胸の中の、ちいさな…


 

 


《序》



 お母さんがいなくなって、黒い服をきたおとなの人が、たくさんウチにやってきた。

「ですから、皐月(さつき)は、私が引き取ります……」
「ふざけないでっ。いまさら出てきて、父親ヅラするんじゃあないわよっ。だいたいあんたさえいなければ、姉さんだって…………」
「お前、少し落ち着きなさい…」

 みんなは、となりのへやで「おとなのはなし」をしている。

 …泣いても、もう、お母さんはかえってこない。

 だからわたしは、大きなクマのウェンズデイを、ギュッとだっこした。
 こうしていれば、ウェンズデイがわたしのなみだをふいてくれるから……。

 ──どのくらいのあいだそうしていたのか…、カタッと音がして、へやにだれか入ってきた。
 小学校3、4年生、わたしより少し上だろうか? その男のコはわたしにちかづいてきて、言った。

「はじめまして、さつきちゃん。僕は、『かわにし たかあき』って名前なんだ。
 お父さんが言ってた。今日から、僕はさつきちゃんのお兄ちゃんだって」

 その子はそういうと手をのばして、なんどもわたしのあたまをなでてくれた。
 やさしそうなかおをして、なんども、なんども……。

 ──だからわたしは、けっきょく…、泣いてしまった…………



《1》



「皐月、どうした? 遅刻するぞっ」

「あ、ごめん、兄さん」

 皐月は机の上の鞄を手に取ると、急いで玄関の方へと向かった。
 背中にまとめられた長めの髪の毛が、さらさらと揺れる。

 そこには、すでに靴を履いた貴章(たかあき)が待っていた。

「じゃあ、行くか」
「うん」

 二人揃って家を出る。
 家の前の道を少し歩き、公園沿いの通りへと出た。二人の、いつもの通学路である。
 9月の中旬。公園の木々はまだ青々としていたが、それでもその色は夏の緑とは違っていた。

 皐月は、隣を歩く兄の顔を見上げる。
 彼女より二つ年上の高校3年生、今年で18になる。端正と言っていい顔に、似合わない黒縁のメガネをかけている。

 兄は彼女の友人達に、おおむね好評である。いわく、
「川西(かわにし)先輩って、まじめで優しそうだし、実は顔もかっこいいし、イイカンジだよねっ」
 …となる。

 もっとも、その後に
「でも、ちょっと堅すぎるって言うか、彼女になったら結構疲れそうだよね」

 …と続く。

 皐月にとって、その評価はあまり納得のいくものではなかった。
 なぜなら兄の「堅すぎる」と評される部分こそが、彼の周囲に対する誠実さと優しさとの現れだということを、知っているから。
 そして、まさしくそれこそが、皐月の貴章に対する思慕の感情の中核ともなるべきものだったから……。

「…どうした、皐月?」
 気がつくと、兄が彼女の顔を不思議そうに見ていた。

「あ…」 恥ずかしさに、顔が赤くなりそうになる。
 それをあわててごまかそうとしたとき、

「おはようっ、川西兄妹。朝から、仲がいいわね」

 …そう、声がかけられた。

「やあ、おはよう、美紀」
「おはよう、美紀ちゃん」

 それは二人の幼なじみである桂木 美紀(かつらぎ みき)だった。
 貴章の同級生で、皐月にとっても姉のような存在である。

「それにしても、朝から見つめ合っちゃって……。
 なんか、妖しいわよ…、ホント」

「何言ってるんだ。兄妹、仲がいいだけだよ」

 そんなふうに話しながら並んで歩く貴章と美紀の後ろを、小柄な皐月がトコトコとついて歩く。
 小さな頃からどれほど繰り返された風景だろう。

 ──なのに、

“美紀ちゃん、変わったよね?” ……皐月は、そう思う。

 彼女はいつも後ろから、並んで歩く二人を見てきた。
 だから、わかる。

 いつの頃からだろう。
 中学生の頃だろうか。

 その二人の姿のうち、美紀のそれが徐々に変わっていっくように感じ始めたのは……。

 それまで短かった髪を、伸ばした。少しづづ、体の線が柔らかな曲線を帯びだした。それまでのような、高い声を使わなくなった。時折、すこし上目遣いに隣にいる兄を見上げるようになった……。

“ちくん──っ”

 皐月の胸の中で、小さな、とても小さな痛みが生まれる。

 友人達は、二人はお似合いだと言う。
 この夏まで剣道部の副主将であった兄と、水泳部のホープとして活躍した姉のような幼なじみ。。

 似合わないメガネに隠れているが、実は整った顔立ちの貴章。
 つり目がちな彫りの深い顔と、水泳選手特有のきれいなスタイルをした美紀。

 皐月の、自慢の兄と姉…。

 ──そう、だから、この痛みはただの気のせいなんだ。

 それは、彼女が自分自身にかけた、祈りだったのかもしれなかった………。



《2》



「そこの、あなた」

 その日の夕方、買い物の途中に、皐月は街中で突然声をかけられた。
 貴章と皐月の両親はこの春から、海外に赴任していた。そのため、食事の支度は彼女の仕事であり、その準備をしていたところだった。

「え?」
 振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。

 かなり、女性としてはスラリと背の高いひとだった。
 化粧気はなく、着ているものも白のブラウスに茶のスラックスというシンプルな格好でったが、それでも彼女は綺麗だった。
 年齢は……、なぜだろう、よくわからない。顔立ちや肌の感じは20代後半くらいな筈なのに、なぜかそれが間違っているような、そんな違和感が感じられた。

「あの……、なんでしょうか?」
 皐月はおずおずと、そう訊ねた。

「そうね、ここじゃあなんだし、ちょっと場所を移ろうか」
 彼女は勝手にそう言い切ると、スタスタと側にある喫茶店へと入っていった。

 ……そして、

「あ……」

 なぜだろう。皐月は、彼女のその後ろ姿に引き寄せられるように、喫茶店のドアをくぐったのだった…。



 ……気がつくと、皐月は見知らぬ女性と向かい合って、コーヒーを飲んでいた。

「さて、」 唐突に、彼女が話し始めた。
「私も、こう見えて結構忙しくてね。さっさと用事を済ませちゃおうか」

「あの……」
 何とか事態を把握しようと、口を開こうとする皐月。
 しかし、

「はい、これ。あなたに、あげるわ」
 そんな彼女に全く頓着せず、その女性はそう言って小さな蒼色のガラス瓶をテーブルに置いた。

 大きさは、ドリンク剤の瓶くらいだろうか。素っ気ないデザインで、瓶の口にはコルクで栓がしてあった。
 中には何か、透明な液体が入っている。

「あの……、これなんですか?」 質問する皐月に、

「媚薬よ。」
 その女性は、簡潔に答えた。

「え……? び、びやくって……?」

「『媚(こ)びる、くすり』って書いて、媚薬。
 ……まさかあなた、媚薬って知らない?」

「いえ、まあ、たぶん知ってるとは思いますけど……」

 そんなふうに戸惑う皐月に、やっと気づいてくれたのだろうか。彼女は説明しはじめた。

「私のことは、まあ、魔法使いだと思って」

「魔法使い、ですか……?」

「そう。実際には違うけど、そう思っってくれれば、話が早いわ。
 そして私は、あなたの感覚では理解できない理由で動いている。
 今回、これをあなたに渡すのには、私なりの理由がある。でも、たぶんあなたにはその理由は理解できない。
 だからあなたは、通りすがりの魔法使いに不思議な薬をもらったって、そう思ってくれればいいわ」

