きつねの眷属


 

 

第三話


「ねぇ」
「何だ」
「お風呂、どこ?」
「ああ、階段下りて左……、っていうか、案内してやるよ」

 結局その後、行為は本番には及ばなかった。
 現実的には早桐は病み上がりの身体だし、ただでさえ体力消耗の激しい中、あまり無理をさせるのは今後のためにも得策でないと考えた、……というのが主たる理由だが、しかし、それ以上に。
 俺自身、その日の目的は早桐を屈服させることにすぎなかったし……、そもそも俺は別段そういうことに対する欲求が高いほうではない。なんというか……、人の、精神的な領域を侵食することに快感を覚えるだけであって、俺自身としては特に、行為に及ぶことに対しての執着はそう強くはないのだ。

「ほら、風呂場、ここだよ」
「アリガト、借りるわよ。アンタは、どうするつもり?」
「んー、……そうだ。元はといえば、俺が汚したんだし、髪、俺が洗ってやるよ」
「ああ……、そうね。アタシも、そうするのが当然だと思うわ」

 当然、だとさ。
 お前の当然は、最早世間の常識からは大きく逸脱してるんだけどねえ。

「じゃ、早く服脱げよ」
「言われなくてもそうするつもり。アンタは?」
「俺はこのままでいいよ。お前の髪を洗うだけなんだし」

 本当は俺も身体を洗いたいが、今は我慢。
 まあ、さっき早桐に結構きれいにしてもらったしな。

「うわ……、お前、どんだけ下着濡らしてんだよ。ぐちゅぐちゅじゃないか」
「う、うるさいわね。脱いだ服、ここに置いとけばいいの?」
「おい、そんなパンツと一緒にするつもりかよ。他の服が汚れるだろ。せめて、口で水分を吸い落としてからじゃないと」
「わ……、わかってるわよそれぐらい。口で吸えばいいんでしょ、ふぅ、ん……ちゅぅ……」

 言われるがままに、自分のショーツの端を口に詰め、まるでフェラチオでもするかのように自分の愛液を吸い取ろうと努める早桐。
 そんなことをしたら今度は唾液でびしょびしょになるだけだろうに。普段成績優秀な彼女が俺の発言一つで何の疑いもなく愚行に及ぶその姿は、滑稽でもあり、また同時に俺の征服欲を大いに満たすものでもあった。

「ちゅぅ……ちゅぅ……、ふう。こんなもんでいいでしょ?」
「まあ、それが限界か。オーケー、そこに置いといてくれ」
「やれやれ、やっとシャワーを浴びれるのね」

 まぁ、ティッシュで一度軽く拭いたとはいえ、さすがに髪にぶっかけられちゃ気持ちが悪いだろう。
 責任をもって、俺が洗ってやらなければならない。
 その、性感帯たる髪の毛の一本一本を。

「先、頭からシャワー浴びるから。アンタは、濡れないように気をつけてね」
「頭から? ……ほどほどにな」
「? 何言ってんの? えーと、シャワーが出るのは……、ああ、これね。よいしょっ、と……、……ぁひぃい!?」

 ほら、だからいわんこっちゃない。
 よっぽど早く髪にまとわりつく異物感を取り除きたかったのか、温度の確認もせずに頭にシャワーを向けた早桐は、最早本当にそれだけで軽くイってしまったかのような嬌声をあげる。
 まあ、イったばかりで敏感になっている性器に、急に勢いよく熱いお湯をかけられたようなものだ。その反応も、わからないでもない。

「はぁ、はぁ……、なんで、アタシ……」
「どうした、早桐? そろそろ、髪洗ってやろうか?」
「え? え、ええ、うん……、よろしく、お願いするわ……」

 玉藻のときもそうだったが、どうやら、このシールを貼られた人間は、しかし、シールを貼られた場所が敏感になっているという事実に気付かないらしい。
 どれほど、鼻を、髪を、蹂躙されたとしても、それは、彼女たちにとって、全く予想もつかないところから湧き起こる得体の知れない快感として映し出されてしまうようだ。
 まあ、その方が都合はいい。あの狐はシールは剥がれないとは言っていたが、それでもやはり、こちらとしては安心感が違う。

