Deja Vu

〜既視感、もしくは終わることのない輪舞曲〜


 

 



「ねえねえ俊くんっ!ここに新しいお店ができてるよ!」
「ん〜?……お、本当だな」

 日曜の午後、いつものように俊くんとふたりでお出かけして、お昼ご飯を食べてからぶらぶらと歩いていた時のことだった。
 一軒のお洒落なアクセサリー・ショップができているのを見つけて、私は俊くんの腕を引っぱる。

「わぁっ、かわいいのがいっぱいあるよ!」

 ショーウィンドウを覗き込むと、シルバーのトップが付いたネックレスがたくさん並んでいた。
 シンプルな水玉やハート型から、四つ葉のクローバーやイルカの形まで、いろんなデザインのものがある。

 その中でも、目に留まったのは三日月の上で猫が寝そべってるデザインのネックレスだった。
 小さいネックレストップなのに、猫の尻尾がくねくねってなっていて、すごく可愛らしい。

「ああ、いいなぁ……これ、すごくかわいいなぁ……」

 私は、ガラスケースに付きそうなくらい顔を近づけてそのネックレスに見入ってしまっていた。
 トップのデザインもいいけど、チェーンも、ひねりを加えた大きさの違う輪を交互に繋いだデザインですごくしゃれた感じがする。

「そんなに気に入ったんなら買ってやるぞ、真穂」

 私が物欲しそうにショーウィンドウにへばりついていたものだから、俊くんがそう言ってくれた。

「ホントっ!?俊くん!?」
「ああ。たまにはプレゼントのひとつもしてやらないとな」
「やったぁっ!」

 俊くんの言葉に、嬉しくて踊り上がってしまう。
 自分でも子供みたいだと思うけど、そうやってはしゃいでいる私を見ている俊くんも、目を細めて嬉しそうにしていた。

 俊くんはああ言ってるけど、たまには、なんてとんでもない。
 病気のせいで、ひとりでは出歩くことができない私に、俊くんはすごく優しくしてくれていた。
 平日は仕事があって忙しいけど、週末にはこうやって私を外に連れて行ってくれて、いつも服やアクセサリーをプレゼントしてくれる。



 本当に、俊くんと会ってなかったら、私、どうなってたんだろう……?

 

 昔のことは、あまり思い出したくない。

 私は、お父さんのこともお母さんのことも覚えていない。
 ふたりとも、まだ私が小さい頃、物心がつく前に亡くなって、私は親戚の家に預けられて育った。
 そこでの思い出は、つらかったという印象しかない。
 毎日の、いじめに近い扱いに耐えかねてそこを飛び出したのは高校生の時だった。

 どこに行くあてもなく、心細くて泣きそうな思いで日の暮れた街を歩いていた。
 その時に、私は俊くん……木戸俊介と出会った。
 行き場のなかった家出娘の私を、俊くんは自分の部屋に泊めてくれた。
 最初は、いやらしいことをされるんじゃないかっていう不安があったけど、俊くんはそんなことはしなかった。
 それどころか、他に行くところがないのなら、しばらくの間泊まっていけばいいと言ってくれた。

 私は、俊くんのその言葉に甘えることにした。

 そして、俊くんの部屋に泊めてもらいながら、自分の力で暮らせるようにならなくちゃと思って仕事を探していた時、部屋の外でパニックになってしまったのだった。
 たまたま仕事帰りの俊くんが近くを通りかかってくれたから、そのまま私を部屋に連れて帰ってくれて、次の日に病院まで付き添ってくれた。
 詳しい仕組みは私にはよくわからないけど、子供の頃からひどい待遇を受けてきた精神的なショックが溜まっていたせいで、ひとりで知らない人の多いところに行くとパニック症状が出てしまうらしかった。
 そんな私を、俊くんは優しく看病してくれて、ずっと部屋に泊め続けてくれた。
 仕事で疲れているはずなのに、私のリハビリになればと、週末には私を街に連れ出してくれた。
 それに、不思議と俊くんが一緒だと、外に出ても症状が出なかった。

 そしていつしか、私は俊くんのことを好きになっていた。
 でも、それは当然のことだったのかもしれない。
 だって、いきなり部屋に転がり込んできた、身寄りのない家出娘の私に、俊くんはあんなに優しくしてくれた。私のことを、親身になって考えてくれた。
 俊くんのことを愛してるって、いつまでもここにいたいって私が言うと、俊くんは笑って頷いてくれた。
 そしてその夜、私は初めて俊くんと体を重ねた。
 その日から、私は俊くんの恋人に、居候ではなくて同棲相手になった。
 それから今日まで、幸せな日が続いている。
 まだ、ひとりで外に出ることはできないけど、私は俊くんと一緒にいられるだけで十分だった。









「いつまではしゃいでいるんだよ。ほら、中に入るぞ」
「うん!」

 俊くんと腕を組んで、私は店の中に入っていく。
 どこから見ても、ラブラブカップルな私たち。
 こうしているのが嬉しくて、他人の目なんて全く気にならない。

「あっ、ここにメンズアクセサリーもあるよ!ねっ、ねっ、俊くんのも買おうよ!」
「いや、俺はいいよ。こういうの似合わないし」
「そんなことないよー!ほらっ、これなんかどう?」
「似合わないよ」

 私が勧めても、俊くんの態度は素っ気ない。
 俊くんって、目つきがきつめだから真剣な顔をすると少しコワいけど、背が高くてしゅっとしてるしイケメンだから、絶対似合うと思うんだけどな。

「ほらほらっ、これも!これ、きっと俊くんに似合うって!」
「まったく……まいったな、真穂には……」

 俊くんの腕を掴んで、並んでいるアクセサリーを指さす。

 ……て、ん?
 ……あれ?

