きつねの眷属


 

 

第五話


 翌日には、もう早桐は学校に登校すらしていなかった。
 俺の命令を違えた以上、あいつとしてはなるだけ早急に俺に謝罪なり何なりの形で誠意を見せておきたいはず。だのに、学校にも登校せず、どころかメールの一つも寄越さないということは……、相当に、病状が思わしくないということなのだろうか。改めて、無理をさせすぎたことを悔やむ。……あいつが寝込んでしまっては、誰の得にもならないじゃないか。
 早桐は、大丈夫なのだろうか。俺の心に、人並みの不安感というものが生まれる。見舞いにでも行ってやったほうがいいだろうか。……いや、行ったら行ったで俺はまた、あいつに相当以上の負担をかけさせてしまいそうだ。今は、何もせずそっとしてやることの方が大切なのかもしれない。

 授業が終わり、放課後。俺は、そんなことを考えながら鞄を整理し、帰る仕度を進めていた。
 ……と、そんな時に。俺は、普段なら滅多と言葉を交わすことのなかったであろう女に声をかけられる。

「ちょっと、天月さん」

 控えめながらも、芯の強い声。
 そこには、男女の差というものを差し引いてもなかなかに背の低い女がいた。長い前髪をカチューシャであげ、やや広めの額を見せる、その女。勤勉そうな丸眼鏡をかけながら、しかしその奥に光る瞳は釣り目がちで、どこか早桐に似たものを感じさせる。……そう、なんというか、本当に早桐をそのまま小さくしたような感じの女だ。早桐ほどに整った美しさは備えていないが、しかしそれでいてその小柄でかわいらしい外見の中にどこか他を圧倒するような力強さも備える。世間的に見ればなかなかの評価を得られる容姿の持ち主であろう、そいつの名は。
 風紀委員、片雛 紗百合。

「……何だよ」
「つかぬことを聞きますけれど。あなた……、いくさ様のご病気について、何かご存知のことはありませんか?」
「早桐か。風邪をこじらしてるらしいな。……何で、俺にそんなことを聞くんだ」
「一昨日、でしたっけ。あなたといくさ様が一緒に早退なさった時がありましたよね。……その日以来、いくさ様のご様子が少し変なのです」
「……へえ」

 そういえば。
 こいつをマークするのを、忘れていたな。
 さすがに、勘が鋭いもんだ。この……、早桐狂いの風紀委員、片雛さんは。

「変って、どんな風に」
「……。ご病気のせいもあるかもしれませんが……、何をなさっている時もどこか上の空でしたし、なんというか、生気が感じられなかったのです。極めつけは、昨日の古典の授業中の……」
「ああ……、どうしたんだろうな。早桐、結局その日も早退したんだろ?」
「……とぼけるのが、お上手ですね」
「何?」
「はっきり言っておきます、天月さん。私は、あなたを信用していません」

 ……。
 ほう。
 本当に、はっきり言ってくれたな。

「あなた、いくさ様に、何か脅しでもかけてるんじゃありませんか?」
「……何言ってんだ、お前。話の筋道が立ってねーぜ」
「筋道なら、立っています。ですが……、いちいちあなたに説明するのは面倒なので、女の勘とでも言っておきましょうか。ともかく……、私は、あなたが何らかの悪事に手を染めていることをしかりと察知しています」

 片雛 紗百合。
 黙って座ってりゃただの優等生だが、それでいてその行動力は女子学生としてはなかなかに秀でたものを持っている。ことに、風紀や愛するいくさ様に関するトラブルに関しては持てる時間全てを費やしてでも粛清しようと志している、その姿は全く赤の他人の俺の目にもはっきりと映っていた。
 “愛するいくさ様”とはいえ、早桐自身があまりこいつのことを気にかけていない以上、それは片思いにすぎないのだが……、まあ、それはそれ、だ。いずれにせよ、それを原動力とするこいつの執着心がただものではない、という事実に変わりはない。