「ほら、椅子、座れよ」
「え、ええ……」
「シャンプーもつけるか?」
「当たり前でしょ? アンタが汚したんだから、ちゃんと洗ってよ」
「ちゃんと、ねぇ。わーったよ。じゃ、洗いはじめるぞー」

 シャンプーを手の平の上で満遍なく泡立て。
 早桐の言うとおり、“ちゃんと”、指を髪と髪の間に、泡を髪に撫でつけるように洗ってやる。
 常識の範囲内で考えて、俺はちゃんとした洗髪という行為に取り組んだはずだったのだが、しかし、依頼した張本人である早桐の反応は、普通とは少し異なっていた。

「ひゃ、にぃぃいっ!?」
「うん? どうしたー?」
「や、ひゃ、な、なにぃ、ちょ、ちょっとストップぅ、へ、ヘン、なんか頭がヘンなのぉ」
「変? この辺かゆいのか?」
「ひぃぁぅっ! ちが、ちがうぅ! なんかヘンなのぉ、い……、イっちゃいそう、なのぉっ……」
「イく? 何言ってんだ。いくらお前が淫乱って言っても、さすがに頭洗ってるだけでイったりなんかしないだろ」
「あひぃ、でも、なんか、なんかヘンん……、だって、ひぅっ、アタシ、なんかヘンなんだもんっ……」
「ああ……、そうか。早桐は、普段から何もなくても発情してるド淫乱だもんな。家にいる時でも、学校にいる時でも、人と会ってる時でも、街のど真ん中でも見境なくえっちな気分になっちまう、淫乱女」
「いんらん、おんなぁ……」

 浴室の鏡越しに、早桐の目がとろんとし始めたのがわかる。
 それは単に気持ちがいいからなのか、それとも漫画でよく見るような催眠状態に陥っているからこその症状なのかはわからないが、いずれにせよ。早桐はまたしても俺の完全なでたらめを信じきってしまったようだ。

「いいぜ、別に。俺は、お前のそういうところもひっくるめて好きなんだからな。俺の前なら、早桐は自分を全てさらけ出していいんだ」
「アタシの……すべて……?」
「お前は、表じゃマジメな委員長面してるけど、本性はとんでもない痴女なんだ。そのことは、俺は全て知っている。だから、お前は俺の前だけは遠慮なくその本性を表に出すことができるし、お前自身、俺に慰めてもらうことを期待してるから、いつも以上に乱れてしまう」
「ぁ、うぅ……、天月ぃ……」

 愛おしそうに俺の名を呼ぶ早桐の声に、思いがけず燃え上がるような興奮感を抱いてしまう。
 わずか、一日。あのシールを狐から貰い受けてから、たったの、一日で。あれほどまでに普段から俺を蔑んでいた早桐を、堕としつくすことができた。
 それは、確かにシールの力によるもの。だが、しかし……、それは、きっかけに過ぎないのではないか。その不可思議な力のおかげでこの妙業が成し遂げられたのも事実だが、しかし、そもそもは、俺の話術や生まれつきの才能……、俺は、機会さえあればいつでも、人を思うように扱うことのできる人間だったのではないか。
 特に、合理的な根拠があったわけではない。だが……、何故か、その時、俺は。自分には、成すべきことが、そしてそれを成し遂げるだけの力があるのではないか、というある種天啓のような考えに取り憑かれていた。

「早桐は、勿論、俺のことが大好きだよな?」
「うん……、好きぃ……、天月のこと、大好きぃ……」
「大好きな俺に、早桐は絶対に嫌われたくないと思っている。だから、俺に嫌われないために、いつ、どんな状況でも、早桐は俺の言うことに従わなければいけないし、また早桐自身俺に命令されることを至福に感じる。なんたって、大好きな俺の命令なんだからな」
「大好きな、天月……、命令、されたい……」

 最早、早桐は、俺の言うことに何一つとして疑問を感じることはない。
 どころか、こいつは、自ら進んで俺に支配されることを求める完全なマゾに成り下がったのだ。
 たったの一日、たったの一回の情事で。この短い期間に、俺は、完全に、この早桐より上の存在、人間よりも優れた存在として生まれ変わった。シールの力、だけではない。これは、俺だからできたこと。そう、これこそが、俺に与えられた宿命だったのだ!

