碧色の黄昏


 

 

第一話 前編


《1》

"キーンコーン…"

「ああ、時間みたいだな。
 じゃあ、今日の授業は、これまで」

 教卓の上の資料をまとめながら、和人はそう言って授業を終えた。

「注目〜、礼っ」

 日直の女子生徒のそんな号令に軽く礼を返して、彼は廊下へと出た。

 渡辺 和人(わたなべ かずひと)。今年、ここ私立慶洋(けいよう)学園女子高等学校に就任したての、新任の教師である。
 教科は日本史。
 少子化が進む今、難しいとされる教員として就職が出来たのは、とても幸運なことだと彼は理解している。
 もともと、死んだ彼の祖母がここの理事長の友人だったこともあり、たまたま前任者が退職し空きがあったことで、採用されることが出来た。

 ここ慶洋学園は、地方都市としては大きなN市にあり、もともとはこの地方の有力な家の子女を受け入れる目的で設立されたそうだ。
 もっともこの現代ではそこまでの敷居の高さはあり得なかったが、それでもお嬢様学校として隣接した県にまで人気がある。

 そんな学園の、年頃の女子により作られる独特な空気の漂う廊下を、和人は職員室に向かい歩いた。
 今日の授業はもう終わりで、後は様々な雑務をこなすのみである。

 就任した当初は、この圧倒的な"女子"の空気に圧倒されていた彼であったが、半年も経つとなんとか慣れることが出来た。

「あっ、和人センセーっ!」

 後ろから、聞き慣れた、元気な声がかけられた。
 振り向かなくとも、その声だけでわかる。

「やあ。どうした、渡辺?」

 渡辺 夏紀(わたなべ なつき)、この学園の2年生である。
 頭の後ろで束ねられた、軽くウェーブのかかった髪。大きめの、瞳。制服から覗く長い手足は、健康そうにスラリと伸びている。

 和人と姓が一緒なのは、二人が従兄妹だからである。 小さいときからの知り合いで、彼女は彼のことを『カズ兄ぃ、カズ兄ぃ』と言って懐(なつ)き、いつも後ろにくっついていた。
 歳の差は7歳(和人は大学に入るのに一浪しており今年で24である)、少し離れた兄妹といったところである。

「ううん、そんな、用はなかったんだけど。カズ兄ぃの後ろ姿が見えたから…」

「おい、学校では『先生』だ。そう約束したろう?」

「あ、ごめん、ごめん」

 たいして悪びれもせず、明るく笑いながらそう謝る。
 そんな開けっぴろげな笑顔を向けられると、和人もそれ以上強くは言えなかった。

 くるくるとよく変わる表情。見ていて飽きない。
 そんな彼女は、女生徒の間でも割と人気があるようだ。

「…じゃあお詫びに、この娘、紹介するからっ」

「え?」

 そのときになって初めて、彼は夏紀の隣にもう一人女生徒がいるのに気がついた。
 その少女は……

「今日、私のクラスに転校してきた、神条(しんじょう)さん。
 …ねっ、すっごい美人でしょう?」

『…シンジョウ?』

 ──まず最初に目に入ったのは、その艶やかな黒髪だった。初めて見るほどに黒く、そして長い真っ直ぐな黒髪。
 その黒髪に縁取られて、まるでそこから浮かび上がるかのように、真っ白な肌をした小さな顔がある。
 やや細めの、まつげの長い目。すらりと高い鼻梁。そこだけは、異様に色づいている、艶やかな唇。……まるで信じられないほど鋭いノミを使い、彫り出されたようにも見える、その鋭利な美貌。
 さっき夏紀は、『転校生』と言ったが、身につけている制服もまた、この学院の明るい色の物とは違う、まるで高級なスーツのようにも見えるシックな色づかいの物であった。

 そしてなにより、その瞳は…

『………っ』

 今までに見たこともないほどに、『黒』い瞳。
 底知れず、深く、暗く、
 …しかしその奥には、そこにある物は確かに………

「ねえ、どうしちゃったの? ボーっとしちゃって」

 夏紀の声に、はっとする。
『やばい、見とれてたと思われてるかな?』
 そう考え、どうごまかそうかと焦る和人だったが、

「あ、ええ、…ごめんなさい。
 転校初日で、少し疲れたみたいです」

 夏紀が声をかけたのは神条という生徒の方だったらしく、その彼女は歳に合わない丁寧な口調でそれに応えていた。
 どうやら彼女の方も、和人と同じく、呆然としていたらしい。

"……でも、どうして?"

