キャッツ・アイ


 

 

第11章


〜The Sages 賢者〜 前篇


岡崎医院 12:10――――――

 午前中の診察を終えたところで、岡崎 直紀は院長室で白衣を脱ぎ、ワイシャツの上からスーツのジャケットを着た。書類の棚の一番奥に、隠すように仕舞ってある、一冊の古い冊子を取り出すと、直紀は一つ息を吐いた。
 これを世に出す時が来るのかもしれない。良い意味でも悪い意味でも。この禁断の医術が、いや、悪魔の所業が、日の目を浴びる時。それが、今なのかもしれない。直紀は自分の手が震えているのを感じた。緊張からか、恐怖からか・・・。ふと視線を冊子から上げると、院長用の大きな木製のデスクの片隅に置かれた写真立てが眼に入った。近くの大きな運動公園に行った時の写真だ。自分と一人の女性が、こちらに笑いかけている。彼女の名前は小嶋 沙良(こじま さら)。直紀の大学時代の後輩で、今はT市内の大きな病院で看護師として働いている。二人は、六月に結婚することになっていた。

 写真の中の、沙良の優しい笑顔に、直紀の口元も自然に綻ぶ。不思議と、手の震えは止まっていた。
「行ってくるよ」
 直紀は短く呟くと、部屋を出た。

カフェレストラン「あっとほーむ」 PM12:40――――――

 窓際の席で、岸田と山口は、いつの日かのように、テーブルを挟んで岡崎 直紀と向い合っていた。それぞれの前には同じブレンドコーヒーが三つ。ウェイトレスが運んできた時に一口啜ってから、全く減ることなく、ぬるくなっていた。
 岸田は直紀に自分達が掴んだ事実と、それらを繋げて見えてきた推測を述べた。
 直紀には同じ大学の一学年下に弟がいること。その弟、岡崎 有紀が、催眠術を利用して少女達を拉致した張本人であること。その根拠は、有紀が大学から非難され、除籍処分となる原因となった危険な研究内容で、その内容とは、催眠術によって他人の意識を完全に支配することであったのでは無いかという事・・・。

 しばらくの沈黙が続いた後、直紀はおもむろにバッグに手を入れ、何かを岸田達の目の前に差し出した。古い書類を纏めた冊子だった。
「これは・・・」
 それが何か、岸田にはおよそ見当がついていた。ゆっくりと表紙をめくる。A4の紙に、ワープロで横書きに文字が打ちこまれた文書だった。

 ――――――精神医療技術の応用による、第三者の意識の介入及び精神の支配型操作についての研究内容――――――

 素人には全く理解できない、長々しい題名。そしてその後に続く文字は・・・

――――――K大学大学院精神医療技術研究課程 岡崎 有紀――――――
 岸田は生唾を飲み込む音を隠せなかった。探し求めていたものが、まさしくそれが今、自らの手の中にある。
「どうして、これを?」
 岸田は尋ねた。興奮の色を隠せない岸田に対して、直紀はいたって冷静な素振りだった。
「・・・弟が除籍処分になったことが、大学の会議で決定された直後、僕の大学時代の恩師から、内密に連絡があったんです」
「奥村教授ですね?」
 山口の問いに、直紀は黙って頷いた。山口がK大学で核心にせまる事実を聞き出した人物。それが奥村だった。

「奥村教授は、何故有紀・・・弟が学会から追放されることになったのか、全て教えてくれました。本当はダメなんですが、特別に。そこで、弟が提出した論文を見せてくれて、更に僕が所持することを許可してくれたんです。名誉教授である奥村先生は、事実上、論文の容認を決定する権限を持っている人ですから、提出された論文の取り扱いは、教授に一任されていたんです」
「では、弟さんの除籍は、奥村教授の決定だった。ということですか?」
「最終的にはそうなります。しかし、勿論独断ではなく、会議で話し合って決定されたことです。満場一致で不受理が決定したそうです」

