Silent Night

〜ゆーたのいちばんながいひ〜


 

 



 ――――このお話は『おろろん淫魔くん』の後話です――――



 ブィィィィィィィィィン、ガーーーーーーーーッ、バタバタバタッ!!ブィィィィィィィィィン......

 年の瀬も押し迫った、”聖なる”って呼ばれる日の前日、その日は朝からとんでもなく慌ただしい幕開けだった。

 と言っても僕のする事なんて何もなくて、ただあちこちで鳴り響く掃除機の音と瞳さんのバタバタと駆け回る足音に振り回されてるだけなんだけど...。

 リビングで掃除機の音を聞けば台所に、台所にバケツと雑巾を持った瞳さんがやって来れば結局は僕は玄関に追いやられてしまう。
 そんな一見大変そうなひとときだけど、何気なく聞こえてくる瞳さんの鼻歌と嬉しそうな笑顔を見ているだけで、つい僕も車椅子をコロコロと転がしてしまうんだ。

 ようやく一息ついた瞳さんを捕まえた僕はさっきからの疑問をぶつけてみた。

「ねぇねぇ瞳さん?どうして今日はそんなに綺麗にお掃除してるの?どうしてそんなに楽しそうなの?」

 僕の質問はそんなに変だったろうか?瞳さんはすっごくキョトンとした顔で僕を見つめている。

「え...やだ、私優太になんにも言って無かったっけ?」

「うん、なんにも聞いてない」

「ええーーーっ!じゃあ、どうしてあんたまでそんな嬉しそうな顔してんのよっ!」

「だって....瞳さんが嬉しそうだから...いけなかった?」

「あや、いけなか無いけど...そ、そうか..あの、そのう...あのね...」

 僕にはもうそれだけで嬉しい事が一つってカンジの真っ赤な顔で、珍しく歯切れの悪い言葉をごにょごにょと言っている。

「ええと、今日、今夜ね、お客様が家に来るんだ。ごめんね優太に言ってなくて。そ、その人ってのは、あの、そのう...」

「あ、ひょっとして彼氏さん?」

 ちょっと驚いた顔で口をパクパクとさせてる瞳さんに向かい、僕は勝ち誇った顔で言ってみる。

「へっへ〜...あったり〜、でしょ?どうも最近瞳さんのご機嫌がいいなぁって思ってたんだよねぇ」

「ちょ、ちょっと、なによその言いぐさわぁ。それじゃ今まで私のご機嫌が悪かったみたいじゃない。ゆーたぁ!」

 ぐいっと迫る瞳さんの迫力に、僕の勝ち誇りはすぐに終了した。

「あ、いや、ご、めんなさい。そんな事ぜんっぜん無いんだけど、その、いつもと違った種類の機嫌がさ....ね?」

「なぁにが『ね?』だよ。お姉さんをからかうにはまだ9年早いっ!」

 その具体的な数値に再び年の差を思い知らされた僕は、少しだけシュンとなりながらすごすごと引き下がる。

「ほらほら、今日は優太も病院行く日でしょ?さっさと用意しないと一緒に行けないわよ」

 さっきまであれ程あちこちに追い回しておいて今更『さっさと』なんて、言いがかりじゃないかとも思うんだけど、それを口に出す前に辺りはもう既に掃除機の騒音に包まれていた。
 仕方なく僕は隣の掃除済みの部屋に行き、出してあった外着に着替える。少しくらい前から瞳さんにズボンを脱がされるのが恥ずかしくなってきた僕は、努力の結果全部の着替えが出来るようになっていた。それを瞳さんは『複雑な気持ちだ』って言っていたけど、なにが複雑なんだかはよく分からない。




 今日は月に一度の検診の日だ。瞳さんの勤め先の病院だからいつも車で一緒に行く。

 今も僕は車の助手席に座ってじっと瞳さんの横顔を眺めてる。真剣な顔でハンドルにしがみついている瞳さんは僕がまじまじと見つめてもあまり気にならないようで、だから僕はこの病院までのドライブが大好きだ。
 そして信号待ちなんかで止まった時、やっと気付いたようにこっちを見て微笑んでくれる瞳さんも....。



 あの日...僕が記憶を無くしたまま1年ちょっとぶりに瞳さんと再開したあの時、それでも瞳さんは僕を憶えててくれて、前と同じ位優しくしてくれて、そして今、一緒に暮らしてくれている。全くの他人だってのに...。


 お医者さんの話では僕が記憶を無くしたのは行方不明の間に『子供には耐えきれない辛いコトとかが在ったんだろう』って事になったらしい。でも一通りの検査が終わり、僕を他の施設に移そうって話になった時、以前病院から逃げ出したのは施設に行くのを嫌がったからだと思ってた瞳さんが申し出て、僕を引き取ってくれる事になった。
 瞳さんになんの責任も在るはずが無いのに、でも僕はそんな瞳さんの好意にずっと甘えたまんま今日まで過ごしてきた。
 確かに僕は今幸せだ。でも瞳さんはどうなんだろう?一体僕が居る事で彼女の幸せを邪魔したりはしてないんだろうか?最近の僕はずっとそんな事ばかり考えてて、でも僕にはどうしようも無いって事もよく判っていた。
 そりゃぁ出来れば僕が彼女を幸せにしてあげたい。でも、それがダメならせめて邪魔はしたくないなぁ、なんて瞳さんにはとても言えない悩みをずっと持っていたんだ。
 だから瞳さんに彼氏さんが居るなら、僕は一生懸命応援してあげたい。だから今夜は僕にとっても勝負の時だ。瞳さんの良いところを一杯教えてあげて、瞳さんの悪いところ(あんまり無いけど)はバレないようにしなくちゃいけない。
 彼女の横顔を見ながらそんな決意?を噛み締めていると、いつの間にか病院の裏口に着いていた。

「優太、こっからなら一人で大丈夫よね?」

「うん、大丈夫だって、何度も来てるんだから。瞳さん、僕言っとくけどもう子供じゃ無いんだからね」

「な〜に言ってんの。まだケも生えてないクセに。ほらさっさと降りなさい」

 瞳さんの言う”ケ”が何を意味するのか、その位は僕にも判る。でもそれについて大っぴらに反論できる程大人になりきってもいない僕はただ真っ赤な顔で黙ったまま、車椅子に乗り換えた。

「あら、おこちゃまには刺激が強すぎたかしら?ま、それも勉強だ、少年。ほら早く行きなって、混み出すと帰りが遅くなるんだから」

 僕はボソッと「行って来ます」を言いながら、ゆっくりと車椅子を転がし始めた。





 私立開成病院 東2棟5階 医局内資料室

 コンコンッ

 ごく控えめなノックの後、そっとノブを廻し、押すと、本来なら施錠されている筈のそれはスッと開いた。

「りょうちゃん、居るの?」

 ”恐る恐る”といった感じの、しかし嬉しそうに弾んだその声は静まった室内にゆっくりと浸透する。

「よう、瞳。待ってたぜ」

「了ちゃん...」

 真っ赤に染まった頬を押し隠すように男の胸にチョコンッと押しつけられた頭を、その男は優しく抱きしめ、その感触を味わうように指が這い回る。

 ふと見上げ、どちらからともなく寄せ合った唇がそっと触れると、クチュクチュという唾液を交換する音が漏れ始めた。

「んっ...はぁぁぁぁっ.....」

 熱病に冒されたような吐息が蔓延すると、それに促されたように男の指が背中を伝い、小さく引き締まった尻をやわやわと揉みしだく。

「ん....ん...了ちゃん....ん、んふぅ.....」

 柔らかな肉の感触を確かめながら5本の指が白衣の裾を徐々にたぐり上げていく。やがて晒された純白のショーツ。その端を絞るように持ち上げると白く引き締まった双つの丘がとびだし、同時にその中心に備えられた女の官能を刺激する。

「ぁん...了ちゃん...ダメ....」

 女のか細い否定の声などまるで聞こえないかのようにその薄布の内側へと指先を潜り込ませると、そっと割れ目の周囲で遊ばせる。焦らすように、くすぐるように。

 クチュッ.....