「ああ、そっか。じゃあ、あんまり連れ回しちゃ、よくないかなぁ」

「いいえ、そんなに心配して頂かなくても……。
 大丈夫ですよ」

 そう微笑みながら夏紀に言った彼女の黒い瞳が、再び和人に向けられた。

「始めまして、先生。本日、転校してきました、『神条 沙夜香(しんじょう さやか)』です…」

「…あ、ああ。
 こちらこそはじめまして。
 日本史担当の、渡辺 和人です」

 なんとか、挨拶を返した。

「あの、失礼ですが、先生と渡辺さんは名字が一緒で…?」

「うん、渡辺センセーとは、従兄妹(いとこ)なんだぁ。
 お父さん同士が、兄妹なの」

 夏紀がそう答える。

「そうでしたか……」

 呟く沙夜香は、

「それじゃあ、神条さん。あっちに自販機あるから、そこで一休みしようよ。
 じゃあね、センセーっ」

 夏紀に引きづられて、わずかな苦笑を浮かべながら後について行ってしまった。

「ああ、じゃあな」

 そう答えつつも、和人はやや呆然と二人を見送った。
 二人の影が、廊下の向こうに去っていくのを見送りつつ、

"いったい……"

 彼は先ほどの転校生の瞳の中に見た物が何であるか、必死で思い出そうとしていた。
 そう、確かに、彼が知るはずの『何か』を……。





「ああ、その子なら、さっきここにも来たぞ。
 お前さんの妹分が、自慢そうに連れて歩いてた」

 コーヒーが満たされたカップを差し出しながら、白衣を着た彼女はそう言った。

「どうも」

 一言礼を言いつつ、カップを受け取る。
 コーヒーの香りが、保健室特有の、清潔な布と消毒薬のにおいとが混じり合ったような空気の中に揺れている。

 和人は校舎一階の一室、学園の保健室へと来ていた。
 この部屋の主は大のコーヒー中毒で、さらにこだわり屋である。
 彼は美味しいコーヒーが飲みたくなると、よくこの部屋を訪れた。

「確かに、ありゃ凄い美人だね。
 まあ、連れ歩きたくなるのもよくわかる」

 そんな風に話しつつ、白衣姿の女性は和人の向かいの椅子に座り、自分で入れたコーヒーを一口啜った。

 高坂 裕美(こうさか ひろみ)。この学園の養護教諭、部屋の主である。
 和人にとっては、高校時代の先輩でもあり、古いつき合いだ。

「それで、お前、教え子に手でも出したくなったか?」

 とんでもないことを言う。

「勘弁してくださいよ。
 夏紀のクラスメイトですよ? 手なんか、出せませんて」

「なんだ、つまらん。前々から思ってたが、どうもお前は倫理観が古くさい。
 そんなだから、見た目はそれなりなのに、いまいち女にもてないんだぞ?」

 相変わらずだ、と和人は苦笑するしかない。

 裕美は昔からこんな感じだった。
 その独特の荒っぽい口調で和人をからかうが、また、そんな言葉遣いがよく似合う。

 和人よりも、2年先輩だった彼女は、相変わらず美人だ。

 化粧っ気の少ないその顔は、しかしそのわずかな化粧だけで、十分以上に魅力的に仕上げられていた。ナチュラル派美人のとはこういうのを言うのだろう。
 ……もっとも、そのコーヒー中毒ぶりと、職場を離れたときのチェーンスモーカーぶりは、とても自然派とは言えないものだったが…。

 女性としてはかなり長身で、それなりの身長を持つ彼と比べても、少し低い程度。
 羽織った白衣の上からもわかるほど、メリハリのついたプロポーションをしている。

「多分夏紀のヤツ、彼女も茶道部に勧誘するつもりなんじゃあないですかねぇ」

 いつも跳ねまわっているような彼女だが、茶道部に在籍している。
 一度おじゃましてお茶を飲ませてもらったことがあるが、静かにお茶を点(た)てる姿は、意外と様(さま)になっていた。

「ああ、それはありそうだな。
 あそこも結構、困ってるようだしな」

 最近、部員が少ないと嘆いていた夏紀を思い出す。

「ところで、お前のところはどうなんだよ」

 和人は、剣道部の顧問をしていた。
 と言っても、別に彼が剣道の経験がある訳ではなく、若い教員にはそうした役職がよく回ってくるということだ。

「うちは大丈夫ですよ。各学年、それなりの人数は確保できてますし。
 それに、前部長がしっかりしてますからね」

「木観塚か…。
 まあヤツがいるなら、今年のうちは大丈夫だな」

 剣道部前主将の木観塚 弥生(きみづか やよい)は、ついこの間まで現役だった、三年の生徒だ。
 美人で、面倒見が良くて、しっかり者と三拍子そろった彼女は、部の内外問をわず、生徒達にも教員にも人望がある。
 彼女は早々に、この学園の女子大にそのまま進学することを決めている。普段の成績も十分によいことからそちらの心配は全く無いため、部長職を引き継いだ今でも部活動の方に顔を出し、指導や調整に当たってくれている。