「よし、早桐。それじゃ、最初の命令だ」

 俺は。
 未だ、惚けたような表情のままの早桐に、そっと耳打ちする。


「――――――」



***



 翌日。
 その日の一限は、一組の担任でもある女教師、篠丘 絢音が受け持つ古典。
 俺の席から見て、ちょうど左前。早桐は、自分の席にどこかそわそわと落ち着かない様子で座っていた。

 始業のチャイムが鳴る。
 いつも通り、腰ほどの長髪を後ろで一つにくくった 篠丘が教壇に立ち、一限の開始を告げる。
 OLのようなレディーススーツに身を包んだ、長身の、それでいてプロポーションも抜群な完全に非の打ち所のない美女。整った目鼻立ちは見る人にどこか冷たい印象も与えるかもしれないが、しかし、それもまた同時に彼女の端麗たる風貌を強調する。
 教師なんてやっているのが勿体無いぐらいだ、と、俺はいつも見る度に思っていた。

「それじゃ、授業始めるぞ。今日は落窪の続きからだったな」

 淡々と進める分、要点は押さえ、それでいて解説もわかりやすい。少し言葉遣いは男っぽいところもあるが、かといってそこまで性格は荒削りなわけでもなく、生徒からの信頼も厚い、まさしく“完璧な”教師。
 完璧、というものほど、どこかを打ち崩してみたくなるものはないが、しかし、今はまあそこは置いておこう。今日の主役は……、あくまで、早桐、だ。

「早桐」

 そっと、本当にそっと、本人以外には絶対に気付かれないほどの小さな声で、俺は早桐の名を呼ぶ。
 びくん、と、背中に銃でも押し付けられたかのように奴の肩が動く。……よっぽど緊張しているらしい。
 まあ、無理もないか。
 優等生のいくさちゃんには、少し刺激が強すぎる命令だっただろうしな。

「やれよ」

 俺は、またも小さく、それでいて、俺のことを終始意識している早桐には絶対に聞こえる、という程度の声調でそいつに実行の合図を出す。
 早桐の身体がぶるりと震える。この女も、これほどに緊張なんてしているのは生まれて初めてじゃあないか? だが、それでも、こいつは俺の命令に逆らうことはできない。今のこいつにとって、俺の指示を違えるなんてことは、はなから選択肢にありえないのだ。

 そして。
 どうにか決心がついたのか……、早桐は、ゆっくりと自分の指を制服のスカートの下に伸ばす。

「っ……!」

 『明日、学校で、全ての授業中に一回ずつイけ』。
 それが、昨日、俺が早桐に下した命令だった。
 そして、今、こいつは馬鹿正直に、篠丘の真ん前で自慰に耽っている。目一杯に椅子を引き、声を殺してはいるが、しかし、やはりどうしてもどこか不自然になってしまう。それに……、目的は“オナニーをする”ことではなく、あくまで“イく”ことだ。今はまだしも、あいつが絶頂に近づけば……、いずれは誰かが異変に気付く。
 おそらく、最もその可能性が高いのは……、教壇から全生徒を見渡すことのできる、篠丘。学級委員長の授業中の突然の自慰に気付いた時、あいつはどう対処するのだろうか? それもまた、見物だ。

「――で、これが、右近の少将からの恋文……、いわゆるラブレターだな。じゃあ、この歌の訳を……」

 ぴたり、と。
 適当な生徒を指名すべく教室を泳がせていた篠丘の視線が、早桐のもとで止まる。
 完全に、気付いた。冷静な篠丘の顔つきが、動揺に歪むのがわかる。が、しかし……、その場では、現状の理解が追いつかなかったのだろう。奴は、咄嗟に早桐から目を逸らし、

