お嬢様は魔女


 

 

第四話

空の司


 それはある晴れた日のこと。

 今週のお洗濯当番である私は、洗いざらしのシーツを干すお仕事にせっせと取り組んでいた。

 相棒の胡桃ちゃんは洗濯機を回し終えて先ほど引き上げたばかり。あとは私が頑張ればお仕事完遂、である。

 よーし、やったるぞー。
 
 いつになくはりきって、私はラストスパートをかけた。



「んーーーーっ、終わったー!」

 私は青い空に向かって大きく伸びをすると、ずらりと並んだ洗濯物を眺めた。

 やわらかな春の日差しに包まれて、真っ白なシーツがそよ風に揺れている。

 お屋敷のお洗濯というのは、これがなかなかの重労働なのだ。

 なにしろお嬢様のお召し物だけでなく、二十人からいるメイド達の洋服やら下着やら、ベッドからひっぺがしてきたシーツやらを、お天気の良さそうな日に一斉に洗ってしまおうというわけ。

 そんなお洗濯物の集中する日は『厄日』とかいって敬遠されがちだけど……私は嫌いじゃない。

 ぽかぽかと暖かいお日様の下で身体を動かすのは、とても気持ちいいものでありますよ。

 眼下に広がる海を眺めると、穏やかな白い波が打ち寄せ、日差しをキラキラと反射して眩しいくらいだった。

 これだけ近くに海が見えるのに風には塩っ気がなく、安心して洗濯物を干すことができるのは大変嬉しいところだ。魔法の力は素晴らしいね。うんうん。

 懐中時計を取り出して時間を確かめると、まだ午前十時といったところ。文句なし。記録更新だ。

 「ふはははは、参ったかー!」

 誰にともなく誇ってみた。横で見ている人がいたら頭が悪そうな奴だと思うかもしれない……ちょっぴり反省。

 いやあしかし、鼻歌でも歌いたい気分である。こんな天気のいい日は、バスに乗ってお嬢様とピクニックにでも出かけたいものだ。

 ……しかし、今日はそういうわけに行かないことを私は知っていた。蒼風院本家から来客があるのだ。

 蒼風院つかさ様――本家とお嬢様との橋渡し役をなさっている方である。

 お嬢様のお母様であるさつき様とも親しい間柄でおられ、お住まいがわりあいに近いこともあって、私も何度かお会いしたことがある。

 私よりは少し年上だろうか。とても落ち着いた上品な方だけれど、ちょっと冷たいところもある人、というのが私の抱いている印象だ。
 ただそれは悪い意味ではない。本家の側の人間でありながらお嬢様との折衝を担当されるのだから、常に中立の立場を守っていなければならないのだろう、と私は理解していた。

 ……とはいえ、今日のところはつかさ様とお会いすることもなさそうだ。接客当番は別のメイドの担当だし。

 私は一旦自室へと引き上げることにした。午後までに片付けておくべきお仕事はまだまだ山積みなのだ。



★★★★★★★★★★




 お昼を過ぎて接見が済んだと聞かされた私は、お嬢様のお部屋にお茶を持参することにした。

 つかさ様はメイド長の澄さんと打ち合わせをしてからお帰りになるだろうが、お嬢様はもうお部屋に下がってお待ちかねかもしれない。あまりお疲れでないといいけれど。

「ふんふんふ〜ん。
 あ、胡桃ちゃん、コゼ取ってー」

 鼻歌を歌いながら、ティーセット一式を用意する。
 今日はミルクティーにするつもりなので、茶葉はウヴァを選択。いつもよりは少し濃く淹れるように注意しなければ。お菓子はクリームチーズで仕立てたケーキにラズベリーを添えてお出しすることにした。みつき様好みのアレンジメントである。

 ちゃっかりラズベリーを一粒くわえると、トレイを持って出陣と相成った次第。

「……菜々ちゃん、それじゃ食いしん坊のネコみたいよ。
 お嬢様の前ではちゃんと、お行儀良くね」

 胡桃ちゃんが腰に手を当てて、あきれたような顔で忠告してくれる。

「ふぁーい。
 分かっておりますにゃん」

 軽くウインクなぞして見せると、私は厨房を後にした。



「失礼いたします」

 お部屋に入ると、豊かな花の香りがふわりと鼻をかすめた。見るとお部屋の真ん中に置かれた丸テーブルに、見事な赤いバラの花束が載っているではないか。つかさ様が持っていらしたのだろうか。

 南向きの大窓は開け放たれており、穏やかな春の空気を迎え入れている。

 お嬢様はその脇に立ってじっと海を見つめておられた。

 外出する時に着ていくような、レース飾りのついた綺麗な深紅のドレスを身につけていらっしゃる。
 背中を大きく開いたつくりのドレスはお嬢様の年頃には少し早いような気もしたが、それでもきちんと着こなしているあたりは一人前のレディといったところか。

 しかし、それにしても……お嬢様の後ろ姿は少しわびしげだった。薄いカーテンを揺らす優しい日の光も、小さな背中をどこか頼りなく見せている。

 はて、どうしたことか。
 みつき様の快活な反応を予期していた私は、少し怪訝に思いながらもテーブルの上にトレイを置いて紅茶の準備をする。
 茶葉が開くまでの間、バラの芳香を楽しんでみたり。うーん、かんばしい香りですこと。

「お嬢様、お茶が入りましたよ」

 きっかり時間を計って紅茶を淹れた私は、お嬢様に声をかけてみた。

 ……けれど、お答えはない。

 むむ。こんなことは前にもあった気がする。もしかして……。

「ありさ様?」

 私はお嬢様に近づいてもう一度声をかける。

「……そこに置いておいて頂戴」

 お嬢様は振り向きもせずにおっしゃった。やはりありさ様だ。
 今朝方はみつき様だったはずなんだけれど。ふむ。

「はい、承知しました。
 冷めないうちにお召し上がりくださいませ」

 コクンと頷いたありさ様の横顔にちらりと目を走らせて……私はハッとした。

 動揺しながらも、どうにかメイドとしての体裁を保ちつつ、テーブルの上を片付けると一礼してお部屋を辞した。そうそう、お行儀よく。胡桃ちゃんの言った通りに……。



 ばたん、とお部屋の扉を閉じると、私は思わず扉に寄りかかって深く息をついた。心臓がまるで別の生き物のようにばくばくと騒ぎ立てているのが分かる。

 信じられないものを見た。

 ありさ様が――泣いておられた?

