馴奴(じゅんど) 三

〜ラスト40m〜


 

 



「よし。じゃあ、タイムを計るぞ、今村」

 顧問の杉本先生が、ストップウォッチを構え、手を上にあげる。

「はい、先生」

 少し緊張した面持ちで頷く、競技用の青いショートパンツにランニングシャツ姿の少女。髪をショートにした、端正な顔。すらっとして身長があるので、一見、男子のようにも見える中性的な魅力を感じさせる。

「いくぞっ。スタート!」

 先生が手を振り下ろし、少女がスタートする。
 最初の45mでスピードに乗ると、高さ76.2cmのハードルを難なく跳び越えた。

 1、2、3、4、5……

 少女は走りながら歩数を確かめていく。

 12、13、14、15、16、17!

 17歩目で踏み切ると、ふたつ目のハードルをクリアする。

 やっぱり、少し窮屈になってるわ。

 走りながら、少女は最近いつも感じている違和感について考えていた。

 14、15、16、17!やっぱり!

 3つ目のハードルもクリアするが、やはり窮屈な感じは拭えない。
 そして、目の前に4つ目のハードルが迫る。

 15、16、じゅうな…あっ!

 ガシャン!と、大きな音がしてハードルが倒れ、少女の体が地面に転がる。

「大丈夫か!今村!?」

 ストップウォッチを握ったまま、先生が駆け寄ってくる。

「大丈夫、です、先生」

 顔をしかめて立ち上がる、今村と呼ばれた少女。だが、その左膝の下あたりから血が流れ出していた。

「おいっ!だいぶ血が出てるじゃないか!本当に大丈夫なのか?どうだ、歩けるか?」
「ええ。傷は痛みますけど。歩いても特に痛みはないです」

 ゆっくりと、確かめるように足を踏み出し、少女は、大丈夫だという風に頷く。

「そうか。でも、その出血だと、保健室で手当したもらった方がいいな」
「え?でも、今は夏休みだし、保健室は開いてないんじゃないんですか?」
「いや、今朝、保健医の先生を見かけたから、きっと開いているはずだ。おいっ!誰か付き添ってやれ!」

 杉本の指示で、陸上部の後輩ひとりが駆け寄ってくる。

「すみません、先生」
「気にするな。それより早く行ってこい」

 少女は、後輩に付き添われ、グラウンドの隅にある水道で傷口に付いた砂を洗い流すと、保健室の方へと歩いていった。




* * *





「うわあ、これはまた派手にやったもんだね」

 杉本の言ったとおり、今は夏休み期間中だというのに保健室は開いていた。
 少女の傷口を見て、保健医の竜泉寺岳夫(りゅうせんじ たけお)は半ば感心したように言う。

「じゃあ、傷口を消毒するから。ちょっとしみるけど我慢して」
「はい。くうっ!」

 竜泉寺が、ピンセットを手に取って消毒液を浸ませた脱脂綿を摘み、傷口に当てると、少女は小さく息を呑んで唇を噛む。

「うん。まあ、かすり傷としては大きいし、出血もひどいけど、そんなに心配するほどの怪我じゃないね。栗原くん、ガーゼと包帯持ってきて」

 保険医に指示されて、制服姿の女子生徒がガーゼと包帯を持ってくる。

「あなた、2年の今村さんね?」
「え?あ、はい」
「私は、3年の栗原由佳(くりはら ゆか)。保健委員をしているの、よろしくね」
「なんだ、彼女のこと知ってるのかい、栗原くん?」
「ああ、竜泉寺先生は今年になってこの学校に来られたからご存知ないんですね。彼女は、2年の今村颯(いまむら はやて)さん。陸上部のエースですよ。1年の時からインターハイに出たりして、壮行会をしていましたし、校内では有名人なんですから、彼女。たしか、今年もインターハイに出たのよね?」
「あ、いえっ、そんなたいしたものじゃないですよ!」
「へえ、陸上部のエースね。で、競技は?短距離かな?」
「あ、いや、400mハードル走です」
「そうなんだ。よし、栗原くん、僕がガーゼを押さえておくから、包帯を巻いていってくれるかな」
「はい、先生」

 栗原と名乗った3年生が、手際よく颯の足に包帯を巻いていく。

「こんなものでいかがでしょうか、先生?」
「うん。上手上手。ええと、今村さん、だったね。ちょっと、見せてもらうよ」

 竜泉寺が包帯を巻き終えた颯の左足に手を当て、異常がないか確認する。

「うんうん。特に腫れた様子もないし、骨や関節にはダメージはいってなさそうだね」

 その言葉に、颯は安堵する。

「ああ、良かった」
「ん?競技会でもあるのかい?」
「はい、3週間後に、秋に行われるジュニアの日本選手権の選考会を兼ねた大事な大会があるんです。だから、たいしたことがなくて良かったです」
「まあ、実際にはまだわからないけどね。時間が経ってから腫れたり痛みが出ることもあるから。いいかい、今村さん。もし、この後、歩くのも痛いとか、目に見えて腫れ上がるようなら、すぐに病院に行くこと。たぶん、大丈夫だと思うけどね」
「は、はいっ」

 竜泉寺にそう言われて、颯は神妙な顔で頷く。

「もし、大丈夫そうでも、明日、明後日までは軽めの練習で止めておいた方がいいね。それと、風呂では、傷が塞がるまではシャワーで汗を流す程度にしておいた方がいい。血が止まっているように見えても、湯船に浸かるとまた出血するおそれがあるからね」
「わかりました」
「で、その後は清潔なガーゼで水気をよくとって、包帯を巻くこと。さあ、これを持って帰るといい」

 そう言って、竜泉寺がガーゼと包帯の入った袋を渡す。

「ありがとうございます」
「もし、何ともなさそうだったら、明日、練習前にまたここに来なさい。少々体を動かしても大丈夫なように包帯を巻き直してあげるから」
「はい」
「よし。じゃあ、今できるのはこれくらいかな。もう戻っていいよ」
「ありがとうございますっ。それでは、失礼します!」

 体育会らしく、元気よく竜泉寺に礼をして、颯は保健室を出ていく。

 グラウンドに戻り、顧問の杉本に、竜泉寺に言われたことを報告する。杉本の判断で、その日は練習を切り上げて様子を見ることにした颯は、早々に着替えて、帰途に就くことにした。




* * *





 翌朝起きると、颯はまず左足を見る。

 傷口がまだ少し疼くが、それ以外には特に痛みはないし、腫れている感じもない。

「うん、大丈夫そうね」

 膝の周りを軽く手で押さえ、痛みが無いのを確かめて、颯はほっとする。そして、トン、とベッドから降りて制服に着替え始めた。






 学校に来て、まず保健室に寄ると、もう、ちゃんと開いていて、竜泉寺と栗原が颯を迎える。

「うんうん。やっぱり心配するほどのことじゃないね」

 颯の左足をチェックしながら、竜泉寺が何度も頷く。

「腫れてもないないし、きれいなもんだ。この分なら、練習をしても大丈夫だろう」
「そうですか、良かったぁ」
「でも、昨日も言ったとおり、今日、明日は練習は軽めにしておくことだね。まあ、今焦って、大きな怪我をしてもつまらないからね」
「はい」
「じゃあ、包帯を巻き直そうか。体を動かしても大丈夫なように、少しきつめに巻いておくからね」
「ありがとうございます」