 直紀は一旦言葉を切り、何かを思い出して辛そうな顔をした。
「僕もその場で読ませてもらいましたが、これが不受理になっても、いや、弟の思考そのものが否定されても、おかしくない内容でした。弟が研究していたことと、その末に導き出した理論はあまりにも危険すぎる。あなた達が推測した通り、その論文の内容は、精神医療の様々な技術を用いて、他人の意識、記憶、思考までも支配し、思い通りに動かすという内容です。つまり、フィクションのように大規模な機械も、脳の手術も使わずに、相手を操り人形にする技術。といったところでしょうか」

 直紀の単刀直入な例えに、素人である岸田と山口は息を呑むしかなかった。自分で立てた推測でありながら、他人の口を介して聞くと、やはり馬鹿げた話にしか聞こえない。こんなことが本当に実行出来るのか?岸田が頭の中で思い描いた質問を読みとったように、直紀はまた続けた。

「もちろん、この論文が提出された時には、研究は何の実証もされていない、いわゆる推論でしかありませんでした。それも、論文が却下された理由でもあるんですが。しかし、有紀はその論文をこう締めくくっているんです。『もし立証する機会があれば、自分の理論は必ず証明されることを確信している』と。こんな言い回し、大学生の論文ならよくあることなんです。『今はまだ証明できないけど、いつか証明します』みたいな、幼稚なフォローといいますか」
 幼稚な大学生を表すような、軽い口マネをして、直紀はクスリと笑った。しかし、その表情は、すぐに鋭さを増した。

「でも、論文の内容も相まって、弟のその最後の一文は、恐ろしいものに感じ取れてしまうんです。『自分は必ず、この方法を使って、人々を意のままに操って、思い通りにする』という・・・」
「そ、それって、まるで犯行予告みたいですね」山口が言った。
「それも、とびきりクレイジーなタイプのな」岸田が付け加えた。
 直紀もそれに頷いた。

「奥村教授も同じようなことを仰っていました。『まるで狂った科学者が、自らの技術を用いて、悪行を行うことを宣言しているように読めた』と。そして現に今・・・」
「その予告を実行している。ってことですか」山口が、途切れた直紀の言葉を引き継いだ。
 また、直紀は無言で頷く。チッ、と岸田は舌打ちをした。
「ハリウッド映画かよ。まったく」


某所 PM12:40――――――

 屋敷の門の前に、黒いトヨタのクラウンが停まる。運転手が降りてきて後部座席のドアを開けると、一人の男が荒れた砂利道に降り立った。
 高級感のある黒のスーツに、映える白いシャツ。黒いネクタイ。雑草を踏みつける黒い革靴は、丁寧に磨かれて艶やかに光る。ただ、見た目に異色なのは、男がスーツの上から羽織っている、陽気の増してきたこの春の昼間には不似合いな、分厚い黒のマントだったマントを翻して問の前に立つと、まるで害虫でも見るかのような眼で古ぼけた洋館を見渡すと、古い洋館に取ってつけたような最新のインターホンのボタンを押した。

「どちら様でしょう」
 人間味の無い、若い女の声が、スピーカーを通して聞こえてくる。この館の主が飼っている、奴隷の女の一人だ。確か前に来た時は、女学生くらいの女ばかりだった。
「『賢者』といえば分かるだろう」男は答えた。
「『賢者』様。ご用件は何でしょうか」奴隷は答えた。
「館の主に取り次げばわかる。用があって来たんだ。大事な用だ」
「ご主人様とお約束はされていますでしょうか」
 淡々と返す奴隷の言葉に、男は苛立ちを覚える。恐らく、インターホンが鳴ったら、名前と要件、男とのアポイントメントを確認した後に、男に取り次ぐよう「プログラム」されているのだ。

「話しは付けてある。自分の意思も持たない人形め。さっさと『ご主人様』とやらに取り次げ」
 嫌悪感をむき出しにした男の言葉にも、相変わらずの無機質な声で「少々お待ち下さい」と残し、通信は切れた。
 数分後、門の扉が開き、男は館に向かって歩き出した。正面玄関の巨大な扉が開いて、中から数人の少女が出てきた。同じベージュのレオタード一枚だけを着て、数字の書かれた赤い首輪を付けた少女達は道の脇に整列し、猫を連想させるポーズで一礼した。猫はこの館の主人の趣味だ。正直、「賢者」とよばれる彼は猫は好きではなかった。

