お嬢様は魔女


 

 

第十話


翼の行方




 「ふんふんふ〜ん♪」

 澄さんの運転で買い出しに出かけたその帰り。ライトバンの助手席に陣取った私はいつになく上機嫌であった。

 それもそのはず、明日はお嬢様の誕生日なのだ。

 毎年恒例になっているホームパーティーを催すため、澄さんと私で物資の調達に赴いたという訳。

 しかも、である。今年はどうやらありさ様の『順番』になりそうな雲行きなのだ。
 こんな幸運は数年前に一度あったきり。普段ありさ様がお見えになるタイミングを考えても、たぐいまれな偶然と言わなければなるまい。

 いつもクールなありさ様が、どのような反応をお見せになるか。
 メイドの皆に囲まれてやや困惑気味な表情を浮かべながらも、祝福の言葉を受けてちょっと照れの混じった微笑をのぞかせたりなさろうものなら、これはもうたまらないというものである。

 きたるべきお誕生会の情景を思い浮かべると、自然と口元が緩んできてしまう。

 いやぁ、鼻歌でも歌いたいような気分とはまさにこのこと。(実際に歌ってるけど)

 もちろんパーティーの支度ともなれば、これはなかなかの難事業。身内の者だけとはいえ、20人を超える大所帯、お料理の準備ひとつとっても相当な大仕事となる。
 他にもお嬢様のお召し物の用意、お部屋の飾り付け、それから余興の仕込みやらなにやら、私自身がやることも誰かに頼んでおかなければいけない作業も、まさに山のように積み上げられていると言っても過言ではない。

 それからもちろん、お誕生日ケーキ。街のお菓子屋さんで特注ケーキを予約……というのも捨てがたいところだけれど、今年は思い切って手作りでいこう、ということになっている。
 担当は私たちの中でも一番の料理上手と噂の胡桃ちゃん。腕によりを掛けて美味しいケーキを焼いてくれるということで、どんな具合に仕上がるか今から楽しみ。

 あぁ忙しい。でも楽しい。

 窓の外を眺めると、休耕中の畑が広がる向こう側、海沿いの崖の上をゆるやかに舞うカモメの群れが目に入る。

「ふんふん、ふふ〜ん♪」

 冬らしく灰色に沈んだ曇り空もなんのその。私もあのカモメたちに混じって、ひとつ空でも飛んでやろうかというような心持ちでありますよ。

「はぁ……そんなに嬉しいのかねぇ」

 一人浮かれていた私であったが、運転手の澄さんはそれとは正反対の浮かない顔。

「またまた、澄さんたらぁ。これが喜ばずにいられますかぁ」

 私は変な抑揚をつけながらそんなことを言うと、手をパタパタと振りながら澄さんの横顔をのぞき込んだ。

 今日の澄さんは動きやすいパンツルック。長い髪も縛ってポニーテールにまとめている。ちょっぴり耳にかかったおくれ毛がなんだか色っぽい。
 セーターを着込んで厚着をしてはいるものの、さすがと言うべきか、出るべきところはしっかりと出ており、メリハリのついた魅惑のボディーラインは隠すべくもない。

「そうねぇ……」

 気のない風でつぶやく澄さん。

 たしかにこの一大イベント、メイド長としては責任重大である。万一、お嬢様のご機嫌を損ねでもしたら……。そんな風に考えたら、少々不安になってしまうのも分からないでもないのですけれど。それにしたって、なんだか深刻すぎるような気がする。
 元来単純な性格のこのお方、おめでたいことがあれば素直に喜ぶのが本来のところで、誕生日ともなればなおさらのこと、心からお祝いの言葉を投げかけ、当の本人よりも嬉しそうに笑顔を浮かべている……といったところが相場なのだが。
 仕事仲間であり部下でもある私たちメイド全員の誕生日を覚えてくれているあたりからも、その人の良さがうかがえよう。

 今日だって冗談の一つも飛ばしながら運転しているうちに気分も高揚、スピードの出し過ぎに私の方が注意していなければならない……というような成り行きを想定していたのですけれど。

 ま、誰しも心踊らぬ日というのはあるものですよね。

「ふ〜ん、ふんふふ〜ん♪」

 そんなあたりさわりのない結論を出した私は、田舎道を走るライトバンに揺られながら鼻歌を再開したのだった。



 お屋敷について買い物袋の山を片付けると、私は一旦自室に戻ってさっさと仕事着――いつものエプロンドレス――に着替えてしまった。

 胡桃ちゃんは部屋に居ないので、お仕事の途中なのであろう。例によってありさ様のチェスのお相手かもしれない。

 さて、と。休憩などしている暇はない。まだまだお仕事は山積みなのだ。手始めにお嬢様のお部屋を念入りにお掃除するところからかしら。

 そこまで考えたところで、私はあることを思い出した。

 ……おっと、いけない。忘れるところだった。

 部屋に運んできた買い物袋の一つから、それを取り出す。

 むふ。手にとって思わずにやけてしまう。

 それはちょうど手のひらに収まるくらいのサイズの手鏡だった。深紅の縁取りに、裏面には花柄を彫り込んだ品の良いデザイン。初めて見かけた時から気に入って、前々からお嬢様の誕生日プレゼントにと目をつけていたのだ。
 これならありさ様に喜んで頂けるに違いない。私は鏡に映った自分の顔をのぞき込みながら思った。

 そして……ひょっとして、多分、もしかしたら……お礼の言葉を頂けるかも?

 そう……なにを隠そう、私はありさ様にお礼を言われたことが一度もないのだ。生まれてこの方ずっとお仕えしているにもかかわらず、である。
 ありさ様のプライドの高さ故か、はたまたメイドはメイドなりの身分をわきまえるべきというお考えのためか(メイドが主人に仕えるのは当然のことであって、謝礼に値する行為ではない)、ともかく『お礼』に関しては言葉にして伝えられた、という経験がないのだ。

 もちろん、感謝の意図を『感じる』ことはある。たとえ口には出さずとも、そういった念というものはそれとない口調や仕草から察することができるもので、ありさ様が私たちのご奉仕に対して冷淡であるとか、下々の者の献身に何も感ずるところのない高慢な性格でおられるとか、そういうことでは決してないのだ。事実、私たちの仕事ぶりが良ければ(まれにではあるが)褒めてくださることだってあるのだから。

 ただ、お礼の言葉を述べることをなさらない、というだけの話。

 でも……たとえありさ様が色々な手段で感謝の気持ちを表現されたとしても、それは結局、とらえどころのないフワフワした『何か』でしかなくって、形があり現実感をもったお礼の『言葉』とはちょっと違う……と私は思うのだ。

「ありがとう」

 鏡の中の自分に向かって、そっと囁いてみる。

 ただひとこと、ありさ様がそう言ってくださったなら、その時は――。

 その時は私、感激のあまり涙を流してしまうかもしれない。

 なにを大げさな、ですって? いえいえ、本気も本気、これ以上ないくらいに本気ですよ、私は。

 ん……一緒に買ってきた包装紙とリボンは……厨房の方かしら? お掃除に取りかかる前にそちらに寄らないと。手鏡を大事にポケットにしまいこむと、私は自室を出た。



☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 最初に違和感を覚えたのは、部屋のドアを閉めたその瞬間だったと思う。

 なんとはなしに『静かすぎるな』という考えが頭をかすめたのだ。

 ――静かだった。

 明日の準備に加えて日々のお勤めもあることを考えれば、お屋敷中がごったがえしているはずなのに。人の話し声も聞こえず、何の物音もしないのはどういうわけだろう。

 まるで波立つということを知らない湖面のように、なめらかで均質な静寂がどこまでも広がっている。

 ぞくり、と冷たいものが背筋を撫ぜた。

 すぐさま目的地を変更し、急ぎ足でお嬢様のお部屋の前までたどり着いた時には、違和感は胸騒ぎに変わっていた。

 静かすぎる。どう考えても。おかしい、おかしい、おかしい。

 コンコン……。

 ノックの音がむなしい。応える相手の居ないことが最初から分かっているみたいだった。返事はない。

 もどかしさのあまり入室を断る言葉を掛けることもせず、ドアを開けた。

 お部屋の中はいつも通りだった。けれど、寒い。まるで屋外のような鋭い冬の冷気が充満していた。見ると大窓が開きっぱなしになっている……。

 と、人影があった。中央に据えられた丸テーブル。その椅子に座ってうなだれているのはメイドの一人だろうか。
 駆け寄った私は、我が相棒、胡桃ちゃんがスヤスヤと寝息を立てているのに気づく。