 今朝は、栗原ではなく、竜泉寺が包帯を巻く。まるで、テーピングでもするように、丁寧に、しっかりと巻き付ける。

「うん、これでよし。じゃあ、練習が終わったらもう一度来てもらえるかな。また包帯を巻き直してあげるから」
「はい、わかりました!それでは失礼します!」

 颯は、今日も元気よく礼をして保健室を出ていく。





 保健室を出ると、颯は短パンとランニングに着替えてグラウンドに向かう。
 竜泉寺の言葉に従って、その日は軽めの調整に終始する。

 軽いダッシュを繰り返した後、400mハードル走と同じ、35mの間隔でハードルを置き、その横を、歩数を確認するように駆け抜ける。

 14、15、16、17歩……。

 軽く流すようにして走っただけでは、いつも感じている違和感はない。
 実際にハードルは跳ばず、17歩ごとに小さく踏み切り、軽くジャンプしてタイミングを計るだけの練習を繰り返す。
 ジャンプする際、地面を蹴った左足の傷が少し疼く。

 やっぱり、保健医の先生の言ったとおりだわ。まだ、無理は禁物ね。

 竜泉寺の言葉を思い返しながら、颯は黙々と、ダッシュや腹筋といった基礎練習をこなしていった。






 練習後。

「栗原先輩って、いつもこうやって保健室にいるんですか?夏休みなのに、保健委員って大変なんですね」

 保健室で、今度は栗原に包帯を巻き直してもらう。

「そうでもないわよ。毎日保健室が開いているわけでもないしね。それよりも、今村さんの方が大変なんじゃないの?練習とか、厳しいんでしょう?」
「いいえっ!私、この競技が好きなんです。小さい頃、テレビで見たときから、あ、それは男子ハードルだったんですけど、かっこいいなって思って。でも、中学では100mハードルしかできなかったから、今、本当に楽しいんです!」
「かっこいいって、変わってるのね。あ、ごめんなさい。そういうつもりじゃないのよ」
「いえ、いいんです。よく言われますから。うちは、父が元陸上の選手で、私の名前も、脚の速い子になるようにと、『はやて』って付けたくらいですから。きっと、その影響なんでしょうね」
「それで、インターハイ選手にまでなるんだから、今村さんって本当にすごいわ」

 包帯を巻きながらの他愛ない会話。
 自分に向けられるその笑顔が眩しくて、颯は照れたように頬を染める。

「あ、ありがとうございます。でも、実は今年になってから調子が落ちているんです」
「ふうん、そうなの?でも、今年もインターハイに出てたじゃない?」
「それは、そうなんですけど。このところ、ハードリングのタイミングが合わないことが多くて」
「タイミング?」
「ええ。去年はハードルとハードルの間、インターバルって言うんですけど、それを、17歩で踏み切って上手く飛べてたんですけど。今年はそのタイミングがなかなか合わないんです」
「へえ。大変なのね」
「たぶん、感覚的なものだと思うんですけど……。あ、すみません!こんな話してもつまらないですよね」
「いいえ、そんなことないわよ」

「タイミングか。集中力を高めるトレーニングや、ハードルを上手く跳ぶイメージトレーニングをしてみたらどうかな?」

 それまで、ふたりの会話を黙って聞いていた竜泉寺が、話に割り込んできた。

「イメージトレーニング、ですか?」
「ああいや、僕は陸上競技は専門外だからね。技術的なことはよくわからないけど、タイミングとか、感覚的なものなら、そういったのが役に立つかなと思ってね」
「確かに、テレビなんかで、トップアスリートがイメージトレーニングに取り組んでいるのを見たことはありますけど、私、そういうの経験が無くて……」
「じゃあ、やってみたらどうかしら?竜泉寺先生は、そういうのが専門なんだから」
「そうなんですか?」
「私は、勉強の時に上手く集中できる方法を教えてもらったわ。実際にやってみたら、ものすごく集中できて、勉強の効率が上がったんだから」
「へええっ、そんなこともできるんですか?」

 期待に満ちた瞳で見つめられ、竜泉寺はポリポリと頭を掻いて苦笑する。

「まあ、スポーツ心理学も専門外だから、テレビでやってるようなことはできないけど、多少はわかるよ。まあ、集中力の高め方っていうのは、たいてい共通するものがあるからね」
「お願いします!ぜひとも指導して下さい!」
「うーん。まあ、どのみち、集中力の高め方は知っていて損はないだろうしね。ちょっとやってみようか」
「ありがとうございます!」

 身を乗り出して迫ってくる勢いに気圧された竜泉寺がトレーニングを引き受けると、颯は満面の笑みで頭を下げる。

「じゃあ、ちょっと立ち上がってくれるかな?」
「は、はい」

 竜泉寺は、颯を促して立ち上がらせると、自分も同様に椅子から立つ。そして、手首足首をほぐすようにぶらぶらと振って見せる。

「今村さんも、ウォームアップやクールダウンの時にこういうのをするだろう?」
「はい」
「集中力を高めるには、心の緊張をほぐしてリラックスさせる必要がある。それには、こうやって体の緊張をほぐすのが一番手っ取り早いんだよ」
「そうなんですか?」
「ああ。その時のコツは、なるべく体の力を抜くようにすること、こんな風にね。さあ、今村さんもやってみて」
「はいっ!」
「そんなに気張る必要はないよ。かえってリラックスの妨げになるからね」
「は、はい。すみません」

 竜泉寺にたしなめられて、少し恥ずかしそうに首をすくめると、颯は手首足首をほぐし始める。

「うん。今度は腕全体をぶらん、とさせるような感じで。じゃあ、次は首の動きも加えてみようか。ゆっくりと、大きく回すように。そうそう。さあ、力を抜いて、気分を楽にして」

 竜泉寺に言われるまま、目を瞑って、四肢をほぐしていく颯。

「気分はどうかな、今村さん?」
「はい、なんだか、すごく楽な気分で、体が軽くなったような気がします」
「よーし、それじゃあ、動きを止めて、今度は椅子に座って」

 竜泉寺が指示すると、颯は素直に椅子に腰掛ける。すると、竜泉寺がその両腕をつかんだ。

「はい、肩をぐっと上に上げて〜。そう、じゃあ、僕が手を離したらストン、と下に降ろす。はい、ストン。そ〜うそう。じゃ、もう一度。はい、肩を上げて〜。はい、ストン」

 竜泉寺が手で支えるようにして肩を持ち上げ、手を離すと下に降ろす動作を颯は繰り返す。

「じゃあ、今度は肩を上げるのと一緒に大きく息を吸って〜。そう、すうーっと。で、肩を降ろすときに吐き出す。そう、そんな感じ。はい、すうーっ。はい、ストン。そうやって、肩の力を抜いて息を吐くとどんどん気持ちが楽になっていくよ。はい、すうーっ。はい、ストン」

 颯は、大きく深呼吸をしながら、肩を上げては下げる動作を繰り返していく。

「ほら、そうしていると、どんどん全身の力が抜けて、気分が楽になっていく。はい、すうーっ。はい、ストン」

 何度それを繰り返しただろうか。やがて、颯の上体がぐったりとして、竜泉寺の体に寄りかかってくる。そのタイミングを見計らったように、颯に添えていた腕を固定し、肩を上げ下げする動作をやめさせる。

「さあ、次はゆっくりと上半身を動かしてみようか。大きく円を描くように、ゆっくりと。僕が支えているからなんの心配も要らないよ」

 最初、体に添えた手で竜泉寺が誘導してあげただけで、颯の体は、ゆっくりと円を描くように揺れ始める。

「そうやって体を動かしていると、どんどん気持ちが楽になっていく。まるで、ゆっくりと下に降りていくように、ふわりふわりと。そう、どんどん楽になって、ゆっくり、深く深く降りていくよ」