「いらっしゃいませ、お客様」男を挟むように整列し、猫の礼をする奴隷達を無視して進むと、玄関先に更に一人、奴隷の少女が立っていた。少女も同じように猫の礼をすると、男に向かって歩み寄って来た。
「先程は失礼いたしました。『賢者』様」
 声の感じから、さっき応対した奴隷だと分かった。相変わらずの無機質、無表情であったが、見た目は悪くない。高校生くらいか、やや幼い出で立ちだ。
「上着をお預かりいたしましょうか?」
 奴隷が尋ねた。
「いらん。それより、ヤツはどこにいる」
 奴隷を無視して廊下にあがると、奥の広間から人影が現れた。

「これはこれは『賢者』・・・の一番下っ端の御方」
 その男、岡崎 有紀はニヤリと笑みを浮かべ、嫌味な挨拶を投げつけてきた。
「お使いご苦労様です。お早い到着ですね。相変わらずせっかちな様で」
「うるさい。わざわざ来てやったのだ。さっさと要件を済ませろ」
 男は有紀への嫌悪感を隠さずに言った。コイツのことは全く気に食わないのだ。
「『あの御方』に献上するという奴隷はどいつだ」
 まくし立てる男をナンセンスとばかりに、呆れたように薄く笑むと、有紀は男の方を指さした。
「彼女です」有紀が言った。有紀が指さしていたのは、男の傍らに侍る奴隷だった。
「コイツが?おい、まさか、この出迎えが『パフォーマンス』と言うんじゃないだろうな」
「まぁまぁ、アンタも本当にせっかちだな。お楽しみはこれからに決まっているでしょう?マナミ。『賢者』様をご案内しろ」
「はい、ご主人様」

 有紀の命令を受けて、奴隷の少女、マナミは男の先に立つと、「こちらです」と言って、男を先導するように歩き始めた。
 有紀のふざけた態度に憤まんやる方ない男であったが、レオタードから見えるマナミの尻を観察しながら、黙って歩き出した。


喫茶店「あっとほーむ」 PM12:50――――――

 直紀の説明によって、岸田達の読みがほぼ当たっていること。そして、その当事者、岡崎 有紀の恐るべき企みが現実の物として確信に変わった。しかし、岸田には、一つ確認すべきことがあった。
「岡崎さん、あなたは待っていたんですね?」
 岸田の質問に、直紀は反応を示さない。まるで、岸田がこの質問をしてくることを予期していたようだ。
 岸田は続けた。
「ここまでの情報を持っていながら、あなたが今まで何も行動を起こさなかったのは、自分の力だけで弟さんを止めることが出来ないと、分かっていたからだ。最初に俺達があなたに会った時、あなたは自分が犯人かもしれないと思わせるために、俺達に挑発的な受け答えをした。更に、論文のことを教えて、俺達がK大学に向かうように仕向けたんだ。俺たち警察が、弟の凶行にたどり着くように」

「試していたんです」
 相変わらず無反応に岸田の言葉を聞いていた直紀は、しばらくして静かに言った。
「試した?」
「岸田さんの仰る通りです。僕はただの医者だ。専門の分野だから、弟の研究の意味もわかるし、それがどんなに恐ろしいことかもわかります。だけど、ただの精神科医の力だけで、この恐ろしい事態を止めることはできない。だから、力を持った人間が現れるのを待っていた」
「力を持った人間」
 岸田は怪訝そうに眼を細めながら、直紀の言葉を復唱した。
「弟に立ち向かうだけの力を持った人間です。それは武力や権力なんて野暮なものではありません。多くの人間を操るという現実離れした力を持った弟の存在を、簡単に否定せずに、可能性のひとつとして考えられる人。あらゆる発想の転換で、闇に潜む信じがたい事実にたどり着ける、『考える力』です」