 あの、物静かにみえるけれど、実は強気で強情なありさ様が?

 凛とした冷たい表情の内に炎のような情熱を秘めていて、決して誰にも屈したりしないありさ様が?

 そんなバカな。私の見間違いだ。きっとそうだ。

 そんなことは今までに一度もなかった。一度も。
 十年以上おつきあいさせて頂いているこの私が一度も見たことがないのだ。ありさ様の涙なんて。

 道ばたで転んでも、年上の子にいじめられても……絶対に泣くことなんてなかった。
 そう、あの時……お嬢様がお母様とお別れすることになったあの時だって、悲しくて悲しくて、泣き出してしまった私をなぐさめてくださったのは、四つも年下のありさ様の方だった。

 まさか……そんな。

 混乱して考えがまとまらない。

 でも……一体どうして?

 この受け入れがたい事実をなんとかして受け入れようともがきながら、私の思いはそちらの方向へと向かっていった。

 なにか、とてもひどいことをされたに違いない。

 誰にって……それはつかさ様に決まっている。

 突如として私は腹が立ってきた。それも猛烈に。誰にもそんな権利はないのだ。お嬢様をいじめる権利なんて。

 蒼風院本家の方だろうと、この世の誰であろうと――許せない。お嬢様を泣かせるなんて。

 お嬢様が普段どれだけお寂しい思いをされているのか、私はよーく存じ上げている。
 特にありさ様は――そりゃご本人は口に出してはおっしゃらないけれども――お母様とお会いするチャンスなんて、それこそ一年に一度あるかないかなのだ。

 家系上、傍系に当たるからというだけの理由でこれだけ不遇な仕打ちを受けているのだ。一体これ以上どんな理不尽なことをしようと言うのか。あんまり勝手すぎるではないか。

 気づくと、私は顔を真っ赤にして大股で階段を下りていた。つかさ様に一言、文句を申し上げるつもりだった。



☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 つかさ様は澄さんとの会見を終えて、ちょうどお帰りになるところだった。

 私は玄関を飛び出して門扉への小道でつかさ様に追いつくと、私としては精一杯、厳しい語調でお名前を呼んだ。

「つかさ様!」

 頬を染めて息を荒げたエプロンドレスの少女は、この人の目にどう映ったのだろうか。振り返ったつかさ様は少し問いたげな表情を浮かべただけで、じっと私のことを見つめておられる。

 間近で見ると、つかさ様はやはり――お美しい。

 背丈は私とほとんど変わらない。スタイルもスレンダーな方で、胸だってそれほど豊満というわけではない。ゆったりとしたブルーグレーのワンピースをまとった身体の輪郭は、ところどころ女性らしい丸みを見せるに留まっている。
 けれど……どこかしら見る者を惹きつける妖しい魅力があるのだ。

 まっすぐな髪は夜の闇を溶かし込んだかのような真っ黒な色で――蒼風院本家の女性の特徴だ――長く伸ばして背中へと自然に垂らしていた。
 目鼻の整った顔立ちに、ふっくらとした唇がなまめかしい。そして、深い深い闇色の瞳。

 これぞまさに魔女、といった妖美なお姿である。

 ……いやいや、今はそんなことで気圧されている場合ではない。

「つかさ様。お嬢様に……ありさ様に謝ってください」

 私は勢い込んで要求した。

 つかさ様は長い綺麗なまつげをそっと揺らしただけだった。なぜ、という意味だろう。

「なにか、ひどいことをおっしゃったんでしょう。分かってます!
 だから……謝ってください」

 我ながら理屈に合わないことを言っていると思う。けれど完全に頭に血が昇っていた私には、それしか言葉が見つからなかったのだ。

 つかさ様は否定も肯定もなさらなかった。

「……忠告しておくわ。
 どんな理由があろうとも、蒼風院に逆らうようなことはしない方が身のためよ」

 意図して抑えられた冷たいお声だった。

「謝ってください」

 しかし私は意に介さず、ただ自分の要求を告げる。

 それを聞いて、つかさ様はふっとお笑いになった。

「あなた、お名前はなんていうのかしら」

「菜々です。彩草菜々。お嬢様の付き添いメイドをしております」

 私はきっと表情を引き締めたまま、名前を告げた。

「……勇敢なメイドさんね。覚えておくわ」

 つかさ様の美しい瞳に見つめられると、なんだか……胸がドキドキしてくる。

 いけない。この人は魔女なのだ。魔法をかけられてしまう……。

「あなたのこと、嫌いじゃないのよ。
 でも秩序を乱してはいけないわね」

 分かっているのに目が離せない。私はつかさ様の瞳の中に囚われてしまうかのような錯覚を覚えた。

 つかさ様は、つい、と何気なく地面を指さす。

 すると……その指の動きに従うかのように、私は膝をついて上体を倒すと、地面にぺたりと手をついて……つかさ様の前で獣のようにうずくまってしまった。

 こ、これではまるで……女主人に服従を誓う奴隷のようではないか。

 やだ……。私は身をよじって逃れようともがいた。いや、もがいたつもりだった。けれども私の身体はその必死の思いに応えてくれない。まるで頭脳と身体がすっぱり切り離されてしまったかのようだった。

 再び、つかさ様の指先が動いた。

 戸惑う私の心とは関係なく、不思議な衝動に駆られて私の身体はひとりでに動き出す。細く白い人差し指に誘われるようにして、つかさ様のハイヒールを履いた足下へと顔を近づけていく……。

「お舐めなさい。犬のようにね」

 つかさ様は冷たくおっしゃった。

 そ、そんなのイヤ……! 心の中で精一杯そう思っているのに、声を出すことも許されなかった。

 そして私は……つかさ様の足の甲にキスをすると、そのままハイヒールの縁に沿って舌を這わせていく。

 屈辱と同時に、圧倒的な恐怖が私の心を支配した。

 怖い。つかさ様が怖い。そんな恐ろしいものを私の心に突っ込むのはやめて。お願い、助けて!

