キャッツ・アイ


 

 

〜ノアの方舟 Noah’s Arc〜 前編




―――遥か昔、全知にして全能の神は、彼らの住まう世界より彼方の下界に、新たな命を創り出した。神々のような偉大な力は持たず、身体も心も、敢えて未発達のまま生み出されたその命は、全能なる神にとっての、新しい世界を導く可能性を秘めた存在であった。堅実で忠実で、空の彼方に住む神々の元に信心深くあれと願い、全能なる神はその命に途方も無く広い海と大地を与えた。

 しかし、全能なる神の願い虚しく、それらの命の中には、体が鍛えられ、知恵が付くに伴って、神から与え賜ったその限りない世界を、一切全て我がものにせんと企てる者も現れた。邪(よこしま)な欲望に取り憑かれた彼らは、やがて争いを始め、他を自らの支配下に置くと、力を欲望のままに振りかざし、まるで荒ぶる神の如く振る舞った。そうした争いはまた別の争いを生み、いつしか下界は、争いのみが広がる混沌とした風景に染まった。

 自らの試みの、そんな結末を嘆いた全能なる神は、大雨を降らせて下界を海の底に沈め、全てを無に還そうと決めた。その時、神はある一つの命を見つけた。それは、神がかつて望んだような、邪悪な欲に染まらず、謙虚で誠実で、勤勉な命であった。
 神は、その命に次なる希望を託すことにした。神はその命に告げた。大洪水が起こる前に、お前と、お前の選んだ仲間と、その家畜たちが全て乗り込める舟を作ることが出来たなら、お前達を新たな世界へ連れて行こう。そして、それを新たな命の始まりとしよう。と。―――


 数年前 K大学 中庭―――

 昼休み、中庭に行くと、いつものように、彼が広場の噴水の傍で屈みこみ、何かしていた。彼の足元に何がいるのかは大体見当がついたが、足音を抑えようともせず近付くと、彼の足元の小さな白い影は、サッと近くの植え込みの中に消えてしまった。
 溜め息と共に彼は立ち上がると、こちらを振り返った。
「アイツは警戒心が強いんだ。『僕ともう一人』以外にはね」
 そう言う彼の言葉を無視して、鋭い口調で問い詰めた。
「大学院に進まないって、本当かよ」
 彼は一瞬表情を曇らせた。
「もう、伝わってるのか」
「ゼミ生の間では持ちきりだぜ」

 すると彼は、驚いたことに、清々しい笑みを浮かべて頷いた。
「もう、行く必要はなくなったんだ」
 耳を疑った。
「どういうことだ」思わず言葉に熱がこもる。「大学院で論文を書けば、兄貴なら間違いなく海外の一流の研究施設が食いついてくる。そうしたら、俺達の夢も・・・」
 その言葉を遮るように、彼は無言で首を振った。
「ゴメン、それはもう、必要無いんだ」

 ザワザワと吹き抜ける秋の風が、心の中をうっとうしく掻き鳴らすようだった。
「僕は、医者になる」
 彼の一言は、よく聞こえなかった。反応を示さない自分に、彼は続け様に言った。
「精神医療の診療所を開いて、ストレスや心の病気に悩む人達を助けたいんだ。今の時代、心を病んでいる人達は大勢いる。そういった人の心の支えになりたい」

 突風はもう止んだが、心の中のザワザワはより一層激しくなっていた。尚も反応の無い自分に、彼は少し息を吐いて言った。
「それが、今の僕の夢だ」
 笑みを浮かべた彼の目は、大きな決断をした、強い光を持っていた。
 勝ち誇ったような顔だった。
「あ、いたいた」
 不意に声がして、一人の女性が現れた。腕の中には、雪のように白い猫を抱いている。

「シロが走って来たから、もしかしてここにいるんじゃないかと思って」
 女性の声は、自分ではなく彼に向けられている。
「猫の名前にシロはおかしいって言ったろ」
 楽しそうに言う彼の声は、自分ではなく彼女に向けられている。
「だって、真っ白なんだから、シロが合ってるでしょ。ねー」
 腕の中で大人しくしている猫に、彼女が言った。
 こんな猫でさえ取り巻かれる、幸せそうな会話に、自分は完全にカヤの外だった。

「あ、丸山教授が読んでたわよ。進路のことで話があるんだって」
「わかった。行こうか」
 そう言って、立ち去り際、彼はもう一度自分の方を見た。そして笑った。
「研究者になる方の夢は、お前に託す。お前ならできる。頑張れよ」

「お友達?」
「弟だよ。一つ下の」
 二人は立ち去り、後には立ち尽くす自分だけが残った。
 捨て残すように言った彼の言葉が、その表情が、ずっと心の中に焼き付いた。
 ザワザワ、ザワザワ、一瞬の間に見た色んな光景が、耳障りな音を立てて胸の中を這えずり回る。

 笑った。笑った。笑った。俺を笑った。

 今の夢? それは挫折の結果じゃないか。
 必要無い? それは今、俺が必死に追い求めているものだ。
 俺に託す? 一緒に研究者になろうって決めたくせに。

 嘲(わら)った。嘲った。嘲った。オレを嘲った。

 自分は崇高な決断者だと思い込んでいるだけのクセに、昔からの目標にこだわるオレを。
 自由な人生へ解放されたと思い込んでいるだけのクセに、立ちふさがる壁の前でもがくオレを。
 平凡な生きざまに堕ちているだけのクセに、高みを目指し歩くオレを。

 わらった。わらった。わらった。おれをわらった。

 どうせあの女に、たぶらかされたのだ。
 どうせそんな自分が、格好いいと思っているのだ。
 どうせ昔、おれを見下し続けていた、あの頃と変わっていなかったのだ。

 何かが、音を立てて壊れた。

 いいさ。だったら、研究者になってやるよ。
 この手で最強の研究を完成させて見返してやるよ。
 あの女を選んだお前も。
 お前を選んだあの女も。
 オレにだけ懐かないあの猫も。
 全部オレの思うままにしてやる!

