黒と白

−終章−


 

 

11.歪んだ欠片




 天にまで届くかと思える摩天楼の一角で、あゆみは一人彷徨っていた。
 
 失いかけた記憶の断片を拾い集め、合わないピースを並べながら必死でその隙間を埋めようとしている。
 

 彼女が虚ろな瞳を泳がせながら若干古ぼけたビルの前を通り掛かった時、ふと懐かしい思いが吹き抜けた....確かにそう思えたのだが、そこには自分の見知った顔も看板も無い。
 だがここに出入りする自分の姿がはっきりと思い浮かぶ。
 スーツ姿の自分..他にもいる..誰だ...赤いスーツ...あ...か....ね?

 突然あゆみの心が氷塊したように一気に当時の記憶が流れ込んできた。
 
(そうだ!そうだ!!私は、ここで仕事を...このビルの3階にあったはずの...”OFFICE SHIRATORI”..そうよ、間違いないわ!ここで、茜さんや真弓ちゃん達と一緒に働いてたんだ。
 商社に内定してた私を茜さんが誘って下さって...あの時は嬉しかったな〜、大学時代から憧れてた茜さんに声をかけて貰っちゃって..そう、始めはたったの5人だった。やっと借りれたこのオフィスも、エアコンは無いし、狭いし...でも楽しかった。茜さんが自分で夜食を作ってくれたり、徹夜明けによく打ち上げをやって、隣の人に怒られたっけ...。あ、そうだ!いつもみんなでいったBarはまだあるかな..えーと...”ash”..だったかしら...確かこの辺に.....あーっ!あるある!うれしいっ!後で来てみよう!)

 記憶のピースが繋がり始めた事で漠然と積もっていた不安は徐々に薄まり、ようやく自分の居場所を見つけたような安堵感に代わり始めた。


(でもどうしてSHIRATORIは無くなったのかしら..倒産?..まさか!茜さんに限ってそんな...あっ!ばっかだなー私...茜さんが5年もこんなきったない事務所に居る訳ないじゃん。きっとじゃんじゃん儲けておっきな事務所に引っ越したんだ。うん、きっとそうだよ。どこかなー、この近くかなー...。うわっ、どうせならこーんなトコがいいよねぇ...かっきー。
 茜さん..会いたいなー。どこにいるんだろう?前の住所と変わってないなら行ってみようかな。...えーと...住所は...うん、まだ憶えてるぞ!)

 あゆみの心が一気に軽くなった。

(そうだよ、茜さんならきっと今のこの状況をなんとかしてくれる。それが無理でも茜さんが居ればまたがんばれる。他のみんなは元気かなぁ?5年の間に仲間は増えたかな?あ、でも私は居なかったんだから”仲間”じゃ無いか...。みんな私の事憶えてくれてるかなぁ...ぐ、心配...まさか茜さんまで私の事...な訳ないよねー。なんてったって茜さんだもん。よーし!)

 待ちきれず、思わず駆け出すあゆみに一人の男が声を掛けた。

「あれっ、あゆみちゃん?あゆみちゃんじゃないの?」

 無理矢理立ち止まった事で転びそうにはなったが、どうにか持ち直すと後ろを振り返った。

「はい。あ、あの..すみません、とちらさまれすか?」

 多少胡散臭そうな中年の男だが、ようやく見つけた自分の過去を知る人間を心から歓迎しているようだ。

 男は忘れられていた事に若干は残念そうにしながらも、あゆみのそんな表情を見て馴れ馴れしく近寄って来た。

「あー、残念!分かんなかったか...俺だよほら..”ash”のマスター」

 彼の顔などは記憶の片隅にも残っていなかったのだが、あゆみの記憶の真っ白な部分に男が言った通りの情報が補填される。

「あーっ!マスター、おひさしふり。わすれちゃってこめんなさぁい。」

「しやーねーなー。ま、俺もずいぶん年食っちゃったからね。どうしたのこんな時間に、そんな格好で。仕事..辞めたの?」

「あ、えーと..辞めたっていうか...あ、あのマスター?」

「何?」

「よかったら少し時間ないれすか?ちょっと聞きたい事とかいろいろあって....」

「ん?ああ、いいけど..じゃ、ちょっと店に入んなよ」



「うっわー、なっつかしー!そうそう、わたしいつもこの席らったんら。茜さんはここね。いいなー、なーんかここらけが昔のまんまらよ。あっ、この端っこの席は....えーと、たれらったかしら....なんかすごくたいじなひとらったような....」

 カウンターの奥で一人コーヒーを焙れている男はそんなあゆみのはしゃぎ様を和やかに見つめている。
 
「って事はあゆみちゃん、今までどっか遠くにでも行ってたの?あれ以来、茜さんも真弓ちゃんもぜんぜん来てくんないからさ...ま、でもあんだけおっきな会社の社長さんがこんな小汚ねぇBarで飲まねぇか..」

 壁や椅子の隅々まで懐かしそうに見て回っていたあゆみが飛び上がるように振り向くとカウンターに駆け寄った。
 
「えっ、ねえねえマスター、”Shiratori”のオフィスか隣からどこに行ったか知ってるの?」

「えーっ!あゆみちゃんそんなに早く辞めちゃってたの?3年前だよオフィスが移転したの。ほらさっき俺達が会った所の前にでっかくて立派なビルがあったろ。あそこ」

「えーーっ!!やっぱり、やっぱり!さーすが茜さん、やったね!じゃ、今はあそこにオフィスを借りてんら。家賃たっかそー。儲かってんら」

「なに言ってんの。あのビル全部茜さんの物だったんだぜ。”Shiratori Building”ってこの辺じゃ有名なハイテクビルだったんだから」

「えっ!?.....」

(あのビル、少なく見積もっても数十億はしそう...。いくら茜さんが優秀だとしても数年でそんなに大きく成れるものかしら...いや3年前って事は自分が記憶を無くしてからたった2年だ。なんかおかしい..)

