まいごのおまわりさん


 

 

第一話 〜翼とルル〜


 錬金術―――。
 卑金属から金属を造り出す術。
 現在の化学の基礎となった化学技術。
 無から生物を造り出す生態技術。
 不老不死を手に入れる秘術。

 そんな、錬金術を研究した者たちを、人は総じて錬金術師と言う。
 ニュートン、ゲーテ、パラケルスス―――。
 世に名高い有能な、物理学者、作家、医者であった彼らも錬金術師であった。
 だが、有能で高度な技術を持っていたにも拘らず、彼らのように世間に名が出ることの無かった、史書に名を載せることの出来なかった錬金術師も居る。
 彼ら、自ら称して『闇の眷属』―――。
  
 彼らは一様にして、迫害を受けた者達である。
 人々に恐怖され、危惧され、畏れられてきた存在である。
 彼らがその様に敬遠されて来た理由は唯一つ。
 錬金術の真髄、大いなる秘法――アルス・マグナ――の会得。 

 天使のように滅びない不老不死の肉体。悪魔のように狡猾な智恵。神のように万象を自在に繰る力。
 それら全てをアルス・マグナと言う。
 要するに、『闇の眷属』達は皆、神に匹敵する力を持っていたのである。

 人が人で在ることを超える。神が定めた範疇を超える。
 道徳的にも宗教的にもそれは許されないことだ。  
 その上、人は自分とは相容れないものを受け付けない習性がある。
 だからそれを禁忌としてきた。
 それをしてきた奴を徹底的に虐げた。
 最後に、歴史の中からも追い出した…。 

 …ところが、迫害された『眷族』達も、黙っていた訳ではない。
 自らの持つアルス・マグナを使い、戦い、生き延びていた。
 それでも、愚者達の迫害は止まず、終に彼らは自らが生きていたという証さえ取り上げられた。
 神なる力を持つ者と言えど、人の子である。
 自分が生まれたという事実。此処まで歩いてきた足跡。そして、終焉を見届けてくれる友。
 全てを奪われ、失った悲しみは想いの外、深かった。
 失意の中、彼らは自らの存在の証を、唯一遺す方法を見つけた。
 神なる力、不可侵の力、アルス・マグナの永劫保存である。

 自分が会得した、自分だけの力を、様々な道具・物に封じた。
 是により、絶対不可侵たる異能の産物――錬具が生まれたのである。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 
 ―――1997年。公立藍堂病院。
 ――――ある親子の会話――――。

「どお! かあさん! おれの初めての錬具!」

 少年が飛び付かんばかりに、ベッドに腰掛けた女性に話しかけている。

「あら、きれいねェ。これは、ルビー?」

 少年に渡されたペンダントを見ながら、彼の母親らしき女性が言う。

「うん! そうっ! やっぱ、かあさんには宝石が似合うとおもって!」
「あらあら、うれしいこと」

 白髪の女性が笑った。それを見た少年も笑う。

「それ、『ツォハル』って言うんだっ!」
「まぁ、カッコイイ名前ねぇ」

 女性の言葉を聴いて、少年がうれしそうに笑う。

「だろっ! かあさんだけなんだ、そう言ってくれるの!」
「そうなの?」

 女性が首をかしげた。話の内容にしては、少年がうれしそうだったからだろう。

「そうなのっ! とうさんも他の連中も、おれの“ねーみんぐせんす”が悪いって言うんだ。…けどなっ、連中にナニ言われても、おれ、別にいいんだ…」
「どうして?」
「だってな、おれには………ん…が……ギ、ギギ…ガッ、ガガガ……ガギギ…】

【オイ! どうした! ノイズが出てるぞ】
【すいません! 東宮閣下! 妨害波が出ています! これ以上の再生は危険です】
【チッ、しかたねえ。じゃあ、安全な所からもう一度再生してくれ】
【……はい。かしこまりました】

 天蓋に映し出された映像に、再び少年が映し出された。
 少年は病室のドアの前に立っている。
 …いや、立ち尽くしている?
 と、少年が病室の中に走り込んだ。

「えっ? あっ!」

 女性の驚く声。
 場面が変わり、病室の中が映し出された。
 あごひげが生えた長身の医者が、先ほどの女性と一緒に居た。二人とも驚いている。

「みんなして、おれをだましてたんだな…」

 少年の声に、先程までの快活さは無い。

「………………」

 女性が何か言った。どうした、聞こえないぞ?

【ピギィ…ガガガガ……ピギ…ギギィ………ガ、ガガガガガガガガガ】

【うぁああ!?】
【きゃあぁあ!?】

 二度目のノイズが、現在の時間を生きている男と女の精神を襲った。

【うが、があぁあっ! フザケンナ、このやろっ! 一度ならず二度までも、この俺様を】
【すっ、すいませんすいませんすいません!】
【てめぇが謝っても、しゃあないんだよ! くそっ、こおなったら自棄だ。おい、オペレーター!】
【ひゃい?!】
【この日、この場所で、他にセキュリティが浅い所を探せ!】
【はっ、はふい!】 
【至急だっ!】
【ひぁいっ!】
 
 出来の悪い新人の予見者を叱咤して、男――東宮 梨杏(とうぐう りあん)は手に持っていた薄い金属片をにらみつけた。

 (ったく、このクソガキは……)

 金属片には文字が彫られていた。

 [“空(アカシック・レコード)”―――人生録《1990〜2000》―――
   地域指定《日本》――タ行/No.000186008573004――
   ..................................錬金術師『高原 恋弥』]


≪1≫



 2005年。
 7月6日。
 AM 4:30。

 ―――――……ン…
 ―――――……ポーン…

 遠くで何かの音がする。
 ―――――……ンポーン…
 ―――――……ぉーい……ゅぁあー…

 誰かの声がする。
 懐かしいようで、すごく最近聞いた事のある声。
 子供っぽいけど、どこか頼りになる男の子の声。
 そして何より、わたしの一番だいすきな人の声。

 ―――――ピ…ギイィ……ギ…ガガ…
 何かの機械が作動した音。
 …機械?
 ―――――…ガ、ガガッ……ぁー…
 なんで機械が?

