いつかみた、あの夏へ

原作:Panyan


 

 

第03話:冬の一日


−1−


 日曜日。洋介と夕菜は街を歩いていた。
 最近話題になっている映画に始まり、ウィンドウショッピング。二人はペットショップやファンシーショップ。ファッションショップなどの集まる商店街を練り歩く。
 洋介はそんな夕菜の楽しそうな顔に嬉しそうに顔を綻ばせた。
 あれがいいこれがいいと批評家にでもなった気分で話し合いながら商店街を見て回った。

「わぁ・・・・」

 棚に飾られた小物や雑貨を見て、夕菜は目を輝かせた。
 そこは商店街の一角にこっそりとある雑貨屋だった。
 個人営業なのでそれほど広くはない店内には、様々なアイディアでいろいろな雑貨が並べられている。
 その中の一つが奏でているのか、店内にはゆっくりとしたオルゴールの音が響き、ゆったりとした空間を演出していた。

「凄い・・・・」

 夕菜は一つ一つの雑貨を手に取り、その見事な作りに感動している。それに倣い、洋介もその辺りの棚の上の小物を見ていく。
 確かに凄いと洋介は思った。
 箱の中から飛び出してくるびっくり箱風味、紐を引っ張ると上からかたんと落ちてくる棚、壁を押すと、そこの壁が引き出しのようにスライドしてくる等。
 小物という、男性よりも女性向けの商品でありながら、そのカラクリ屋敷さながらの店内は男性客の好奇心も満足させてくれる。
 次には何が出てくるのかという楽しみを抱き、洋介は店内を見渡していく。
 そして、夕菜の瞳が止まっている事に気がついた。

「夕菜?」
「洋介さん。これ・・・・」

 夕菜の指した先には一つの小箱があった。棚や小物の影に隠されるように置かれた小箱。蓋が開かれたその小箱の中には棘のついたロールがあり、それが鉄の棒を弾いている。
 その鉄の棒が弾かれた時に響く音が重なって、一つの曲を奏でていた。

「このオルゴール・・・さっきからかかってる曲はこれか」
「綺麗な音・・・とってもいい音・・・・」

 夕菜は静かに目を閉じて、そのオルゴールの音に聞いている。
 洋介もそれに倣い、静かに目を閉じた。
 店内に響き渡る静かな曲。ゆったりとして波のように、打ち寄せ引いていく。

「なんだろう・・・この曲・・・・聞いた事あるんだけどなぁ・・・・」

 洋介が呟く。昔、聞いた事あるように思えるが、思い出す事が出来ない。

「夕菜? これ、何て曲か分かる?」

 夕菜に問いかける洋介。しかし、夕菜はその問いに困った顔を以て答えた。

「・・・・ごめんなさい。私も分からないです」
「トロイメライですよ」

 そんな二人にすぐ隣から声がかけられた。
 洋介が振り向くと、そこには先程までレジにいた老婆の姿があった。
 その小さな体で洋介と夕菜を見上げ、じっと二人を見つめる。深い皺が刻まれたその顔は重ねてきた苦労が滲み出ていた。

「トロイメライ?」
「ええ、シューマン。お若い方はご存じないのかしら?」
「シューマン・・・聞いた事あります」

 聞き覚えのある作曲家の名前が出て、夕菜は老婆にほほえみかける。
 しかし、レジから別の客の声が聞こえてきた。 洋介がふとそっちを見るとレジの前で高校生と思われる少女達がこっちを見ていた。老婆はおやまあ、とレジへと戻っていく。そして、少女達の会計をすませた後、そのままレジに居続けた。
 そんな、老婆の姿に洋介はふうと息を吐く。
 唐突に話しかけられ、洋介は何て答えればいいのか分からなかった。

「シューマンねぇ」

 洋介はさっき出て来た作曲家の名前を呟く。
 洋介も名前くらいは聞いた事のある作曲家だが、音楽に興味のない洋介にはどんな作曲家だったのか分からない。
 そして、こんな風に隠すように商品を置いているのも理解出来なかった。