 卑猥な音を微かに漏らしながらなぞられたその部分には男への愛情の印が、確かに滲んでいた。

「ぁ、ん...ダ、ダメ...ホントに....こんな所じゃ...誰か、来ちゃう、よ...」

「なに言ってんだよ今更。俺のココ、もうこんなになってるんだぜ。このまま回診に行けってぇのか?お前もホントはヤリたかったんだろ?その為に1時間も早く”出勤”して来たんじゃねぇのかよ」

「ん...そ、そんなコト...早く来たのは優太が...」

 真っ赤な顔でゴニョゴニョと呟く女の言い訳に男がムッとした表情を浮かべると、股間を熱心になぞっていた指を引き抜いた。
 熱っぽく、しかし不思議そうな顔で見上げる女に向かい、冷めた言葉が突き刺さる。

「ちっ、まぁた”優太”かよ。どうせおまえには俺なんかより優太の方が大事なんだろうがな、せめて二人きりの時位『あなたの為に急いで来た』位は言って欲しいもんだぜ。なんか醒めちまったし、もういいよ。仕事、行けよ」

 女のポケットから勝手に取り出したハンカチで濡れた指先をグイッと拭き取ると、ポイッとその場に投げ捨てドアに向かう男。

 その翻った白衣の裾を慌てて捕まえた女が振り返りもしない背中に額をなすりつけながら言う。

「ま、まってよ。ごめん、ごめんね。そんなつもりじゃなかったの、ホントよ。あなたより優太が大事だなんて、そんなつもりじゃ....ただ、ちょっと、だけ、恥ずかしかったの。だから、ああ言ったの。ごめんね、了ちゃん...」

 ようやく振り返った男がさっきより強く女の頭を掻き抱くと、今度は至極優しげな声色で囁く。

「そっか、そうだよな。瞳は俺のコト愛してくれてるんだもんな。俺もゴメン、なんかちょっと悔しくなっちゃって....優太にやきもち、かな?」

「うん、あたし愛してるよ、すっごく。だから、やきもちも、ちょっと...うれしい...」

 もう一度触れ合った唇をさっきよりも激しく押しつけながら、巻き付けた腕に精一杯の力を込める二人。

「ね、瞳?....俺もう、タマんないんだ...瞳が魅力的だから...愛してるから...俺のコレ、もう爆発しそう....どうすればいい?」

 優しげな男の問いかけに女は真っ赤に頬を染め上げながら大きな胸に顔を埋め、ボソボソと呟いた。

「う、うん....了ちゃん...どうしたい?...言って...。私に..どうして....欲しい?」

 俯いた女の頭の上で男の頬がニヤッと吊り上がった。

「え、いいの?口....とかでも?」

「う、うん....了ちゃんにさ、ほら、やきもち焼かせちゃったからさ...お詫びにさ....恥ずかしいし...巧くないけど...もし、了ちゃんがさ、そうして欲しいんなら....さ」

 消え入りそうな声の先を待ち切れないといった風に男は部屋の奥に置かれた古びたパイプ椅子に腰掛け、いそいそとチャックを降ろした。
 その足元の床ににつま先立ちのままそっと膝を着いた女は、チャックの奥から現れたそれを男の手から受け取り、戸惑いながら延ばした舌先でチョコンッと触れてみた。

「ん」

 微かに漏れ出た男の官能とピクンと動いた肉塊が自分の舌を喜んでくれている、待ち望んでいる。そう思えた女は、胸になにか嬉しい気持ちが湧き出すのを感じた。

「あんまり見ないでね....」

 恥ずかしげにそう言いながら、意を決したように全てをその可憐な唇に納めると女はゆっくりと頭を動かした。

「ああ、いい、きもちいいよ、瞳。んん、それよりも、嬉しいよ、俺の為にしてくれてるんだね...瞳」

 閉じてるかと思う位嬉しそうに細めた目で女は男を見上げる。

「うん、了ちゃんだけだよ。了ちゃんの為だけだよ....」

 それだけ言うと女の口は再び男のモノへと向けられる。
 以前はあれ程嫌がったこの淫らな奉仕も、男の嬉しそうな顔を見るだけで、快感を表すこの肉塊の反応を舌で感じるだけで、なにかが満たされていくような気がしていた。

「ああ、もっと吸って....きもちいいよ瞳
 裏の筋を舌でなぞるんだ...そうそう、くすぐるように
 先っぽを吸い上げて....もっと強く
 膨らみの裏を舌で舐めまわしてごらん...ねっとりと、いやらしく
 頭を動かして...もっと早く、もっと強く....ああ、いいよ瞳、素敵だ、愛してる...」

 男の細やかな指示を理解しきれないまま、ただ懸命に唇と舌と頭を動かし、額に汗を滲ませながらもその奉仕にのめり込んでいく女。
 女の全てを操るように動かしながら、胸元から差し入れた手でふくよかな乳房を両手で揉みしだく男。
 次第に熱く深くなっていく女の吐息。
 その熱に冒されたように男は無口になり、目を閉じ、その感触をただ貪り続ける。

 やがて迎えた終焉の刻....口の中に充満する生臭い匂いを味わいながらその捨て場所を目で探す女に男は寂しげに言った。

「瞳、まさか、吐き出したいのか?俺の精液はそんなに嫌いなのか?」

 決して望んではいなかったその哀しげな声に女は開けられない口を堅く結び直し、頭を大きく横に振ると、笑顔と共にゴクン、と喉を鳴らした。





 今日の診察はとびきり早く終わった。
 なんか主治医の先生が外国に行ってるんだって。それなら来る必要は無かったんじゃないかとも思うけど、瞳さんとドライブが出来ただけでもヨシとしなくちゃね。

 僕はそんな事も頭の端で考えながら、今晩の作戦を練る為に院内をうろうろと動き回ってた。
 僕にとってはついこの間まで入院していたつもりの病院だ。知ってる人はあまり居なくなっちゃったけど、なんだか懐かしく思えてあの時の病棟にまで足を、いや椅子を延ばしてみた。

 外科病棟は東2と書かれた建物で、そこの4階が僕の居たトコロ。
 エレベーターに乗り、ボタンを押す。
 チーンという音と共にドアが開くと、正面に見えるナースセンターから看護婦の明美さんが顔を覗かせた。