 ……理解は、出来ない。
 しかし皐月には、なぜか彼女が本当のことを言っているのがわかった。

「その薬は、さっきも言ったとおり、媚薬よ。ただし、特別な媚薬。
 それを2、3滴も飲んだ人間は、だいたい2時間くらいの間、性欲の虜になるわ。
 そして、その媚薬の特殊なところは、その先にあるの。
 薬の効いてる間、その相手は、ほぼ飲ませた人間の言いなりになるの」

 ……女性は話し続ける。
 その声はまるで、はるか遠くから響いてくるもののように、皐月には聞こえはじめる……

「そしてその間、その人間は極めて暗示のかかりやすい状態になるの。
 まあ、本能がむき出しになり、その分精神の深いところに暗示を刷り込ませることが可能になると考えればいいわ。
 覚えておきなさい。要は、その時の快楽が大きければ大きいほど、本能がむき出しになればそうなるほど、暗示は深くかかるの」

 ──女性の底知れぬ深い瞳が、急に大きくなった気がした。
 まるで皐月の視野、全てを覆うように……。

「大丈夫、私はそれを渡す代償を、あなたに求めたりはしない。
 あなたはただ、あなたのしたいように行動すればいい。
 安心なさい。『私』は……、いえ、『我々』は決して嘘はつかない。
 あなたが、あなたとして、それを使う。
 そのことが、こことは全く違う『場所』、全く違う『時間』に、『我々』の意に添う結果を生み出すの……。
 だから、あなたは何も心配しないで、あなたの思う通りに、それを使えばいい……」


 ───そして気がつくと、皐月はたった一人で、テーブルに座っていた…。



《3》



「これで、いいんじゃない?」
「そう? それじゃあ、持ってこうか」

 皐月は友人の美奈子と一緒に、今では使われていない旧校舎にやってきた。
 美奈子の使っていた教室の椅子が壊れてしまい、その代わりのものをもらいに来たのだ。

 椅子を持ち、倉庫となっている教室から、廊下に出る。
 そして窓にふと目を向けたとき、友人が「しっ!」と言った。

「どうしたの?」皐月は小声で訊ねる。

「ほら、あそこっ」美奈子は頭を低くして、窓から校舎裏を指す。
 そこには、2つの人影があった。男子生徒と、女子生徒。

 旧校舎裏は、滅多に誰もやってこないポイントで、告白等の行為のスポットの一つとされていた。
 彼女の興奮と、とっさに隠れたわけは、まあそういうことだった。

“誰だろう? …もしかして、知ってる人かなあ”
 皐月もどきどきしながら、友人の脇からそれを覗く。そして、……息をのんだ。

 その二人は、貴章と、美紀だった。

「あ……」

 彼らは、こちらに気づいていない。

 美紀の様子は、いつもと違っていた。
 いつもの、明るくて活発そうな表情ではない。皐月が初めて見るような、なにか恥ずかしがっているような、甘えるような、不安そうな、訴えるような……そんな顔をしていた。

 貴章がどんな顔をしているのかは、この角度からは見えない。

「…ねえ、あたしは、皐月ちゃんとは違うの。妹とかじゃあ、ないの。
 だから貴章に、もっと、一人の女の子として出来ることをしてあげたいし、してもらいたいの。
 いつもいつも、皐月ちゃんと3人で、とかじゃなくて……」

「…………」

 貴章の声は、美紀の声と比べ低く、聞き取りづらい。
 それでも、なにか彼女に対し、少し困ったようなしゃべり方をしているのがわかった。

「じゃあ、それを見せてよ。お願いだから…」

 そう言って、美紀は貴章に近づく。
 そして貴章もそんな彼女の肩に手を置き、そして……

 二人の顔が寄せられた。

“あ……”

 思わず、小さな声を漏らす皐月。
 それをどう見て取ったか、友人が彼女の肩を小さくつついた。

“さつき、行こっ……”

 そうして、なんだか去りがたそうにしている皐月と、腰をかがめながら変な体勢で椅子を運ぶ美奈子とは、コソコソとその場を離れた。


「いや〜、あの二人、実はちゃんとつき合ってたんだねえ」
 うんうん、と頷きながら、美奈子は椅子を持って歩く。
 放課後の廊下は、明日が休日ということもあり、もう生徒の姿もほとんどなかった。

「うん……」
 どことなくあやふやに答える、皐月。

「あれ、もしかして、あんた知らなかったの?」

「…だって、二人とも、なんにも言ってくれなかったし……」

「……皐月?」
 美奈子が、何かに気づいたように、皐月を見る。

「え?」 …そのとき、皐月は初めて気がついた。

 皐月の頬を、水滴が滑り落ちる。
 知らないうちに、彼女の顔は涙で濡れていた。

「あれ、なんで……?」
 慌てて、頬を拭う。
「ううん、何でもない、ホント。…おかしい、なあ………」

「はあ…」
 美奈子が軽くため息をつき、椅子を下に置くと、ポケットからハンカチを出して、皐月の顔を拭いてくれた。

「……、っ……。
 ──ありがとう、美奈ちゃん」

「ああ、いいよ、いいよ。まあ、しゃあないからね〜。
 皐月が筋金入りの『お兄ちゃん子』ってことは、よく知ってるしね」

「そんな……」

「でもさ、皐月。
 お兄さんだって男だし、いつか女の人と一緒になるんだよ?
 皐月が女の子で、いつか男の人と一緒になるみたいに、ね。
 …桂木先輩も、いい人だしさ。うん、よかったんじゃない?」

 美奈子の手が、皐月の頭を何度も撫でてくれる。
 それが子供扱いされているようねイヤでもあるし、また暖かくもあった。

「……うん、そうだよね」
 皐月は、なんとか涙がこぼれるのをおさえて、顔を上げる。

「そうよっ。
 大丈夫、皐月にだって、そのうちカッコイイ彼氏が出来るんだから。
 そのときは、あのシスコン兄さんの方が、おろおろすることになるんだからねっ」

「そんなの……、」

「なに言ってんのよ。
 あんただって、結構男子から人気あるんだからねっ。
 小柄で、ほっそりしてて、ちょっと内気で、
 …顔だって可愛いんだし」

 美奈子は腕をぶんぶん振って、力説する。
 周りに人が居ないとはいえ、けっこう恥ずかしかった。

 ……そこに、

「あっれー、皐月ちゃんだ。
 こんな時間に、なにしてんの?」

 振り向くと、そこには貴章と美紀がいた。
 美紀の顔にはさっき旧校舎で見たような表情はなく、いつもの見慣れた笑顔が浮かんでいる。
 そのとなりの貴章も、そうしている。

 だから皐月も、いつも通りの顔で、二人に答えた。

「あ、ちょっと、用事があったの」

「そうなんだ。もう、終わったの?」
 少し前までは部活に追われていた二人だが、今はもう引退した身だ。

 美紀に尋ねられ、一瞬どう答えようかとした皐月に、

「もういいよ、皐月。あとは、一人でいいから」
 美奈子がそう言ってくれた。
「せっかくお兄ちゃんとお姉ちゃんが迎えに来てくれたんだから、一緒に帰りなよ」

「あ…、うん。
 ありがとね、美奈ちゃん」

 皐月は急いで教室に戻ると、鞄を抱えて来た。


 3人で校門を出る。

 いつものような、帰り道。

 貴章と美紀が並んで歩いて、そのあとをトコトコと小柄な皐月がついて歩く。

 いつもの、風景。

 だけど、

「ねえ、美紀ちゃん」 皐月は話しかけた。
「あした、買い物に行こうと思うの。一緒に、行かない?」

 …その質問に一瞬表情をこわばらせたのは、貴章の方だった。
 皐月はそれを、敏感に感じ取った。

 しかし美紀は、何の不自然さもなく皐月の方を向くと、いつもの笑顔で言った。
「あー、ごめんね、皐月ちゃん。
 あたし、明日はちょっと用事があるんだ。また、こんどね」