「最初は俺も、こんなこと馬鹿げてると思った」岸田は笑う。
「だけど、ここまでたどり着いた」直紀が言った。「自分の力で、この馬鹿げた現実に向き合える人。それが刑事だったら理想的だ。あなたが催眠術のことを尋ねてきた時、これが最後のチャンスだと思いました」
「最後のチャンス?」
 直紀は頷いた。その眼は更に鋭さを増す。なにか恐るべき怪物に向き合うように。
「この悪魔の暴走を終わらせるチャンスです。馬鹿げた話のついでに、もう一つ馬鹿な話をしましょうか」
 そんなジョークを飛ばす直紀はニヤリと笑ったが、その眼はまだ鋭いままだ。
「岸田さんならもうお気づきでしょう。岡崎 有紀が糸を引いているのは、女性失踪事件だけではないことに」


某所 大広間 PM12:50――――――

「ほう、これは中々の娘じゃないか」
 目の前に跪く二人の奴隷を見て、「賢者」と呼ばれる男はニヤリとした。有紀の命令で男の足元に跪くのは、この大広間まで男を案内したマナミと、そこで男を迎えるために、有紀が待機させていたアケミだった。これが、二人にとって、奴隷猫としての最初で最後の仕事だ。
「私が仕上げた物の中で、最高の二人を選びました。『賢者様』にも、『あの御方』にも、きっと気に入って頂けるかと」

「ああ、私は気に入った。見た目はな」男が言った。
 お前はどうでもいいんだよ、下っ端が。そんな思いを腹の中に隠し、有紀は軽く一礼する。
「奉仕の方も、中々の物かと。是非味わって頂きたい」
「当たり前だ。その為に来たのだからな」
 言ってろ、エロじじい。心の中でそう毒づくと、有紀は奴隷猫の方へ向き直った。
「アケミ、マナミ、こちらの『賢者様』に、お前たちのご奉仕を見て頂くんだ。精一杯尽くせ。いいな」
 有紀が言うと、アケミとマナミは弾かれたように立ち上がった。
「「かしこまりました。ご主人様」」
 二匹の奴隷猫は声を揃えて言うと、男の方へ歩み寄った。

「『賢者様』。まずはワタクシ、アケミが『上』のご奉仕をさせて頂きます」
「ワタクシ、マナミが『下』のご奉仕をさせて頂きます」
 二匹がそれぞれ挨拶をすると、それぞれに男の服を脱がせていく。男がはだけると、二匹はいよいよ口元を男の体に埋めて行く。その眼は、オレンジから赤黒い魔性の光に変わっていた。

カフェレストラン「あっとほーむ」PM13:00――――――

 岸田さんなら、もうお気づきでしょう。直紀にそう言われて、岸田は持参した鞄から、数枚の紙を取り出していた。新聞の記事の切り抜きだった。岸田はそれを一つひとつ、テーブルの上に並べて行く。
「こ、これは・・・」山口が声をあげた。
「やはり、ここまで気づいていたんですね」直紀が言う。
 それは、数日前からの、盗賊団「キャッツ」の事件の記事だった。
「今回の一連の捜査をしているうちに、ハッと気が付いたんです」岸田は言うと、記事の切り抜きに右手の人差し指を伸ばす。
 「キャッツ」の被害に遭った宝石店の外観の写真を取り囲むように、詳しい文面が綴られている。その一部に、岸田が引いたのであろう、赤いラインが目に入った。

―――過激な衣装を着た、若い女ばかりの集団―――
―――細身だったが、屈強な警備員の男を取り押さえる程―――
―――人間離れした、まるで本物の猫のような身のこなし―――
「前に、催眠術を使えば、人間にありえない力を発揮させることが出来ると、読んだことがあります」
 赤ラインを指で辿りながら、岸田が言った。山口は、テレビのバラエティ番組で、そんなような内容があったことを思い出した。まるで鉄のように硬く横たわる小柄な女性の上に、かなり肥満体の男性が座っても、女性の身体はそれを支えてしまうのだ。

