ふらっぴんぐ・すり〜ぱ〜


 

 

またまた、そのいち


《 1 》



(あ……っ!?)

 高校からの帰宅途中、いつもの電車に乗る詩央(しお)の腰に、誰かの手の平がぺたりと触れた。
 夕方の帰宅ラッシュアワー、ぎゅうぎゅうの満員電車の中だ。なにかの弾みでも起きうる出来事だが、しかしその手は、明らかな目的を持ってそのまま詩央の身体から離れずにいた。
 ソロソロと、イヤらしい動きを感じさせながら、薄手のスラックスに包まれたお尻の辺へと位置を下げていく。

 痴漢だ。
 小柄でほっそりとした、可愛らしい外観をした詩央は、こうした人間の目にとまりやすいらしい。これは、初めての体験でもなかった。

『やめて下さいっ!』

 ――だが、どうしてもその一言が、口から出てくれない。

 獲物がまともに抗いさえしないことを、正確に読み取ったのだろう。お尻のところを撫で回していた手は、更に無遠慮に、露骨な動きを見せ始める。ただ触るだけではなく、手の平全体で揉みほぐすような動作をみせはじめた。

(やだ……、やだようっ)

 ゾワゾワと、嫌な感触が彼身体の上を蠢いている。「ハァ、ハァ」と首筋にかけられる荒い息づかいは、本当に吐き気さえもよおさせた。
 周囲の他の乗客達は、何も気づいていないのだろう。皆、思い思いの方に顔を向けたままだ。
 教科書の入ったカバンを抱きしめ、ギュッと唇を噛みしめる。全身で拒絶するその仕草は、しかし痴漢をより興奮させ、調子づかせる役目しか果たしてはいなかった。

「……っ、やめ……てっ」

 さらにその先に進めると判断したのだろう。あろうことか、その手は詩央の腰の前にまで延びてきて――

「……!!?」

 背後に張り付くように覆い被さっていた痴漢が息を飲む気配がしたのと、どちらが早かっただろう。

「てめえ、いいかげんにしやがれ! この変態野郎が!!」

 怒声と共に、痴漢の身体が乱暴に詩央から剥がされた。涙が滲みかけた目を上げると、背の高い少年が、痴漢とおぼしき中年男の手を捻りあげていた。
 同時に電車が停車駅に止まり、詩央のすぐ側にあったドアが開く。

「降りろっ。この痴漢!」

 周囲の視線が集まる中、詩央とは違う高校の制服を着た少年は、男を車外に引きずり出した。乗り降りする人々の流れに押し流されて、詩央もそれを追うようにホームによろめき出る。

「何だ、キミは! 私が、何をやったって言うんだ!!」

「うるせーな、言いたいことがあったら、警察に言えよ」

 痴漢はジタバタと逃れようとするが、少年は長身と合わせて力もかなりあるらしい。中年男は真っ赤な顔で抵抗していたが、その手から逃れられずにいた。

「大丈夫? ひどい目にあったね」

「あ、……はい」

 安心させるかのように声を掛けてくる少年に、詩央はなんとか頷く。
 それを確認して、彼は男の方を睨み付けた。

「無理矢理に女の子の身体を触ったら犯罪だってことぐらい、知ってるだろう。往生際が悪いヤツだな」

「うるさい! 高校生に説教される謂われはない……それに、」

 七三に分けられた髪を乱しながら、男がわめき立てる。

「それに、そいつは“男”だぞっ! だから私は、痴漢なんかじゃあない!!」

「……え?」

 思わず、というように呆けたような表情を浮かべる男子学生。問いかけるように向けられた彼の視線に、詩央は何も応えられずに、ただ真っ赤になって目を逸らしてしまった。
 そんな少年の隙をついて、男は全身の力で腕を振りほどき、人混みの中に駆け込んでいく。

「あっ、テメェ!」

 はっと我にかえって声をあげるが、もう遅い。中年男の姿は、ラッシュアワーの人波の間に、あっというまに消えてしまった。
 後には、振り上げた拳を降ろすタイミングを無くして戸惑うように立つ少年と、顔を俯かせる詩央だけが残された。