「あ…、うん。ぜんぜん、いいよ。
 私も、ちょっと言ってみただけだし…」

「ううん、じゃあ、来週っ。今度の土曜日に一緒に行かない?」

「うん。じゃあ、そうしようか…」

 その会話の間、貴章はずっと前を向いて歩いていた。
 だから皐月には、彼がどんな顔をしているのかわからない。

 そんな話をしているうちに、公園の前の通りに出た。
 美紀とは、ここで別れることになる。

「それじゃあ、また、来週ねっ」

 美紀がそう挨拶し、二人と別れる。

 兄と、妹。
 二人で歩く……。

「ねえ、兄さん」 皐月が声をかける。
「兄さんは、どうかなあ。明日、一緒にお買い物つき合ってくれない?」

「…ごめんな、皐月。明日は、俺も、ちょっと用があるんだ」

「そう……」

 そのあと、家につくまで、二人の間に会話は無かった。


 ──自分の部屋に戻り、机の上に、鞄を置く。
 皐月は、制服のままベッドに『ポスンッ』と横になった。
 枕元にいる古い友人、今では小さくなってしまったぬいぐるみの、クマのウェンズデイをギュッと抱きしめる。

“明日は、二人とも用があるんだ……”

 その意味が分からないほどに、いくらなんでも皐月は鈍くはなかった。

『いつもいつも、皐月ちゃんと3人で、とかじゃなくて……』
『お兄さんだって男だし、いつか女の人と一緒になるんだよ?』

 頭の中が、ぐるぐるする。
 胸の中、“ちくん──っ”と、小さな、とても小さな痛みが生まれる。

 ごろん──と、ウェンズデイを抱いたままベッドの上で寝返りをうつ。

 ……そのとき、

「あれ……?」

 窓際に、差し込んでくる太陽の光を受け反射する、深い蒼色の、きらめき。

「これ、こんなところに置いたかなあ……?」

 それは、いつか“魔法使いの女の人”からもらった、“魔法のクスリ”だった。

「……? まあ、いっか」

 そして皐月は、その瓶をどうしようか迷ったあげく、机の引き出しへとしまった……。



《4》



 三人の距離が、変わった。

 微妙な、それでいて確かな変化……。

 寂しくはあったが、それは仕方がないこと……、そう思っていた。

『その日』 が来るまでは……………


“兄さん、どうしたんだろう……”

 時計の針は、もう10時を回ろうとしていた。
 テーブルの上には、冷えてしまった二人分の夕食が並んでいる。

“カチッ、カチッ…”

 ダイニングキッチンに、時計の針が時を刻む音だけが響いている。

 昼間出かけた貴章が、まだ帰ってこない。
 心配になり、少し前に携帯に電話したが、つながらなかった。

“おなか、すいたな……”

 兄は多分、美紀と会いに行ったのだろう。
 最近は、二人で会っていることが多いらしい。
 それはわかっていた。

 寂しいけど、仕方がない…。

“私たちは、兄妹なんだし。
 どんなことがあったって、兄さんは、私の兄さんだし……“

『お兄ちゃん子』…美奈子は、皐月のことをそう言った。

 それは正しいんだろう……、皐月はそう思う。

 彼女がまだ小さかった頃、皐月の家は、母子家庭だった。
 狭い、小さな部屋。仕事が忙しくて、それでも母は出来る限り娘と一緒にいてくれた。
 だから、皐月は寂しくはなかった。周りの子供達が父親と一緒にいると、訳も分からず胸が痛んだけど…。

 7歳の時、その母が死んだ。交通事故だった。

 ……その時初めて、父親に出会った。

 訳も分からず、突然現れた父親に引きずられ、見知らぬ街の見知らぬ家に連れて行かれた。
 そこにはやはり、見知らぬ『母』がいた。──冷たい目をした、母。

 要するに、皐月の母は、別に妻子を持っていた父と知り合い、そして皐月が生まれた。
 ……そういうことだったらしい。

 愛情を注ごうと努力はしてくれたのだろう、それでもふと気がつくと、子供だった皐月には理解できない暗い感情を込めた目で彼女を見ている、新しい母。
 その彼女に遠慮してだろうか。後ろめたさも手伝ってのことか、どこか皐月から距離をとろうとしている、父。

 そんな凍えそうな冷たさの中、彼女にとってのただ一つのぬくもりが、貴章だった。

 初めてあったとき、何度も、何度も、泣いている皐月の頭を撫でてくれた、兄。
 寂しくて、ウェンズデイに涙を拭ってもらっていると、必ず現れ、手を引いてくれた。

 貴章がいたから、皐月は生きてこれた。 …そう言っては、言い過ぎだろうか。

“それでも…”

『カチャリ──』 そんな音が聞こえて、はっとした。

 気づかないうちに、うとうとしてしまったようだ。
 時計の針は、11時を回っている。

 皐月が廊下に顔を出すと、玄関に帰宅した貴章の姿があった。

「おかえり、兄さん…」

 びくっ…と、貴章の肩が揺れる。

「遅かったね、…どうしたの?」

「…いや、何でもないんだ」
 顔を合わせないようにしながら、そう答える、兄。

「晩ご飯、どうする?」 それでも必死に、そんなふうに声をかける。

「ああ、ごめん…。実は、食べて来ちゃったんだ……」

「…そう」

 皐月の横をすり抜ける、貴章。
 そのとき『ふわっ』と、何か良い香りが、皐月の鼻孔に触れた。

 ……貴章が自分でつけるわけがない、人工的な、香料のにおい。

「兄さん……」

「ん?」

「もしかして、美紀ちゃんと一緒だったの?」

 兄と妹の視線が、一瞬混じり合った。

「……いや、違うよ。実は、剣道部の連中と、ちょっと羽目を外しちゃってね。それで、遅くなったんだ。
 ごめんな、心配かけて」

 ──足下が、グラリと傾いたような気がした。

「あ、そうなんだ。じゃあ、仕方がないね」

 必死で、平静な顔を作る。

「ああ…。
 ごめん、少し、疲れたみたいだ。
 今日は、もう寝ることにするよ。
 …晩ご飯、悪かったな」

「ううん、いいよ」

 兄は階段を上がり、そして『パタン…』とドアの閉まる音が聞こえてきた。

『ドンッ』と、皐月は身体を壁に預ける。
 足がガクガクして、止まらない。

“知らなかった……”

 それでも何とか壁を伝わり、自分の部屋へと移動する。

“兄さん、あんなに、ウソが下手だったんだ……”

 ベットに倒れ込み、必死でウェンズデイをかき抱く。
 そう、まるでそれだけが、彼女がすがりつける全てであるかのように…。

 ──そう、『初めて』知ったのだ。兄がウソをつくのが下手だと言うことを…。

“お兄ちゃんが、私に、ウソをついた……”

 カラダが、震える。歯がガチガチとぶつかって、止まらない。

 兄が、皐月にウソをついたのだ。
 あの、けっして、彼女にだけはウソをついたことのない、彼女にだけはウソをつくことのない、たとえ話せないことがあっても、皐月に対しては、ウソだけはつかないと信じてきた、『お兄ちゃん』が……。

「う、ぁぁぁッ……っ!」

 底知れぬ、恐怖。

 今まで、唯一信じて、それゆえにすがることが出来たもの。
 それが今、彼女から離れていこうとしている………

 彼女の胸が、まるで心臓が引きつれるかのように、激しく痛む。

“お兄ちゃんっ、お兄ちゃんっ、…お兄ちゃん…………っ!!”