 颯は、眠っているかのように目を瞑り、弛緩させた体を回転させている。

「さあ、着いた。君は心の一番深いところに降りていったよ。もうそれ以上深く潜ることはできないから、体を動かすことはできない」

 すると、体を揺らしていた颯の動きがピタリと止まる。

「そこは、君の心の奥。一番深いところだよ。だから、そこにいるととっても気持ちいい。そうだね?」

 竜泉寺が問いかけると、颯は目を瞑ったままコクリと頷く。

「そうだろう?そこにいるととっても気持ちいいんだよ。だって、そこには君を不安にさせるものは何もない。君にとって心地いいものしかないんだから。今聞こえているこの声もそうだよ。これは君自身の声。君がそうしたいと心の底から思っていることが聞こえているんだ」

 竜泉寺が語りかけると、颯はコクリコクリと頷く。

「そこにいると本当に気持ちいいね。もう少し、そこにいたいかい?」

 颯がまた、コクリと頷く。

「じゃあ、もう少しそうしていようか」

 竜泉寺がそう言うと、目を瞑ったままの颯の口許に、穏やかな笑みが浮かぶ。だが、体はぐったりとさせたまま、ピクリとも動かない。その様子を見て、竜泉寺が由佳にニヤリと笑いかける。

「まるで、私の時みたいですね、先生」
「思い出すと辛いかい、由佳?」
「いいえ、全く。あの時の私は、先生の人形になることの意味がわかっていませんでしたもの。その素晴らしさがわかった今では、辛いとは思いません。むしろ、もっと早く先生の人形にならなかった私が馬鹿みたいに思えてくるくらいです」

 そう言って、由佳も竜泉寺に微笑み返す。

「そうか」
「はい。それに、今度はこの子にどういうことをするのか、それを間近で勉強さていただくのも楽しみですし」

 その答えに竜泉寺は満足げに頷くと、再び颯の方を向く。

「颯。そこには、君にとって大事なものがいっぱいあるだろう?何が見えるかな?」
「家族と、ハードルを跳び越える私。そして、私の夢」

 颯が、抑揚のない、機械的な口調で答える。

「その夢ってなんだい?」
「400mハードルでオリンピック代表になること」
「じゃあ、これから言うことは、その夢を達成するのに必要なことだ。だから、そこに大事にしまっておくんだよ」
「はい」

 目を瞑ったまま、颯が返事をする。
 その様子を見ながら、竜泉寺は言葉を続けていく。

「君が保健室で、竜泉寺先生と栗原先輩から言われたり、されたりすることは、全て400mハードル走に役に立つことばかり、いわば、トレーニングの一環だ」
「竜泉寺先生と、栗原先輩に、言われたり、されたりすることは、トレーニングの、一環」
「だから、竜泉寺先生や栗原先輩に言われたことには、その言うとおりにするし、そのふたりがすることには何の疑いも持たない。いいかな?」
「はい。竜泉寺先生と、栗原先輩に言われたとおりにします。ふたりがすることは、疑いません」
「うん。じゃあ、僕が手を叩いたら君は、すっきりした気分で目が覚める。目が覚めたときには、今、そういうことを言われたっていうことは忘れてしまうけど、言われた内容はその心の奥深くにしまってあるから、目が覚めてからも、言われた通りに行動してしまう。いいかい?」
「はい」
「じゃあ、はい、君はすっきりと目を醒ます」

 そう言って、竜泉寺が、ポン、と手を叩くと、颯はパチッと目を開く。

「あれ、私?」
「だいぶリラックスしていたみたいだね、今村さん。今の気分はどうだい?」

 そう言われて、颯は小さく首を傾げる。

「なんか、すごい軽くてすっきりした気持ちです。でも、これって、集中力が高まっているんですか?」
「ああ、今の君はとても集中力が高まっているよ」
「そんなに変わったっていう感じはしないんですけど、そう言われると、そんな感じがしますね」

 竜泉寺に言われると、なんだか、本当に集中力が高まっているような気がした。

「まあ、何もしていない状態だと、集中力が高まっているかどうかはなかなか実感はできないからね。じゃあ、次のトレーニングを始めようか」
「次の、トレーニング?」
「ああ。いよいよ、イメージトレーニングだ」
「え?イメージトレーニングもしてもらえるんですか?」
「もちろん。その前に聞いておくけど、ハードルを飛ぶタイミングが合わなくなったのは今年になってからって言っていたよね?」
「はい」
「今村さん。君の身長は?170cmはあるかな?」
「ええっと、168cmです」
「高校に入ったときからそのくらいあったのかな?」
「いえ。この1年で5cm以上伸びました」
「よし。これで君の悩みを解決する方法がわかったよ」
「本当ですか?」
「君は、これまで、インターバルを17歩で踏み切っていると言っていたね。これを、15歩にしよう」
「ええっ!15歩って、男子選手並ですよ!?」

 その、意表をつく提案に、颯は立ち上がらんばかりに驚いた。
 400mハードル走のインターバルは、女子だと普通なら17歩か19歩なのだ。それを15歩でいくなんて、とてもではないが常識では考えられない。

「うん。でも、高校生なら、君くらいの身長の男子選手だっているだろう?」
「それは、そうでしょうけど」
「この1年で、身長が5cm以上伸びた。それが不調の原因なんだよ。だいたい、それだけ上背があると、その分ストライドも大きくなる。今までと同じ歩数で踏み切ると窮屈に感じるのも当然じゃないか。ましてや、もとからインターハイレベルのスピードがあった君ならね」
「でも、いきなり15歩にするなんて」
「だからって、偶数歩にするわけにもいかないだろう?偶数歩だと、ジャンプの度に蹴り足が入れ替わることになる。ハードル競技は、常に利き足で踏み切れるようにインターバルはなるべく奇数歩で踏み切って、距離のある400mだと、速度の落ちてくる中盤に偶数歩のでの踏み切りをせいぜい2回入れて、最後は利き足で踏み切るようにする。そうじゃないのかな?」
「その、とおりです」
「だから15歩にするんだ。もちろん、ハードル競技で不調に陥る原因は人それぞれだし、解決策もそれによって違ってくる。だけど、君の場合は身長が伸びたことにより、インターバルの歩数を維持できなくなってるんだから、それに対応しなければいけない」

 確かに、竜泉寺の言っていることはもっともに思えた。だいいち、理に適っている。

「それは、先生の仰るとおりですけど。私、これまで15歩でやってみたことなんてないし、大会前に走り方を変えるなんて……」
「そのためのイメージトレーニングじゃないか。いいかい、10個あるハードルのインターバルは9個。そのうち、まず、はじめの4つを15歩で踏み切る。中盤はスピードが落ちてくるだろうし、スタミナの維持のために16歩を2回、後の3回は17歩で踏み切ってラストスパートにつなげる。これなら、それ程無理なことじゃないと思うね。それに、もし、将来的にもっと身長が伸びたり、スピードが上がったときには、15歩で踏み切る回数を増やして、17歩の回数を減らすこともできるし、君には向いていると思うけど、どうだい?」
「そう、ですね」

 話を聞いているうちに、竜泉寺の提示したモデルが、颯には魅力的に思えてきた。ハードル走の理屈はきちんと押さえてあるし、もし、それを実践できたら、タイムもこれまでよりかなり良くなるに違いない、と思える。

「大会が近いから、今のうちにイメージトレーニングをしっかりとこなして、新しい走り方を覚え込む。後はそれを実践するだけだ」
「わかりました。やってみます、私!」
「うん、じゃあ、早速イメージトレーニングを始めようか。そうだね、まず、ウォーミングアップをしてもらおうか。栗原くん、お願いしていいかな?」