「あー……、と」

 困ったように頭をかきながら、男子学生が詩央を見下ろす。
 対して詩央は、自分の顔を隠すかのように、下を向いてしまった。



 小早川 詩央(こばやかわ しお)は、とある私立高校に通う、一年生の男子生徒だ。

 男子とは思えない彼の顔つきは、クラスの女の子達に「学校一の美少女」ともてはやされている。……女生徒たちは、そんな彼女等の言葉が詩央をどれほど傷つけているか、考えようともしない。
 だが、少女達のそんな感想は、無理からざるものでもあった

 繊細な鉛筆画で描かれたような柔らかな顔の輪郭と、黒目がちな睫毛の長い瞳。折れそうなほどに細い体つきと相まって、彼を一目で男子だと見て取れる人間はほとんどいなかった。
 いっそ男女の見間違いようのない学校の制服でもあればいいものだが、あいにく詩央の通う高校は、完全私服制だった。

「……まあ、なんだよな。相手が男だったとしても、痴漢は犯罪だよなあ?」

 戸惑ったような少年の呟きが聞こえてくるその台詞に、助けてくれたはずの彼と目を合わすことさえ出来ない。この小柄な少年は、さっきの痴漢への、そしてそれ以上に自分自身への情けなさと悔しさで、思わず涙ぐみそうになってしまう。

「あれ〜、ハル君。なんでこんなトコロにいるの? ハル君、この駅での乗り換えとか、関係ないのに」

 小さく肩を震えさせる詩央の耳に、脇から唐突に、女の子の声が入ってきた。
 それと、同時に。

「詩央君?」

 聞き慣れた声に、詩央は顔を上げる。

「舞華姉さん……」

 そこには、彼にとってはこんな場面で最も出会いたくない人物が立っていた。

「あれ? 舞華さんの知り合いだったの?」

 知り合いだったのだろうか。背の高い少年が、彼女にそう訊ねる。

「あ、ええ。親戚の子なの」

 早乙女 舞華。詩央の二歳年上の従姉妹だ。
 すれ違う人々の目を惹かざるをえないほどの美少女で、地元でもお嬢様学校として知られる女子校に通う高校三年生。彼にとっては物心ついたときからの姉のような存在だ。だから詩央も、昔から「舞華姉さん」と呼び、実の姉のように慕っていた。

 艶やかな黒髪をした、まるで日本人形の様と評される、美しい年上の従姉妹。

『実の姉のように』というのは、嘘だろう。綺麗で、優しく……詩央にとっては、ただの親戚の少女という以上に、ずっと長い間、純粋な憧れの対象である、年上の女性だった。

 それが、こんなところを見られて――

(あ……?)

 舞華に対してどんな顔を向けようかと戸惑いながら彼女の方を向いた少年の目に、その隣に立つセーラー服の少女が入ってきた。
 その彼女に、詩央の目は、我知らず奪われてしまう。

 身長は、同年代の女子と比べれば、僅かに小柄だと言っていいだろう。だが小ぶりな頭と長い手足、スタイルの良い体つきのせいだろう、むしろスラリとした雰囲気を感じさせる。
 顔にはマンガに出てくるような、ユーモラスな感じのする丸いメガネをかけている。が、それでもはっきりと分かるほどに、可愛らしい顔つきをした少女だった。

「ん?」

 その彼女が、今更ながら気づいたかのように、詩央に目を向けた。何かを考えるかのようにまじまじと彼の顔をのぞき込むと、男子生徒に確認するかのように言う。

「この子、男の子だよね?」

「あ……こらっ!」

 少女の言葉に、詩央の胸に再びどんよりとした気持ちが浮かびそうになる。
 気を使ってくれたのか慌てたように止めようとする少年を無視して、少女は詩央のすぐ目の前に立つと、触れ合いそうなほどに顔を近づけてきた。

「えっ!?」

 思わず、キスでもするのかと身構えてしまうほどの距離に、彼女の顔が寄せられる。ショートボブの髪が、サラリと揺れた。
 いくら女の子のような外観をしているとはいえ、詩央とて正常な男子高校生だ。こんな女の子にそんな行動をとられれば、思わず胸がドキリとしてしまう。

 ……が、高まりかけた彼の心臓は、次の瞬間、握りつぶされるように動きをひそめた。

(え――――?)

 まばたきの音さえ聞こえてきそうな位置にある、少女の目。そのぱっちりと開いたまぶたの間から彼を見る、黒い瞳。

 サア――と、彼の耳から大勢の人でごったがえす駅の騒音が、遠くへと消えていった。

(なん、だ……?)