「ま、とはいえ彼女に頼りすぎというのも、問題だぞ?
 木観塚だって、本当に動けるのは年末までだろうしな」

「はあ、それは判ってるんですけどね…」

 午後の気だるい空気の中、そんな他愛のない会話をぼんやりと楽しみながら、二人はコーヒーをすすっていた。





「はい、神条さん。熱いからね、気をつけて」

「ああ、ありがとうございます」

 沙夜香に熱い紅茶の入った、紙コップを手渡す。
 受け取るその手はほっそりとしており、指先まで綺麗だった。

『は〜っ……
 ここまでの美人となると、やっぱちがうなぁ』

 夏紀は妙なことで、しきりに感心していた。

 自販機の前に置かれたベンチに、二人して並んで座る。

「ちょっと、疲れちゃったかなぁ?」

「いいえ、そんなことはありませんよ。
 いろいろ案内していただいて…。ありがとうございます」

 にっこりと笑う沙夜香。
 その笑顔に思わず見とれてしまい、少し頬が紅くなるのを自覚する。

「あ、でも神条さん。
 そんな、丁寧な言葉なんか、使わなくてもいいんだからね。
 私たち、同級生なんだし…」

「ああ、ごめんなさい。
 でも、小さいときからずっと、この言葉遣いだったもので…」

「ふーん、やっぱ神条さんて、根っからのお嬢様なんだねぇ」

 うんうんと、頷きながら納得する。
 ズズッと一口紅茶をすすり込んだそのとき、

「ねえ、渡辺さんって、やっぱり渡辺先生にご好意を寄せてるの?」

"ごほっ!" と、思わずむせてしまう。
 見事な、不意打ちの質問だ。

「けほっ……なんで、わた、…こほっ、…そんな……」

「あら、ああ、ごめんなさいね」

 沙夜香の手が、苦しげにせき込む夏紀の背を、何度もさすってくれる。
 何度か咳き込んだ後、やっと落ち着いてきた。

「…別に、カズ兄ぃとは、そんなんじゃあないよ」

 やっと、応える。

「ああ、そうでしたか?
 渡辺先生、魅力的な方ですし、もしかしたらと思ったんですが」

「……」

 ……そう、嘘では、無かった。全てが、ではないが。

 確かに、和人は夏紀にとっては、初恋の相手であった。
 彼には物心ついてからこのかた、ずっと可愛がってもらっていた。
 いつからかは判らないが、『恋愛』というものに興味を持ち始めた彼女にとって、そんな幼い感情がまず彼に向けられたのは、きわめて当然のことであった。

 とはいえ、今、冷静に考えた場合、自分が和人に恋をしているかと聞かれると、今ひとつはっきりとはしない。
 確かに和人は、従兄妹の自分から見てもカッコイイ部類にはいるし、好意は持っている。
 しかしそれが恋愛としての感情かと聞かれると、何か違う気もするのだ。

「従兄妹だしね。今更、そんなんじゃあないよ」

 夏紀はそう答えた。

「そうですか……」

 その沙夜香の声に、なぜか突然、夏紀はゾッとした。
 背筋を、冷たいものが駆け上がる。

『え……?』

 沙夜香の視線から、瞳が離せない。
 その長いまつげに縁取られた彼女の目は、なにか、異様なほどの暗い深みを持って、夏紀の心に浸食するようだ。
 その瞳の黒が、夏紀の視界全てを覆おうとする。

