても、まだその吐き気は止まらない。
 胃液を吐き出し、それでもまだ足りず、彼の胃は痙攣するように痛み、彼を攻め続ける。

「ガ……ッ、あああ…っ!!」

 冷たく硬い床に倒れ伏し、背を丸め、身を悶えさせながら、彼は懸命にその苦しみが過ぎ去るのを待ち、耐える。
 奥歯を食いしばり、目ににじむ涙を拭くこともできないまま、彼はそうしてただ蹲(うすくま)っていた。



 ……どれほどの時間が経ったのか。
 ゆっくりと、その痛みが遠のいてくる。

「はあ、はあ……」

 ようやく、息が落ち着いてきた。
 彼はのろのろと立ち上がると、洗面台に手をつき、身体を支えた。

 蛇口をひねり、水を流す。
 冷たい水を両手ですくうと、彼は口を何度もすすぎ、そのあとで顔を洗い、やっと一息ついた。

「………」

 ふと顔を上げると、そこには記憶通りの、自分の顔が映っている。
 さしたる個性もない、平凡な顔つきと評される、その顔。

 やや蒼ざめ、やつれなた様子ながらも変わりばえのしない自分の顔を確認し、和人は安堵を覚える。

 ……が、

『カズ兄ぃ、止めてっ!!』

(……っっ!)

 夢の中の光景が脳裏に浮かび上がり、その鏡に映った顔が歪む。

「はあっ、はあっ……」

 両手で壁を伝わり、なんとかベッドにもぐり込む。

(畜生! 畜生! 畜生っ! チクショウ……!!)

 毛布の下で身体を丸める。
 そうしながら和人は、ただ朝の光が早く訪れてくれることだけを、必死で祈り続けていた。



《3》


 木陰に入り、芝生の上に腰を下ろす。

 木々の緑の隙間を通り優しく差し込む日の光が、顔に降り注ぐ。
 サラサラと木の葉を揺らしながら通り過ぎるゆるやかな風が、運動で火照った肌に心地よかった。

「は〜、気持ちいいねえ」

 彼女の横、芝生にごろんと横に転がった夏紀が、そう幸せそうに言う。
 沙夜香は彼女に「そうですね」と応え、微笑んだ。

 グランドでは学校指定のTシャツにスパッツという体育着姿の女生徒達が、まだ何人も走っている。
 クラスの中でも速いタイムで長距離走を走り終えた二人は、タオルを手に、脇に下がったのだ。

「まったく。強制されて、ただぐるぐる走ったって、面白もなんともないのに。
 なんで体育教師って、サドが多いかなあ」

 そんなグチをこぼしながらも、夏紀は寝ころんだまま、気持ちよさそうに伸びをした。

 彼女のそうした動作の一つ々々が、沙夜香の目には健康そうな可愛らしさに溢れて見え、微笑ましく感じられた。

「でも、沙夜香さんって、脚が速いんだね」

 そんな風に話しかけてくる少女に、沙夜香は穏やかに応じる。

「夏紀さんこそ。
 なにか、スポーツをなさってたんですの?」

 夏紀は現在、茶道部の部員である。
 これといって運動をしているところを、沙夜香は見たことがなかった。

「うん、中学の時にね。陸上部だったんだ」

「ああ、それで」

 納得したように頷く。

「まあ、昔の話だけどね」

 そんな夏紀の呟きに、沙夜香はクスクスと笑った。

「それなら、まだそんなに前の話しでも無いでしょうに」

「ん〜、そうかなあ?」

 少し眉をひそめる、夏紀。

「なんかさあ」

「はい?」

 小さく首を傾げる沙夜香。

「神条さんって、なんか言うことが、すごく大人っぽいよね。
 中学の時のことなんて、昔じゃない」

「……そうでしたかね」

 確かに。夏紀の言う通りかも知れない。
 沙夜香は、思う。

 夏紀は、まだ若い。沙夜香から見れば、幼いと言ってもよい。
 もっとも沙夜香は、おおよそ全ての人間達よりも、長く生き続ている存在なのだが。

 この少女にしてみれば、確かにほんの2・3年前のことすらも、十分昔のことと感じられるのだろう。
 たとえ沙夜香にとっては一瞬のように感じられる時間でも、夏紀達にとっては長い日々に感じられるのかも知れなかった。