「ねえ、今”物らった”って言ったけろ..今はちかうの?」

「ああ、2年前突然売却されたって聞いたけど...会社やビルだけじゃなくって家とかの個人資産まで売っ払っちまったらしいよ。倒産って訳じゃ無さそうだったけど...茜社長、どうしてんだろうね...」

 先程感じていた解放感がまたも一気に収束し、暗転してしまった。
 
「じゃあ、茜さんか今住んれる所なんて知らないよね」

「ああ、悪いけど...。
 それよりさぁ、あゆみちゃんの方こそどうしちゃったの?なんかおかしいよ。記憶が曖昧だったり、その..足や..言葉なんかも....事故にでも会ったの?」
 
「うん...自分でもよく分かんないんら、ところところの記憶か無くなってたり、このからたの事もおぼえてないし...」

「へーえ可哀想に...あ、でも俺があゆみちゃんにお金貸してたの忘れてないだろうね?」

「えっ!こめんなさい。すくにかえします。おいくられしたか?」

「はははっ、冗談冗談、あっ、しまった、貰っときゃ良かった」

 面白くなったマスターは調子に乗って第2弾をくりだした。
 
「でも僕とあゆみちゃんがつき合ってたのはホントだよ。すんごく情熱的に愛し合ってたんだから」

 ”ばーか”と言う昔のリアクションを期待していたマスターだったが、ボーッと自分を見つめるあゆみの潤んだ瞳に思わず視線を泳がせた。

「あっ、そうそう、ちゃーんと憶えてるわよ。二人てよくれートしたよねー」

 なんとあゆみの頭の中では、記憶の空白にマスターの言葉が上書きされ、二人のデートシーンまで創りだされていた。
 強烈に依存していた対象を急に取り上げられた事で、あゆみの心は常に拠り所を探し求めていたのだ。それがたとえどんな冴えない人物であったとしても...。

「えっ....ちょ、ちょっとあゆみちゃん?」

「なーに?」

 にこにこと愛おしそうに自分を眺めるあゆみの顔をじっと見つめるが、冗談の色が...無い...。

(どっいう事だ?まさかこんなバカな冗談、本気で信じてる訳無いし。からかわれてんのか?)

 しげしげとあゆみの瞳の奥を眺める内に、いつの間にか二人の顔が数センチにまで接近していた。
 すると突然自分の目を真っ直ぐに見つめていたあゆみが、目を閉じた。
 
(こっ、これって..きっ、きす...おっけーって...やつ...うそ?)

 自分のしがない人生の中で1,2を争っていた美人が..今目の前で..無防備に...。
 
(もうだめ...怒ったら、騙されて悔しいフリしよう...)
 
 恐る恐る、唇を突き出し、そっと寄せていく
 
 チュッ....それが一瞬、本当に僅かに触れた途端、マスターは後ろに飛び退き、後ろに置かれたグラスを揺らした。
 そのままバック棚に張り付き、あゆみの動向をじっと探っていたが一向に怒り出す気配は無いようだ。
 
 それどころか、再び開かれた美しい瞳にはトロンとした妖しい光を讃え、今自分が触れたばかりの唇を舐めている。

(そ、そんなはずは...なんの冗談だ...)

 慌てて店中を駆け回り、棚の上や壁の額縁、照明器具などに隠しカメラを探し廻った。

「ねえ、マスター...もうおしまい?昔はあんなに可愛がってくれたのに...私の事、嫌いになった?」

(これは...本物だ...何故だ?何故急に...俺の冗談がホントに成ったって事か?何だかよく分からんが、こいつは...丸儲けだ)

「あー..あゆみちゃん」

「はい?」

「あの頃の君は本当に可愛かったよ。いつも僕を満足させる為にいろんな事をしてくれたねー」

 あゆみは恥ずかしそうに頬を染めながら、マスターへの性的奉仕を具像化している。

「うん、そうらったね。疲れてるあなたをいつもわたしからおねだりして、いろんな事を...うふっ」

(えっ、えーっ!そうなのか?今この子の中には一体どんな妄想が...くぅーっ、見たいっ!...待て待てその相手は俺じゃないか、旨くやればもうじき...)

「そっ、そうだよなー。いつでも俺の股間に顔を埋めててさぁ、まったくパンツを履く暇も無かったよ」

(どっ、どうだ?今度はちょっと直接的過ぎたか?)

「うふっ、こめんなさぁい...らってマスターのおちんぽすっこく美味しかったんらもん...あ〜ん、また欲しくなって来ちゃった。ねぇマスター?ちょっとらけ舐めさせてくれない?」

 今まで自分の中に渦巻いてはいたが、誰に向けるべき物か分からなかった愛情や性欲が、このマスターへの物だと勘違いしたのか。頭の中でそれらのピースが無理やり嵌められた途端、今まで溜め込んでいた物を一気に吐きだすかのようにあゆみは大胆になっていく。

(そう、そうよ。私はこの人に永遠の愛を誓ったんだ。この人の為に全てを捧げるって...)

 あゆみは立ち上がり、妖しい笑みを浮べたまま入り口のカギを後ろ手で締めると、ゆっくりとカウンターの端を回り込み、ブラウスのボタンを3つだけ外した。
 ふくよかな谷間を覗かせるその隙間に指を差し入れると、フロントホックをパチンと外す。
 プルンと揺れながら左右にはじけた膨らみは、ブラウスの上からでも美しい形を保っているのが分かる。

 ”後はあなたが”とでも言う様にそのままの格好であゆみはマスターの首に手を回す。
 
(も、も、もうダメ...ここまでやっといて後から”キャー”なんて言っても知らねぇからな)

 マスターは思いきってあゆみの唇に自分のそれを重ね、舌を差し入れた。
 
「あんっ!んん....んっ....」
 
 あゆみは嬉しそうに鼻を鳴らしながら一心にそれに答えようとする。
 
 その反応が自分の行いを肯定している事を悟ったマスターから全ての歯止めが外れていく。
 
「あゆみちゃんっ!」

 半分はだけられたあゆみのブラウスを一気に引き裂くと、今までグラビアでも見たことが無い程の美しい乳房が現れた。
 約3秒、その胸の膨らみに目を奪われていたが、まだまだしなければならない事は山ほどある。
 豊かな胸に顔を埋め、チロチロと乳首を転がすと心底嬉しそうな喘ぎ声が店の中に反響し始める。

 マスターは一時でもそこから口を離したくは無いと、乳首を咥えた不自然な体勢のまま、客席へと移動しようとしたが、やはり無理があったのかあゆみを抱えたまま派手に転倒してしまった。

 ガチャーン
 
 テーブルのグラスが割れ、椅子と共にひっくり返ったあゆみはウィスキーと氷水でズブ濡れになっている。
 その時に割れたグラスで切ったのだろう、乳房と内股に幾つかの赤い筋が描かれ、数滴の血を床に落としていた。
 
 ズキッ、ズキッ......

 その痛みのリズムが心臓の鼓動に合わせてあゆみの頭に響きわたる。

「あぁっ!.....」

 その鋭い痛みはやがて、あゆみの開発されきった雌の本能を刺激し始めた。

「あ...あ、あ、はぁぁ、ん、ん、ん...はぁっ、はっ、はっ、はっ.....」

(私、私..どうしちゃったの?痛いのに..痛いのが..き、気持ちいい...ああっ、やっぱり私は変態だったんだ。この人に飼われて、いじめられて、でもそれが私の....)