「あら!優太君じゃないの、ひさしぶり。今日は診察の日?瞳は勤務中ね。どう?二人共元気にしてる?」

 そう、僕と一緒に暮らす為に瞳さんは夜勤の無い手術室勤務に転属した。入院してる患者さん達が瞳さんのあの笑顔を見られないのはこの病院にとっても医学界にとっても大損害ってトコロで、僕の申し訳ない気持ちと少しの優越感をチクチクと刺激している。

「あ、明美さんご無沙汰してます。二人共元気ですよ。特に瞳さんはね」

 僕のもったいぶった言い方に明美さんは興味を示す筈だったんだけど、何故か少しだけ眉を寄せて心配そうな顔をしていた。

「そう...特にね.....ねぇ優太君、瞳に最近変わったトコ無い?」

 その明美さんのもったいぶった言い方に僕の方は早々に負けてしまった。

「え?...変わった....ところ?」

「うん、その、嬉しそうとか、悲しそうとか.....」

 僕は”なぁんだ”という気持ちと、勝ち誇った顔でその問いに答えてあげる。

「あ、それならあるある。もう最近とぉ〜っても嬉しそうなんだよ、瞳さん。それが何故だかは言えないけどね、へへっ」

「そ、そう...嬉しそう....なんだ」

 てっきり一緒に喜んでくれると思ってた明美さんの顔を、僕は不思議そうな目でじっと見上げる。

「え、嬉しそう、なのは...ダメなの?」

「ううん!そんな事ないない。あー、あの優太君...?」

「何?」

 明美さんの真剣な表情に僕は少し不安になってきた。

「もし、もしもさ、瞳がさ、悲しんでたり、落ち込んでたりしたらさ、力になってあげてね」

 そんな事は当たり前だけど、明美さんの言ってる意味がよく判らない僕はよく分からないまま返事をした。

「う、うん.....もちろんそうする...けど...どうしてそんなコト言うの?」

「え?あ、いや、別に...なんとなくそうして欲しいなぁ、なんて思ったもんだから。ははっ、余計な心配させちゃったかな?」

 ”全くだ!”とは言い出せずに僕は少しムスッとした顔のまま、「じゃ」と小さく告げると、不安にさせる明美さんから逃げるように後ろで開いたエレベーターに乗りこんだ。

 チーン

 頭の中をグルグルと回るいろんなコトをまぜっかえしながら、何も考えずに降りたそこはいつも待ち合わせしている1階のロビーでは無く、ひっそりとした、他の階よりも少し狭い廊下の前だった。
 ようやく階を間違えた事に気付いた僕は、その原因を作った明美さんに少し腹を立てていたんだと思う。もう既に下がり始めているエレベーターをじっと待つのがなんか無性に苛立たしくて、誰も居ない廊下をコロコロと車椅子を転がしてたんだ。
 すると、僕が頭の中で考えていた人、僕の頭の中にいつも居る大好きな人の名前がふいに耳に飛び込んできた。

(え?瞳さん?瞳さんが居るの?)

 少し嬉しくなった僕は必死にさっきの声の方向に急いだ。


「えぇぇぇっ!」

「....ちゃんってそんなかよ?」

「ああ、マジマジ。あんだけ可愛い顔しててさ、身体はエロいのなんのって」

 その声はなんか下品なカンジのする話し方で、進んで聞きたくなる声じゃ無かったんだけど、もし瞳さんが居るならやっぱり会いたい。
 そう思って僕はその扉の前でじっと耳をすました。

「でもよ〜、ついこの間ヤったばっかしじゃん?そんとき彼女、処女だったんだろ?それをもうそこまで仕込んじまうかよ」

「へへっ、だよな。俺もあいつのまっすぐ加減にゃちょっち驚いてんだ。あいつ『愛してる』って言ったらもうなんでもしてくれんだよなぁ」

「くぅぅっ!羨まし、いや、なんか無性に腹が立ってきたぞ。我らのアイドルを汚しやがって」

「まぁそう言うなって、いいモン見せてやっからよ」

「えっ、なんだよ」

「ほら、これっ!」

「おっ、おおおおおっ!!こっ、これわぁぁぁっ!!エッ、エロいっ!おっ、お前よくこんなの撮らせてくれたなぁ」

「言ったろ、俺が『愛してるから』って言えばなんでもオッケーなのよ。その内ウリでもしてくれるかもな」

「おっ、おい、そうなったら真っ先に俺達に声掛けろよな」

「ああ、特別料金にしといてやるぜ」

「ちょ、ちょっとその前にその写メ、売ってくれよ」

「ダメダメ、ネットにでも流れちゃシャレんなんねーだろ。今バレるワケにはいかねぇからな」

「ああ、そういやお前院長の娘にも手ぇ出してんだってな?そっちはどうすんだよ」

「へへ、もちろんそっちが大本命に決まってんだろ?顔とスタイルは負けてるけど、そっちが巧くいきゃ、次期外科部長の座は俺のモンだかんな」

「はぁぁっ...ったく顔がイイってだけでこうも人生決まってくるもんかねぇ。俺もう生きてくのが嫌んなっちまったぜ」

「おおい、顔だけって...失礼なヤツだな〜。こう見えても俺のメス捌きは素で部長に認めて貰ってんだぜ。メスも牝も俺に扱わせりゃ思いのままってヤツさ、キャハハハッ!」

「へいへい、顔も家柄もメスの扱いもどうせ俺たちゃお前にゃ叶わんよ。こうなりゃお前にコバンザメしておこぼれに預かるとするか」

「そっ、懸命だよ。時期外科主任さん」

「ん〜、いい響き。早いトコ出世してくれよ」

「まかしとけって。今夜は御令嬢とプリンスでお食事だからな」

「今夜ってお前、あっちとも約束してんだろ?」

「ああ、御令嬢の方は9時門限だから、それからだよ。おい、それまではお前らと宴会やってるコトになってるからな。アリバイ頼むぜ?」

「お安いご用さ。時期部長さん」

「へへっ、んじゃそろそろ真面目なフリでもしに行くとするか.....」



 僕はお腹の奥から込み上げてくる苦くて酸っぱい物を味わいながら急いでその場から離れた。
 結局、名前は確認出来なかったし、話の内容もよくは判らなかった。
 でも、僕の胸の中には確かに嫌な物が渦巻いてて、それを確かめなくちゃいけないって思いと思い出したくないって気持ちが順番に浮かんでは消えたりを繰り返してる。

 ずっしりと重たいお腹を押さえながら、ようやく開いたエレベーターに乗り込む。
 3F...2F...エレベーターの表示が下がる毎に僕の心が少しだけ軽くなっていくのを発見した。
 それが何故なのかは1階に着いて扉が開いた時、ようやく分かった。

 チーン

(瞳さんに会いたい...早くあの笑顔を見たい....僕の全てを包んでくれて、僕の嫌な気持ちを全部洗い流してくれる、あの笑顔をいつまでも眺めていたい)