「すう……、すう…………」

 気がつけば、夏紀は目を閉じ、小さな寝息をたてていた。

「あら、あら」

 その、あまりにも警戒心の無い、無防備な寝顔。ただでさえ周囲から『子供っぽい』と評されるその可愛らしい顔が、余計に幼く見える。
 思わず沙夜香の顔に、微笑みが浮かんだ。

 沙夜香は夏紀の顔にそっと手を伸ばすと、顔にかかった髪の毛を軽くのけてあげる。

『本当に……無邪気なこと』

 彼女から見れば無知から来るとさえ感じられるような、夏紀。
 だがその存在は、確かに不快な物ではなかった。

「こういう気持ちというのは、どういうものなのでしょうね?」

 夏紀の寝顔に、そう問いかける。
 もちろん、応えはない。

(どうしたものかしらね……)

 胸の中、沙夜香は自分自身を省みる。

 他の人間達同様、沙夜香にとって、夏紀は“食料”としての対象となる相手である。
 今こうして彼女と共に過ごしていても、沙夜香にとっては食欲の対象として、いっさいの違和感を覚えることなどもない。
 そうした相手だ。

 沙夜香が夏紀を害しない理由は、ただ一つ。
 彼女の“主”たる渡辺和人が、それを禁じているからである。

 ただ、それでも………沙夜香にとって、夏紀との今の関係は、けっして不快なものではなかった。

(こういうのも、変ではないのかもしれない)

 そういえば、聞いたことがある。
 飼い猫は、その家で飼われている他の生き物──例えば小鳥やハムスターなどの小動物を、襲うことは無いと。
 狩りの対象は、外に求めるのだそうだ。

 ある意味、賢いのかも知れない。
 自分の面倒を見てくれる主人を怒らせるようなことはしない、ということだ。

「ふふふ……」

 先日の昼休み、夏紀が沙夜香に見せた雑誌記事を想い出し、沙夜香は口元を緩めた。

 そこには、『仲良しペット』と題されて、ある家に変われている手乗り文鳥(ブンチョウ)と三毛猫の写真が載っていた。

 大きな三毛猫の頭の上にとまる、文鳥。
 当の三毛猫は小さく顔をしかめながらも、それでも不快な様子も無しに、小鳥のするがままにさせていた。

 あの猫が感じていたのは、今の沙夜香の中にある感覚と、まったく同じものなのかも知れない。
 そう思うと、なんだか可笑しかった。

「それも、いいのかもしれないわね……」

 少女を起こさぬよう気をつけながら、沙夜香は彼女の髪を、なんども優しく梳(くしけず)る。
 細く、軽くウエーブがかかったその髪は、沙夜香の手に心地よかった。

(……?)

 沙夜香の手が止まる。
 なにか、視線を感じる。

 顔を上げ、その視線の元を確認し、沙夜香はその相手に対して小さく頷いて応えた。

「夏紀さん?」

 そっと、その身体をゆする。

「んんん……?」

 まるきり子供の表情で、夏紀は目を覚ました。

「あれ? 寝ちゃってたのか」

 目をごしごしとこする。

 そんな彼女に、沙夜香は言った。

「ごめんなさいね、せっかく気持ちよく眠ってらしたのに」

「あ、ううん、そんなことないよ。
 どうしたの?」

 訊ねる夏紀に、沙夜香は説明する。

「私、職員室に呼ばれていたのを思い出して。多分、事務的な手続きが必要とか、そういったことだと思ったのだけれど。
 申し訳ありませんけど、先に着替えに行かせて頂きますね」