 乳房と股間の傷痕を指でなぞりながら、濡れた絨毯の上であゆみの痴態が繰り広げられていく。
 自らの血と愛液が混ざり合い、太股をピンク色に染め上げながら、ドロドロの淫裂を掻き回す。

「ああっ..こっ、こしゅしんさま...ろうか、あゆみを、いじめてくらさい...ろうか、もっと、あゆみを、可愛かって、くらさい」

 一瞬マスターは自分の耳を疑った。

(まさか、こんな可愛い娘が..マゾ?..で、俺の事をご主人様、だと......?くぅーーっ!苦節48年、やっと俺にも運が巡って来たぁぁぁぁーーっ!)

「そ、そうか..よし!これからたーっぷりと可愛がってやるからな」

 大急ぎでズボンを脱ぎ捨て、あゆみの指がヌルヌルと這い回っている淫裂へ、今にも破裂しそうな肉棒をあてがった。

 あゆみがその存在に気付くと、満面の笑みを讃えてそこを開け渡す。

「ああっ、嬉しいっ!...早く、早く...挿れてっ、奥まで..もっと、昔みたいに、いっぱいいっぱいぐちゃぐちゃにしてぇぇぇーーーっ!」

「あ、あ、あゆみちゃーん!」

 その瞬間!
 
 入り口の鍵穴からバシュッという破裂音が響き、大音響と共にドアが蹴破られた。

 そこからドカドカと数人のSAT(警察特別急襲部隊)隊員がなだれ込むと、瞬く間に二人をライフルの銃口が取り囲む。

 驚き唖然としている二人の前に、隊員の一人が進み出た。

「失礼します!」

 バシュッ、バシュッ

 その銃口から発射された麻酔針が二人に突き刺さると、一瞬で昏倒し、あゆみだけは背後の隊員の腕に抱きとめられた。



「あっちゃぁ..見ろよ、間一髪だぜ。あと数センチってトコだよ」

「バカヤロー!おめぇがあゆみさんから目を離したりしやがるからこんな事になったんだろうが!
 俺は知らねえからな。お前一人で天野様んトコに報告行けよ」

「えーっ!そんなぁ。この状況を素直に報告したら俺、どうなる?」

「さあなー。他の人ならいざしらず、なんてったってあゆみさんだぜ。あっ、そうだ。報告に行く前にこないだのポーカーの負け、精算してってくれよな」

「...だ、だって本部はあゆみさんの記憶補填、昨日までにするって言ってたじゃないかぁ!」

「知らねえよ。確か5年分の記憶設定に矛盾が見つかったって言ってたぜ。
 ま、それも今晩には終わるらしいけどな。残念でした」




 数日後、一人のエリート特殊部隊員に季節外れの辞令が下された。
 
 ”北海道網走駐在所単身永続勤務”

 その事情を知る数人の警察官達にとって、それは一つの都市伝説と化しており、以来あゆみの警護が緩められる事は無かった。







12.謀反


 ピロロロロロロ、ピロロロロロロ、ピロロロロロロ.....

 深夜の邸宅にけたたましい電子音が鳴り響く。

 堂島は訝しげにベッドサイドにある眼鏡を取り上げ鼻に乗せると、のっそりと時刻を確認した。

 午前2時。
 官邸からのホットラインがこの時刻に鳴る、と言うことは即ちそれは非常事態を意味している。
 それをまるで思い出したかのように慌てて受話器を取ると、掠れる喉からなんとか声を絞り出した。

「私だ」

「あ、長官!夜分申しわけ有りません。実は15分程前に東京湾沖で国籍不明の潜水艦が発見されたと報告が有りました!」

「な、何っ!国籍はっ?」

「それは今の所不明なのですが、2隻の戦略級原潜と思われ、SLBM(潜水艦射出型弾道弾)の発射口らしき物が確認されております。対潜哨戒の網は広げておりますが、それきり消息を絶ったままです」

「総理には、連絡はついたのか?」

「はっ、先程取れたのですが、なにぶんサミットの真っ最中ですのでもう少し情報が確定した後、有事であればすぐに帰国するとおっしゃられて、その間は長官に指示を仰ぐようにと...」

「分かった、すぐに出るから..司令本部はどこだ?」

「総理官邸です。防衛庁本部はその...連絡が不通でして」

「なっ、なんだとっ?!平岡君はどうした?」

「そ、それが平岡防衛大臣と上島統幕議長、それに神坂陸幕長にまで連絡が取れないのですが、3時間前、陸自第一師団に東京湾警護の命令が大臣署名付きで出されています」

「ばかやろう!!そっちの方が一大事だろうが!こいつはへたすると...クーデターだぞ!!」

「ま、まさか..そんな...」

「総理にすぐ帰国を依頼しろ。迎えは?」

「は、もう玄関前に到着しております」

 ガチャン!

 苛立たしげに受話器を叩きつけた後、堂島はふと考えを巡らせた。

(署名付きの命令書がわざわざ出されている、ということは未だ末端隊員までの洗脳は為されていないと見てよさそうだな.....ふん、ならこちらにも打つ手が有ると言う物だ...)






「オーライ、オーライ」

「おい、もっと注意しろ!荷物を運んでんじゃねえんだぞっ!」

「申し訳ありませんっ」

「これで最後か?」

「はい、後は野島所長ご依頼の諸設備だけです」

 影一は研究所の広大な前庭に並べられた幾つかのカプセルを眺め、その内の一つに近寄ると上に掛けられたキャンバス製のカバーを開いた。

 中では優子が今も幸せそうな顔でスヤスヤと寝息を立てている。
 頬を叩くと今にも起きあがり、昔の媚びた視線で抱きついて来そうな嬉しい錯覚が影一を包む。


「ご主人様、受け入れ完了いたしました」

 夏美が頭を下げたまま、地面に向かって報告している。

「ご苦労だった。優子も早いとこ皆の所に降ろしてやれ。館には誰か残ってんのか?」

「はい、医療班以外は全て残してまいりました。よろしかったでしょうか?」

「ああ、かまわんが..」

 未だに下を向いたまま話を続ける夏美に、少し苛ついたようにそのとがった顎先を掴んで上に向ける。
 が、夏美は目を閉じたまま一向に影一と視線を合わせようとはしない。

 そんな夏美の顔をじっと見つめていると、やがて大粒の涙が一つ零れ落ちた。

「いや..ご主人様...捨てないでください。どうかご一緒させて下さい...」

 先日より、計画に支障の無い数人の女達が洗脳を解かれており、このカプセルの搬入が終わり次第自分もそうなるのだろうと思っていた。

 目をつぶったままの夏美のをボロボロと伝う涙を指で拭ってやると、耳元に静かに囁いた。

「夏美、目を開けろ」

「...いや...いやです...お願いです....どうか...」

 全身をガタガタと震わせ、蚊の鳴くような声でいつまでも哀願を続ける夏美に影一はあくまでも優しく囁く。

「...いいから、捨てねぇから目を開けろ!」

 ようやくゆっくりと見開かれたその瞳は、今も恐怖で彩られている。

「夏美..お前には別に頼みがある」

(頼み?!ご主人様が私に?...命令じゃ無く?そ、そんな...どうして...)