「天月さん。……何か、思い当たる節があるんじゃないですか? おとなしく白状すればよし、そうでなければ……、この私が、風紀委員としての全権限をもって徹底的にあなたを調べあげます」
「……白状しろ、なんて言われてもねえ。そもそも、一昨日俺と早桐が同じタイミングで早退したのはまったくの偶然だし、別にその後行動を共にしたわけじゃないんだ。互いに体調不良で学校を休んだ、それだけのことだろ」
「下校前、あなたといくさ様が何か言葉を交わしているところを見た、という生徒の証言があります」
「ふうん……。……そりゃ、話もするさ。これでも、委員長と副委員長だぜ? あの日は、生徒会会議の資料を渡してたんだ」
「会議の資料を渡して、そのまま二人で別々に早退、ですか? それこそ、筋が通っていませんね。……お二方の早退と、その時の会話には何らかの因果関係があったと考えてほぼ間違いないでしょう」
「思い込みが激しい奴だな、一組の風紀委員さんは」

 とはいえ、実際のところそれが真実である。
 まったく……、まったくもって、面倒な奴に睨まれてしまった。
 ……シールを、使うか? この、これ見よがしにさらけ出してやがるデコにでも貼りつけてやろうか?

 いや。
 それは……、できない。
 俺は、あと一枚のシールを、手元に残しておかなければいけないのだ。
 俺の望みを実現するためには、そいつをこんなところで使い果たすわけにはいかない。今は……、耐える時だ。幸いにも、今までの話しぶりから察するにこいつはまだ確定的な証拠を掴んでいるわけではない。……そりゃあ、そうだ。俺が実際に早桐に手を下したのは他に誰もいない俺の自室でのことなんだし、暗示がある以上早桐が自ら俺を貶めるようなことはありえない。そう簡単には、この片雛も真実には辿りつけないはずだ。
 何も、焦ることはない。

「……まあ、いいです。あくまで知らないと言い張るのなら、私も実力行使に出るまでのこと。……この先、弁明したくなったら、いつでもどうぞ」
「はいはい、がんばって調査してくれよ。それじゃーな」

 俺は、会話を半ば強制的に中断し、鞄を肩にかついで教室を後にする。
 今の俺には、まだ力となるものがないのだ。それならば、今この状態で教室に留まり続けるメリットなど何もない。いや、可能であるならこの学校という空間自体からも早く離れ、あの薬局に向かいたくすらあった。
 しかし……、それは、できない。俺は、部室に行ってソラの様子を見てやらなくてはならない。シールの効果がちゃんと適用されているか、それを確認するのは、ある意味でとても重要な作業だ。特に……、ソラは、この先文芸部を支配していく上での拠点となる存在。その管理は、しっかりと行き届かせなければならない。
 廊下に出ると、やはり芹沢が待ち構えていた。こいつの勤勉さは、まったくもって尊敬に値する。俺は、軽く手を上げ、奴のもとへ近づいた。

「よう」
「おつかれ様です、天月先輩。……今日のお説教は、早桐さんじゃなかったんですね」
「俺は人気者だからな。よし、部室行くぞ部室」
「……? は、はい。えーっと……、先輩、今日、なんだか元気いっぱいですね」
「そうか? ……あー、そうかもな」

 言われてみれば、確かに胸のうちには言い知れぬ高揚感があった。
 それは、あの人格改造を施したソラに再会するということによるもの、というだけではなく……、おそらくは、その後。狐から譲り受けることになるであろう新しいアイテムへの期待感、更にそこから開けていく未来への高鳴りであった。



***




 俺たちがまさに部室棟に足を踏み入れようとしたその時。
 入れ違いに、文芸部部室の扉から姿を現す女の影があった。

「……あ、瑞樹さんだ。珍しいですね」

 そこには、芹沢から見ても、俺から見ても先輩に当たる三年の七条 瑞樹がいた。
 長身の、モデル体型とも言うべきスレンダーな肉付き。飾らないミディアムショートの髪を流し、学園の制服をシックに着こなす。胸などの発育は一つ下の早桐やソラと比べても控えめではあるが、それはそれでまた彼女の別種の魅力を引き立たせている。どちらかというと、中性的な落ち着いた感じの美少女だ。
 最近は予備校の都合らしく部室に訪れることも少ないが、れっきとした文芸部の部長である。