 【あぁ〜〜〜、木内 癒亜あぁ〜聞こえるかぁぁ〜】
「うわぁあ!!」
 (サッ、サイレン?!)

 何考えてんだ、あの馬鹿は。
 四時だぞ、四時。まだ寝ている ご近所様もいるだろうに。

 【無駄な抵抗はやめろおぉぉ〜。居留守を使っても判ってるんだあぁぁ〜。ある意味 キサマは完全に包囲されてい――】
「えぇい! やかましいわあ!!」

 窓を開け、癒亜は暴言とともに 傍らにおいてあった災害用ラジオを放り投げた。
 言葉が途切れて、静寂。
 やったか? やったのか?
 あの歩く公害人間を倒せたのか。

 (やった! コレで地球の平和は守られ――)
「ばあっ」

 背後から肩に手を乗せられた。

「ひぅう#%?●▽&×☆□!!?」

 思いっきり吃驚した癒亜は危うく窓から落ちそうになった。

「うわぁ。朝からテンション高いなぁ。俺、付いていけないわ」

 いつの間にやら、部屋には恋弥が立っていた。

「あぶ<%#?¥????」

 べつに癒亜はテンションを高くした憶えは無いし、そもそも恋弥が付いていけないようなテンションなんか存在しない。
 というか、ラジオを投げるまでは確かに下に居たはずだ。
 癒亜の頭はショートした。

「ふぅ〜ん。地球外言語をしゃべる癒亜も可愛いね」

 とか言って、視線を下にずらした。

「ウサギさんも可愛いね」

 膝を曲げてヤクザ座りをする。

「よかった。寝るときはパンツ穿いてんだな」
 
 その言葉が意味することを悟った癒亜は混乱から開放されてとりあえず目の前の馬鹿を蹴飛ばした。


 AM7:30。

「なかなかエキサイティングな蹴りだったなあ」

 復活まで三時間を要した恋弥が開口一番そう言った。

「反省する気は無いの?」

玄関の鍵を閉めて、戸締りをチェックしていた癒亜が答える。

「無い。……つか、ナニを?」

 恍けているわけでは無さそうだ。本気で判らないという顔をしている。

「……もういい」

 癒亜は恋弥をおいてスタスタと歩き始めた。

「あっ、ちょっ……待って」
「何よ?」

 門扉を抜けて、左に曲がる。

「そっち、右」

 …右に向きを変える。

「………」

 無言で速度を速めてみるが、恋弥の方が歩幅は大きいので意味が無い。
 結局は二人並んで歩くカタチに落ち着く。

「……ねえ?」

珍しく、恋弥が声のトーンを落としている。
 癒亜は、そんな恋弥の殊勝な態度にも応じない。

「……怒ってる?」
「怒ってない」

 恋弥が折角こういう態度を取っているんだ。高圧的な態度を取らないと。じゃないと後々付け上がってくる。

「そっか。よかった」
 (え? ちょっと、待ってよ)

 何を納得してるんだ? 今の言葉に含まれた怒気を感じ取れなかったのか、こいつは。
 癒亜は呆れて、恋弥の顔を見た。
 (……えっ?)
 そこに、何か違和感を感じた。いつもと何ら変わりの無い笑顔なのに。何かが違った。
 たとえば、そう……憂い。

「おっ、もう此処か」

 また、いつもの子供みたいな笑みに戻った。

「え? ココって……坂道?」

小路を抜けた先に、大きな坂道が見えた。
 人間が三人通れるか位の小路に比べて、その坂道は車が二台通れる位の広さがある。
 だからといって、車の通りが多い道でもなく。ほとんど歩行者天国状態なのである。

「見たまんまだろ。大久保 利通に見える?」

 また意味不明なことを。癒亜は苦笑する。

「ま、なんだ。ここら辺の人らは『門前坂』って呼んでる」

 確かに、坂の上を見ると結構大きな建物と、門らしきものが見える。
 かといって、その大きな建物は神社でもなければ寺でもない。
 学校。今日から癒亜が通う、鶇鳴学院(とうめいがくいん)だ。

「――――――」

 癒亜は【そのまんま】と言おうとして口を開きかけたが。

「何を説明している? 高原」

 という、威圧的な声に遮られた。

「おう! チィ兄、ひさしぶり。……や、四日ぶりか」

 恋弥が『チィ兄』と言った相手は、癒亜たちよりも坂の下りの所にいた。
 十メートルは離れた其処に居ても、十分な存在感を振り撒いているのは彼の身長の高さに付随する。
 一メートル九十センチ。同年代の男を捜しても、そこまで大きい生徒はそう居ない。
 そして、その身長に合わせたかのように長い髪も特徴的だ。
 全体的に厳格そうな顔も、また然り。一見して、先生と見間違えてもおかしくは無い。