 驚いた表情で固まってしまった夏美は、そのよそよそしい言い回しに言いしれぬ不安を抱いていた。

「もし、俺が死んだら....この女達と...あゆみを頼みたい。
 小夜子や他の残った女達は恐らく...俺の後を追うのだろう。だがお前には生きて、俺の心残りを...託したい。こいつは断ってくれても、構わんがな....」

 夏美の頭は混乱していた。普段ならあゆみの世話などは願ってもない事の筈だ。だが、最愛の主人を亡くし、たった一人で生きて行けるのか?その時の状況など全く頭に浮かんでもこない。

「分かりません...ご主人様。私に..それが出来るのか。一人で生きて、ご主人様のご意志を全う出来るのか...
 でも、でも...ご主人様の悲しみを、私も...背負いたい....。
 やってみます....ご主人様...もしそれで、ご主人様が安心して逝けるのなら...私は....」

「おいおい、まだ俺が死ぬと決まった訳じゃない。そうなりたいとも思ってねぇよ。上手くいきゃまた一緒に館に戻れる」

 夏美の絶望に覆われた胸に僅かに光が射し込む。
 
「あはっ、そうでしたね!すみません、悪い事ばかり想像しちゃって。そうなったらあゆみさんも戻って来られますよね?」

「.......」

 無言で答える影一に、辛そうな顔を取り繕い、夏美はもう一度笑顔を振上げた。

「ではご主人様、お気を付けていってらっしゃいませ。お帰り、お待ちしております」

「ああ、お前も気を付けて帰れ」

 夏美の顎先をもう一度摘み口付けを施してやると、今度は嬉しそうな顔で舌を一心に絡ませてくる。
 
 影一の指先がなぞるように夏美の顎から首筋へと移り、美しい黒髪が括られていた輪を手鋤く様に指先で絡め取ると、決意の表情で振返り、自らの長髪を後ろで束ねた。





「どうだ?何か動きはあったのか?」

 官邸内に設置された司令本部に入りざま、堂島は全員に向かって声を張り上げた。

 それに気付いた一人のスーツ姿の男が駆け寄って来る。

 ”滝本雅之防衛政務次官”防衛畑出身の若手政治家としてその辣腕ぶりは現防衛大臣をただの御輿と言わしめる程であったが、いかんせんその若さが非常時の柔軟な対応を鈍らせている。

「長官、先程百里の空自基地から4機の輸送ヘリと3機のF−15が無許可で飛び立っています。行き先は山梨県富士山麓方面です」

「やはり...生物化学研究所か?」

「は?確かに空路上にはその施設がありますが、そんな所に何を...?」

「どうせ陸路も押さえてあるんだろう。確認してみろ」

 何がなにやら分からないまま滝本はオペレーターに幾らかの指示を出す。

「一部の有料道路閉鎖の指令と共に第一空挺団移動の形跡があります。行き先は、同じく富士山麓方面」

「中止命令は、出せんのか?」

「ダメです、東部方面隊全て連絡とれません、おそらくどこかで電波妨害が為されているようです」

(ちっ、やはり準備は向こうの方が周到、という事か...)

 堂島の横で事の成り行きを見守っていた滝本が蒼白な顔で話し掛けてきた。

「ちょ、長官!これはやはり....クッ、クーデター?」

「ああ、そうだ。総理はまだか?!」

 その問いに答えるかのように、青ざめた通信士から怒鳴るような報告が上がってきた。
 
「ちょっ、長官!今総理の専用機到着直前に羽田が占拠されたとの報告がっ....」

 堂島の視界が暗転し、強烈な目眩が襲う。
 
「人質に取られたのか?」

「いえ、寸前に連絡が取れたので再び上がれたようです。今関西方面に向かっておられます」

「小松はどうだ?連絡は?」

「はい、片桐空幕長がたまたま小松基地におられたので指揮にあたっておられます」

「片桐君は、こっち側なのか?」

「そのようです。先程からしきりに本部の指示を仰いでおられますが」

「では早速スクランブルを指令しろ。総理の空護が最優先、そして”強奪”された輸送ヘリとF−15の撃墜だ」

「げ、撃墜...ですか?」

「無論通告した後だ。だが恐らく返事はせんよ。
 撃墜ポイントを特定しておけ。民家はもちろん、研究所にも被害を与えるな」

「長官、一体あの研究所には何が..?」

 不安そうに詰め寄る滝本に向かい、堂島は親父の様な暖かい視線を返す。

「滝本君、君はまだ若い。我々老人と一緒に沈む事もなかろう。
 これはあくまでもクーデターだよ。某国主導のな。君はそれを全力で阻止する。それだけでいい」

 滝本にとってそのあまりに理不尽な言いようは、政治家本来としてのプライドを傷つける物ではあったが、政治家滝本の生みの親とでも言うべき堂島の言葉を覆す事は出来なかった。

「..お沈みになる、と言うのは...」

「私もぼちぼち総理と一緒に隠居させて貰おう、と言う訳だよ。ま、死ぬ訳じゃない。滝本君、余計な心配よりもやる事は山程あるぞ」

「はっ!」

 堂島の尋常ではない決意を感じ取った滝本は振返り、声を張上げた。

「片桐空幕長に連絡だ!小松にホットライン開けっ!総理の安全が確保出来次第司令本部をそっちに移す。各方面隊の動向確認、連絡を密に、敵と味方を識別しておけっ!招集中のシビリアンはそっちに向かわせろ、本部の設置完了までここから日本を死守するんだ。総理から岩国と横須賀にも連絡して貰え、緊急戦闘配備で待機を依頼。出来れば第七艦隊にも公海ギリギリまで出張って貰え。ぐずぐずするなっ!」

 ただ事ではない指示内容に、司令部内の空気が張りつめる。途端に慌ただしくなったユニフォーム達の様子を見るにつけ、逆に緊張を若干解けた堂島は傍らの事務椅子に深く腰掛けるとゆっくりと溜息をついた。

(ふうっ..天野様の指示が無ければ俺も今頃あたふたと血迷っていた所か?だがまさか俺が人類の存亡に関わる仕事をするはめになるとはな...まあ、政治家冥利に尽きると言えばそうだが...)