「……じゃあ、林野」
「はい」

 誤魔化すように、目の合った生徒に指名を移す。
 当の早桐はというと……、愛すべき俺の命令を実行しているという悦びからか、全くその視線に気付くこともなく、一心不乱に秘所に指を這わせている。ともすれば声すら出してしまいそうな勢いで、登り詰めていっているのがわかる。どんどんと加速していく呼吸のテンポ。あと、数十秒もあれば、命令どおり絶頂に達することができるだろう、そうとすら思えた、その瞬間。

「じゃあ――」

 篠丘の、視線が。
 ゆるりと、一人の生徒に向けられる。

「――次の歌の訳を、早桐」
「!? ひゃ、ひゃいっ!?」

 教師としての、正義感。
 どういった事情かは知らないが、ともあれ生徒の狂気を鎮めなければならないと判断したのだろう、タイミングとしては少しのラグがあったが、篠丘は実に見事に教師としての責務を果たした。
 ……いや、果たした、はずだった。

「う、歌の、訳……。はいっ、えっと、く、雲の切れ目もない、時雨の秋は、ふぁ……」
「……?」
「あ、あなたのことを恋い慕う、私の心のうちも……、ぃ、ひぃっ、か、かなしく、させていま、ぁ、ぁ、ぃ、ひぃぁあぁぁうっ!!」
「は、早桐っ!?」

 がくんがくんと、身体を大きく痙攣させ、激しい絶頂とともに崩れ落ちる、早桐。
 クラス一同の視線が、奴に集中する。とはいえ、その視線は、何が起こったのか本当にわからない、といったような困惑の視線であり、その場にいた全員……、ともすれば、篠丘だけは推察することができたかもしれないが、まさか、誰一人として、早桐が問いの回答中にエクスタシーに達したなどとは思わなかっただろう。
 おそらく……、早桐自身すら、何が起こったのか、何故自分が絶頂に達したのかなど、気付いていない。それは、昨日、俺が、あの後、俺の部屋に泊まり“眠っている”早桐にかけた、『明日の授業中に先生に指名されることがあれば、その回答を終える直前に激しい絶頂に達する』、という暗示の効果だったからだ。
 授業中にオナニーをしている生徒なんてものがいたら、大抵の教師は、見てみぬふりをするか、あるいはそれを阻止するためにその生徒を指名する。前者はまだしも、後者によって興を醒まされるのは、俺の本意ではなかった。それが故……、俺は、ダブルトラップとして、早桐にこの暗示を仕掛けていたのだ。

「だ、大丈夫かっ!? おいっ、保健委員!いや、もう誰でもいいから早桐を連れて行ってやってくれ!」
「は、はい!」

 理解を超越した絶頂のあまり、意識を失いぐったりと机の上に倒れ伏してしまった早桐の肩を保健委員らしき女子が抱き、教室から運び出していく。
 教室にはとてもすぐには収まりそうにもないざわめきが残り、篠丘の顔には、今までに見たこともない動揺の色が、浮かんでいた。



***



 結局その日、早桐は四限目までを保健室で休み、昼からを早退したらしい。
 何でも、すごい高熱にうなされていたらしい。やはり、無茶をさせすぎたせいで風邪が再発したか。早桐自身は早退することを相当に嫌がっていたらしいが、それはおそらく『全授業で一回ずつイかなければならない』という俺の命令を違えることになるからだろう。きっと、学校にいるうちは、保健室の中ででも授業ごとにオナニーをしていたに違いない。
 まあ、しかし、いずれにせよ、早桐は俺の命令を守ることはできなかった。このことについて本人がどこまで思いつめているかは知らないが、ともあれ、またあいつの心につけ込むネタが増えた。次に会った時に、また存分に活用させてもらおう。