 そう言って、竜泉寺が由佳に目配せする。すると、その意図を察したのか微笑みながら由佳が颯に歩み寄ってくる。



「え?栗原先輩?」

 颯の肩から腰にかけて、揉みほぐすようにマッサージを始める由佳。怪訝そうに、颯はその顔を見上げる。

「これが、『ウォーミングアップ』よ、今村さん。イメージトレーニングを始める前に、もう少し体をほぐして、温めておかないといけないから」
「そうなんですか?」
「そうよ。だから、今村さんは安心して私に任せておいて」
「わかりました」

 そう言われると、不思議と心が落ち着いてくる。なんといっても、竜泉寺と栗原は自分のためにこうしてくれているのだから。全ては、400mハードル走を上達するため。それが、ふたりに対する全幅の信頼を生んでいた。
 由佳のするままに体を任せる颯。すると、競技用ランニングシャツの上から、由佳の手が颯の胸を掴む。

「ああっ!先輩!?」

 驚いて、思わず声をあげる颯。その耳元で由佳が囁く。

「こうしないと体が温まらないでしょ。だから、少し我慢してね、今村さん」
「は、はいっ」

 そう。これは『ウォーミングアップ』なんだから、我慢しないと。それに、こうやってもらっていると、確かに体がポカポカしてくる。

 そう思って、おとなしく由佳に胸を揉まれる颯。時折、由佳の手に力が入ると、我慢していても颯の口から小さな声が漏れる。

「それじゃ、今度はもうちょっと刺激がきつくなるけど、これも我慢してね」
「ええ?ふあっ!ああああっ!」

 由佳の手が、ショートパンツの中に滑り込んでくた。そして、ショーツの上から敏感なところをなぞられて、颯が甲高い声をあげる。

「これが『ウォーミングアップ』に効果があるのよ。ほら、こうすると体が熱いくらいに温まるでしょ?」

 そう言うと、由佳の指がショーツの当たった部分を押しのけ、直に颯の敏感なところを弄り始める。
 だが、そうされていると、確かに体の芯がじんじんと熱くなってくるようで、汗が滲んでくる。
 颯が歯を食いしばって我慢していると、由佳の指が、敏感な部分の隙間から中に入り込んで来たのを感じた。

「んくううっ!せっ、先輩!」
「もう少し、もう少しだからね、今村さん」

 由佳の指が、颯の中で動き回る。それに耐える颯の顔は真っ赤で、その額から汗が噴き出ていた。
 そうしているうちに、颯には、自分のショーツが、なんだか汗とは違うもので湿ってきているように思えた。
 すると、由佳の指がもう一本、颯の中に潜り込んできた。

「くああああっ!激しいっ!激しすぎですぅ、先輩!」

 2本の指で自分の中をかき回されて、颯がたまらずに大きな声を出す。
 もう、颯はショーツが明らかに汗ではないものでグショグショになっているのをはっきりと感じていた。それを、おもらししてしまったのだと颯は勘違いしてしまう。

「先輩!ダメです!私っ、おもらししちゃってます!」
「いいえ、おもらしじゃないの。体が温まってるの」
「ええっ!そ、そうなんですか!?あああっ!」
「そうよ。これでやっと『イメージトレーニング』をすることができるんだから」
「んんんっ!せんっぱいっ!」

 ようやく、由佳が指を引き抜くと、颯の口から切なげな声が漏れ出る。
 確かめるように、由佳が指を擦り合わせると、指の間に透明な糸が引く。

「うん、いいわね。じゃあ、立ってちょうだい、今村さん」
「は、はい」




 颯を立ち上がらせると、由佳はその手を取ってベッドの方に連れていく。
 いつの間にそこにいたのか、ベッドには竜泉寺が腰掛けていた。
 由佳が、竜泉寺に歩み寄ると、ズボンをずらしていく。

「栗原先輩、いったい何を?」
「さあ、今村さん。これが、『スタートライン』よ」

 そう言って由佳が手に乗せているもの。
 竜泉寺の股間にあるそれが何なのか、さすがに颯も知っているはずだった。しかし、栗原先輩がそれを『スタートライン』と言うのならそうなのだろう。
 颯がよく知るスタートラインとは全く異なるが、これはイメージトレーニングなのだから、それも当然なのかもしれない。

「こっちにいらっしゃい、今村さん。スタートの準備をしないといけないから」
「準備、ですか?」

 颯が近寄ると、由佳がその手を取って、自分の手を添えるようにして『スタートライン』を握らせる。
 それは、暖かくて、少し柔らかかった。

「ほら、ここをこうすると」

 颯の手に添えられた由佳の手が、『スタートライン』に沿わせるように動き始めた。
 すると、少しずつ、その感触が固くなっていき、目に見えて大きくなっていく。
 『スタートライン』を握った颯の手に、ドクンドクンという振動が伝わってくる。
 由佳の手に誘導されるまま、颯が手の動きを早くしていくと、それはどんどん固く大きくなっていった。

「さあ、これで準備完了よ。じゃあ、『イメージトレーニング』を始めるわよ、今村さん。では、お願いします、先生」

 竜泉寺は、由佳の言葉に頷くと、ベッドの上に仰向けになる。
 次に、由佳は颯のショートパンツを脱がせていく。

「せ、先輩?」
「このイメージトレーニングには、ちょっと邪魔だから脱いでもらうわね、今村さん」
「は、はい」

 ショートパンツを脱がせ終えると、颯の肩に手を掛け、耳元で由佳が囁く。

「じゃあ、いよいよ『スタートライン』に立つのよ、今村さん」
「え?」
「その上に立つの。ほら、こうやって」

 由佳に促されるまま、颯はベッドに上がり、竜泉寺の腰を挟むようにして立つ。

「うん、もう少し下かな、膝立ちになるような感じ。そうそう。じゃあ、そこから腰を屈めていって」

 言われるままに膝立ちになり、腰を沈めていく颯。
 由佳の手が『スタートライン』を握って、颯の股間に向けた。そして、もう片方の手で颯のショーツをずらすと、剥き出しになった隙間に『スタートライン』を当てる。

「さあ、一気に腰を沈めて、今村さん」
「はいっ。ああっ、うああああああっ!」

 由佳の言うままに腰を沈めると、『スタートライン』がずぶずぶと颯の中に入ってきた。その刺激は、さっきの由佳の『ウォーミングアップ』の比ではない。それに、ズキズキと痛む。さらには、自分の中が埋め尽くされて、息苦しく感じられる。

「あうっ、うううっ!」
「どうしたの、今村さん?トレーニングはまだまだこれからなのよ。やっと、これでスタートできるんだから」
「はっ、はいいいいいぃっ!」
「いい?これはトレーニングなんだから、苦しくて当たり前なのよ。でも、大丈夫。最初は痛かったり苦しかったりしても、慣れると何ともなくなるから。むしろ、気持ち良いと思うようになるくらいよ」
「んんっ!はいっ!」
「じゃあ、いよいよ始めるわよ。準備はいい、今村さん?」
「はいいっ!お願いっ、します!」
「それでは、竜泉寺先生、お願いします。用意、スタート!」