 でもそこには殆ど居なくなった待合の患者さんと、スーツ姿の営業さんが居るくらいでやっぱり瞳さんは居なかった。
 よく考えればこんなに早く瞳さんの仕事が終わってる訳がなかったんだ。仕方なく僕は持ってきた学校の宿題を広げたけど、いつもは楽勝なその問題集も今の僕には難しい瞳さんの医学書のようだった。 

「..なワケ無いよね〜.........」

 少し小さな声で呟いてみる....頭のモヤが少し晴れた様な気がした。

「そんな事、あるワケないじゃないか..........」

 もう少し大きな声で言ってみた....少しお腹が軽くなった気がした。

「ばっけやろーっ!誰だと思ってんだ!瞳さんだぞっ!瞳さんにそんなコトあるハズないじゃないかぁーーーっ!!」

 ようやくすっきりした胸をえっへんと張りながら振り返ると、目をまんまるに開いた瞳さんがロビーの向こうに立っていた。





「ねぇねぇ、さっきはなんだったの?優太があんな声出すなんて、お姉さんびっくりしちゃったわよ。なんか私にそんなコトがどうとか言ってたような....」

 僕はそんな瞳さんの疑問を気にもせずニコニコとしながらまた運転中の彼女の横顔を眺めている。

「ううん、なんでもないよ。ごめんなさい。ちょっとおっきな声出してみたかったんだ。お陰でとってもすっきりしちゃった」

「そ、そう?でも病院は静かにしなくちゃいけないトコロなんだよ。優太のせいでお姉さん怒られちゃったんだから」

「う、うん、ごめんなさい。もう絶対しないから」

「そうね、ま、優太もたまにはそんな気分の時があってもいいよね。なんってったって普段の優太はおりこう過ぎんだから」

「へへっ、そう?」

「そうよ、優太もたまにはわがままの一つくらい言ってもいいのよ」

「そう、そうだね、じゃぁ瞳さん、少しわがまま、言っていい?」

「おう、言え言え、お姉さんにど〜んと言っちゃえ」

「あの、あのね、瞳さんのここにね...頭、のっけていい?」

 僕は恐る恐る瞳さんの、真っ直ぐに前を見据えてる眼を覗き込む。

「は?膝枕がしたいの?ばっかだねぇ優太は。そんなの遠慮しないでいつでも言いなって」

 そう言いながら瞳さんは僕の頭をぐいっとその細くて綺麗な脚に押さえつけた。

 僕は頬に触れる柔らかな感触をずっと忘れないようにと、必死で神経を集中しながら時折ペダルを踏み降ろす綺麗な足先をじっと見つめていた。





「ふんふんふ〜ん、たらったら〜.....♪」

 朝より輪を掛けて激しくなった瞳さんの鼻歌は、でも朝ほども僕の心をふわつかせてはくれない。

 午後8時、祈るような気持ちで待っていた僕が我慢しきれずに尋ねてみた。

「ね、ねえ瞳さん?お客様って何時頃にくるの?」

 申しわけなさそうな顔を台所から覗かせた瞳さんが言う。

「あ、ごめんね〜優太、お腹すいた?実はちょっと遅れるらしいのよ。お友達のパーティから抜けれないんだって。9時半頃になるって言ってたから、なんなら優太先に食べる?」

 僕はまたお腹がシクッてなるのを押さえながら、出来るだけおっきな声で返事をした。

「ううん、いいよ、僕も待ってる。そんなにお腹減ってないし、みんなで一緒に食べたいから」

「そ?悪いわね、そのかわりすんごくおいしいの作ってるからね〜」

「うん、楽しみだね。そんなの聞いたらやっぱりお腹減ってきちゃうよ」

 そう言いながらも僕のお腹はシクシクと痛み始めていた。
 9時半...9時に”その人”と別れてすぐに来れば30分......

「そんなワケないよね〜」

 小さくそう言ってみたけど、今度は治らなかった。



 午後9時、料理を殆ど終えた瞳さんがテーブルに着き、僕の前に座っている。なにか落ち着かない様子だ。

「ね、優太?もし、もしさ、今日のお客様がさ、一緒に暮らすなんて事になったら...どう思う?」

 瞳さんが可愛い頬をほんのりと染めながら呟いた。

「え?」

 僕は少し意外だった。今はもっとそれ以前の事で頭が一杯だったから。
 でも、もしそうなったら...僕の今の心配が全部嘘で、その人が瞳さんを本当に幸せにしてくれたら、こんなに嬉しい事はない。

「あのさ、瞳さん...僕の..僕の一番の願いはね、瞳さんに幸せになって欲しいってコトなんだ。だから、もし、さ、その為に、もし僕のコトが邪魔になったりしたら.....」

「優太っ!!」

 瞳さんが立上り、すごく怒った顔で睨み着けている。

「あんた何言ってんのっ!私がいつあんたのコト邪魔だなんて言ったよ?私がいつあんたのせいで幸せになれないなんて言ったよっ!あんたまさかいっつもそんなコトばっかし考えてたんじゃないでしょうねっ!!」

 瞳さんは本気だった。僕が学校に行きたくないって言った時も、僕が勝手に散歩して迷子になってしまった時も、ただ優しく抱きしめてくれた瞳さんが、今は顔を真っ赤にして怒ってた。
 僕は嬉しいのか、申しわけないのか、それとも情けないのか、よく判らなかったけど、ただ溢れる涙が零れないようにぐっと唇を噛み締めてた。

「優太...あのね、ホントはね、私だって寂しい時ってあるんだよ。でも優太が一緒に居てくれたからいつも元気で居られるんだ。優太の元気をいつも分けて貰ってたんだ。だからもう二度とそんなコト言わないでちょうだい....ね?」

「う、ん...ごめんなさい.....」

 しみじみとした空気を振り払うように僕は言ってみた。

「ね、瞳さん?今日のお客様って、どんな人?」

 瞳さんの顔にさっきより少し嬉しそうな感じが戻ってきた。

「あ、うん、先月あった病院の忘年会でさ、あ、今私が務めてる第一外科部のなんだけど、私の歓迎会も兼ねてやってくれたんだ。その時に初めて会ったんだけど、その人も新しく大学の医局から来た人でね、前園って外科の先生なの。話してるとなんかとっても楽しいのよ。それから少しずつおつきあいするようになって、優太に黙ってたのは悪かったけど、ちょっとほら、軽薄そうなトコとかあったんでどうかなって思ってたら、なんだかとってもいい人みたいで、私の事すっごく好きだって言ってくれたの」

「そ、そう...よかったね、いい人で。....瞳さん、今、幸せ?」

「うん、そりゃぁ...あ、優太、まぁたからかおうってんじゃないでしょうね?」

「違う違う!僕はホントにいつも祈ってるんだよ。今日もサンタさんにお願いしたいと思ってた位なんだから」

「サンタさんねぇ、私にも来てくんないかなぁ....」

「来るんじゃん?もうすぐ」

 僕がいたずらする時みたいな顔で言うと、瞳さんは反撃も忘れて真っ赤な顔で目を見開いている。

「あったり〜...かな?へへっ」

「ゆ、う、たぁぁぁぁ」

「へへっ、ごっめんなさ〜い」

 ピーンポーン!