 自分の中に初めて芽生えた使命感という物に若干戸惑いながら、堂島は不安げな溜息をもう一つ吐出した。





 ドッガーーーーーン!!

 全ての女達の搬入が終り影一が研究所内に入ろうとした矢先、瞬く間に近づいた大音響が頭の上を通り過ぎて行った。

 一瞬で見えなくなったF−15のジェット音の中から、こちらもかなりの音を轟かせる大型の輸送ヘリが前庭上空に現れ、辺りの木々を揺さぶり動かす。
 遠く周りを取囲む研究所のスチールフェンスの向うには生茂った木の葉の隙間から戦車の砲塔らしき物も見え隠れしている。


「ちっ、御大層なお出迎えだぜ。夏美達は大丈夫なんだろうな」

 迷惑そうな顔で上空を睨みつける影一を意にも介さず、ヘリは強引に高度を下げてくる。

 その時かなり遠くの方で爆発音らしき物が轟き、一機の戦闘機が樹海の中に沈んでいくのが見えた。
 影一が周りをグルッと見回すと研究所の東の方角で、おそらくは同型機同士のドッグファイトが繰広げられている。
 やがてその内の数機が同じく撃墜されると、残った機体が研究所の様子を探る様に上空を通り過ぎていった。
 と、その時、地上の木々の間から発射されたRPG(地対空ミサイル)数発が残ったF−15を追尾し、視界から消えていった。
 ....十数秒後、彼方から幾つかの爆発音だけが聞えてきたが、その結果はここからでは窺い知れない。

(ふん、こないだの灰皿が効いたか。堂島も必死だな)

 上空にジェット音が無くなり、ヘリのプロペラ音だけが響き渡る。

 それらが舞降り、砂塵をまき散らすのを疎ましげに遮りながら、影一は逃げる様に所内に入っていった。




「ご主人様、お疲れ様です。例の準備、完了しております」

「”女達”は隣にいるのか?」

「はい、カプセルの生命維持装置も接続完了しています。こちら”も”専用の電源を用意致しましたので、例の装置に影響はありません。ご主人様、”ご契約”の時間は決っているのですか?」

「いや。だが上の準備の良さから見て恐らく”あいつら”はもう来てるんだろう。後は力場の解除待ちってトコか」

「そうですか...ではご主人様、ご準備が出来ましたらお申し付けください」

 一礼をし部屋を下がろうとする小夜子を呼止めると、影一はそっと小夜子の腰に手を回す。

 夏美と同じような優しい口付を交した後、影一はそっと耳元に囁いた。

「小夜子、ご苦労だったな。すまんがお前には最後まで付きあって貰う。覚悟はいいか」

「ご主人様...おやめ下さい。そのようなお気遣いは奴隷には相応しくありません」

「そうだったな。こいつが終ったらたっぷり可愛がってやるよ、楽しみにしてな」

 少女の様に染まった頬を影一の胸に埋め、鼻先を一心に擦り付けながら小夜子は応える。

「はい、ありがとうございます。もっとご主人様に相応しい牝犬にご調教して頂きたいと存じます....」

 影一の手がスカートの中に差込まれ、一瞬で濡れそぼった柔肉をクチュクチュと掻き回しながら、いやらしく突き出した舌に唾液を一杯に乗せ、小夜子の舌に絡ませる。
 
「あ、んんっ....ごしゅ、じん...ま.....あああっ」

 主人に嬲られるこの至福の瞬間を永遠にも胸に刻み付けようと、全身の神経を集中しながら荒い息を主人の顔に吹きかけ続ける小夜子。

 だが悦楽の刻はすぐに終りを告げ、影一の瞳に宿っていた優しい色は、強く引き締った物に変っていく。

 その色を感じ取った小夜子にも諦めにも近い決意の表情が浮き上がり、しっかりと視線を交すと名残惜しげに部屋を出て行った。



 高くそびえ立つ緑の塔を眺めながら影一は、この数年の間の事を思い返していた。

 麻里との再開、力を得た日、茜達を墜としてからようやく進み始めた計画、繁華街での狩り、慣れない海外での調査、恵との出会い、そして何よりあの”月食の日”、苦悩と安らぎのあゆみとの生活....それら全てが今の自分を形成し、ここに立たせている。そして全てを懐かしく感じられる程に悟りきった自分が居た。

「今度こそ、俺が...あいつらを........守る」

 目を閉じ、ゆっくりと横に伸ばされた指の先が合わされ、パチンと弾かれた。

 ウイィィィィィィィィ..ィィィィ...ィィィ.....ィィ.....ィ...ン

 全ての照明が落ち、機械音が止り、闇と静寂が辺りを支配する。

 感じられるのは、隣の部屋から微かに流れ込む酸素の吸入音と、自らの鼓動....そして不意に頬を舐める冷たい風。
 そう2年前、館の庭で影一の心胆を寒からしめた、あの嫌な感触が蘇る。

 だがあの時と確かに違うのは、自分が何物も恐れていないという事だ。

 研究所の地下を覆う厚い外殻を通り抜け、今”それ”が部屋に入って来たのを感じ取ると、その闇に向かい睨付ける様にカッと眼を見開く。

 やがてその闇が、自分を威圧する様に見下げる位置でヒトを形取っていくと、冷たい声が発された。

「久しいの、人間」

 返事すら返さないこの人間は、以前には確かに跪き、敬意を表していた。しかし今は立ちすくみ、腕を組んだまま、自分をじっと睨付けているではないか。

「人間、無礼は許さぬぞ」

 影一にとってその男の怒りは、まるで褒美をくれているかのように心を躍らせてくれる。

「そうかい?こないだ会ったじいさんはこの仕事はフィフティフィフティの契約だって言ってたがな。違ったかい?」

「なんと!この儂と、お主のような人間が同じ立場だというのか?そのような事が許されると思っておるのか!今すぐに跪かねば、存在ごと消し去ってくれるぞ!」

「ああ、おかまいなく。この際態度なんてモンにこだわってもお互いいい事ねえと思うぜ。あんたらはその塔が欲しいんだろ。俺は隣の女達に精気を戻してくれりゃそれでいい。それでこの契約は完了だ。その後でなら命だろうが、存在だろうが、あんたにくれてやるよ。それともハナから約束は破るつもりだったのかい?いかんなぁ、約束は守らねぇと、神さんにしかられるぜ」

 男にとってこのような仕打ちに遭うのは生れて初めての事ではなかったか。
 怒りに髪を逆立て、影一の足元の空気が分子レベルで攪拌されても一向に生意気なニヤつきをやめようとはしない。