 由佳の合図で、竜泉寺が動き始め、『スタートライン』が颯を突き動かし始める。

「あうううっ、はあっ、くっ、はあああっ!あっ、はあっ、はあっ!?」

 スタートしたばかりなのに、いきなり竜泉寺の動きが止まる。

「どうされたのですか、先生?」

 訝しむように由佳が竜泉寺の方を見た。颯も、おずおずと竜泉寺の方を窺う。

「今村さん。400m走は短距離走だから、無酸素状態で走る競技なのじゃないのかい?400mハードル走も、終盤まではほとんど息継ぎをしないと聞いたことがあるけど、そんなに、はぁはぁと息をしていていいのか?」

 肩で大きく息をしている颯の目を見ながら、竜泉寺が言う。

「すっ、すみません!先生の仰るとおりです!」
「じゃあ、もう一度スタートのやり直しだね」
「はいっ!お願いします!」
「うん。それじゃあ合図を頼むよ、栗原くん」
「わかりました。用意はいい、今村さん?それでは、用意、スタート!」

 由佳の合図と共に、竜泉寺が再び動き始め、『スタートライン』が颯を突き上げる。

「んっ、んんっ、んっ、んっ、んっ!」

 竜泉寺に言われたとおり、息を継がずに颯はそれを受けとめる。

「そらっ、一個目の『ハードル』だ!」
「んっ、んんんっ!」

 竜泉寺が、一際大きく颯を突き上げ、その体が上に跳ね上がる。
 『スタートライン』は、いつしか『ハードル』になっていた。

「さあ、次の『ハードル』まで15歩のイメージで行くよ」
「んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んんんっ!」

 一定のリズムを刻みながら竜泉寺が動き、15回目に大きく動いて、『ハードル』を飛び越える。

「さあ、次も15歩目で踏み切るよ!」
「んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んんんっ!」
「よしっ、次!」
「んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んんんっ!」
「次っ、5つ目の『ハードル』!」
「んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んんんっ!」

 必死で竜泉寺の動きに合わせる颯。なんだか、本当にハードルを跳んでいるような気がしてくる。

「よしっ、それじゃあ次は16歩目で踏み切る!」
「んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んんんっ!」
「もう1回!」
「んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んんんっ!」

 どんどん息が苦しくなってくるが、竜泉寺の腹に手を当てて体を支えながら颯はなんとか耐える。

「よし、後は17歩で踏み切るよ!」
「んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んんんっ!」
「あと2つ!」

 苦しげに歪められた颯の顔は、もう真っ赤に染まっていた。

「んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んんんっ!」
「さあっ、最後の『ハードル』だ!」
「んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んんんっ!」

 竜泉寺が颯を大きく突き上げて、10個目の『ハードル』を越える。

「よし、いったんここで止めようか」

 そう言って、竜泉寺が動きを止める。

「んんっ!はあっ!はあっ!はあああっ!はぁはぁ!」

 ようやく息を継げるようになった颯は、竜泉寺の上に倒れ込むようにして大きく喘ぐ。
 そのまま、肩を大きく動かして、体全体で酸素を取り込もうとしている。

「どんな感じだい、今村さん?」
「はあっ、はあっ!これ、実際の練習よりもきついです、先生。はぁ、はああっ!」

 大きく息を吸いながら、竜泉寺の問いになんとか答える颯。

「まあ、すぐに実践に活かせるようにしてあるからね。それよりも、たった一度でもうギブアップかい?」
「いいえっ!まだっ、お願いっ、します!」
「よし、じゃあ、1個目の『ハードル』のとこから始めようか」
「はいっ!んんんっ!」

 竜泉寺が再び颯の体を突き上げる。

 15歩っ!ふたつ目!

「んんっ!」

 15歩っ、3つ目!

 さっきと同じように、竜泉寺の動きをハードル走のイメージに重ね合わせていく。
 リズミカルに動く竜泉寺の腰の上で、颯は苦しげに歯を食いしばりながら体を上下させている。

 そして、9個目のハードルを越える。

「んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んんんっ!」
「いいかい、今村さん!ゴール前、ラスト40mだ!」

 10個目のハードルを越えても、今度は、竜泉寺はさっきのように動きを止めなかった。

「んっ、んんっ、んっ、んっ!」
「あと30m!さあ、ここからは息継ぎをしてもいいぞ!」
「んっ、あっ!ああっ!はあっ!んんっ!」

 竜泉寺に言われて、ようやく息継ぎをするが、実際の競技の時のように最小限に押さえて、ラストスパートに集中する。

「あと20m!」
「んんんっ!んっ、はあっ、あああっ!」
「10m!9、8、7、6、5、4、3、2、1!さあ、ゴールだ!」
「んんんんっ!あああっ!あああああああーっ!」

 ゴールした、と思った瞬間、体の中に何か熱いものが注ぎ込まれ、颯は目の前が真っ白になった。





「今村さん、大丈夫、今村さん?」

 名前を呼ばれ、体を揺すられて颯が目を開けると、由佳が心配そうに自分の顔を覗き込んでいた。

「あ、栗原、先輩?」
「大丈夫、今村さん?意識を失ってしまってたのよ。よっぽどトレーニングがきつかったのね」
「だ、大丈夫です」

 颯の視線が由佳を捉えようとするが、上手く焦点が合わない。その顔は、熱でもあるかのように赤く染まり、涙目になっていた。

「でも、ゴールの瞬間、とっても気持ちよかったでしょ?」
「んん、はい」

 ふうう、と、甘い吐息をつきながら、潤んだ瞳を由佳に向けて頷く颯。

「それが、力を出し切ったアスリートの『達成感』なのよ。できることをやり切るのって、すごく心地良いでしょう?」
「はい」
「その『達成感』を沢山感じられるようにこれからももっと練習頑張りましょうね」
「はい」

 エクスタシーを、『達成感』とすり替えていく由佳の言葉に、颯は素直に頷く。その表情は緩み、蕩けた笑みさえ浮かべている。
 運動の後の心地よい疲労感と、なんだかふわりと体が浮かんでいるような快感の余韻が颯を包み込んでいた。
 絶頂に達して、思考が鈍っていることに加えて、竜泉寺の暗示のせいもあって、颯には由佳の言葉を疑うことはできなくなっていた。

「イメージトレーニングはどうたったかな、今村さん」

 気付けば、竜泉寺もベッドの横に来て颯を見下ろしていた。

「はい。私、イメージトレーニングをなめてました。こんなにきついトレーニングだったなんて、想像もしてなかったです」
「それじゃあ、もうこれで止めることにするかい?」
「いえっ!」

 竜泉寺の提案に、颯は強くかぶりを振る。
 このトレーニングは、400mハードル走のために絶対に必要だ。竜泉寺のすることは、自分にとって必ず役に立つ。そういう思いが颯の中を埋め尽くしていた。
 それが、竜泉寺に仕込まれた暗示のせいだということに、もちろん颯が気付くはずもない。

「じゃあ、続けるんだね」
「はい。先生の仰るとおり、私には17歩で踏み切るより、15歩で踏み切った方がいいみたいです。でも、大会までにそれをマスターするには練習だけではきっと間に合いません。イメージトレーニングが必要なんです。だから、お願いします!」
「わかった。じゃあ、明日も練習の後にここに来なさい」
「ありがとうございます!」
「ああ、それと今村さん」

 ようやく起きあがってショートパンツを穿き、出ていこうとした颯を竜泉寺が呼び止める。

「はい、なんでしょうか?」
「このことは、みんなには内緒にしていてもらえるかな」
「は、はい?」

 その申し出に頷きながらも、首を傾げる颯。

「部外者の僕がこんなことをしたら、顧問の先生に悪いからね。このトレーニングは僕と君、そして栗原くんだけの秘密ということにしておこう」
「はい、わかりました。それでは、失礼します!」

