お嬢様は魔女


 

 

第九話


湯煙艶語り



 その日、私たちは年に一度の慰安旅行で温泉宿へとやって来ていた。

 私たち、というのはつまりお屋敷のみんな、お勤めしているメイドたち全員のこと。総勢20名強の貸し切りバス旅行。いつも一緒に働いているとはいえ、皆でわいわいと過ごす機会というのはなかなか珍しく、通常の休暇とはまたひと味違った楽しみであった。

 お宿は毎年使わせてもらっている旅館というか山荘というか、山沿いに建つこぢんまりとした日本家屋の民宿である。山奥というほどではないものの交通の便が悪いため、それほど人気のある観光地ではないのだが、地元の人間ならば名前くらいは聞いたことのある定番の保養地だった。

 当然お嬢様もご一緒されているのだが、慰安旅行という名目上、私もお嬢様付きメイドとしてのお役目は一旦忘れ、ゆっくりと休暇を味わってよし……ということになっていた。

 そんなわけで到着早々荷物を置いた私は、勝手知ったるなんとやら、いそいそと露天風呂への最短ルートを確保すると、さっそく一風呂浴びてサッパリしてしまっていた。

 あぁ〜、いい湯であった。
 ほんわかと汗ばむ額をふきふき、浴衣を羽織った私は縁側へ出た。初冬の凛とした空気に火照った身体をさらし、籠もった熱を冷ます。湯上がりの少々けだるい感覚が身体の隅々まで広がっていき、自然とだらりとした姿勢になってしまう。
 まったく最高の気分である。昼日中から何の気兼ねもなく温泉に浸かれるなんて……。日々、年頃の乙女にとってはかなりハードな肉体労働に従事している私であるが、そんな疲れも吹き飛んでしまうというもの。

 ……またあとで入ろうっと。そう考えて屋内へと引き上げようとした私は、縁側を通りかかったみつき様とばったり鉢合わせた。

「やっほー、菜々ちゃん。楽しんでますかー?」

 ニコニコと手を振って聞いてくるお嬢様の手元には、お宿で貸し出している浴衣に手ぬぐい。

「はい、とっても。お嬢様はこれからですか?」

「うん! たっぷり泳いでくるね!」

「……あの、お嬢様。湯船はプールではありませんので」

「えー、いいじゃない〜。菜々ちゃんのケチ〜」

 そうおっしゃるお嬢様のすねたような表情もまた愛らしく、お叱りする気も失せてしまうところではあるのだが、それはそれ、これはこれ。

「いーえ、ダメです。他の人の迷惑になりますから」

「う〜ん、そっかぁ……。
 それじゃあ……わたしのやることがみんな気にならないようにすればいいよね!」

 ニコッ。小首をかしげて微笑むみつき様は天使のように愛くるしいのだが、その実、なさるところは魔女の所行。私は不吉な予感を感じずにはいられなかった。

「気にならないように、ですか……?」

「うん! お母様に教えて頂いた魔法なんだ!
 ちょっとやってみるね」

 私がお止めする暇もあらばこそ、お嬢様は何やらぶつぶつと口の中で怪しげな呪文を唱えたかと思うと、ポン、と軽く手を叩かれた。

 本能的に恐怖を感じて身をすくませる私。……しかし別段、何かが起こったような気配はない。

「……えっと、何がどうなったんでしょうか?」

「う〜ん、これはね〜、ちょっと説明しづらいの〜。
 それに菜々ちゃんには魔法、かけなかったし」

 唇に指を当てて、悩ましげな表情をなさるお嬢様。……と、そこへお風呂に向かう同僚のメイドの一人が通りかかった。

「あ、ちょうどいいところにー」

 そうおっしゃってパッと顔を輝かせたお嬢様の瞳に、悪戯っぽい光が宿ったのを私は見逃さなかった。

「あ、お嬢様……お先に失礼します」

 そう言ってお辞儀をする少女のところへ、お嬢様はトコトコと歩み寄ったかと思うと、

「あ、ちょっと待ってくれる?」

 ……とおっしゃって、私の方にちらりと意味ありげな視線を投げかけると……いきなりその子のスカートを一気に腰のあたりまでまくりあげたのだ。
 当然の結果として、彼女のショーツが丸見えになる。

「ちょ、ちょっと、お嬢様!? 何をなさるんですか!」

 仰天してお嬢様に抗議したのはしかし、私だけであった。スカートを思い切りめくられた当の本人は、悲鳴ひとつあげるでもなく、きょとんとした表情で、プンスカと息を荒げる私を不思議そうに見ている。

 ショーツ丸見えのまま、である。

「どうかしました……っていうか、もう行ってもいいですか?」

 はた、と私は気づいた。そうか、お嬢様の魔法だ。
 彼女は『お嬢様に何をされたのか』ということがまったく認識できていないのだ。みつき様のおっしゃった『気にならないように』というのはこのことだったのか。

 そういえばこういうのって、みつき様のお母様であるさつき様の得意技なのだったっけ……。

「はーい、行ってらっしゃい」

 みつき様はニコニコと笑顔を浮かべてそうおっしゃると、スカートを解放された。その代わり、去り際の彼女のお尻をさわさわとまさぐっていたのだが……。

「えへん! どーお、すごいでしょー?
 わたしが居ることにも気づかない、っていう風にもできるんだよ」

 得意げにおっしゃるみつき様であったが……。ここはきつくお叱りしておかなければならないポイントである、と私は考えた。そう、お嬢様を愛しているがゆえに厳しくあらねばならぬ、そんな時もあるのだ。