「正確には、ありえない力、ではなく、普段は使われていない、隠された力を引き出す。ということです」
 記事から顔を上げた直紀が言った。
「人間は普段、持っている力をセーブして生活しています。それはヒトならではの本能なのです。しかし、催眠で暗示をかけることによって、そのリミッターを解除すれば、セーブしていた力を100パーセント発揮させることが出来る」
「100パーセントの力を引き出せば、この記事に書いてあるようなことが出来るんですか?」信じられない事実に、山口が溜まらず口を挟む。
 直紀は黙って頷き、続ける。
「暗示の掛け方によっては、この記事のように猫のような運動能力を引き出すこともできるでしょう」

「ということはやっぱり」山口は確信をもった眼差しで岸田を見る。岸田もそれに応えるように頷いた。
「『キャッツ』の正体は、岡崎 有紀に催眠で操られた女性達だ。ヤツは彼女らを超人的な猫女に仕立て上げ、命令に従うままに盗みを働かせているんだ」
 それが、「悪魔の暴走」か。岸田は思った。
「でも、いったい何の目的で?」
 山口が二人を交互に見て言った。飛躍しすぎた展開に、自分で推理する、という行為は既に諦めたようだ。
「それは、分からん」
 岸田は口をつぐんだ。そこが謎だった。なぜ岡崎 有紀は、こんな大それた方法で市内の小規模な宝石店を襲うようなことをしているのだ?

 その時、ウエイトレスの女性が大きなパフェを3つ持ってきた。このカフェレストラン名物のデラックス・フルーツパフェだ。
「パフェなんて頼んでないですよ」山口がにこやかに言った。「どこかのテーブルと間違えてますよね?」
 しかし、ウェイトレスは動かない。直立不動でお盆を持ったまま、真っ直ぐ前方を見つめている。その大きな眼には光が無く、まるで曇りガラスのようだ。
「なんだ?」岸田が様子がおかしいことに気付き、ウェイトレスを凝視する。
 直紀は彼女を見た瞬間、何かに気付いたようだった。
「岸田さん、これは・・・」

「ハコブネ・ニ・ノルタメ・デス」
 唐突にウェイトレスが喋り出した。全く同じ姿勢のまま、口だけがパクパクと動いて声を発している。まるで腹話術師の肩の上で喋る人形のように。
 三人はしばし呆然とその場で沈黙した。


カフェレストラン「あっとほーむ」 PM13:05――――――
 自動ドアが開き、来客を告げる電子チャイムのメロディが流れる。すぐにカウンターから、一人のウェイトレスの女性が現れた。
「いらっしゃいませ・・・」
 女性は客を見て一瞬動揺する。その男が赤いタキシードの上下に赤いシルクハット、黄色いサテン地のチョウネクタイという、あまりにも奇抜な服装だったからだ。しかし、既に数年この喫茶店で働いている彼女は、どんなお客様にも粗相のない接客態度が身についているため、笑顔を崩さず、すぐに次の言葉を取り出した。
「お一人様ですか?カウンター席とテーブル席が・・・」
 しかし、彼女の快活な言葉はまたしても途中で途切れてしまう。タキシードの男が素早く彼女に迫り、ジャケットから取り出した「ある物」を、彼女の額にピッタリと付けた瞬間だ。

 それは金色の小さな「ゼンマイ」だった。子供が遊ぶブリキの人形などの動力源となる、あれだ。それが額に付けられると、ウェイトレスの笑顔も、朗らかな声も、一瞬にしてフェイドアウトする。
「いいコだ。素直だねぇ」
 タキシードの男はそう言うと、ゼンマイを回し始める。一回一回、リズムよく。
 カチカチ、カチカチ。それに合わせて、無表情のまま、口をポカンと開けて立ち尽くしていた女性のからだが、ピクン、ピクンと弾む。
 カチカチ、カチカチ。ピクン、ピクン。
 やがてゼンマイがカチリと止まると、男は女性の額からゼンマイを離す。