『──カツンッ』

 ……と、音が聞こえた。

 呆然とした瞳で、のろのろとそちらを見る。

 窓から、青白い光が射し込んでいる。
 今日は、満月だったろうか? その光は、部屋の床に明るく降り注ぎ、音を立てた『それ』を照らしている。

“……どうして?”

 ……『それ』が、そんなところにあるはずはなかった。
 なぜなら、彼女はそんなところに転がるような場所に、『それ』を置いたはずはなかったのだから……。
 そう、彼女は間違いなく、『それ』を机の引き出しにしまったのに……

“……なんで…”

 彼女は呆然と、『それ』を見つめる。

 そこには月の明かりをうけ、その光で優しく光る、あの蒼いガラス瓶が転がっていた……。



《5》



 最近、貴章と皐月、二人の様子がヘンだ。

 それには美紀も、気がついていた。

 相変わらず一緒に登校し、それ以外でも二人で居ることをよく見かけはするが、それでも以前とは違っていた。
 なによりも、会話が無い。
 正直、3人でいるときなど、空気が重くて疲れそうになる。

 それでも、美紀には悪いことだけではなかった。

 なにより、ここのところ、貴章が自分と二人きりの時間を、よく作ってくれるようになった。
 今も、二人で公園に来ている。

 皐月ちゃんには悪いかな、とも思うが、なにもやましいことをしているわけではない。

 そして幾日か前、美紀と貴章は、ようやく結ばれた。

 初めての体験は聞いていた以上に痛かったが、それでも嬉しかった。
 ずっと、もう何年もの間、願ってきたことが実現したのだから。

“それにしても……”

 あの二人、もう少しどうにかならないものか。
 美紀とっては、大事な二人である。

“なんとかしたいなー…”

「どうした?」
 隣に座った貴章が、顔をのぞき込んでくる。

「え? ううん、なんでもない。
 それより、今度の土日のことだけど……」

「ああ、大丈夫だよ。
 皐月には、友達のところに泊まってくるって言ってある」

「そっか…、なら、いいんだけど」

 二人は、明日から泊まりがけの旅行に行く予定だった。
 もちろん、家族には内緒である。

 提案したのは美紀だが、貴章も良いと言ってくれた。
 貴章の真面目な性格からいって、こういった行為はかなり精神的な負担がかかるものであるに違いない。
 だからこそ、「行こう」と言ってくれた彼に、彼女は心から感謝していた。

 ……とはいえ、

「ごめんね……」

「ん? なにが?」

「んー、と……、まあ、いいじゃない」

「……なんだ? それは」

 ……彼が、皐月に対して深い罪悪感を覚えていることに、彼女は気がついていた。

“昔っから、そうだったもんね……”

 貴章は、なにをするにも、まず皐月のことを気にした。

 貴章と美紀が9歳の時、貴章の家に皐月が来た。

 彼の家の中は、かなりごたごたしたらしい。
 両親の、不和。親戚からの、非難。近所の人々の、口さがないうわさ……。

 そんな中で、貴章はただ皐月を守っていた。
 本当に、一生懸命に。

 今にして思えば、それが彼なりの防護手段だったのかもしれない。
 バラバラになってしまいそうな家族。
 そんなとき、貴章に唯一残されていたのが、『兄』という場所だったのではないか。
 彼はただひたすら『兄』として妹をかばい、愛し、そうやって実は皐月に頼りながら、必死に『自分』を守り、つくってきたのではないか?

 それでも、美紀は彼が好きだった。
 優しくて、必死に妹を支えてきた彼が……。



「3日後かあ、たのしみだねっ」

「ああ……」

 ……そう、美紀は本当に、そう思ってきたのだ。



「……え?」

 皐月が兄からその話を聞いたのは、火曜日のことだった。

「ああ、土曜に友達の家に集まって、一晩騒ごうって話になったんだ……」

「そっか…、うん、じゃあ気をつけてね……」

「なに言ってるんだ。友達の家に泊まってくるだけだぞ。なにに気をつけるんだよ」
 そう言って、貴章は笑う。

 しかし、皐月は気づいていた。気がつかないわけには、いかなかったのだ。

“兄さん、相変わらず、ウソが下手なんだもの……”

『相変わらず…』 ──そんなふうに感じなければならないことに、皐月は大きな喪失感を感じた。

「そっか…、そうだね」

 ──そしてこのときこそが、皐月の中で『なにか』が変わった瞬間であった……。



《6》



 土曜日の朝、貴章と皐月は、二人で朝食をとった。
 生真面目な性格の貴章には、休日もあまりゆっくりと寝ている習慣はなかったし、兄がそうである故に、皐月も早起きだった。

「兄さん、今日は何時頃に出かけるの?」

「うん、まあ昼前くらいに家を出れば、大丈夫だよ」

 ──本当は、美紀としては出来るだけ早く出発して二人で過ごしたかったのだが、それでは、より家族の不審をかうと考えて、そのくらいの時間になったのだ。

「そんなに、急いで集まるほどでもないしね…」

「ふうん、そっか。それじゃあ、もう少しゆっくり出来るね」

 そう言うと、皐月はかちゃかちゃと食器を片づけ始めた。

「じゃあ、私は洗い物しちゃうから。
 兄さんは居間で、テレビでも見てて。
 終わったら、お茶でも入れるから」

「ああ、わかったよ」

 そう答え、貴章は居間に移った。
 旅行の準備は昨日のうちに済ませてある。もともと大した旅行でもなし、1泊程度の外出ならば男の荷物などたかがしれている。
 もう少しなら、ゆっくりする時間もあった。

 居間で、テレビをつける。
 ダイニングキッチンからは、皐月が洗い物をする水音が聞こえてくる。

 貴章の胸に、どんよりとした罪悪感がわだかまっている。

 ……大事な妹に対し、自分はウソをついている。
 そのことが、彼を苛(さいな)む。

 子供の頃から、ずっと、ずっと大切にしてきた。
 彼女が家に来たのは、彼が9歳のとき。

 貴章の両親は、彼が小さいときから共働きで、彼はあまり親にかまってもらった記憶が無かった。
 いつもは近所で同じ歳の美紀と遊んでいたが、彼女の両親は彼のそれとはまったく違っていた。

 夕方、遅くなると、美紀は“おかあさんがシンパイするから” と言って家へと帰っていった。時々は、貴章と遊んでいて時間を忘れている彼女を、彼女の母親が迎えに来ることもあった。
 そんなとき、おばさんは必ず優しくほほえんで、『遊んでくれて、ありがとう。でも、貴章君も、もう、おうちに帰るのよ』 …そんなふうに言って、美紀と二人で仲良く帰っていった。

 そんなときは必ず、貴章は自分の部屋で、寂しさに打ちひしがれてた。
 彼には無い『家庭』を想って…。
 両親がいるはずの、彼であるのに……。

 そんなある日、父親が彼を連れて、知らない家へと出かけた。
 その家には、白と黒のしましまの幕が飾られており、彼はまだ小さかったが、それが人が死んだという意味であることは理解していた。

 そこで父親に、知らない女の子を紹介された。

『今日から、おまえの妹だよ…』

 その子は大きなクマのぬいぐるみに顔を埋めるようにして、うずくまっていた。
 とても、悲しそうに。
 だから、幼かった自分なりに一生懸命、彼女の頭を撫でてあげた。

 そうしたら、彼女はポロポロと涙をこぼしながら、泣いてしまった。
 思わず自分が何かしてしまったかと驚いたが、なぜか、きっとそうではないと感じ、だから、ずっとその頭を撫でてあげた。

『今日から、ぼくは、お兄ちゃんになるんだ……』
 この子はかわいそうな子で、ぼくだけがこの子のお兄ちゃんになる。

 だから、ぼくは、この子をまもってやるんだ……。

 ───寂しいことなど、ないように。


 ────ずっと、そうやってきた………


「…兄さん、はい」

 目の前のテーブルに、紅茶の入ったティーカップが置かれる。

「ああ、ありがとう」
 そう言って、カップに手を伸ばす。

 …本当のことを言ったら、皐月はなんて言うだろう……?