「お嬢様、いけませんよ。そのような子供じみたいたずらのために、魔法を濫用するというのは……」

「あーっ、菜々ちゃん、そんなこと言っちゃうんだー?」

 厳格に諭そうと口を開いた私をすぐさまさえぎったみつき様は、なんだか威圧的な口調になってこうおっしゃった。

「そんなこと言ってると……さっきの子よりもーっと恥ずかしい目に逢わせちゃうよぉ?」

「み、みつき様……?」

 可愛らしいお顔に魔女の微笑みが浮かんでいるのを見て、私はたじたじとなった。し、しまった。このままではお嬢様をお叱りするどころか、自分の身が危ない……。

「い、いえ、お嬢様のなさることですから……お好きにされるのがよろしいかと存じます。
 生意気を申し上げて申し訳ありませんでした。そ、それでは私はこれで……」

 すぐさま方針を転換した私は、愛想笑いを浮かべながら自分の非を認めると、あわててその場を退散したのだった。



★★★★★★★★★★




 ……はてさて、どうしたことか。

 私はラウンジの備え付けソファーにくつろぎながら、さきほどのお嬢様の立ち振る舞いについて思いを巡らせていた。なんだか……不自然な気がしたのだ。

 元来、ああいった魔法でなんでもかんでも好き放題にしてしまおうという『魔女的な』行動様式というのはありさ様のものであって、みつき様らしからぬところがある。
 それから私を脅迫なさったあの態度も、どちらかと言えばありさ様のもの。まるで私の反応を楽しむかのようだったではないか。
 みつき様であれば、悪戯やらお仕置きやらを思いついたら、すぐさま実行しているのが本当のところで、それをちらつかせて獲物をいたぶるようにして弄ぶといったことは(いくらお嬢様が魔女であるとはいえ)みつき様の性根に反する気がするのだ。

 ……ふむ、なにかあったかな。あとでお嬢様からそれとなく聞き出さねばなるまい。

 そんな思索にふけっていると、コトン、と瓶入りのコーヒー牛乳が目の前のテーブルに置かれた。目をやると我らがメイド長、澄さんである。

「飲みなよ」

「は、はあ。ありがたく」

 澄さんも湯上がりなのであろう、女性らしく凹凸の強調された抜群のスタイルに浴衣を羽織った姿がなまめかしい。豊かな黒髪を頭の後ろでひとまとめにくくり、端正な顔立ちにほんのりと上気した頬がいちだんと艶を強めている。

 むむっ、完璧なまでの浴衣美人。日本女性と生まれたからにはこうありたいものである。

 思わず見ほれてしまった私であったが、その視線など気に留める風でもなく、澄さんは缶ビールを片手にソファーにドサッと腰を下ろした。

「…………?」

 この人もなんだか様子がおかしい。

 私はコーヒー牛乳の瓶を盾に、じっと澄さんの表情を観察した。日々の激務から解放されて休暇にやって来たというのに、なんだか浮かない顔ではないか。
 それに普段から姿勢が良く、立ち振る舞いもさっそうと隙のない澄さんであれば、こんな投げやりな座り方をしているということ自体、不自然である。お勤めのない夜、誰にも見られていないといった時でも、きちっと背筋を伸ばして腰掛けている彼女であるというのに。

 そういえば、私に対する態度もなんだかよそよそしいような。このコーヒー牛乳だって、普段であれば不意をついて背後からピトリと首筋に当て、『うひゃあ!』と飛び上がる私を羽交い締めにした上、『うりうり、これはどうじゃ』とか言って背中やら胸元やらにまで突っ込んでくる……というのが本来のところ。

 缶ビールというのも澄さんらしくない。おとなしくコーヒー牛乳を飲んでいればいいものを。っていうかこの人、あんまりお酒強くなかったような……。

「菜々……?」

「は、はい?」

 そんな考察をしているところに、澄さんが声をかけてきた。視線は宙にさまよわせたまま。

「お嬢様のことだけど」

「……はい」

 そこでなぜか言葉が途切れる。

「お前がしっかりしないとダメだぞ」

「は、はあ。そりゃ、お嬢様付きのメイドは私ですから」

 なに、もう酔っぱらってるの? だらしない格好で天を仰いだままの澄さんが、若干心配になってくる。

 ……と思ったら、澄さんは突然ガバッと身を起こした。

「違うんだ。こんなこと言いたいんじゃなくて……」

 頭をかかえてうんうん唸っている。

 なんだか本格的におかしい。なぜ私と目を合わせようとしないのだろう。万一、何か心にやましいことがあるとしたって、この人はそういうことを一切隠し立てしたりせず、正直に話してくれる人なのだ。それが口にしづらいことがあるなんて、もしかして、何か、とても……。

 ……と、突然、背後からふわりと抱きつかれた。

「お、お嬢様……?」

「ピンポーン」

 も、もうお風呂から上がられたのだろうか、たっぷり泳いでくるとかおっしゃっていたのに。

「邪魔はしないよー。大事なお話中みたいだからぁ」

 耳元で囁くみつき様の声は、吐息が首筋にかかりそうなほどに近い。

 澄さんは相変わらず頭をかかえたままで、お嬢様に挨拶もしない、というより、お嬢様がいらしたことに気づいてもいない様子である……。あの魔法がまだ続いているのだろう。

「その代わり、こんなことしちゃったりして」

 耳を甘噛みされた。

「ひゃっ! や、やめてください!」

「……どうかしたか?」

 澄さんが顔をあげて聞く。

「い、いえ……なんでもないんです。ははは」

 私は心にもない笑顔を浮かべつつ、しなだれかかってくるお嬢様から逃れようと四苦八苦。

「菜々ちゃんのいけずぅ」

 みつき様はすねたような声でそうおっしゃると、パッと腕を離して私を解放してくださった。ホッ。

「いいもーん、こんどは澄さんに甘えちゃうもーん」

 こちらも浴衣姿のお嬢様は、トテトテと反対側のソファーまで歩いて行かれたかと思うと、澄さんの隣にちょこんと腰を下ろし、そのまま身体を寄せて腕に抱きついた。
 本当に母親に甘える娘のようにも見える。しかし澄さんの方はお嬢様に全く気づいていない、というか、お嬢様の存在を意識できていない、というか……。ともかくお嬢様がぴたりと身体を密着させて頬をすり寄せているにもかかわらず、まるで『そこには誰も居ない』かのようなふるまいなのだ。

 そして、お嬢様のたくらみがそこでおしまいというワケはなかった。
 さきほども見せた悪戯っぽい視線を私に向かって投げかけると、浴衣の胸元を押し上げている澄さんの豊かなふくらみをその小さな手でまさぐるようにして……って、ちょっと! 何をなさるのかっ!