 竜泉寺の説明に納得したのか、颯は元気よく礼をして保健室を出ていく。その足取りは、少しふらついているように見えた。






「先生ったら、400mハードル走のこと詳しいじゃないですか」

 颯が出ていった後、竜泉寺の肩に腕を掛けた由佳が尋ねる。

「ふふっ、昨日今日で調べたんだよ」
「わざわざこのために、ですか?」
「ああ。相手に信用してもらえるとその後が楽だからね。それには相手の好きなことは何か聞き出して、それについて詳しく調べておくっていうのも手なんだよ、わかるかい?」
「はい。覚えておきます」
「それよりも由佳、待たせたね。今度は君の番だよ」
「はいっ」

 弾んだ声で返事をして跪くと、由佳は竜泉寺のズボンをずらしていく。
 そして、嬉しそうにその肉棒をしゃぶり始める。

「んふ、ちゅば。先生の味に混じって、これが颯ちゃんの味なんですね。ん、ちゅる」

 うっとりとした表情で肉棒をしゃぶり続ける由佳。
 保健室の中に、由佳の吐息に混じって、湿った音が響き続けていた。







 ――その夜、颯の家。

「ふわぁ……あふ」

 食事の後にシャワーを浴び、ベッドの上で包帯を巻き直しながら、颯は大きく欠伸をする。
 軽めの調整とはいえ、昼間練習をした後に、ハードな『イメージトレーニング』をしたのだ。もう体はくたくただった。

「それにしても、イメージトレーニングがあんなにきついなんて想像もしなかったわ」

 包帯を巻きながら呟く颯。
 トレーニングの時のことを思い出すと、それだけで、なんだか体が熱くなってくる気がする。
 それに、トレーニングの後から、股間に鈍い痛みを感じる。

「ちょっとオーバーワークだったかもね」

 今の颯には、保健室で竜泉寺とやったことは、『イメージトレーニング』以外のなにものでもない。
 だから、体の芯がじんじんしてくるのも、敏感なところが痛いのも、それだけトレーニングがハードだったからとしか考えられない。

「しんどいけど、それだけに効果がありそうだわ、あのトレーニング」

 包帯を巻き終えると、颯は横になり布団を被る。
 よほど疲れていたのか30秒もしないうちに颯はすやすやと寝息を立て始めていた。





* * *





 翌日も、竜泉寺に言われたとおり、颯は軽めの練習に抑えておくことにした。

 昨日と同じく、競技と同じ間隔で並べたハードルの横を、歩数を確認しながら駆けていく。
 ただ、昨日と違うのはその歩数。
 それまでは、17歩で踏み切っていたのを、15歩で駆けてみる。

 これは、だいぶ一歩の歩幅を大きくしないといけないわね。

 確かめるように、何度も同じ練習を繰り返す。

 うん。軽く流す程度のスピードだとちょっときついけど、速度が乗っていたら楽に行けるかもしれない。

 颯は、15歩でいけるという手応えをつかんでいた。
 なによりも、今までのような窮屈な感じが全くない。

 なるべく早く感覚をつかんで、大会までにマスターしないといけないわね。

 颯はその日、体に覚え込ませるようにインターバルを15歩で駆ける練習を繰り返した。





 ――夕方。

「うん。まだ傷口が完全に乾いていないけど、このくらいならもう大丈夫だろう。明日から通常の練習に戻ってもいいよ」

 練習の後、保健室に来た颯の傷の状態を確かめて、竜泉寺が通常練習再開の許可を出す。

「はいっ!ありがとうございます!」
「じゃあ、今日はこれでいいよ」

 竜泉寺がそう言うと、颯が不安げな表情を見せた。

「あ、あの、先生」
「ん、なんだい?」

 まるで、これで用は終わったというような竜泉寺の素振り。
 イメージトレーニングのことなんかすっかり忘れているように颯には思えた。

「今日は、イメージトレーニングは?」
「ああ、そうだったね」

 颯の方から切り出して、今思い出したというように手を叩く竜泉寺。

「ごめんごめん、そうだった。じゃあ、始めようか。栗原くん、ウォーミングアップをお願いするよ」
「はい、先生」

 竜泉寺に指示されて由佳が颯の体に手を掛けてくる。



「んっ、ああっ、先輩!」

 すぐに、保健室の中に颯の甘い声が響き始める。
 由佳のウォーミングアップに身も心も委ねている颯は、竜泉寺が口許を歪めて笑っていることに気付くことはなかった。





 20分後。

「んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んんんーっ!はあっ、はあっ!」

 10個目の『ハードル』を越えて、肩で大きく息をする颯。
 今日、10個の『ハードル』を越えるイメージトレーニングは、これで3セット目だ。

「もうそろそろ限界かな、今村さん」
「ん、はぁはぁ……。あと1回くらいなら、いけます!」
「そうか。じゃあ次でラストだ。はじめから通しでやるよ」
「はいっ!」
「それでは、栗原くん、お願いするよ」
「はい、先生」

 いつの間にか、由佳がストップウォッチを構えていた。

「え?これは?」
「もちろん、タイムを計るんだよ。目標にするタイムを決めてから通しでやる。それでこそ、このイメージトレーニングは真価を発揮するんだからね。じゃあ、目標タイムは、そうだね、59秒50にしておこうか」
「59秒50!?そんなの、インターハイで入賞できるタイムですよ!んんっ」

 竜泉寺の提示した目標タイムに、目を白黒させる颯。
 しかも、竜泉寺の上に跨り、自分の中にその肉棒を飲み込んだままなのだから、驚いた拍子に体を悶えさせている。
 だが、颯にとって、それは『スタートライン』であり、『ハードル』に他ならない。端から見たらいかがわしい行為以外の何ものでもないのに、当の本人にとってはそれは紛れもなくトレーニングなのであった。

 狼狽える颯をよそに、涼しげな顔で竜泉寺が口を開く。

「でも、新しい走り方が完成したらそのくらいのタイムは弾き出せると僕は思うんだがね」
「そう、でしょうか?」
「それに、イメージトレーニングなんだから、高い理想をもってやらなくちゃ。でないと、いくらトレーニングしても本番で活かすことはできないよ」
「そ、そうですねっ!お願いします!」

 竜泉寺に上手く言いくるめられて、颯もその気になる。
 どのみち、竜泉寺の言うことをなんでも受け入れるような暗示がかかってるのだから、こうなることはわかっていた。

「じゃあ、頼むよ、栗原くん」
「はい。それでは、用意、スタート!」

 由佳の合図に、竜泉寺が動き始める。

「さあ、最初の45m!」
「ん、ん、ん、ん、ん、ん、ん、ん、ん、ん!」

 いきなり、竜泉寺が小刻みに速いペースで腰を動かすと、颯の顔が苦しげに歪む。

 この、スタートから最初のハードルまでの45mでスピードに乗らないと、その後15歩でいけないっ!

 まるで、実際に全力で走っているような表情の颯。
 颯にとっては、これは間違いなくトレーニングなのだ。

「ほら、最初の『ハードル』だ!」
「んんんっ!」

 竜泉寺が大きく腰を突き上げると、颯の体が、本当にジャンプしたように跳ね上がる。

 くうっ!このままの勢いでっ!

「んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ!」

 14歩っ!次で!

「んんんっ!」

 竜泉寺の動きに合わせていた颯が、15歩目でまた体を大きく跳ねさせる。

 15歩っ!次っ!