 自分と、美紀がつき合ってるということは、皐月も気づいているだろう。だから今更、あらためて言う必要もないとは思う。
 だが、どうしてそうなったときに、つき合うことになったときに、そのことを皐月に言わなかったのか。
 どうして今、皐月に本当のこと、これから美紀と出かけるんだということを、言うことが出来ないのか…。

 ……怖いのだ…、きっと。

 貴章と、皐月。二人はいつも一緒にいた。
 関係が冷え切り、その寂しさを仕事という家庭の外の世界に求めた両親。
 そんな両親を持つ二人にとって、ずっとお互いだけが『家族』であった。
 ずっと、二人の『家族』だった。

 ……だから、

“きっと俺は、それを壊してしまうのが、怖いんだろう…”
 貴章は、そう思う。

 恋人が出来たところで、『兄妹』という関係はなにも変わりはしない。
 だが、それまでの緊密な関係は、必ず変化する。
 彼は“今の”皐月を失ってしまうだろう。

 それが、怖いのだ。

「兄さん、どうしたの?」

 声をかけられ、はっとした。
 つい、考え込んでしまっていたようだ。

「え…? ああ、ごめん。頂くよ」

 ごまかすようにそう言い、慌ててティーカップを口に運ぶ。
 ……と、いつものダージリンの香りの中に、彼はなにか別の香りを感じた。

「あれ、この匂い…」

「あ、気がついた?」
 皐月が貴章の顔を見る。
「友達に、ちょっとおもしろい香料をもらったの。
 で、ためしにほんの少し、香りづけに入れてみたんだけど……、どうかなあ?」

 …なんだろう、この香り。
 初めて嗅ぐような、そんな香り。
 良い香りであることは確か。なんというのだろうか、まるで、頭の後ろの方にじんわりと響いてくるような……

「うん、いいんじゃあないかな。
 いい匂いだよ」

 彼はそう言うと、紅茶をすすった。

「そう? よかった」
 皐月が、微笑む。

 その笑顔に、少し胸が痛んだ。
 そして、自嘲する。

 なにを考えてるんだ、自分は。
 二人、いつまでも一緒に、などとは都合の良すぎる考えでしかない。
 皐月だって、いつかは好きな男が出来て、そいつのもとへと去っていくんだ。
 やがては、別々にならなければならない。

 ……そう思うと、寂しくなる。

 自分のことは棚に上げて、都合のいいことを考えてるのは、わかってはいるのだが…。

 そう、やはり相手に寄りかかっているのは、妹の方ではなく、彼自身の方なのかもしれない。

 ゆっくりと、紅茶を飲む。
 その不思議な香りは、鼻孔から入り、まるで身体にしみ通っていくようだ。

「なあ、皐月?」

「ん? なあに?」

「お前さあ、好きなヤツとかって、いるのか?」

 気がつくと、そんな馬鹿な質問を口に出していた。
 そんな質問は、妹を困らせるだけだろうに。

「ああ、いや。
 別に、言いたくなければ、それで……」

 自分で茶化して、ごまかそうとする。
 カップの中のお茶を、一気に飲み干す。

「いるよ……」

「…え?」

 思わず、聞き返してしまう。

「それは……、」
 貴章の頭の中を、高校で女子に人気のある連中の顔が、駆けめぐる。

『──ドクンッ』

 心臓の鼓動が、跳ね上がる。

「誰だ? 誰か、高校のヤツか?」
 我知らず、問いつめるような口調になりそうなのを、必死で押さえつける。

「うん、同じ高校に通ってる人では、あるよ…」

『──ドクンッ』

「俺も、知ってるヤツか?」

「…………」

 皐月はそれ以上話さず、じぃっと彼の目を見る。

『──ドクンッ』

 真正面から彼を見る、その大きめの瞳。

『──ドクンッ』

 ……なにか、ヘンだ。
 さっきから、頭がぼうっとしてきている。

『──ドクンッ』

 耳の脇の血管が、音を立てて暴れている。

『──ドクンッ』

 股間に、徐々に血液が集まる感触がする。

『──ドクンッ』

“お、……おいっ、なにやってんだ。落ち着け!
 妹の前だぞっ!!“

『──ドクンッ』

 だが股間のものは、自分の意志を離れ、これ異常ないほどに高まっていく。

『──ドクンッ』

 彼をじっと見つめる、皐月の、大きめの、ひと…み。

「……『お兄ちゃん』、だよ」

「…え?」

 まるで霞がかかったような世界の中、皐月のその声だけがはっきりと聞こえた。
 もうやめたはずの、昔の、呼び方。

「わたしが好きなのは、お兄ちゃんだよ」

 ……そして彼の意識は、深い霧の中に飲み込まれた。



《7》



「はぁ、はぁ、はぁ……」

 居間に、貴章の荒い息づかいが響いていた。
 皐月は、じっとそんな兄を見つめる。

 汗の浮いた額、ゆがめられた眉、軽く開けられた唇……。
 ふと視線を彼の股間に向けると、そこは見ただけでわかるほどはっきりと膨らんでいた。

 顔を赤く染め、視線を逸らす。

 しかし、またすぐに目を彼の顔に戻し、言った。

「お兄ちゃん、私の言ってること、聞こえる?」

「……ああ」 彼はコクンとうなずく。

「お兄ちゃん…、お兄ちゃんは、これから私の言うことをきくんだよ。いい?」

 ……コクン、とうなずく。

「そう……、じゃあ、私の部屋に行こうか」


 その言葉に反応し、貴章はのろのろと立ち上がった……。




「──やっぱ、いくら何でも早すぎたかあ」

 美紀は駅前にある時計を見上げる。
 時刻は11時、貴章との待ち合わせの時間までは、まだ1時間以上もある。

「馬鹿みたいだってのは、わかってるんだけどね…」

 貴章との旅行、それがあんまりにも楽しみで、こんなに早く出てきてしまった。

「ま、立ち読みでもして時間を潰すか……」

 彼女はそう呟くと、近場にある本屋へと入っていった。




「お兄ちゃん、キスして……」

 その言葉通りに、皐月の唇に唇を合わせる、貴章。

「ん……」

 貴章の両腕が、皐月の背に回される。
 皐月も、必死に兄の身体を抱きしめる。

 少しのあいだ唇同士が重なり、そして、離れてゆく。

「お兄ちゃん、もっと…、もっとちょうだい……」

 再び重ねられる、唇。
 だが今回のそれはさっきのものとは違う。
 貴章の唇が、皐月の下唇をはさみ、舌でねぶる。

「ん、んん…っ」

 舌が唇をこじ開け、彼女の口腔内に進入する。
 そのままその舌で彼女の舌をなで、そして唾液を流し込む。

「んんっ、ん〜〜っ!!」

 皐月は頭がくらくらしそうになるのを懸命に押さえ、必死に兄の舌の動きに応える。

“ぬちょ……”