「お、お嬢様っ!?」

 思わず、ソファーから腰を浮かせてしまう私。

「……? お嬢様がどうしたか、菜々?」

「あ……い、いえー、なんでもないんです」

 ううっ、澄さんにはお嬢様が何をなさっても『分からない』のだった……。こ、これは厄介な。一体どうすればこの窮地から我らがメイド長を救い出すことができるのだろうか。

 そうこうしているうちにも、澄さんのバストにお嬢様の魔の手が迫る。浴衣の生地の上から、見るからに柔らかそうなふくらみをゆっくりと揉みほぐすようにし、その弾力を確かめたあと、やや強く力をこめ、きゅっ、とわずかにねじりあげるような動作をなさった。
 こ、これは……まるで私に見せつけるかのようではないか。かあっと頭に血が昇るのを覚えつつも、私は澄さんの胸が淫らに弄ばれる様から目が離せなくなっていた。

「んっ……」

 お嬢様のなさっていることが一切感知できないとはいえ、胸元に違和感を感じたのだろう、澄さんがなんだか切なそうな声を漏らした。

 みつき様はといえば、くすくす、と忍び笑いを漏らしながら、今度は……浴衣の胸元に指をかける。

 うわっ、そこまでなさるというの……? 私は信じられないといった眼でみつき様のお顔をうかがったが、そんなことにはまるで頓着なさる様子はない。その口元には見るものを魅了する魔女の微笑み……。

 みつき様に『気づいてもいない』澄さんにその行為を遮ることなどできようはずもなく……果たして澄さんの胸がすっかり露わになってしまう。標準サイズを大きく上回っていながら、引き締まった美しい形状のバスト。外気に触れる瞬間、ぷるん、と音が聞こえてきそうなほどに震えたかと思うと、つん、と上向いてその存在感を示している。湯上がりの熱をはらんでいるのだろう、やや朱に染まった肌の色がいっそうの艶やかさを加えている。

 うぅ、こんなのは反則である。とても私の貧弱な胸で対抗できるわけがない……って、そうではなくてっ!

「ふぅっ……なんだか暑いね」

 この場でたった一人、(当事者でありながら)事情のつかめていない澄さんがつぶやいた。

 私はそこでお嬢様を阻止すべきだったのだ。大声を上げて澄さんに変人だと思われようと、後々みつき様にさんざん文句を言われようと、すっくと立ち上がって『お止めください、お嬢様!』と厳しい声で一喝して差し上げるべきだった。

 ところが私がまさにそうしようと思った瞬間、お嬢様が眼を細めてちらり、と私の方をご覧になったのだ。その視線には『そのまま座っていなさい』という明白な命令がこめられていて、私は立ち上がろうとした中途半端な姿勢のまま、口をぱくぱくさせて静止してしまった。
 それを見て取ったお嬢様は、『いい子ね、菜々ちゃん』といった具合に目元だけでお笑いになると、さらなる淫靡な行為に及ぶべく、澄さんの乳房に手をかけて……。

 だ、だめだ……完全に手玉に取られている。この私が、みつき様に視線一つで操られているなんて。(お嬢様は魔法すら使っておられないのだ)
 以前はこんなことなかったのに! そりゃあ私に対しては色々とちょっかいを出してこられたりするし、ときに悪戯の領分を超えたりなさることだってあるのだけれど、それは私に甘える気持ちの裏返しであって、こちらもそれを許して差し上げている分、ここはと思って私がお小言を申し上げるような場合には、しおらしく反省してくださる……そういった素直な性根の持ち主でおられるはずなのだ、みつき様は。

 それが一体どうして? ありさ様ならともかく……。あぁ、頭がクラクラしてきた。

 メイド長の痴態を目の前にしている気恥ずかしさに加え、みつき様のご様子に少なからず動揺してしまった私は、頭の中にぐるぐると回る混乱の嵐を抱え込んだまま、呆然と成り行きを見守るしかなかった。

 そんな私の様子を尻目に、お嬢様は悠々と手を伸ばすと澄さんの乳房に直接触れ、いとおしむかのような手つきで撫で回したあと、手のひらと指先で包み込むようにして(お嬢様の手で包み切れるわけではないのだが)、やんわりと刺激を加える。
 お嬢様の手の動きに合わせて、澄さんの双丘は信じられないほど柔らかに形を変える。ふにゃり、などといった擬音が容易に想像できる。
 うう、あれは一体どんな感触なのか。不謹慎とは知りつつも、私はついそんなことを思い浮かべてしまった。だって仕方ないではないか。こんなものを見せられて『ちょっと触ってみたい』という誘惑にかられない者がいるだろうか。

「うーん……」

 澄さんが悩ましげな声を漏らした。ぼーっとして焦点の定まらない眼をしている。こ、これは……アルコールが回っているせいだけではあるまい。
 いつもはキリッとしていて麗人といった表現がふさわしい顔立ちの澄さんであるが、今は湯上がりのためか、それとも他の理由によるものか、上気して赤らんだ顔色に口元も弛緩して頼りなく、その柳眉も切なげにゆがんでいる。

 む、無茶苦茶色っぽいです、澄さん……あぁ、私の方が色気にあてられて卒倒してしまいそう。

 みつき様はなおも澄さんの胸を揉みしだきながら、『どう? いいでしょう?』とでも言いたげに、私の方に流し目を送ってこられる。その瞳は、およそみつき様には似つかわしくない魔女らしい嗜虐的な輝きに満ちていた。