「その呼び方は止めろ。俺はおまえみたいな弟を持った覚えは無い」

 男が恋弥のいるところまで上ってきた。物珍しそうに癒亜を見る。
 近くで顔を見ないと判りにくいが、男の右目には荒々しく包帯が巻かれている。

「なんだ? このやけに制服の似合わない女は」
「なっ?!」

 よくもまあ、失礼なことをぬけぬけと。癒亜は、言い返してやろうと思ったがやっぱり怖くてできなかった。男の存在感に圧倒されて足が笑ってくる。

「まあまあチィ兄。そんな怖がらすなって、な。」

 恋弥が二人の間に入って、癒亜の盾となる。

「こいつは、藍堂 翼(あいどう つばさ)。親が公立病院の院長やってる。『チィ兄』ってのはアレだ。まっ、テレビの影響っつーか。……んで、こちらが、木内 癒亜さん。俺の彼女」

 それぞれの名前をそれぞれに紹介する。

「ほぅ。……木内、か」

 呼ばれて、恋弥の背中からちょこっと顔を出す。

「……貴様、俺と以前会ったことは無いか?」
「んなっ?!」

最初に反応したのは恋弥だ。ウルト○マンのような戦闘体制をとる。

「今、彼女って言ったばかりでしょう! ナンパすな!」
「ああ、わるい。べつに悪気があったわけじゃない。……気のせいだ」

 そう言って、男――翼は坂を上り始める。恋弥がそれに続いたので、癒亜も仕方なく付いていく。
 翼の後姿を見てはじめて気がついたが、彼は背中に長い棒のようなものを背負っていた。布でぐるぐる巻きにされているから中身は判らない。

「なるほど、貴様が噂の転校生という訳か」
「ウワサ?」

恋弥が癒亜の代わりに聞く。

「なに。昨日、トッシーがそういう類のことを仄めかしてな。一時教室が騒然となった」

 癒亜が恋弥の服の裾を引っ張って、耳元で囁く。

「トッシー、って?」
「大津 俊洋(おおつ としひろ)。若き身ながら俺たちの担任。新任の先公に、厄介者を押し付けたって感じ」

 自分が厄介者ということに気付いてるんだ、と癒亜は感心する。

「でも、豪快でいろいろと楽しい先生さあ」
「からかい甲斐も在る」

 翼が賛同する。からかい甲斐? もしかして、この厳格そうな男も恋弥と同じ人種なのだろうか。人をからかって愉しむ……。
 かつての自分もそういう人間だったと思うと嫌になってくる。この二年間からかわれ続けて、よくよく判った。
 癒亜のそういった疑問が表情に出ていたのだろうか。恋弥が癒亜の顔をチラチラと見ながら、語る。

「まっ、えーと、アレだな。チィ兄は仲間みたいなもんだよな。俺たち三人の……」
「三人……ああ、ルルの事か」

 仲間? 集団になって他人をからかっているのだろうか。
 (いや……でも ルルって?)

 学校の校門が見えてきた。坂の下から見てもその存在を確認できるくらいの大きさ。冷たそうな黒い鉄は異様な重圧を放っていて、鉄扉の上は見上げなければ見られないほどに高い。横幅は牛車が同時に五台は通れるくらいだ。
 癒亜は、学校の卒業前の見学で一度此処に来たことがあるが、いつ見ても明らかにおかしい。各所の部分にこだわりすぎている。

「えーと、な。チィ兄とルルはこの学校に入ってからの友達でな。えーと、まあ、似た者同士仲良くなったって言うか」
「勘違いさせるようなことを言うな。俺は断じて貴様と同類の人間ではない」
「いや チィ兄、今はその話してるんじゃない」

 二人で何かよくわからないことを議論している。いや、そんなことよりも ルルって?
 二年間わたしがからかわれてきた間に、恋弥は他の女と他人をからかってきたのだろうか。
 数年前まではわたしが居た場所に、他の女を座らせたのだろうか。

 校門を抜けると、五十メートルもの間、桜並木が続く。
 残念ながら今は夏なので、桃色の花びらが見られないが、代わりに青々とした緑葉を見ることが出来る。

「ルルと言えば……」

 翼が前を見据えながら言う。何だ?と恋弥が聞いた。

「貴様、ルルにCDを貸していたらしいな。貴様が休んでいるのを知ると、せっかく持ってきたのに、と ごねていたぞ」
「忘れん坊だからな。ルルは」

 恋弥が ハハッと笑い、翼の顔が綻んだ。第一印象からは考えられないが、年相応の笑顔をする。
 また、癒亜の知らない話題で二人が盛り上がり始めた。
 本当に、恋弥は無神経だ。転校生としての癒亜の不安を察してやれないのだろうか。

 桜並木が終われば、ガラス張りの大きな玄関ホールに辿り着く。並木側の壁と天蓋にガラスが嵌め込まれ、その他の壁と床は白いタイルで統一されている。
 ガラスから そそがれる日光と木立の影が、白の空間に浮かび上がる様は何とも言わせない趣があった。
 正面には階段があり二階へと続いている。カーブを描かない真っ直ぐな階段の上には、このホールを囲むように二階が設けられていて、手摺りから体を乗り出せばホールの一階を見回せれる。
 二階の左右と階段側には渡り廊下があり、それぞれの学年の校舎へと繋がっている。
 此処から判るのは、ここまで。
 実は階段の裏には職員室に繋がる通路があるのだが、癒亜の位置からは見えない。