(ほらほらっ、これも!これ、きっと――さんに似合うって!)
(まったく……まいったな、真穂には……)

 なんだろう?
 こんなことが、前にもあったような気がする。
 同じような会話を、前にもしたような……。
 でも、アクセサリーじゃなくて、服かなんかだったような気がする。
 それに……相手は俊くんじゃないような気も……。
 あれは……誰?

「どうした?真穂?」

 気づくと、俊くんが真顔で私の顔を覗き込んでいた。

「え?あ、うん、なんでもない!」

 やだ、私ったら……。
 気のせいだよね?
 なにかで聞いたことがある。
 デジャヴ……既視感っていうの。
 初めて経験したことなのに、前にもおなじようなことをしたって感じることがあるって。
 きっと、それだよね。
 だって私、俊くん以外の人とこうやって買い物したことなんかないんだもの。

 でも、そんなこともあるよね。
 だって、毎週、週末にはこうやって俊くんと出かけてるんだもの。
 この店に来るのは初めてだけど、他の店で似たような会話をしたことがあったかもしれないし。

「そんなことよりも、ほら、俊くんも!」
「おいおい!」

 デジャヴを振り払うと、私は俊くんの腕をぐいっと引っぱった。






* * *







 夕方。
 部屋に戻ってくると、まずは買い物してきた荷物を置く。

「じゃあ、すぐにご飯作るね」

 晩ご飯の準備をしようと、脱いだ上着をハンガーに掛けてキッチンに行こうとした私の手を、俊くんが引っ張った。

「えっ?俊くん?……んっ!」

 そのまま、私を抱きしめて俊くんがキスしてきた。

「んふっ……んっ、むっ、んむっ……」

 唇の隙間から、俊くんの舌が入ってくる。
 今まで何度もそうやってきた、慣れ親しんだ感触が私の口の中をくすぐる。
 無意識のうちに、私も自分から舌を絡めていた。

「はむっ、んっ、んふ、んちゅ、ちゅぱ……」

 私の舌に、俊くんの舌がヌルッと絡みつく。
 少しくすぐったいような、ゾクゾクする感触が気持ちいい。

 俊くんの舌、温かい……。
 私、俊くんをいっぱいに感じてる。
 でも、もっと……。
 もっといっぱい俊くんを感じたいよ。

 舌を絡め合いながら、私からもぎゅっと俊くんを抱きしめる。

 ……こんなのじゃ足りないよ。
 もっと、もっと感じさせてよ。

 固く抱き合ってキスをしていると、体が熱くなってくる。
 こうしてるのもいいけど、もっと強い刺激が欲しくて、体の内側からじんと疼いてくる。
 そんな私の心を見透かしたように、俊くんの手がブラウスの上から胸を掴んだ。

「んっ、んんんっ!……んふうっ!」

 ビリビリと電気が走って、思わず唇を離してしまう。
 それにもかまわずに、俊くんの手が私の胸を捏ね回す。

「はうううんっ!あんっ、ふあああんっ!」

 俊くんの手に力が入るたびに走る、ビリってくる刺激に、どんどん体が熱くなっていく。
 頭の中がふわってなって、いやらしい気持ちが止まらなくなってしまう。

「んふぅううん……やぁ……ダメだよ。これ以上したら私、もっと俊くんが欲しくなっちゃう。俊くんとエッチしたいって思っちゃう」
「じゃあ、これからやろうか、真穂?」
「でも……ご飯作らないと……」
「そんなの、後でいいだろ」
「俊くん……んんっ!やああああぁんっ!」

 俊くんの手がスカートの中に入ってきて、ショーツの上からアソコをなぞった。
 疼いていたところを刺激されて、きゅうって体が締めつけられる。
 もう、私はこの、体をビリビリと駆け回る快感に身を任せていた。

「ほら、真穂だってこんなに濡れてるじゃないか」
「んん……だってぇ……」

 俊くんが意地悪なことを言うから、喘ぎながら唇を尖らせた。
 こんなに体を疼かされて、こんなに感じさせられたら、濡れちゃうに決まってるじゃないの。
 こうなってしまったら、もう自分でも止めることができない。

「やるか?真穂?」
「……うん」

 俊くんの言葉に、私はコクッと頷いていた。
 すうって俊くんの手が伸びてきて、私のブラウスのボタンを外していく。
 一度火がついた心と体は、ボタンがひとつ外されていくたびに期待が膨らんでいくのを止めることができない。

 俊くんが、私のブラウスを脱がせて、ブラを外す。
 次に、スカートのホックを外してファスナーを降ろすと、ふぁさっと軽い音を立てて足下にスカートが落ちる。

 もうすぐ、俊くんに気持ちよくしてもらえる……。

 身につけているものをひとつずつ脱がされていくごとに、俊くんとのセックスが近づいていく。
 自分でもエッチだなとは思うけど、そう思うだけでアソコの奥の方が熱くなってくる。