 ようやく流れ出したほのぼのを遮るように玄関の呼び鈴が鳴った。

 はたと目を輝かせた瞳さんがスリッパをパタパタと鳴らす。
 僕はと言うとこのままずっと続けばいいと思ってた空気を遮られて、その代わりにお腹はまたシクシクと痛み始めた。

「あ、了ちゃん、いらっしゃい♪待ってたよ〜」

「おうっ、ちっと遅れたか?ほら、これ」

「キャッ、綺麗な薔薇!ありがとう」

「ちげーよ、ゆーたにだよっ」

「あはっ、や〜だ了ちゃんったら、ほら早く入ってよ、狭くて悪いけど..外、寒かったでしょ、どうだった?パーティ」

「ん?ああ、それなり、だな。ほら、俺の頭ん中はもう瞳で一杯だから、何を食って、何を飲んでんだか」

「んふ、もうっ....」

 そんな楽しそうな会話を背中で聞きながら僕は、小刻みに震える手を押さえるのに必死だった。
 すごく優しい、瞳さんの為に投げかけられている声が、あの時の声とダブるのを確かめたくないという風に。

「....うた...優太?どうしたの?」

 僕は身体中の神経を総動員して作り上げた笑顔をパッと振り向ける。

「あ、ごめんなさい。あの、こんばんは、立岡優太です。よろしくお願いします」

「おうっ、お前が優太か、瞳からよく話は聞いてんぜ。すっげお利口さんらしいな。まるで俺のガキの頃みたいってか?ははっ」

 バンバンッと叩かれた肩が、まるで打ち身のようにズキズキと痛む。

「そうそう、これプレゼントだ。サンタさんの程はいいモンじゃねぇがな」

 そう言って渡されたのは剥き出しのゲームソフトにリボンが掛けられただけのモノだった。
 ゲーム機なんて一台も持ってない僕にとってこれがどれ程の価値の物なのかは判らなかったけど、嬉しそうな顔ってこんなかなぁと思いながらお礼を言う。

「あ、どうもありがとうございます。これ学校でみんながやってるって聞いてたんです」

「へへっ、だろ?CMでガンガンやってたもんなぁ、半年前だけど」

 少し複雑そうな顔で二人の会話を聞いていた瞳さんが、ようやく話に割り込んでくれた。

「ね、了ちゃん、お腹空いてない?パーティでごちそう食べて来ちゃったかなぁ。私達はまだだからさ、良かったら食事にしようよ」

「おっ、いいねぇ、瞳の手料理か。そう思ってセーブして来たんだけどさ、ま、ちょっち少な目で頼むわ」

「うん、わかった。優太も少し待っててね。暖めるだけだから」

「おねがいしま〜す。僕はお腹ぺっこぺこだよ」

 嬉しそうにパタパタと瞳さんが消えた後には、リビングに気まずい雰囲気だけが残った。

「ふぅ〜っ」と溜息のような息を吐き出しながら椅子に腰掛けたその人は、僕の全身をまじまじと眺めている。

「よぉ優太、お前のその脚、もうダメっぽいのか?」

 その無遠慮な質問に僕は一瞬ムッとしたけど、瞳さんの為にグッと堪えた。

「はい、なんか神経がズタズタだっておっしゃってましたから」

「主治医は誰だよ?」

「川辺先生です」

「ああ、あのハゲオヤジね。ま、腕は悪かないけど、あんまり要領よくねんだよな。検査にタップリ時間掛けるタイプだな。検査なんかいくらしたってダメなモンはダメに決まってんのによ」

「...............ですね」

「あ、別にお前のコト言ったワケじゃねぇからよ。気にすんなって。ま、その内ブラック○ャックみたいなのが出てきてズバズバッと治してくれるかもよ。カカカカッ」

「...............ですね」

 ずしんと落ち込んだ僕との会話を嫌ったのか、その人は何も言わずにリビングを出ていった。
 僕は一人で...その方が有り難かったんだけど...一人でもう一度唇を噛み締めた。


 少しするとカウンターの向こう、台所から押さえたような声が、でもはっきりと聞こえてくる。

「ちょ、ちょっと、ダメだって、いくらなんでも....」

「いいじゃん、あんなおこちゃまにはなんの声だか判りゃしねぇよ。な、瞳、愛してる、だから、な。俺、さっきのパーティでもずっとお前のコト想って我慢してたんだから」

「あん、もうっ、了ちゃんったら、嬉しいけど、さすがにちょっと...ね、おねがい」

 瞳さんが料理を作る音以外に、ペチャペチャと水を弾くような音と衣擦れの音が漂ってくる。
 それが何の音なんだか僕みたいなおこちゃまには判る筈がないのに、何故かその水の湧き出す様子まではっきりと頭に浮かんでるのが不思議だった。
 そしてその妄想が瞳さんを汚しているようで、その男の人だけじゃなく、自分の頭の中まで嫌いになっている僕がいた。

「あ、あふ、あ...や、めて.....ね.....りょ.....ん、んん....」

 ズズッ、ズルッ、ズズーー........

 何かを啜るおっきな音がしたと思ったら、その男の人の声が台所に響いた。

「ああ、瞳の作るスープはやっぱりおいしいなぁ、最高だ。な、瞳、もっと欲しいよ」

「ん、ダメ...ダメだったら...あとで、あとでいっぱい....ね?...りょ..あっ、んんっ....」

 チュッ、チュバチュバッ、ズズーッ、ズチュッ、ニュチャッ、ニュチャッ、ジュボッ、ジュボッ

 段々と大胆になるその音を、耳を塞ぐ事もせず、僕は黙って聞いていた。その情景をまるでそこに居るかのようにありありと、散々見てきたかのように事細かに浮かべながら。
 それは瞳さんが少しずつ壊されていくような、そんな嫌な音だったんだけど、そこから逃げるのは何故か悔しい気がしてた。

 ジーーッ.....カチャカチャッ

 多分ズボンのジッパーを降ろし、ベルトを外す音なんだろう。それが聞こえた後、瞳さんのおっきな、今度ははっきりとした声が聞こえてきた。

「ダメッ、いくら了ちゃんでも絶対にダメ!」

 ガタンッ!とすごくおっきな音がした。何かに堅い物をぶつけたみたいな。

「アタッ、イテテテテテッ!」

「ご、ごめん了ちゃん....大丈夫?」

 バチーーーーンッ

 平手で頬を叩く音がして、僕は心配そうな顔を目一杯横に伸ばして覗き込んだ。

「いってーーーなっ!のヤローッ、何すんだよっ!お前だっていつも嬉しがってズボズボやってんだろうがっ。なーにを今更清純ぶりやがって、そんなに優太が大事ならおこちゃまの勃たねぇチンポでもしゃぶってやがれっ!」

「けっ」という言葉を最後に台所を出てきたその人を僕はキッと睨み付けながら、唇を噛み締める。
 さっきからずっと堪えてきた涙を、この男にだけは見せるものかと食いしばりながら....。

「ったく!揃って生意気なガキ共だ。ガキはガキ同士お医者さんごっこがお似合いだぜ」

 そう言って出ていった後も、蹴るようにして締められたドアを僕はずっと睨み付けていた。
 欲しくも無かったゲームソフトまで、去り際に掴んで行ったのも何故か悔しかった。