 膠着したその状況をどうにかするべく、傍らに控えていた老人がその男になにか耳打ちする。

 なにか男の腹を納める策略でも思いついたのだろう。振上げていた腕をようやく降ろした男は影一を無視して緑の塔に歩み寄った。

 そしてそれに手を掛けようとした時、

「ちょっと待った!その前に隣の女達を戻して貰おう。そういう約束だ」

「約束?ああ、約束だったな。いつかの儀式に使用した者共か?よかろう、精気なら戻してやるが、以前の契約ではあの者共は儂に差出された供物だった筈だ。そうなればもう一度”血の宴”が催されるというわけだな」

「な、なんだとぉっ!!」

 横から老人が口を挟む。

「ふぉーふぉっふぉっふぉっ。お主、契約内容はきちんと確認せんといかんぞ。びじねすとはそういうモンじゃ。ふぉっふぉっふぉっ」

 今度は影一の髪が逆立ち一気に怒りを男に向けるが、勢いよく吹出した影一の瘴気も対峙する二人の中程までにさえ届かず、立ち消えてしまう。

 その歴然とした力の差に影一は、一時は驚きひるんだがすぐにも先程の冷笑を取戻した。

「はっ、さすがは”オカタサマ”だ。力で叶うわきゃねーか」

「ふん...人間、そなたの無礼、此度の働きに免じてやらんでもない。さっさと立去るがよい」

「そうかい?そいつは助かったぜ。じゃあ後は宜しくな」

 あっさりとそう言った影一は部屋の隅に移動すると、オーケストラの指揮をでも執るかのように腕を振上げ、指を合わせた。

 パチンッ

 一気に室内の全てが光に包まれ影一の中からドス黒い闇を洗い流していったが、その中に感じる清々しい気持は力場だけのせいではなく、待ちに待った復讐の時が来た事を告げていた。







13.闇の軍団



「こちら第二中隊、ユニットの受け入れ態勢整いました。空護の機は既に撃墜されていますが、以降の攻撃はありません。搬出班進入よろしいか?」

「いや待て、先程内部からの通信が途絶えた。本部ともだ...どうやら敷地内一体がジャミングされているらしい。どうも様子がおかしい....。
 先行侵入している部隊の帰還を待って作戦を修正する。それまで第三戦闘配備で待機」

「了解しました。第三戦闘配備で待機します」

「ふぅっ....」

 無線機を置いた第一空挺団長中村は、自分の中に言い知れぬ不安が渦巻いているのを感じていた。

(おかしい...この任務にはどうも腑に落ちない所が多すぎる。だが統幕議長直々の命令だ....と、言うことは.....)

 部隊内に若干弛緩した空気が流れ、何人かの兵士がポケットの煙草に手をのばしかけた....その時、ガラスの自動ドアの向こうで一筋の閃光が走った。

 ズキューーーーーン.....
 
 ライフルの発射音が静寂を切り裂くと、それを合図にけたたましいマシンガンの音が辺りに響き渡る。
 
 ズガガガガガガガガガガガガガガッ!!
 巻き起こるけたたましい銃声が辺りを震撼させる。
 ドキュゥーーーーーーン!
 その合間を縫うようにライフルの発射音が淀んだ空気を貫く。

 底の見えない闇の奥底で、幾条もの閃光が空間を飾っている。
 呆然とそれを見つめる数百人の兵士達を後目に、叫びのような銃声が交錯し続ける。

 ドッガァーーーーーーーーーーンッ!!

 その撃ち合いに終止符を打つかのように爆音が轟いた。
 手榴弾のそれと思われる爆発音と共に吹き抜けのホール全体を覆っていた硝子が一気に飛散し、兵士達の頭上に降り注ぐ。

「なな、なんだこれはっ?!中で、誰が、何が起こってるんだ....くっ、正面第二小隊下れ!装甲車両隊前へっ!」

 その時、闇に包まれた内部廊下の奥から二人の兵士が駈け出て来た。
 血塗れの足を引きずった兵士をもう一人が抱える様に肩を貸しながら、必死の形相で走ってくる。

 その二人が、バリケードを掲げ迎えに出た味方の中にようやく逃げ込めたかと思った瞬間、内部の闇の中から発射された一発の銃弾がその兵士の背中を貫いた。
 
「たっ.....竹内っ!竹内ぃぃぃっ!」

 肩を借りていた方の兵士が懸命に声を掛けるが、既にその兵士からの声は返らない。
 
「くっ、くそっ!」

「山中っ、どうした?中で何が起こってんだっ!」

 涙を流し、戦友の頬を叩き続けていたその兵士は、動かない下半身をそのままに、睨む様に師団長を振り返ると報告の声を張り上げた。
 
「わ、我々第一小隊はーっ、搬出経路確保の為に先行進入の命を受けっ、エレベーターホールへ向かっておりましたがっ、照明は全て壊されておりっ、闇の中からっ、正体不明の敵にっ、突然狙撃された我々の部隊はっ、つっ、次々と殺されっ、後衛を務めておりました我々二人はっ..な、な、仲間の生死も確認せずっ....脱出してきましたぁっ!」

 中村団長は、思いも寄らなかったその報告に軽い目眩を感じていた。

(ど、どうして中に...敵がいるんだ?我々の任務は機密物資の護送だった筈だ。東京湾までの経路上での襲撃は想定していたが...その物資が既に強奪されていたというのか?そんな事は本部から聞いていない。一体...どうなってるんだ!)

「団長、どういう事なんですっ!内部に敵がいるなんて情報、入ってたんですか!」

「い、いや、俺にも何がなんだかわからん...。
 取りあえず本部との通信が回復するまで第一戦闘配備で待機。おい、誰かこの建物の見取り図を持って来い。それと暗視スコープを。
 第三・第四小隊、内部生存者の確認及び救出の為の作戦立案・準備にかかれ」

 回りのざわめきが一気に収束し、バタバタと兵士達が駆け回る喧騒へと代わって行く。


「団長」

「どうした?」

「先程狙撃されたライフルですが...」

「ライフルが、どうかしたのか?」

「その...射出音を聞く限り..私の記憶では....64式..ではないかと」

「64式?...そんな馬鹿な!どうして警察が俺たちを...?」

「あ、いえ..あの状況ですので100%の自信は有りませんが...以前私もSATに所属しておりましたので、あの射出音は飽きる程に聞かされておりました」

「くっ、一体どうなってるんだ!さっき空護のF−15を落としに来たのもF−15だった。時間からして国内から飛び立ったのは間違いない。俺たちの敵は誰だ?一体どこにいるんだっ!!」