「何でこんな所に置いてあるのかな?」

 ぼそりと洋介はそんなことを言う。
 事実、その箱は意図して隠しているように置かれていた。
 壁際の棚。その中でも目線の高さに作られた引き出し付の棚の一番奥には大きめの小物が並んでいる。その中に僅かに開かれた谷間がある。
 その谷間にその箱は置かれていた。

「こんな風に置いてあるんじゃ売れないだろうに」
「でも、綺麗な音」

 ぼやくように言う言葉。それを否定するように夕菜はうっとりとして言う。その姿、その表情が洋介の目に焼き付いた。
 ふぅと息を吐く。
 夕菜のそんな表情を見れただけで、他のことはどうでもよくなった。

 ゆったりと高音で奏でるオルゴールの響き。
 その染みいるような音楽に夕菜と二人、聞き入っていた。










 その店で小物を買って、二人は店を出る。その時、既に街は姿を変えていた。
 明るかった太陽がビルの谷間に沈んで、夜の帳が街を覆っていく。それと共に街に灯が入り、街は昼間とは別の貌を見せていた。

「暗くなっちゃったね」

 洋介は夕菜に声をかける。
 互いを結びつける橙色のマフラー。きゅっと繋がれた手から動悸が伝わらないか心配する。

「そうですね・・・まだこんな時間なのに」

 手から伝わる感触に夕菜は洋介にすりより、寄りかかるようにして体を預けた。
 洋介の鼻腔に夕菜の香りが漂ってくる。柔らかいシャンプーの香りは洋介の気持ちを後押しした。
 ごくりと唾を飲み込んで、喉の奥から声を押し出した。

「あの・・さ・・・・ホテルにいかない?」

 緊張に言葉を途切れさせながら、ぼそりと洋介は言う。

「ご飯もどこかで食べてさ・・・・」

 その言葉に夕菜は困ったように顔をうつむける。それは嬉しい事、望んでいた事のはずなのに、夕菜の口からは全く別の言葉が出ていた。

「ごめんなさい・・・・私、今・・・その・・・・危ないの」
「あ・・・・・」

 その言葉に洋介はしまったと顔を固まらせる。
 そして、残念そうに顔をうつむけて、ぼそりと呟いた。

「そう・・・・それなら・・・・仕方ないね」
「そのかわり・・・・」

 そんな洋介を見て、夕菜は言葉を続ける。
 洋介の中で悲しみが驚きへと変わっていく。

「その代わりといっては何なんですが、家に来ませんか? 家でご飯を食べませんか?」

 そして、驚きが喜びへと変わった。
 どきどきと胸を鳴らしながら、夕菜は洋介の答を待つ。
 街の喧噪の中、二人の間に沈黙が降りる。

「うん」

 数秒の逡巡のあと、嬉しそうに洋介は頷いた。



−2−



 ガチャガチャと鍵を開ける音が響く。

「さあ、どうぞ」

 開かれたドアをくぐり、夕菜は洋介を促す。
 洋介も促されるまま夕菜の部屋へと入っていった。

「おじゃまします」

 がさがさとスーパーのビニール袋を両手に提げ、洋介はダイニングキッチンへと通っていく。
 これまでも何回かお邪魔したことのある部屋。ある程度勝手を知っているその部屋を歩き、手に持った荷物を冷蔵庫の前へと置いた。

「ここへおいとくよ?」

 一足先に奥へと言った夕菜に声をかける。
 はいという言葉がただ一つの部屋から聞こえた。
 数秒後、上着や荷物を置いた夕菜が部屋からダイニングキッチンへと来る。
 そして、壁に掛けてあるエプロンをキュッと装着すると、くすりと柔らかに微笑んだ。