 挨拶代わりに軽く会釈する俺たちの姿に気付いたらしく、瑞樹は小さく手を振りこちらに歩み寄ってくる。
 風に乗って、その身体から何ともいえない女の子らしい甘い薫りが漂ってくる。その匂いは、他の女たちともまた違う、久しぶりに嗅いだ彼女特有のものだった。

「やあ。天月君に、芹沢君。久しぶりだね、元気してたかい?」
「お久しぶりです。部長の方こそ、お変わりなく」
「お変わりなく、ね……。いや、まあ、すまなかったね。部長だというのに、なかなか活動にも参加できないで」
「いや、受験の方で、忙しいでしょう。お気になさらず、勉強に専念してください」
「ああ、そうだ。いや、うん、実は、そのことなんだけれど……」
「はい?」
「ああ……いや、すまない。やっぱり、また今度にしようか。実は、少し時間が押しているんだ。人と会う約束があってね」

 言い、彼女は首に下げた懐中時計をちらりと覗く。
 まあ、何かと多忙な彼女だ。今日会えたこと自体を幸運と思うべきだろう。
 できることなら、この知性に溢れた女の全てを俺の手で塗り変えてやりたいとも思うが……、しかし、それが実現されるのはおそらく現実的な問題としてなかなか遠い未来のことになりそうだ。俺とて、会えない人間を書き換えても何の面白みも得られない。毎日に近い周期で会える環境におかれていなければ、そいつを書き換えたところで意味が無いのだ。

「それじゃ、また。忙しなくて悪いけど、僕はここで失礼するよ」
「ああ、はい。お疲れ様です」
「あ、おつかれ様ですー」

 頭を下げる俺たちの肩にぽんと手を置き、またね、と微笑み、瑞樹は足早に去っていく。
 奇妙なほど、屈託のない笑みだった。それは、ただの挨拶というよりも、愛しいものに投げかけるような、何か深意のある、微笑み。

「……今日の瑞樹さん、なんだかいつもと違いませんでした?」
「うん?」
「なんとなく、いつもより、あったかいっていうか、人間的っていうか……。なんていうか、僕、瑞樹さんのこと、もっとニヒルな感じの人かと思ってました」

 ああ、そうか。
 なんとなく、わかった。昔に……、戻ったんだ。
 一年の芹沢が、いつもと違う、と思うのも無理はない。彼女は、そもそも去年は自然にあんな風な笑みを投げかける人間だった。それが、今年になって、受験勉強の忙しさからか、少しずつ事務的で無愛想になっていっていた気がする。そして……、今、俺たちに見せたあの彼女の笑みは、確かに、俺が知っている、昔の部長の笑みだった。
 しかし、何故? 状況は、特に何も変わってはいないはずだ。推薦でも決まったのか? いや、時期的にそれはまだ少し早いか。しかし、いずれにせよ……、彼女の中で、何かがあったらしい。今日、彼女が部室に訪れたのも、そのため……?

「ひょっとしたら、部長、これから部活に来れるようになるかもな」
「え? そうなんですか?」
「いや、知らん。なんとなくそう思っただけだ」

 言いながら、俺は部室の扉を開く。
 本当に何の根拠もなく芹沢に告げたその言葉は、ただの希望的観測に過ぎなかった。俺にとっての都合のいい展開を、ただ口に出してみただけ、本当にそれに過ぎなかった。
 そして……、俺は、しかしその言葉以上に、そのことに関して執心してしまっていたのだろうか。つい、うっかり……、そう、まさについ、部室の中で待ち受けているであろう“それ”に、少しの心構えをすることすら、忘却してしまっていた。

「あ、くー君っ!!」

 がちゃり、と戸を開け、その部屋の中に半身を差し入れた、まさにほぼ同瞬に。
 部屋の奥から、埒外に大きな声が響き渡り……、ばっ、と、俺の身体、その首周りに、何か、あたたかいものが、触れる。

「くー君、おっはよっ! 会いたかったよっ!」
「……お、おう」
「なんかよくわかんないけど、今朝から、ずっと、くー君に会いたくてねっ、今、ウチとっても嬉しいのっ!」
「わ、わかったから、ちょっと落ちつけ」