 少女の、黒い、瞳。

 まるで夜の湖面のごとき、黒く、昏く、静かで、怖ろしく、底知れぬほどの深さを感じさせ、それでいて引き込まれてしまいそうな錯覚を覚える………………………

 …………
 ………
 ……
 …

「…………へえ、舞華ちゃんの親戚なんだ。やっぱ美形の一族なんだねぇ。
 そっかぁ、シオ君っていうんだ。幾つ? 高校生?」

「あ、ああ、――はいっ。えっと、16……高校一年です」

 いつの間にかボウッとしてしまっていた彼は、気がついたときにはそう応えていた。
 ハッとして、頭を何度も振る。

(なんだ、今の?)

 ついさっきまでの自己嫌悪の念さえ忘れ、詩央は我に返り、慌ただしく周囲を見渡した。
 特に変わったことなど無い。多くの人々が足早に通り過ぎる、やかましくも活気のある、いつもの、ラッシュアワーの駅の光景。

「シオ君……うん、なんか、よく似合ってるって感じの名前だよねぇ」

 やや舌っ足らずな声で話しかけてくる少女は、茶目っ気のあるメガネの雰囲気も手伝って、気さくで親しげな雰囲気を感じさせる。
 普通の――ただし、すごく可愛い感じの女の子だ。

 やはり、なぜかは知らないが、ついさっきまでの自分は、どうかしていたのだろう。そう自らを納得させながら、詩央はゴシゴシと目をこすった。

「あの、里美ちゃん?」

 舞華が、何やら心配そうな顔で、少女に声を掛ける。詩央は、そんな彼女の表情がどういった意味を持つのか、理解できずに戸惑いながら舞華と里美と呼ばれた少女の顔の間に視線を彷徨わせる。

「う〜ん、まあ、今はいいかぁ」

 なにやら満足げな笑顔を浮かべながら一つ頷くと、里美は詩央から身体を離した。
 傍らの背の高い少年を見上げて、言う。

「じゃあ、そろそろ行こうか。なんでハル君がこんなトコロにいるのか知らないけど、せっかくだから、三人で遊びに行こうよ」

「ああ、それは構わないけど――」

 応えるハルと呼ばれた少年。彼の顔を見上げ、再び詩央の中に、僅かな不安感が浮かび上がる。
 彼が、詩央を見る目。舞華の目と同じ、詩央には良く意味の分からない心配げな色を帯びた視線で、小柄な詩央を見下ろしている。

「ようっし。ハル君、舞華ちゃん、行こうよ」

 その場を取り仕切り少女が宣言し、詩央の従姉妹と彼を助けてくれた少年は、そちらに歩き出す。

「じゃあねぇ、シオ君。また会おうね〜」

 立ち去る、三人。

「あ……そうだ」

 呆然と彼らの背中を見送ってから、詩央は今更ながらあることに思い当たり、ぼんやりと呟いた。

「お礼、言いそこねちゃった」





「おい、里美。さっきのは、いったいなんだったんだ?」

 物陰に隠れ、先ほどの小柄な少年が電車に乗り直すのを確認した後、春人は前を歩く里美に問いつめるような口調でそう訊ねた。

「お前、さっきのヤツに、何かやったろう。どういうつもりなんだ?」

 彼の隣では、やはり心配そうな顔をした舞華が、里美に視線を向けている。

「ん〜、とねえ」

 そんな二人が向けてくる視線をはぐらかすように、里美はストレッチでもするかのように首を左右順番に傾けて揺らしている。
 その頭の位置は、以前は春人の胸の当たりまでしかなかったのに、この一年で急速に身長が延びたせいで、彼の鼻先の当たりでつむじがうろうろと動いていた。

 成長したのは、身長だけではない。
 つい昨年までは、周囲が心配するほどに(そして一部の嗜好を持った人間が大喜びするほどに)全く女性としての発育を認めない体つきだった。
 それが、たった一年で、春人がつい無意識に視線を向けてしまうような、魅力的な曲線を胸元や腰に持つようにまでなったのである(一部の嗜好を持った人間は、涙を流しまくったそうだが)。