 気付かぬうちに、口元に歪んだ笑みが浮かんでいた。


 現在 某所 PM23:00――――――

「ご主人様」
 ミカコの声で、有紀は目を見開いた。椅子に座ったまま、眠っていたらしい。
 嫌な夢を見た。背中と額にはじっとりと汗が滲んでいた。
「どうした。ミカコ」
 有紀は息を整え、ミユキに尋ねた。
 ミカコは「猫のポーズ」で跪いたまま応えた。
「例の三匹が到着致しました」

 夢のせいで、少し苛立っていたが、その報告に有紀の心は僅かに躍った。
「広間に通せ」
「かしこまりました。ご主人様」
 ミカコは機械的に応えると、部屋を後にした。有紀は近くの棚からバーボンを取り出すと、グラスに注いで、ストレートのまま一気に飲み干した。
 グラスを乱暴にテーブルに置き、スーツの袖でグイッと口元を拭うと、彼も広間へと向かった。


 T区内 岡崎直紀の車内 PM23:00――――――

「どういう事なんだよ、岡崎さん」
 助手席に座る岸田の声は震えていた。それが怒りなのか否か、直紀には判断しかねるところだが、彼がいつになく動揺しているのは確かだ。
「なんだって千夏が・・・」
「恐らく、彼女は巻き込まれてしまったんでしょう」
 ハンドルを握っている直紀は、努めて冷静に言った。視線は目の前を駆け抜ける景色から離さない。
「弟の目的は、沙良だったはずです」
「あんたの婚約者か」

 直紀は小さく頷いた。
「沙良とは、大学のゼミで一緒だったんです。大学三年の秋に交際を始めました。弟もそのことを知っています。女性を誘拐し、洗脳する。こんな馬鹿げた計画を実行し始めた時から、奴は沙良を標的にしていたんでしょう」
「千夏は知り合いの看護師の家に遊びに行っていた。その人と、その彼氏の三人で夕食を食べるはずだったんだ」
「それが沙良です。僕も仕事が終わり次第、彼女の家に向かう約束でした。決着を付けに行くのを明日にしてもらったのは、そういう訳だったんです」

「だが偶然にも、アンタの弟が、今日、あんたの女を連れ去りに来た訳だ」
「一歩遅かった。僕が沙良の家に到着した時には、もうモヌケの殻でした。どういう手を使ったのかは分からないけれど、奴は沙良を手中に収め、たまたま居合わせたお嬢さんも、一緒に連れ去ったんです」
「なんてことだ・・・」
 岸田は組んだ両手で、額を小突いた。直紀には、彼が自分自身を責めているようにも見えた。

「僕の責任です」直紀が小さく言った。「娘さんまで巻き込んでしまって、申し訳ありません」
「別にアンタのせいじゃないさ。悪いのはどっかのバカヤロウだ」岸田は両手に額を埋めたまま言った。「だけど、まだ何か、自分を責めるだけの理由があるんだな、先生」
 岸田の言葉に、直紀は今更ながら驚く。
「まったく、あなたには何もかもお見通しのようだ」
 直紀は苦笑した。

「何もかもって訳じゃない。俺は神様じゃないし、この世界に神なんていない」
 顔を上げた岸田の目は、驚くほど鋭かった。その脳裏に誰を思い浮かべているのか、直紀には分かる気がした。


 某所 大広間 PM23:10――――――

 ミカコが大広間の扉を開けると、有紀はその奥へと歩み入った。昼間、かなりの人数の「仲間入り」と「余興」で賑わった大広間は今はガランとしており、いくつかの燭台に灯された火の光が、中央をボンヤリと照らしているだけだった。
 その薄明かりの中、巨大な深紅の絨毯の上に、二匹の新たな奴隷が跪いていた。一人はまだ、あどけなさの残る少女で、もう一人は正にオンナとしての旬を迎えた女性だ。有紀は知っている。彼女は有紀の一つ年上で、独身。そして、人生で最も幸福な瞬間を、まもなく手に入れようとしていることを。
 その寸での所で、自分が全てを奪おうとしていることも。

 裸で跪く二匹の奴隷はその年の差故に、体つきには違いがあったが、そのどちらも彼の「猫」となるに申し分なかった。が、有紀の興味は専ら年上の女性の方に向いていた。年が近いというのはもちろんだが、最たる理由がもう一つあった。彼女こそが、有紀の思い描く計画の最終目標だった。

 有紀は隣に侍るミカコに目配せした。その意味を理解し、ミカコは口を開いた。
「新たな奴隷猫達。目の前にいらっしゃるのは、あなた達のご主人様となられるお方です。ご挨拶しなさい」
 ミカコの一言に反応し、二匹は顔を上げる。前髪をアップにし、シンプルにまとめられたことで晒される二匹の虚ろな顔が、有紀に向けられる。その眼は有紀の作った魔眼に取り憑かれ、オレンジの光を放つ。