「ちゅっ……ちゅむ、れるっ……んふっ、んむふ……」

 俊くんに肩を抱かれてベッドに連れて行かれると、腰を下ろしてまたキスをする。
 
「んちゅっ……んっ、んんーっ!んっ、んむうっ!」

 キスをしながら、俊くんの手が胸に当たった。
 そのまま、ぎゅっと握ってきたかと思うと、乳首をコリッと摘ままれる。

「んんーっ、んんんんっ!」

 背骨をビリリッて走る刺激が、頭のてっぺんまで響いて目の前で光が弾ける。
 おっぱいを触られただけで、こんなに感じちゃうっていうのに……。

「……っ!はぁんっ!あんっ、俊くぅんんんっ!」

 俊くんの指がアソコのワレメをなぞったから、首をのけぞらせて喘いでしまう。
 体中を駆け抜けていく快感に、ビクンッて体が勝手に反応しちゃう。

「あんっ、はんっ!あっ、んふぅうんっ!」

 俊くんの指先が、くちゅっ、くちゅってワレメに沿って動く。
 ショーツの上からでも、溢れてきたおツユでぐっしょりとなってるのがわかる。

「やんっ、ああっ!俊くぅううん!わたしっ、もう我慢できないよぉっ!俊くんのが欲しくてっ、もうっ、もうっ!はんんんんっ!」

 俊くんの指が動くたびに、アソコがきゅんきゅんってなる。
 でも、火照った体はこのくらいじゃもう満足してくれない。
 いま、ビリビリきてるもっと奥を気持ちよくして欲しい。
 熱く疼いている、その奥に俊くんのを入れて欲しいって思っちゃう。

「ふっ……。こんなにぐっしょり濡らして、本当にいやらしいな、真穂は」
「ああんっ!だってぇ……んっ、やぁあんっ!」

 それはしょうがないよ……。
 だって私、こんなに俊くんのことが好きなんだもん。

 いつしか私は、俊くんにしがみついたまま、体の疼きに任せてお願いしていた。

「はんんんっ!ねえっ、俊くん!お願いっ、わたしっ、俊くんのが欲しくてっ、変になりそうなの!」
「本当に、しようがないな、真穂は。……そら」
「あんっ!」

 私をベッドの上に押し倒した俊くんの手がショーツを脱がせると、今度は自分のベルトを緩める。

「じゃあ、行くよ、真穂」
「うんっ!きてっ、俊くん!」

 俊くんの手が、私の足を押し広げていく。
 もう、私はアソコに俊くんのものを入れてもらうことしか頭になかった。

 私の足を掴む俊くんの手に、力が入る。
 そして、アソコの入り口に固くて熱いものが当たる。
 胸の高鳴りを抑えきれずに目を閉じた私のアソコをかきわけて、俊くんの逞しいのが入ってきた。

「んふううううっ!ああっ、あふぅううううううん!」

 アソコの内側を擦られただけで、軽くイッしまった。
 体がきゅうって反り返って、全身が打ち震えるこの快感。私の中が、俊くんので満たされていく、この満ち足りた感覚。
 それだけでも十分すぎるくらいなのに、それが私の中で動き始めると、快感はさらに膨らんでいく。

「あんっ!あっ、ああっ、感じるっ!俊くんのおっきいの、アソコの中でいっぱいに感じるよっ!あんっ、はうっ!」

 俊くんがちょっと動いただけで、気持ちよすぎてわけがわからなくなる。
 さっきからずっと欲しかったものを与えられて、全身が喜んでる。

「そんなに大きいか?俺のは?」
「ううんっ、知らないよぉっ!でもっ、わたしっ、俊くんじゃないとダメなのっ!俊くんのっ、こんなに奥まで届いてっ!ああっ、ふわぁあああああっ!」

 本当に、そんなのわからない。
 だって、私は俊くんのしか知らないもん。
 でも、だからこそ、私のアソコは俊くんの形にさせられちゃってるんだと思う。
 私の体は、俊くんのもの。俊くん専用のものなの。
 だから、きっと俊くんのが一番気持ちいいと思う。

「あんっ!んんっ、イイッ、イイよぉっ!俊くんのが奥まで当たってっ、気持ちイイッ!」

 俊くんにしがみついて、私は自分から腰を動かし始める。

「まったく、真穂は本当にいやらしいな。真穂のここ、俺のを咥えこんでこんなに涎垂らしてるぜ」
「やんっ!だってぇ……こんなに気持ちいいんだもん!気持ちよすぎてっ、いやらしくもなっちゃうよぉ!」

 それは、自分でもいやらしいとは思う。
 でも、こうなってしまったらもう止められない。
 それだけ、私は俊くんのことが好きなんだなって実感する。
 大好きな人とセックスするのって、こんなに気持ちよくて、こんなに幸せな気持ちになれる。

「あんっ、イイッ!気持ちいいよっ、俊くんっ!あうんっ、そこっ!ああっ、好きだよっ、俊くぅんんんっ!」

 俊くんので奥に当たるほど突かれて、痺れるほどの快感が全身を包み込んでいく。
 私は、夢中になって腰を振り続けた。






* * *







 翌日。

 朝、仕事に行く俊くんを見送ると、まず、洗濯を済ませてから掃除機をかける。
 俊くんと一日中ふたりでいられた週末が終わると、また、こうやって昼間は家の中でひとりですごす日々が始まる。
 この生活も、もうすっかり慣れっこになった。
 それは、外に出ることができない不自由さは感じるけど、それほど不便は感じない。