『その歳にふさわしい、周囲から関心をかう体つきに、すぐになるよ。
 だってわたし達は、そういう“存在”なんだもん』

 この少女――「夢魔」である彼女が、昔そう語った通りに。

 ……少しの間、大げさに考え込むような「む〜〜〜〜」という声を出した後、里美は相棒の少年を見上げると、例の、露骨な悪巧みを感じさせる笑顔を、ニッと浮かべて見せた。

「あっれ〜、ハル君。もしかして、わたしが可っ愛い〜オトコのコにちょっかい出したんで、ヤキモチ妬いてるのかな〜?」

「ばっ……!」

 声を荒らげて言い返そうとした少年だったが、それでは彼女の思うつぼだということに気づき、自制する。
 そんな彼を面白げに観察しながら、里美は少年の肩を、軽くペンペンと叩いてみせた。

「だいじょ〜ぶだって。ただ、ちょっと試してみたいことがあってさ」

 愉しそうにそう話す少女を見て、春人は眉をひそめる。こういう時の彼女は、ぜったい、ろくなことを考えていないに決まっている。長い付き合いでそれがわかっているのだ。

 一方、里美の方も、少年がそうやって気を揉んでいることは、百も承知だった。だけれども、面白いことを思いついてしまったら、そっちに向かわざるを得ないだろうに。

「実はね〜、前々からやってみたいことがあったんだぁ」

「やってみたいこと?」

 やはり警戒するかのように眉をひそめながらそう訊ね返す春人。

「里美ちゃん。もしかして、詩央君になにか……」

 この三人しかいない場所では、舞華は他の二人に対し、別の呼び方を用いる。しかし人混みの中にいる今は、普通にちゃん付けで、里美に声を掛ける。
 年下の親戚の少年を思いやってだろう、おずおずと、不安そうな顔で里美の様子を伺う舞華。

 しかし里美は、そんな二人に対して、今度は邪気のないニッコリとした微笑みを浮かべて見せた。

「ま、この里美さんに、ぜ〜んぶ任せなさいっ。ハル君にも、舞華ちゃんにも、た〜っぷりサービスしてあげるからぁ」

 そうして春人と舞華は――やはり里美が思っていたとおりに――余計に不安そうな顔をして、目を見合わせたのであった。



《 2 》



 夢を、見ていた。

“ガタン――、ガタン――”

 リズミカルな音と共に、身体が揺れている。

(そうか。今、僕は電車に乗ってるんだな)

 いつ、どうして電車に乗ったのか、詩央にはそれが思い出せなかった。
 しかしこれが夢であれば、当然のことだ。

 これが現実のことでないと認識しながらも、そこから起こるさまざまな連想が、詩央の記憶の中から浮かび上がってくる
 電車に乗っているという場面のせいだろう。痴漢から助けてくれた少年のことが頭に浮かんだ。

『ああ、そうだ。あの人にあったら、お礼を言わないと』

 多分ほとんど同じくらいの年齢だろうと思われる、背の高い少年。

(羨ましいなあ。僕もあれくらい背が高ければ、もっと男っぽく見えるのに)

 詩央にとっての最大のコンプレックスは、その少女のような――しかも、とびきりの美少女のような――外観だった。

 彼も、努力はしたのだ。そうしたコンプレックスに気づいたのは、小学校の終わりの頃。そのころから筋肉トレーニングをしてみたり、牛乳をたくさん飲んだり、髪を女の子ではあり得ないほどに短くしてみたり、いろいろとやってみた。

 だが、全ては上手く行かなかった。
 いくら頑張っても、筋肉はつかず、背も伸びなかった。
 髪型については、あまりに似合っていないと周囲に大笑いされ、それ以来は適度に似合う髪型――つまりは、ボーイッシュな女の子が似合いそうなもの――で妥協している。

『それに、あの娘も可愛かったよなあ』

 確か、“サトミ”といったか。

 詩央の憧憬、女性に対しての思慕の念は、ずっと従姉妹である舞華に向けられていた。
 本来彼女とはなんの関わり合いもない、彼の通う高校でまで有名な、美しい彼女。綺麗で、物静かで、周囲の目を集めざるを得ないほどの舞華。

 しかしサトミと呼ばれていた少女は、そんな彼にとっても心を動かされるほどに、間違いなく魅力的な少女だった。

(でも……)

 夢の中、そこまで漠然と考えたところで、詩央の脳裏に影が浮かび上がった。
 あのときの、彼女の「瞳」。
 今までも、誰かに睨まれたりして怯えたことは何度もあったが、そのどれもが彼女の瞳とは違った。