 そう思っているのに……舌は勝手に動いてハイヒールについた汚れを丁寧に舐め取っていくのだ。

 私は恐ろしさのあまりパニックを起こしそうになった。

 と、その時だった。

「あたしに免じて、そのくらいにしてくださらないかしら」

 それはお嬢様の……ありさ様のお声だった。

「この子は、あたしがしつけておくから。
 気が短いのよ。主人のあたしに似てね」

 わずかな逡巡の後、つかさ様のお答えがあった。

「……あなたがそう言うのなら」

 パチン、と指の鳴る音がする。

 突然、私の身体が――あるいは心が――魔法から解放されたのが分かった。ぐったりとして、うつぶせのまま地面に倒れ込む。起きあがる気力もなかった。

「ごきげんよう」

 つかさ様は抑揚を抑えた声でそれだけおっしゃると、きびすを返して立ち去って行かれる。
 
 私がおそるおそる半身を起こして門の外を見た時には……停めてあった車がなめらかな動きで走り出すところだった。

 ありさ様はそれをじっと見送っておられたが、車の影が見えなくなると一言おっしゃった。

「菜々、あたしの部屋へ来なさい。今すぐにね」



☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




「バカ、バカ、バカ!
 なんで本家に逆らおうなんてこと考えるのよ!」

 私はお嬢様のお叱りを受けていた。

 いつになく厳しい口調のありさ様は、お部屋の中を行ったり来たりしながら私を散々に叱りつける。

「あんなことをして、他のメイドたちに示しがつくと思ってるの!」

 ありさ様のおっしゃることはいちいちごもっともなので、私は何も言い返せず、しゅんとした表情で口をつぐんでいるしかない。こんな時はお嬢様の聡明さがうらめしいというものだ。

 ありさ様がお怒りになった時は、そのハシバミ色の瞳が輝いて琥珀色か、ともすると金色に見えたりする。それはそれで綺麗なのだけれど。

 そう、激高されたお嬢様の様子はとても生き生きしていて、それでいて優雅さを失わず、時折訴えかけるように手を振りあげたり振り下ろしたりする仕草さえも流麗で……まるで飛び回る可憐な胡蝶のようだった。

 お説教を受けているというのに不謹慎かもしれないけれど、正直なところ私はお嬢様の姿に見とれていたのだ。

「ところで……つかさに何をされたの?」

 お嬢様は少しお気持ちが落ち着いたのか、そんなことをお聞きになった。

「……あんまり、思い出したくないのですけど。
 犬のように足を舐めなさい、っておっしゃって。
 それで、なんだかとっても怖くて……」

 そこまで口に出して、思わずぶるりと身震いをしてしまう。

「それが、つかさの手口なのよ」

 ふう、とお嬢様はため息をつかれた。

「魔法だけでなく恐怖を使って相手を支配する……効率のいいやり方ね。
 つかさらしいわ」

 お嬢様の口調には、軽蔑というよりもむしろ悔しそうな響きが感じられた。何だろう。魔女としてのライバル意識なのだろうか。

 ありさ様は、きっと私を正面から見据えておっしゃった。

「もうしないって、誓えるかしら?」

「……はい」

「そんなこと言って、また今日みたいなことがあったら、つかさにでも誰にでも突っかかっていく気でしょう」

「…………」

 私は無言で視線をそらした。

「心を覗く必要もないわね」

 ありさ様がため息と共におっしゃる。

「……それなら、魔法をかけてくださればいいじゃないですか。
 もうあんなことはしないように、って」

 その言葉は半分本気だったのだが……ありさ様はあからさまに落胆したようなお声を出された。

「あなた本当にバカねえ。
 魔法なんかじゃ手に入らないものがあるでしょう?」

「…………」

 魔女がそんなことを言うなんておかしな気がしたが、おっしゃることは――何となく――分かる気がして、私は黙って下を向いた。

「あなたの気持ちは嬉しいのよ。でも相手が悪すぎる。
 蒼風院にたてつくなんて正気の沙汰じゃないわ。
 そんなのは……太陽に向かって飛んでいくイカロスのようなものよ!」