「ご・・・ごしゅ、じん、さま・・・?」
「ご主人・・・さま・・・」
 弱々しく反唱する二匹の声には、混乱の色が混じっていた。やはり、キャッツ・アイの力だけでは、完全に支配することは難しいようだ。しかし、ただ装着するだけでここまで深い催眠状態に落とせるのなら、十分と言えるだろう。

 二匹の隣に立つ少女がおもむろに動き出した。メデューサが墜とし、有紀が暗示で支配した少女だ。この二人を手に入れるために用意した「駒」だ。メデューサがベースとなる催眠をかけていたので、ティーチャーの「教育」で記憶を封印し、ごくシンプルな暗示をかけ、洗脳を仕上げた。本来、キャッツ・アイで奴隷猫を作る際に仕上げとして行う、「暗示による心の支配」は一切行っていない。
 つまり、この少女は記憶と思考能力を削り取られた、文字通りの「人形」だ。そこへ、「有紀の命令は全て受け入れ、従う」という極単純な暗示という糸を取り付けた。彼女はこうして動いている間も、自分が誰で、何をしているのかも自覚出来ない。ただ有紀が糸を動かす通り、命令通りに動くだけのマリオネットなのだ。

 名もなき哀れなパペット人形は、困惑した表情で有紀を見つめる沙良の秘所をゆっくりと撫でた。途端に沙良はヒクッと反応する。
「ニ、ニャオーン!」突然身体を駆け抜けた快感に、思わず声を上げる沙良。本能的に抵抗していた「奴隷猫」の暗示を、受け入れてしまった。沙良のオレンジの眼は、ポワーンと光を失い、虚ろに有紀を見つめる。
「ニャ、ニャああ! ・・・ああ! ニャ・・・アア・・」
 沙良の声に釣られて鳴き声を上げる千夏だが、まだこちらは安定していないようで、中途半端な声を上げている。
 パペット人形が、今度はそんな千夏の股間にすっと触れた。
「あああッ!! ニャ、ミアアアアアアアアアアアアア!!」
 千夏が雄たけびのような、凄まじい鳴き声を上げた。女性としても初めて味わう快感に、気が触れてしまったようだ。見ると、秘所からは勢い良く放尿し、絨毯を濡らしていた。

 跪いたままヒクヒクと身を震わせる千夏は、同じく虚ろな眼で有紀を見つめたまま、その眼からは涙が溢れ、頬を伝っていた。
「いいご挨拶だ。二人とも。『教育』でどんな奴隷猫に生まれ変わるか、楽しみだよ。お前は嬉しくて泣いているのか? それとも俺がまだ怖いのかな? いずれにしても、すぐに全部忘れてしまうさ。そしてオレに全てを捧げる奴隷猫になるんだ」

 有紀の言葉が聞こえているのか否か、千夏は小柄な身を小さく震わせた。
「ティーチャーはもう準備を整えている。この人形が『教育部屋』に連れて行ってくれる。ついていけ。ついでにお前も、完全なデク人形にして貰えるそうだから、服を脱いでいけ」
 有紀に言われ、パペット人形はすぐさま服を脱ぎ捨て、裸になった。そしてそのまま踵を返して歩き出すと、二匹の奴隷は立ち上がり、パペット人形に着き従った。


 岡崎 直紀の車内 23:30――――――

「千夏ちゃんが誘拐された!?」
 コンビニのおにぎりを頬張りながら、後部座席の山口が叫んだ。ケータイで近くのコンビニに呼び出し、拾った。その際、車の到着を待つ間に夜食を買い込んでおくように言っておいたのだ。山口の横には、大量のパンやおにぎり、500ミリリットルのペットボトルに缶コーヒー、そしてスナック菓子(ピクニックじゃねぇんだぞ! と岸田が一喝した。)が入ったビニール袋が置かれている。
「岡崎 有紀にですか?」
 山口は急いでおにぎりの塊を飲み込んで言った。
「ああ。岡崎先生の奥さんを連れ去るついでにな」
 岸田はブラックの缶コーヒーを二本受け取り、一本は岡崎の前のドリンクホルダーに立てた。
「岡崎さん、結婚されてたんですか」山口が眼を丸くする。
「沙良とはまだ入籍していません」直紀はバックミラーでちらりと山口の顔を見て言った。
「来月に式を挙げる予定です。もっとも、プロポーズも先日済ませたばかりで、何の予定も立てていないんですが」
 へぇー、と山口が溜め息混じりの声を上げた。そう年も変わらないのに、合コンに通いつめても恋人すら出来ない自分との差を、ひしひしと感じたのかもしれない。

「そんな幸せ目前のカップルを引き裂こうとしてるんだ。娘のことも含めて、絶対に許せねぇ男だぜ」
 ブラックコーヒーの缶を持つ岸田の手に力がこもる。
「それが狙いなんでしょう」
 クールに言い放つ直紀の言葉にも、どこが熱がこもっているように感じる。
「このタイミングのこの展開こそ、彼の思い描くシナリオなんですよ」
「岡崎さん、これから俺達が奴の所へ行くことは、署内の誰にも話してない。連続誘拐犯の逮捕だ。下手な事を言って、大袈裟に動かれると厄介だったからな。今回の事件の根深い所は、オレら野郎三人で処理するつもりだ。だから、話してくれないか、アンタの知っていることを全部。岡崎 有紀の計画の、本当の全容を」