「胡桃ちゃん、胡桃ちゃん……?」

 肩を揺さぶる。呼びかける自分の声が、今にも泣き出しそうなほど情けない響きを帯びている。

 どういうわけか胡桃ちゃんは目を覚まさない。

 頬に触れてみて、その肌がぬくもりを失っていないことにホッとする。ただ眠っているだけのようだ。

 私は急いで大窓を閉めると、脱力しきった胡桃ちゃんの身体を抱きかかえ、苦労してカウチまで運ぶと、そっと寝かせてあげる。これで暖房が効いてくれば風邪を引いたりはしなくて済むはず。

 ふと胡桃ちゃんが座っていた丸テーブルの上を見ると、いつものチェス・ボードが置かれている。盤上にはまだいくらか駒が残っていた。ということはやはり、ありさ様と一局、勝負の途中だったのだろう。

 途中……つまり差し掛け、ということだ。

 その一事だけとってみても異様だった。ありさ様は勝負を途中で投げ出すなんて、そんなことは決してなさらないお方なのだから。

 一体何があったの? 何が起きているの? そして、ありさ様はどこに?

 あぁ、お嬢様のお顔が見たい。元気でいるお姿を拝見したい。お叱りの言葉でも何でもいい、そのお声を耳に入れたい……。

 胸を締め付けるような不安に耐えながら、私は祈るような気持ちでお嬢様の部屋を後にした。



 お屋敷中が、静けさに支配されている。胡桃ちゃん以外には人っ子一人姿を見かけない。みんな一体どこに居るのだろう……。
 そう考えながら足早に階段を下りかけたところで、人の話し声が聞こえた。耳をそばだてた私は、迷わずそちらへと向かう。

 話し声、というよりは口論、と言った方が良かったかもしれない。厨房の前で、澄さんと栞ちゃんが何やら言い争っていたのだ。

「聞いてない…アタシは……!」

 怒っているというか動揺しているというか、いつになく神経質そうな口調の澄さんが栞ちゃんを問いつめている。

「だからそれは……」

 栞ちゃんも困惑を隠せない表情で、なにやら言い訳らしいことを歯切れ悪く口にしていた。

 成り行きを見守っていた私だったが、ついに澄さんが栞ちゃんに詰め寄り、襟首を乱暴に掴み挙げるに及んで、あわてて止めに入った。

「や、やめてください! どうしたんですか、二人ともっ!」

 澄さんの肩にすがりつくが、身長差だけでなく筋力も違いすぎる。とても力ずくというわけにはいかない。

 激高してキッと振り返った澄さんの顔に浮かんでいるのは、心の底から出た怒りの表情だった。思わずビクリとしてしまうが、今にも泣きだしそうな私の顔を目にしたせいであろう、ようやく栞ちゃんの首を締め付ける手を放してくれる。

 よろよろと壁に寄りかかり、ケホケホと咳き込みながら、絞り出すようにして栞ちゃんが言った。

「ボ、ボクだってやりたかないですよっ、こんな憎まれ役!」

 いつも冷静な栞ちゃんにしては不自然なほどの早口だった。顔も紅潮しており、ズレてしまった眼鏡を直そうともしない。
 ハアハアと息を荒げる栞ちゃんと、厳しい視線で睨み付ける澄さん。気まずい沈黙が下りた。

「……これは、栞ちゃんがやったことなの?」

 責めるような響きが混じらないよう気をつけながら、つとめて静かな口調で問いかける。

「……半分は……そうです。
 でも……誓って言いますけど……みんなに危害を加えるようなことはしてませんよ。
 ただ眠ってるだけです、みんな」

 ようやく眼鏡を直した栞ちゃんは、まっすぐに私の視線を受け止めながらそう答えた。やや平静を取り戻してくれたみたいだった。

「お嬢様は、どうしたの?」

 けれどその問いを聞くと、栞ちゃんはさっと目をそらしてしまう。

「だからやりたくないって……」

「……っ! お前なぁ!」

 澄さんが声を荒げる。

「仕方……ないじゃないですかっ。
 澄さんだって知ってるでしょ! ボクは本来、本家の側の人間なんですよ!
 つかさ…様には絶対に逆らえないんですからっ」

 吐き捨てるようにしてそう口にした栞ちゃんは本当に辛そうで、たとえ責任の一端が彼女にあるとしても、とてもそれを責める気にはなれなかった。

「お、おい……菜々!?」

 背にかけられた澄さんの声をほとんど意識することなく、私は無言で駆けだしていた。



 お嬢様がどこにおられるのか、それは分かっている。つかさ様のお屋敷に向かわれたのだ。それは栞ちゃんの言葉からも推量できたが、それ以上に私の直感がそう告げている。

 それも、無理矢理連れて行かれた、とかそういったことではない気がする。確証があるわけではないが、ご自分の意志でそうなさったのではないだろうか。ありさ様が本気で抵抗なさったとしたら、もっとなにか、とてつもない事態になっていそうな気がするのだ。つかさ様はおそらく、それをお手伝いするようにと栞ちゃんに指示を出されたというだけ。

 でも……だとしたら、何故澄さんや私に一言も断りなくそんなことをなさったのか。やりきれない気持ちが胸一杯に広がっていく。

 そうなさる訳はただ一つ、私たちに決して言うことの出来ない理由があるから、ではないか。

 本家の魔女であるつかさ様に対して、お嬢様が一定の距離を置いているのにはそれなりの理由がある。気軽に遊びにいくといった間柄ではないのだ。
 それがお屋敷の者には秘密にしたまま、わざわざ自分から赴くような理由。それは一体何なのだろう……?

 さきほどからずっと感じていた胸騒ぎが、いよいよ切実さを増して迫ってくる。

 ガレージに駆け込んだ私は、焦りと混乱で完全に気が動転していた。

 つかさ様のお屋敷までの道は知っている。自動車の運転はできないけれど、スクーターくらいなら……そういう考えだった。

 シャッターの脇にある開閉スイッチを押す。のろのろと上がっていくそのスピードにいらだちが募った。床とシャッターの隙間から、ひときわ冷たい風が吹き込んでくる。

 そして――私は呆然と空を見上げた。

 雨が降っていた。季節はずれの冷たい雨が。

 無数の細い線が、のどかなはずの田舎の情景を陰鬱な灰色に染め上げている。その雨粒のヴェールは、まるでお嬢様の下へと続く道を閉ざそうとしているかのように私には思われた。

 けれど、そんなものに負けてはいられない。びしょ濡れになるくらい、なんだというのか。

 壁際に掛けてあるキーをひったくると、慣れないスクーターに苦戦しながらもなんとか出口まで引きずっていき、座席に座ってエンジンをかけスロットルを全開に……

 ……して飛び出した、と思った次の瞬間には、悲鳴を上げる間もなく私は転んでしまっていた。スクーターから放り出されて、身体が地面に叩きつけられる。

「イタ……」

 そう口にしたけれど、本当は痛みなんて感じていなかった。そんな暇なんてない。さしてスピードが出ていたわけではなし、たとえ怪我をしていたって大したことはないはず。

 次は、次はちゃんと……。

 雨に打たれながらフラフラと立ち上がり、車輪を空回りさせているスクーターを起こそうとした私の腕を、がし、と誰かが掴んだ。

「バカ! 何やってんだ!」

 耳元で声がする。

「澄さん? だってお嬢様が……」

 ぼんやりと何かを口にしたけれど、自分の言葉にまるで現実感が感じられなかった。

「分かった、分かったよ……」

 私の肩を抱きしめて、かすれた声で澄さんがそんなことを言った。

 なんで澄さんが辛そうにしてるんだろう? それが不思議でならなかった。



☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 結局、澄さんがライトバンを運転して、私はその助手席に座っていた。