 ううっ、思わず自分が澄さんと同じような目に逢わされる光景を思い浮かべてしまう私。訳も分からないうちにお嬢様の手で弄ばれ、思うさま胸や大事なところをまさぐられた上、いいように感じさせられてあえぎ声を漏らしてしまう恥ずかしい姿……。あぁ、それはそれで甘美で魅惑的な……。

 いやいやっ、ダメダメ! こんなことを許してしまっては! 妖しいムードに流されそうになるのをこらえてなんとか気を取り直し、なかば睨み付けるようにして強い非難の気持ちを込めた視線をお嬢様へ送る。

「はぁっ……菜々……お嬢様のことなんだけど……んんっ……」

 ここまでされているというのに、澄さんは全くこの事態に気づく気配すらなく、先ほどの話の続きをしようというのであろう、私に向かって声をかけてきた。

「は、はいっ!」

 必要以上にかしこまって変な声を上げてしまった。澄さん自身は真面目な話をするつもりなのは分かっているのだけれど、実際はお嬢様にほとんど抱きつかれるようにして、露出させた胸をなぶられている状態なのだ。そのギャップに、なぜだかどぎまぎしてしまう。

「大事な話なんだ……よく、聞いてほし……ふあっ」

 嬌声に言葉が途切れる。お嬢様が胸の先の突起を指先でつまんだせいである。それは今では遠目にもハッキリと分かるほど硬く立ち上がっており、澄さんがただ『違和感』を感じていだけではないということを物語っていた。

「は、はい……」

 私は澄さんに答えながらも、みつき様を威嚇しようといっそう厳しい目線を送る。

 それが功を奏したのか、みつき様はちょっと興が冷めたというようなお顔をなさると、ようやく澄さんの胸元から手をお離しになった。内心ホッと胸をなで下ろした私は、厳格な表情を保つのに苦心する。

 しかし……その考えは甘かった。一旦火のついたお嬢様の悪戯心が、そんなことで収まるわけはなかったのだ。

 きゅっ、と形のよい口元に魔女の微笑を浮かべたみつき様は(その表情はありさ様にそっくりだった)、素早い動作で澄さんの手の甲に指先を押し当てると、軽くさするような仕草をなさった。
 何かの魔法を使われるつもりなのだ、ということがすぐに理解できて、思わず声をあげそうになるのを必死にこらえる。

「アダブラカタブラ〜、なんちゃって」

 ピンと立てた人差し指を、くるくる、と回しながらお嬢様がつぶやいて、くすっ、とお笑いになる。

「わわっ、す、澄さん、何を……!」

 私は自分の目を疑った。

 突然、澄さんが手を持ち上げたかと思うと、自ら露出させた胸元に押し当て、二つのふくらみを揉み始めたのだ。そう、ちょうどさっきまでお嬢様が愛撫していたのと同じように……。

「どうした菜々? さっきから……んっ……変だぞ……」

 『変なのは澄さんですっ!』と言いたいのをぐっとこらえて、私はみつき様の方を見た。ほとんど泣きそうな顔になっていたと思う。
 お嬢様はと言えば、くすくすと笑い声を隠そうともせず、自分でも気づかないうちに自分の胸を揉まされている澄さんの様子を面白そうに眺めている。

 うう……これはもう、私なんかの手に負えたものではない。

「ぁ……んんっ……」

 澄さんの自慰行為は――自分で意識できていないとはいえ、それはまさしく自慰であった――だんだんと激しさを増していって、お嬢様の魔法に操られてのことだろうけれども、もう情熱的と言ってもいいくらいに自らの胸を揉みしだいている。

「……これから……大事な…話…を…あぁんっ」

 喉から漏れる声音も切なさに震えて、その色っぽいあえぎ声に私は自分の胸がドキドキと高鳴るのを抑えることができなかった。

「ふあぁっ!」

「あっという間に気持ちよくなっちゃうよ……そういう風にしてあげたから」

 お嬢様は惚けた表情をした澄さんの耳元でそうおっしゃると、頬に軽くキスなさった。

「……よく…んぁっ! ……聞い…て……あっ、あぁっ!」

 ほどなくして――ビクン、とひときわ大きく身体を震わせたかと思うと、澄さんは絶頂に達してしまった。胸への刺激だけだったというのに、まるで激しい性行を終えた後のように、あとを引く快感の余波に全身を小刻みに震わせている……。

 その様子をご覧になって……お嬢様は満足そうな笑みを浮かべられたのだった。



 ぐったりとしてソファーに横になった澄さんの服装を整え、毛布を持ってきてそっとかけてあげる。

 結局、私は見ていることしかできなかった。澄さんには普段から目をかけてもらっているというのに、いざという時に役に立たないとは情けない。そもそもみつき様の面倒を見きれないようではお嬢様付きのメイド失格である。あぁ、いつもながらダメな私。

 ひとしきり自己嫌悪に浸っていた私だったが、お嬢様に一言、きつい諌言を申し上げなくては、ということに思い至り、できうる限りの厳しい表情を作って向き直った。

「み・つ・き・さ・まぁ?」

 お嬢様の反応は素早かった。ちょこんと首をかしげ、可愛らしいお顔に『しまったな』という表情を浮かべたかと思うと、くるりときびすを返し、飛ぶような足取りで走り去ってしまわれたのだ。

「あっ……お、お待ちください! みつき様!」

 栗色の髪をひらひらと揺らしながら遠ざかっていく後ろ姿に、あわてて声をかける私。しかしお嬢様からの返答はなく、ただかすかな笑い声が遠くから聞こえてくるだけであった。



★★★★★★★★★★




 なんとしてもお嬢様をお諫め申し上げなければ。

 慰安旅行の最中であるということも忘れ、私は義憤に燃えていた。

 その後もみつき様の悪戯はとどまるところをしらず、温泉卓球にいそんしんでいる最中にいつの間にか裸になっていたとか、身体の洗いっこをしていたはずが熱烈にキスを交わしていたとか、湯船に浸かっていたら気持ちよくなってなぜか自慰行為に及んでしまった……などといった同僚のメイドたちからの被害を私は聞き出していた。