『……』

 手足が、ぴくりとも動かない。
 心が、恐怖に冷たくなっていく。
 そのくせ、身体の中心が、夏紀のまだ知らない熱を帯びて、熱くてたまらない。

『これって……』

"ドクンッ、ドクンッ…"
 耳のそばの血管が脈打つ音が、うるさいほどに鳴り響く。

 ひどく熱いその衝動が、行き場を探して体中を駆けめぐり……

「……夏紀さん?」

 ──その声に夏紀は、はっと意識を戻した。

「どこか、具合でも悪いのですか」

 気がつくと、沙夜香が心配そうな目で、自分を見ている。
 そこには、さっき彼女が感じた違和感などみじんもなく、ただ自分を案じる色だけが見て取れた。

「あっ、ごめん、ごめん。なんか、ぼぅっとしちゃったみたい。
 ほんと、何でもないよっ」

 顔の前でぱたぱたと手を振り、焦りをごまかす。

「さてっと、それじゃあ、また校内の案内を……」

 そう言おうとしたとき、夏紀は自分の身体の『それ』に気がついた。
 あわてて、沙夜香に言う。

「あ、その前に、ちょっとごめんね。
 お手洗いに行って来る」

 なんとか、顔が赤くなっているのを隠せただろうか。
 背中に、沙夜香の視線を感じながら、足早に移動する。

 そんな夏紀を見送る沙夜香の目は、妖しく、そしてほんのわずかに細められていた…。



 夏紀は手近なトイレに駆け込んむと、そのまま個室に入り、ドアの鍵をかけた。

「はぁっ、はぁっ…」

 別に運動でもしたわけでもないのに、荒い息が口をついて出る。

『私……なんで?』

 スカートの中に、手を入れる。

"くちゅ……っ"

「ん…ぁっ」

 個室に、湿った音が響く。
 その音は静寂な中、異様に大きく響いて聞こえた。

『なんで…、こんな?』

 ──スカートの中では、下着が自分の分泌した粘液で、ぐっちょりと気持ち悪く濡れていた…。



「おまたせっ」

 夏紀は、沙夜香の待つ自販機の前へともどり、声をかけた。

「ああ、もういいんですか?」

「うん、大丈夫、大丈夫っ」

 なにか変に思われていないかと、すこしドキドキする。

 下着はできる限り拭いたのだが、まだすこし冷たく湿っていて気持ち悪かった。
 しかし脱ぐわけにもいかないし、なんとか我慢はできた。

「それじゃあ、次はどこに案内しようか?」

「そうですね……」

 その変わった様子のない沙夜香の態度に、どうやら気づかれてはいないようだと少し安心する。
 二人はまた、肩を並べて歩き始めた……。



《2》

 9月も半ばを過ぎ、日差しも暴力的にきらめいていた夏のそれは去り、少しづつ穏やかなぬくもりを与えるものへと変わっていく。
 今年は例年より夏の気温が低かったせいか、冬が早めにやってくるこの街では、すでに秋物の服を準備する人も多い。

 ここ市立公園では、そんな穏やかな秋晴れを楽しもうと、家族連れや、近所の人々が出かけてきていた。

「こんにちは、渡辺先生」

 休日、その公園に置かれたベンチでぼうっとしている和人に、突然声がかけられた。
 振り向くとそこには、神条 沙夜香がいた。

 そろそろ夏も去りつつあるこの季節によく似合う、淡いクリーム色のブラウスと、長めの茶系のスカートというシンプルな服装だ。
 しかし、その並はずれて整った顔立ちには、そんな飾り気のない服装がよく似合った。

「やあ、神条さん」
 ベンチに座ったまま、軽く手を挙げ挨拶する。
「こんなところで、何を?」

「天気が良かったもので、散歩でもと…。
 先生は?」

「ああ、俺もそんなもんさ。
 ひなたぼっこが好きでね」

 そんな彼の年寄りじみた台詞に、沙夜香は口元に手を当ててくすくすと笑う。

 夏と比べれば穏やかになったとは言え、さんさんと降り注ぐ日の光の下にいるのが信じられないほどに白い肌。
 かるく吹く風に、彼女の長い黒髪がサラサラと揺れて、和人は思わずそれに見とれてしまった。

「先生、お隣、よろしいですか?」

「うん、ああ。もちろんかまわないよ」

 生徒相手に少しドキドキしてしまうのを隠しながらそう言う和人の隣に、沙夜香は腰を下ろした。
 ふわっと、彼女の方からなにか良い香りが漂ってきた。

「神条は、いつ頃こっちに引っ越してきたんだ?」
 とりあえず、当たり障りのない質問をしてみた。

「そうですね、10日くらいになりますか」

「ふうん。どうだ、少しはこっちにも慣れたか?」

 そんな感じで、あれこれと話をする。
 あまり気の利いた会話ではないが、和人はそれほど遊び慣れていたり、女慣れしていたりという性格でもない。
 むしろ、その逆である。

 その辺、裕美に言わせれば、「堅苦しい、つまらないヤツ」となるが、和人にとってはこれが自然体なので、どうしようもない。
 そんな話をすると夏紀あたりは、「まあ、いいんじゃあない? カズ兄ぃのいいトコは、そこなんだから」などと、慰めてくれるのだが……。