 煌々と照し出された実験室内で光を切裂く様な断末魔の叫びが轟いていた。

「ぐっ、ぐがあああああああああああぁぁぁぁっ!おっ、おのれぇ人間っ!我にこのような仕打ち、ただですまされると思うなよぉぉぉっ!」

 影一はその咆吼を、まるで心地よい環境音楽でも聴いているかのように目を閉じ胸に染込ませている。

「ゆっ、ゆるしてくれぇ〜。なぁんて言葉を期待してるんならお門違いだぜ。こんなに気持のいい音楽は生れて初めてなんだ。なぁ、もっと俺を楽しませてくれよ」

 二人の闇の住人は体の端々を気化させながら、闇を求めてのたうち続けている。

 やがて男の影に隠れ辛うじて消滅を免れていた老人が思い出した様に幾らかの言葉を囁くと、男から発された黒い瘴気に包まれゆらゆらと部屋の壁に染込んでいった。
 そして、残った男は縦横に張巡らされたチューブの一本を引きちぎり、そこから這いずる様に緑の塔内へ侵入していく。
 すると半分程にまで小さく弱々しくなっていた男の体は、ガラス容器の中でゴボゴボと緑の粘液を泡立てながらみるみる内に元の大きさに復元されていった。

「ぐっ、ぐはっ.......ふっ...ふっふっふっ..わーはっはっはっはっはっはっはっ。
 よい..よい気分だ。力が充ち満ちてくるぞ。人間、お主の策謀もこれまでだ、覚悟を決めるがよい。お主のような者には相応しい地獄を用意してやろう。いまだかつてヒトが経験した事の無い、永遠の炎獄よりも遙かに禍々しき所へ墜としてくれるわ!」

「ああ、そいつは楽しみだな、できれば案内役はいい女で頼むぜ....だがここでのお楽しみもまだ終った訳じゃない」

 影一の指が三たび鳴らされると、今度は塔を取囲むように設置されていた機器類から唸るような機械音と共に光と電磁波が射出され、それらは塔の周りを渦巻く様にまとわりながら上端までを包み込んでいく。

「はははっ、あんたがそこに逃げ込む事は予想済だったよ。どうだい、また楽しんで貰えたかな?
 そいつはその容器の周りに力場を発生させる装置だ。これであんたはもうそこから出られないって事さ...つまりは籠の中の鳥...いや、ネズミ取りの中のどぶネズミってトコだな」

「くっ...どこまでも天を愚弄する人間め!....よかろう、今しばらくの生を楽しむがよい。間もなくお主の策謀も尽きる時が来る。それまではその浅はかな稚略に酔いしれておけ!」

「さすがは”オカタサマ”だ。負惜しみも迫力あるねぇ。だがあんたはそこですこーしずつ中和されて、消えて無くなる運命さ。何千年生きたか知らねぇが、ヒトをあんまりなめるんじゃねぇよ」

 影一は勝誇った様に傍らの椅子に腰掛けると、煙草に火をつけ、いつもの冷笑で塔を見上げた。






 夜明け前の庭園に重苦しく張りつめた空気が漂う。
 
 ゴクッと唾を呑み込みながら、玄関ホールの内部を伺っていた兵士の顎先から一滴の汗が滴り、足元に設置されたランチャーの砲身でピチャッと弾けて跳ねた。

 身を切るような緊張の中、多数の兵士がじっと見つめるホールの奥底、おそらく多数の銃口がこちらを狙い定めているだろう闇の中から、その空気を切取ったかの様な黒い霧がフワフワとこちらに向い、流れてくる。

「な、なんだ...あれは?」

 その霧の中から現れたのは、その場には似つかわしくない、痩細った一人の老人だった。

「ふぉーっ、ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ!人間共よ大義じゃったの。じゃが少しばかり事情が変わってしもうた故、お主達には別の仕事をしてもらおうかの」

「だ、誰だっ!お前が...敵かっ!」

 百以上の銃口がたった一人の老人に向けられ、そのトリガーに掛けられた指先は見えない敵への焦りに今にも弾けそうだ。

 だがそんな様子を歯牙にもかけず両の手を大きく広げた老人の体は、まるで蒸発するように先程の霧と同化し始めた。
 まるで大きく口を開いた物の怪のようなその霧が広く拡散し部隊全部を飲み込む頃には、兵士達の目に漲っていた怒りや悲しみの色は消え去り、冷たく光る使命感だけが宿っていた...。

「戦車隊一番車両、前へーっ!内部ホール砲撃と同時に第三・第四小隊突入、地下1階中央付近にある発電室を制圧する!第二小隊はヘリで屋上より進入、対空砲火に注意しろ、降下前にペントハウスは破壊、及び敵方狙撃手を確認次第上空にて掃射!第二車両中隊はユニット受け入れ態勢解除、建物全周を包囲しろ、突入失敗の際には地上建築物破壊の許可が下りている!全車両砲弾装填の上待機。時間は無いぞ!急げっ!」

 多種多様な兵士、兵器類が様々な方向へ、しかし一定の規律を保ったまま散らばっていく。

 私語も無駄な動きも一切無く、機械仕掛けの殺戮部隊が今、動き始めた。


 ズガァーーーーーン!!

 広々としたホールを突き抜け長い廊下の奥に着弾した砲弾は、けたたましい爆発音と共に巻き起った炎で閉ざされていた闇を明るく照らし出す。

 崩れた壁の瓦礫の手前には、先行突入した筈の仲間の死体が転がっていたが、それが敵の狙撃に因る物か、今自分たちが放った砲弾に因る物かは誰にも分からない。
 そんな”元仲間”に見向きをする者など一人もいない中、瓦礫の隙間から窺える地下への階段だけを目指し淡々と歩を進める。

 だが数人がやっと通れるだけのその隙間を通り抜けた兵士達は、奥に再び広がる闇の中から轟く銃声と共に次々と狙撃され、折り重なる様に倒されて行った。

 小隊長の指先の合図で後方から進み出た兵士により携帯用の重火器が設置され、一瞬光った閃光を目掛けて数発のロケットランチャーが発射された。

 巻き起る粉塵と轟音に紛れ、兵士達の進軍が再開される。
 累々と積み重なる同胞達の屍の上を通り抜け、様々な向撃とトラップの網を巧みにかいくぐりながら...。


 いかに特殊な訓練を積み周到な準備を持って迎え撃ったとしても、所詮は犯罪者相手の警察機構の部隊では、仲間や自分の命さえも与えられた使命より下位に置き、一切の無駄な感情や動作を排除された戦闘のプロフェッショナル集団の相手になるものでは無く、その砦が攻略されるのにさしたる時間は要さなかった。


 間もなくして制圧された発電室の鋼鉄製の扉は、おそらくは内部に操作の人間を残したまま堅く溶接されており、辿り着いた彼らを厳に拒否している。

「ガスバーナーを持ってこい」

 サブマシンガンを構えた兵士達の間から一人の技術兵が飛出してくる。
 肩に提げた携帯用のボンベとライター程の大きさのバーナーであるにも関わらず、分厚い鉄板が易々と切断され始めた。