「んんんっ!」

 決めたとおりに、前半の4つは15歩で、その次は16歩でふたつ、そして、残りは17歩で『ハードル』を越えていく。
 そして、最後の『ハードル』を越える。

「んんんんっ!」
「休むなっ!ほら、ラスト40m!」
「ん、ん、ん、ん、ん、ん、ん!」

 そして、ラストスパート。竜泉寺の腰が素早く動きはじめ、颯の体も小刻みに跳ねる。

「あと30m!」
「んんっ!はあっ!あっ!んっ、んっ!」

 体を跳ね動かしながら、苦しげに息を継ぐ颯。
 だが、昨日のようなただ苦痛に歪んだだけの表情ではない。頬は赤く染まり、汗が浮かんでいるが、どこか恍惚とした色があった。
 
「あと20!」
「んっ!はあっ!んっんっんっ!」
「10、9、8、7、6、5、4、3、2、1!ゴール!」
「ああああああーっ!」

 『ゴール』の瞬間、颯の中が熱いものに満たされ、その体がこわばる。
 心地よい『達成感』に、颯は体を何度も震わせる。それが、オーガズムによるものだということに颯は全く無自覚のままだ。

「タイムは、59秒62!」

 ストップウォッチを止めた由佳が計測タイムを告げる。
 無論、そのタイムは颯のタイムではない。竜泉寺がその時間で腰を突き上げていただけなのだが、颯にはそんなことなど考えられない。
 竜泉寺の上で大きく肩で息をしながら喘ぐ颯。その、青い競技用のランニングシャツが、汗に濡れて体に張り付いていた。








 翌日、通常練習を再開するに当たって、颯は顧問の杉本に、インターバルの歩数を15歩にしたいと告げる。
 もちろん、竜泉寺に言われたということは口にしない。ただ、最近、17歩で踏み切るのを窮屈に思っていたこと、それは、この1年で自分の身長が伸びたせいであることを訴えた。

「だから、インターバルの歩数を15歩にしたいんです」
「うむ、確かに、今村の言うことももっとだが、もう大会まで20日ないんだぞ」

 案の定、杉本は颯の提案に難色を示す。

「大会までに、フォームを固めることができるのか?」
「やります!私、やって見せます!」
「そこまで言うのなら、1回それでやって見ろ」

 颯の表情に、固い決意を読みとったのか、杉本は譲歩を見せる。

「ありがとうございます!」
「ただし、ダメだと判断したら元に戻すからな」
「はいっ!」



 手を挙げた杉本の見守る前で、颯はスタートラインに立つ。
 本番の時のような緊張感が颯を包み込んでいた。

「用意は良いか、今村」
「はいっ」
「それでは、スタート!」

 杉本が手を振り下ろすのと同時に、颯はスタートを切る。そして、一気にスピードに乗る。

 まず1個っ!

 そのまま、最初のハードルを越えると、昨日の練習で確かめた歩幅で次のハードルに向かう。

 12、13、14、15!いけたっ!

 15歩でふたつ目のハードルを越える颯。17歩の時のような窮屈さは全く感じない。
 むしろ、今までになかったくらい楽にハードルを越えることができた。それが、颯の気分を一気に楽にさせる。

 13、14、15、3つ目!

 颯は、竜泉寺とのイメージトレーニングでのタイミングを思い出しながら、次々にハードルを越えていく。

 10個目!あと40m!

 最後のハードルを越え、颯はラストスパートをかける。
 全力で走る颯の体が熱くなり、汗が噴き出す。そして。

「あああっ!」

 ゴールした瞬間、イメージトレーニングの時ぐらいではないが、軽い『達成感』が全身を包み込む。



 確実にハードルを跳び越えることを重視したつもりだったのに、颯の叩き出したタイムは、59秒56だった。






 杉本から、インターバールを15歩でいく許可を得た颯は、その日の練習後、保健室に駆け込む。

「失礼します!」
「いらっしゃい、今村さん」
「私のことは、颯、って呼んで下さい、栗原先輩!みんなそう呼んでますから!」
「そう?じゃあ、私のことも由佳って呼んでね、颯ちゃん」
「はいっ、由佳先輩!」

「なんか、今日は元気いっぱいだね、今村さん」

 竜泉寺が、少し驚いたように颯に声をかける。

「はいっ!だって、大会までに新しい走り方を固めないといけないんですもの!今日もイメージトレーニングよろしくお願いします、竜泉寺先生!」
「すごい気合いだね。じゃあ、栗原くん、ウォーミングアップを」
「いえっ、大丈夫です!」
「え、颯ちゃん?」
「あんっ!もう、由佳先輩!」
「本当だわ。もう準備万端ね、颯ちゃん!」

 颯のショーツの中に手を入れて確認した由佳が、驚いたような声をあげる。
 無自覚なままに、性的な欲求と競技への情熱を重ね合わされて、颯のそこは、『イメージトレーニング』をするというだけで濡れるようになっていたのだ。

「さあっ、早くお願いします、先生!」

 颯は、竜泉寺のズボンをずらすと、手を使って『スタートライン』の準備を促しはじめる。





* * *





 そして、大会1週間前。

「ん、ん、ん、ん、ん、ん、ん、ん、ん、ん、ん、ん、ん、ん、んんんっ!」

 竜泉寺の上に跨り、その動きに合わせて体を動かしている颯。
 まだ、瘡蓋は残っているが、もう、左足の包帯はすっかりとれている。

「ん、ん、ん、ん、ん、ん、ん、ん、ん、ん、ん、ん、ん、ん、んんんっ!」

 目を瞑ったまま、颯は歩数を確認するように体を動かし続ける。
 最初の頃は苦しげな表情を浮かべていたのに、今はそんな素振りは全くない。むしろ、その口許には心地よさそうな笑みさえ浮かんでいた。
 それに、竜泉寺の腰の動きが、より小刻みに、より速くなっていた。

 そして、颯は10個目の『ハードル』を越える。

「よし、ラスト40m!」
「んっ、んっ、んっ、んんんっ!」
「30m!」
「んんっ、はああっ!あっ、あっ!んんっ!」

 ラストスパートに入る颯。時々、大きく息継ぎをしているが、その時に漏れる声は、甘く喘ぐ声にしか聞こえない。
 なにより、今では颯自身から大きく腰を動かしていた。
 それを、トレーニングとして認識させられたまま、颯は無意識のうちに、体の芯まで快楽を擦り込まれていたのだった。

「10、9、8、7、6、5、4、3、2、1、ゴールっ!」
「んんんんっ!ああっ!ああああーっ!」

 ゴールの瞬間、颯が、ビクビクッと大きく体を震わせた。
 より強く『達成感』を感じようと、体を仰け反らせて、より深く体の中に竜泉寺を飲み込んでいく。それすらも、颯にとっては無意識の行動だった。
 そして、ようやく体を倒して竜泉寺に抱きつくようにして大きく喘ぐ颯。その体は汗に濡れ、剥き出しになった腕やふとももは、ほのかな桃色に染まっている。

「んんん、はあっ!はあっ!」
「すごい!58秒97よ、颯ちゃん!」

 ストップウォッチを握った由佳が少し驚いたように、まだ喘ぎ続けている颯にタイムを告げた。
 言わずと知れたことだが、そのタイムは、竜泉寺の動き次第でどうにでもなるのだ。
 
 だが、実際に、昼の練習でも、颯のタイムは格段にレベルアップしていた。
 もちろん、それは彼女自身の才能と、身体能力、そして日々の努力の賜物であったのだが、颯は、それを毎日のイメージトレーニングのおかげだと信じて疑わなかった。




* * *






 1週間後、大会当日。

 颯は、他の選手を寄せ付けることなく予選を勝ち上がっていった。

 そして、女子400mハードル走の決勝の時が来た。

 スタートラインに立つ颯に、不安は全くない。毎日の実践練習と、『イメージトレーニング』で、新しい走り方は体にたたき込まれている。この走り方をマスターした今、このランクの大会では負ける気がしなかった。
 むしろ、心地よい緊張感と高揚感に胸が高鳴っているくらいだ。


 スターターの腕があがり、颯はスタートの姿勢をとる。


 スタートの合図で、8人の選手が一斉に走りはじめた。
 一気に加速した颯は、スタートダッシュですでに他の選手よりも体ふたつ分は前に出ている。

 そして、最初のハードルを跳び越える。

 ……12、13、14、15!