「じゃ。俺たちコッチに用があるから」

 恋弥が癒亜の手をつないで、翼に言った。

「ああ、先に教室に行っている」

 翼の返事を聞くと、恋弥は笑って階段の裏へと癒亜を引っ張っていく。
 
「ぅあっ……ちょ…」

 階段の裏側には、長方形の通路があった。大人の男が三人通れそうな大きさで、翼の身長ギリギリの高さしかない。おそらく、彼がここを通る時は頭に気をつけないと痛い目を見るだろう。秘密基地の入り口のようでもあった。
 通路はホールとは一転し、白い大理石が上下左右を埋めていた。一片の光も入る余地が無いのに、こんなにも明るいのは何故だろう。
 緩やかな坂をたどって通路を降りていく。途中、通路は三叉路になっていたが恋弥は左に曲がった。
 確かに、恋弥が心配しただけのことがある。こんな所、癒亜でなくても道に迷う。

「今の所、右に曲がるとね。音楽室とか家庭科室のある特別棟に出るの。保健室もそこにある。で、真直ぐ行ったら講堂。始業式とか集会する所。三年は三年棟から入って二階に着席すんの」

 恋弥が説明する。が、癒亜にはあまり理解できなかった。
 通路はすでに坂ではなくなっていて、目の前には行き止まり。

「え? ……ちょ、恋弥?」

癒亜の心配を無視して、恋弥は行き止まりを右に曲がる。ああ、行き止まりじゃなかったんだ。白い大理石による光の反射で、錯覚を起こしたのだ。

「うあっ?!」

 通路を曲がると、いきなり赤い扉が目に入った。傍らにスイッチ。エレベーターだ。
 (なんでこんなところに?)
 恋弥が『職』と書かれたボタンを押した。赤く点灯する。

「ふう……」

 そこでようやく一息入った。
 点滅するボタンを見ながら、恋弥が言う。

「ホントは、このエレベーター使わなくても三年棟から職員室には行けるんだけどね」

 チカチカと、赤く点滅する。
 開閉口の上に取り付けられている電光板にも、エレベーターの現在地を示すランプが点灯していた。
 ゆっくりと、確実に降りてきている。
 …………………………………………。

「まあ、アレだ。そんなに緊張することじゃあない」
 (……え?)

 ランプを目で追いながら、恋弥は言った。

「いや、だって……アレだろ? 転校生ってのは、注目されるだけっていうか。いや、こういう時期に転校すること自体、注目されるっていうか」

 恋弥は、頭を掻きながら言葉を紡ぐ。

「一緒の学校に上がらなかったからって、皆がみんな、癒亜のこと如何こう思うってわけでもないし。……むしろ、心配してたと思うし」

 ガリガリッと、力強く掻く。

「向こうで何があったか知らないけど……コッチは、大丈夫だ。と……思う」

 もう一度、頭を強く掻き毟ってから、恋弥は癒亜と向き合った。

「だから……もし、そういうことされたら、えっと……俺に、言ってくれないか?」

 癒亜が見つめてきたので、恋弥は目線だけ逸らした。

「そしたら……うん、俺が……えっと、その……守ってやるから」
「………れんや…」

 恋弥は気恥ずかしい様で、顔を少し赤らめている。昨夜のあの大胆な態度が嘘みたいだ。
 (…そっか……恋弥も少しは大人になってたんだ…)
 自分のことばかり考えているわけじゃない。ちゃんと他人のことも考えられるようになったんだ。
 昨日の、あの暴挙だけを見ていたら見落としていたかもしれないその事実に、癒亜は感動した。

 思い切って抱きついてやろうかしら、と思った矢先だった。
 ピーン、という間の抜けた音ともにエレベーターが着いた。

「おお、着いたな」

 こういうムードに耐えられなかったのか、恋弥は扉のほうに振り向いてそのまま癒亜を見ようとはしなくなった。昨日は自分から仕掛けてきた癖に。
 (……くそっ…いいトコだったのに)
 朝、パンツを見られた怒りとか。他の女と一緒につるんでいるとかいないとか。
 そんな些細なことを忘れて、癒亜は心の中でエレベーターの到来に悪態を吐いた。
 間も無く、扉は開いた。

「うぉっ?!」
「ぬぁ??!」
「ひぁ?!!」

 三者三様に、自らの驚きを示す。
 恋弥にしてみれば、エレベーターの中に人がいるとは思わなかったわけだし。
 癒亜にしてみれば、アロハシャツを着た男がこんな所に居るとは思わなかったわけだし。
 中にいた男にしてみれば、こんな所のエレベーターを使用する人間が他にいるとは思わなかったわけだ。

「と、トッシー?!」
「高原?! おまっ、このっ、問題児が!! ここは生徒進入禁止区域だぞ」
「ええ?! そうなの?」

 癒亜がまた驚く。禁止区域につれてきたのか、この男は。なんか今までの気分が台無しだ。

「ン? なんだ、お前女生徒まで連れ込んで……?! おい、貴様泣いてるじゃないか、こいつ?!」

 えっ、うそ? 癒亜は自分の頬に触れてみた。確かに濡れている。
 さっきから顔を合わせないと思ったら、こいつのせいか。
 感動のあまり泣いてたのか、わたし。

「貴様!! 何人女を泣かせば気が済むんだっ!!」
「二桁以上泣かしたこと無い!」
「十分多い!!」
「知るかっ!!」
「うるさい! 女を泣かすことぐらいしか才能が無い癖に!!」
「他にもいっぱいある!」
「じゃあ言ってみろよっ! ホラ、ホラッ!」