 買い出しに出かけた時と何も変わらない。それなのに車内の空気はしびれを感じるほどに冷え切っていた。つい半時間ほど前、同じ車に乗っていたとは思えない。

 まるで氷河の底で永い間眠っていた化石のような気分。細かな雨粒がフロントガラスに当たってしぶきをまき散らすたびに、見えない冷気の波が押し寄せてくるみたいだった。

 セーターを羽織った澄さんの肩が時折、寒気に震えるのが分かる。けれど私の方は寒さを気にかける余裕すらなかった。私の頭にあるのはお嬢様のこと、ただそれだけだった。

 無言のままの二人を乗せて、バンは雨空の下を走っていく。



 つかさ様のお屋敷に着いた頃には、雨も本降りになっていた。雨具も持たずに来た私たちは、車を降りてから玄関先にたどり着くまでにすっかり濡れ鼠になってしまった。

 呼び鈴を何度か鳴らすと、古びた黒塗りのドアがギギギ……ときしんだ音を立て、ほんのわずかだけ開かれる。その隙間から顔を覗かせたのは、いつだったか私がつかさ様に招かれた時にも玄関で顔を合わせたメイドさんだった。

「何かご用でしょうか?」

 冷たい声だった。降りすさぶ雨に負けず劣らず。凍えそうな格好の二人を目の前にして、不審者をかたくなに拒む門番のような態度。招かれざる客、という言葉が脳裏に浮かんだ。

 私たちが来て都合が悪いということは、しかし――逆に考えればお嬢様がここに居ることの証明なのではないだろうか? 私は一縷の望みが繋がったような思いだった。

 けれど、一体何と言えばお屋敷に入れてもらえるのだろう? そして、お嬢様に会わせて頂けるのだろう? 見当もつかなかった。

「あ、あの……」

 それでも何か言わなければ、と思って口を開いた私を澄さんが遮った。

「菜々、お前は待ってろ」

 私を下がらせた澄さんはお屋敷のメイドさんとなにやら小声で会話をしていたが、そのうちメイドさんはお屋敷の誰かに話を取り次ぎにやったようで、私たちはしばらくの間待たされ、それから……ようやくにして重い扉が開かれたのだった。

「お入りください」

 雨音にかき消されない程度の小さな声で、メイドさんが冷ややかに言った。



 前回私が訪れた時に通された部屋とは違う、小ぶりな応接間に案内された私たちは、渡されたタオルで濡れそぼった髪や身体を拭いていた。

 お屋敷のメイドさんたちの応対は、丁寧だが暖かみの感じられないものだった。でも、それは仕方のないことだと思う。暖房の効いた部屋で落ち着くことができるだけでもありがたかった。

「菜々……大丈夫か?」

 澄さんが心配そうに声をかけてくれるので、私は無言でコクンとうなずく。

 さっき転んだ拍子に怪我をしたかと思ったけれど、右膝を少し打ってしまった他は、手をちょっとすりむいたくらいで、応急具を借りて自分で手当できる程度だった。それよりもスカートの膝元がちょっと破れてしまったのが、なんだかとても悲しいことのように思われてならなかった。

 澄さんはそわそわとして落ち着かない。けれど私の方は、もう焦りの気持ちすら通り越してしまっていたのだと思う。
 うつむいたまま、テーブルの上に置かれた紅茶のカップから湯気が上がるのをじっと見つめていた。口に含んではいないけれど、美しい色合いと独特の香りから茶葉はウヴァだと見当がつく。きっと美味しいのだろう。無感動にそう思った。

 ガチャリ、と音を立てて扉が開いた。

 澄さんがさっとソファーから立ち上がるが、現れたのはお嬢様でもつかさ様でもなく、お屋敷のメイドさんの一人だった。

「あいにくですが、つかさ様はご多忙でして……」

 なにかを拒絶するような言い回し。言外に『お引き取りください』といった意味のことを伝えようとしているのは明らかだった。

「うちのお嬢様が来ているはずだけれど?」

 それを無視して、澄さんが鋭く詰問する。

「お見えになっていませんわ」

「嘘をつくなッ!」

 にべもない返事に、澄さんが激高した。鼓膜がひりつくような激しい一喝だったが、相手のメイドさんにいささかも動じたそぶりはない。

「…………」

 答えないメイドさんに向かって、澄さんがずかずかと詰め寄る。一触即発の気配にあわてて立ち上がり、澄さんを止めようとする私。
 しかし、澄さんはメイドさんの手前でぴたりと歩みを止めた。私はとん、と澄さんの背中にぶつかってしまう。

「乱暴をなさるようなら、わたくしどもにも考えがありますわ」

 きっぱりと言い切ったメイドさんに緊張の色はなかった。

 いつの間にか、何人かのメイドさんが部屋に入ってきている。三人……いや四人? わずかの間に私と澄さんはすっかり囲まれてしまっていたのだ。

「上等だ」

 低い声で言うと、澄さんがすっと構えを取った。頭の位置がわずかばかり下がる。重心を落としたのだ。

「え……? えぇっ!?」

 あまりに急な展開についていけず、緊張だけが先走った私は、もうガチガチに固まってしまった。澄さんとは違って私には拳法の心得などないし、ケンカなんてしたこともないのだ。とても役には立ちそうもなかった。
 一応の対応として澄さんと背中を合わせ、目の前に立っているメイドさんを精一杯厳しい(と自分では思っている)視線で睨み付ける。

「わ、わ、わ、私も頑張ります……」

 互いの実力を推し量っているのだろう、しばらくは膠着状態が続いていた。部屋中にピリピリとした空気が充満し、ぶつかり合う視線が散らす火花さえ目に見えるようだった。
 そして、この異常なまでの緊張感に最初に耐えきれなくなったのは……情けないことに、他ならぬこの私だった。

「えーい!」

 かけ声をかけてがむしゃらに前に飛び出した。飛びかかって押し倒してしまえば、一人くらい数減らしができるだろう、という考えだったのだが……。

 目の前のメイドさんの姿が、ふっとかき消えた、と思った次の瞬間、私は足下に軽い衝撃を感じ、あっという間に天地がひっくり返るのを目の当たりにしていた。

「ひゃっ!」

 悲鳴を上げるのと、鋭い足払いを受けたのだ、というのを理解するのがほぼ同時で、さらにその直後、私の身体は(私の目の前に居たのとは別の)メイドさんに、ふわり、と優しく抱きかかえられていた。

 私と大して身長も変わらないであろう、ほっそりとした身体のどこにそんな力があるのだろうか。彼女は私を抱いたまま軽々と運ぶとソファーにそっと下ろしてくれる。

「あなたはこちらに。危ないですから」

 ニコッ、と屈託のない笑みが浮かんだ。

「は、はい……」

 なぜかポッと頬を染めてしまう私。

 このことは澄さんも折り込み済みのようで、こちらに視線を向けることすらせず、目の前のメイドさんと対峙している。
 ……というより、もしかして両者とも私が脱落するのを待っていたのではないだろうか。乱戦になったら素人の私が怪我をするから。その気遣いは嬉しいような、情けないような……。

 私の考えを裏付けるように、その直後、澄さんが動いた。

 いや、『動いた』なんて生やさしいものではなかった。ほとんど目で追うことができないスピード、まるでビデオの早送りのようにすっ飛んで行ったかと思うと、ほんの一動作で目の前のメイドさんを投げ飛ばしてしまったのだ。
 モノトーンのエプロンドレスが一瞬だけ宙を舞い、床に叩きつけられる。私には身体のどの部分をどう掴んだのかさえ見極められなかった。