 二人の唇が、離れた。
 その間を、粘ついた唾液が線を引き、たれ落ちる。

「あ…………」

 そのときになって皐月は、腰のところに当たる兄の固くなったものの感触に気づいた。

 顔をうつむかせ、わずかに逡巡(しゅんじゅん)した後、皐月は顔を上げると、言う。

「お兄ちゃん、お願い、私を……抱いて」

 兄の身体が、ビクンッと震えるのを感じた。

 そのまま、数瞬の時間が流れる……。

「お兄、ちゃん……?」

 ──突然、

「きゃ……っ!」

 兄の身体が急に動き、“ぼすっ”と妹の身体をベッドに押し倒した。

「お兄ちゃん……っ」

 そう言おうとした皐月の唇を貴章のそれがふさぎ、そして、

「ああ……っ」

 彼女の身体に、兄のたくましい身体が覆い被さった……。

「んっ、んん──」

 ぴちゃぴちゃと、二人の重なり合った唇の間から、濡れた音が漏れ出る。

「んっ!!」

 貴章の手が、皐月の上着の裾から中に入り、彼女の胸を触る。

「んんん……っ!!」

 彼の手が、彼女の慎ましやかな乳房を、優しく揉んだ。

「ん…っ、はっ……」

 皐月はなんとか、貴章の唇から逃れる。
 はあはあと息を整えてから、言った。

「ちょっと待って、お兄ちゃん……」

「う、ううーーっ」

 貴章の唇から、うめき声のようなものが漏れる。
 皐月は、はっとする。

“そのクスリを飲んだ人間は、性欲の虜になるの……”

 そういった“魔法使い”の言葉を思い出す。
 苦しそうに、身体を震わせる、兄。

「あ、違うよ、お兄ちゃん、そうじゃないの…」

 彼女はベットから立ち上がると、シャツのボタンに手をかけた。
 一つずつ、外す。その下からは、可愛らしい白い下着が現れる。

「──っ」

 そのまま、スカートを脱いだ。
 ブラジャーとお揃いの、可愛らしいデザインの白いショーツ。

 そして彼女は、その最後の2枚を脱ぎ去る。
 背中に手を伸ばし、ブラのホックを外す。
 ショーツに手をかけ、片足ずつ抜き取った。

「お兄ちゃん……」

 初めて異性の前にさらす、白い肌。

 その日に焼けていない肌は、白く、本当に白く輝いている。
 まだそれほど発育してはいない、それでも十分に柔らかさを感じさせる、形のいい乳房。
 まだわずかに子供らしさを残した、それでも確かにもう子供ではあり得ない、腰から大腿にかけてのなだらかな曲線。
 そして、うっすらと茂った秘めやかな体毛。

 その全てを、さらす。

「お兄ちゃん……」

 ベッドに戻り、兄にきゅっと抱きついた。

「お兄ちゃん、私を、好きにしていいよ。

 私で、いっぱい気持ちよくなって。
 私を…、お兄ちゃんにあげる。」

 そして今度は、初めて自分から兄に口づける。

「だから……、
 そのかわりに、お兄ちゃんは、私のものになるの…」




「──まだかなぁ」

 駅前の花壇の縁に腰をかけ、美紀は足をぶらぶらさせながら呟いた。
 時計の針は、すでに約束の時間の数分前になっていた。

「もう……。
 男なら、女の子と待ち合わせした時間の、10分前に到着がマナーなんじゃないのっ?」

 適当な理屈を持ち出し、待ち人を非難する。

“ほんと、まだかなぁ……”

 …このときはまだ、彼女はなんの疑いも心配もなく、彼のことを待っていた。

 ……まだそんな気持ちで、待っていたのだ………。




「あ……ん」

 カーテンを閉め切った午前中の寝室に、荒い息づかいが響き渡る。

「あ…、ふぅ……っ」

 貴章の手のひらが、皐月の乳房を荒々しく揉みしだく。
 その頂点に口づけし、吸いながら軽く歯を立てる。

「んっ…、はぁ、はぁ……」

 皐月は顔を真っ赤にしながら、眉をきゅっとしかめ、必死に声を抑えようとする。

「ハァッ、ハァッ、ハァッ…」

 まるで獣のような息づかいをしながら、貴章は皐月の白い肌に口づけし、まさぐる。
 乳房の間に顔を埋め、せわしなく両腕を動かすその顔は、しかしなぜか呆然としたものだった。

“何だろう…? 俺は、なにをしてるんだ……?”

 霞がかかったような頭で、彼はそれでも考える。

“さつき…、なんで……?”

 だがそんな疑問は、下半身から突き上げるように沸き起こる圧倒的な、原始的な欲望の前に、為(な)すすべもなく押し流される。

「ふっ…、ああ……っ!」

 その欲望のままに、皐月の両の太股に手をかけると左右に広げ、そこに顔をうずめた。

「あ…っ、やっ……!」

 皐月のそこは、わずかに、しかし確実に濡れていた。
 その匂いを鼻孔に感じ、夢中でそこに口づける。

「はあぁぁ……っ!!」

 彼女の内股の筋肉が、引きつるように収縮しようとしている。
 はさまれた頭を窮屈そうに動かしながら、貴章は彼女の敏感な部分を刺激する。
 唇をつけて吸い、舌でその表面を舐め、あるいは粘膜をかき分け、舌を届くかぎり差し込み、すすり、割れ目の上方にある肉の芽を刺激する。

「はぁ、はぁ……っ」

 皐月の必死の息づかい。
 それが貴章の脳の、どこか深いところを刺激する。

“もっと、もっとだ…。こんなんじゃあ、全然足りない……”

 精神の奥底にあるものがむき出しになり、その根元にある本能が、理性などという薄っぺらいものを引き裂こうと騒ぐ。

 股間のものは、もう極限まで興奮し、我慢が出来ないほどだ。
 片手をおろし、もどかしげにズボンとトランクスをまとめてずりおろす。


「はぁ、はぁ、……お兄、ちゃん?」

 口の動きを止め、いったん身体を起こす兄に声をかけ、閉じていた目を開く。
 その瞳に、自分に覆い被さった貴章の姿と、その股間にそそり立った、初めて見るグロテスクな肉の器官とが飛び込んできた。

「あ……」

 一瞬、ひるんだような顔になる皐月。
 だが彼女は、再びギュッと目を閉じ、そして、いった。

「いいよ、お兄ちゃん。
 私に、お兄ちゃんのを、ちょうだい……」

“『お兄ちゃん』……”

 貴章の身体の下では、彼のことをそう呼ぶ女の子が、まぶたをきつくむすびながら小さく震えていた。

   オサナイコロノ彼女ハ、彼ヲソウ呼ンダ……。

 ──いつも、自分の後ろをトコトコとついてきた。
 ──泣くときはいつも、大きなクマのぬいぐるみに顔を押し当て、まるで押し殺すように泣いた。
 ──何か心細くなったときは、なにも言わず、ただぎゅっと彼の服の裾をつかんだ。
 ──朝起きる、かならず笑顔で『おはよう』と言ってくれた。
 ──嬉しいときには…………