 胡桃ちゃんと栞ちゃんも、畳の上で寝ころんで読書していたところなぜか温泉に入らなければならないような気分になり(栞ちゃんは大のお風呂嫌いであるにも関わらず、である)、やはり湯船の中で……コホン、これ以上は彼女たちの名誉のために言わないでおこう。

 いずれの場合も、本人たちはなんとも思っていないあたりが悪質である。記憶に残っていない、というわけではないのだが、私が聞いたらなんでもないことのように答えてくれる、ということはつまり、見聞きしたことが正常に理解できないよう、お嬢様に魔法をかけられて認識を操作されているということなのだ。
 『わたしたち、急に興奮してお互い求め合っちゃって……それがどうかしました?』などとメイドの一人は言ったものである。

 あれやこれやの恥ずかしいシーンを楽しそうに見物しているお嬢様のお姿が目に浮かぶようだ。

 もう! お嬢様にはわがままが許されると言っても、限度というものがある。たかが悪戯と見過ごすことのできる範囲を完全に逸脱しているではないか!

 すっかり腹を立てた私は旅館中を探し回った。……しかし、どこをどう探してもお嬢様は見つからず、すぐに夕食の時間となってしまったのだった。



 お食事会になるとみつき様は何事もなかったかのように姿を現された。

 いつもならばお嬢様のお隣が私の指定席なのであるが、あいにく今日は慰安旅行の主旨から、ずいぶんと遠くの席が用意されており、皆の手前、私もおおっぴらに話を切り出すわけにもいかず、手をこまねいているしかなかった。
 お嬢様はお嬢様で、私は厳しい視線はさらりと受け流し、日頃世話になっている感謝を込めて云々、などと立派な挨拶をなさった。

 お食事会の最中も特におかしなことは起こらず、やきもきしている私の内心とは裏腹に、みつき様の司会でジャンケン大会なども開催され、おおいに盛り上がりを見せたのであった。
 (ジャンケン大会に優勝した胡桃ちゃんには、特別休暇がプレゼントされた……彼女はジャンケンをする時の相手のクセを全部覚えているらしい)

 お酒も出たりして(私は頂かなかったけれども)、澄さんもさっきまでのことが嘘のように上機嫌で酔っぱらい、近くのメイドを捕まえては絡んだりと、すっかり宴会気分といった様子。

 むぅっ、今は辛抱強くチャンスを待つしかない。我慢、我慢よ、菜々。美味しいお食事を楽しむ暇もあらばこそ、私は自分に言い聞かせ、楽しそうにはしゃぐお嬢様を横目で見つめていた。



 意外にもチャンスはすぐに訪れた。

 何人かのメイドたちの提案で、お嬢様を囲んでトランプで遊ぼうということになり、そこに私もお呼ばれしたのである。
 すかさず参戦を表明した私は、勢い込んでトランプ遊び――定番のババ抜き――に挑んだ。

 ……しかし、まさかこれがお嬢様の仕組んだ罠だったとは知る由もなかったのである。

 お嬢様はトランプを配る前、『ババ』であるジョーカーのカードをみんなに見せると、チュッと軽く口づけなさった。どうやらそのときに何かの魔法をかけていたらしいのだ。

 その結果どうなったのか。

 最初は気づかなかったのだ。とりあえずお嬢様と二人きりになるまで待つことにし、目の前のババ抜きに集中していた私は、誰がババを持っているのかを探るべく、じっと一同の顔色を観察していたのだが……なんだか、みんな反応が露骨なのだ。明らかに困ったような表情で身体をゆすったり、『あっ!』と声を上げたり、もうババを引いてしまったのがバレバレである。

 ちょっと変だなとは思っていたのだが、何巡かしてついに自分でジョーカーを手元に引き入れてしまった時、その理由を思い知った。

 というのも……カードを引いてジョーカーを目にした瞬間、微弱な電撃のような刺激が身体中を走り抜けたかと思うと、どういうわけか身体の奥から甘い快感が生まれて、『ひあっ!』とはしたない声をあげてしまったのだ。

 そのオーバーな反応にみんなからはクスクスと笑われてしまったが……恥ずかしさに顔を赤らめるどころではなかった。
 股間がうずき、もじもじと股をすりあわせてしまう。なにせ、愛液が滴って下着をうっすらと濡らしてしまっているのがハッキリ感じられるのだ。

 ま、またお嬢様の悪戯だ……!

 そのことに気づいた私は、快感を感じて身体が震えそうになるのを隠すのに苦労しながら、お嬢様の方へ恨みがましい視線を投げかける。お嬢様もこちらを見ており、カードを扇のように持って口元に当て、目だけで笑っておられるではないか……。

 うぅ、またもしてやられてしまった。お嬢様……もうお許ししませんからねっ!

 心の中で決意を固めた私は、ババが引き抜かれて魔法の感覚が消え去るまでの数分間、ひたすらわき上がってくる快感に耐え続けたのだった。
 特にジョーカーのカードに指がかかったその瞬間は、まるで大切なところに触れられているかのような感触があって、声を上げずに我慢するのに一苦労だった。

 この恐るべきジョーカーを隣の子に押しつけ(申し訳ない)、ようやく一息ついたはいいものの……やはり、と言うべきか、困ったことにみんなはこの異常事態に『気づいていない』のだ。
 ババを手にしているメイドも、なんだか切なげな表情を浮かべたり、落ち着かない様子で腰を浮かせたりはしているのだが、それが一体どういう現象なのか、本当には理解できていない。何が起きているのかちゃんと認識できているのは、お嬢様と私だけなのである。
 これでは私一人が騒ぐわけにもいかないではないか……。

 しかも、である。
 みつき様ご自身がジョーカーにかかっている魔法の効力を受けないのは当然としても、それを利用して、さりげなくズルをしているのだ。
 つまり、カードを引く相手の手札の縁を軽くなぞり、ジョーカーに指先が触れて『あっ……』などと甘い吐息の漏れるのを確認してから、ご自分の引く札を決めておられるのである。