 そして、放課後。
 教室の前には、いつものように芹沢が待ち構えていた。

「あ、先輩! おつかれ様です。あの……、お身体、大丈夫ですか?」
「ん? ああ、悪ぃ。もう治ったよ、サンキュー」
「ほ、本当ですか。それはよかったです。昨日、早退されたとかで、僕、もう、心配で」

 本当に、どこまでかわいい後輩なんだ、こいつは。
 親はなんでこいつを男に生んだんだ。馬鹿か。

「すまんね。ああ、そうだ。芹沢、今日部活行く?」
「あ、部活、ですか……。すいません、今日は、ちょっと習い事で……」
「ああ、ピアノか。そういやそうだったな」
「すいません」
「や、いいよ。けど、なんかどうにも予定が合わないな」

 言いながら、苦笑する。
 まあ、今日は、むしろ。芹沢には、いてもらわない方がいいのかもしれない。

 何故ならば。
 俺は今から、文芸部で最初に出会った女を堕とす、と、そう心に決めていたからだ。

「明日は、顔を出すつもりですので……、それじゃ、ごめんなさい。お先、失礼します」
「うい、おつかれ。ピアノがんばって」
「あ、はい! それでは!」

 屈託なく微笑み、お辞儀をする芹沢の顔は、正直どこからどう見てもボブショートの女の子だ。
 けど、ついてる、ん、だよな。マジで、親は何を考えてるんだ。死ね。



***



 階段を昇って三階、渡り廊下を越え部室棟に辿りつくと、すぐに文芸部の部室が見える。
 俺や芹沢を含めても部員は数名。運動部のように真っ当な活動がほとんど存在しない分、人数も少ない。“あってもなくても変わらない部活”とはよく噂されるし、俺自身その意見には全く同感だった。
 だが……、だからこそ。その小さい孤立した輪の中だからこそ、どんな“異変”が起こっていても外に情報が漏れにくい、ということもある。文芸部という性質上、部員も女子が多く……、というか俺と芹沢以外は全員女であり、一年の時はただ単に教室以外の居場所がほしくて入っただけという部活ではあったが、今この状況を考えると、なんと天恵とも言うべき素晴らしい環境だろうか。
 性格に難のある人間は多いが、しかしどういうわけかどいつも容姿は粒ぞろい。相手にとって不足はないというわけだ。

「おはよーございまーす」

 銀色のノブに手をかけ。
 俺は、至極自然に。社交辞令の挨拶などを口にしつつ、普段と全く差異のない面持ちで部室に足を踏み入れる。

「あ、くー君。おっはよー」

 部屋の中からかえってきた返事は一つ。
 しかし、部屋を見渡すと、そこには間違いなく三人の少女がいた。

 言葉を返したのは、俺と同じ二年の如月 ソラ。地毛か染めているのかは知らないが、軽い茶髪まじりの黒髪を肩口から斜めに下ろし、小さな丸眼鏡を鼻にかけた垂れ目がちな女で、放課後や昼休みなど、部室に行った時はいつでも、そこでイヤホンを片耳に本を読んでいる。いわゆる、“部室の住人”。
 そして、後の二人は……、御咲 りいなと御咲 るうな。一応一つ下の後輩に当たる、無愛想で何考えてるのかわからん双子。年にしてはかなり童顔で、いつも二人ともお揃いのかなり派手めな蝶のかんざしを頭にさしている。どこか玉藻にも通じるところのある、不思議な感じの和風美少女、といったところか。しかし、外見は確かにかわいらしいが、性格は最悪。先輩に対しても生意気で無礼千万。というか、完全に二人だけの世界がある、といった感じだ。その辺は、人懐っこい玉藻とは性質を反するところか。
 ともあれ、今日も二人で仲良しこよしに並んで本を読んでいるこいつらには、初めから挨拶も日常会話も期待していない。俺は、これまた至極自然に、本棚から適当に一冊の本を取り寄せ、ソラの隣の椅子に座る。一見すればおとなしそうな文学少女、そして実際その通りなのだが、こいつはあまりそういった人間にありがちな暗さが無く、話しやすい。俺が歩み寄れば、自然にあいつの方から話を切り出してくれる、文芸部では珍しく、なんとも扱いに困らない真人間だった。