 ………台無しだ。


≪2≫




 PM7:50。

 職員室は、職員棟の二階にある。そして、一階にはカフェテリア。癒亜たち三人は、今このカフェテリアにいる。
 職員室は今、禁生徒入室らしいので、トッシーこと大津先生が連れてきたのだ。
 ホントは、こんな朝っぱらからカフェテリアに入ることも禁止されているらしい。
 でも、転校生はやっぱサプライズだろ、とか何とか言って、生徒が入ってこれない、でもそれほど厳重でもないコッチにしたのだ。

「職員室に入っちゃいけないんだったら、連絡ぐらい入れとけよ」

 恋弥が不機嫌をモロ出しして、大津先生に毒突く。先の討論で、こともあろうに癒亜の目の前で、自分の尊厳を侵されたことが相当悔しいようだ。

「だから迎えに行こうとしてたのだ」
「うそつけ」

 取り付く島も無い。恋弥はそっぽを向いて、ガラスの向こうの景色を楽しみ始めた。
 大津先生はそんな恋弥を完全に無視して癒亜の方に向き直る。先生は元々癒亜に用事があったのだ。

「まあ。こんな馬鹿な宇宙人は校内探しても、あとは藍堂と東宮(とうぐう)ぐらいだから気にすんな」

 はあ…、と癒亜は頷いた。“藍堂”というのはきっと、さっきのツバサ君のことだろう。じゃ、やっぱり“東宮”ってのは……ルル、さん?

「他に第三種接近遭遇が起こるようなら俺に言え。NASAに連絡して捕獲してもらう。……いや、生け捕りは難しいな。射殺の許可も貰わんと」

 デッド・オア・アライブ、と呟いて先生はアイスコーヒーに口を付ける。

「だから、他の奴等は極めて友好的かつ安全な地球人だと思う。……そう、いわば普通人だ」

 当たり前のことを真剣に語っている。今気付いたが、この先生も十分“馬鹿な宇宙人”だ。

「まあ、後のことはこの前送った書類の通りだ。面倒なことは何も言わん。楽しめ。一生に一度の学園ライフだ。……そう、一生に一度」

 アイスコーヒーに映る自分の顔を見て、大津先生は何かを偲びはじめた。自分の学園時代を思い出してるのだろうか。まだ、二十代前半だというのに…。
 まあ、恋弥の言ったとおり多少豪快な先生なのは確かだ。

「他に言うべきことは無かったか? 高原」

 色々と踏ん切りがついたのか、大津先生はアイスコーヒーを一気に飲み干して、ガラスの向こうの世界に旅立っている恋弥に話を振った。

「俺に話しかけるな」

 恋弥が一蹴する。まだ拗ねてるのか、こいつは。癒亜は半ば呆れてしまった。
 
「えっ……と。夏休みはいつから始まるんですか?」

 見ててチョット見苦しかったので、癒亜は助け舟を出してあげることにした(恋弥は絶対に気付かないだろうが)。あっ、けど確かにコレは気になっていたことだ。向こうの学校は既に夏休みに入っている。

「ああ、夏休みかァ。なつかしいな。一週間後のテストが終わったらすぐだな」
「てすと?」

 癒亜が鸚鵡返しすると大津先生は、嗚呼と呟いた。

「そうだ。テストだ。すっかり忘れていた」
「……?」
「そうそう。おまえの転入試験はこいつらの期末テストだからな」
「………は?」

■□■□■


 詰まる所、こういう事らしい。
 転入試験と期末テストの両方の問題を作ることが非常にめんどくさく感じた教師陣は、二つとも同じ問題にすることにしたんだと。
 でも、どっちかの試験が先に開始されちゃうと其処から問題が流出するかもしれない――という問題が発生しちゃった。 
 だから、試験は二つとも同じ日の同じ時間にする事にしよう、と考えたんだって。
 んで、どうせ同じ日時にするんだったら同じ場所でやらせようぜ、となったみたい。
 うわあ、まさかわたしがこんな時期に転校する事になった事実の裏に、こんな大人の事情が隠されてたなんて。
「てめえの都合で試験すな!」(by 恋弥)
 ……ありがとう、恋弥…。

□■□■□


 PM8:20。
 
「ホントにごめんね。あの馬鹿が連絡を怠ったせいで」
「いえ、いいです。恋弥……あっ、や、高原君が一緒に勉強してくれるって言ってくれてますから」

 あの後、大津先生を怒鳴った恋弥は、表面上にこやかに笑っていた先生に首根っこを掴まれてどこかに拉致された。
 全然戻ってこない二人を心配していた癒亜は、この後どうすればいいか途方に暮れていたのだが。
 そんな癒亜の前に、大津の代わりです、と言ってまた別の先生が現れたのだ。
 
 香宮 ましろ(かみや ましろ)。副担任らしい。顧問は音楽部(どうやら恋弥はこの部に所属しているらしい)。年齢は大津先生と、どっこいどっこい。要するに彼女も新任教師だ。つくづく、学校組織が年功序列で出来ているのが判る。
 新人に担任・副担を任すぐらいなんだからよっぽど敬遠されているクラスなのかな、と思ったのでそれとなく訊いてみると、別にそんなことは無いわ、と答えられた。