「…先生は、夏紀さんとすごく仲がよろしいそうですね」

 神条が、話題を振ってきた。
 先日の夏紀と和人の会話を聞いていれば、当然の話題だろう。

「え? ああ、まあな。従兄妹だし、もともと家も近かったんでな。
 昔から、よく遊んだよ」

 とりあえず、そう答える。

「夏紀さん、先生のことになると、とても嬉しそうに話すんですよ?」

「いや、まいったな。
 変な誤解を受けないでくれると、ありがたいんだけど」

 頭をかき、そうかるく流す。
 危うい話題の一つでもある。和人にとっては、常に対応に気をつけねばならない内容であった。

 実際のところは、夏紀はひいき目に見ても可愛い娘だとは思うが、歳も離れているし、赤ん坊の頃を知っている相手だ。
 そういった目で見たことなど、一度もなかった。

「でも私も、先生のこと、興味を持ってるんですよ?」

「え?」

 突然の言葉に、思わず息を飲む。

『なんだって…?』

 少し焦りながらも、そんなことに動揺した自分を何とか持ち直させる。

「はは、そりゃどうも。
 だけど、夏紀や神条から見たら、俺なんてオヤジだろう?」

 しかし沙夜香は、和人のそんな不器用なごまかしを相手にはしなかった。

 そっと立ち上がると、座ったままの彼の正面に立つ。
 その右手がゆっくりと持ち上げられ、和人の頬に触れた。

 正面から、目と目が合う。

『これは…』

 初めて会ったときと、同じ感覚。
 彼女の瞳に魅入られたように、視線がはずせない。
 ただひたすらに、暗く、深く…

「先生…」

 沙夜香が、呟く。

「先生は、『何』なんですか?」

「…え?」

 よく、意味の分からない質問。
 身体が、まるで金縛りにでもあったかのように、動かない。
 そしてそんな彼の動揺を利用して、彼女の瞳は彼のさらに奥底までを見通そうと浸食してくる、そんな錯覚を憶える。

『やばい…』

 そう思った、そのとき、

"くすりっ…" と沙夜香が微笑む。

 彼女の上半身が彼の上に覆い被さってくる。
 その垂れた長い髪が、彼の頬をくすぐる。
 そして……

「うん…っ」

 彼女の唇が、彼のそれと重なった。

 軽い、ただ唇をあわせるだけのキス。

 しかし、

『これは…』

 合わさったそこから、彼の『何か』が沙夜香の口に啜り取られるような、感覚。

『ああ……あ』

 魂そのものを啜られているような恐怖にも似た喪失感と、それを圧倒するような……快感。

「はあ……」

 唇が、離れる。
 おそらくそれは、ほんのわずかな時間だったのに違いない。
 けれど和人には、それがとても長い時に感じた。

「神条…、お前……」

 呆然と見返す彼に対し、

「それでは、先生。
 また明日、学校で」

 そう軽く挨拶すると、彼女は振り返りもせずに和人から歩み去っていく。

『ドクンッ!』

 そんな後ろ姿を見送る和人の躰の奥底で、何かが大きく脈打った。

『ドクンッ!!』

 思わず、胸を押さえる。
 しかしそれでどうこうなるものではなかった。

『ドクンッ!!』

 和人は、理解した。
 それは、心臓の脈打つものではない。
 もっと別の、彼の奥底に住む何かが、暴れている音。それが、自ら存在を知らしめようとしているような、そんな鼓動…。

「……はぁ、はぁ、はぁ」

 やがて、徐々にそれは収まり、和人の耳に周りの物音が聞こえてくるようになった。
 しかし、荒い息はしばらく落ち着きそうにない。

 ……そして、沙夜香はすでにその姿を消していた。



《3》

「はいっ! 今日はこれまで!!」

 その主将の言葉に、道着に袴姿の女子生徒達が部活動の片付けを始める。
 この日、和人は、顧問を引き受けている剣道部の練習を見に来ていた。

「先生、ありがとうございました」

 声をかけてくる女生徒。
 清潔そうに切りそろえられた、ショートカットの髪。サラサラと、黒く、伸ばしたらさぞかし綺麗だろうにと想像させられる。
 シャープなラインを描く、涼しげな目鼻立ち。
 一歩間違えれば冷たくも感じられるだろうその整った顔は、だがその親しげなな微笑みにより、とても穏和なものに見られた。

 前部長の、木観塚 弥生である。

「やあ、お疲れ。
 ありがとうな、引退してからも、大変だろう?」

 しかし弥生は、その独特のふんわりとした笑顔で応える。

「いいえ。
 私こそ、いつまでも出しゃばっちゃいけないとは思うんですけど…。
 でも、みんなと練習できるのが、楽しくて」

 ……こうして見ると、木観塚と神条は似ているかもしれないと、和人はぼんやりと思った。

 長さは違うが綺麗なまっすぐな黒髪に、シャープな整った顔立ち。
 ただし、そこから感じられる雰囲気は、まさしく陰と陽……と言っては言い過ぎかもしれないが、それでも正反対なものに感じる。