 颯は、スピードを落とすことなく、ふたつ目のハードルまで15歩で踏み切った。
 次々とハードルを跳び越えていく颯。だが、そのスピードはほとんど落ちない。
 そのまま、他の選手との差はどんどん開いていく。

 ……14、15、16、17!あと、40m!

 最後のハードルをクリアし、ラストスパートに入る。

 んんっ、あと30m!はあっ!

 胸を反らせるようにして、ゴールに向かって疾走する颯。その、短めの髪がバサバサと跳ねる。

 はあっ、ああっ!気持ちいいっ!

 颯の中に、イメージトレーニングの心地よさが甦ってくる。

 あと、10m!9、8、7、6、5、4、3、2、1、あああああああっ!

 一気にゴールラインを駆け抜けた颯は、すぐに体の力が抜けたように倒れ込む。
 心配した顧問の杉本が駆け寄ってきた。

「おいっ!大丈夫か、今村!」
「んんっ!はあっ、はあっ!だ、大丈夫です、先生!」
「そうか。優勝だぞ、それも、すごいタイムだ。よく頑張ったな、今村!」

 颯を助け起こしながら、労いの声をかける杉本。
 杉本は、颯が全力を出しきって倒れ込んだのだと思いこんでいた。

 だが、実際には、颯はゴールした瞬間の『達成感』に絶頂して、足に力が入らなくなっていたのだ。
 その証拠に、颯の瞳は涙目になって潤み、ショートパンツの色が変わるくらいに股間の部分が湿っていた。
 しかし、周囲には、その潤んだ瞳は優勝の喜びのためと映り、ショートパンツの染みも、汗程度にしか思われなかっただろう。そもそも、女の子のそんな部分をあからさまに見る者などいるはずはなかったのだし。

「はあっ!んっ、はああぁ」

 頬を上気させ、肩で大きく息をしている颯の表情にようやく笑みが見える。
 だが、それは力を出し尽くしたアスリートの、爽快な笑顔にはほど遠かった。
 それはまるで、官能に蕩けたような、悩ましげな笑み。


 ”優勝は、第4レーン、今村颯選手。タイムは、58秒65。大会新記録です”


 そのとき、会場内に流れた放送に、どよめきの声があがる。

「おいっ!やったな、今村!」
「すごいよ、颯!」

 杉本やチームメートに祝福される颯。
 誰も、颯が一瞬見せた妖しい笑顔には気付いてはいなかった。


 ああ、気持ちいい。でも、どうしてかしら?竜泉寺先生とのトレーニングの時の方が、もっと気持ちいいような気がするのは。


 そんな、颯の内心など、誰も気付くはずはなかった。そう、ただひとりの男を除いては。






「颯ちゃんすごい!大会新記録ですって、先生!」

 大会会場のスタンド。
 高校の陸上競技ということもあり、位置付けとしては地方予選ということもあって、観衆はそれ程いるわけではない。
 その一角で、はしゃぐような歓声をあげる女子と、その横に立っている男。
 栗原由佳と竜泉寺岳夫であった。

「陸上部の顧問もできるんじゃないんですか、先生?」
「まさか。僕はずぶの素人だよ。技術的な指導ができるわけないじゃないか」

 満面の笑みで覗き込んでくる由佳に、竜泉寺はニヤリと笑い返す。

「僕にできるのは、ちょっとした気の迷いを払ったり、やる気を高めたりすることだけだよ」
「へえ、やる気、ですか?」

 わざとらしく目を丸くして、由佳はクスクスと声を立てて笑う。

「そう。やる気をね。さあ、もう行くぞ」
「あっ!待って下さい、先生!」

 くるりと背を向けて歩きはじめた竜泉寺を慌てて追いかける由佳。
 そしてふたりは、まだ新記録の余韻のさめやらぬ会場を後にしたのだった。




* * *




 実験記録 No.3

 対象:2年生、女子。

 実験対象は陸上部員。由佳の話では、400mハードル走のエースらしい。練習中に転倒したという理由で保健室に来た。傷自体は、かすり傷のちょっとひどい程度で、別にたいしたことはなかった。ただ、短髪で少年のような体つきだが、整った顔立ちの中性的な魅力のある美人だったので、この機会に実験台になってもらうことにする。

 今回は、対象が陸上部員であることを活かして、性行為をハードル走のイメージトレーニングと認識させることにした。効果的なイメージトレーニングと聞いてすぐに飛びついてきた。スポーツ選手タイプの人間はこの手で釣るのが効果的かもしれない。それに、こちらに由佳という助手がいることで対象の警戒心もだいぶ薄まったのか、催眠状態にすることは簡単だった。今回仕込む暗示はいたってシンプルにする。対象が保健室で私や由佳から言われたり、されたりすることは全てトレーニングの一環であると認識させること。それによって、ここですることは全て、ハードル走のトレーニングに必要なものだと思わせる。

 いよいよ実験開始。まずは、対象に新たなハードリングのステップを提示し、これからするのはそのためのトレーニングであると説明する。そのために、事前に調べておいた400mハードル走の理論を交えて話を進めたので、対象はすんなりと受け入れてくれた。こうやって相手の信頼を得ておけば、暗示との相乗効果が期待できるだろう。
 説明が終わると、いよいよ由佳をアシスタントにして『イメージトレーニング』を開始する。初めてだろうし、体がまだ成熟しきっていない痛みや苦しさがあるはずなのだが、暗示のせいもあり、また、日頃のトレーニングの苦しさと重なるのか、本人は違和感は感じていないようだ。一度上手くいくと、後は、日々同じ事を繰り返す。陸上競技、特にハードル走は騎乗位と相性がいいようだ。対象はそれをトレーニングだと信じ込んだまま、体がどんどん馴染んでいっている。本人が、それをハードル走のトレーニングと信じ込んだままの状態なのに、体の方は快感を感じているように見えることは興味深い。長距離走を走ったときのように、一種の脳内麻薬でも出ているのだろうか。研究してみる価値はあるかもしれない。

 ただ、今回の失敗は、トレーニングの設定を、騎乗位にしてしまったことだろう。ずっと下から突き上げていたからすっかり腰を痛めてしまった。まあ、今回の実験は興味深い結果が得られたからそのくらいは良しとしておくか。

 それにしても、対象が大会で出した記録、58秒65というのは、調べてみたらこの競技での高校女子の、国内歴代6位の記録らしい。もっとも、この結果は、『イメージトレーニング』のためではなく、対象自身の才能と努力の結果なのだろうが。だが、はたして、あの『イメージトレーニング』がこの結果に何らかの寄与をしたのかどうかは、私は陸上競技に関しては全くの門外漢ということもあってわからない。誰か、スポーツ心理学に詳しい人間が研究でもしてくれないだろうか。

 20XX年、8月26日。竜泉寺岳夫。

 
 
< 終 >


 

 

戻る