「じゃあ、今からすぐに作りますので、ちょっと待っててくださいね?」

 そう言って、夕菜はがさごそとビニールの中を物色する。
 中身はここへ来る前に二人で買った食材だ。
 何が食べたい、これが食べたいと二人で会話しながら買った食材は、今使うものを除き、野菜や肉、飲み物や調味料などにわけられて、夕菜によって手際よく冷蔵庫へと入れられていく。
 そうして、食材を冷蔵庫の中へと入れてから、夕菜は改めて冷蔵庫の中を笑顔で見渡すとパタンと冷蔵庫の戸を閉じた。
 トントントントンという小気味いい音がキッチンに響き渡る。
 野菜などが刻まれる音、ジャッジャッと野菜や肉が炒められる盛大な音。漂ってくる醤油や味噌の匂いに食欲をかき立てられながら、洋介はぼうっと夕菜を見る。
 テキパキとキッチンを左右に動いていく夕菜。その動きに無駄は少なく、洗練されていた。

「ねえ、夕菜」
「はい?」

 洋介は夕菜に声をかける。洋介は暇をもてあましていた。
 夕菜はその声に振り向いて答える。
 洋介は椅子から立ち上がり、夕菜に言った。

「手伝おうか?」
「え、いいですよ。もう終わりますし」
「いや、暇で暇で。待ってるのも飽きちゃって。何か手伝わせてよ」

 その言葉に夕菜は困ったように眉根を寄せる。
 う〜んと悩んでいる夕菜の耳に速炊きにしておいた炊飯器の電子音が届いた。

「あ、ご飯が炊けたみたいなので、洋介さんはご飯をよそって下さい。それとお皿もお願いします。普通のお皿と小皿が二枚。そこの食器棚にありますから」

 夕菜の指示通りに食器棚から皿を出す洋介。それと茶碗を更に二つ出して、炊飯器から見事に炊けた白米を盛りつけた。
 それと共に夕菜の方も盛りつけが終わる。
 肉と野菜の炒め物と漬け物が食卓を彩る。最後にわかめと葱のみそ汁をよそり、洋介へと手渡した。
 そして、箸を二膳手に取り、片方を洋介に手渡すと、夕菜と洋介は向かい合うようにして食卓に座った。

「さあ、どうぞ。召し上がれ」

 夕菜は言う。その夕菜の言葉に洋介もコクンと頷いて、声を出した。

「いただきます」

 そうして、洋介の持った箸がおかずへと伸びていく。
 がしりと炒め物を箸でつまみ、口の中へと滑り込ませる。一口、また一口と噛みしめるたび、洋介の口の中に肉汁と醤油の混じった味が拡がっていった。
 その様を夕菜はジッと見つめていた。
 ゴクンと唾を飲み込む。洋介がどういう反応をとるか、夕菜はそれが気になって仕方なかった。

「うん、おいしい」

 もぐもぐと口の中に頬張ったまま洋介は笑う。
 その笑顔、その言葉に夕菜も嬉しそうに笑った。



−3−



「ふぅ・・・・・食べた食べた」

 洋介はぽんぽんとお腹を叩く。その隣では夕菜がくすくすと笑う。
 目の前には小さなテーブル。その上にはお茶の入った湯飲みが二つ置かれていた。

「洋介さん、あんなに慌てて食べるんですもの。誰もとりませんよ」
「いやあ、夕菜の作った料理が美味しくてね。つい・・・・」

 顔を紅くしながら洋介はぽりぽりと頭を掻く。その仕草に夕菜はくすりと笑った。

「時間があれば煮物も作れたんですけど、今日は唐突でしたから・・・」
「夕菜の作る煮物か・・・・・今日の炒め物も美味しかったけど、そっちも美味しそうだなぁ」

 ずずと湯飲みのお茶を飲んで、洋介は言う。

「食べてみたい。今度作ってくれる?」
「はい、じゃあ、今度」

 夕菜は心から嬉しそうな顔で笑った。




 夕菜はこてんと、洋介の肩に頭をのせる。
 洋介は何も言わず、夕菜に寄り添うように頭をのせた。
 若干の沈黙が二人の間に降りる。
 しかし、その沈黙は気まずい物ではなく、言葉を必要としないが故の沈黙だ。
 二人は互いを思い、互いの雰囲気、空気を受け入れている。
 言葉などなくても、二人は互いを感じられるし、信じられた。
 洋介は夕菜の髪をなでつける。
 夕菜は心地よさそうにその動きを受け入れた。
 ふうと夕菜の鼻から息が漏れる。
 ドクンドクンと二人の心臓が音を鳴らす。
 そっと、夕菜は洋介を見た。
 そして、すうと目を閉じ、顔を上げた。
 その仕草に答えるように洋介は唇を重ねる。ただ、重ねるだけのキス。そのキスは数秒間続き、ふっとどちらからともなく唇が離れた。