「さあ、完成だ。私の自動人形(オート・マタ)」
 男の声に合わせるように、女性はピンと直立する。姿勢は真っ直ぐ、ブリキの体は硬く、しかし軽く。まん丸に見開かれた虚ろな目は、ガラス玉でできた飾り物。
「『設計』通りに動きなさい。ホラ、あの隅っこのテーブル席にいる三人だよ。この店で一番甘くておいしい物を、食べさせてあげるといい」
 男はそう言うと、人形となった彼女の眼前に掲げたゼンマイを、指でカチン、と鳴らした。それが合図となって、可愛らしい自動人形がカタカタと動き出す。
「カシコ・マリマシタ」
 自動人形は一方調子に言うと、姿勢を崩さないままカタカタと振り返り、厨房へ向かった。
「デラックス・3ツ・オネガイシマス」
 自動人形は厨房のコックに向かって、やはり一方調子に言った。

 それを見届けると、男は振り返り、自動ドアを開けて出て行った。この一瞬の出来事を見た物は、誰もいなかった。

喫茶店「あっとほーむ」 PM13:10――――――

 しばしの沈黙が続いて、岸田が口を開いた。
「『ハコブネ』?なんだ、それは」
 岸田の言葉に、ウェイトレスは反応しない。相変わらず、マネキン人形のようにそこに立っている。
「あんた、何者だ」岸田は続ける。「岡崎 有紀について何か知っているのか」
 やはりウェイトレスは答えない。おい、と岸田が更に突っかかるのを引きとめたのは直紀だった。

「彼女は催眠状態です」
「なんだと」
 直紀は鋭い目でウェイトレスを注意深く観察する。
「彼女の目、焦点が合わず静止しています。催眠状態特有の、トランス状態に見られる特徴です。更に、こんなに明るいのに瞳孔が開いて、光を感知するサインが見られません。視覚が感覚器官として機能していない。つまり、彼女の意識は完全に遮断されているんです。しかも眼を開いたまま」
「催眠にかけられて眠っている、ということですか」
 山口が言った。
「それも、この様子だと少なくとも『レベル4』。相当に深い催眠に陥っています。そして、暗示をかけられ、無意識下で行動している。おそらく命令された通りに」
「見た目通りお人形さん。てわけか。可哀そうに。岡崎のやろうの仕業か」
 岸田の言葉にあからさまに感情がこもる。しかし、直紀は首を傾げた。

「どうなんでしょうか。弟がやったとは言い切れません」
「えっ」
 山口と岸田は驚いて直紀を見た。
「どういうことだ」
 思わず、直紀に対しても当たりが強くなる岸田。荒れる岸田とは対照的に、直紀は淡々と続ける。
「新聞の記事にある、弟に操られた女性たちと、このウェイトレスの様子は全く異なっています。催眠の暗示って、口頭で行うことが殆どですから、結構人によって違いが出るんですよ」
 それに、と続ける直紀の目線が鋭さを増す。
「ここまで深い、完全に本人の意識を無視して支配できるレベルを、全部で5段階中の4と位置付けられるのですが、『レベル3』以上の催眠状態に置く為には、少なくとも二日以上何度もセッションを行って、催眠を深めていかなければ不可能です。我々が今日この店に入ったのは偶然ですから、ピンポイントで弟がこの店のウェイトレスに数日前から催眠をかけていたとは考えにくい」

 直紀の言葉には、岸田も納得が言った。そして少し感情的になって冷静な思考を怠った自分を反省した。
「考えられる可能性は」岸田が言った。
「今日、そう、今しがたまでこの店にいた誰かが、この娘に催眠をかけて俺達に接触させた。ということだな」
 しかし、直紀はその言葉にも首を傾げる。
「それで辻褄は合いますが、もしそうだとすれば、ものすごい技術をもった人間です」
「ものすごい変人でもあるがな」
 言って、岸田はほくそ笑む。

「マスターヲ・ブジョク・スルノハ・ヤメナサイ」
 ウェイトレスがまた突然喋り出した。
「マスター?」
 岸田の疑問符に、直紀が答えた。
「彼女の支配格。つまり、催眠をかけた人物でしょう」
「ワタシノ・マスターハ・イダイナル・ノアズ・アーク・ノ・ケンジャサマ・デス」
「『ノアズ・アーク』に『ケンジャ』・・・わ、訳のわからないワードばかりですね」
 山口はしどろもどろだ。
「自分をこんなにした奴を偉大とは。どうかしてるぜ」
 岸田は嫌悪感を隠さず言った。岡崎 有紀でなくとも、こんなことをする人間を認める気持ちにはなれない。
「そういう暗示をかけられているんでしょう」
 直紀が答えた。