 ――ピンポーン。



 インターホンが鳴ったのでモニターを見ると、顔なじみの宅配のおじさんの顔が映っていた。

「いつもお世話になってます、宅配サービスです!」
「はいっ、今開けますね」

 私は、ボタンを押すとオートロックを開けた。

 最近は、外に出かけなくても、野菜やお肉といった食材や日用品を宅配してくれるサービスがある。
 全部、私のために俊くんが手配してくれて、私は要るものを注文するだけでいい。
 だから、家の外に出ることができなくても平気だった。




 届いた食材を冷蔵庫に入れてから、お昼にする。
 外はいい天気で、ベランダから差し込む日射しが心地いい。
 こんな日に外に出られないのは残念だけど、いつパニックの発作が出るかわからないからしかたがないと思う。

 だからいつも、平日の午後は本を読んだり、テレビを見たり、後は室内でできるエクササイズをしたりしてすごしている。

 だけどその日は、俊くんに買ってもらった洋服やアクセサリーを身につけてみる。
 あれこれと組み合わせを変えて鏡の前でポーズをとると、それだけで頬が緩んでしまう。

 うんっ、次の週末にはこれを着てお出かけしようっと。
 きっと、俊くんも喜んでくれるよね。

 ひととおり身につけてみて、週末に俊くんと出かけるときの組み合わせを決めて、つけっぱなしにしてあったテレビの前に戻る。
 画面では、女性アナウンサーが午後のニュースを読んでいた。

『……警察の発表によると、竹下さんには多額の借金があったことがわかっており、竹下さんが借金を苦に自殺した可能性もあると警察は関連について調べています……』

「……っ!?」

 何気なくテレビを見ていたら、いきなりドクンッて心臓が飛び出しそうになった。
 そして今度は、痛いくらいに締めつけられる。

 やだ?なに?なんなの……?

 自分でも理由がわからないけど、ドキドキと心臓が早鳴っている。
 言いようのない不安がこみ上げてきて、パニックになりそうでその場に蹲った。

 これ、発作だわ……。
 お薬……お薬を飲まないと……。

 外に出なくても、家の中にいる時でもたまに発作が出ることがある。
 自分でも何がきっかけになってるのかよくわからないけど、動悸が激しくなって、原因不明の不安感に襲われる。
 そんな時のためにと、俊くんがお医者さんからもらってきたお薬があった。
 早く……急いであれを……。

 這うようにして、俊くんが置いていってくれた錠剤を棚から取り出すと、数粒口に含む。
 それを水で流し込むと、その場にペタンと座り込んで大きく深呼吸した。
 まだ、心臓はバクバクとなっていて、不安が頭の中で渦巻いている。

 でも、そうしているうちにお薬が効いてきたのか、不安もだいぶ収まってきた。
 早鐘のように鳴っていた心臓も、今は落ち着いた。

 その代わり、少し眠くなってきたみたい。
 お薬のせいなのか、体がだるくなって頭がぼんやりしてくる気がする。

 ちょっとだけ、横になろうかな……。

 私は、重たい体を引きずるようにして、ベッドの中にもぐり込んだ。

















「真穂……おい、真穂……」
「……ん?……あ、俊くん」

 体を揺さぶられて目を覚ますと、俊くんが心配そうにこっちを覗き込んでいた。
 時計を見ると、もう夜の7時前だった。
 ちょっと横になるだけのつもりだったのに、すっかり寝入っちゃってたみたい。

「今日は、お仕事早かったんだね」
「ああ。それより……発作が出たのか、真穂?」
「うん。それで、お薬飲んだら眠くなっちゃって、横になってたら眠っちゃった。……すぐにご飯作るね」
「大丈夫か?あまり無理はするなよ」
「大丈夫大丈夫!一眠りしたらすっかり良くなったから」

 体を起こすと、ベッドから降りてキッチンに向かう。
 俊くんはまだ心配そうにしてるけど、本当にもうだいぶ良くなっていた。

 それに、お仕事で疲れてる俊くんにおいしいもの食べてもらって、元気をつけてもらわないと。






 キッチンに入ると、まずはご飯を炊く準備をする。
 そして、ジャーのスイッチを入れると炊きあがるまでの間に手際よくおかずを作っていく。






「はいっ!ご飯できたよ、俊くん!」
「おいおい、無理するなって言ったのに、ちょっと張り切りすぎなんじゃないか?」
「だって、俊くんはお仕事頑張ってるんだからいっぱい食べないとダメだよ!」

(だって、――さんはお仕事頑張ってるんだからいっぱい食べないとダメだよ!)

 あれ?まただ……また、デジャヴが……。
 こんな会話が、前にもあったような……。
 でも、さっきちらっと頭の中に浮かんだ光景……。
 あれは、この部屋じゃなかった。
 それに、相手は俊くんじゃなかった気も。
 あれは……誰?

「どうしたんだ、真穂?」
「ううん、何でもない。……じゃあ、ご飯をよそってあげるね、お父さん!」

 ……え?
 今、私、お父さんって言った?
 なんで、そんな……?
 私のお父さんは、小さい頃に死んじゃってるはずなのに、なんで?
 でも、なんでだろう?
 私……お父さんとふたりで暮らしてたような気がする。
 そんなはずないのに……。

 だったら、どうして?