 たまにはあえてババを取ったりもなさるのだが、そういった場合も、『どうしようかなぁ?』などと迷うふりをしながら、そのカードにしつこく指先で触れ、さんざん焦らしてから引き抜くといった具合。その間、相手のメイドは強烈な快感に身もだえし続けるしかない。
 その上、どういうからくりなのか……次の相手には必ずまたジョーカーを引かせてしまうのだ。一度などは手札の中でジョーカーだけを表向きにして見せていらっしゃったのに、相手はそれが『分からない』らしく、困ったような表情で真剣にカードを選ぼうとしているところに、『さあ、どれかなー?』などと楽しそうにおっしゃっているといったこともあった。(もちろん相手はジョーカーを引かされてしまった)

 それくらいならまだ良かったのだが、最後までババを抱えてビリになってしまった子はもっと可哀想であった。

「はーい、罰ゲーム〜」

 お嬢様が茶目っ気のある口調でおっしゃって指をパチンと鳴らした瞬間――。

「え……? あ……ひゃあぁーっ!!」

 魔法の力に抵抗するべくもなく……ジョーカーのカードを手にしたまま、めいっぱい背筋をのけぞらせて感極まった声を上げると、あっという間にイッてしまったのだ。
 絶頂の余韻からか身体を小刻みに震わせ、目元には涙すら滲んでいる。

 いたたまれない気分になった私は一人天を仰いだが、他の皆は何を気にかけるでもなくおしゃべりを続け、無理矢理に絶頂を迎えさせられた当の本人も、『つ、次は負けませんからっ』などと宣言し、次回戦に備えて(おぼつかない足取りで)飲み物を買いに行ったりと、まるで何事もなかったかのように――実際、彼女たちにしてみれば何も起きていないのと同じなのだから当然だけれど――振る舞っていたのだった。



★★★★★★★★★★




 結局、お嬢様と二人きりになる機会が訪れたのは、夜も更けて場がお開きになってからであった。(その間に私も二度、お嬢様の『罰ゲーム』を受けさせられた)

「お嬢様〜〜〜!! 今日という今日はお許ししませんよ!
 きちんと反省なさるまでお説教に付き合っていただきますからね!」

 すさまじい剣幕でみつき様に迫る。眉毛も髪の毛も逆立って、まさに鬼のような形相になっていたのではないかと思う。

「まあまあ、菜々ちゃん、落ち着いて」

「これが落ち着いていられますかっ!」

「これにはふかーい事情があるんだよぉ……」

 お嬢様は相変わらずニコニコと上機嫌な笑みを浮かべて……って、あれ?

 畳に座り込んだお嬢様は、先ほどまでとはうってかわって、沈んだ雰囲気であった。ほんの少し前までの元気はどこへやら、浮かない表情で髪の毛をいじっていらっしゃる。

 あらら……私は毒気を抜かれて、矢継ぎ早に繰り出すはずであった恨み言をぐっと飲み込んだ。

 どうなさったのかしら。まさか、ご気分が優れないのでは……いやいや、今日のお嬢様のいかにも魔女らしい立ち振る舞いを考えてみれば、病気のふりということだってありうる。とはいえこんなご様子のお嬢様を責めなじるというわけにはいかない……。

 こほん。私は一つ咳払いをすると、お嬢様の正面に正座した。

「……お話を聞きましょう」

 ちょっとした沈黙があった。気まずい雰囲気ではあるが、みつき様が自分からお話しようという気分になるまでは、じっとお待ち申し上げなければならない。

「ありさちゃんがね」

 やがてみつき様がおっしゃった。

「立派な魔女になるにはね……こういうことしなきゃダメだって」

「はあ……?」

 事情がよく飲み込めず、私は間抜けな声をあげてしまった。

 その後みつき様から聞き出したことがらをまとめると、こういうことである。

 どうやら、みつき様は魔女としての修行が足りない、というようなことをありさ様に『お手紙』で指摘されたらしい。
 ただ、その『修行』というのが問題で、ありさ様があれこれと挙げられた具体例というのが、まだ少女と申し上げた方がいいようなお年頃のお嬢様にとっては、ちょっと時期尚早に過ぎるのではないかというような……なんというか、その、ふしだらなことばかりだったのだ。

 そういえば……ありさ様はよくおっしゃっていた。性的な節制が緩い魔女ほど大きな力を持っているものだ、とかなんとか。
 ありさ様がエッチな悪戯をなさるための言い訳だとばかり思っていたけれど、みつき様にまでそんなことをおっしゃったとなると、本当のことなのだろうか。

 それでみつき様が張り切ってしまって、今日のような事態になったと……。

 しかし、それもちょっとおかしな話ではある。

 これまでありさ様がそのようなことをおっしゃったことは一度もなかったはずだし(ありさ様は人一倍みつき様の身の上を案じておられ、みつき様のお気持ちを傷つけるようなことは決してなさらない)、もしそのようなことを言われたとしても、今から急に頑張り出す必要はなく、ご自身の成長と共にゆっくりと魔女的な力を身につけていけば済むことなのではないのだろうか。

「でもね、わたし……向いてないと思うんだ……。
 そりゃあ……今日だってちょっとは楽しかったけど」

 みつきさまは訥々とお話になる。

「菜々ちゃんだって……怒っちゃったし……。
 ありさちゃんみたいに上手くはできないよ……」

 うーん、これは困った。

 みつき様を元気づけて差し上げたいとは思うのだが、下手に応援するようなことを申し上げて、あんまり淫らな悪戯ばかりなさる(ありさ様のような)魔女になられても困るというか……。

 それに、ありさ様は私の目から見ても超一流の魔女であって、大人の魔女とでも十分に渡り合うことのできるくらいの魔力の持ち主なのだ。まだまだ成長途上のみつき様と比べるというのも酷な話であろう。

 私が何をどういう順序で申し上げれば良いかと悩んでいると、

「菜々ちゃんって、いつもありさちゃんにどんなことされてるの?」

 みつき様は憂いをたたえた美しい瞳で私をじっと見つめながら、そんなことを聞いてきた。

「え……?」

 いつもありさ様にされていることと言えば……私の脳裏を、非常に恥ずかしいあんなことやこんなことの記憶がよぎった。……とてもみつき様にお話できるような内容ではない。

「ええっと、それは……その、ですね……」

 羞恥心に赤くなりながら、口ごもってしまう私。

「菜々ちゃんって、ありさちゃんのこと、好きだよね?」

 なおもみつき様は問いかけてくる。

 ドキッ。

 そのお言葉に――私はどういうわけか胸が鳴るのを感じた。

 え……? みつき様は何か変なことをおっしゃっただろうか? 私が、ありさ様を、好きかどうか……?