「『ノアズ・アーク』ハ・ゼンノウナル・ゼウスサマ・ガ・オツクリニナッタ・ハコブネ・デス。『ノアズ・アーク』ニ・ノルコトガ・デキルノハ・ゼウスサマ・ニ・ミトメラレタ・ユウシュウナ・ニンゲント・ソノ・チュウジツナ・シモベタチ・ダケデス」
 ウェイトレスは相変わらず一方調子で喋り続ける。
「オカザキ・ユウキ・ハ・オオゼイノ・ジョセイタチヲ・シハイシテ・キョウアクナ・ハンザイヲ・タッセイスルコトデ・ゼウスサマ・ニ・ミトメラレヨウト・シマシタ。ソシテ・ミズカラガ・ツクッタ・シモベヲ・ゼウスサマニ・ケンジョウ・スルコトデ・ハコブネニ・ノル・キョカヲ・モラオウト・シテイマス」

 ウェイトレスの話に、三人は驚愕した。
「そういうことだったのか」岸田が言った。
「そんな大規模な組織に関わっていたのか。あいつは」
 直紀が手の平で目を覆った。弟のしていることが、自分の想像した最悪のケースの、更に上を行っていたのだった。
「落ち込んでる場合じゃないですよ。先生」岸田が語りかける。「さっきの話が本当なら、直紀の目的は今まさに達成されようとしている。直紀の力がゼウスってやつに認められたら、直紀と、奴に支配されてる女性達は『方舟』に乗ってしまう」

 「方舟に乗る」ということが何を示すのか、皆目見当はつかないが、間違いなく「何か」が起こることは容易に想像できた。良くない「何か」が。
「でも、その話、信用できるんですか」山口が言った。「話しによると、その人に催眠をかけて喋らせてる『誰か』も、『ノアズ・アーク』の『ケンジャ』なんですよね?だったら、ゼウスの仲間なんじゃないですか?どうして僕たちにそんな情報をくれるんでしょう」

「マスタート・ホカノ・ケンジャサマタチ・ハ・オカザキ・ユウキヲ・ハコブネニ・ノセルコトヲ・ヨク・オモッテイマセン」
 ウェイトレスが言った。
「ノアズ・アークハ・オモテノ・シャカイニ・ソンザイヲ・サラサレルコトヲ・キョクリョク・サケテイルノデス。シカシ・オカザキ・ユウキハ・チカラヲ・シメスタメニ・セケンノ・チュウモクヲ・カンセツテキニ・デスガ・アビルコトニ・ナリマシタ」
「ケンジャサマタチハ・オカザキ・ユウキノ・ソンザイヲ・ノアズ・アークノ・キケンインシ・デアルト・カンガエ、カレノ・コウドウヲ・ハイジョ・スルコトニ・キメタノデス」

「そこで俺達に」
 岸田が溜め息を吐いた。
「オカザキ・ユウキノ・イバショヲ・オシエテ・アナタタチニ・カレヲ・トラエテ・イタダキマス。ソノ・ミカエリニ・カレノ・ドレイニ・サレテイル・ジョセイタチハ・カイホウシマス」
「俺達をパシリにするってのか。良い度胸だな」岸田が突っかかる。
「アナタタチニ・トッテモ・ヨイ・ジョウケンノ・ハズデス・ノー・トハ・イエナイデショウ」
 ウェイトレスの言葉はやはり単調であったが、そこにははっきりと、挑発的なメッセージが現れていた。これが、『ケンジャ』とよばれる人物の言葉だからなのだ。