 岸田の強い言葉に、直紀はフウッと息を吐くと、何かを決意したように語り始めた。
「いいでしょう。ドライブのネタには少々胸やけのする話ですが、全てお教えしましょう。あなた方には、とっくにその権利がある」


 十数年前―――――――

 岡崎 直紀と有紀は、一つ違いの兄弟だ。二人とも成績は優秀。スポーツも万能。厳しい両親によって躾けられた二人は、典型的な模範生だった。
 しかし、取り分け兄の直紀は優秀すぎた。小中高一貫の、有名な私立の学校にあって、優等生というのは数あれど、勉強もスポーツも私生活も、その全てが直紀は、他のどの学生よりもずば抜けていた。誰よりも充実していた。何よりも有望だった。いや、有望「過ぎた」。

 その一方で、決して成績が良くなかった訳ではない。運動が出来なかったこともない。むしろ周囲の平凡な同年代の中では一線を画していた有紀だが、しかし、どうあっても比較されるのが、兄弟の宿命だった。十分に非凡な才能を持ちながら、そして血の滲む努力もしながら、出来の良い兄と、「そうではない」弟。そんなレッテルが勝手に貼られていることに、有紀は我慢ならなかった。よくある話。学生時代の僅かなエピソードといえばそうであるが、当の本人にとっては、その短い思春期の体験は、その性格を歪ませるのには十分すぎる時間だった。

 高校生活も後半に差しかかる頃には、直紀のエリート振りに対抗するように、有紀はやんちゃな面を露わにしていった。授業のボイコット、教師や他校生との殴り合い。有名進学校始まって以来の不良生徒に、学校側の対応は当然冷酷な物だった。有紀の退学処分は時間の問題だった。
 そんな時、彼を救ったのは、意外にも直紀だった。彼は有紀と教師陣との面談の時に突然現れ、有紀の退学処分の猶予を求めた。彼の非行は自分が責任を持って止めさせるから、退学にするのは待ってほしい。と願い出たのだった。
 自分の内申点を半分削ってもいい。とも言った。

 我が校の誇りである彼に言われれば仕方がないと、有紀の退学は一時的に免除された。次の全国模試で同学年中10位以内に入ることが条件だった。
 模試をサボるようになる前は、常にトップクラスをキープしていた有紀にとって、真剣に勉強すれば大した条件では無かった。しかし、有紀がそれを拒む理由があった。よりによって、一番憎々しい兄が、自分に再起のチャンスを与えたことが、納得いかなかった。

「どうせ、オレを惨めなヤツだとか思ってるんだろ。同情のつもりかよ」
 有紀は吐き捨てた。しかし、「お前に頼みがあるんだ」直紀はいつになく真剣に言った。「僕はK大学に行く。今の調子だと、推薦で合格が決まりそうなんだ」
「K大学? あの医学部で有名なK大学か。エリート様にはお似合いじゃねぇか」
 有紀はあくまで憎たらしく毒づいた。
「お前にも来てほしいんだ」
 有紀は耳を疑った。直紀の顔は、冗談を言っている様には見えなかった。
「どういうことだ」
「お前も、K大学に進んでほしい。今から一年頑張れば、ギリギリ推薦が貰えるかもしれない。そうでなくても、お前だったら一般入試で十分合格出来るだろう」

「ちょっと待て。オレは別に医者になんか興味はない。大体、なんで兄貴と同じ大学に進まなきゃならないんだ」
 有紀は食い下がった。
「別に、医者にならなくてもいい。K大学には、国内でも有数の研究設備が整っているらしい。大学院にまで進めば、その設備を自由に使って、好きな事を研究できるんだ。お前も理系なら興味があるだろう」
「理数に進んだのは、文章オタクになるのが嫌だっただけだ。親父がそうだからな」
 二人の父親は翻訳家として忙しく活動している。有紀の言葉に、直紀は朗らかに笑った。

「その父さんに、いつか二人でノーベル賞を取って、ビックリさせてやる、って宣言したの、覚えてるか?」
 突然直紀が語り始めた幼少期の恥ずかしい思い出に、有紀も思わず笑みを浮かべる。
「ああ、親父の書斎に勝手に入っていたのを叱られて、その時に二人で勉強してただけだ。って言い張ったんだ」
「そうだ。その時の言葉を、現実にしてみないか」
 そう言った直紀の眼は、眩しいほどに輝いていた。
「二人で勉強して、ノーベル賞を取らないか? 共同研究だ。面白そうだろう」
「本気で言ってるのかよ。どういうつもりだ」

 兄の顔を見つめ返すと、その眼はいたって真剣だった。
「僕は本気だ。昔から、ずっと、そうしたいと思っていた」
 そう言って彼は笑う。
「兄弟で作る最高の研究なんて、素晴らしいだろう。きっと、上手くいけば歴史に名を残せる」

 眼の前で、そんな子供じみた夢を語るのが、あのエリートの中のエリートと言われる直紀であるとは、半ばには信じ難かったが、純粋に自身の野心を見せる彼に、有紀は惹きつけられた。
 有紀も兄に向かってニヤリと笑った。
「まぁ、親父を見返すって言うのは、面白そうだな」
 素直ではない弟の言葉に笑いつつも、直紀は力強く頷いた。
「決まりだな。だったら、必ずK大学に来いよ」
「『来いよ』って、自分は受かる前提かよ。まったく自信家なんだな、エリート様は」
「本当だな。まずは僕が、頑張らないとな」