「ふふっ」
「ははっ」

 互いに顔を見合わせて、思わず笑う。
 そして、夕菜は気を取り直して声を出した。

「ねえ、洋介さん。アレをやってくれませんか?」

 その瞳には好奇心が混じり、楽しみにきらきらと輝いていた。

「アレって・・・・催眠術?」
「はい。だって、とても気持ちいいじゃないですか」

 洋介の問いに夕菜は嬉しそうに答える。
 今まで、催眠術と聞くと皆、胡散臭いような目で見られ、根暗だとバカにされていた洋介はそんな夕菜の答えに悪い気はしなかった。
 それでは、と洋介は夕菜と向かい合う。
 そして、夕菜の目線よりやや上に手をかざした。

「さあ、僕の手を見て。じーっと見ていると段々と指に吸い込まれるように目が引き寄せられていく。体中の力が抜けていく。ほら、段々と瞼が重くなってくる」

 矢継ぎ早に言葉を重ねる洋介。そんな洋介の言葉に従って、夕菜はジッと洋介の指を見る。

「じーっとみて、じーっと。ほら、段々と瞬きが多くなってきた。瞼が重くなってくる。瞳を開けていられない」

 言葉を重ねながら、洋介は徐々に手の高さを下げていく。それに併せて、夕菜の視線と瞼が下がっていく。

「そう、とても瞼が重い。目をかけていることが出来なくなってきた。目を開けているのはつらいですね。大丈夫、ちゃんと僕がついていますので、安心して目を閉じて下さい。目を閉じるとっても気持ちいいですよ」

 洋介は夕菜に見せている手を下まで下ろしきる。それだけで夕菜はトランス状態へと導かれていく。
 洋介はこれまでにも夕菜に催眠術をかけている。そんな洋介を驚かせたのは夕菜の被暗示性の高さだった。
 初めての施術で記憶操作ができるまで深く催眠にかかった夕菜はすぐにトランス状態へと落ちていく。
 そんな夕菜の手を取り、すっと洋介は手を重ねた。

「夕菜。気分を楽にして・・・・・この手には風船が括り付けられています。今から数を数えていくとその風船に空気が入り込んで段々と持ち上がっていきますよ」

 一つ、二つ、三つ・・・・・と洋介は数を数えていく。それに従って、夕菜の手は徐々に持ち上がっていった。
 数が大きくなる度に上へと上がっていく夕菜の手は、数が三十を超える頃には真上へと上っていた。

「ほら、腕が風船に引っ張られていく。ぐいぐいと風船が持ち上がってつらいですね。でも大丈夫、僕が手を叩くと風船の糸がぷつんと切れます。風船は何処かへ飛んでいってしまって、夕菜の手は解放される」

 そう言って、洋介はパンと手を叩く。
 その直後、糸が切れた操り人形のように重力に引かれて、夕菜の手がすとんと落ちた。
 今度は反対側の手を取り、同じように手を重ねる。

「こっちの手は重りになっていく。数を数えていく事にどんどんとこの腕全体が重くなって引っ張られていく」

 言いながら、洋介は周りの家具をどかし、夕菜の周りにぶつかるような物をなくした。

「さあ、僕が数を数えていくと腕が重くなっていく。そして夕菜は何も考えられないままどんどん沈んでいくよ。一、二、三、四・・・・・・」

 洋介が数を重ねていく程に夕菜の体が傾いていく。

「そう、どんどん重くなっていく。重くなって体を支えていられない。体が地面へと引っ張られていく。そして、体と同じように夕菜の心も引っ張られて沈んでいく。深く深く沈んでいく。そこはとても気持ちいいところ。沈んでいく度に夕菜は心地いい気分が拡がっていく」