「え? じゃあ、どうしてそんな重要な役割を…」
「新人の私達に任すか、って? ……そうねぇ」

 あごに手を当てて、香宮先生は思案に沈んだ。
 女らしい仕草…、と癒亜は思った。細く白い指も、薄く紅の塗られた口唇も、すごく扇情的だった。
二十四、五と言えばまだ若い方なんだろうけど、大人の女性といった感じがする。薄化粧がすごく似合う。癒亜には少し羨ましかった。   
 親戚宅では叔母に、色々と身だしなみについて注意されていたが、よく聴いていなかった。今更ながらに後悔する。まあ、向こうでは家の中でも外出するときでも着物ばかり着ていたから、着付けだけはどうにか出来るようになったと思う。……昨日、パンツを穿いてなかったのはそれが習慣になっていたからだ。
 話が逸れたが、やはり目の前の女性は憧れるに値すると思う。艶やかに光るウェーブの掛かった茶髪とか、瑞々しい肌とか。やっぱり新任だからか、着ている服はスーツだが、ちゃんと着こなせてる。わたしなんか、下着すら着け忘れるというのに…。
 
「いわゆる武者修行、ってやつかもね」
「武者修行……ですか」
「うん、そう」

 香宮先生はそこで相打ちを打って、自分の腕時計を見た。癒亜もつられて、傍らの柱に掛かっている大時計を見る。八時二十三分。予鈴が鳴るまであと二分と言ったところだ。

「癒亜ちゃんは判んないかも知れないけどね。『人の上に立つ人』ってのはね、二種類いるの。世知辛い人と、破天荒な人。此処の学院の創始者はね、後者だったみたい」
「……破天荒な人…」
「そうそう。“可愛い子には旅をさせろ”を、可愛くない赤の他人にもしてたみたい」
「はあ……」
「だからね。私達みたいな新任の教師には何処かのクラスを担当させる、ていう親でもない親心を規則に組み込んだの」
「……」
「まあ、そういう訳だから。私達のクラスが札付きのワルってのと、新任教師の担任・副担ってのには全然関連性がないのよね。……いや、というよりか。B組(恋弥、そして癒亜が入るクラス)、評判は悪いけどそんなに荒んだクラスじゃないわよ。ムードメーカーが居るからイジメも無いしね。ね、大津先生」
「うむ、その通りだ」
「ひぁあ?!」

 いつの間にやら、隣のテーブルでフルーツパフェを食べていた大津先生が頷いた。

「あ! ひゃ?! あ? ……って、れ、恋弥はぁ?」   
「ぬぬ! せっかく俺様が気配を隠して接近したというのに、そこら辺のツッコミは一切無しか? というよりか、高原の方を先に心配するとは何事か? ぬぬぬ! そうか、わかったぞ。実はこいつらデキてるんだ!! なっ。君もそう思うだろう、ましろ」

 大津先生は一度に沢山の事を喋って、フルーツパフェを一気にかきこんだ。頭がキンキンしないのだろうか。

「…………あぁ、もうこんな時間ね。そろそろ行きましょうか、癒亜ちゃん」
「ふむ、君も無視を決め込むのか」
「えっ? えっ? 恋弥は?」

 そこで予鈴が鳴った。


≪3≫



 PM0:58。3B教室内。
 
 恋弥はどうやら無事に教室に戻っていた。大津先生がそう指示したらしい。
 生徒たちの輪の中心に陣取って、おしゃべりに興じている。
 癒亜の頭に、香宮先生の『ムードメーカー』と言う言葉が思い浮かんだ。おそらく彼がそのムードメーカーなのだろう。少し誇らしく思う。
 
 自己紹介なんかも終わって、今は昼休みの終わり頃になっていた。
 恋弥の言ったとおり、転校生は注目されるだけだった。昼休みの中頃ぐらいまでは、色々と知りたいお年頃の女子が集まっては質問してきたし、小学校との友達とも昔の話で盛り上がったりはしたが、今は周りには誰も居ない。こうして、ゆっくりと恋弥を眺めていられるのもそのお陰だ。
 でもやっぱり寂しいな、と思った瞬間。癒亜は後ろから話しかけられた。

「あれは、一応の気遣いだ」

 翼だった。癒亜は彼の言ったことを理解できず、は? と間の抜けた声を出した。翼は、癒亜のそんな反応に眉を顰めて、嫌そうに補足した。

「今日来たばかりの女に、馴れ馴れしく話し掛けたら要らぬ誤解を生むだろう。まあ、貴様らがそういう関係だと言う事は、俺は知っているが、他の奴等は知らんのだ。下らん想像を膨らませ、色々と冷やかして来るだろう。それに時期も時期だ。もう少し此処に慣れてからにした方が良いな、そういう事を公言するのは」

 其処まで言われて癒亜はやっと納得することが出来た。恋弥は、癒亜が無駄にちょっかいを出されない様、気を遣っていたという事だ。先程の約束を、彼は早速実行しているのだ。『癒亜を守る』と。
 そういう意味だったんだぁ、と思わずにやけた。