「おい、真穂?」
「俊……くん……?」

 すっかり混乱した状態で俊くんの顔を見る。
 ……あれ?
 俊くんが、なんかいつもと違って見える。
 この人は、俊くんだよね?
 私の一番大切な人だよね?

 なのに、別な感情が、別な記憶が湧き上がってくる。

 この人は?
 この人は……。

















 私……?
 私はいったい……?

 ……あれは、いつのことだったろうか。

 その日、学校から帰ってくると、私の家から出てきた人と鉢合わせした。
 スーツを着て、濃いサングラスをかけた男の人。

「あっ、すみません……」

 私の方が道を譲ると、その人は立ち止まってサングラスを外した。
 その顔は、最初の印象よりもずっと若く見えた。
 たぶん、まだ20代の後半くらいだと思う。
 だけど、私を見るその視線は怖いくらいに鋭かった。

 その目が、じっと私を見つめていた。

「あの……どうかしましたか……?」

 相手の視線に耐えかねて、私の方から口を開く。

「いや、なんでもない」

 それだけ言うと、その人はサングラスをかけ直してその場から立ち去っていった。







 その男が借金取りだということは、後になってわかった。
 父さんが経営している小さな会社の資金繰りが苦しくなって、そんな会社に銀行がお金を貸してくれるわけもなくて、ヤミ金融、ていうのからお金を借りたらしい。
 その後も会社の経営状態は思わしくなくて、結局お金を返す期限が過ぎてしまっても返せず、あの日、家まで督促に来た時に私があの男とばったり出会ってしまったのだった。

 だけど、父さんの会社はますます苦しくなる一方で、もちろん借金も返すことはできないみたいだった。

 そして、それから程なくして、昼となく夜となく返済の督促に人が来るようになった。
 柄の悪い男がいつも家の周りをうろつくようになって、私は怖くて外も出歩けなかった。
 父さんの会社の方にも借金取りが来ていたみたいで、そんなことが続いたある日、父さんは会社で首を縊ったのだった。

 会社の人から連絡を受けて駆けつけた私は、その場にへたり込んで泣き続けた。
 いくら泣いても涙は止まることなく、一生分の涙が出てしまうかと思うくらい泣き続けた。

 警察への連絡と対応は、会社の人がしてくれた。
 そして、近所の人と会社の人のおかげでお通夜と葬儀を済ませて、私は本当に空っぽになってしまった。
 どれだけ悲しくても、もう、涙も出てこない。

 小さい頃に母さんを亡くした私を、父さんは男手ひとつで育ててくれていた。
 厳しいところもあるけど、本当に優しくて、私は父さんのことが大好きだった。



(ほらほらっ、これも!これ、きっとお父さんに似合うって!)
(まったく……まいったな、真穂には……)

 私の選んだ服を見て、少し照れくさそうにしてる父さん。
 父さんとは、ああやってよく買い物に出かけていたっけ……。

(だって、お父さんはお仕事頑張ってるんだからいっぱい食べないとダメだよ!)
(うんうん。ありがとう、真穂)

 うちは母さんがいなかったから、家事は私がしていた。
 私の作ったご飯を、いつも父さんは喜んで食べてくれてた。

 そんな、父さんとの思い出ばかりが浮かんできて、胸が締めつけられる。



 その父さんが、借金のせいで私ひとりを残して逝ってしまったなんて、とても信じることができなかった。

 ひどいよ、父さん……。
 私、これからどうしたらいいの……?

 頼りになる親戚もいない私は、途方に暮れるしかなかった。
 夜もろくに横になることもなく、仏壇の前で呆然としているだけだった。

 そんな状態だったから、その晩、少しうつらうつらしていたんだと思う。

「おい」

 男の人の声で、目が覚めた。
 まだ、弔問の人が訪ねてくるかもしれないから、玄関の鍵は開けたままだったことを思い出した。
 実際、その時は弔問の人が来たと思ったのだった。

「どうも、このたびは父のために……あっ!」

 慌てて頭を下げてから、その相手を見た私は言葉を失ってしまった。

 そこには、あの借金取りが私を見下ろしていた。

「あなた!いったい何をしにきたの!あなたのせいで父さんは!」
「ふん。借りた金を返さない方が悪いんだろうが。くそっ、忌々しい。金を借りたままで自殺しやがるなんてよ」
「だからっ!それもこれもあなたのせいでしょ!」
「何度も言わせるな。元はと言えば金を借りたこいつが悪いんだからよ」

 罵りの言葉を浴びせても、その男は悪びれる様子もなかった。
 激高した私が立ち上がって平手打ちをしても、そいつは平然と笑っていた。

「なに言ってるのよ!あなたなんかに弔問に来てもらいたくないわ!出て行ってよ!」
「別に、俺は弔問に来たわけじゃないんでな」
「だったら何を!?」
「こいつの借りた三千万円の穴埋めくらいはしてもらわないとな」
「そんな……三千万円なんて、そんな大金あるわけないじゃない!」
「ああ、そうみたいだな。だから、代わりのもので返してもらうさ」
「代わりのものって!?」
「そうだな……うちは生憎と正式に財産の差し押さえなんかできる身分じゃないんでね」
「なにを言って…………うぅっ!?」

 いきなり、お腹のあたりに強烈な衝撃と痛みを感じたか思うと、目の前の景色が霞んでいって、そのまま私は意識を失ってしまったのだった。
























「ん……」

 腕のあたりに、チクッとした痛みを感じて目を覚ました。

 ここは……どこ?