 澄さんのポニーテールがふわりと弧を描く。その動きが収まらぬうちに、澄さんは右手にいたメイドさんに向けて疾駆すると、低い姿勢で肘撃ちを放つ。相手は必死に受け止めたようだが、その衝撃がよほど強烈だったのだろうか、よろりと姿勢を崩した。
 たたみかけるようにして高い打点の回し蹴りが襲いかかる。とっさに頭部をかばったメイドさんだったが、それはただの牽制で、長く伸びた脚が瞬時にして引き戻されると、ガードの上がったところに本命の正拳突きが飛び、みぞおちのあたりに深くめり込んだ。肺から強制的に空気の吐き出される奇妙な音が聞こえ、彼女はくの字に身体を折って倒れた。

 メイドさんの顔を狙わなかったことにちょっぴり胸をなで下ろしたのもつかの間、私は澄さんの危機を察知してハッとなる。いつの間にか、背後からもう一人のメイドさん(さっき私を抱きかかえて運んでくれた人だ)が忍び寄っているではないか。
 澄さん、危ないっ! そう叫ぼうとしたが……声を出そうとした時には、すでに事は終わっていた。

 澄さんは背後の気配に気づいていたのだ。わずか前屈みになった次の刹那、その身体がブレて見えたかと思うと、今まさに掴みかからんとするメイドさんに向けて、肩……いや、背中全体をぶつけるようにして凄まじい一撃を放った。
 ドッ、というような鈍い音がして、メイドさんは文字通り吹っ飛ばされていた。優に数メートルは空中を運ばれただろうか、信じられない勢いで戸棚に激突する。ガシャーンとすごい音がして、戸棚の扉がひしゃげ、収納されていた食器類が散乱した。メイドさんはくたり、となって動かない。
 だ、大丈夫かしら……なにか格闘技とかで鍛えているのだろうから、(私と違って)身体は丈夫なのでしょうけれども……。

 それにしても澄さんはすごい。素人目にも実力の差は圧倒的だった。ものの10秒ほど間に三人のメイドさんをやっつけてしまったのだ。人数の差などものの数ではない、という気がしてくる。さすがはなんとかという拳法の免許皆伝、といったところだった。

 それでも残った二人に動じた気配はない。油断なく構えを取り、澄さんに向けてじりじりと間合いを詰めてくる。

 ……けれど、大立ち回りそこまでだった。

「あなたたち、何をやってるの! 今すぐやめなさーい!」

 奥の扉に、さつき様の姿があった。



☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




「さつき様……」

 澄さんは構えを解くと、すっと頭を垂れた。私もあわてて立ち上がり、それにならう。

「澄……あなたがなぜここに居るの? それから菜々ちゃんも。
 それにこれは何の騒ぎ?」

 厳しい口調で問いただすさつき様。

 美人とはいえ柔和な顔立ちで、普段からニコニコと笑っておられる印象の強いさつき様である。『怒っている』というより『むくれている』といった感があり、それがやや迫力不足とも思われたが、なんにせよ魔女の怒りを買って無事に済むはずはない。私も澄さんも身を固くした。

「あなたたちも……絶対に静粛に、と言っておいたはずでしょうー!」

 跪いた二人のメイドさんにも、容赦ない叱責が浴びせられる。

「…………」

 しばらく腕を組んだまま部屋の面々を見回していたさつき様だったが、やがてこうおっしゃった。

「ふーん……いいわ、あなたたちが理由を言いたくないのなら。
 でも、罰は与えますからねー!」

「さつき様、アタシは……」

 澄さんが異議を挟もうとしたのだけれど、さつき様にきっぱりと遮られてしまった。

「喧嘩両成敗よ!」

 パチン、と高らかに指を鳴らすさつき様。

 私はドキリとして身をすくませ、思わず目をつむってしまった。さつき様ほどの魔女ともなれば、魔法をかけるなんてほんの一瞬。今の動作で一体どんな『罰』が下ったのだろうか。想像するだに恐ろしい……。

 ……しかし、しばらくしても何も起こらないので、私はおそるおそる目を開けて部屋の様子をうかがった。

 一見、何の異常もないように思えた。しかし、よくよく目をこらすと……澄さんの身体が小刻みに震えてはいないだろうか? いや、澄さんだけではない。他の二人のメイドさんたちも、跪いたまま何かに耐えるようにふるふるとその身を震わせている。

「ふあっ……」

 誰かが我慢しきれずに声を出してしまった。

「あぁんっ……」

「はぁっ………いやぁ……」

 それを皮切りに、異常なまでに昂ぶったあえぎ声が次々に上がる。厳しい自制心の持ち主である澄さんですら、きつく眉根を寄せ、ほとんど苦しそうなくらいの吐息をはいている。
 立ったままの姿勢から、一寸だに動こうとしない。というより、もしかして動けないのかも?

 張りつめていた緊張が一転し、甘い熱のこもった淫蕩な空気が部屋中に充満する。

 色々と心当たりのある私にはすぐに分かった。みんな――感じさせられているのだ。さつき様の魔法によって感覚を支配され、身動きできないまま性的な快感を強制的に呼び起こされているということ。
 これが『罰』だなんて……なんというふしだらな……まさに魔女の仕業である。

「んぁっ……あぁぁ……」

 倒れていたメイドさんたちもいつの間にか意識を取り戻して、淫らな合唱に加わっている。突然の事態に当惑しながらも、魔法の力には逆らえず、身悶えしながら抑えきれない嬌声を漏らしていた。

「どーお、気持ちいい?
 身体中の性感帯をいっぺんに触られたみたいでしょうー?」

 さつき様は満足そうな微笑みを浮かべておっしゃった。部屋の中をゆっくりと歩きながら、魔力に絡め取られた女性たちを、まるでオブジェを眺めるようにしてじっくりと観察していく。

「ふああぁっ!」

 その視線に羞恥心が刺激されたのだろうか、メイドさんの一人がひときわ大きな声を上げる。桃色に染まった頬が愛らしくもいやらしく、可愛らしいエプロンドレス姿ともあいまって、年頃の乙女というよりは幼げな少女を思わせる倒錯的な魅力を発散している。

「ふふっ……みんな可愛いわよ」

 そんなことを言いながら、なおも鑑賞を続けるさつき様だったが、澄さんの目の前へ来るとピタリと立ち止まって、うーん、と首をかしげた。

「澄、あなたにはちょっと……可憐さが足りないないんじゃないかしら?」

 確かに澄さんはセーターにジーンズというラフな服装ではあったが、それ故に身体のラインは――豊満で素晴らしい形の乳房も、深いウェストのくびれも――ハッキリと出ており、そんな美女が身体を動かせないまま悶えている様というのは、ちょっとやそっとではない強烈な色気を感じさせてやまない。
 この色っぽさを理解できないなんて、さつき様もまだまだ甘いと言わざるをえまい……って、一体何を考えているのだ、私は。

「あ、そうだぁ。せっかくだからおそろいにしようよぉ」

 そうおっしゃったさつき様はニコニコと笑みを浮かべ、ひとつ手を叩く。

 ポンッという軽い音と共に、一瞬にして澄さんは(つかさ様のお屋敷で使われている)エプロンドレス姿に変身していた。

「…………!?」

 驚きに目を見張る澄さん。無理もない。本人に無断で衣服やら下着やらをご自分の好みのものに変えてしまうのは、さつき様の得意技……というより悪癖なのだ。

 どこからどう見ても可愛らしいメイドさんである。無論、澄さんだって本職のメイドなのだから、こうういう言い方は失礼なのかもしれないが……私たちのお屋敷で使われている濃紺のエプロンドレスはスタンダードな造形というかなんというか、比較的実用本位のもの。
 それに比べてつかさ様にお仕えするメイドさんたちのものは、黒を主体としたデザインながら、襟やカフスをはじめとしてエプロンやカチューシャにもフリルをふんだんに用いるなど装飾性に重きを置き、着用する少女、または女性の可憐さを引き立てようという意図が多分に感じられるものとなっている。そう、さつき様の弁にもあった通り、キーワードは『可憐さ』である。