「それに、色々と俺達の事を誤解していると聞いた」

 へ? とまた間抜けな声を出したが、話が変わったんだな、とすぐ合点がいった。

「わたしが………?」
「そう、貴様だ」

 翼は、顎を引いて肯定した。

「貴様は、俺達が他人をからかって陰で笑っているような集団だと思っているそうだな」
「………ちがうの?」
「否、全く其の通りだ」

 癒亜はガクッとこけそうになった。否定しないのか。

「しかし、貴様が思っているほど酷い物ではない」
「わたしが、酷い想像をしてるってこと?」
「想像ではない。妄想だ」
「もうっ……?!」
「被害妄想、と言う物だな」
「はい?」
「被害妄想。まあ、正確に言えば、自分が虐げられていると勘違いすることだ。貴様の場合は一寸違って、“あの子”が虐められてるんじゃないか、と要らぬお節介を焼いている訳だ」

 専門用語が有るのかもしれんが俺は知らん、と言って、翼は隣の席に座った。

「要するに貴様は、俺達がイジメの主犯じゃないかと疑っている訳だろう」
「…………へ?」

 いきなり突拍子も無いことを言われて、癒亜は本日何回目かの間抜けな声を出した。
 いじめ? 何を言ってるんだろうか。わたしはただ、他人をからかって愉しんでいるんだろう、と思っただけなのに。

「それが妄想だと言っているんだ」

 癒亜の考えでも読んだのか、翼は彼女の考えに対して指摘した。

「貴様の言う『からかう』という行為は、怖ろしく範疇が広い。おそらく、冗談といった日常会話からイジメといった非道徳的な行為まで含まれているんだろう」
「………」
「普通、『からかう』という行為は、冗談で済まされることだ。高原自身も言っているが、自分で責任の取れないことはしない。要するに、其処までが、其の言葉の示す範囲なんだろう」

 数秒、癒亜は沈黙して、口を開いた。

「じゃあ、恋弥は『そういう事』、してないんだね……?」
「アレを見れば判るだろう」

 言って、翼は首を“アレ”に向けた。癒亜も、翼が見ているであろう光景に目を向ける。
 ジェスチュア付きで何かを喋っている恋弥。
 彼の話を聞いて大笑いするクラスメイト。 
 なるほど、確かにそういう心配は必要なさそうだ。
 よかった、と癒亜は安堵した。
 安堵して、すっかり失念していた事実を思い出した。

「そういえば、ルルちゃん、って誰?」

 ふむ、と翼は俯いて、教室の扉の方を見た。

「確かに……まだ、来ていないようだな」
「えっ? まだ来てないの?」

 病欠かな、と癒亜が思っていると、翼が言った。

「そんな事は無い。馬鹿は風邪を引かんと言うだろうが。そもそも、死んでも死なん様な奴だ。おそらくは、遅刻か寝坊だ」

 ふうん、と気の無い返事をして、癒亜は俯いた。

「馬鹿な事を考えん方が良い。高原とルルでは、如何にもこうにも釣り合わん」


 翼の忠告も何処吹く風で、癒亜は未だ見ぬ“ルルちゃん”とは如何いう人物なのだろうかと、思案を巡らせていた。




≪4≫


 PM6:58。

 香宮ましろは帰宅の途についた―――はずだった。
 というのも、まだ彼女はその異変に気付いていないからだ。
 校門を抜けて坂を下り始めたその時に、日常とは全く異質の世界に足を踏み入れたと言う事実に。

 目の前の坂は夕日に染まり、坂の下へと消えていく太陽は幻想的だった。
 彼女はコレを見るために、早退できる日は必ずこの時間帯に帰る事にしていた。
 それが仇となった。たまたま、学校を視察に来た彼に見つかってしまったのだ。

「んっ……?」

 彼女が初めて違和感を感じたのはその時だった。
 沈み行く太陽に影が出来たのだ。そして、その影はゆっくりと大きくなってきた。
 大きくなって、その影は人の形に成った。
 
「Buongiorno,Signorina.」(すいません、お嬢さん)
「えっ……!」

 いつの間にやら人影は大きくなり、太陽を全て隠すほどの大きさになっていた。
 逆光で姿は見えないが、日本語を喋っていなかったので、ましろはその影が少なくとも日本人ではないことに気付いた。

「Signorina……」(あのぅ……)

 誰かが判らないと話にくいので、ましろは影の横に回りこんだ。そこで初めて、影が男であることに気付いた。
 糸長たれ目、神父服。それだけを挙げれば、この男に柔和なイメージがついた事だろう。
 しかし、男にはもう一つ特徴があった。
 鼻の頭から顎の下までをガッチリと拘束した黒い皮製のマスク。食事用のために、口元にジッパーが
付けられている。
 ましろは一目で奇妙だと思った。神父様がこんなマスクをつける必要があるの?