 ありさ様のお声が真剣みを増す。

「いいこと? この先、あたしにどんなことがあっても、あなたは無茶しないで。
 ……みつきのためでもあるのよ」

「……はい」

 お嬢様はずるい。そんなことをおっしゃられたら、私はイエスとお答え申し上げる他、致しようがないではありませんか。

 私は不満を込めた目線をありさ様に向けた。

 そして――意趣返しというわけではないけれど、私はつい、ずっと疑問に思っていたことを口に出してしまったのだ。

「でもお嬢様……どうして泣いていらしたのですか?」

 ありさ様はぐっ、と何かがつかえたような顔をされると、沈痛な面持ちになってうつむかれた。

 端正なお顔に何かに耐えるような苦しそうな表情が浮かぶのを見て、私は言ってしまったことを後悔したけれど……もう遅かった。

 私は目をそらしてテーブルの上に載っているバラの花束を見つめることにした。

「……察しなさい」

 やがて、ありさ様はそれだけを口に出された。

 それが、感情を押し殺したありさ様らしからぬ――分別ある大人のような――態度だということが分かったので、私もそれ以上は何も、お詫びの言葉さえ申し上げなかった。

 ただ、胸がちくりと痛んだ。

 それから、ありさ様はゆっくりとした口調でおっしゃった。

「……それはそれとして、しつけはきちんとするわよ」

 ご冗談を、と言おうとした私は、ありさ様の美しい瞳に宿った真剣な光を見て、そのお言葉が本気であることを悟った。

 こういうところは律儀な性格でいらっしゃるのだ、ありさ様は。



☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




「あたしに言わせれば」

 ありさ様は品定めをするかのような目で私を眺めながらおっしゃった。

「つかさの見識もたいしたことないわね。
 菜々は犬というより……やっぱりネコでしょう?」

 つんと澄ましたような、けれど自信満々の口調でおっしゃって、私に同意をうながす視線を向けてくる。すっかりいつもの調子を取り戻されているようだった。

「は、はあ……」

 愛想笑いを浮かべた私は、これからされることをあれこれと想像して穏やかならぬ心持ちだった。つい先日は『お手』とか犬のような真似をさせられた気がするけど、今度はネコですか……これもいけないことをした罰だと思って諦めるしかないのであろうか。

「ま、なってみれば分かるわよ。
 ほら、ちょっとこっちに来なさい」

 お嬢様は私の手を引いて化粧台へと連れていくと、姿見の前に私を座らせた。

 ちょちょちょ、ちょっと待った。いま『なってみれば』っておっしゃったような……イヤな予感が私の五体を駆けめぐった。

 鏡の中の私は、いつも通りの黒髪のショートカットに、フリルをあしらったカチューシャを載せている。エプロンドレスの胸元にはアクセントの赤いリボン。

 いつもはお嬢様がお座りになる化粧台なのに、私が腰掛けてお嬢様が後ろからのぞき込んでいるというのは少し不思議な気がした。

「ほら、おめかししましょうね……」

 ありさ様は少し楽しそうな調子でそうおっしゃると、何事か唱えて私の頭をぽん、と叩く。

 ……私は自分の目を疑った。

「うわっ、なななな、なんですかこれ!」

 鏡に映る私の頭に……ネ、ネ、ネコの耳のような物体が生えているではないか!
 ……というか、どう見てもネコの耳そのものである。ちょっとサイズは大きいけど。

 慌てて頭の上に手をやった。ぴょこん、とした突起が触れる。引っ張ってみた。取れない。
 なんか……暖かくてふさふさしてるしっ。あわわわわ。

 驚いて立ち上がろうとしたけれど、なぜか腰が持ち上がらない。お嬢様が軽く肩に手を当てておられるだけなのに。

「ふーん……なかなか似合ってるわよ。
 あとは尻尾をつけてあげればそれらしく見えるかしら?」

 ありさ様はご満悦といった調子でそうおっしゃった。

「ちょっと床に手をつきなさい……お尻をこっちに向けて」

 お嬢様がそうおっしゃると、私の身体が勝手に動き出した。またいつものように魔法をかけられてしまったのだ。い、いつの間に……。

「うわわわ……」

 私は化粧台の椅子から滑り降りると、それこそネコのようなポーズでうずくまって、お尻をお嬢様に向けて差し出してしまう。そのまま腰がぐぐっと持ち上がっていく。……もちろん私の意志ではない。

 お嬢様の前でそんなはしたない格好をしていると思うと、恥ずかしさにカッと頭が熱くなった。

「そうそう、そこでストップ」

「あ、ありさ様ぁ〜。やめてくださいっ」

 必死に首をめぐらせ、お嬢様の方を向いて訴える。

「だめよ。罰なのだから、きちんと受けなさい」

 ありさ様は私の哀願を受け流すと、スカートごしに尾骨のあたりにトンと触れた。何かを念じるように少し目を閉じた後、するりと何かを引っ張り出すような仕草をされると……。

 今度は尻尾が生えた。

 愕然として声も出なかった。スカートには穴が空いているらしい。そこから茶色に白い縞模様の、ふさふさと毛の生えた尻尾が伸びている……。

 その尻尾を『振って』みる。右、左……。すると私の意志に応えて、尻尾がひょこひょこと動くではないか。

 な、なんということだ……。このままでは本当にネコにされてしまう。
 日だまりで丸くなって昼寝をしている自分の姿を想像して、私は焦りに焦った。

「お、お嬢様っ、お願いですからネコは勘弁してください!」

「あら、本当に似合っているわよ」

 そういう問題ではない。

「そ、そうじゃなくてですねぇ〜!」

「大丈夫よ。ちゃんと心もネコになればね」

 そんなことをおっしゃって薄く微笑むと、ありさ様は私の首根っこに軽く手を当てた。

「ひゃっ!」

 ひんやりとした感覚に身じろぎするけれど、身体は四つんばいの格好から動かせない。

 また、不思議な響きの呪文が聞こえてくる。すると――。

 私の心に、何かが入り込んでくる。
 少し慌てたけれど、不思議と嫌悪感はなく、抵抗する気にはなれなかった。そのうちに『それ』は私の心にするりと入って……すっかり溶け込んでしまった。