   オレノ…大事ナ、イモウト、
   …大事ナ、俺ノ、タッタ一人ノ家族……




 ……ぽたり、と…

 皐月の頬に、なにかの滴(しずく)が落ちた。
 彼女に触れた兄の身体は、動かない。

「お兄…ちゃん?」

 目を、開ける。

「あ……」

 皐月の顔のすぐ上にある、貴章の顔。

 その顔は…、両の目からあふれる涙で濡れていた……



《8》



 ──皐月は、いままで兄の涙をほとんど見たことはなかった。
 強くて、大きくて、……優しい、皐月だけの、兄。

「お兄ちゃん…」

 その兄が、泣いていた。
 涙を、流して。

「お兄ちゃ…」

「さ…つき……」

 呆然とした、焦点の合わない目で彼女を見ながら、貴章の口から意味のある言葉が発せられた。

「さつ、き……、どうして…」

「……」

 ──その言葉で、理解してしまった。
 皐月の心が、ギュッと痛む。

 自分の目の前にいるのは、彼女の兄であった。
 そう、彼は『男』ではなく、『兄』……。
 皐月のことを、いつも大事にしてくれてきた、血の通った兄であった。

“お兄ちゃんが、泣いてる……”

 …そして、彼をこんなにも傷つけている、自分がいる。

「お兄ちゃん……」

 そう、声が出た。

 そっと、兄の下から身体を抜け出した。

 貴章はそのまま、ベッドの上に座り込む。

 皐月は、そんな彼を見つめ、そしてしばらく迷ってから、やっと声を出し、質問した。

「ねえ、お兄ちゃん、…答えて。
 美紀ちゃんのこと、本気で、好きなの?」

 貴章の首がのろのろと動き、彼女を見上げる。
 その目の光は、さっきまでと比べ、確かな理性を感じさせた。

「ああ…、好きだよ。
 俺は、あいつのことを、心から好きだ」

「………そっか……」

 皐月は、呟いた。




 ──約束の時間は、もうとっくに過ぎている。
 …貴章は、まだ来ない。

「……」

 美紀は不安そうに、足下に置いたバッグを軽くつま先でこづいた。

“電話でも、かけてみようかな……”

 そう思ったが、なぜかそれはためらわれた。
 自分が、貴章のことを信頼していないようで……。

“貴章…、早く来てよ……”

 彼女は自分のつま先を、じっと見つめた…。




 …皐月は、じっと貴章を見つめる。

 彼は、うなだれたまま動かない。

「……やっぱり、だめだよ、お兄ちゃん…」

 皐月の唇から、言葉が漏れた。

「…ごめんね、お兄ちゃん……」

 そう、呟く。
 …そして彼女は、ベッドに座る彼女の兄の足下に膝をついた。

「うくっ…!」

 貴章の身体が、ビクッと動いた。
 彼の腰から、強烈な快感が駆け上った。

「お兄ちゃん、気持ちいい?」

 いきり立った彼の赤黒い肉棒に、白く細い指が絡められていた。
 ほんのわずかに力を込め、優しく彼の凹凸(おうとつ)をさすり上げる。

「おおっ……、く…っ」

 食いしばった歯の間から、快楽のうめき声がもれる。

「そっか、…気持ちいいんだ。
 …よかった……」

 皐月はそう言うと、意を決したように彼の股間に顔をうずめた。

“ぺちゃ……”

 妹の小さな舌が、兄の欲望の先端に押し当てられる。

“ぺちゃ…、ぴちゃ……”

 そのまま彼女は、彼の血管が浮かび上がったペニスに、何度も口づけた。

「んっ……、ふん…っ」

 雁首のあたりを、舌先で刺激する…。


「……っ!」

“ぬめ……”

 先端が、唇に含まれた。
 そのまま唇で締め付けつつ、口の中では舌で亀頭を舐めつづける。

「ふ…っ、うんっ……」

 軽く頭を、前後させる。

「うう…、あ……っ!」

“ぬぽんっ……”

 音を立てて、兄のペニスを口から抜き取ると、皐月は両手でそれを刺激しつつ、貴章に話しかけた。

「ねえ、お兄ちゃん、気持ちいい?
 お兄ちゃんのために、いっぱい勉強したんだよ……?」

 さわさわと、彼の肉棒を撫でさすりつつ、彼女が言う。



「『魔法使い』さんがね、言ってた。
 気持ちよくすれば、気持ちいいほど、私の言うことを聞いてくれるって。
 だから……」

「……くっ!」

 皐月の片方の手が伸ばされ、彼の太い毛に覆われた肉の袋を優しく揉みしだく。

「…だから私、一生懸命勉強したんだよ?
 そういうのが出てる雑誌とか買うのは、すごく恥ずかしかったけど…。
 お兄ちゃんに、いっぱい気持ちよくなってもらえるように……」

「ああ、……あっ…!」

 もはや貴章の口からは、快楽のうめき声しか出てこない。
 そんな彼の、まるで苦しそうにしかめられた顔を確認し、皐月は再び彼のモノを口に含んだ。

「ん……」

“ぴちょ……、ぷちょ……”

 頭を大きく前後に振り、彼のペニスを吸い上げつつ、上顎を亀頭にこすりつける。
 舌をからめ、肉棒の下面に刺激を送り込む。

“ぬちょっ…、ぶちょ……っ”

 ──そして、

「ううっ……っっ!!」

 貴章の腰がぶるぶると震え、

“びちゃっっ!”

「んっ…、んんっ!?」

 皐月の口の中に、生臭い液体が注ぎ込まれる。

“どくっ…、どくっ……”

「んぐっ……、けはっっ……」

“コクリッ”と彼女ののどが鳴る。
 だが初めての経験に、その全てを飲み干すことなど出来ずに、彼女は咳き込んだ。

「…げほっ、がっ、ごほっ……!」

 それでも、懸命に兄の出したものを飲み込もうとする。

「はぁ、はぁ、はぁ、……お兄ちゃん、うれいしいよ…」

 そして息を荒げながらも、口元を唾液と精液とで汚されたままの顔で兄を見上げ、嬉しそうに微笑んだ。

“がばっ” ……と、貴章が立ち上がる。

「え…?」

 そのまま、兄は妹の身体を床の上に組み敷いた。

「お兄ちゃん…っ」

 その言葉が耳に届いたかどうか……。
 彼は乱暴に皐月の両脚の間に身体をねじこむと、

「あ…? あぁーーっっっ!!」

 一気に妹を貫いた。

「い、痛い…っ、いた……!!」

 皐月の口から、悲鳴がほとばしる。

 しかし、貴章は止まらない。
 欲望のままに、しゃにむに腰を打ち付ける。

「ああ…っ! お兄ちゃん、お兄ちゃん……っ!!」

 皐月は必死で両手を兄の背に回し、身を裂かれるような激痛をこらえる。

 二人のつながった場所から、赤い、彼女の純血の証しが、床に流れ落ちた。

「ハァッ、ハァッ、ハァッ……」

 息を荒げつつ、貴章は腰を突き上げつつ、皐月の顔にむしゃぶりついた。

「…おにいちゃん……っ」

 涙と唾液、そして貴章が出した精液でぐちゃぐちゃに濡れた妹の顔を、兄の突き出された舌が舐めとっていく。
 何度も、何度も……

 それでも拭えぬほどの涙が、皐月のまぶたの間から、ぽろぽろとこぼれる。
 肉体の痛みと、羞恥心と、…いろいろな、本当に多くのものを台無しにしてしまったことによる喪失感と、そして──あふれそうな幸福感に心を震わせつつ………。

「おに、お兄ちゃ……っ」

 貴章の全てを、体全体で感じる。
 涙をふき取る、舌の感触。顔にかかる、荒い息づかい。彼の、髪の毛と汗のにおいが混ざり合ったにおい。乳房を押しつぶす、厚い胸板の感覚。背中に回した腕につたわる、流れる汗。絡み合った両の脚……、
 そして自分の中心の、その内側に入り込んだ、彼自身の焼けるような、まるで熱のような感覚……。