 細い頬のラインに切れ長の目といった端正な顔立ちに髪型はポニーテール、と来ればシンプルなスタイルでも魅力十分なのであるが、そこにあえてやや少女趣味といった感のある服装を合わせる。するとたちまち匂い立つ、おしとやかな良家の子女といった趣。凛々しさの中にもほの見える可憐さ。これがなかなかに刺激的であった。成熟した女性の持つ美しさと愛らしい少女のような魅力が同居し、かつ相反することなくお互いを引き立て合っている。
 ふ、ふむぅ……これはこれで……。さつき様も見る目がおありではないか……。私はよく分からない感心のしかたをし、心の中で『満点』と採点を下した。

 ……私が不埒な思考に心奪われている間に、さつき様も存分に澄さんの艶姿を堪能されたようであった。今はその豊かな胸元をまじまじと見つめておられる。

「相変わらず大きいねぇ」

 そうおっしゃるさつき様だって、十分に魅惑的なバストをお持ちなのだが。

「ちょっとキツいんじゃなぁい?」

 無邪気な風を装ってそんな意地悪なことをおっしゃると、澄さんが動けないのをいいことに、そのふくらみを指先でツンとつついた。

「お、おやめくださ……はぁあんっ!」

 たったそれだけの刺激で、澄さんはまるで最大の弱点を責められたかのような甘い声を上げてしまう。快楽と羞恥心がない交ぜになった切ない表情が顔に浮かんだ。

「うっわぁ……澄ってば、敏感ー」

 対照的に、さつき様は満面の笑みを浮かべておられる。まんまと悪戯を成功させた子供といった表情だった。恥じらいに身を震わせる澄さんの様子がお気に召したのであろう、嫌がって身をよじるのなどお構いなしに、ちょい、ちょい、と立て続けに胸への刺激を加えていく。

「ほーら、ほらほら」

 『ふにふに』といった擬音がふさわしいだろうか、あまりにも柔らかな二つのふくらみは、さつき様の指の動きに忠実に従い、布地の上からでさえハッキリと分かるほど自由自在に形状を変える。

「ふあぁっ!……お、おやめくださいぃっ!
 ひゃあぁっ! さ、さつき様ぁっ……」

 魔女の指先から逃げるに逃げられず嬌声を上げて身悶える澄さんは、自ら意図せずして凄まじいまでの色香をあたりに振りまいていた。各々発情させられているメイドさんたちでさえ、思わず生唾を飲み込んで注視してしまうほどであった。

 その様子に気づいて、さつき様はようやく澄さんを解放される。

「んー、みんな退屈しちゃったぁ?
 じゃあ、これくらいで勘弁してあげるー」

「ひゃぁんっ!」

 ひときわ高く可愛らしい悲鳴が上がったのは、最後にさつき様の人差し指が胸の先端――乳首のあたりをピンと弾いたからである。

「さぁ、みんな。次の『罰』ですよー」

 パンパンと手を叩いて注目を集める。

「オナニーしなさい。いつもしているみたいにね」

 さらりと口にしたその一言に皆が色めき立つ。それはそうである。

「うふふ……素敵なオナニーショーを見せてね」

 忍び笑いを漏らしながら、軽く指を鳴らすさつき様。

 パチン、というその音が合図だった。

「あぁ……」

 誰かが上げたその声は絶望の嘆きだったろうか、それとも期待すらにじませたため息だったのだろうか。

 目に見えない魔法の力が、エプロンドレスに身を包んだ乙女たちを望まぬ自慰行為へと駆り立てる。

 あるメイドさんはエプロンとワンピースのスカートをめくりあげ、煩雑そうな下着を脱ぎ捨てると、座り込んだまま脚を開いて、あえて自らの蜜壺を晒すかのような姿勢を取ってしまう。うっすらと毛に覆われた恥部が露わになった。そのまま指先をあてがうと、ゆっくりと刺激を与えはじめる。

「くうぅっ……」

 嗚咽に似た声が喉の奥から漏れる。自分では止めようとしているのに思い通りにならず、無理矢理に身体を操られての行いであることは、屈辱に必死に耐えようとするその表情から明らかだった。

 またあるメイドさんは、衣服は身につけたまま、襟元のタイを外して隙間から片手を差し込んで胸を刺激している。同時にスカートの下へとしのばせたもう片方の手が、一体どのようないやらしい動きをしているのだろうか、自らの刺激にビクン、ビクン、と激しく身体を震わせていた。

「あぁんっ、あぁんっ……」

「はぁっ……ダメぇっ!」

 糸に吊られた人形のように、逆らうすべもなく命令に従ってしまうメイドさんたち。六人それぞれの嬌態が惜しげもなく晒される様は、まさに淫らなショータイムといったところで、先ほどまでとは比べものにならない異様なまでの熱気が部屋に充ち満ちていた。

「あはは、恥ずかしい? でもぉ、いつもよりずっと感じるでしょうー?
 そうなるように、ちょっといじってあげちゃった!」

 快楽と羞恥とに染まった皆の顔つきを眺めながら、さつき様はご満悦至極であった。クスクスと笑いながら楽しそうにおっしゃる様子はいつもの無邪気なさつき様となにも変わらないが、それだけにこの倒錯的な情景とのギャップが激しく、かえってサディスティックな響きすら感じられるほどであった。

「あらー? あなたはこっちがいいのかしら?」

 さつき様が獲物の一人に狙いをつける。そのメイドさんは、その……ちょっと申し上げにくいのだけれど、普通のやり方ではないというか、なんというか、その……後ろの方の穴を刺激して自慰に浸っていたのだ。しかも獣のように四つんばいになり、スカートをまくり上げ、ヒップを高く持ち上げて、である。片手の指でお尻の穴を押し広げたまま固定し、中指を器用に使って刺激を加えている。

「うぅっ……」

 さつき様はわざと羞恥心を刺激するようにゆっくりと少女の背後に回り込むと、自分の意志とは関係なく淫らな動きを続ける少女の手に軽く触れた。

「遠慮することないのよ。もっと激しくおやりなさい?」

「そ、そん…なぁっ……ひゃうぅぅっ!」

 さつき様に言われた途端、股の間から伸ばされた小さな手が突然に動きを加速した。出し入れのスピードが速まり、さらなる刺激を求めてより奥へと指を突き入れてしまう。

「あぁっ……こんな……ふぁっ! こんな……」

 メイドさんはすでに涙目になりつつあった。

「ふふ……秘密にしてたんだよねー?
 いつもお尻でしてるなんて、いやらしいもんねー?
 でも大丈夫だよー、わたしはいやらしい子、大好きだもん」

「はぁああぁぁんっ!!」

 そのお言葉が救いになったかどうかはおおいに疑問であったが、さつき様がかがみ込んでメイドさんの頬に軽くキスなさると、彼女はひときわ高い声を上げてのけぞってしまう。

 一方、澄さんもかなりきわどい格好をして(させられて)いた。エプロンドレスは身につけたまま胸元のボタンを外して胸元だけを露出させており、背筋を伸ばして自分から見せつけるような姿勢を取っているのだ。
 当然と言って良いものか、さつき様のなさること故、下着の類は一切与えられておらず、乱れた服の隙間からまろびでた純白のバストが素晴らしい量感を誇示していた。ピンと屹立した桃色の乳首がいやらしい。

 その胸をなかば持ち上げるようにして自ら刺激する澄さん。手のひらだけでは包みきれず、指全体を使ってこねるようにしていじりまわしている。一見ゆっくりとした動きなのだが、指の間に挟み込まれるたびに淫らに形を変え、また元の美しい形を取り戻すその様は、見る者に極上の柔らかさと弾力を想像させずにはおかない。

 まるで自分が気持ちよくなるためというよりは、他人に見せるために自慰をしているかのようであった。

「あーあ、澄ったら見せつけるみたいにしてぇ。いやらしいんだぁー」

 さつき様がわざとらしくそんなことをおっしゃる。

「んんっ……ア、アタシ……こんな風に…しませんっ……!」

「あはは、それはそーだよぉ。
 ちょっとアレンジしてあげたんだもん」

「…そ、それは………あぁんっ!」

 それは反則ですっ、とでも言いたかったのだろうけれど、今の澄さんにはそんな余裕もなかった。かろうじて非難の視線を送ろうとしたようだけれど、たちまち悩ましげな表情によってかき消されてしまう。仮にそうすることができたとしても、自分の胸を揉みながら睨み付けるのでは迫力不足は否めないところではあったが。