 それからどの位の時間が経ったのかは判らない。僕は時計を見るのも忘れて、ただカウンターの向こうから流れてくる瞳さんの啜り泣く声を聞いていた。
 床を這ってでも瞳さんの元に行きたい、彼女の頭を抱きしめてあげたいと思ったけど、多分今はそうして欲しくは無いんじゃないかと思って、ただ黙って椅子に座っていたんだ。

 少しするとガスの火がボッて着く音がして、カチャカチャとお皿を並べる音がし始めた。
 ちょっとだけホッとした気持ちで奥の様子を窺ってると、服と髪は整ってたけど真っ赤な目をした瞳さんが暖かそうなスープを運んできてくれた。

 そのまま黙って二人分の料理をテーブルに並べている瞳さん。僕の正面に座りそっと手を合わせた後、スプーンを手に持つ瞳さん。
 僕も黙ってそれに従い、しばらくは二人で、スープを啜る音だけを立てていた。

 でもやがてその中に鼻を啜りあげる音が混じりだし、「うっ、うっ...」と軽い嗚咽までもが入ってきたと思うと、どちらからともなく二人の動きが止まった。

 カチャン!

 お気に入りだと言っていたお皿に、ふいに落されたスプーン....ゆっくりと立ち上がる瞳さん。
 そして黙ったまま僕の後ろに回ると、そっと僕の首に腕を廻し、抱きしめてくれた。

「うっ..すんっ....ゆうた...ごめんね...イヤな思いさせちゃったね」

 僕はやっぱり涙をぐっと堪えながら、目の前の白くて細い腕をしっかりと掴んだ。

「瞳さん...僕は、僕だけは絶対瞳さんの味方だよ。僕は死ぬまで瞳さんの事好きでいてあげる。世界中の誰よりも瞳さんの事愛してるんだ。絶対だよ!」

 少しませたような言葉だったけど、照れくさくは無かった。僕は今言った言葉に本当に絶対の自信があったんだ。

「そう、そうだね。やっぱり優太が居てくれて良かったよ....。うん、お姉さんは大丈夫。こんなのはなんでもない事なのよ。すぐにいつもの私に戻るから。........でも...でもね...今は、ダメ....少し、だけ...時間....くれないかなぁ....優太の事、邪魔だなんて思ってないから...私も優太の事、好きだから...少しだけ....一人になってもいいかなぁ....」

 その言葉にとても大きな無力感を味わった僕だけど、何も言わず、ううん、何も言えずにそっと握り締めてた腕を放した。

「ごめんね」

 そう一言だけ残して、瞳さんはドアから出て行った。

 その背中を見るのが辛くて、僕は振り返らなかったけど、窓の外へ目をやると、さっきまでは降って無かった雪が窓の枠にまで積もり始めてた。





 午後11時、壁の時計からオルゴールのメロディが流れ出す。

 瞳さんが出て行ってから1時間程が経った。僕はふいに胸の中に湧き起こり、徐々に大きくなっていく不安をぬぐい去る事が出来ず、椅子から落ちるように、床を転がるようにして、車椅子に辿り着くと、なんとか這い登った。
 玄関の横に掛かったままの瞳さんのコートを引っ掴み外に出てみると、そこはもうアスファルトの色が分からない程に雪が積もっていた。

「瞳さん?.......瞳さーーーーん!」

 返らない返事を待つ程に募る不安は、もう僕の中で破裂しそうな位膨れあがって、さっきまで堪えていた涙はもうボロボロと頬を伝ってる。
 積もった雪のせいで重くなった車椅子を懸命に転がしながら、僕は思いつく限りの場所で、出せるだけのおっきな声で、大事な人の名前を叫び続けた。

「....ひ..みさん.....」

 ようやく見つけた瞳さんは大きな国道の向こう側、屋根もないバス停で一人、背中に一杯の雪を載せたまま座り込んでいた。

「瞳さーーん!.....瞳さーーん!」

 精一杯張り上げた僕の声は、まるで雪の壁に遮られたように届かない。

 僕はかじかんでよく力の入らない腕を懸命に回し、雪がこびり付いて冷たく、重くなったタイヤを精一杯の速さで転がした。
 いつもならすぐに辿り着ける距離がやけに遠く感じる。

 ガシャーーーーーンッ!

 ようやく辿り着いた国道の端っこ、その縁石を乗り越えようとした時タイヤがそれを越えきれずに傾いた。...そして気が付くと、僕は椅子ごと国道に投げ出されてしまってた。
 でもその音でようやく僕に気付いてくれた瞳さんが、慌ててこっちに駆けてくるのが見える。

「優太っ!!」

(よかった...瞳さんだ....僕の大好きな、いつもの...)

 冷たいアスファルトに頬を付けながら僕は駆ける瞳さんを嬉しそうに眺めていた。


 その時


 プァーーーーーーーーーーーーーーーンッ!!


 僕の左の方向から轟くけたたましいクラクション。
 ふと目を向けると、すごくおっきなダンプカーがこっちに走って来るのが見える。

「え?...そ、そんな...」

 キィィィィィィィッっていうブレーキの音はするけど、雪に滑ったタイヤは一向にスピードを落とす事なく、真っ直ぐに....瞳さん目掛けて突っ込んで来る。

 瞳さんはその音と状況に、驚き、立ち竦み、ただ、大きく開いた口に手を当てたまま固まってる。

(そ、そんな、瞳さんが、瞳さんが....し、死....?ぼ、僕のせいだ、僕が探しになんて来なれば...ううん、違う!僕が一緒に住んで無かったら、瞳さんは今日けんかなんかしなかった。アイツがどんなにひどいヤツだろうと、僕が居なかったら瞳さんは死なずに済んだんだ。僕のせいで、僕が居たせいで....僕の大好きな瞳さんが.......
 やめてやめてやめてっ!どうして瞳さんが死ぬんだ!どうして僕なんかが生きてるんだ!どうして、どうして.....どうして..)

 僕はなすすべもなく、でも少しでもそこに近づこうとかじかんだ指をアスファルトに突き立て、懸命に掻き込んでいた。
 爪が剥がれて指先から血が滴っても、引きずる膝の皮が擦り剥けても、ただそこに這い寄って、最後まで彼女の姿を目に焼き付けたかった。


 コマ送りのように少しずつ迫るダンプカー。


 瞳さんはぼんやりとその車体を見つめている。


「あ、あ....ひ、ひと..ひとみさぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんっ!!!」

 僕は指先から血の滴る腕をあらん限りにそこへ延ばした。
 ふいに冷たいアスファルトの感触が僕の身体から消え失せる。
 周りの景色が極端にぼやけ、集中していたその光景がズームアップように目の前に迫った。

 ドガァァァァァァァァァァァァァァァンッ!!