 不覚だった。
 まさか……、出会い頭、いや、俺がそいつの存在を認識する前から、その身体を満身の抱擁に包まれることになるとは、さすがに、予想していなかった。
 そして、その不意の衝撃にバランスを崩しよろめくと、足元で、カランという音がした。何か、少し気にはなったが、しかし今はそれどころではない。ソラは、ただ抱きしめるだけでは飽き足らず、俺の胸板に犬のように頭をすり寄せてくる。その姿に、いつものように部室で本を読んでいたあの御咲姉妹すら目を丸くしてしまっているし、芹沢は……、最早、言うまでもない。……このシチュエーションは、さすがにまずいだろう。

「落ちつけってソラ。と、とりあえず離れろ」
「え? あ、うん、わかった、はなれるー」

 シールの効果で、指示には驚くほど素直に従ってくれるのがかえって滑稽だ。
 まったく……、糞、本当に、不覚だ。この俺が、ソラごときの行動に取り乱すことになるなんて。と、いうか、反応が俺の想定と全く違うぞ。こいつは、至上の幸福感を手に入れたら人に抱きつきたくなるのか。馬鹿か。一人で勝手にヨガってろよ。俺を巻き込むな。糞が。
 ソラの予想外の反応と、それに対して不覚にも少し呼吸が速くなってしまった自分への行き場のない怒りが俺の身体の中をぐるぐると巡る。何より、芹沢と御咲姉妹、三人に見られていたことが大きい。この馬鹿女、常識ってもんはないのか。ああいやそれを壊したのは俺か。

「き、如月先輩……? な、何かあったんですか?」
「うに? あ、セリちゃんだ。こんちー」
「あ、え、えっと、こんにちは」
「暑さで頭が沸いてるんだろ。気にすんな、芹沢」
「あー、ひっどー」

 なんなんだ、一体。
 こいつは、俺の声を聞くだけで、性的快感を感じるんじゃなかったのか。暗示が効いていないのか?
 いや、よく見れば、その頬は確かにほんのりと上気し紅潮している。ということは……、効果は、あるのか。何なんだ、よく、わからなくなってきたぞ。

 ……どうにも。
 単純に、こいつが、こういう奴ってこと、か。



***




 何の成り行きだか知らないが。
 俺は、その後、どういうわけだか、芹沢とソラと共にファーストフード店で軽食を取ることになってしまった。

 元凶は、ソラだ。
 俺は、全くもってこんな事態は望んではいなかった。できることなら、早く部室を後にし、芹沢とも別れ、あの狐のもとへ向かっておきたかった。
 だが、しかし。俺から離れることを極端に嫌がったソラが、突然そんな提案を始め……、更に厄介なことに、芹沢もそれに乗ってきてしまった。俺一人でその案を足蹴にすることもできなくはなかったが……、しかし、今のソラなら、それでもあらゆる手段を使って俺の後を尾けかねない。それならば、まだ二人きりよりは、芹沢も交えての会食の方がその後も自然に解散しやすいだろうと考え、俺はその提案を受けたのだが……。
 冷静に考えれば、完全に流れに飲まれていたという感がある。ソラが俺についてきたところで、シールの力を使って強制的に離れさせればよかったのだ。それは、むしろ二人きりの方がやりやすかったじゃないか。完全に、流されていた。糞。ペースが狂う。何か、何かがおかしいぞ。何をもって俺は、ソラごときにこれほどにペースを乱されているんだ。

 いや。
 あるいは。
 無意識に……、シールの力を使うことを、恐れていたのか?