「うーん、気に入らなかったぁ?
 じゃあ、こんな感じでどうかしらー」

 さつき様が小首をかしげてそうおっしゃると、澄さんの手がその動きを変えた。

 ややきつめに乳房を掴んで揉み込むようにしたり、両側からぐいっと押し潰すようにしてみたり。かと思うと、突然乳首を指先でつまみあげ、乱暴なくらいに強く引っ張ってみたり。
 淫らなに踊る澄さんの手が、見事な張りを見せている乳房を無茶苦茶に蹂躙していく。まるで手そのものがさらなる快楽をむさぼろうとしているかのようだった。

「あぁっ! やっ、やめ……っ! ふあぁぁっ!」

 しかしそれは、自分自身に対してよりハードな責めを加えていくことに他ならない。澄さん本人は明らかに辛そうにしており、ますます激しくどん欲な動きになっていく指が柔らかな胸を揉みしだくたび、悲鳴に近いあえぎ声が飛び出す。

「ふふっ、『やめて』だなんてー。自分でやってる癖にー」

 さつき様は意地悪なことをおっしゃると、ピンと立ちあがった澄さんの乳首を人差し指と親指の先で無造作につまみ、クイクイ、とひねるようにして弄ぶ。

「〜〜〜〜〜〜〜っ!」

 それがどれほどの快感をもたらしたのだろうか。それまでけなげにも立ったまま耐えていた澄さんも一気に力が抜けてしまったようで、へたりと腰を落としてしまった。

「あらー……そんなに良かった?」

 内股で床に座り込む澄さんに、さつき様がしらじらしいお言葉をかける。しかし、もはや澄さんには言い返すだけの力も残っていないようだった。

「…ぁぁっ……はぁっ……」

「あぁっ! イイ! イイのぉ……」

 部屋のあちこちから高まった嬌声が聞こえてくる。淫らな饗宴は今や最高潮に達していた。

 しかし……どうもおかしい。もうかなりの間自分自身を慰めて続けているというのに、一人として頂点を極めるということがないのだ。さっきの澄さんですら、脱力してしまっただけで、気をやってしまったという形跡はない。これは、もしかして……。

 『イキたくてもイケない』……そんな言葉を思い浮かべてドキッとする。さつき様のお力をもってすれば、昂ぶるだけ昂ぶらせておいて、絶頂に達することだけを、いわば差し止めてしまうことも可能なのだ。かく言う私も魔法をかけられてそのようなことをされた経験が……あれ? あったような、そうでないような……。

 やがて皆もそのことに気づいたようであった。他ならぬ自分のこと、『もうダメ!』と思う瞬間があればそれと分かるのに、それでもイケないのだから……その理由は推して知るべし、である。

「さ、さつき様ぁ……!」

「ふぁ……イ、イカせて……ください…ませっ……あぁっ!」

「お……お願いですぅ……」

 口々に懇願の声が上がる。年頃の乙女としてはかなりはしたない言葉を口にしているメイドさんもいたが、この際なりふり構っている場合ではないのだろう。

「もうへばっちゃったのー? 仕方ないわねー」

 さんざん焦らしておいてこの言いぐさ。さすがは魔女と言うべきか。

 すっとさつき様の手が上がると、その指先に皆の視線が集中する。今やさつき様の手には、生殺与奪にも匹敵する乙女たちの最も重要な命運が握られていると言っても過言ではあるまい。そう、あのしなやかな指がほんのちょっぴり動くだけで……。

「やっぱりやーめた」

 ……ところが、さつき様は手を下ろしてしまわれた。

「だって、気持ちよくなるだけじゃ『罰』にならないじゃなーい」

「あぁっ……!」

「そ、そんなぁ……」

 落胆と悲鳴の声が交錯する。

 その間も、依然として彼女たちの自慰は続いているのだ。この公開オナニーですら『罰』として十分と言えないとは……いかに残酷な魔女の所行とはいえ、あまりにむごい仕打ちではないだろうか。

「当分、そのままでいてもらおうかなー?」

 追い打ちをかけるようにそんなことまでおっしゃる。

「あああぁぁ……」

「お、お許しくださいぃ!」

「こっ、このままじゃ、おかしくっ……おかしく…なっちゃいますぅ!」

 魔法で発情させられた上、強制的に自慰行為を続けさせられ、脳の随まで快感漬けにされたメイドさんたち。その精神はもはや限界にまで来てしまっている。このままさらに放置されたりしたら……。

「なーんてね、嘘だよー」

 パチン! 高く打ち鳴らされた指の音は、完全な不意打ちとなった。

「え……!? あっ…………あああああああああぁぁぁ!!!!」

「ふぁっ!? 〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!」

「ひああああああぁぁっ! ああぁんっ! あぁっ! あぁっ!」

 それを引き金に――押しとどめられていた快感が一気に爆発し、高みへと引き上げられて――全員が同時に絶頂に達してしまったのだった。



 完全に放心しきって、だらしなく床に伸びているメイドさんたち。快感のあまり意識を失ってしまったメイドさんもいるようだ。たとえそうでないにしろ、とても身体を動かせるような状態ではなさそうだった。時折ビクンと小さく背中を震わせるのがせいぜい、といったところ。それも無理なからぬことである。

 その様子を一瞥したさつき様は、私に向かってこうおっしゃった。

「さて、と……菜々ちゃんはこっちにいらっしゃい」

 そう――どういうわけか、私だけは魔法の犠牲にはなっておらず、ただなすすべもなくこの状況を見つめていたのだった。

 さつき様にお言葉をかけられて初めて、私は身体を動かせるようになった気がした。



☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 別室に連れて来られた私は、言われるままにさつき様の隣に腰掛けていた。

 さつき様はそれきり口をつぐんだままだった。私の肩に腕を回し、時折髪をそっと撫でてくださる。さっきまでの悪ノリが嘘だったかのように静かで優しい仕草だった。

 豊かな胸が肩口に押しつけられる感触は実に魅惑的ではあったが、美しい魔女に弄ばれる様を想像してどぎまぎするというよりは、正直なところ困惑の度合いの方が強く、私は何も言えないままうつむいて自分の膝を見つめていた。
 お嬢様のことをお尋ねしたい……その気持ちは空気を吹き込まれた風船のようにどんどん大きくなっていく。けれども、これまでの事態や先ほどの光景を思い出したりするにつけ、なにかそれが罪悪であるかのように感じられて、どうしても切り出せなかった。

「来ちゃったのね、菜々ちゃん」

 前触れもなく、さつき様がそうおっしゃった。そのお言葉には『私は来るはずではなかった』という含みがあって……それがどういう意味なのかは理解できなかったけれど、ただその響きが耐えられず、私はさっと顔を上げると、さつき様を真正面から見つめた。

 いつもの……いつもの優しいさつき様だった。柔らかなな顔の輪郭、純粋無垢な少女のような瞳、微笑を浮かべる口元に添えられたチャーミングなほくろ。ボブカットにした髪の色合いに、お嬢様を思い出さずにはいられない。

「あの、あの……お嬢様は……ありさ様は」

 その優しさにすがりつくような思いで私はそう口にしてしまっていた。

「…………」

 さつき様は黙って微笑んでおられたが、やがて重々しく口を開かれる。

「運命、なのかもしれないわね。
 あの子とあなたはこんなにも深く結びついている。その証なのかも」

 何をおっしゃっているのだろう、さつき様は。分からない。私には分からない……。

「菜々ちゃんに隠していたことは謝らないとね」

 悲しい予感が胸を締め付けている。それが何故なのか、私には分からない。

「いえ、伝えようとしたのよ。伝えるべきだった。でも……」

 ふっと目を伏せる。長いまつげが憂いを帯びて、さつき様が感じているのであろう深い罪の意識をうかがわせる。

「ううん……結局、わたしもつかさも、我が身が可愛かったのね」

 けれど、私には一体何がさつき様を苦しめているのか、それが分からないのだ。

「蒼風院のことじゃないわ」

 私の思考を先回りしたかのようにさつき様はそうおっしゃった。本家のことではないとするなら、一体どんな理由だというのだろう?