 そう。あの瞳は、全く違う……彼が今まで出会ったことのないような、異質な、恐怖。

(ああ、やだなあ)

 夢の中、悪い方に気分が傾くと、ろくなことは起きない。
 暗い気持ちは暗い思い出を浮かび上がらせ、夢の中の現実として形を持つ。

“ガタン――、ガタン――”

 レールの上を走る音と揺れに合わせて振れる彼の身体を、嫌な予感が襲った。

『あ……っ』

 やはり。この流れできて、コレが起きないわけがない。
 詩央の腰に、他人の手の平がべっとりと張り付く感触がしたのだ。

(なんで、僕は男なのに、こんな思いをしなくちゃいけないんだ)

 女性であれば痴漢にあっても良いなどと、そんなことは言わない。
 だが、男でありながら痴漢の被害に遭う彼には、他の誰とも共有のしようがない。その辛さは、彼がただ一人で、どうしようもなく抱え込まなくてはならない、暗い鉛のおもりだ。

 夢の中、そして現実の世界でさえ、吐きそうだ……夢でベッドを汚すのは、ゾッとしない。
 そのとき、

『あ〜、いたいた。こんばんはっ、詩〜央クンっ』

 何の前ぶれも無しに出現した声に、ぎょっとする。その若い少女のものと思われる声は、夢の中にあって、信じられないほどの現実感を持って鮮烈に彼の耳に届いた。

『えっ!?』

 いつの間にか。彼の身体をまさぐっていた手が消えさり、代わりに背後から誰かがおぶさるように詩央に寄りかかっていた。
 背中越しに、男とは違う柔らかな体が押しつけられる感触。

『あ……っ』

 慌てて肩越しに確認しようとすると、彼の顔のすぐ横に、肩越しに突き出された少女の顔があった。

『サトミさん!?』

 口からこぼれ落ちたその声に、少女はメガネの奥の目を、ちょっと見開いてみせた。

『あれ〜、わたしの名前、知ってたの? ……って、そうか。ハル君がわたしの名前を呼んだときに、聞いて覚えてくれたんだね〜』

 そう言って、楽しそうに笑う。

 夢の中の彼女は、声だけではなく、背中に伝わってくる体温や、触れ合った身体の感覚や、頬にかかる息遣いや、鼻をくすぐる髪の毛の匂いだとか……その全てが、やけにリアルだった。目を凝らせばやっと見える頬の体毛すら、はっきりと確認できた。

『ほらほら、ハル君。早くおいでよ』

 少女の言葉にハッとして視線を周囲に走らせると、すぐ近く、身体を押しつけ合いながら立っている一人の乗客を挟んですぐそこに、例の背の高い少年が立っていた。
 少女と、そして詩央に向けられた彼の顔には、なにやら困惑している表情が浮かんでいるように見えた。

『あ、あの……』

 これは夢の中だと分かってはいながら、詩央は少年に話しかける。

『朝は、どうもありがとうございました。助けてもらったのに、まともにお礼も言わないで……申し訳ありませんでした』

 夢の中でそんなことをして意味があるのかどうか。それでも詩央は、彼に頭を下げる。
 しかし礼を言われた方の当の少年は、余計に顔をしかめてみせた。
 なにか、詩央がまずいことでも言ったのだろうか?

『なあ、里美。やっぱり気が向かないんだけど、どうしてもやるのか?』

 詩央にとっては何のことかさっぱり分からない彼の言葉に、だが少女は詩央の肩に顎を乗せるようにしながら応えた。

『う〜ん、じゃあ、とりあえずわたしが始めるから、そこで見ててよ。もしもやる気が湧いたら、そのときは交ざればいいんだし』

『なんの……』ことを?