「それにしても」

 と。
 あんむりと照り焼きバーガーにかじりつきながら、ソラが口を開いた。

「りいちゃんとるうちゃん、最近よく部室にいるねー」
「御咲さん、ですか? そうですね。夏休み近いんで、暇を持て余してるのかもしれないですねー」
「芹沢、お前、御咲と一緒のクラスだったっけか」
「え? あ、はい。同じ二組です」
「御咲と、話したりするのか?」
「えーっと、ええ、まあ。そこまで親しいわけじゃないですけど、普通にはお話しますよー」

 ふうん。
 あの、御咲姉妹が、ねえ。
 まあ、さすがに同学年で同クラスなら話す機会もあるか。俺には、あの二人が他人と日常会話をしてる姿なんて想像もつかないが……。

「っていうか、りいちゃんもるうちゃんも結構しゃべってくれるよ」
「何?」
「シャイだから自分では話しかけてこないけど、こっちからしゃべりかけたらちゃんと答えてくれるし、笑ってもくれるよー」
「馬鹿言うな。あいつら、事務的な返事すらろくにしないじゃないか」
「あー……、くー君。誠に申し上げにくいのですが……、それは多分、くー君が個人的に嫌われてるだけです」
「なんだと」

 ……くだらない。
 いくら何でも、個人的な好き嫌いだけであそこまで反応が悪くなるものか。それも……、仮にも先輩に、だぞ? あいつらのあの目……、あの、俺を見る氷のような眼差しは、そんな次元のものじゃない。人でない何か……、異形の妖怪でも見るような目で、俺のことを見やがる。あれは、完全にあいつらが生まれ持った卑屈さで……、

「そういえば、御咲さんたち、天月先輩の前ではいつもより静かな感じがしますね……」
「……」
「あっ! べ、別に、悪い意味じゃないですよっ!」
「悪い意味だろ」

 はあん。
 そうか、そうかい。
 あいつらのあの対応は、完全に俺個人に向けられた、嫌悪感の表れか。

 面白い。
 実に面白いじゃないか。
 久しぶりに、俺の中の何かが燃えあがってきたぜ。

「まー、くー君、なんとなく、近寄りがたい一匹狼ってイメージあるしねー」
「……ソラ」
「あ、ごめん、怒った? いい意味だよっ、いい意味っ!」
「いや、そんなことより……、口の周りが照り焼きとマヨネーズですごいことになってる。どうにかしろ」
「うに?」

 全く無計画に照り焼きバーガーを頬張り続けたソラの口周りは今や各色のソースに彩られ、見るも無残なことになっていた。
 手鏡でもあれば渡してやりたいところだったが、あいにく俺はそんなもの持ち歩いていないし、そもそも、今のこの、何を指摘されたかすら今一つ把握できていないソラの阿呆顔を見ると、なんとなくそんな気すら起きなくなってしまう。
 そして、しばらくして。ようやく、何かをひらめいたかのように、ソラは、一枚の紙ナプキンを俺に差し渡し。

「くー君」
「何だ」
「ふいて」
「馬鹿か。自分で拭け」
「自分じゃ見えないんだもん」
「トイレにでも行ってこい阿呆。後輩の前で恥ずかしいと思わんのか」
「うー」

 俺の前にその馬鹿面を近づけながらも、ソラは、渋々といった様子で席を立ち、口の周りをぺろりと舐めながらナプキンを片手にトイレに向かう。
 本気で、馬鹿か、あいつは。何を幼児退行しているんだ。シールの効果? 馬鹿な。俺は、そんな暗示はかけていない。かけたのは……、いや、待て。

 ひょっとして、あいつは。
 “俺の声無しでは生きていけなくなる”という暗示から……、自分の行動全てを、俺に依存してしまっているのか?
 だからこその、……幼児退行。俺を見れば俺に抱きつき、事あるごとに俺にすがろうとする。自分の全てを、俺に委ねてしまっている。確かに、それは、あいつを利用する上でも至上に役に立つ特性ではあるが……、しかし、日常からそう発揮されていては、鬱陶しいことこの上ない。

 やり方を……しくじった、か。
 ああ、なんだ、糞。ソラに関して、本当に想定外のことが多すぎるぞ。

「あの……、先輩」
「……うん?」
「す、すいません、一つだけ、お伺い、してもいいですか?」
「何だよ」
「あ、あの……、せ、先輩と、ソラさんって、……お付き合い、されてるんですか?」
「…………はあ?」