 私がいたのは、薄暗い、殺風景なところだった。

「んっ、くうっ!?」

 体を動かそうとして、自分の体が椅子に括りつけられていることに気がついた。

「お目覚めかな?」
「えっ、やっ、誰よっ、あなたは!?」

 目の前に、白衣を着た中年の男が立っていた。
 そして、その背後にあの借金取りの姿もあった。

「ちょっと!なんのつもりなのよ!?離して!離してよ!」
「暴れちゃダメだよ。静かにするんだ」
「いやっ!離してよ!」
「静かにして!これを見つめるんだ!」

 白衣の男がきつい口調でそう言って、ライターの炎を目の前に突きだしてきたから、思わずそれを見つめてしまった。

「うっ!?うう?」
「ほら、もうきみはこの炎から視線を逸らすことができない。じっとこの炎を見つめて」
「な、何を言ってるの!?……うん?……う、ううぅ……?」

 男の言うとおりに、炎から目を逸らすことができない。
 それに、今、くらくらって目眩がした。

「うんうん。さっき打った薬が効いてきたみたいだね」
「薬って……私に……なにをしたの……?」

 急に頭の中がぼんやりしてきて、思考が鈍ってくる。

「いやなに、意識を混濁させて、被暗示性を高める薬をね」
「なによ……それは……?私を……どうするつもりなの……?」

 だめ、頭の中がふらふらしてる。
 そのせいで、なにも考えられない……。

「きみはなにも考えなくていい。ただ、この炎を見つめていればいいんだよ。そうして見つめてると、すごく気持ちが良くなってくるから」
「この……炎を……」
「そうだよ。ほら、じっと炎を見ていると気持ちがいいだろう」
「……うん」

 なんだかよくわからないけど、ゆらゆらと揺れる炎を見ていると全身がふわぁってなって、すごく気持ちよく感じる。

「炎を見つめていると、すごく気持ちよくなって、この声がすうっと心の中に入ってくるよ」
「……うん」

 本当に、こうやってると、すごく気持ちいい。

「ほら、もうきみにはこの声しか聞こえないよ」
「……うん」
「きみには、この声が全てだよ」
「……うん」

 うん、私には、この声が全て……。
 なにも考えずに、聞こえている声に身を任せているのが心地いい。

「だから、炎を見つめながらこの声に言われたことは、全てきみにとって本当のことになるよ。過去のことも、未来のことも」
「……うん」

 炎を見つめながらこの声に言われたことは、全て私にとって本当のことになる……。
 過去のことも、未来のことも……。
 私は、なにも考えなくていいんだ……。

「じゃあ、いいかい。今のその楽な気持ちで、この声に全てを任せるんだ」
「……うん」
「まず、きみのお父さんはどうしたのかな?」
「私の……お父さんは……自殺したの。借金を苦にして……首を縊って……」

 炎を見つめながら、その声の質問に答える。
 本当なら、胸が張り裂けそうなその質問に答えているのに、不思議なくらいに気持ちがいい。

 だけど、本当のことを言ったのに、返ってきた言葉にそれを否定されてしまった。

「違うよ」
「……え?」
「きみのお父さんは、きみが小さい頃に死んでしまったんだよ」
「……そんな?でも……」
「いいや。そうなんだよ」

 その声が、力強くそう言った。

 ……そうだ。
 この声に言われたことは、私にとって本当のことなんだ。
 私の記憶よりも、この声の方が正しいんだから。

「きみのお父さんは、きみが小さい頃に死んでしまったんだよ」
「……うん」

 この声がそう言うんだから、きっとそうなんだ。
 私のお父さんは、私が小さい頃に死んでしまった。

 ……ん?
 なにかおかしいかな?
 でも、どこがおかしいのかよくわからない。
 ……まあいいや。

 本当は、忘れたらいけない大切なことがあるような気がするけど、この声には抗えない。

 この声の言うことを疑ったらだめ。
 私はなにも考えないで、この声に従っていればいいんだから。

「じゃあ、声に出して言ってみようか。そうすれば、それはきみの中で真実になるから。きみのお父さんもお母さんも、きみが小さい時に亡くなって、きみはお父さんのこともお母さんのことも、なにも覚えていない」
「……私のお父さんもお母さんも、私が小さい時に亡くなって、私はお父さんのこともお母さんのことも、なにも覚えていない」

 そうよ……お父さんもお母さんも、私が小さい時に死んでしまって、私はふたりのことをなにも覚えてない……。

 自分で言った言葉が、私の心の中に染みこんで溶けていく。
 水の中に落ちたインクが広がっていくように、心の隅々まで行き渡っていく。

「じゃあ、次だよ。きみは、親戚の家に預けられて、そこでいじめられて育った」
「……私は、親戚の家に預けられて、そこでいじめられて育った」

 炎をじっと見つめたまま、私はその声の言うことを繰り返す。
 そのたびに、私の心の中に新しい真実が注ぎ込まれていく。

「じゃあ、次だよ、いいかい?」
「……うん」

 私は、ぼんやりと炎を見つめたまま、自分の全てをその言葉に委ねた。

















 ……あれは、いつのことだったんだろう?
 あの時、自分の身に何があったんだろう?