 訊ねようとした詩央の顔に、背後から回された少女の手が添えられた。

『じゃあ、詩央君』

 まるで恋人にでも囁くかのように、彼の耳朶に唇を寄せ、妖しく言葉を紡ぐ。

『い〜ぱい、気持ちよくなってね?』



《 3 》



『え?』

 頬に、柔らかな感触が押しつけられる。それが、少女のキスだと思い当たるのとどちらが先だったか。

『え……あ、あああっ??』

 詩央の躰を、まるで固体のようにさえ感じる、痺れのようなものが走り抜けた。
 その波にさらわれてしまったかのように、脚から力が抜けて、膝が落ちそうになる。

“ガタン――”

 ちょうどそのとき、車輪がレールの継ぎ乗り越える音と共に、電車が揺れた。

『わっ』

 床に崩れ落ちそうになる詩央。
 ――だがその躰を、何者かが支えた。

『あ……えっと、どうも……』

 転倒をまぬがれた礼の言葉を、しかし彼は最後まで口にすることができなかった。

『な……っ?』

 彼の身体に手を掛けていたのは、一人ではなかった。
 満員電車に乗り合わせている、詩央の周りの、全ての人間。
 男も、女も。顔がはっきりとしないそうした人々が、まるで争うかのように、あるいは統一された意思でもって協力し合うかのように、彼の身体に手を掛けて引きずり起こしていたのだ。

『ちょ、ちょっと……』

 何本もの手によって張り付けにされたように、脱力した彼の身体は倒れるのを“許されない”。

 しかも、

『あ、あああああっ!?』

 身体の奥から、熱を伴う疼きのようなものが全身に広がった。それは下腹部の奥の方から沸き上がり、背筋を浸食しつつ胸郭にいたり、心臓をも熱する。
 バクバクと鼓動が跳ね上がり、全身に汗が浮かぶ。

『はあっ、はあっ、はあ……っ』

 始めて体験する、痺れ。
 未知の感覚についていけないままに、秀麗な目元を赤らめ、息を荒くする詩央。そんな彼を見物しながら、里美は満足そうに『うっわ〜……』と声をもらした。

『いや〜、期待はしてたけど、詩央クン、悶える姿がこんなにカワイイなんて。……ねえ、ハル君っ。見て、見てっ』

『いや……、まあ、なんて言うか……』

 嬉しそうにテンションを上げる里美に、しかし春人は頭を抱えている。

 だがそんな二人に構っているような余裕は、もう詩央には無かった。

『こんな……これ、なに……?』

 舌がもつれて、上手く話せない。
 そんな彼の身体に、彼を支えるよりもさらに多くの手が延ばされ、彼を玩び始めた。

『ひ――っ!!』

 ゾワリ――と、触られたところを中心に、電流のようなものが走り抜ける。
 首筋、太股、腰……さまざまな場所を無数の手が這い回り、その度に詩央は自由にならない体を身もだえさせた。
 しかも、彼を襲う衝撃は、それだけでは終わらなかった。

『う……ああっ、なんで、こんな……っ!?』

 彼の身体をまさぐる手の一つが、詩央の胸元を探ったとき。詩央は、自分の胸の部分が、その指を柔らかく受け止め、そこから始めて体験する痺れが走るのを近くした。

『これ……なんで? なにか、ヘン……だよっ』

 しかし、同様の刺激は、それで終わらなかった。もう片側の胸、臀部、太股……触られる場所の一つ一つが、彼が体験したことのない躰の反応を生みだし、その痺れを脳髄へと送り込み、頭を真っ白にしようとする。

『はあっ、……や、ああ!』

 涙で滲んだ視界の向こうで、里美が彼を見ている。そのぼやけた少女が、詩央に告げた。

『女の子のカラダは、どう? 詩央クン……ううん、“詩央ちゃん”』

(何を……?)

 少女が何を言ったのか、詩央には理解が出来なかった。
 そんな彼の頬をに手を延ばし、愛おしそうに撫でさすりながら、里美は詩央に語りかけた。

『こういういじり方をね、一度、やってみたかったんだ〜。でも、これっていう男の子が、なかなかいなくって……たとえば〜、そこにいるハル君をそのまま女の子にしても、あんまり可愛く無さそうでしょ?』

『大きなお世話だ』

 緊張感のない声で会話をする二人を前に、しかし詩央には、悠長に会話などしている余裕はなかった。急流に巻き込まれた小枝のように、身体の内部を無軌道に走り回る痺れに、為す術もなく振り回されるだけだ。

 その間にも、何本もの手が動き回り、彼が身につけた衣類をはぎ取っていく。下着代わりに着ていたTシャツと、そしてトランクスが抜き取られ、裸の姿が自身の視線にさらされた。

(こん……な……)

 そこにあるのは、日頃見慣れた自分の身体ではあり得なかった。
 緩やかに膨らむ、柔肉の丘。雑誌のグラビアを飾るモデルのような大きさはないが、それでも間違いのない、女性としての曲線を描く膨らみ。
 さらに股間には、彼の男性としての器官は、どう見ても存在しなかった。

 だが、それらをゆっくりと確認している時間は、詩央には与えられなかった。

 数本の手が、乳房に集まる。

『ふぅ……、あっ、ああ!』

 今までの布越しの愛撫とは全く違う、甘い痺れ。その先端に色づく突起に指が触れた瞬間、詩央の口から、あらがいようのない声が漏れる。

(………っっ!!)