 そう、問う芹沢の眼差しは、真剣そのものだった。
 ……いや、まあ、そう思われても無理はない、か。あのソラの異常な甘えっぷりを客観的に見れば、そう疑いたくもなるものだろう。俺だって、実際に第三者の視点で見れば、おそらくそう思わずにはいられないはずだ。
 しかし、思ったところで……、それを、実際に本人の前で口に出すかと問われれば、それはまた別の問題だ。それも、この、普段から謙虚で、俺のプライベートな領域に絶対に足を踏み入れようとはしないはずのソラが……、まさか。単なる興味本位で聞いたわけでは、あるまい。何か、深い理由……、どうしてもそれを確認しなければいけないとあいつ自身に思わせるほどの、深い事情があった、のだろうか。

「付き合っちゃ、いねえよ」
「あ……、そ、そうなんですか」
「何だ。何で、そんなこと聞いたんだ」
「えっ……!? そ、それは……、その……」

 至極答えづらそうに、芹沢は口ごもる。
 やはり、何かある、のか。俺とソラが付き合っていたら不都合になる、何かが。

 ……。
 まさか、こいつ。

「お前、ソラが気になるのか」
「えっ……!?」
「別に、隠さなくてもいいぜ。マジで、付き合ってないから」
「い、いや、あの、僕は……っ!」
「おっまたー!」

 ちい。
 絶妙に最悪なタイミングで、ソラが帰ってきやがる。

「いっやー、本当にすっごかったねー! あんなに口の周りに散乱するものだとは思ってなかったよー。ウチの乙女心的にもアレはNGだねっ! あ、そういえばさ、さっきトイレに行く途中で見たんだけど……」

 結局、それから会計を済ませ解散するまで、会話の主導権は終始ソラに握られてしまい、芹沢の真意を本人の口から聞くことはできなかった、が。
 まあ、状況的に見て……、おそらく、間違いはない。なるほど、芹沢がねえ。普段、そういう素振りは見せちゃいなかったが……、でも、何となくわかるな。こいつは、年上の引っ張っていってくれるタイプの女が好きそうだ。
 全くもって予定外の会食だったが……、しかし、思わぬ収穫を得た。またいつか、ソラにけしかけて“遊ばせて”みるのも悪くはないかもしれない。

 時刻は七時。まだ、ぎりぎり薬局は開いているだろうか。
 俺は、芹沢を送らせることを理由に無理矢理ソラから離れ、当初の目的地に向かうことにした。



***




「いらっしゃいませー」
「……」
「きっと来ると思って、営業時間外ですけど残業サービスしてましたよ」
「そうか」

 その狐の言葉どおり、薬局の看板には午前九時から午後七時までと営業時間が記されていた。
 現在時刻は七時八分。確かに、わずかに営業時間外だ。こいつとて、待っている義理はないだろうに、それでも俺の来訪に備えていたというのは……、善意か、それとも策略か。

「新しいアイテムが気になって話す時間すら惜しい、って感じですね」
「ああ。間違いなく、その通りだ」
「いいですよ。それじゃ、早速お見せしましょう。……新しいアイテムは、こちらと、こちら。二点、あります」

 言いながら、狐がそのレジのカウンターに取り出したのは。
 一つは、人形だった。それも……、怪談話などではよく名を聞くが、実際にその目で見ることは今時珍しい、……いわゆる、藁人形。
 そして、もう一つは……、鈍い、青銅色をした香炉だった。やや古めかしい、年季の入っていそうな風はしているが、特に何の変哲もない、アンティークとして喫茶店などに置かれていてもおかしくはなさそうな、……ただの、香炉だった。

「使い方、わかりますか?」
「……」
「……って言っても、わかるわけないですよね。でも、そうやってちゃんと考えちゃう姿、かわいくて好きです」

 本当に、この女は。
 どこまで、この俺を侮れば気が済むんだ。
 ……しかし、今は、耐えるしかない。今の俺には、こいつの道具に頼っているだけの俺には、この狐に抗うだけの力などありはしない。今は従い、媚びへつらい、俺はこいつの下手に立っていなければいけない。