 私はいったい……?
 今……私の目の前にいるこの人は?

 ……そう。
 この、背の高い、少し目つきの鋭い人。

 この人は……誰?

 ……っ!この男は!

 目の前に立つ男の姿に、ぼやけていた視線の焦点がゆっくりと絞られていく。
 頭がふらついて、とりとめのなかった思考が、急にクリアになる。
 その瞬間、思わず立ち上がって叫んでいた。

「なんであなたがここにいるのよ!?」

 そうだ。
 今、私の目の前にいるこの男は、お父さんを自殺に追い込んだ男。
 いくら憎んでも、憎み足りない相手がそこにいた。

 でも、どうしてこの男がここに!?

「どうしてあんたがここにっ!……て、えええっ?」

 ここは、私の家じゃない。
 ここは……どこ?

 今いる場所が、自分の家じゃないことに気づいて、私は戸惑いの声を上げる。

 テーブルの上に、湯気を上げた料理が並んでいる。
 私、この男とご飯を食べていたの?
 父さんの仇の、この男と……?

「そんなことって……?俊……くん……?」

 えっ!?
 私……俊くんって?……今のは、いったいなに?
 俊くんって?この男のこと?

 私の中に、私のじゃない別な記憶があるみたい!?

「やあっ、なにっ!?なんなのよ、これは!?」

 この男は、憎い相手なのに。
 そのはずなのに、自分がこの男と一緒に暮らしていた、この男と愛し合っていたという異様な記憶があった。

 まるで、自分の中に、別の人間の記憶があるみたいに。

「あなたっ!私にいったい何をしたの!?」

 すっかり混乱して、私は頭を抱える。

 よくわからないけど、私はこの男に何かおかしなことをされたんだ。
 混乱した頭でも、それだけはわかる。

 だけど、そいつは黙って私を見ているだけで、なにも言わない。

 と、いきなり目の前にライターの炎が突き出された。
 そして、その男が口を開いた。

「さあ、これを見つめるんだ、真穂」
「う……」

 まるで、体が勝手に反応するみたいにその炎を見つめてしまう。
 どうしてかわからないけど、そこから視線を逸らすことができない。

「さあ、この炎を見つめたまま腰を下ろして、気持ちを楽にしていくんだ」
「う、うう……」

 じっと炎を見つめたまま、椅子に腰を下ろす。
 炎を見つめていると、頭の中がふわっとしてきて、すごく気持ちよくなってくる。

「さあ、もっと気持ちを楽にして。真穂は、なにも考えなくていいから」

 ……うん。
 私は、なにも考えなくていいの……。

 体から力が抜けて、なにも考えられなくなっていく。
 炎を見つめたまま、どんどん思考が鈍っていって、また視界が歪んでいく。
 もう、ゆらゆらと揺れる炎の輪郭しか捉えることができない。

 そのまま、じっとその炎を見つめる私に、その男の声が降りかかってきた。

「”頭の中をリセットするんだ、真穂”」
「あ……ああ……」

 その言葉を聞いた瞬間、砂の城が波に呑まれるように私の記憶が崩れ落ちていく。
 忘れたらいけないはずの記憶が、全部溶けて抜け落ちていく。
 父さんとの大事な思い出も、全て……。

 そして、私の頭の中は真っ白になっていった。






* * *







 椅子に座ってぐったりとしたまま、ぼんやりとライターの炎を見つめている真穂を、俊介はじっと見つめていた。

 真穂は、彼が金を貸した相手の娘だった。
 金を貸した相手がなかなか金を返せないというのは、それまでもよくあることだった。
 そもそも、簡単に返済できるような人間は彼のところに金を借りには来ない。
 他のどこからも借りる当てがなくなるまで追い詰められてはじめて、彼のような闇社会で生きる金貸しのところに来るのだから。

 その家に返済の督促に行った時に、偶然真穂と出会い、彼は真穂に惚れてしまった。
 その頃はまだ子供っぽい雰囲気を残していたが、真穂は彼好みの申し分のない美人だった。
 もっと色気が出たら、たまらなくいい女になりそうな予感を感じさせた。

 もちろん、最初から彼女を借金の形に自分のものにしようと考えていたわけではなかった。
 だが、その相手が自殺したと聞いた時に、まず頭に浮かんだのは貸した金のことよりも真穂のことだった。
 どうせ、金を回収できる見込みはほとんどない。
 それくらいなら、彼女を手に入れた方がよっぽど価値があるように思えた。
 どのみち、両親に先立たれて、このままだと行くあてもなくなるような娘だ。
 それなら、自分のものにしてやった方がよっぽどその娘のためにもなる。

 幸い、裏社会の仕事つながりで、俊介は面白い男を知っていた。
 表向きは心理カウンセラーの看板を掲げているが、裏の稼業で、催眠術を使った洗脳や人間の記憶の操作をしているという男だった。