 耐えられず溢れ出したその自分の声に籠もった響きを耳にしたとき、ここに至って、ようやく詩央は理解した。
 今、全身を襲っている感覚。これらは、本来男が体験するはずのない、『女の快楽』だったのだ。

『こんな、……止、め……てっ!』

 しかし、腕達は動作を止めはしない。蠢き続け、女の肉と化した詩央の躰を、不作法なまでの率直さをもって愛撫し続ける。

『助け、……助けて、たす……け……』

 震える唇を無理矢理動かして、それが意味を持つのかさえもわからぬまま、“少女”は必死に懇願する。
 小動物のような眼から涙を溢れさせる詩央に、里美が顔を寄せた。

『ねえ、詩央ちゃん。ホントウに、助けて欲しい?』

 こちらも興奮に顔を上気させている少女に対して、詩央は懸命に首を縦に振った。
 自分が、どんな存在に助けを求めているかも知らずに。
 この彼女によって支配された世界で、彼女に助けを求めるのがどういう意味なのか。それも知らずに。

『いやぁ〜、可〜愛いなぁ。見てるだけで、ドキドキしちゃうよ』

 小動物のような愛らしい顔を歪める詩央の表情を鑑賞しながら、里美は顔をさらに近づけた。

『じゃあ、ね。詩央ちゃん。助けてあげる』

 少女の顔に、笑みが浮かぶ。猫のような、笑み。純粋な、純粋に獲物をいたぶり、悦ぶ。そんな笑み。
 それに気づいたときには、もう、詩央にとっては遅かった。

『快感を、ね。素直に受け止められるようにしてあげる。もっと感じられるように、詩央ちゃんを変えてあげるね?』

『あ……あ、あぁ……』

 少女の唇が、詩央の唇に重ねられる。
 唇を割って、ヌメリとしたものが彼の口の中に入ってきた。
 同時に、形を伴わない『何か』が、彼に送り込まれる。

『――――っっっっっっっ!!!!??』

 全身を貫く衝撃に、詩央は声にならない叫び声を上げた。
 刃物の如く冷たい電撃か、それとも痛みか、あるいはそれ以外の何かか?
 脳髄を焼き尽くすようなそれが過ぎ去った後、詩央の躰を、今度は全く別の痺れが襲った。

『いやだ……あ、あぁぁっ』

 無数の手が、彼の上を這い回る。

 詩央は、もはや自分の喉が何を叫んでいるのかさえ、分からない状態であった。

 乳房を揉む指に対して、自分の身体が弾力をもって押し返す感触。指が、掌が本来あり得るはずの無い胸の膨らみを嬲り、自由に形を変えさせるたびに、そこから幾つもの波が胸郭を貫き、背筋までを刺激する。
 硬くしこったその先端をこすられた瞬間、『うあっ……』と、詩央の喉から声が漏れてしまった。

 あるいは複数の手の平が、脇腹の当たりをくすぐるように撫で回す。
 指先がわずかな肋骨の凹凸をなぞり上げる度に、思わず身体を縮めたくなるような感触が詩央を襲う。

 脚を撫で回す手は腿の内側のあたりを彷徨い、撫で上げながらもその部分をイヤらしい仕草で微妙に揉み上げ、刺激を与えてくる。

 臀部を撫で回す手の平の動作は、あの嫌悪すべき痴漢のそれとまったく同じで……なのに今の詩央の身体は、どれほど否定しようとしても、立ちのぼる刺激を、脳をとろけさせる快感として受け止めてしまう。

 そして、

『あ、が……や、止め……ああぁっ』

 股間に伸びる幾つかの手は、その部分を優しく愛撫する。
 男が体験するはずのない、かき分けられ、その内側を玩ばれる感触。

“ぴちゃ……ぐちゅ……”