 穏やかな日溜まりのような匂いを感じさせる弥生と、明らかな静かな深い闇をたたえた沙夜香。
 ──その中身は、全く違う。

「…どうかしましたか?」

 弥生が、不思議そうな顔をして和人を見ている。その頬は少し赤らんでいるようだった。
 どうやら、彼女の顔を見つめたまま、必要以上の時間黙り込んでしまったようだ。

「あ、いや、その……週末の大会は、見に来れるのか?」

 ごまかすように、和人は弥生に訊いた。
 その日は県の、ちょっとした大会があり、この部からも何人かが参加する予定なのだ。

 だが弥生は少し残念そうに首を振ると、答えた。

「すみません。その日は、ちょっと忙しくて…」

 本当にすまなそうに言う。

「ああ、じゃあ仕方がないな。
 まあ木観塚ももう3年だしな。無理をすることはないさ」

「あ、いえ。本当は行きたいんですけど。
 …もう少しすると、うちの神社でお祭りがあるので。
 その準備というか、打ち合わせみたいなものがあるんです」

 彼女の家は、この市内にある神社である。
 それなりに大きな神社で、正月や秋祭りの時には、かなりの人で賑わう。

「そうか、じゃあ、しかたがないな。
 祭りの時には、俺も遊びに行くからさ。がんばれよ」

「はい、ありがとうございます」

 弥生は、にっこりと微笑んだ。
 こんな笑顔の時、彼女は間違いなく魅力的だ。

「せんぱーいっ! ちょっといいですかぁー?」

 そこに、後輩から声がかかる。
 その声に、気のせいか残念そうな表情をして、弥生は

「それじゃあ、失礼します」

 そう和人に挨拶すると、練習場から出ていった。

「……さてと、それじゃあ俺も行くかな」

 誰にともなくそう呟き、彼も道場から外に出る。
 クラブの生徒達の挨拶に返事を返しながら、職員室へと向かった。

 道場とつながった体育館から渡り廊下を通り、本校舎へと歩く。
 学院は二つの校舎からなり、それぞれを本校舎、第二校舎と呼んでいた。
 敷地内には他に体育館や、部室棟、運動場、プールなどがあり、それ以外にも今は倉庫代わりになっている旧校舎などというものも存在していた。

 職員室は本校舎の2階にあり、渡り廊下からはすぐのところだ。
 本校舎に入り、すぐの階段を上へ……

「ん?」

 視界の隅で、何かが動いた気がした。
 1階の廊下を見渡す、…が、何も見あたらない。
 もう夕方も結構な時間になり、廊下には生徒の姿も全く無かった。

「気のせいかな……?」

 だが…なぜだろう?
 何かが、気になる。

 和人は階段を上がらず、そのまま廊下を進む。
 いくつかのドアの前を通り過ぎ、1階中央に位置する正面玄関を通り過ぎ、……その一番奥は保健室となっている。

『なんだ……?』

 違和感を感じる。
 同時に、本能的な何かが、そちらに行ってはいけないと告げている。

 しかし、彼の脚は止まらない。
 何かに引かれるように、廊下を進む。

 保健室の扉まで、あと数歩まで近づいた。
 なぜだろう? 先ほどまで感じていた周囲の雑音──風の音、空調の音、生徒達のざわめき──、そういったものが、全く耳に入らなくなった。

"ドクンッ、ドクンッ…"

 ただ、自分の胸の鼓動のみが響き渡る。

 気のせいか、周囲がわずかながらに暗くなった気がする。

『おい、おい…。何を考えてるんだよ。
 こんなところで、怪談でもある訳じゃあないし、何もないに決まってるだろうに…』

 そんなふうに、自身を笑ってみる。
 しかし、和人の額は、冷や汗でじんわりと湿っていた。

 扉の前に、立つ。
 開けるのが、怖い。

 そんなわけはないだろう、そう笑う自分がいる。
 このまま中に入って、いつものように裕美と会い、少しいじめられながら、その分美味しいコーヒーの一杯でもご馳走になれば、それでいつも通りだ。