 爆発のような轟音が街に轟き、ダンプはクラッシュした。
 その後には、ラジエターから吹き出した真っ白な蒸気が辺り一面に広がり、全ての視界を遮っていた。

 シューシューと吹き上る蒸気の音以外何も聞こえない静寂の中、僕は何故かその蒸気に包まれていた。

 少しして...凪いでいた風が一つ吹き抜けると、一気に周りの視界が晴れ渡る。

 その時、鉄の焼けた匂いの代わりに僕の鼻に届いたのは、いつも部屋に漂っていた、瞳さんの髪の香り。
 そしてかじかんで感覚の無かった筈の腕に今感じているのは...柔らかくて、きもちのいい、瞳さんの感触。
 目一杯の力で抱きしめたその体は、華奢で、軽くて、折れそうな程に細く思えた。

 ふと気づき、目をやると、僕の左足はダンプのバンパーに膝のあたりまで突き刺さり、右足はアスファルトに10センチはめり込んでいる。

 どういう事なんだろう....?

 でも僕はそんな不思議な光景に思いを巡らせるのも忘れ、唯々瞳さんが生きてる事を感謝しながら、右足をズボッとダンプから引き抜いた。そして気を失っている瞳さんを横抱きに元来た方へと歩いて行く。
 そのまま僕の車椅子に瞳さんを乗せ、落ちていたコートの雪を払うと、そっと彼女の上に掛けてあげる。

 何故僕にそんな事が出来たのかは分からない。これが”きせき”ってやつだろうか?...でも何故か僕はその事実を疑おうとはしなかった。
 車椅子を押しながら素足の裏で感じる冷たいコンクリートの感触も、すごく懐かしい気がした。


「ふ〜んふふんふ〜ん....♪」

 僕はさっきまでお腹の中で渦巻いていたいやな感じを忘れ、不思議ないい気持ちに包まれて、部屋までの道を鼻歌交じりに歩いてる。
 今僕は一人じゃない。そんな気がしてた。
 瞳さんだけじゃなく、なにか...昔っからのトモダチと一緒にいるような...そんなトモダチが居た事なんて今まで無かったんだけど...よく分からない心強さが僕の気持ちをふわつかせてくれていた。

 見上げた星空はすっごく綺麗で、サンタさんまで居るんじゃないかって気がして、”お願いしてみようか”そんな気になってくる。

 そうやって夜空と瞳さんを順番に眺めながら歩き僕の体が少し寒さを感じ始めた頃、ようやくアパートに辿り着いた。そこで瞳さんをそっと布団の上に横たえると、僕はその傍らに腰を降ろし、その愛しい寝顔をじっと眺め続けた。
 抱えた膝頭に顎を乗せ、飽きる事なく、いつまでも、いつまでも.....。

 僕達はこれからどうなっていくんだろう?
 もう僕には今までのようにのほほんと彼女の笑顔を眺めるだけの生活には戻れない気がする。
 彼女が与えてくれる幸福をただ受け入れるだけじゃ居られない気がする。
 じゃぁどうするつもりかって?そんな事が分かる位ならこんなに悩んだりはしないさ。でも、瞳さんにどうなって欲しいかっていうのならはっきりと分かる。
 その為に僕ができる事が一つしかないって事も....ホントは分かってはいたんだ。

 他にも僕の小さな頭にはいろいろな事が浮かんでは消えていった。今となってはよく憶えていないけど...。
 そしてそれがようやく一区切りついたと思うと、それを待っていたように僕の脚は動かなくなった。





 午前12時、壁の時計からいつものようにオルゴールのメロディが流れ出す。
 僕はそれに合わせて、習ったばかりのSilent Nightを口ずさむ。

 そして....その唄が終わる頃、この部屋にもようやくサンタがやって来た。
 僕と、瞳さんへの、おっきなプレゼントを抱えて....。



 ピーンポーン....

 僕はその呼鈴の音に返事をするべきかどうか迷っていた。
 いくらクリスマスといっても夜中の12時だし、今はもう瞳さんの事以外には何も考えたくは無かったから...。

 ピーンポーン....ピーンポーン、ピーンポーンピーンポーンピーンポーン

 何度も鳴り響くその音に耳を塞ぎながら目を閉じていると、瞳さんがようやく目を覚ました。
 ゆっくりと瞼を開いた瞳さんは、今居る場所を確かめ、僕の顔を見つめ、一粒だけ涙をこぼすと、僕の頬に手を延ばしてくれた。

 ピーンポーンピーンポーンピーンポーン...ドンドンドンドンドンッ!

 そのけたたましい音にやっと気付いた瞳さんが、上半身を起こし玄関の方に顔を向ける。

「誰?」

 僕はゆっくりと首を横に振る。

「知らない...」

 ドンドンドンドンドンッ、ドンドンドンドンドンッ!

「ひとみ、ひとみっ、開けてくれ、俺だ、了だっ、頼む、開けてくれよっ!」

 僕達はすごく驚いた顔で少しの間見つめ合った。
 でも次に呼び鈴が鳴った時、少しふらつきながら立ち上がった瞳さんが怯えるように玄関の鍵だけをカチャッと開けた。

 バタンッ!

 瞳さんにぶつかるかってくらい勢い良く開いたドアの向こうから体中真っ白な雪に包まれたあの人が飛び込んで来た。情けなく垂れ下がった目で真っ直ぐに瞳さんを見つめた後、その場に頽れるように膝を着いたその人は瞳さんのお腹にしがみついた。

「瞳、瞳!さっきはごめん、俺が悪かったよ、俺が間違ってた、思い上がってたんだ。俺には瞳が必要だって事に、瞳が居ないと生きていけないって事に、さっきやっと気付いた。お前を失って始めて気付いたんだ。許してくれ、な、頼む。もう二度とあんな事はしないから、もう絶対にお前を悲しませたりはしないから、俺を捨てないでくれ、瞳ぃっ!」

 瞳さんはしばらく開いた口を両手で覆いながらじっと雪にまみれた頭を見つめていたけど、その雪をそっと払ってあげると、腰を降ろし、その冷え切った頬を両手で挟んだ。

「了ちゃん....寒かったでしょ?入んなよ。...ほら、こんなに冷たくなってるよ」

「ああ、ありがとう....ひとみ...お前の手は、いつもあったかいな....」

 立上り、こっちを向いた瞳さんの背中にもう一度抱きついたその人は強引に話を続ける。

「な、瞳、聞いてくれ。俺、今までお前に酷い事ばかりしてきた。今思うととても信じられない事ばかりだ。でもこれからはお前の為だけに生きたい。仕事も勉強もお前の為だけにしたい。もし、俺を許してくれるなら...ずっと傍にいてくれないか?仕事もしなくていい、俺を愛してくれなくてもいい、ただ、俺の傍に居てくれるだけでいいんだ。絶対に苦労なんてさせないから、絶対に俺が幸せにしてみせるから。な、瞳....」

 瞳さんはずっと俯いたまま黙ってその話を聞いていたけど、それが途切れると悔しそうな顔で言った。

「いや!.....いやよ、そんなの....」

 その人は絶望を絵に描いたように顔を真っ青にして涙を浮かべてる。

「ひ...とみ」

 お腹の前で組まれたその人の手をギュッと握り締めた瞳さんは、押さえ込んでいたモノを吐き出す様に言葉を繋ぐ。

「そんな...あなたの負担になるばかりの暮らしなんて絶対にいや!どうして一緒にがんばろうって言ってくれないのよ。どうして私があなたを愛さなくてもいいなんて言うのよ。もう、こんなに愛してるのに....私だってあなたの為に生きたいのに.....どうして....」