 ……軽く、“力”を込めたそのセリフに、夏紀は簡単に納得した。

「あ、そうなんだ。
 うん、気にしないで。そういうことなら、早く済ませちゃった方がいいものね」

「ええ、ありがとうございます」

 そう言って、沙夜香は夏紀のもとを離れる。

 教室に戻り、手早く着替えを済ませると、足早に移動していく。
 階段を上がり、おそらく相手が待っているだろう場所に向かった。

 まだ授業時間はわずかだが残っている。
 人気のない廊下を、沙夜香は急いだ。

 屋上に出ると、遮るもののない日の光が、彼女を迎えた。
 その明るさに目を細めながら、沙夜香は相手の姿を探す。

 ……いる。屋上の出入り口からは死角となっている、給水塔の影。
 確かにそこに、彼女にとっては間違いようのない気配を感じとった。

「お待たせして申し訳ありませんでした。先生」

 彼女の絶対の主、渡辺和人。
 彼は軽く壁に背をもたれかけながら、そこに立っていた。

(珍しいこと……)

 和人は、彼女のことを嫌っている。いや、憎んでいるといった方が正解か。
 彼を現在の人生に突き落とした彼女。それでいて、彼にはその存在に頼らざるを得ない彼女。

 憎まれるのは、当然だろう。そうも思う。
 実際、彼は彼女と目を合わそうとすらしない。
 いまも、その視線は足下へ向けられている。

 それでも、沙夜香は彼にこうして呼び出されることに、喜びにも似た感情を覚えていた。
 彼は常に、彼女のことをできる限り避けようとする。
 このようなことは、これが始めてであった。

「先生……?」

 何も言わぬ彼に、そう声をかける。
 いったい、何があったのか。

 よく見れば、今日の和人は、いつもと少し違って見えた。
 やや顔色も悪く、やつれているようにも見える。
 視線にも落ち着きがなく、肩や脚を小さく揺らせていた。

 彼が彼女を呼びつけるなど、なにかよほどのことがあったとしか考えられなかった。
 沙夜香は彼の下僕として、それに対処しなければならない。

「……この前の、」

 そんな和人の口から、小さく言葉が紡ぎ出された。
 よくよく注意していなければ聞き逃してしまいそうな、そんな弱々しい口調。

「この前の、たしか鈴本渚とかいう女生徒は、どうなったんだ?」

 沙夜香の目が、小さく細められる。

「先日の件以降、登校していません。
 三日間の欠席です」

「そうか……」

 それきり、彼は黙り込む。

 沙夜香は急かさない。
 じっと、主の言葉の続きを待つ。

 二人の間を、風が抜ける。

 風は和人のジャケットの裾を、沙夜香の長い髪を揺らせ、そして通り抜けた。

「………しろ」

 和人の唇から、小さな呟きが洩れた。

「早く、捕まえろ」

「………………」

 沙夜香は、返事をしない。
 相変わらず、ただ黙って、彼女の主を見つめる。

 和人が、下の方を向いていたその顔を、初めて上げた。
 沙夜香の目を、正面から見る。

「早く、鈴本渚を捕まえろと言ったんだっ!
 すぐに、できるだけ早く、その女生徒を俺のところに連れてこい!!」

「………」

 沙夜香は、その彼の瞳をじっと見つめる。
 そして、

「判りました。
 可能な限り早く鈴本渚を確保し、先生の元にお連れします」

 頭を下げ、そう応えた。

 ……和人の瞳の中に、彼女が何を見たのか。
 それは沙夜香にしか、判らない。

 だが彼女は深く身を折り、彼の命令に承諾の礼をもって応えた。

 注意深く────笑みの形に歪んだその唇を決して主に見られぬよう、注意深く、深く頭を下げて……。

 
 


 

 

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