 こうして兄弟は、同じ野望の元に再び結束したのだった。

 直紀は危な気なく、K大学への進学を決め、高校を卒業した。三年に進級した有紀は、それに焚き付けられるように猛勉強を開始した。不良行為を一切やめ、人が変わったように優秀さを取り戻していく有紀の評判は、少しずつ回復して行った。直紀が卒業し、比べられる兄の存在が無くなったことが理由だと、コンプレックスからの解放だと周囲は口々に言ったが、彼がその兄と、人知れず固い絆で結ばれていたことは、誰も知る由も無かった。その為、有紀が、兄の学び舎とするK大学への推薦を志願した時は、教師も友人も、皆が驚いたのだった。

 一時期は退学処分まで考慮された程の有紀の内申点は、一流のK大学への推薦は如何なものかとされていたが、三年になってからの彼の成績と、不良行為を始める以前の彼の姿が本来の岡崎 有紀の姿であるとの見方が示され、彼の推薦は異議なしとされ、そして有紀は、見事に推薦入試で名門K大学合格を果たし、再び兄と同じ道を辿ることとなる。

 大学でも、やはり直紀は期待の星であった。教授達からも一目置かれ、将来を有望視される様は、やはり別格だった。
 クラスの固定された狭い高校時代までとは違い、生徒同士の密接なつながりの薄い大学では、有紀が直紀の弟であること自体、知る者は少なく、彼にとっては比較的やりやすい環境だった。だが、決定的に違う点は、有紀の兄に対する気持であった。今や同じ目標を志す者として、有紀にとって直紀は、兄でありながら友のような存在だった。しかし、そんな爽やかな日々は、突如として崩れ去ることとなる。

 二年後、有紀が三回生の秋、衝撃的なニュースが学内を駆け巡った。四回生だった直紀が、これまで志望していた大学院への進学を撤回、就職活動を始める旨を告げたというのだった。K大学始まって以来のエリート研究者候補の突然の方向転換を、有紀と直紀の関係を知る友人が、彼に一目散に伝えに来たのだった。

 直紀が昼休みに、中庭に住みついた野良ネコとじゃれ合っていることを知っていた有紀は、すぐにそこへ向かい、彼を見つけ、問い詰めた。
「それはもう、必要無いんだ」
 精神科医になると、そう告げた彼の顔は、有紀の脳裏に焼き付いて離れない。
「研究者になる夢は、お前に託す。頼んだぞ」
 一方的にそう告げて、女と共に並んで立ち去って行く兄の後ろ姿が、そして惨めに立ち尽くす自分が、頭から離れない。
 なにかが、有紀の中で崩れ去り、そして新たな「何か」が生まれた瞬間だった。

 後で聞くと、ゼミで知り合った女性から、直紀は心を病む人達の話を聞いた、とのことだった。
 その女子学生は、看護師になって、患者を心でケアしたい。という夢を直紀に聞かせた。医者は、患者の病気やケガは治せても、その人達が病気と闘い、痛みと闘う中で弱った心を治すのは苦手なのだという。
 彼女の話を聞くうち、彼もまた、そんな存在に、胸を打たれた。「心を救う医療」。それは確かに、技術の進歩した現在、先端医療が多数を占める日本では、徐々に失われつつある物なのかも知れない。そして、それを目指す、彼女のような存在にもまた、彼は強く心惹かれた。


―――フン、くだらねぇ。―――
 彼は、そう言って姿を消した。


 岡崎 直紀の車内 23:40――――――

「その女子大生が、沙良です」
 そこまで語ると、直紀は少し沈黙した。
「なるほどな。だんだん読めて来たぜ」
 岸田はそう言うと、ブラックコーヒーを一口啜った。
「二人の夢を裏切ったアンタと、そのきっかけを作ったアンタのフィアンセとなる女子学生への復讐。それがヤツの真の目的か」
 岸田の言葉に、直紀は黙って頷いた。後部座席では、山口が生唾を飲み込んだ。
「二人に仕返しをする為に、こんな大それた事件を起こして、無関係な人を何人も巻き込んだんですか?」
「そういうことですね」
「現に今、このまま行けば岡崎 直紀の夢は破滅。兄貴の相棒を自分から鞍替えさせた女は自分のモノに。そして二人の間にいた『ネコ』ってワードも、『キャッツ』の黒幕がヤツだとすれば一致する」

「僕と決別した後、有紀は大学院へと進み、そこで、僕と同じ精神医療をテーマに研究を開始します。この時から、既に彼の目的は僕への復讐に絞られていたんでしょうね」
 心なしか、ハンドルを握る直紀の手に力が籠ったようだった。
「最後まで兄貴と同じ土俵に上がることを選んだ訳だな。今度は、追いかけるだけじゃなく、兄貴を土俵から放り出すつもりで」
「彼は独自の研究を進め、そして一冊の論文を書き上げます。その論文は、教授会議で問題視され、握りつぶされ、そして著者である有紀は学会から追放されるという、学生としてはある意味異例の措置を受けます」