 自らの股間から聞こえてくる、水音。それが何を示すものなのかを理解した瞬間、詩央の中で、「何か」が崩壊した。

『うあぁ、ああ……だっ……ふ、ああああぁぁっっ!』

 股間が、まるで拍動するかのように蠢き、それに伴い内部からじゅくじゅくとした熱い液体が、彼の意志を無視して体外に滴り落ちる。
 分泌された粘液は詩央を玩ぶ指に絡みつき、それらの刺激を変化させる。さっきまで乾いたような摩擦をもった感触は、今はまったく違う、湿り気と粘度をもった感触として、更なる熱を沸き立たせた。

(こんな……こんなっ!?)

 もはや否定のしようも無く、暴力的で、圧倒的な快感の流れの中に放り込まれ、溺れ沈みそうになる恐怖。
 しかしその恐怖は、別の「何か」と間違いようもなく表裏一体であり、それ故に詩央は怯え、外界を否定するかのようにまぶたをギュッと閉じる。

 詩央は、力無く、それでいて狂ったように、何度も、何度も小さく首を横に振る。
 そんな彼の前に、顔のない無数の「乗客達」とは明らかに違う、別の気配が現れた。

『詩央ちゃん……カワイイ』

 溢れ出した涙で滲む視界の向こうに、里美がいた。
 頬を赤く染め、詩央の顔をのぞき込んでいる。
 彼女の瞳には、熱と、そしてもっと暗い、彼には理解のできない闇が浮かんでいた。

『そろそろ、イかせてあげるね?』

 一つそう囁くと、少女は詩央の前にしゃがみ込んだ。

『や……だ、……おね、がい……ふっ、ぁ……止めて……』

 ガクガクと震える唇で、なんとか言葉を紡ぐ。
 しかし、それには何の意味もないことを。ただの、無力で、無意味な行為であることを、ろれつの回らない声を絞り出しながらも、詩央は理解していた。

『本当に……見ていて、どうにかなっちゃいそうだよ』

 里美に場所を空けるかのように、詩央の下半身を玩んでいた手の平たちが、余所に移っていく。
 自分の恥ずかしい部分を少女の眼前に晒してしまい、彼――いや今は“彼女”である詩央は、涙を流した。

“ぐちゅ……”

 他のどの手よりも細く優しげな指の感触が、詩央の肉をかき分ける。
 そしてボブカットの髪の頭が、近づいてくる。

『止め……あぁぁ、やぁ、ああ……』

 だが、彼の懇願にも関わらず、里美はゆっくりと動き続ける。
 左右に広げられた肉の襞の中心、その少しだけ上にある、血と痺れが集中したように感じる小さな芽に、彼女の息が吹きかけられ、そして、

『ん〜……』

 硬く震えるその部分が、少女の前歯で、軽く、挟まれた。

『うっああ、ああああ……っ!』

 硬質な、刺激。
 それはあまりにあっけなく、詩央の意識を真っ白に染めた。

『あ、ああ、あ、ああああああっ…………』

 無数の手に支えられながら、ほっそりとした詩央の白い裸体が、ビクビクと、釣り上げられた魚が痙攣するかのようにはね回る。
 全身を貫き走り回る電流のような快感が、身体中の筋肉を痛いほどに収縮させ――その後に、ふっと消え去った。

『あ……はぁ、はぁ……、ぁぁ』

 弛緩した口元から、よだれが顎をつたい、流れ落ちる。それに気づきながらも、何もできる気がしない。
 自らを襲った夢とは信じられないほどの現実的な体験に、それでいて現実とはあまりにかけ離れた体験に、崩れきった思考をまとめることができずに、ただ、必死に呼吸を続ける。

『はぁっ……は……』

 焦点の合わない目をぼんやりと開く詩央の、だらしなく弛緩した口に、温かく柔らかい感触が被さる。

『ん……詩央クン、とっても美味しいよ……』

 霞んだ目で、それが里美だと知る。彼女の唇が、ついばむように、そしてそこからむさぼるように、詩央の唇に重ねられる。
 少女の口づけは、詩央の中に何かを流し込んでくるようで、それでいて大切な何かを奪い取って行くかのようで――詩央の意識はそのまま、まるで放り捨てられるように、闇の中へと落ち込んでいった。

 
 
< またまた、そのいち――了 >


 

 

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