「……!」

 男は、自分の呼びかけに反応しないましろを不審な目で見つめたが、そこで自分の過ちに気付いてハッとした。

「ああ……すみませんですのね。ここは日本でしたのね」

 奇妙な敬語。区々のイントネーション。さらに、マスクが邪魔して声がくぐもっているので、ましろは男が何を言っているかを理解するのに時間が掛かった。

「スクオーラはもう終わったですのね?」
「スクオーラ? ……学校、ですか?」
「スィ」

 男が笑って頷いた。もともと笑っているような目つきなので、ましろにはそれが本当の笑顔なのかは判断できない。 

「ええ……。生徒はもう帰りましたが」
「アア、そうですのね。明日は何時ごろ始まるですのね?」
「八時半頃にはみんな集まってきますけど…」
「アア……遅いですのね」
「はぁ……。えっと、失礼ですが貴方は?」

 男は言われて初めて気付いたらしく、自らの無礼を詫びた。

「アア…私とした事が、すいませんですのね」
「いえ…」

 もっと無礼な人間を、ましろは知っている。

「私はパトネ(ぱとね)と申しますのね」
「パトネ……さん?」
「スィ。皆さんからは『パトー』と呼ばれていますね」
「パトーさんはうちの学校に何か御用が……?」
「ノン、ノン。…ガッコウには用は有りませんのね。私が用があるのは、『高原恋弥』さんですね」
「…………」
「すいませんが、彼が今どこに居るかわかるですのね?」

 そんな事、超能力者でもないましろに判る筈も無い。それに、たとえ知っていたとしても教えるわけが無い。目の前の男は、表面だけの笑顔を貼り付けた不審者であるのは明白だった。そんな怪しい男と生徒を関わらせる訳には行かない。 

「そのような名前の学校関係者は居ませんが?」
「…………」

 パトネと名乗った男は、細長く開けた眼でましろを見つめた。

「どうかしましたか?」
「……………私に嘘を吐くとは、いい度胸ですね。『香宮ましろ』さん」
「…………?!」

 男が自分の名前を呼んだので、ましろは驚いた。が、すぐに冷静になった。高原君がこの学院に居ることが判っていたのなら、当然副担任である自分も調べられているはずなのだ。そうなれば、自分がこの男に話し掛けられたのも合点がいく。
 が、それもおかしい事にすぐ気付いた。自分の事を調べるんだったら、学校全体のことも調べているはずだ。それなのに男は、学校が終わったとか何時始まるとかを質問してきた。学校の登下校の時間なんて、調べたら真っ先に判る事だ。
 じゃあ、なんで名前が判ったのだろう? 高原君とは、学校を通じてしか関係が無い。彼を訪問しに来た男が、なぜ私の名前を?

「仕方ありませんのね。すこし素直になって頂きますのね」

 男はそう言って、黒革のマスクに付けてあるジッパーに手をかけた。何をするつもりだ?
 ジィーという音とともに、黒いマスクが上下真っ二つに分かれた。同時に大量の涎がマスクの中から漏れ出てくる。………涎?
 男は涎まみれの口許をニィと持ち上げて、ましろに笑いかけた。到底笑い返せそうに無い状況だ。
 そして、男は口をモゴモゴと蠢かして……………開けた。

「―――ぃっ?!」
 
 ましろは、声にならない悲鳴を口から漏らした。
 男の口の中に、牙が生えていたのだ。一本や二本ではない。十本、二十本でもない。星の数ほど、たくさんだ。夥しい程の牙が、口腔の至る所を埋め尽くすように生えていた。

「ぁ、あぁ……」

 彼女が逃げ出すきっかけは、それだけで十分だった。恐怖と戦慄を火力に変えて、ましろは坂の上へと走り出した。学校にはまだ、他の先生たちが残っている。そこまで逃げ切れれば、きっと誰かが助けてくれる。
 だが、そんな希望もすぐに枯れ果てた。足が動かなくなったのだ。足だけじゃない。手も、腰も、首も。瞬きすらできなくなっていた。完全に体が硬直していた。
 誰がやったかは明白だった。………あの男だ。
 
「アア、すいませんのね。その恰好では少し不恰好ですのね。もう少し綺麗に立っていただきたいですのね」

 男が言うと、ましろの体が動いた。走っている状態のまま奇妙に硬直していた足が、腕が、直立姿勢に変わる。両腕は腰にピタリとつき、太腿と太腿が密着した。
 それでも、男は不満だったのか、ましろにもう一度命令した。

「………やすめ…」 

 直立の体勢で体の至る所に入っていた力が、途端に抜けて行くのを感じた。肩が下がり、腕もダランと垂れ下がる。足の間が開いていく。
 が、一向に体の自由は戻らない。
 何時の間にやら、ましろの背後に立っていた男は、彼女の肩に手をかけた。

「どうも、『おあずけ』は我慢できなくて、困りますのね」

 男はもう一度口を開けた。舌が出てきた。
 30センチはある途轍もなく長い舌。それだけでも驚くべき事なのに、男の舌には、気持ちの悪い物がついていた。………棘。
 長い長い舌の表面には、棘のような突起が幾本も幾本も付いていた。

「――――ぃ?!」

 視点を動かすことの出来ないましろは、その事実を知ることも出来ないが、男の舌を伝って降りてきた涎が彼女の首に当たり、また悲鳴を上げた。
 ヌルヌルとした物が首の上を這うのが判った。
 舌に付いている棘が、ましろの首に引っ掛かり、引っ掻く。
 血が出てきた。
 男はソレを欲し、舐め取る。
 もう一度、棘が首を引っ掻いた。
 血が出る。
 舐め取る。
 引っ掻く。
 血が出る。
 舐め回す。

 男はその行為を何度も繰り返し、ましろの首を真赤に染めた。

「それでは………ですのね」

 男は呟き、異形の口を大きく開けた。
 口腔に生える何本もの牙が、美しき獲物に向けられる。

「Buon appetito ♪」(いっただきま〜す♪)

 無言に蠢く数多の牙が、彼女の首に突き立てられた。

 
 


 

 

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