 傾いていく夕菜の体。腕全体、肩まで重くなっていく夕菜の体はそのまま床の上へと崩れ落ちる。

「すうっと力が抜けて、頭の中が真っ白になっていく。全てがクリアに真っ白になって何も考えることが出来ない。何も考えることが出来ないから、もう、腕は重くないけど夕菜の体はそのままでいる。夕菜の意識は深い所へ沈みきる。さあ、そこはとても気持ちいい場所。とても気持ちよくて夕菜はどんなことでも受け入れてしまう」

 そう言って、洋介は夕菜を見る。
 安らかな寝顔。気持ちよさそうに目を閉じるその姿に洋介はドクンと胸が高鳴るのを感じた。
 ゴクンと唾を飲み込む。洋介の耳元で好きなようにしてしまえという声が囁いてくる。
 催眠術は相手を思い通りに出来るわけではない。それを理解していながらも欲望という名の悪魔の囁きが洋介の耳に届いてくる。
 ぎゅっと目を瞑り、洋介はその言葉を放り出すようにぶんぶんと頭を振る。パンパンと自分の顔を叩き、そんな邪な考えを振り払った。
 そして、改めて洋介は夕菜を見た。

「さあ、今から三つ数えると夕菜は目を覚ますことが出来る。目を開けて見ることも、言葉を喋ることも、何かを考えることも出来る。だけど、夕菜は深いところへ沈んだままで、僕が言ったことは必ずその通りになる。どんなことでも必ずそうなるよ。一つ、二つ、三つ、はい!」

 パンと勢いよく手を叩き、盛大な音を鳴らす。
 その音に夕菜はビクンと体を震わせた。
 ゆっくりと瞼が開き、夕菜の全身に力が入っていく。

「あ・・・・洋介さん・・・・」

 夕菜は倒れている自分の姿に気がついたのか、ゆっくりと起きあがる。そして、くすりと微笑みを浮かべた。

「終わりですか?」

 微かな笑みを貼り付けたまま夕菜は問う。それは何か残念そうな語調だった。
 その問いに洋介はふるふると首を振る。そして、夕菜の手を取ると自信たっぷりに宣言した。

「ほら、夕菜の手が段々と上に上がっていく。どんどん上に上がっていく。手が動いて頭の上へと載っていく」

 洋介の言葉に夕菜の手が持ち上がっていく。徐々に動いていく夕菜の手は洋介の言葉に従って頭の上に宛われた。
 それを確認すると、洋介は反対側の手も同じように言葉をかける。

「ほら、こっちの手も反対側と同じように頭の上へと載ってしまう。ほら、どんどん動いていく。どんどんどんどん上がっていく。そして、ほら、手が夕菜の頭にくっついた。僕がいいって言うまで外すことが出来ないよ」

 洋介の言葉に絡め取られ、夕菜の腕は固まる。外そうとしても外れないのを確認すると、洋介はぐるりと部屋を見渡して、一つのぬいぐるみに目をつけた。
 全長五十センチはあろう言う大きめのぬいぐるみ。熊を可愛らしく象ったそのぬいぐるみを引き寄せ、夕菜の目の前へと配置する。

「さあ、夕菜よく見て。夕菜の感覚はこの子に移る。このぬいぐるみが触られれば夕菜もその場所が触られているように感じるよ」

 そう言って、洋介はそのぬいぐるみの足の裏へと指を伸ばす。そして、夕菜に見せつけるようにぬいぐるみの足の裏に指を滑らせた。
 その指の動きに併せてビクンと、夕菜の体が震える。

「っ! ちょっ、やっ、っ、くすっぐったいっ、やめてっ」

 足の裏から伝わってくる感覚。その感覚から逃れようと夕菜は体を捩るが、伝わってくる感覚は一向に途切れることはない。

「あはっ、だめっ、くすぐっ、たいぃっ・・・やっ、めぇっ」

 ビクッ、ビクッと震えながら夕菜は体を悶えさせていく。
 そんな夕菜の姿に洋介は調子に乗り、更に指を動かしていく。

「あははっ、おなっ、お腹っ、お腹痛いぃ・・・あはっ、やめてぇっ」

 伝わってくるくすぐったさに夕菜は体を仰け反らせる。両手を頭の上にくっつけられている夕菜はろくに受け身もとれずに背中から床へと倒れ込んだ。
 どすっという音と共に夕菜の肺から息が漏れる。それを見て洋介は慌ててぬいぐるみから手を放した。