 ズルズルと瞳さんの背中を滑り落ちるように頽れたその人は、今度はその足元に頭をつけて、今はもう一杯の涙を止めどなく流してる。

「あ、ああああ.....ありがとう...瞳....俺は...幸せだ。お前の為に生きられる、お前の為にがんばれる...それが、そんな事が...ああ、なんて幸せなんだ........」

「了ちゃん.......あたしもよ」

 二人は僕が居るのも忘れて、その場で熱い口付けを交わしだした。
 僕はとっても嬉しそうな顔で、でも少し赤く染まった顔で、反対がわの窓にそっと目をやる。





 しんみりとした、でもほのぼのって感じの空気の中でいつのまにか僕の存在は小さく小さくなっていた。
 くちゅくちゅと流れる二人の幸福の音を噛みしめながら、このまま見えない程に小さくなればいい、なんてコトも考えてた。

 今僕は、間違いなく喜んでる。そして今目の前にある風景は確かに僕が望んでいたモノだ。あれ程心の底から願い、サンタさんにお願いしたばかりの....。
 でも、でも...なんか僕の胸の中に、ポッカリと大きな穴が空いたような気がするのは何故だろう?
 そんな事、瞳さんに知られるワケにはいかないけど...。

 何故かいたたまれない気持ちを振り払うようにそっとジャンパーを羽織る僕を、ようやく見つけた瞳さんが驚いた顔で立ち上がる。

「優太、何してんのよ!」

「え、ちょっとお散歩にでも....」

「ゆうたぁ!あんたまたくっだらない気を遣ってんじゃないわよ。こんな真夜中に何言ってんの!」

「お、おお、優太すまんすまん。すっかり二人の世界に入っちまってたぜ。これからは俺もちょくちょく来るんだから気なんて遣わんでくれよな。それと....さっきは悪かったな...」

「あ、いえ大丈夫です。でも、その、さっき、外に大事なスニーカー落として来ちゃって、ちょっと取りに行くだけだから」

「そのくらい。後で私が取りに行って上げるわよ」

「おっ、んじゃ俺がちょっち行ってきてやるよ。どこだ?」

 にこにこしながら僕を引き留める”了さん”に、僕は困った顔で言う。

「あ、いいですいいです。すぐそこだし。それにせっかく瞳さんが買ってくれた宝物を忘れちゃうなんて自分で探さなきゃ気がすまないよ。本当にすぐに戻るからさ」

 二人はしばらく”どうしよう”って感じで目を見合わせていたけど「ふぅ」って息を一つ吐くと、了さんが僕を車椅子に乗せて外まで連れて出てくれた。

「優太、本当にすぐ帰ってきてね。見つからなくっても帰るのよ」

「わ〜かってるって、言っとくけど僕はもうおこちゃまじゃないんだからね。それより早くご飯作っといてよ、お腹ペッコペコなんだから」

 また見合わせた二人が「プッ」と吹き出すと、今度は了さんが言う。

「お前って根に持つタイプだな〜。あ、ちょっとコレ持ってけ、用意ができたら呼ぶから」

 そう言って了さんは派手に飾られた携帯電話を僕に渡した。開けると金髪のお姉さんの裸が映ってて、慌てて閉じた僕はそれをポケットに突っ込んだ。

 玄関の前、下の方で隠すようにそっと手を繋ぐ二人を残し、僕はゆっくりと椅子を進めていく。
 さっきはうきうきしながら自分の足で歩いた道を、さっきと同じように星空を見上げながら...。

 満天に輝いてた星達はさっきより一層激しくなった雪に遮られ、よくは見えなくなっていた。


 僕はさっきから感じてる心の穴の事を出来るだけ考えないようにしていた。
 だってせっかくさっきサンタさんが一番の願いを叶えてくれたってのに、また違うことを願ってたりしたら『なんてあつかましいヤツだ』って思われちゃうかもしれない。さっきの願いが取り消しなんて事になったら最悪だ。
 その時の事がチラっと頭に浮かぶと、また僕のお腹はシクシクと痛み始めて、血の気が引きそうにもなる。

「とんでもないっ!」

 僕は一人、そう言うと、頭の中からその思いを一生懸命振り払おうとしてた。でも自分の居場所を見失ったような気持ちと、大好きな人を盗られちゃったような思いは段々と僕の中で形になって来る。

「...なワケないよね〜」

 また僕は一人で呟く。でも僕の心の穴は一層大きくなったみたいだ。
 もし、このまま...瞳さんに心配を掛けずに消えて無くなれるなら...そんな思いがどんどんと膨らんでくる。


「........さま」

「.....え?」

 そんな時、雪の中から誰かに呼ばれたような気がしたけど、空耳だろうか?

 ギュッ..ギュッ..ギュッ......

 キョロキョロと見回す僕の正面から雪を踏みしめる音が近づいてくる。瞳さん達とは反対の方向だ。

「誰?」

 ギュッ..ギュッ..ギュッ......

 じっと見つめてた僕の視界にぼんやりと映った影はだんだんと人の形になってきた。
 少しだけ怖い気がしたけど、今の僕にはそれも望んでた事なのかもしれないと、じっと目をこらす。

 やがて目の前ではっきりと像を結んだその人は、見た事もない、でもすごく綺麗な...女の人だった。
 肩までの綺麗な黒髪には雪がうっすらと纏わり、端正で切れ長の目はすごく心配そうに歪んでいる。
 だらんと垂れ下がった両手には、破れてボロボロになった僕のスニーカーを片方ずつぶら下げて...。

 真っ直ぐに目の前までやってきたその人は崩れるように僕の前に膝を着き、スニーカーを差し出しながら...こう言った。

「あなたが....私の大事な人?」

 それがなんの事だか全く分からなかったけど、いつの間にか零れ出た僕の返事はこうだった。

「はい」

 冷え切った腕を僕の首に廻し、目一杯の力を込めたその人は、今までずっと迷子だった小さな女の子のように、僕の胸で涙を流し始めた。
 その涙に終わりはあるのだろうか?彼女の悲しみが癒される事はあるのだろうか?そう思う程長い間その滴は僕の胸を濡らし続けた。
 たまらなくなった僕はそっとその人の頭を抱きしめ、ごしごしと撫でてあげる。
 少しでも暖まりますようにと....。

 何もかも忘れ必死でその手を動かしていると、彼女の冷え切った耳が、凍って幾らかの束になった黒髪が、少し暖まるごとに僕の心も癒されている事に気付いた。
 彼女が流し続けたその滴が、空いていた僕の穴に少しずつ注がれている事に気付いた。

 やがて二人の心に空いていた大きな穴は、一杯に満たされた。
 今はもうなにかふわふわとした気持ちのいい物が、二人を優しく包み込んでいる。


「世話の焼けるやっちゃで、ホンマに.....」


 そんな空耳が消え去った後には、痛いほど静かな夜がどこまでも広がっていた。

 
 
< 終 >


 

 

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