 だが、心を支配する不安感は全く減らない。
 そのわずかに開いた扉から、まるで闇がにじみ出ているような、そんな錯覚を憶える。

 それでも、和人の手は、扉へとかけられた。
 扉を開け、中に入る。

 別に、いつもと変わらない風景。

 やけに白い棚や布で飾られた、そのレイアウト。
 リノリウムの床。
 わずかに鼻を突く、消毒の匂いと、コーヒーの香り。

 そしてその部屋の中央には、そこだけいつもと違う…

「こんにちは。お待ちしていました、渡辺先生」

 ……笑顔を向ける、神条 沙夜香がいた。



《4》

「どうしたんだい、神条?
 どこか悪いのか?」

 ごまかすように、そう言う。
 頭の中はグチャグチャで、何か話ででもいないと、どうにかなりそうだった。
 それでも、口の中が乾いて、上手く話せない。

 だが沙夜香は軽く頭を振ると、

「いいえ、先ほども言ったとおり、先生をお待ちしていたんです」
 そう言った。

 すぐにでも逃げ出したい──、そんな思いとは逆に、和人の身体は勝手に動き、扉を閉め、部屋の中へと歩いていく。

 正面には、沙夜香がいる。

 いつもの通り、長い真っ直ぐな黒髪を垂らしており、その髪で縁取られた小さな顔は、鋭利さを感じさせる程の美貌を持っている。

 …いや、それだけではなかった。
 今、目の前にあるその美貌の中には、明らかな、それでいてその正体がはっきりとはしない見えない『力』が漂っていた。

 ──ゆっくりと、
 沙夜香が、彼に近づく。
 それに従い、その力は彼をより強く縛っていく。

「神条…、おま、え……」
      『……いったい…』

 もう、口すらも上手く動かない。

 何がなんだか判らないが、一つだけはっきりと判ることがある。
 彼を縛っている、この目に見えない『力』は、沙夜香によるものだと。

『う…、あ……』

 彼女の目から、視線をはずせない。
 沙夜香の黒い瞳が、まるで視界を覆うように大きく見える。

 これを、恐怖と呼んでいいのだろうか? ただひたすらに、心が冷たく、そしてしびれるように麻痺してくる感覚…。

 そしてそれとは反対に、和人の躰はどんどんと熱くなっていく。

「はぁ、はぁ、はぁ…」

 息が荒くなるのが判る。
 躰が熱くて、どうにかなりそうだ。
 そしてそれは、ある方向性をもって放たれようと暴れまくる。

『あ、あぁ……』

 股間のものが、ドクドクと脈打つ。
 生徒の前なのに、などという考えは、すでに彼の頭の中には浮かんでこなかった。
 ただそのどうにもならない熱さに、悶えるのみだ。

 沙夜香が、彼の正面に立つ。
 手を伸ばすと、両手で彼の頭をはさむように触れた。
 その美しい顔が、和人の目の前に差し出される。

「私、本当は男の方は嫌いなのですけど…」

 紅い、その白い顔の中で、そこだけが生命を宿しているかのように紅い唇が、言葉を紡ぐ。

「先生は、……とても美味しそう」

 沙夜香は軽く背伸びをするようにし、…唇が、重ねられた。

『う……ぁっ』

 …抵抗、出来ない。彼の身体は、指一本自分の意志で動かすことは出来なかった。

 彼女の舌が、和人の口腔内へと差し込まれる。
 彼の口の中を嬲り、唾液を送り込み、そして啜る。

『これは……』

 この前、公園の時と、全く一緒であった。
 触れた場所を通し、和人の中の熱が沙夜香へと流れ込んでいく。
 そしてその喪失感とは全く逆に、彼の躰はますます熱さを帯びる。

『──ドクンッッ!!』

 そんな彼の中で、あのときの『何か』が拍動する。

「うっ…、わぁぁーーー…っっ!!」

 そのとき和人が感じたのは、いったい何だったのか。
 恐怖、怒り、嫌悪、焦り、……そのどれでもないのかもしれなかったし、あるいはそれら全てだったのかもしれない。

 そして和人は、彼の中で目覚めようとする『それ』を遠ざけようという衝動のままに、沙夜香を両手で引き剥がした。

"どす…っ"

「きゃ……っ!?」

 ──そう、気がつくと彼は動かなかったはずの両手で、彼女を思いきり突き飛ばしていたのだ。

 床の上に腰から倒れる、沙夜香。

 女の子に思い切り力を振るってしまったという自分の行為にはっとして、彼は慌てて彼女に声をかけようとした。
 しかし……

「あ……」

 それが、失敗だったと知る。
 彼はそのとき、何も考えずに、後ろを向いて逃げるべきだったのだ。
 …だが、もう遅かった。

「先生……」

 沙夜香の、目。それはさっきまでの静かな物とは、もう明らかに異なっていた。
 燃えるような憤怒をたたえたその瞳。それは、本当に人間の物であり得るのだろうか?
 その一瞥を受けただけで、和人は再び身体をこわばらせてしまった。