「夕菜、大丈夫?」
「だいっじょう・・・ぶ・・・・・はぁ・・・はぁ・・・・・」

 その問いに辛うじて答える夕菜。背中を打ち付けたことよりも笑いすぎに疲れているようだった。

「さあ、じゃあ、もう夕菜の手は頭から離れるよ。感覚もぬいぐるみから夕菜へと戻る。だから、ぬいぐるみが触られているのを見ても夕菜は何も感じないよ。ほら」

 そう言って、夕菜の目の前で手を動かす。特に重要というわけではないが、その仕草により夕菜は区切りを解釈する。
 手が自由になり、体を起こした夕菜の目の前に再び洋介の手がかざされていた。

「今から三つ数えると夕菜はとても面白くなる。僕のどんな仕草を見ても、笑いが込み上げてきて、笑うのをやめることは出来ない。夕菜は僕がいいと言うまで、僕の動きに笑ってしまう」

 そう言って、洋介は三つ数えた。
 パンという手を叩く音。その音と共に夕菜の中に僅かな楔が差し込まれた。
 大きく見開かれる夕菜の瞳は、どんな仕草も見逃さないようにとジッと洋介を見る。
 その期待に応えるように、洋介は体を動かした。
 ぐいっぐいっと上半身を捻る。固まった筋肉がほぐれていくのを洋介は感じた。

「・・・ぷっ、ふふふっ・・・・ふふっ」

 なぜか、それを見て夕菜は笑う。口元を抑えて込み上げてくる笑いを僅かに漏らす。
 洋介を見ていると夕菜の中から次々に笑いが込み上げてくる。それは際限がなく、洋介がどんな行動をとっても、夕菜は面白くて仕方がなかった。

「ふふっ・・・あははっ・・・・やだぁ・・・・やめてぇ・・・・・」

 力瘤を作ったり、自分の耳を引っ張ったり、夕菜の目の前で指をくるくると回したり、洋介はいろいろなポーズをとっていく。
 夕菜はそんな洋介を見て、何故か込み上げてくる笑いを抑えることが出来ない。

「ふふふふふふっ・・・・・だめ・・・・やめ・・・・・ふふふふふふっ」

 次から次へと込み上げてくる笑い。
 それを何度も漏らしながらも、夕菜は必死に笑いを抑えようとする。

「ほら、指を鳴らすと、もっともっとおかしくなってくる。面白くて、面白くて、笑うのをやめることが出来ない」

 パチンと指が鳴らされる。瞬間、夕菜の口から漏れる笑い声が大きくなった。
 洋介は特に意味もなく指を動かしたり手をひらひらとさせる。
 それを見て、抑えることの出来ない笑いが夕菜の中から込み上げる。

「あははははっ、やぁっ、お腹痛いぃっ、あはははっ、やめっ、あははっ、やめてぇっははははっ」

 お腹を押さえて、肩を震わせる。閉じられた瞳の箸からは僅かに涙が零れ、開かれた口からは際限なく笑い声が溢れていく。
 体を捩り、くの字へと曲げていく。笑い続け、呼吸が苦しくなってきた夕菜の体はビクッビクッと痙攣をし始めた。

「あはははは、だめぇ、あはっ、わ、笑い死んじゃうっ、あははっ、もう、あははっ、やめてぇっ」

 睫毛と言わず、体中をフルフルと震わせて夕菜は懇願する。流石にそろそろ悪い気がしてきた洋介はその暗示を解く。

「はい、もういいよ。だいじょうぶ、夕菜は元に戻った」

 パンという小気味のいい音。
 その音とその声に夕菜の体が最後にビクンと震えた。

「はぁ・・・・・・はぁ・・・・・・・はぁ・・・・・・」

 夕菜は笑いによって押し出された酸素を精一杯取り込んでいく。
 大きく肩を動かし、全身で呼吸をした。

「大丈夫?」

 ぜいぜいと呼吸を荒くする夕菜を心配し、洋介は声をかける。そんな洋介を見て、夕菜は苦笑した。

「大丈夫・・・じゃ・・・・ないですよぉ・・・・確かに・・・・かけて欲しいって言ったのは私ですけど・・・・疲れましたぁ」
「ご、ごめんっ。夕菜につらい思いをさせるつもりなんてなかったんだよ」

