おろろん淫魔君


 

 

07. 遠回りして帰ろう


 その時みんなは疲れきって眠っていた。
 
 部屋にある時計の針が12時を指し示し、静かなメロディが流れだす。

 そしてそれが鳴り止んでしばらく経つと、突然...本当に突然に淫魔君が叫び出したんだ。

「うっ、がぁぁっ!くうぅぅぅ、つ、う」

「え!何?どうしたの?ちょっと...淫魔君?ねえ!大丈夫?」

 僕の足を抜け出し、床の上でいろんな形になりながら呻き続ける淫魔君に、周りのみんなも起き出して心配そうに見つめている。

 僕は肘で這って何とか淫魔君に近づくと、そっと手で触れ胸に抱き寄せた。

「...淫魔君っ!どうしたんだよ?生気が足りないの?それなら僕のを吸いなよ。僕、すっごく元気だからいくらでも上げるよ。ねえ、ねえ!淫魔君、返事してよ。ねえ....」

 抱きしめたまま一生懸命に話しかける僕の心配をよそに、数十分たってやっと暴れるのをやめた淫魔君だけど、それっきり丸く固まったまま動かなくなってしまった。
 時々びくって動いて緑の粘液を吹き出すから生きてるとは思うんだけど....でも心配することしか出来ない僕はさすったり、揺らしたりするばかりだった。

「淫魔君が死んじゃったらどうしよう!僕、さよならも言わずにお別れするのはもう嫌だよ。ねえ!春蘭さん、どう思う?淫魔君帰って来るかなぁ?」

「それは..私にも解りませんけれど..ここのみんなが願っています。きっと戻ると信じましょう...」

「それに神様に祈る訳にもいかないしね。なぁんか余計死んじゃいそう」

 貴子さんの言葉はいつも真面目なのかどうか計りかねるけど、顔だけは心配そうだった。



 真夜中というのに眠そうにする者さえいないまま、憂鬱な沈黙が流れていく。

 午前5時...
 まもなく夜が明けようとしたその時、突然淫魔君の体が震えだし、体中から緑色の粘液を吹出しながらむくむくと大きく膨れ上がっていく。

 さっきより酷く苦しそうにもがき、暴れ、やがて僕と同じ位の大きさになると、どろんと表面の部分が溶け落ちてしまって中から出て来た真っ赤に充血した肉の塊が人の形をとり、立上がった。
 そして顔にあたる部分に ぱくっ と口が開くと

「んがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 という大きな雄叫びを上げて、もう一度 ピューーーッ と勢い良く全身から粘液を吹出した後、大きく溜息を付いた。

「ああー、しんどかった。いきなりやったさかい、ほんまびっくりしたわ」

 全員があっけに取られた様に見つめていたが、形は変っても淫魔君が無事だという事だけは判って安堵の空気が流れ出す。

「ちょっとっ!びっくりしたのはこっちだよ。一体どうなってるのか説明してよ!僕達一睡もしないで、見守ってたんだからね!」

「あん?お前らも暇なやっちゃなー。淫魔の脱皮がそないおもろいんかい?」

「脱皮?脱皮ってあの蛇とかがするやつ?そしたら淫魔君、脱皮して大人になったの?」

「そう言うこっちゃ。なんやよう知らんけど”お方”はんに力が戻ったみたいやな。ほんで今までもらえんかった生気がいきなり流れ込んで来よったんや。そらびっくりするでー。なんせわしも自分が脱皮するのんは初めてや。一体何が起ったんか解らへんがな」

「そう..そうなの。まあ、良かったよ。僕、淫魔君が死んじゃったらどうしようかと思ってたんだ」

 ほっとして顔を見合わせるみんなの雰囲気とは別に、一人下を向いたまま淫魔君は話を続ける。

「お前、たぶん忘れとるんやと思うけどな..わしが成長体になったちゅう事は、もうお前とはバイバイなんやで..」

「!!...僕と..淫魔君が..お別れ.......?」

 僕は昔、そんな事を言われたのをやっと思い出したけど、その先の言葉は見つからなかった。
 頭から血の気が失せていくような感触があって、ただ黙って彼の目..は無いけど..口の上の辺りを見つめていた


「カッカッカッカッカッ!」

 淫魔君は高らかに笑うと言い放った。

「そういうこっちゃ。わしはこれからもう、お前に生気貰わんでも生きて行けるんや。わしの好きな所で好きな様に好きなねえちゃんをいわしたるんや。どや?お前もせいせいするやろ?」

「そ、そんな..そんな事って....淫魔君、今までもそんなに嫌だったの?僕と一緒に暮らしてる間ずっと我慢してたの?そりゃぁ僕は..足も悪くて、子供だし..いろいろ..旨く、ないけど..僕、ずっと、僕、友達だと...思って..た....」

 大きくしゃくり上げながらそこまで言った時、春蘭さんが僕をすっと抱き上げて寝室に運んでくれた。

 ベッドの上でもずっと泣いている僕を優しく抱き締め、おかあさんの様に話してくれた。

「優太さん..あの人は私達とは違うの..。いつか別れる日が来るのは分かってた筈よ..。あなたにもね。
 大丈夫、あなたの足の代わりになりたい人は他にも一杯居るわ。
 それに友達なら彼の成長を喜んであげなくちゃいけないのよ...」

「成長...そうだね..。淫魔君は僕に早く大人になれって言ってた..。僕も淫魔君の成長をお祝いしなくっちゃね。春蘭さんありがとう。僕 明日目が覚めたら淫魔君におめでとうって言うよ!」