「どう? 気分は。
 言った通りネコにしてあげたわよ」

 ネコ……? そう、私は……ネコ。そりゃあそうですよ。当たり前ではないですか。

 自慢ではありませんがこの私、生まれてこのかたネコ一筋。浮気なんぞ考えたこともございませんとも。

「試しに鳴いてごらんなさい」

 ご主人様の声が聞こえるけれど、その意味が……理解できそうで理解できない。ぼんやりとした霞を通しているようだ。

「にゃあ」

 けれど自然と鳴き声が漏れた。
 頭の片隅でなんとかご主人様の意図を感じ取ることができた、といった感じだ。

「ふふ……よしよし。可愛いわよ」

 ご主人様のおっしゃることはよく分からないけれど、頭を撫でてくださると心の中にふんわりと暖かい何かが広がって、とっても幸せな気分になってくる。

「にゃーん」

 そんな鳴き声をあげてご主人様の足下にじゃれつく。

「こらこら、甘えないの」

 ご主人様は少しくすぐったそうな声を出された。



 ころころころ。

 私の目の前を赤い色をした毛糸玉が転がっていく。

 その動きがどうにも気になって仕方なくて、私は物欲しそうな表情を浮かべてじっと見入ってしまう。

 ベッドに腰掛けたご主人様が軽く指を振るたびに、毛糸玉があっちへころころ、こっちへころころ。まるで生き物のように動き回る。

 ぞくぞくと好奇心が刺激されて、思わず飛びかかってしまいそうになる。前足を揃えて、今にも飛びかからんばかりの体勢。

「こらこら、まだダメよ」

 ……そうそう、我慢、我慢。ご主人様のお許しを頂いていないのだから。それが待ち遠しくて、期待に尻尾をくねくねと揺らしてしまう。

「……はい、さわってよし」

「にゃっ」

 短い歓喜の声を上げると、私はぴょんと毛糸の玉に飛びかかる。

 するり。

 けれど毛糸玉はまるで私の動きを見透かしていたかのように素早く転がると、脇を抜けて逃げ出してしまった。
 どてっ、と倒れ込んだ私をあざ笑うかのように、スピードを落としてゆっくりと遠ざかっていく。

 こ、こいつぅ〜。

「にゃにゃっ!」

 今度は本気だった。身体を投げ出すと同時に前足を伸ばして、しっかりとキャッチする。

 やった! 私は喜びに小躍りした。

 このこのこの。

 前足でちょいちょいとこづいたり、鼻先でつついてみたりする。はた目にはじゃれついているように見えるかもしれないけれど、これは獲物を捕まえる予行演習みたいなもの。ネコの私にとってはあくまで真面目な行為なのだ。

 ご主人様はそんな私の姿を見て微笑を浮かべていらしたけれど……そのうち、軽くため息をつかれた。

「しつけ、っていう感じじゃないわね」

 人間の言葉は私には分からない。ご主人様は魔女なのだから、ネコ語くらいお話になれるはずだけれど。

 お声にも少し疲れたような響きが感じられて、私は少し心配になってしまった。ご主人様の方へとにじり寄ると、お膝に頭を載せて問いたげな視線で見上げる。

「にゃ〜ん?」

「ネコになっても心配してくれてるの?
 ……あなた本当にバカなのね」

 優しく、困ったような表情でご主人様が何かおっしゃっている。なんだか寂しげなご様子。

「菜々、あなたを失いたくないのよ」

 たおやかな手でのど元をくすぐられると、こそばゆいような気持ちよさが溢れてきて、私は目を細めてごろごろと喉を鳴らした。

「分かってるの?
 あたし、あなたに恋しているのよ……」

 そっと頭を撫でてくださる。

 いやあ、ネコ語で話してくだされば理解できますのに、ご主人様も人が悪い。いや失礼、魔女が悪い。

 しかしその手つきに深い愛情が込められているということだけはハッキリと感じられたので、私は精一杯のお礼の気持ちを込めて、一声にゃあと鳴いて差し上げた。

「あたしだけじゃない。みつきだって……。
 つかさだってあやしいものね。
 本気じゃなければあんな力は使わないはずだもの」

 ふう、とため息をつかれるご主人様。

「こんなことを言ったら、あなたはきっと笑うでしょうね。
 あたしには、みつきみたいに面と向かって口にする度胸なんてないのよ。
 ……今のままで十分、幸せなのだから」

 やんわりと私の頭と背中を撫でさすりながら、ご主人様はなおも私に向かって何かおっしゃっている。

「あたしもみつきも、魔女である前に一人の女の子なのよ。
 それを忘れないでね……」

 ご主人様のお声はとても優しいのだけれど、やはりどこか寂しそうな響きが感じられた。

 ……よし、ここは私がなぐさめて差し上げなければ。ご主人様のお顔を舐めて差し上げようと、ぐぐっと身体を伸ばす。

「な、舐めるのはダメよ」

 ぺろり、と柔らかい頬をひと舐めして差し上げると、ご主人様はなんだか恥ずかしそうなお声を上げて私の頭をきゅっと抑えられた。

「この舌は凶悪ね……」

 あらら、お気に召さなかったのでしょうか。魔法をかけて頂いた自慢の舌ですのに。
 私は自分の前足をぺろぺろと舐めながら、何かを尋ねるように首をかしげてご主人様を見上げた。