「ありさの怒りを買うことを怖れていたのよ」

 あぁ、ますます分からない。さつき様だって、ありさ様を愛しておられるはずだ。みつき様と同じくらい、公平に、平等に愛しているのではなかっただろうか。
 そしてありさ様だって、お母様であるさつき様のことを……

「わたしたちは罰を受けなければならない。でも、あなたに罪はないわ」

 あくまで平静を保ったままのそのお言葉に、なぜか胸が切なくなって、私が何かを申し上げようとしたその時――さつき様の手が私の額にそっと触れた。



☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 私は走っていた。さつき様に教えられたお屋敷の地下室を目指して。エプロンドレスの裾を掴んだままで出しうる、めいっぱいのスピードで。

 ありさ様、ありさ様、ありさ様……私の頭の中は、お嬢様のことでいっぱいだった。

 そう、私は全部……全部思い出していたのだ。あの夏の日、つかさ様から告げられた残酷な運命のことを。

『そして、今度の冬――十五歳の誕生日には』

 つかさ様のお言葉が脳裏に木霊する。

『あの子の魂は、もう一度、肉体を離れなくてはならない』

 そんなのってない。

 なぜ? どうして? ありさ様にどんな罪があるというのだろう?

 蒼風院本家の勝手な都合で、文字通り魂を縛り付けられ、運命に翻弄されながらも……ただ精一杯生きている、それだけではないか。
 その生だって決して幸せな形とは言えない。限られた時という足かせに繋がれ、また本家との確執に不自由を強いられ、どんなに苦しかったことだろう。
 それなのに、ありさ様はけなげに生きておられるではないか。文句も愚痴も口にせず、己の弱さを他人に見せることなく、凛々しく羽ばたいておられるではないか。

 私は思い出していた。ありさ様が生涯で一度だけ、涙を見せたあの日のことを。今ならば、あの涙の本当の意味が分かる。
 つかさ様にこの無慈悲な定めのことを伝えられた時――どんなに辛かっただろうか。その心中を想像して、私は胸に熱いものがこみ上げるのを感じた。

 誰が何と言おうと、ありさ様が罪を背負い、その代償を支払わねばならない謂われなどないのだ。そう、たとえ神様が相手だとしたって……。

 ふと、ご自身を渡り鳥になぞらえておっしゃったありさ様のお言葉が思い出される。

『もしあたしが、本当に渡り鳥みたいにどこかへ飛んでいってしまったら――』

 あぁ、それが他愛のない冗談であったなら、どんなに良かっただろう。

『行ってあげて……ありさのために』

 さつき様は最後にそうおっしゃった。私がお会いして差し上げることがありさ様にとっての救いになるなんて、そんな思い上がりはない。

 ただ――ただ、一目お会いしたい。それだけだった。



「ありさ様!」

 地下室の場所はすぐに分かった。豪奢なお屋敷に比べてずいぶんと簡素な造りの階段を駆け下り、何の変哲もない木戸を力任せに開けて部屋に転がり込むと、私はそう叫んでいた。

 ――しかし次の瞬間、異様な光景にぎょっと身をすくませることになったのだった。

 部屋は薄暗がりに沈んでいた。ぽつりぽつりと点された蝋燭の灯りだけがあたりを照らしており、その光の届かない範囲はまったくの闇へと消えている。
 部屋の床は間違いなく石造りだったが、どのような技術で加工されたものだろうか、見たことがないほどなめらかな底面を見せている。私には理解不能な法則で描かれた不可思議な文様が、禍々しい赤の色でびっしりと描き込まれていた。
 あたりには得体の知れない動物の頭骨や、なんとも形容しがたい形状の器や偶像、どのような用途に使われるのか想像すらしたくないような器具――あるいは拷問具――のようなものが散乱し、弱々しい光に浮かび上がっている。

 そして、むせかえるような異臭。それは紛れもない血の臭いだった。部屋一杯にじっとりとした粘着質の湿気がこもっている。まるでついさっき、家畜が丸ごと一頭、屠殺されたばかりだとでもいうように。走りづめで息が上がっていた私は、その空気を思い切り吸い込んでしまい、思わずむせかえりそうになるのを必死でこらえた。

 この異様な部屋に平然として立ち、私を見つめている人影が二つあった。

 部屋の奥の方に立っておられるのはつかさ様だった。裸身に血のように赤いローブをまとっておられる。蝋燭の灯りに艶めく黒髪とのコントラストが禍々しくも美しく、いっそエロティックでさえあった。右手にはなんらかの呪具とおぼしき装飾を施された短剣を握っておられる。

 そして部屋の中央に佇むもう一つの人影は――他ならぬありさ様だった。

 長い髪を二つに分け、頭の高い位置で結んでおられるのはいつも通りだ。しかし……それ以外には何一つ身につけておられなかった。
 最初は、つかさ様と同じように身体に密着する形状の赤いローブのような衣服を着ておられるように見えたのだ。が、それは間違いだった。衣服の代わりに全身を覆っているのは……血で描かれた複雑な文様だったのだ。ほっそりとした肩口からしなやかな指の先まで、すらりとした背にも、腰のあたりから足先までも……網の目のような赤い模様が隙間なく覆い尽くしている。

 お嬢様の裸体の美しさはもはや語るまでもない事柄だろう。今はそれに加え、真っ白なお肌にまとわりつくようにして描かれた深紅の化粧が、ぞっとするほどの色気を醸し出していた。凄絶な美のあり方だった。まるで宿願を遂げた復讐の女神のようだと私は思った。

 その他には……小さな琥珀色の宝石をあしらったペンダントを手に提げておられるだけである。

 ありさ様はまるで当然の事実を確認するというような視線で私の方を見ておられたが、やがてゆっくりとつかさ様の方へ振り向くと、冷ややかなお声でおっしゃった。

「……これは、どういうこと?」

 ここで初めて、つかさ様の表情に当惑の色が浮かんだ。機知縦横といったイメージのあるつかさ様にしては珍しく、目の前の事実に対してどう対応すべきか迷っておられるのだ。

「契約違反、と考えても構わないわね?」

 ありさ様は私の方に背を向けておられる。だからその表情をうかがい知ることはできない。けれどそのお声の調子から私はある事実を悟った。

 ありさ様は――怒っておられる。それも、とてつもなく。

「待ちなさい、ありさ」

 つかさ様がそうおっしゃって、空いている方の手を上げようとする。

「うるさいッ!」

 その動作よりも早く、ありさ様が怒号と共に腕を振り上げ、つかさ様に人差し指をピタリと向けた。

 その瞬間――つかさ様の身体がわずか震えたかと思うと、手を上げかけた中途半端な格好のまま一切の動きを止めてしまう。ありさ様の魔法がつかさ様を捕らえたのだ。金縛りのようなものだろうか?
 しかし、それだけではなかった。短剣を手にしたつかさ様の右手がゆっくりと動き出し……美しいラインを描く首筋に、その刃がひたりと添えられたではないか。あまりのことに私は息をのんだ。
 蝋燭の光が異常なまでになめらかな刃に反射しており、遠目にも切っ先が小刻みに震えているのが分かった。

「はっ、ははッ!
 ダモクレスの気持ちが分かったかい!?」

 私はぞっとした。ありさ様は怒りのあまり、正気を失っておられるのではないだろうか? 普段のありさ様にはあり得ない乱暴なお言葉遣い。お声に含まれた冷酷なまでに冷たい響き――。それらはありさ様のご乱心を疑わせるのに十分だった。