 焦るんじゃない。
 自分のあり方を、弁えるんだ。

「それじゃ、ぱぱっと説明しちゃいますね。まずは、こちらの藁人形。これを持って誰かの前で念じれば、その人が念じたとおりに動きます」
「ほう」
「続いて、こちらの香炉。何か紙切れに望みを書いて、この器の中に入れますと。その言霊が香草に宿って、この薫りをかいだ人をその望みどおりのものにしてしまいます」
「……なるほどな」
「効果圏内はせいぜいお部屋一室ぐらいですかねー。多分一つじゃ足りないと思うので、お香炉のほうは自室用と外出用、二つ用意させていただきますねー」

 路上セールスよろしく、なめらかな運びで二つの道具の説明を終えた狐は、そのままてきぱきと四角い紙袋に藁人形と香炉二つを包装し、詰め込む。
 まるで、初めから俺がそれらを持って帰らない可能性などありえない、とでもいった風だ。……事実、その通りではあるのだが、しかし。それ以前に、俺は、前々から、こいつに尋ねておきたいことが、一つ、あった。

「なあ、何でだ」
「はい?」
「お前が俺にその道具を提供する、その理由が知りたい。……その行為、お前に、メリットはあるのか」
「ありますよ」

 狐は。
 それら三つの道具を飲み込み膨らんだ紙袋をセロハンテープで封し、さも当然、というかのように、俺にそう告げた。

「あなたがわたしの道具を使って望みを果たすことは、そのままわたしの利につながります」
「どういうことだ」
「それは、お教えできません。それを知れば、あなたは、わたしの道具を使うことを、やめることはないにしろ、少なくとも迷いというものを感じてしまうでしょうから」
「……」
「でも……、安心してください。わたしは、あなたを騙したりはしていません。わたしは、あなたの幸福を望んでいます。わたしは、……あなたの、味方です」

 言う、その狐の言葉は。
 どういうわけか、確かで、一芥の偽りすらも含んでいないように、思えた。

「あなたの望みが、わたしの望み。わたしの望みが、あなたの望み。わたしは、あなたを愛しているから、いつまでも、あなたの、味方です」

 そして。
 その後のことは、あまりはっきりと覚えていない。

 俺は。
 夢のような心地のまま、気がつけば一人紙袋を片手に家路についていた。

「……少し、誤解していたかもしれないな」

 俺が、今まであの狐に感じていたもの。
 苛立ち。劣等感。畏怖。叛骨心。敗北意識。
 その全てが、今となっては、自分の中であまり価値のある感情のようには思えなくなっていた。

 考えてもみろ。
 あの狐は、今までもずっと、無償で俺にあんな力を与えてくれていたじゃないか。
 それを、俺は。持ち前の自尊心とやらで人の下に立つのを嫌い、ひたすらにあいつを気に食わない腹の立つ女だと思っていた。
 何とまあ、滑稽なことだろうか。滑稽で……、筋が、通っていない。別に、義理に厚いタチの人間じゃあないが、それでも、自分にとって、誰が敵で、誰が味方であるかは、はっきりと自分で見定めておかなければならない。

 あの狐は、味方だ。
 味方なのだから、無意味に抗う必要もない。
 俺の欲望がそのまま奴の利に繋がるというのなら……、俺は、俺の望むがままに道具を使い、他の女どもを支配すればいい。さしあたってそれが必要なのは、あの風紀委員の片雛か。……いや、要不要を考える必要はない。どうせ、いずれは全てを俺のものにするのだ。それならば、本当に……、欲望の赴くままに、蹂躙していけばいい。

 夏の夜とはいえ、そうこうしている間に、すっかり暗くなってしまった。
 ああ。玉藻に連絡しておけばよかったな。この腹具合じゃ、しばらく晩飯は要りそうにない。今更、という気はするが、メールの一つでも送っておくか。

 と。
 制服の、ズボンのポケットをまさぐってみる、が。

「…………無い?」

 携帯電話が、無い。

 馬鹿な。
 どこかで、落としたのか。
 だとするなら、どこで。薬局か? 飯を食っている時に、忘れたか?

 いや。
 そうだ、思い出した。

 ……部室、だ。

 
 


 

 

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