 あまりにも怪しげな話なので半信半疑ではあったが、とにかく彼は真穂をその男のところに連れて行った。

 そこで、その男が真穂の記憶を書き換えていく一部始終を、俊介はその場で見ていた。
 男は手際よく、俊介の注文通りに真穂を洗脳していった。
 たしかに、その手腕には驚かずにはいられなかったのだが……。

「……万が一もとの記憶が戻った時のためにって、リセットする方法も仕込んでもらったけどよ。なにが万が一の時のためだよ。この4年間でもう9度目だぜ。まったく、これじゃあ危なっかしくてひとりで外を歩かせるわけにはいかないじゃねぇか」

 ライターを握ったまま、俊介は独りごちる。
 病気の発作が出るからひとりで外に出てはいけないという暗示は、最初は警察や関係者に見つかるとまずいと思ったから仕込ませたものだ。
 実際には彼女はそんな病気ではなかったのだが、間もなく、皮肉にも発作よりももっとたちの悪い事態が発生することがわかった。
 彼女本来の記憶が戻るという事態が。
 何かのきっかけで、自意識の彼方に追いやったはずの真穂の記憶が揺り戻されることがしばしばあった。
 そういうことが起こることは、彼女の記憶を弄った男も想定していたらしく、その時の対処法を設定していた。
 だが、対処法があるとは言っても、この不安定な洗脳がいつ解けるかもしれないと思うと、彼女をおちおちひとりで外出させる訳にはいかなかった。
 俊介も、日頃から真穂の記憶が戻りそうな兆候には気を配っていたし、そうなりそうな時には発作を抑える薬だといって睡眠薬を真穂に飲ませるようにしていた。
 おかげで今まで大事には至らないできたのだが、それは多分に幸運によるものが大きかった。

 もし、俊介の外出中、真穂がひとりだけの時に彼女の記憶が戻ってしまったら……。
 
「まったく、あいつもかなりの額をぶんどったくせにこの程度かよ。そうだな……今度、クレームをつけてもう一度、解けないようにしっかりと暗示を仕込んでもらうとするか」

 そう、吐き捨てるように呟く俊介。

 たしかに、彼女を手に入れた経緯は非道なものだったが、彼は彼なりに真穂のことを大切に思っていたのは事実だった。
 彼が思ったとおり、真穂は最高の女だった。
 その容姿も、ベッドの上での振る舞いも、何から何まで俊介の好みの女になった。
 だから、俊介は絶対に真穂を手放すつもりはなかった。
 たとえ、どんなことをしても、どれだけの代償を払ってでも。



「そろそろ10分経つな……」



 俊介は、腕時計に目を遣る。
 あの男が仕込んだ、真穂の記憶をリセットする方法。
 甦った真穂の本来の記憶を消し去り、その直前までの俊介との記憶を、できうる範囲で再構築するまでに約10分かかるとあの男は言った。

 その時間を見計らうと、俊介は真穂を自分のものに戻す最後のキーワードを口にした。

「”帰っておいで、俺の、俺だけの真穂”」






* * *







「あれ、私……?」

 気がつくと、私はぐったりと椅子に座っていた。
 そんな私を、俊くんがじっと見守っている。

「俊くん……。私、もしかして発作が出ちゃったの?」
「ああ」

 私の問いに、俊くんは短く頷く。
 テーブルの上には、すっかりご飯の準備ができていたけどそれまでの記憶が抜け落ちていた。

 私、ご飯を食べてる途中で発作が出ちゃったのかな?
 ひどい発作が出た時はいつもそうだけど、その前のことからなにも覚えてない。
 
「大丈夫か、真穂?」

 心配そうな表情で俊くんが訊ねてくる。

 まただ……。
 俊くん、本当に心配そうな顔してる。
 私が発作を起こすたびに、俊くんには心配をかけてる。
 俊くんは優しいから絶対にそうは言わないけど、私、俊くんにいっつも迷惑ばっかりかけてる。

 大好きな人をそんなに心配させてしまったと思うだけで、胸が張り裂けそうになる。

「うん、もう大丈夫。……心配かけてごめんね、俊くん」
「いや、いいんだよ、真穂」
「俊くん……」

 ひと言謝って項垂れた私を、俊くんがぎゅっと抱きしめた。
 そして、そのままキスしてくる。

「んっ、ちゅっ……」

 ああ……俊くん……。

 俊くんの温もりが、そして、その唇の柔らかい感触が、たまらなく愛おしい。
 俊くんに抱きしめられて、こうやってキスしてると本当に安心できる。
 一番大切な人に守られている、この安心感。
 この人と一緒にいると、こんなに幸せな気持ちになれる。

「んっ、んむっ……ちゅるっ、んんっ……んんんんっ!」

 私の体を抱いたまま立ち上がらせると、俊くんの手が私の体を優しくなで回していく。

「んふうぅ……はぁ……もう、俊くん……ご飯が冷めちゃうよぉ……」
「かまわないさ」
「俊くん……」

 キスだけですっかり蕩けてしまいそうになってしまった私を、俊くんはもう一度力強く抱きしめてきた。
 まるで、もう二度と離さないとでもいうようにがっしりと。

 でも、私も俊くんから離れたくない。

「愛してるよ、真穂」
「……うん、私も」

 私も、俊くんを愛してる。
 だから、いつまでも、どんなことがあっても一緒だよ……。

 そんな思いを込めて、私も最愛の人をぎゅっと抱き返したのだった。

 
 
< 完 >


 

 

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