「それだけ危険な研究内容だったってことでしょうか?」
 山口はK大学へ捜査に行った時のことを思い出していた。岡崎 有紀のことを語る時の、あの老教授の悲しげな声・・・。
「実際、その恐ろしさを、俺達が身を持って体験しているわけだが」
 岸田が皮肉めいた言葉を挟んだ後、続けた。
「だが、そこまでの話を聞く限りだと、どうもやっぱり、諸悪の根源は岡崎 有紀のように思える。『ケンジャ』だの『ハコブネ』だのって、得体の知れない存在が入り込む余地はないように思えるんだが」
 岸田の疑問に、直紀も首を傾げる。
「確かにそうかもしれません。ですが、有紀一人の力で、こんな大事件を引き起こすことが不可能だと言うのも、今日申し上げた通りです。きっと、当初の有紀の計画では、標的となるのは僕と、沙良の二人だけだったはずです。ですが、僕が調べた所では、有紀が最初に連れ去ったのは、同じゼミで研究していた女性でした。有紀が学会を追放されてから、その最初の計画を実行するまでの間に、その『ケンジャ』のいる組織から何らかの接触があったとすれば・・・」

「そいつらが、曖昧だったヤツの計画を完璧に修正して、実行を手引きしたって訳か」
「で、でも、その『ケンジャ』達が、僕達に岡崎 有紀を捕まえるように要求して来たんですよね?」
 山口が身を乗り出して言った。
「それだけヤツが、『ケンジャ』達にとっても手に負えない存在だったってことだろ」
「あるいは」
 ルームミラーに映る直紀の眼光が、鋭くなる。
「彼らの計画においても、有紀の役目が『終わった』という事なのかも知れません」


 いつの日か、どこかの場所―――――――
「あなた、またケガしてるじゃない! 大丈夫なの?」
 その日、珍しく早めに帰宅した父を出迎えるなり、母が言った。父が早く帰る時は、決まってこうだ。
「ああ、ちょっと、ひったくりを追いかけて、やり合ってな。お陰で早退する羽目になった」
「救急箱、持ってくるわ」
 バタバタと母の足音がリビングへと向かうと、私は階段の陰からひょっこりと顔を出した。すぐに、父は私に気が付き、ニッコリと笑いかけてくれた。浅黒く日焼けたその額には、大きなガーゼが貼られ、そこから溢れ出るように真っ赤な血が流れていた。

「おお、千夏、ただいま」
「パパ、お帰りなさい!」
 私はいつものように父に抱きつこうとしたが、父は私の小さな突撃を意図も簡単に遮った。
「パパは泥だらけだから、後でな」
 私は少しシュンとして、はーい。とその場を離れた。程なくして、母が救急箱を持って、先程と同じようにパタパタと駆けてきた。

「病院には行ったの?」
 父の真っ赤に染まったガーゼを剥がしながら、母が尋ねた。
「バカ言え、かすり傷だ。あんなガリガリの若造にそこまでやられるかよ。ただ、あの野郎、ひったくったカバンを振り回して来やがってな。ヴィトンの高級バッグで、大きな飾りがジャラジャラ付いててさ、それが当たっちまったんだな」

 いつもの調子で事件のあらましを豪語する父に安心したのか、母の口調も明るくなった。
「それはお気の毒ね、そのバッグの持ち主。こんな石頭を殴ったんじゃ、今頃お蔵入りだわ」
「おいおい、そりゃねぇよ・・・アイテッ!!」
 母の冗談に口を尖らせる父だったが、乱暴に新しいガーゼを貼られて顔をしかめた。

 いつものパパとママだ。もう大丈夫だ。私はここで、やっと安心する。それまでは、本当は不安で不安で仕方がない。父が帰って来ると一目散に出迎えるのも、抱きつくのを拒否されても側でじっと立っているのも、彼と、そして母の無事な様子を確かめずにはいられないからだ。
 もしも、父が受けた傷が、救急箱ではどうにも出来ないものだったら? 母が寄り添う事さえままならないような大けがだったら? そんなことを考えると、父のことが心配で仕方がない。だが、母も内心では、毎日父の帰りを不安に苛まれながら待っていることを、私は知っていた。だから、いくら父が心配でも、母にそのことを尋ねることは出来なかった。

 私は幼いながらにいつも考えていた。パパは悪い人達から、私達を守る仕事をしている。だから私たちは安心して暮らせるのだ。しかし、その為に危険と隣り合って生きるパパは、いったい誰が助けるのだろう。
 その時、一つの答えが生まれた。

 私は、ご主人様の奴隷猫です。

 え? 違う。今のは答えじゃない。私はなにも言っていない。

 私は看護師になるんだ。パパが大けがをしたら、私が治すんだ。
 その為には私はご主人様に従います。
 ちがう。やめて。
 いっぱい勉強して私はご主人様は私の全てです。
 なに、これ。なにかが私の思い出を押し流していく。
 パパは私がはご主人たすけ様のるん奴隷だ猫です。
 いや・・・。わたしのあたまに・・・はいってこないで・・・
 わたし私はのおもいでご主人様にをかえして従います。
 ぱぱ・・・ぱぱ・・・
 ぱぱご主人様ぱぱはぱぱ私のぱぱ全てぱぱですあああああ・・・・・

「千夏、どうした? パパはもう大丈夫だよ。おいで、一緒におやつでも食べようか」
 ぼんやりとした眼で父を見上げると、私は思い切り叫んだ。

 わたしは、ご主人様の、奴隷猫です!!!!!!