「そうよね。そしてみんなで送ってあげましょう」

「うん、じゃあ明日は早く起きなきゃ。おやすみ、春蘭さん」

「おやすみなさい..かわいい旦那様」



 でも次の日、目が覚めたら淫魔君は居なかった。
 昨日、僕が怒ったまま寝ちゃったから、さよならも言わずに出て行っちゃったのかもしれない。
 僕は大きな後悔とたくさんの思い出を少しずつ取り出しながら一日中ぼーっとして過ごした。



 日が沈み、子供の頃初めて一人でベッドに入った時の様な寂しさを感じながら、一人僕は空を見ていた。
 淫魔君が居るのが上なのか下なのかは分からないけど、なんとなく空の向こうに居るような気がして眺めていたんだ。

 そしたら明りのついてない部屋の隅っこの方からいきなり声がした。

「お前、まぁたしょげとんのかい?そんなんやったら、これからやっていかれへんがな」

「淫魔君!淫魔君?どこ?帰ってきたの?出てきてよ。僕、言いたい事が有るんだ!」

 隅っこの影の中からのっそりと出てきたのはゴミ袋に大きな尻尾と手足を着けた、変な怪獣みたいな淫魔君だった。

「そ、それが淫魔君の本当の姿なの?

「あほ!わしにほんまの姿なんかあるかい。魔界で今流行りの身体やねん」

「ふぅん。あっ、そうそう僕淫魔君に言おうとしてた事があったんだ。あー、あの、そのぅ、あのね...」

「なんやねん、しんきくさいなー」

「あの、淫魔君..成長おめでとう。僕、昨日春蘭さんと話合って決めたんだよ。みんなで淫魔君の門出をお祝いしようって」

「あほ、お前らはほんっまにおめでたい奴っちゃ。わしら淫魔にめでたい事なんかあるかいな。ただ生きてく為に犯るだけの存在や!..それだけや..ただ..それだけ...」

 僕の中に言いたい事がどんどんとこみ上げて来るんだけど、その気持をぶつけるのはもう駄目なんだって、お互いの為にはその方が良いんだろうって事に気づき始めてた。だからもう何も言わずに黙っていたんだ。

 淫魔君は何かに悩んでいるみたいで、しばらく考え込んでたんだけど、急に思い切った様に顔を上げると言った。

「わしな..ほんまはお前と別れてよその街に行く訳や無いんや。
 そんな事する位やったらここで暮らした方が便利やがな...。
 わし..魔界に帰らんとあかんのや...。”お方”はんから招集が掛かっとんねん。
 ...ほんでな..ホンマはわしらが出て行く時はお前らみんなの頭を壊さんとあかんのや...。
 そやけどわし....そないな事でけへんがな....。せめて記憶だけでも消して行こと思たんやけど...お前..その体で、一人で生きていかれへんやろ?
 女連中の記憶消してしもたらお前..一人ぼっちやがな。
 そんなお前一人残してわし...帰られへんがな...」

 僕は淫魔君の言った事をたぶん理解出来ていたと思う。でも不思議といつもの様に泣いたり落ち込んだりはしなかった。それは、春蘭さんと約束したから..とかじゃなくて、これ以上淫魔君を困らせたく無かったんだと思う。

「そう、そうだったんだ...淫魔君、僕の為に悩んでくれてたんだね。ありがとう。淫魔君、僕、それだけでも..嬉しいよ、とっても...。
 僕、たぶん...ううんきっと、大丈夫だよ..。
 淫魔君や..春蘭さんや、他の友達の事忘れちゃうのは寂しいけど.....あのとき..淫魔君と会う前の僕だって一人で生きて行くって決めてたんだよ。
 今は僕もずいぶん大きくなったから、絶対大丈夫....一人でやっていけるよ!きっと...」

 二人はずいぶん長い間黙ってたけど、お互いの気持ちは充分に分かり合えてた。






 その日の夜、僕は小さなアパートの一室の前で車椅子に座り、じっと自分の足を見つめていた。

「ほんまにここでええんやな?」

「うん、淫魔君今まで本当にありがとう!体に気を付けてね」

「あほ!それはこっちのセリフやわい!そんな体しとってわしの心配するヒマ無いっちゅうねん!」

「あはは、そうだったね」

「ほしたら.....ええか?」

「あ!あの、あのね淫魔君...?」

「なんや?」

「僕達...トモダチ..だったんだよね....」

「...あ、あ、あた、あた、当たり前やないかい!わしら二人が友達やのうて何が友達やねん!お前はわしの、最初で最後の..一人だけの..トモダチや!」

「うん!」

 二人は強く抱き合い、お互いの視線で決意を交わす。



 しばらく目をつぶって、いろんな事を考えたり思い出したりした後、僕は目の前の呼鈴に目を向けると、震える指でボタンを押した。
 

 ピーンポーン

「はあい」

 ぱたぱたとスリッパが床をはたく音がして、やがて扉が僅かに開いた。

「どなたですか?」

 返事をしない車椅子の少年をいぶかしく思いながらもその女性はゆっくりと扉を開け、顔を覗き込む。

 するとその少年に、あどけない子供の様な笑顔が広がり、無邪気な口調でその女性に言った。

「あれえ、瞳さん!どうしてこんな所に居るの?僕、どうしちゃったんだろう?」

 驚き、立ち竦み、やがて涙を流しながらその女性が少年を抱き締めるのを確かめたかのように、一つの影が地面に吸い込まれ、消えていった。

 
 
< 第二部 完 >


 

 

戻る