「久しぶりー。最近、来てなかったよね?」
「ん……、ああ。ちょっと、風邪ひいてたんだ」
「あ、そうだったんだ。あー、そういやセリちゃんもそんなこと言ってたっけ。大丈夫なの?」
「ああ、もう完治した。誰かにうつしたっぽいな」
「あれ? そういえばセリちゃんいないね。あの子も風邪?」
「いや、あいつは今日はピアノ」
「あ、そっか。すごいよねー、セリちゃん。本当に女の子みたい」

 全くだ。
 聞けば、あいつ、リアルに三歳の頃からずっと続けてるらしいし。あまりその実例にお目見えしたことはないが、絶対音感も持っているらしい。俺はあまり音楽に深い興味はないが、いつも耳にイヤホンを装着するソラは、やはりピアノとかそういった楽器にも関心があるのだろうか。

「ソラ、それ、今は何を聞いてるんだ?」
「うん? ああ、別に、今は音楽は止めてるけど……、基本的に、このプレイヤーに入ってるのはアニソンかゲームサウンドだよ」
「ああ……、なるほどな。お前は、楽器やったりするのか?」
「まっさかー。ウチにそんな才能ないよ。せいぜい、MIDI打ったりするぐらい。あと音ゲーとか」
「まあ、そうか」

 こいつは、こういう奴だ。
 おとなしい文学少女改め、明るいオタク少女。といっても、俺が見る限りそこまで重度のそれではないように思えるが……、ともあれ、こいつの趣向のほとんどが、そこに集約しているというのは間違いない。
 そもそも、文芸部という部活自体がそういった一面をはらんでいるものだ。俺自身、今更そういったことに対して抵抗を感じるような狭隘な精神を持っているつもりはない。対人能力に大きな弊害を持っているタイプのそれに対しては、俺もしばしば眉間にしわを寄せることもあるが、幸いソラはその人種ではない。普通に話している分には、何の問題もない明るく快活な女の子だ。
 文芸部の中で、俺が最も親しく接することのできる女も、こいつかもしれない。

 文芸部。
 もし、俺が、この先この学園で何かを成し遂げようとするのであれば、おそらくここを拠点とすることになるだろう。
 とするなら、早いうちに、ここにも俺の配下となる人間を作り出しておいたほうが良い。狐から譲り受けたシールは、残り二枚。とはいえ、これで全てが尽きるというわけではない。奴は五百万とか言っていたか。まさか、本気でそんな金をたかだか学生の俺からせしめようとはあいつ自身思ってはいないだろうが、しかし、俺は、その気になれば実際にその程度の金額ならたやすく工面することができる。……あの糞親父の遺した莫大な財産、今こそ全て使い尽くしてやろうではないか。

 最初から、決めていた。
 『文芸部で最初に出会った女を堕とす』、と。
 それならば、俺が今為すべきことは、一つ。

 ――ソラを、俺に隷属させる。

 ポケットに忍ばせていたセロハンから、ぺろりと赤いシールを剥がし、己の指の上に乗せる。
 隙だらけなこいつのことだ。場所を選ばないのなら、いつだってその身体のどこかにはこれを貼り付けることができる。しかし……、どうせなら、趣向を凝らした貼り方をしてやろうではないか。
 俺は、ソラの全身を見渡し……、そして、閃く。

「けど、アニソンか。どういうのが入ってるんだ?」
「ん、色々だよ。メジャーどころから超絶マイナーまで」
「試しに何か聴かせてくれよ。俺でも知ってそうな曲とかあるか?」
「けっこーあると思うよー、あ、これとか、絶対知ってると思う。はい」

 言いながら、耳につけていたイヤホンを外し、ソラはそいつを俺に手渡す。
 ……しめた。俺は内心でほくそえみ、それを己の耳にはめる。
 中では、なるほど、確かに俺と同世代の男子なら間違いなく子どもの頃に一度は聞いたことがある冒険モノのアニメの主題歌が流されていた。