 その答えは『好き』に決まっている。
 でも……何かが違っていたのだ。はっきり『好き』と心に思い浮かべた時の、その気持ちが……その愛情の種類が……以前と変わってきているということに、それまで私は気づいていなかった。

 私は、みつき様に指摘されて初めて――自分がありさ様に対して、そういった種類の愛情を抱いているということを知ったのだ。
 そう、思い浮かべるだけで幸福感が生まれるような、近くに居るだけで心があるべきところに収まるような、時に暖かく、時に切ない……この世でいちばん不思議な愛情。

 言い換えれば、恋、という情念。

 私は――心の中でそのことを認めてしまった。そして同時に、その考え自体に動揺してしまって……みつき様の問いかけには何もお答えすることができなかった。

 それなのに……。

 それなのに、じわり、と、みつき様のあどけなくも美しい目元に光る雫が滲んだのだ。

 えぇ……?

 みるみるあふれてきた涙が、綺麗な頬を伝ってしたたり落ちた。

 そんな、そんな……どうして!?

「ち、違うんです、みつき様!」

 混乱しながらもあわてて言いつくろおうとする私を、みつき様はまっすぐに見つめたまま、身じろぎ一つせずに涙を流していらっしゃる。

 思わず胸に迫るものを感じた私は、みつき様ににじり寄ると、小さな肩をひしと抱いて差し上げた。そのお体が氷のように冷たいことに驚きながらも、精一杯の誠意を込めて耳元で囁く。

「私が……ありさ様のことを好きだという気持ちは、嘘偽りないものです。
 でも、でも……みつき様のことだってありさ様と同じくらい――本当に、心から――お慕い申し上げているんですよ……」

 お嬢様は私の肩に頭を預けてじっとおられたけれど、喉から漏れる小さな嗚咽の合間に少しだけ、お言葉がこぼれた。

「違う……違うの……」

 涙は流れつづけ、しゃくりあげる声がお言葉を途切れさせる。それを押し殺そうと懸命に身体をこわばらせていらっしゃる様が、ひどく痛々しい。

「違うの……菜々ちゃん……違うんだよ……」

 いつも明朗なみつき様とは思えないほど、かぼそく弱々しいお声。こんな悲しみに満ちた響きは、ずっとお仕えしてきた私でさえ耳にしたことがないほどである。

 その寂しそうなご様子に、強く心を打たれた。こんな時、お母様がいらっしゃれば……そう思わずにはいられなかった。でも今は、私がその代わりを勤めるしかないのだ。そう思って、静かに慰めの言葉を囁きながら長く美しい御髪を心を込めてそっと撫でて差し上げる。

 ずいぶん長いことそうしていた気がするけれど、みつき様は――いつまでも泣きやまれなかった。



 結局、泣き疲れて眠ってしまわれるまで、私はみつき様を抱いて差し上げていた。

 寝顔にまで悲しそうな表情が浮かんでいるのを見て、チクリと胸が痛む。頬に残った涙の跡を拭いて差し上げながら、ふう、とため息をつく。

 お美しくなられた。

 憂いを含んだ表情が、子供っぽい無邪気なそれとはまったく違う、いかにも大人びた秀麗な色香を感じさせる。少女という繭を脱し、淑女として美しく生まれ変わる日も近いのだろう。

 その時は……お嬢様は私の手を離れて、広い世界へと飛んで行かれるのかもしれない。あるいは、お嬢様を待っている誰かの元へ。その時、私はお嬢様を心から祝福し、笑顔でお見送りすることができるだろうか?

 成長したお嬢様の美しいお姿に思いをはせながらも、ちょっぴり寂しい気がして、私の膝を枕に眠っていらっしゃるみつき様の頬に、指先でそっと触れた。



☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 どのくらいそうしていたのか、よく覚えていない。私自身も眠くなってうつらうつらしていたのかもしれない。

 ただお嬢様が身じろぎし、ゆっくりと頭を起こされたので、私もそれに気づいて身体を支えてさしあげようとしたのだ。

 少しはお気持ちも落ち着いただろうか。そう思ってお顔を拝見した私は、ちょっとした驚きに打たれた。

「う……ん………。
 あら……菜々じゃない……どうしたの?」

 けだるそうなお声を上げたのは、ありさ様だったのだ。

「ありさ様……ですか? 実はですね……って、ありさ様!?」

 今度の驚きはあまりに大きすぎて、思わず目を見張り息をのんでしまう。

 なにしろ……ありさ様独特のハシバミ色の瞳をのぞき込もうとした私は、その目元からはらりと涙がこぼれているのを目撃してしまったのだ。

 信じられないものを見た、といった表情のまま、私は文字通り凍り付いてしまった。

 だって、だって。

 ありさ様が泣いておられるのなんて、かつて一度しか目にしたことがないのだ。そう、先の初夏、つかさ様が尋ねていらした時に、ちらっと拝見した横顔に涙が張り付いていた……あの一度だけ。
 あの時、テーブルに置かれていた見事な赤いバラの花束、その美しい色と、豊かな香りとが思い出される。