 某所 教育部屋 0:00――――――

 大きな声で叫ぶと同時に、千夏は再び愛液を噴射した。最後の一匹が堕ちた瞬間だった。
 あっけなかった。数分前に、もう一匹の方のサラは奴隷猫と化し、絞り出すように愛液を噴射した後、呆けたようにダラリと脱力して動かない。
 10代のうら若き少女は、生まれて初めて味わう興奮にその身を震わせていた。キャッツ・アイでの支配を先行させた洗脳は、想像以上だった。ものの数十分で、二人は記憶も理性も失った奴隷猫へと堕ちた。

 ご主人様はすぐにでも二匹の「仲間入り」をご所望だろうか。ティーチャーは考えた。チナツはともかく、サラはご主人様が長年待ち望まれた女だ。すぐにでもその手に収めたいはず。ましてや、明日は彼にとって記念すべき日。「方舟」というのは、自分達にはよく理解できないし、奴隷である自分達が知る必要のないことだが、ご主人様が切に望まれていることだ。きっと素晴らしいことなのだろう。その際、サラが側にいれば、なおのことお喜びになるはず。ご主人様にお仕えする身としては、最もすべきことは決まっている。早急にサラと、ついでにチナツの「仲間入り」の手はずも整えよう。

 ティーチャーは二度、手を叩いた。やってきたのは、裸の少女。ギクシャクと不自然な動きでティーチャーに歩み寄ると、直立してまたギクシャクと一礼した。あのパペット人形の少女だ。彼女もまた、同じように「教育装置」にかけられ、一切の記憶と理性を削除された。更に、思考能力も行動能力も完全に停止し、全ての人の全ての命令によってのみ動く。という滅茶苦茶な暗示をかけられ、「デク人形」にされてしまったのだ。

 無茶な暗示の影響で精神は完全に崩壊し、デク人形の眼はクルリと裏返り、口は常にポカンと開いて、涎が垂れ流されている。歩き方も立ち方も忘れた「それ」は、しかし「命令に従う」という唯一の存在意義の元に、本能的に動いている。その人間らしからぬ不自然な動きは、正に不出来な人形そのものだった。

「この二匹を装置から外しなさい」ティーチャーはデク人形に命じた。
「あ・・・あい・・・かひこ・・まりまひた」デク人形はタドタドしく応えた。当然、口の動かし方も分からないのだ。
「そのおバカさんな感じ、とても可愛いわよ」ティーチャーは哀れな姿になり果てた美少女を見て、サディスティックに笑った。

 ノロノロとした動きで、デク人形はサラとチナツを解放した。二人、いや、二匹はグッタリと座り込むように崩れ落ちると、目を見開いたまま項垂て動かなくなった。
「サラ、チナツ、立ちなさい」
 ティーチャーが命令すると、二匹はピクッと反応した。そして、暗示が馴染んでいるのか、サラはスッと直立の姿勢をとり、チナツはやや緩慢な動きで立ちあがった。暗示を掛けられた直後で、まだ「命令に従う」ということに対して、本能的に違和感を覚えているのだ。だが彼女達は既に暗示の完全な虜と化している。服従することで最上の悦びを感じるようになっているのだ。すぐに、その快感に本能は麻痺し、思考は停止し、服従によって生かされる存在となるだろう。と、ティーチャーは思った。その為にはまず、ゆっくりながらも、ちゃんと命令に従ったことを労わねばならない。
「イイコね。とっても可愛いわよ・・・」
 ティーチャーは妖しく笑みをたたえながら、二匹の性器を優しく撫でた。
「あぅっ」
「教育」を終えたばかりの二匹は、それに敏感に反応した。
「フフフ、さあ、ご主人様がお待ちよ。このデク人形に着いて、広間に向かいなさい」
「あ・・・はい・・・ティーチャー・・・」
 虚ろな返事をすると、歩き出したデク人形に続いて、二匹はユラユラと足を動かし始めた。


 岡崎 直樹の車内 0:00―――――

 激しい揺れに、岸田は早くも気分が悪くなっていた。
 車は数分前に、T区郊外の森の中に入っていた。車道といっても日頃の車通りが皆無なせいか、殆ど整備されておらず、ほぼ砂利道と言ってよい程だった。ましてや、悪道を走ることを想定されていない岡崎の高級車では、その揺れに更に拍車がかかる。

「おい、こんな、所に、本当に、アンタの、弟と、女達が、隠れるような場所が、あるのかよ」
 不規則な揺れのために、とぎれとぎれに岸田が言った。
 ええ、多分。と岡崎は言った。それっきりまた殆ど口を利かなくなった。見通しの悪い山道を運転するのに必死なのだ。岸田のほうも、特に返事を期待して言った訳ではなかった。ただ、なんでも良いから喋って気を紛らわせておきたいのだ。こうしている間にも、千夏の身に危険が迫っている。そう考えると、焦りで吐き気を催すほどだった。

「千夏、頼む。無事でいてくれ・・・!」


 某所 大広間 AM0:10―――――

「ご、ごしゅじんさまっ、ど、どれいねこっ、おつれ、しましたっ」
 たどたどしい言葉で伝えるデク人形の後ろで、二匹の奴隷猫が跪いた。有紀はその光景にほくそ笑む。才知溢れる美女も、快活な少女も、清楚な美少女も、自分にかかれば忠実な奴隷だ。主人のために働く猫に、満足に喋ることも出来ない人形。そしてなにより、自分で考えることを辞め、ただ命令通りに動くことで生かされているということ。昭和的な考えではあろうが、これこそが真の「オンナ」の姿だと、有紀は思う。