「岸田さん・・・」
 どうしましょう。そんなメッセージを込めて、山口は岸田に視線を送った。岸田は直紀を見た。彼も、岸田と同じことを考えているようだ。無言で頷くと、岸田は決意を秘めた目でウェイトレスを見た。
「いいだろう。奴の居場所を教えてくれ。お前らの要求通りに動いてやるよ」
 だけどな。と続けて、岸田は一呼吸置いた。
「はっきり言っておく。お前たちが奴と同じ側にいる限り、お前たちのことも見過ごすつもりは無い。覚悟しておけ」


某所 大広間 PM13:30――――――

 さてと。有紀は大広間の奥にある、巨大なモニターの前の椅子に腰かけた。
「ふはっ、ふははっ」
 下品な声が耳ざわりだった。アケミとマナミ。二匹の傑作に上も下も奉仕されて、賢者の男はすっかりご満悦のようだ。
 仕事の邪魔になるので、正直この男には早々に退場願いたいのだが、有紀にとって最大の目的である、「方舟」に乗るためには、この男に満足いくまで奉仕するしかない。かといって、このクズのような男が、有紀の手の届かないところ(モニターで見えているが)で女を独占させれば、粗相を犯すのは目に見えていた。なので仕方なく、仕事の傍ら、この男が奉仕を受ける様子を監視することにしたのだった。

 幸い、二匹の奉仕は、この男にとって至上のものであるらしかった。この分なら、奉仕を堪能したあとで、自分への態度を全く裏返すだろう。手土産に彼の気に入った奴隷猫を持ち帰らせれば、全て予定通りに事は進むはずだ。
 ゼウスは、有紀の操るキャッツが巷で騒がれたことで、有紀の方舟入りに消極的なようだった。それは四人の賢者達も同じで、本来なら「作品」を献上するといえば、それを審査にくるはずの賢者達は、誰も来ようとはしなかった。

 有紀は裏で連絡を取り、賢者の中でも一番の新入りで、何の「力」も持たないこの男に接触を図った。何の力もないわりに強欲なこの男は、あれこれと賄賂を渡すことを取り付ければ、渋々ながらも独断で有紀の「作品」の審査をしてくれることになったのだった。

「よし。次はお前が『上』をしろ」
 男はマナミに指示する。
「はひ。かひこまりまひた、へんじゃはま」
 男のモノを咥え、顔中を精液でドロドロにしたマナミが嬉しそうに答える。
 せいぜい愉しんでろ。そう心の中で呟き、有紀はモニターに目を移した。

 「教育部屋」が映し出されていた。数日前から無人で、機能していなかったのだが、昨晩から一部の機械が起動していた。画面が映ると、丁度「ティーチャー」がこちらに連絡しようとしているところだった。
「ティーチャー、どうだ。順調か?」
 有紀の声に、ティーチャーはやや驚いて、しかし嬉しそうな声で答える。
「ご主人様!丁度、今しがた『教育』は完了致しました」
「あの女のところでベースとなる催眠は完成していたからな。だが、これからが重要なんだ」
 ティーチャーは気合の入った顔で頷く。
「わかっておりますわ。いつもの『奴隷猫』とは、少し違う暗示をかけるのですね」

「ああ。かなりイレギュラーな暗示だが、何とか仕上げて欲しい。時間が命なんだ。出来れば今日中に動き出したい」
 有紀が言うと、ティーチャーは画面の脇に身体を寄せた。すると彼女の後に、数日前のアケミ達と同じように、磔にされ、人形のようにぼんやりとした裸の少女が映し出された。上半身と艶のある髪は、食事に出された牛乳が乾いて真っ白に汚れ、それでも遠目にも美人と分かる美少女だった。

「あの通り、支配の具合も上々です。暗示をかけてみないと分かりませんが、上手くいけば夕方には完成出来るかと」
 ティーチャーからの朗報に、有紀は素直に顔を綻ばせる。
「上出来だ。頼んだぞ」
 猫の礼をすると、画面は消えた。

 有紀はこの後の展開に思考を巡らせる。予定通りだ。何も障害はない。ない・・・はずだ。
「あふっ、あふふぅ」
 地に堕ちた賢者の脂っこい喘ぎだけが、大広間に木霊していた。

 
 


 

 

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