 その全てがぐちゃぐちゃに混ざり合い、皐月に向かって激流のように流れ込む。

「お兄ちゃ、ん……っ!」

 皐月は熱に浮かされたように、貴章を呼ぶ。

「お兄ちゃん…、お兄ちゃんは、わたしのお兄ちゃんだよっ」

 必死に、兄に対して語りかける。

「私は、他の誰よりも、お兄ちゃんが、お兄ちゃんだけが好きなの…。
 だから、だからお兄ちゃんも、私だけを見てっ!
 美紀ちゃんのことが好きだっていい…、でも、私を一番に見てくれなくちゃ、いやなの……っ」

 皐月は、ただひたすら貴章に語りかける。
 突き上げられる下半身からの痛みに、懸命に耐えながら……、
 ただ本当の、本当に心の底からあふれ出す言葉を、ただひたすらにささやき続ける。

「…お兄ちゃん、ごめんね……
 でも、私は、お兄ちゃんがいてくれなくちゃ、お兄ちゃんじゃなくちゃ、ダメなの……っ」

 その言葉は彼女の兄に向けられた、彼女の祈りと、…そして、呪言。

「お兄ちゃん、お願い、私だけを、愛して。
 他の人のところに行っちゃうなんて、やだ…っ!
 私は、ずっと昔から、お兄ちゃんの、お兄ちゃんだけの妹なのっ。
 だから…、だからお兄ちゃんは、ずっと私のものでなくちゃ、嫌なの……!!」

 兄の乱暴な腰の動きが、さらに激しいものへと変わる。

「おに……、わたっ…しっ、
 …やぁ、ずっと、まえ……くぅっ…!」

 もはや皐月の口から出てくるのは、訳の分からない音でしかなかった。

 そして……

“びゅくっ、びゅくっ……!”

 貴章の背中がぶるるっと震え、皐月の胎内に、熱い液体が脈を打つように流し込まれる。

「あ…、ああ……っ!」

“どさっ…”

 兄の脱力した体が、妹の上に倒れ込む。

 心地よい、体のぬくもり。
 心地よい、体の重さ。

 皐月は、きゅっと、兄の背に回した両手に力を込める。

“……プルルル…、プルルル…………”

 ──遠くで、電話が鳴っている。
 しかし、今はそれに出るために立ち上がる力さえ、無い…。

 …そして皐月は、ゆっくりと、心地よい真っ暗な闇の中へと身をゆだねた………。



《9》



「────たかあき……」

 美紀は、ぐったりと川西家の門に背を預け、寄りかかっていた。
 空を見上げると、もう日も沈みかけ、辺りを夕闇が訪れようとしていた。

 だが貴章の家の窓には明かりも灯されず、カーテンが閉まったままになっている。

「どうしたんだろう……」

 貴章は、待ち合わせの時刻から2時間以上が経っても、結局来なかった。
 彼が何の連絡も無しにこれほど遅れたことが心配になり、さすがに彼に電話したが、携帯も、家の電話も、いくらコールしても誰も出なかった。

 そして今、彼の家の前にやってきたが、外から見たかぎり、中に人のいる気配は全く無かった。
 呼び鈴を鳴らしても、誰も出てこない。

「貴章……」

 不安から、彼の名を呟く。

“もう、帰ろっか……”

 門柱から、背をはなす。

“きっと…、なにかどうしようもないような、急な用事が入ったんだ……。
 また、明後日には、学校で会えるし……”

 そうつぶやき、美紀は最後に明かりも点いていない、2階にある貴章の部屋の窓を見上げる。
 そしてひとつため息をつくと、暗い気持ちを抱えたままに、脚を引きずるようにして自宅へと向かった……。




「──はあ、はあ、はあ、…お兄、ちゃん………」

 日も沈み、闇に包まれた部屋の中。皐月は裸で、やはりなにも纏(まと)ってはいない貴章の胸に、身を寄せる。
 彼女は疲れ切って、体中の筋肉から全ての力が抜け落ちたようになっていた。

 もう、何度そうやって抱き合ったろうか。
 二人の肌は、汗と、そしてそれぞれの出した体液とで、ぐっしょりと濡れていた。

 貴章はぎゅっと、そんな皐月を──彼にとって最愛の妹、そして最愛の女性を──抱きしめる。

「お兄ちゃん、好きだよ…。
 私は、お兄ちゃんが、一番好きなの……」

 うわごとのように、何度も、何度もそう繰り返す。
 その顔は憔悴しきってはいたが、見間違いようのない幸せそうな、安心しきったような微笑みがそこに浮かんでいた。

 貴章の両の眉が、何か痛みを耐えるように、苦しそうに歪められる。
 そして、彼は呟く。

「皐月、…俺も、好きだよ」

“世界中の、他の誰よりも……”

 ──そして彼は、目を閉じた…



《終章》



 夕焼けが、学校の廊下を紅く染めている。

 皐月は鞄を抱えながら、そんな中を歩いていた。

 週明けの月曜日、彼女はクラスの日直の仕事を終え、兄の教室へと向かっていた。
 この時間になると、もうどの教室にも、誰も残ってはいなかった。

 思いのほか時間がかかってしまったが、彼は待ってくれているはずだ。
 …足早に、移動する。

 そして兄の教室の前に来たとき、扉が“ガラッ!”と開き、一人の女子生徒が中から飛び出してきた。

「あっ……!」

 もう少しで、ぶつかりそうになる。

 …その女子生徒は、片手で口元を押さえていた。
 両の目を真っ赤にして、その瞳には、はっきりと涙が光っているのがわかった。

「美紀ちゃん……?」

 皐月の口から、彼女の名がつぶやかれる。

「…………っ!!」

 だが美紀は、そんな彼女から顔を背けると、廊下を足早に去っていく。

「……」

 皐月は黙って、彼女の背を見送った。

 教室に、入る。

 教室は西日で朱く染まり、まるで夕日そのものの中に沈み込んでしまったかのように思えた。

「兄さん……?」

 そんな静寂の中たった一人で、貴章は席に座っていた。

 皐月は、兄に歩み寄る。

「さつき……」

 貴章の顔が、皐月を見上げる。
 その顔には、あきらめや、恐れや、哀しみや、……そして悲痛な喪失感がごちゃ混ぜになって浮かんでいた。

 兄は、泣いていた。
 涙はこぼれてはいない。
 しかし、彼は泣いていた。
 皐月には、彼女だけにはそれがわかった。

 ……彼は、彼女の最愛の人だから………

「お兄ちゃん……」

 皐月は、彼の頭を優しく抱きしめる。
 彼女の胸の中に、包み込むように。

「う…っ、く……ぁ」

 皐月の腕の中、貴章の押さえきれないうめき声がもれる。

 ちくん──っと、…小さな、とても小さな痛みが胸の中をよぎる。

“これはきっと、私の罪の痛み。
 お兄ちゃんの胸の中に傷をつけてしまった私への、神様が下した罰としての痛み……”

 だから、皐月は彼を胸に抱きしめる。

「お兄ちゃん、好きだよ…。
 ずっと、私が、そばにいてあげる……、だから、泣かないで──」

 そして彼女は、彼の髪の毛を撫でた。
 何度も、何度も、慰めるかのように、安心させるかのように。

 遠い昔、兄が、彼女にそうしてくれたように…。

「お兄ちゃん……」

 そして二人は、こんな世界の片隅で、いつまでも身を寄せ合っていた……

 
 
< 了 >


 

 

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