「言っておくが、あたしの慈悲心なんてものは、髪の毛一本よりなお細く脆弱なシロモノだぞ!」

 小さなお身体からは想像できないほどの怒声が放たれ、裂帛の気合のごとく相手を打ち据える。その余波に空気が震えた。

「待ちなさい……ありさ。
 誤解よ。これはわたしたちが意図した事態ではないわ」

 いつ白刃が柔肌に食い込み、急所をかき切るやも知れない――そんな状況にあっても、つかさ様は冷静でおられた。ねばり強く、怒りに駆られた年下の魔女への説得を試みる。

 だが今のありさ様にそのお言葉が理解できるだろうか? これまでに何があったにせよ、今はつかさ様に与するべき時だ。そう思った私はお嬢様に向けて言葉を発しようとする。

 ……が、ありさ様は背を向けたまま、押しとどめるような身振りをして私を遮った。

「…………」

 なおもしばらくの間、ありさ様は興奮を抑え切れないご様子で、荒い息をあげておられたが……やがて、すっと手を横に振る仕草をされた。
 途端、つかさ様の右手が力を失い、だらりと垂れ下がる。乾いた音を立てて短剣が床に転がった。

「残念よ。あなたが契約を守れなかったことはね。
 ……だから、保険をかけさせてもらうわ」

 ありさ様は依然として怒りに震えるお声でそうおっしゃった。

「どうしようと言うの」

 つかさ様は憔悴しきった表情でそれに応じる。

「あたしの……眼を見ろぉ!!」

 ありさ様が吠えた。

 つかさ様はまぶしいものでも見せられたかのように顔をしかめたが、やがて魅入られたようにありさ様の視線を受け止めてしまう。いや、そうするように強制させられたのかもしれなかった。

 しっかりと正面から見つめ合う二人の間で不可視の力のやりとりが交わされ、言いようのない緊迫感が部屋を包む。魔法には縁のない私ですらその強烈な気配を肌に触れるようにはっきりと感じ、ぞくりと寒気を覚えて身を震わせた。
 その時、私にはつかさ様の漆黒に染まっているはずの瞳が金色の光を宿しているように見えた。それがありさ様の瞳の光を反射しているからなのだと気づいた時、そこに込められた魔力がいかほどのものかを想像して、いっそう背筋が寒くなるのを感じる。
 魔女の瞳の持つ魔力――見つめた相手を思いのままに操ってしまう禁断の力は私もよく知るところだった。けれど、それがこんな風に使われたら……一体どうなってしまうのだろう?
 想像もつかなかった。なにかとりかえしのつかない、破滅的なことが起きてしまうのではないか。魔力を受け止める側にとっても、そしてあるいは、魔力を行使した側にとっても……?

「つかさ、あなたに与える命令は一つだけよ」

 そして、ありさ様が厳粛に宣言された。

「『みつきを守りなさい』。
 あなたの持つあらゆる手段、手管を使ってね」

 つかさ様は無言だった。ただ目を見開いたまま、辛そうなお顔でありさ様を見つめ返している。

「いいわね……みつきを傷つけたりする、そんな奴が居たら……。
 ミロみたいな目に遭わせてやるのよ!」

 その言葉を耳にすると同時に、つかさ様がその場にくずおれるようにして座り込む。答えは必要なかったのだ。その命令は、魔力を介してつかさ様の心に……いや、その生命そのものにしっかりと刻まれてしまったのだろう。

「それと『これ』は」

 ありさ様は手にしたペンダントを示しておっしゃった。

「みつきに渡すことにするわ」

 つかさ様は抗議するように目を見開き、口元を少し動かされたようだったが……それはついに声にならなかった。

 それとほぼ同時だった。ありさ様の膝がガクリと折れ、床にぺたんと座り込んでしまわれる。

 金縛りに遭ったかのようにして立ちすくんでいた私は、あわててありさ様の元に駆け寄ると、その肩に触れた。冷たい。

「ありさ様、ありさ様……!」

 夢中で呼びかける。エプロンドレスの裾にも手にも、何のものとも知れない血液がべったりと付着するが、そんなことを気にしている余裕なんてなかった。

「魔力……全部使い切っちゃったわ……チクショウ」

 目をつむったまま、ありさ様がおっしゃる。かすれたお声が、いかにも辛そうだった。

「ありさ様……女の子が……そんな言葉遣いは……ダメですよ」

 あぁ、ありさ様がこんなに大変なことになっているのに。それなのに、こんな月並みなことしか思い浮かばないなんて。私はなんてダメなメイドなのだろう。

 私の胸に預けられた肩が、背中が、氷のように冷たい。

「大丈夫……こんなに消耗するのは……一時的なことよ。
 みつきの…身体が、壊れたりは……しないわ」

 途切れ途切れの不規則な呼吸の合間に、ありさ様がおっしゃる。

「そんな……」

 あぁ、こんな時にみつき様の心配をなさるなんて……。ありさ様は……ご自身はどうなってしまわれるのですか? そう口にしたくてたまらなかったけれど、ぐっとこらえる。

「菜々、菜々……あなたにだけは知られたくなかった。
 それが…こんな姿まで……見られることに…なる、なんてね」

 私にだけは……? それはどういうことだろう? あぁ、何がなんだか分からない。ただ悲しくて、息が詰まる。
 手のひらでお嬢様の頬に触れると、やはり生命の暖かみを欠いたように冷たい。

「ひどい顔…でしょう」

 私の手から逃れるように顔をそむけて、ぽつりとありさ様がこぼされた。

「そ……そんなことありません!」

 反射的にそう言ってしまう。

「嘘ばっかり……」

 ありさ様の口元に自嘲気味の微笑が浮かんだ。

 唐突に私はあることを思い出した。なかば無意識にポケットを探る。あった。お嬢様のために買ってあった、あの手鏡――。

「これ……これを見てください!」

 もう、私の方が泣き出してしまいそうだった。

「…………」

 うっすらと目を開くありさ様。いつも生き生きと輝いていたはずのハシバミ色の瞳が、虚ろにけぶっている。弱々しく上がった手に小さな手鏡を握らせて差し上げた。

「誕生日プレゼントなんです。一日早くなっちゃいましたけど」

 違う、そんなことが言いたいんじゃなくて……。

「ほら、お綺麗ですよ……」

 必死に押し殺そうとしているのに、どうしても声が震えてしまう。

 鏡を見つめたありさ様はフッと微笑むと、こうおっしゃった。

「本当に……嘘ばっかり……。
 こんなに……ぼやけていたら…役に、立たないじゃない」

 私はハッとして鏡面をのぞき込む。蝋燭のほのかな灯りの中にあっても、鏡に映るありさ様のお顔は――これ以上ないくらいにくっきりと像を結んでいる。

 ぐっと胸が締め付けられて、涙があふれそうになるのを、かろうじてこらえる。

「でも、嬉しいわ」

 ありさ様は瞳を閉じ、手鏡を大事そうに胸元に抱くと、満足げなため息をつかれた。

「あなたには……魔法なんてかける必要、ないわね」

 そのお言葉にどこか嬉しそうな響きが混じっているように思えたのは、私の聞き違いだったろうか。

 そして――。

「ねえ、誓って。みつきを守るって」

 ありさ様のお声はか細くかすれてはいたけれど、込められた真剣さは紛うべくもないものだった。

 言葉と共にペンダントが差し出される。今の今までしっかりと握りしめておられたのだ。先端に釣り下げられた琥珀色の宝石が小刻みに震えている。

 それがどれほど大事なものなのかは分からない。けれども私は夢中でその手を取り、できる限りの誠実な心を込めて答えて差し上げた。

「はい……はい! 誓います! 誓いますとも! だから……」

 それを聞いたありさ様は――心の底から安心されたように長い息を吐き出すと、最後にこうおっしゃった。

「そう……ありがとう」

「だから……」

 私は言葉を探したけれど、何も……何も見つからなかった。

 だって、ありさ様が私にお礼をおっしゃるなんて、初めてのことだったのだ――。

 こらえきれなくなった涙が、次々に頬を滑り落ちていくのが分かる。

 ガクリ。突然、ありさ様の肢体から力が失われた。私の腕の中に、その小さな身体の一切の重みが託される。

 手鏡がするりとこぼれて床に落ち、割れた。

 
 


 

 

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