 慌てて、謝ってくる洋介に夕菜はふるふると首を振る。

「いいえ・・・・洋介さんが謝る必要なんて・・・・ないです」
「でも、夕菜は僕の催眠術のせいで・・・・・」
「だから、私が洋介さんに頼んだんですから」

 洋介は夕菜のために、夕菜は洋介のために互いを庇いあっていく。

「いや、僕が」
「私が」
「僕が」
「私が」
「僕が」

 何回も同じ言葉を繰り返す。
 それが五回を数えた頃、二人は自分たちの行動に気がついた。

「ぷっ」
「ふふっ」

 はたと目を合わせ、二人は同時に吹き出した。
 そして、一頻り笑った後、二人は笑みを浮かべたまま、互いを見つめ合った。

「じゃあ、両方悪いと言うことで」
「はい。それで」

 笑いながら提案する洋介。その提案を夕菜も笑いながら受け入れた。

「っと、もうこんな時間だ。僕はもう帰るよ」
「あ、はい」

 時計を見て洋介は腰を上げる。
 つられて腰を上げ書ける夕菜を見て、洋介はあることを思い出した。
 途中まで上がった腰を止め、夕菜に向き合う。

「夕菜、今から三つ数えると夕菜はさっぱりと目が覚める。さっき僕がかけた催眠は全部解ける。頭もすっきりとするよ」

 そう言って、洋介は三つ数えた。
 パンとならされる手の音。
 夕菜がそれを受け入れたのを確認してから、洋介は今度こそ腰を上げた。
 夕菜もそれに従い、二人で玄関まで歩いていく。

「それじゃ、夕菜。風邪なんかひかないようにね」
「はい、洋介さんも気をつけて下さいね」

 軽くキスをして、洋介は部屋を出た。
 パタンと閉じられたドアを前に夕菜は数秒、洋介のことを想っていた。
 ぼうっとしたまま鍵を閉じ、ドアチェーンをかける。そして、ふらふらと部屋へ戻る前に流しに入れられている食器が夕菜の目に入った。

「あ、洗い物しなきゃ・・・」

 そう呟いて、夕菜は洗い物を始める。その間、夕菜はご飯を食べていた時の洋介の顔を思い浮かべていた。

(美味しいって言ってもらえて嬉しかった。やっぱり好きな人に喜んでもらえるってのはいいよね。えっちもいいけど、こういうのもやっぱり悪くないよね)

 そんなことを思って、夕菜は自分が考えたことに気づく。

(な、何言ってるのよ私!? えっちがいいなんてっ。私がこんな恥ずかしいことを考えてるなんて、洋介さんには絶対に知られないようにしなきゃ・・・・・)

 一人、身を捩らせながら、夕菜は洗い物を続ける。
 そして、ふと、あることに気がついた。

(そういえば・・・・・私・・・・・なんで危険日だなんて言っちゃったんだろう? もう一週間前には終わってるのに)

 ふと出た疑問。しかし、夕菜はその疑問の答を持っていなかった。
 不意に流行の曲が流れ出す。それは夕菜の携帯電話だった。

「あ、電話。洋介さんかな?」

 蛇口をひねり、タオルで手を拭く。そして、歌が流れ続けている携帯電話をとった。

「あ・・・・・・!」

 液晶部分に表示された相手の名前。それを見た夕菜の顔に喜びが走る。
 一にも二にもなく、夕菜は電話に出た。

「もしもし、統一郎さんですかっ?」
『もしもし、峰崎さん。こんばんわ』

 夕菜の耳に当てられたスピーカー部分から、剣統一郎の声が響いてきた。

 
 


 

 

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