「ああ、懐かしいな。確かにこれはガキの頃聞いたことがある」
「でしょ。何気に神曲だよねー。このあしっでーあるいってっいるかーぎりー♪」
「今聴いたら、結構ぐっとくるな」
「でしょでしょ! ぼくったっちはーまよいっはっしーないー♪」

 上機嫌でサビのメロディーを口ずさむソラの隣で、しかし俺は言葉ほどにその曲に心を向けてはいなかった。
 三分ほどして曲が終わり、別の、今度は全く知らない曲が流れ始める。俺は、自然な仕草でイヤホンを耳から外し……、その耳に当てるチップの上に、ゆっくりとシールを乗せる。
 乗せたシールが落ちないように慎重に、イヤホンをソラに差し返す。ソラは、全く何の疑いもなしに……、それを、自分の耳に、はめた!

「どうだったかね、くー君。キミも、アニソンの素晴らしさというものが理解できたかね?」
「まぁ、少しはな。ディープな奴は知らんが」
「別に、知名度が低いだけで全部いい曲なんだけどなぁ。あ、ほら、今流れてるやつとかも好き。にゃーにゃんにゃにゃー、ぁっ……?」

 ぽっ、と。
 まるで、夕日に照らされたかのように、突然、ソラの顔一面が朱に染まる。
 ……成功だ。俺の計画通り、イヤホンの上に乗せたシールはソラの耳穴に貼り付き……、その副作用によって、ソラの耳は、周りから聞こえる物音にすら過敏に反応する性感帯に変わり果てた。
 おそらく、今イヤホンから奏でられるソラの大好きなアニメ音楽は、その耳にとって、何よりも心地良い愛撫に感じられることだろう。
 そして……、その副作用が発生しているということは。その、主たる効果……、俺の言葉を、自然と耳に受け入れてしまうというその力も、また発動している、はずだ。

「どうしたんだよ、ソラ。顔、赤いぞ。まさか……、お前も、風邪か?」
「え……? か、風邪……? あー、うん……、そうなの、かなぁ……?」
「マジかよ。流行ってるらしいし、気をつけろよ。あれだったら、今から暇だし一緒に薬局行くか?」
「薬局……。そう、だね……。おくすり、買わないと……」

 ソラは、まさかその自分の身体の火照りの原因が、イヤホンから流れる音楽によるものだとは、気付くはずもない。
 音波による鼓膜への愛撫と、自分が風邪をひいているのだという暗示のおかげで、ソラの意識はどんどんと朦朧としていき、その返事もまたどこか上の空に近い虚ろなものへと化していく。
 なんという、好都合。俺は、この瞬間に、ソラの意識を思うがままに操るだけでなく、再びあの狐の薬局に訪れる理由までをも手に入れてしまった。
 ちょうど、あの狐には色々と聞いておきたいことがある。それは、今後の俺の人生を定める上でも、至極に重要なこと。……一人で訪ねた方がいい内容だったかもしれないが、しかし、この人形のようなソラを隣に置いておいたところで、さして状況は変わらない。いざとなれば、その場で聞いたことは全て忘れろ、とでも言えばいいことだ。

「善は急げ、だ。ソラ、もう行こうぜ。早く薬呑まないと、どんどん症状が悪化するぞ」
「早く……、おくすり……。うん……。あぅー……、なんか、頭がぼーっとするよぉ……。からだも、へんな感じだし……」
「こりゃ、重症だな。おーい、御咲、俺たちもう先に帰るから、部室の管理しっかりしといてくれよ」

 俺の便宜的な呼びかけに、御咲姉妹は、半ば以上不機嫌そうにこちらを一瞥した後、二人同時にこくりと頷く。
 まあ、こいつらに今更礼儀や云々を説いたところで無駄だ。それに、今、俺には為すべきことがある。
 俺は、最早立ち上がるだけでもほとんどふらついているソラの身体を支え、部室を後にする。

 目指すは……、狐の薬局。

 
 


 

 

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