 ご主人様は随分と眠たそうなお顔をされている。

「ああ、今日は無理に代わってもらったから……そろそろ限界ね。
 悪いけど、元に戻してもらう時はみつきに頼んでね……」

 そのまま……ご主人様はベッドに横になられたかと思うと、すやすやと寝息を立てられ始めたのだった。



★★★★★★★★★★




 ご主人様がお休みの間、私は赤い毛糸玉をもてあそんで楽しんでいた。先ほどにはエキサイティングではなかったけれど、暇を潰すには十分というものだ。

 しばらくしてお目覚めになった時、ご主人様は『もう一人の』ご主人様に代わっておられた。

「うーん……おはよう、菜々ちゃん」

 寝ぼけまなこで私を見つめておられたご主人様は、突然驚きの声を上げられた。

「……わっ、菜々ちゃん、どうしたのそれ!?」

 どうした、とはどういうことだろうか。私はいまひとつ事態が理解できずに、『にゃん?』と鳴いて小首をかしげた。

「うわー、ナナネコだね! かわいい!」

 ご主人様はパッと花の咲いたような明るい笑みを浮かべられると、おいでおいで、と手招きされので、私はご主人様の足下に駆け寄った。

「にゃーにゃ、にゃー?(お名前はなんていうのかしら?)」

 おや、こちらのご主人様はネコ語が堪能でいらっしゃる。

「にゃにゃ、にゃん(菜々と申します、ご主人様)」

 私は恭順のしるしに頭を垂れると、名を名乗った。

 きゃっ、と嬉しそうなお声をあげて、ご主人様が私の頭を抱きしめる。

 鼻先にご主人様の胸のささやかなふくらみが押しつけられる。オス猫なら嬉しいのかもしれませんが……ちょ、ちょっと息苦しい気がしますねこれは。

「にゃ〜ん」

 少しだけ苦しそうな鳴き声を出して、そのことを主張する。

「にゃーにゃー(ごめんごめん)」

 ご主人様はネコ語でおっしゃると、私の頭を解放してくださる。そのまま頭をナデナデされると、嬉しさが溢れてきて、耳がひとりでにぴくぴくと動いた。

「にゃにゃん、にゃん、にゃー(さあ、たっぷり遊んであげますよー)」

 ニコニコと微笑んでご主人様はおっしゃった。



 元気いっぱいのご主人様とじゃれあったり、追いかけっこや玉取り遊びをしたりして……私はすっかり疲れ果ててしまった。

「ふにゃーん」

 情けない声を上げて身体を伸ばすと、そのままうつぶせになる。尻尾もだらりと垂らして『もう動けない』ことをアピールする。

「あらら、疲れちゃったかな?」

 それにしても……ご主人様は人間でいらっしゃるのに、ネコの気持ちをよく理解しておられる。私はたいそう感心した。
 どこを触られると気持ちよいか、とか、どんなことに興味を引かれるか、とか、細かい仕草の意味であるとか……そういったことをよくご存じなのだ。さすがは魔女、というべきか。

「じゃあ、そろそろ元に戻してあげますねー」

 ご主人様は相変わらず機嫌のよさそうな笑みを浮かべながらおっしゃった。

「でもね、ありさちゃんのかけた魔法はとっても強い力を持ってるの。
 わたしにはきちんと解けないかもしれないな〜」

 そうおっしゃると、床に潰れている私の額に手を当てて、一生懸命に何かもごもごと唱えられ始めた。
 これが魔法なのだろう。ぼんやりとしたまま、私はその不思議な言葉の響きに耳を傾けていた。

 しばらくそうしていると……はて、どうしたことだろう。
 何かが私の心からするりと抜け去っていくような……。

「うーん、菜々ネコくらいにはなったかなー」

 ……気づくと、私は『人間』の自分を取り戻していた。

 だらしない格好に気が回るやいなや、慌てて身体を起こすと絨毯の上に正座してお嬢様に頭を下げる。

「ご主人さ……み、みつき様……失礼いたしました」

 我ながらひどい格好だ。カフスのボタンは外れているし、エプロンやリボンはズレているし……あれだけ散々動き回ったのだから当たり前だけれど。

 そうだ……ついさっきまで私はネコだったのだ。ありさ様の魔法ですっかりネコになりきって、にゃんにゃん鳴いたり、喜んで毛糸玉にじゃれついたり。
 改めてそのことを思い出すと、情けないやら恥ずかしいやらで顔が赤く染まっていくのが分かった。

 しかし、それもようやく済んだ。私はホッと胸をなで下ろした。みつき様さまさまである。

「菜々ちゃん、ごめんねー。
 やっぱり魔法がちゃんと解けなかったの」

 ……え? みつき様のお言葉を聞いて、私は頭が真っ白になった。

「今度ありさちゃんの番になるまで我慢してねー」

 笑顔のまま、みつき様はそうおっしゃって私の頭を撫でられる……って、こここ、この感触はっ!

 慌てて頭に手をやった。ふさふさ。

 ぐあっ。私はショックを受けて姿見の前へと走った。や、やっぱり……。頭の上には、相変わらずネコ耳が鎮座ましましているではないか。

 ということは……。首を巡らせて背中を見ると、果たせるかな、そこには尻尾が揺れていたのだった。

「お嬢様ぁ〜。
 これじゃ恥ずかしくてお嫁に行けません……じゃなくて、お仕事に差し支えますよぅ」

 お屋敷でネコが働いているなんて、何を言われるか分かったものではない。そう思ってみつき様に泣きついたが、取り合ってくださらなかった。

「いいじゃない、菜々ちゃん。似合ってるんだし」

 そういう問題ではない。

「そ、そうじゃなくてですねぇ〜!」

「まあまあ、これでも見て落ち着いてね」

 みつき様が手元に持っていらしたのは……さっきの赤い毛糸玉ではないか。

 うっ……私はその毛糸玉から目がそらせなくなっている自分に気づいた。
 そ、そんな。これではまるで……ネコの反応ではありませんかっ。私は大いに焦った。

「ほーら」

 しかし、みつき様が絨毯に毛糸玉を転がすと……矢も盾もたまらず、といった感じで私は毛糸玉に向かって飛びついていたのだ。

「にゃっ!」

 思わずネコのような鳴き声が漏れてしまう。恥も外聞もなく、思いっきり床にダイブしつつ玉を捕まえて……やった! と思った瞬間にハッと我に返った。

「お、お、お嬢様ぁ〜! 何をさせるのですかっ!」

 ネコ耳の生えた頭から盛大に湯気を吹き出して、私はお嬢様に猛抗議を開始した。それをやんわりと受け流すと、お嬢様はくすくすと笑っておっしゃった。

「やっぱりちょっとネコが残っちゃったみたいね。
 でも可愛いなぁ〜」

「そりゃ、見ている分には面白いかもしれませんけどもっ。
 やっているこっちはたまりませんよぉ〜」

「あはは、ごめんねぇ。でも本当に仕方ないのー。
 あ、それと……強い刺激を受けると、またネコに戻っちゃうかもしれないから気をつけてね」

 気をつけるって。どう気をつければよろしいのでしょうか。

 とほほ……。私はがっくりと肩を落としたのだった。



★★★★★★★★★★




 予想に反して、ネコ姿の私はお屋敷で大好評を博した。

 特に同僚のメイドたちにはやたらとウケが良く、私を見つけると寄ってきて『可愛いー』とか『触らせてー』とか言って耳や尻尾にタッチしてくる。
 そこでされるがままになっていると、本当に可愛がられている飼いネコのような気分になってくるので、私は慌てて遁走するといった具合だ。
 中には『いいなー、私もつけて欲しいなー』とか言い出すメイドも居る始末で、どちらかというと同情を欲している私にとってはいい迷惑であった。