 ……そっと、沙夜香が立ち上がった。

「ひっ…」

 喉が、勝手に収縮し、そんな声を漏らす。
 全身の毛が逆立ち、冷や汗がどっとあふれ出す。

 …しかし、沙夜香はその瞳を、再び『ふっ』と細めた。
 探るように、楽しむように彼を見る。

「やっぱりね…」

 沙夜香が、唇を舐めるように言った。

「やっぱり、見当違いじゃあなかった。
 ……先生は、『何者』なんですか?」

「…え?」

 質問の意味が分からなく、和人は間抜けた声でそう訊き返した。

「そう…、本当に、ご自分では理解してはいないようですね」

 含むように、彼女が言う。

「渡辺先生の中には、何かの『力』があります。
 先ほど、先生に突き飛ばされる直前に啜り取った『精』から、それを確かに感じました。
 おそらくはとても古い、…そして、とても大きな力……」

「君は、いったい…」

 そう漏れ出た僕の質問に、彼女は妖しく微笑むと、答えた。

「もういいかげん、お分かりでしょう?
 私は、普通の人間とは違う存在です。
 人間を操り、その生命の『精』を吸い取ることで長らえる者…。
 多分、私のことを一番わかりやすく表現するならば、『淫魔』といったところでしょうか?」

「『淫魔』…?」

「そうです。そんな呼び方はなにか下品で、私は嫌いなんですけど…。
 それでも、私はそういった存在です。
 別に男性の精液を吸い取る訳ではありませんが、それと近いかもしれません。

 人間が本当に欲情したときに表面に現れる、原始的で根元的な生命の力…。
 それが私にとっての、摂食物です」

 先ほどの、何かを奪い取られるような感覚。
 それが、彼女の『食事』だと言っているのだ。

「そんな…」
 この期に及んでそう呟く彼に、沙夜香は続ける。

「信じる、信じないは、先生の勝手です。
 ただ、私は先生のその『力』を、味わってみたいんです」

 彼女は再び、和人に歩み寄る。
 手を彼の胸に滑らせ、愛撫する。
 沙夜香の手が通った場所から、耐えられないほどの熱を伴った快感が沸き起こる。

「ぐぅ…っ!」

 しかし和人は、身をよじってその手から逃れようとした。
 沙夜香の口から、呆れたようなため息が漏れる。

「はぁ…、先生、ずいぶんと強情なんですね。普通の男性なら、とっくに欲望の虜になってるはずなのに。
 その『力』のせいなのか、……それとも」

 ふと何かに気がついたように、彼の目を見上げる。

「先生、もしかして、女性の経験がおありでないとか…?」

「………っ!」

 和彦のその反応に沙夜香は、獲物を見るネコのような喜びをたたえた目をした。

「ああ、そうだったんですか。
 そのお歳からいって、そうは思いませんでした。
 …先生は、純粋な方なんですね」

 くすくすと笑う。
 ずっと年下の、しかも美しい顔立ちをした少女にそんなふうに言われ、和人は屈辱に顔を赤くする。

 そう、和人はこの年になって、未だ女性と関係したことが無かった。
 自分でも、奥手だとは思う。
 それなりに整った顔をしている彼だが、しかしなぜか、女生とそう言った関係まで踏み入ったことは無かったのだ。
 それは……。

「──それじゃあ、どんなふうにその欲望をむき出しにしていいのか、判りませんものね。
 …わかりました。それではそのように、お相手しましょうね」

「な…っ」

「……ただ、さっきも言いましたけど、私、本当は男の方は嫌いなんです。
 ですから、別に私がお相手するわけではないです」

 そう言うと、彼女は和彦に背を向け、ベッドが並んで置いてある方に歩いていった。
 そこには2台のベッドがあるはずだが、今はカーテンが閉まっており、それらは見えなくなっていた。

 沙夜香はカーテンの布地を引き、それを開けた。
 ばさっと音を立て、その向こう側に隠れていたものが現れる。

 そこには……

「あ……ぁぁ」

 わずかな、ため息のような声。
 ベッドの上に、誰かがいた。

「さあ、渡辺先生。
 この人が、先生のお相手をしてくださいますよ」

 沙夜香が、和彦の方を向きながら、まるで見せびらかすようにそう言う。

 彼は、信じられないような気持ちで、その人の一糸まとわぬ姿を見る。

 仰向けに寝ていてもその存在を主張する、豊かな、形のいい乳房。その頂上には小さな乳首がそこだけ色づいている。
 そこから引き絞られるように細く続く、ウエスト。
 やはりボリュームを感じさせる、それでいて引き締まった腰つき。
 綺麗に手入れをされた、股間の陰り。
 美しい曲線を描く、両の脚…。


 そこには…全裸で、両の脚をしどけなく開いた姿のまま横たわる、養護教諭の高坂 裕美がいた。

 
 


 

 

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