 驚愕のあまり固まっている私を見たありさ様は、きょとん、としておられたが……涙を手のひらでぬぐい、なにか不思議なものを見るような目つきで眺めると、こうおっしゃった。

「なに……泣いてたの? みつき」

 ここに至って初めて、私は自分の心臓がバクバクと鳴っているのを意識した。

 あ…………あぁ〜〜、びっくりした……。

 事情を理解した私は、思わず安堵のため息をついた。

 ありさ様ご自身が、泣いてしまわれたわけではなかったのだ。
 つまり、直前に悲しい気持ちのまま眠りについたみつき様の影響、いわばみつき様の余情のために涙を流してしまわれた、ということなのだろう。
 考えてみれば当たり前だった。お目覚めになってすぐに泣いてしまう、などということがあるわけがないではないか。

 うわー、本当にびっくりした。

 ドキドキと鳴り続ける心臓はまだ落ち着いてくれない。何をどう申し上げればいいのか分からず、無言のまま身を起こすありさ様をお手伝いする。

 ありさ様は、これもみつき様の影響なのだろうか、なんだか憂鬱そうな表情で頭を振っていらっしゃったが、

「それにしても……寒いわね」

 ぶるりと身体を震わせると、一言そうおっしゃった。



☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




「ふ〜〜……極楽、極楽」

 せっかくなので、私はありさ様をお連れして深夜の露天風呂へとやってきていた。

 汗を流して湯船に浸かると身体の隅々まで温まり、今日一日の心労がまるごと癒されるようであった。そうそう、やっぱりこうでなくちゃね。なんと言っても慰安旅行なのですから。

 そんなくつろいだ気持ちになるのも、ありさ様とご一緒しているせい、なのかもしれない……。そんな風に考えて、ちらりとお嬢様の裸身をのぞき見る。

 一番のチャームポイントである長い髪は、(残念ながら)邪魔になるのでアップにしてまとめ、タオルでくるんで差し上げてしまったのだが、その神々しいまでの美しさは隠すべくもなかった。

 しなやかな手足、華奢にも見えるが決して女性らしい丸みを失ってはいない肩口、首筋と鎖骨のラインは絶妙なバランスを保ち、いまだにささやかなボリュームながら見事な形のふくらみを見せている胸元、はっきりとした腰のくびれと、その下でやや控えめにその存在を主張しているヒップ、そして……薄闇の中でもそのきめ細やかさを感じられるほどの真っ白なお肌。

 まさに完璧という言葉がふさわしい。

 その肢体を見せつけるようにしながら優雅な足取りで湯船へと足を運んだお嬢様は、一息に肩までお湯に浸かると、じっと私の顔をのぞき込んだ。

「なによ。珍しいものでも見たみたいな顔しちゃって」

「い、いえー、別に、その。お嬢様がとってもお綺麗なので……」

「ふふ……だって魔女ですもの。
 見る者を惑わすための魅力を備えているのは当然でしょう?」

 きゅっと唇をゆがめて、勝ち気そうな笑みを浮かべるありさ様。

「本来なら、裸を見た相手を悩殺して虜にしちゃうくらい、わけないのよ。
 それがたとえ同性の人間であってもね」

 はは、お嬢様の虜になら喜んでなっちゃいますよ。いや、もう虜にされてしまったのかも……。そんな考えが頭をよぎったけれど、口に出すのはやめにしておいた。



 しばらくの間、私たちは無言のまま湯加減を楽しんでいたが……私にはどうしても気になることがあって、話題に出さずにはいられなかった。

「あの……」

「…………?」

 ありさ様は軽く眉を上げただけで、どうしたの、というようなニュアンスをお示しになる。

「みつき様のことなんですけれど」

 慎重に言葉を選びながら、話を切り出した。

「なんだかおかしいんですよ、みつき様」

 言葉の合間に、おおげさにため息などついてみせる。

「私がありさ様のこと好きか、なんてお聞きになるんです。
 それで、私が答えられないでいたら泣いてしまわれて……」

 それを聞いたありさ様は、視線を外して目をつむり、少しの間沈黙しておられたが……やがて瞳を閉じたまま、こうおっしゃった。

「真実が見えない時……人は疑心に囚われてしまうものよ。
 夫の姿を見たことのないプシュケのようにね」

 ――私はハッとした。

 そう、聡明なありさ様なら察しておられて当然だった。

 あたりさわりのない言い方をしたつもりだったのだけれど、本当のところ、私はみつき様が(私にさえ話すことのできない)何らかの秘密を抱えていらっしゃると、そう思っているということ。そして、ありさ様なら何か知っていらっしゃると……私がそう考えて、こんな相談をしているのだということを。

「でも、これだけは信じて……」

 ありさ様は湯の中でおもむろに立ち上がると、頭に巻き付けたタオルをお取りになった。

 長く艶やかな栗色の髪が、夜の薄闇にふわりと広がる。

「あたしには痛いほどよくわかる。
 あなたがみつきを気遣う気持ちも、みつきが涙を流す訳も」

 まぶたを開くと、その綺麗なハシバミ色の瞳でまっすぐに私を見つめて――。

「だから――誰にも傷つけさせやしないわ。
 あなたのことも、みつきのことも。
 それは信じて頂戴」

 その時の私は……色々な気持ちが一度にわき上がってきて、それがグッと胸に詰まってしまって……ただの一言もお返事申し上げることができなかった。

 でも、伝わったと思いたい。私がありさ様をお慕いする、この気持ちだけは。

 それはたかがメイド一人が抱くには過ぎたものだと分かっているけれど、それでも、この気持ちは――心の底からわき上がってきた本物の愛情だと、私の魂が教えてくれているのだ。

 この想いを告げることは、かなわぬ夢なのかもしれないけれど……それでも構わない。ただお側に居ることができれば……いつものようにお仕えしていられるのなら……それで十分なのだ。

 そう、それだけで……こんなにも暖かく優しい気持ちになることができるのだから。

 
 


 

 

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