 良識ある我が相棒、胡桃ちゃんはただ『可愛いじゃない』と言っただけで笑ってくれているから、私は少し救われた気分になった。

 が、しかし……この世知辛い世の中、どこにでも人の気持ちを考えない輩は居るものである。

「ぷーっ! 
 菜々、なにそれ!? わはははははっ!」

 ネコ姿の私を目にした澄さんはおなかを抱えて笑い転げた。

「見せ物じゃありませんってば……お金とりますよ」

 私はムッとして言ったものだ。

 情けない気持ちを反映して、ぴょこんと片方のネコ耳が垂れる。

「あはははははっ!
 似合ってる、似合ってるよ菜々!」

 それを見て、澄さんはいっそうおかしそうな笑い声を上げるのだった。

 こ、この人は……黙っていれば『クールで知的なお姉様』を気取っていられるというのに、こんなだから『頼れる姉御』のレベルに留まっているのだ。
 なんという機会損失。資源の無駄遣い。もったいないとは思わないのか。
 ほのかな憧れを心に抱いた年下のメイドたちを根こそぎ幻滅させても構わないというのか。悲嘆に暮れて枕を涙で濡らすのが可哀想だとは思わないのか。
 つらつらと心の中で皮肉を並べてみたが……段々むなしくなってきたので途中でやめにした。

 それにしても、どこがそんなに面白いのだろうか。
 思い切り恨みがましい目つきを澄さんに投げかけた私だったが、『その格好で今度買い出しにいこう!』などと不穏当な言葉が飛び出してきたので……そそくさとその場を引き払うことになったのだった。



 ……本当は耳も尻尾も隠して、いつも通り平穏に暮らしたかったのだ。

 けれど、お屋敷の中で帽子の類を着用することは認められていないし、尻尾の方もスカートやらペチコートやらの中はかなり窮屈で、どうしても落ち着かないので結局穴から外に出してしまっている。

 まさにネコ丸出しである。

 しかも、ネコなのは外見だけではないから始末が悪かった。

 お嬢様のおっしゃった通りネコの習性が残っていて……例えばふるふると揺れるものがあると思わずじゃれついてしまう。風に揺れるカーテンや洗濯物ならばまだ良いのだが、他のメイドのスカートの端なども、ちらちらと目についたが最後、気になって気になって仕方がなくなってしまうのだ。
 我慢しきれずについには飛びかかってしまうこともある。キャッと飛び退くメイドに追いすがっていき、スカートにしがみついたところで我に返って平謝り……といった事件も一度や二度のことではなかった。

 他にも、会話の途中でぼうっとしているといつの間にかネコ語が口から漏れだしていたり、普通にしゃべっているつもりなのに『にゃん』やら『にゃあ』やらが語尾にくっついていたり。お食事の時にはシチューの入ったお皿を直接ぺろぺろと舐めてしまうし……。
 そのことに気づいた瞬間の恥ずかしい気持ちといったら……あああ、穴があったら入りたいとはこのことである。
 うう、ありさ様、お恨み申し上げますよぅ。



 そんな生活が続いて、ありさ様はなかなかおいでにならないし、一向にネコが抜けないしで、もう半分諦めかけていたある日のこと。

 私が自室で本を読んでいると、胡桃ちゃんがお仕事を終えて帰ってきた。

「あら。読書するネコちゃんも案外と可愛いらしいわね」

 最近は胡桃ちゃんまでこんなことを言うのだ。

「そんなこと言ってると、襲いかかっちゃうゾー。
 野生の恐ろしさを思い知らせちゃうゾー」

 私もなんだかネコ式の切り返しが上手くなってきた気がする……まったくもって嬉しくないけど。

「そんなこと言っても、菜々ちゃんじゃね。
 飼いネコって感じだし、怖くないなあ」

 胡桃ちゃんはくすっと笑った。

 私は無言でぱたんと本を閉じると、すたすたと胡桃ちゃんに近づいていく。

「がおー!」

 唐突に私が手を振り上げて襲いかかると、きゃー、とふざけたような悲鳴を出して逃げる胡桃ちゃん。

 ばたばたと追いかけっこが始まった。

 とはいっても、こんなことはちょっとしたおふざけで済む……はずだったのだが、その途中で思わぬアクシデントが発生した。

 私の脇を抜けて背中に回った胡桃ちゃんが、尻尾を思い切り踏んづけてしまったのだ。

「ふにゃっ!!」

 尻尾から脊椎を突き抜ける激痛に、思わずネコっぽい叫び声を上げてしまう。

「……大丈夫? 菜々ちゃん」

 イタタ……。あまりの痛みにアタマがクラクラしてきた。

 っていうか、あれ……? 私は何をしていたんだっけ?

 どうにか最初のショックから立ち直ると、私は混乱する思考をまとめようとして頭をぷるぷると振った。

 ……はて、目の前のこの方はどなただろう。新しいご主人様だろうか。なんだかこの方を追いかけていたような気がするのだが。

「にゃ、にゃあ……」

 それにしても痛い。とりあえずそのことを訴えてみた。

「な、菜々ちゃん、ホントに大丈夫? ごめんね……」

 おや、ネコ語が通じていないようだ。ご主人様がおっしゃっていることも私にはさっぱり分からない。これは弱った。

 でも確か……そうそう、ご主人様に襲いかかるとかなんとか、そういう遊びだった気がする。いやはや、こんなところで中断しては申し訳ない。

「にゃん!」

 痛みから立ち直った私は、目の前のご主人様に思い切り飛びかかった。

「きゃっ」

 私よりもずっと小柄なご主人様をベッドの上に押し倒してしまう。

 ほら、つかまえたっ。ほめてほめてー。

 私は得意になってご主人様の頬に自分の頬をすりつけた。

「な、菜々ちゃん、一体どうしたの……?」

 あら、まだ刺激が足りないですか?