「女は夢を分かち合う相手じゃない。夢のために使う道具だ。そうだろ?」
「は、はいっ、ごしゅじんさまっ」
 相変わらずガシャガシャと応えたのはデク人形だった。奴隷猫はその後ろで跪いたまま動かない。「仲間入りを待つ」というティーチャーの命令を、忠実に守っているのだ。
「そんなに仲間入りが待ち遠しいか。なら、望み通りオレの奴隷にしてやるよ・・・」
 有紀は、かつてないほどの邪悪な笑みを満面に讃えると、ゆっくりと奴隷猫たちに近付いて行った。


 岡崎 直紀の車内 0:20――――――
「気が付いていますか?」
 しばらく振りに口を開いたのは直紀だった。デコボコ道はやや落ち着き、車の揺れもさほど酷くは無くなっていた。
「何がだ」
 先程までの激しい揺れで、すっかり気分を悪くした岸田が、ぶっきらぼうに返した。
「さっきから、所々の木の上に、赤い光が見えます」
「なに?」
 岸田は窓の外に目を凝らす。するとなるほど、確かに等間隔の木や茂みの中で、小さな赤い光が見えた。
「あれは・・・」
「ひっ、人魂・・・?」
 黙ってろ。と岸田は山口を一蹴した。

「LEDのランプです。この車、モニターに撮影されています」
「どうりで、道が走り易くなったと思ったぜ。もうここは奴のテリトリーって訳か」
 岸田が拳を合わせる。
「彼のアジトは近いはずです」
「で、でも、撮られてるってことは、もう僕らがアジトに向かっていることは、岡崎 有紀にバレてるってことですよね?」
「彼が来客をこまめにチェックしていれば、恐らくそうでしょう」
「案外、眠りこけてガードはガラ空きだったりしてな」
 と、岸田は鼻を鳴らした。
「彼にはキャッツをはじめ、無数の超人的な下僕がいます。加えて、彼に連れ去られた他の女性達も、ほぼ彼の手先と考えていいでしょう。だとすれば、24時間体制の見張りがいても不思議じゃありませんよ」

 岡崎の言葉を聞いて、岸田はまた胸くそが悪くなった。千夏のことを思い出したからだ。彼女も既に、有紀の意のままに動く下僕となっているのだろうか。運転席を見ると、岡崎も険しい顔をしていた。同じように、沙良のことを考えているのだろう。
「奴にとって、岡崎さんは特別な来客だろう。とびきり悪趣味な『おもてなし』があっても可笑しくねぇぜ」
 岸田は吐き捨てるように言った。


 某所 大広間 0:20――――――

「あ・・・はああ・・・ご主人・・・さまぁ・・・」
 淫らな声を上げて、身体を震わせているのはチナツだ。「仲間入り」の文言を述べた後、有紀に差し出した性器を弄ばれ、これまで感じたことの無い快感に酔いしれていた。もっとも、彼女にはここに至るまでの人生の記憶は既に無いのだが。
「う・・・うにぁぁぁぁぁ・・・・」
 とろけるような鳴き声と共に、チナツは愛液を噴射する。生温かい汁が、有紀の手を勢いよく濡らした。
「手が汚れたぞ、チナツ」
 奴隷猫の粗相を咎める有紀だったが、その言葉には邪悪な愉しみが滲みでていた。
「ああ・・・申し訳ございません・・・ご主人様・・・」
 命よりも大切な主人の手を汚してしまった罪悪感で、チナツは泣き出しそうになりながら、尻を突き出すように這いつくばりながら、有紀の手をペロペロと舐めはじめた。

「そうだ。大切なご主人様の御手だぞ。丁寧に掃除しろ」
「は、はいい・・・ご主人様・・・」
 新たな恥辱を素直に受け入れるチナツの様をほくそ笑みながら、有紀は壁に掛けられた巨大なモニターに目をやる。いくつもに分断された画面の一つ一つには、この屋敷と近辺の監視カメラの映像が映し出されている。屋敷内と敷地の中で起こっている全てのことは、このモニターから粗方把握できる。
 有紀はふと、画面下部の映像に目をやった。屋敷の付近の森に設置されたカメラだ。暗視機能が付いており、夜間でもくっきりと映像が見えた。その映像の中に、白いものが画面を駆け抜ける様子を、有紀の眼は敏感に捕らえた。そして、それが何かをすぐに理解し、不敵な笑みを浮かべた。白のクラウン。思ったより早目のご到着じゃないか。有紀は思った。

 有紀は横に立ち尽くしているデク人形に目配せした。
「もうすぐ客が来る。とびっきりの客がな。こちらも、とびっきりの『もてなし』をしてやろう」
 顎をしゃくって、「行け」と命令すると、「はひっ、わかりまひたっ、ごひゅひんひゃまっ」とデク人形が返事をし、踵を返すと、ガシャガシャと広間を出て行った。
「ここまでたどり着けたら、とっておきのショーを見せてやろう。オレをコケにした奴は、どんな末路をたどることになるのか、思い知らせてやる。なあ、サラ?」
 有紀は傍らに跪いているサラの身体を、左手で抱き寄せた。ぼんやりと宙を見据えたままのサラは微動だにしない。既に、新たな暗示によって、有紀の玩具となり果てている。右手には、まだチナツがしゃぶり付いていた。

 有紀はサラの耳元へ口を近付けると、小さく呟いた。暗示の「引き金」となる言葉だ。
 次の瞬間、サラの虚ろなオレンジの眼が僅かに見開かれたかと思うと、屋敷に彼女の鳴き声がこだました。

 
 
< 続 >


 

 

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