 じゃあ……私の自慢の舌で舐めて差し上げようかな?

 何を隠そう、私の舌は魔法の舌なのだ。ネコでも人間でも、この舌で舐められると、とってもいい気持ちになってしまうのですよ。

「にゃーん」

 ぺろり。私はご主人様の鼻の頭やら頬やらを舐めて差し上げた。

「きゃっ! やめてよ、くすぐったいじゃないの」

 ちょっと嫌がるようなそぶりを見せたご主人様に構わず、私はさらにあちこちをぺろぺろと舐めて差し上げる。のど元、首筋、耳の中や裏側……。

「ふああっ! なにこれ!?
 ちょっと菜々ちゃん、やめてってば!」

 ご主人様は顔色が少し赤らんできて、息が上がって……いくぶん興奮なさってきたご様子。これは張り切らなくてはいけませんな。
 私は一層熱心に舌を使った。

「どうして……こんなの……おかしいよっ! ひゃっ!」

 おっと、まだ遊びは途中なのに、逃げちゃあいけませんね。ベッドから這い出そうとするご主人様を身体の下にがっちりと押さえ込んで、私はご主人様の肌を舐め続ける。

「きゃっ! な、なんで……こんなに……気持ちいいのっ!?」

 ご主人様はその刺激に参ってしまったかのように、可愛らしい声を上げて目をきつく閉じておられる。

「にゃーん」

 あらあら、もうギブアップですか? ご主人様なのにだらしない。

「菜々ちゃんっ、やめてっ! はぅっ」

 だめだめ、人間の言葉なんて分かりませんよ。ネコ語でおっしゃって頂かないとね〜。ぺろぺろ。

「〜〜〜〜〜〜〜!!」

 やがてご主人様は、声にならない声を上げて身体を震わせると、へたりと力が抜けてしまわれた。

 あらら。私はまだ遊び足りないのですけどもねえ。この程度ではご満足頂けたかどうか心配というものです。

 ……っと、そうだった。ネコと人間では気持ちよい場所も違うのですよね。私はそのことを思い出した。あぶないあぶない、あやうくご主人様のご期待に応えられないところでありました。

「にゃあん」

 目をつむって薄く口を開けたご主人様のお顔をぺろりと一度舐めると、今度はご主人様の足下へと移動する。

 スカートの中へと頭を突っ込むと、口を使ってごてごてとした下着をひっぺがしていく。いやはや、こんなに何枚も下着をつけるのは大変そうですこと。

 ようやく素肌が露わになって、ご主人様の太股を舐めて差し上げることができた。じんわりと汗の浮かんだ腿の内側に舌を這わせると、しょっぱい味が口の中に広がる。

 ぴくり、とご主人様の身体が震えた。よかったよかった。これならばご満足頂けそうだ。

「や、やめてぇ……」

 弱々しいお声と共に、スカートの上からご主人様の手が私の頭を抑えたが、その腕にはほとんど力が入っていなかった。

 そのままゆっくりとご主人様の柔らかい素肌へと舌をすべらせていく。その刺激を与えるたびに、ご主人様の身体が小さく震えて、極上の快楽を味わっておられるのが分かる。

「んっ!」

 何かを我慢しているかのようなお声をあげるご主人様だが、もう抵抗しようとはなさらない。ふむ、そろそろよろしいですかな?

 たっぷりと快感を感じて頂いた後で、私は股の間へと舌を伸ばしていく。むむ、どうやら汗とはまた違う液体がしみ出しているようですな。
 そのしずくも余さずぺろぺろと舐め取ることにする。ふうむ、ちょっぴりおかしな味ですな、これは。

「ああんっ!」

 大分せっぱ詰まってきたようですね。それでは……最後はここなんかどうでしょう? 私はその液体の出所のあたりに狙いを定めた。

「にゃ〜あ」

 思い切り気持ちよくなってくださいませ。

 私は小さな裂け目へと舌を伸ばすと、ぺろり、とひと舐めして差し上げる。

「んんーーーーーーーーーっ!!」

 びくんびくん、と激しく身体を震わせて――ご主人様は最高の快感を味わわれたのだった。



 ハッと我に返ると、ベッドには頬を赤く染めた胡桃ちゃんの姿があった。

 小さい身体を抱きしめて、目尻に涙をためて私を見つめている。いつもはきっちり身につけているエプロンドレスがところどころ乱れていて、ひっぺがされた下着が足下にまとわりついている様はなんだか扇情的であった。

 ……はううっ、なんてことを! 私は自分のやってしまったことを思い起こして青くなった。

「ご、ごめん! ホントにごめん!
 これは私じゃなくてネコの私のせいで……」

 わたわたと必死に弁解する私に、胡桃ちゃんは怒りを爆発させた。

「菜々ちゃんの……バカーっ!」

 ぼすっ。胡桃ちゃんの投げた枕が私の顔面を直撃した。

 枕どころではない。本やら目覚まし時計やら、胡桃ちゃんは目についたものを手当たり次第に放り投げてくる。

「イタッ……やめっ! やめて! ふにゃっ!」

 こ、これはたまらない。私は文字通り尻尾を巻いて逃げ出したのだった。



 ――それからしばらくの間、胡桃ちゃんは一言も口をきいてくれず、仲直りするために奔走する私の姿は『ご主人様の気を引きたがるネコのようだ』とお屋敷で評判になった。

 
 


 

 

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