 椅子に腰掛けゆったりと煙草の煙を目で追いながら、囚われの”オカタサマ”を眺めていた影一のポケットから”ピーピーピー”と通信機の呼び出し音が鳴った。

「なんだ?」

「ご、ご主人様...ち、地下一階は既に...制圧された、ようです。先程まで鳴り響いていた銃声が止って...今、こっ、この部屋の..扉が...ああ、もうすぐ...ご主人様....」

「小夜子仕方ない、そこは空け渡せ。いいか、無駄な抵抗はするんじゃないぞ!」

 主人の声を聞けた事でようやく落着きを取戻せた小夜子は、震える肩を自ら抱きしめ通信機に向って恐る恐る囁いた。

「ご主人様...今ここに、新型の神経ガスのボンベがあります。以前、あの液体の前にここで研究されていた物です。これなら数秒でヒトを腐らせる事ができるでしょう....恐らく一ヶ月はこの部屋に誰も立入れません。
 ですから....事が終った後も、ご主人様には、こちらに立寄られる事の、ございませんよう....」

「小夜子っ!馬鹿なマネはやめろっ!!これ以上俺に余計な物を背負わせる気かっ!小夜子っ!」

「ご主人様..以前、私が鮫島達と心中しようとした時は、絶望が全てでした....ですが今は大きな満足と幸福が私を包んでいます。他の男達に嬲られ、汚されていた私を、優しく受入れてくださった、ご主人様の事..忘れません。ご主人様..私...本当に....しあ..........ドカーーン、ガガガガッ、ピーー、ザーーーーーーーーー」

「小夜子、小夜子っ!!返事をしろっ!小夜子っ!..........くっ、くそったれっ!」

 それきり声の途切れた通信機を床に叩きつけ、影一は部屋の出口に向って必死に駆けだした。
 だがその出口に辿り着く前に周りを暖かく包んでいた光は消失し、再び飲込まれた闇の中で影一は内に湧起る高揚感と言い知れぬ不安に包まれた。
 それらの感情を無理矢理振払いもう一度出口に歩を踏出した影一を唐突に背筋を突抜ける様な悪寒が引き留める。

「ハーーーハッハッハッハッハッ!どうした、人間。お主の策謀はもう終りか?切札があるなら今すぐに出す事だ。さもなくば、まもなくお主の体は千の肉片と化すだろう!」

 そんな挑発をも振払いすぐにでも小夜子の元へ駆けつけたい気持ちはあったが、未だに背筋に残る悪寒が影一の身体を硬直させている。

「くっ、てめぇの相手をしてるヒマはねぇんだ。どうせお前を包んでる力場の電源はここまで降りて来ねぇと止められねぇ、おとなしく待ってやがれ」

「ふん、確かに今すぐにはここを出れんようだな。だがこの状態であればそのような機械如き、破壊するなぞ訳はない。
 そう、例えばこういう方法もある」

 先程の悪寒が一層激しく全身を貫き、今まで散々修羅場をくぐってきた影一の勘が最悪にヤバイと告げている。

 やがて部屋のあちこちの床に落されていた影がモコモコと盛上がりアメーバの様に蠢きだすと、少しずつヒトやケモノの姿を形取り始めた。

 広々としていた実験室は瞬く間に数百、いや数千の淫魔に埋め尽され、開け放たれたドアの向うからも続々と押寄せて来る。

「な、なんだこの数は!一体何匹いやがるんだ?」

 真っ暗な部屋の中央に美しく飾られたオブジェの様に光り輝く緑の塔を背に、影一はこの状況を打破する手立てを何も持っていない事に気付き始めていた。

「くそっ、こいつは、ヤバイな..だが...........やるしかねぇだろうがよっ!!」

 両手を広げ、前方を睨む影一の目に力が漲る。髪は真上に逆立ち、全身から吹出した瘴気が青白い閃光を伴って部屋中を駆け巡ると、一瞬で百匹以上の淫魔が蒸発し、消滅した。

「ほう!なかなかの使い手だな。ヒト如きが我らの力をこうも使いこなしておったとは、褒めてつかわそう。だがどこまでそれがもつか、だな。我がここに居る限り淫魔なぞはいくらでも湧いて出おるわ。ハッハッハッハッハッ、どうした人間、もっとやらねばその下賤な者どもに憑き殺されてしまうぞ!ハーーーハッハッハッハッハッ」

「うるせえっ!籠のネズミは黙ってなっ!」


 バシュッ!
「ギィヤァァァァーーーー!」
 影一の腕の一振りで吐き出された鎌状の瘴気が、取り囲む数十匹の淫魔を一気に分断する。

「グゥワァァァァーーーーーーッ!」
 未だ蠢くその骸を踏み台に高く跳ね上がった淫魔達が頭上から襲いかかる。
 影一の背中から細長い槍状に吹き出した瘴気がそれらを貫き天井に縫い止めると、ブシューッ!という破裂音と共に緑色の体液が頭上から降り注いだ。

「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ......」
 荒い息遣いを悟られぬよう、小刻みに空気を吐き出しながら、影一が腕を振り上げるとビクッと淫魔達が後ずさる。
 影一視線が他へ逸れると「ギャゥギャゥッ」と威嚇しながら包囲の輪が狭められてゆく。
 ジリッ、ジリッと醜い足を床に擦り付けながら、両者の合間を前後させる淫魔達。

 おぞましい光景と匂い、一時の隙も許されないその空間で、傷こそ負ってはいないものの影一の体力は徐々に削り取られていた。

 その様子を察する程の知能もまだ持ち合わせてはいないその獣達だが、獲物を襲うタイミングは恐らく本能に刻み込まれていたのだろう。その彼らにしては強大な獲物へ飛びかかるのを躊躇う者は次第に少なくなってきた。

「ギャゥッ、グギャァァァァァッ!!」
 僅かに灯る非常灯の光をも遮る程に襲いかかる大量の淫魔を、影一の全身から吹き出した瘴気が根こそぎ消し去った。



 広い実験室のあちこちで、黒い瘴気、緑色の体液、火花、閃光、闇、光、そして全てを埋め尽す程の淫魔。それらが飛び散り、交錯する戦闘が1時間にも及んだ後には、未だ数を確認出来ない程の淫魔に取囲まれ、膝を突いてゼイゼイと荒い息を漏すばかりの影一が居た。

 その鋭い眼光にじりじりと間合を詰め切れずにいた淫魔達が、がっくりと肩を落した敵の一瞬の隙を見逃さず一斉に飛びかかる。

(くそっ!これまでか...みんな、すまねぇ...あゆみ...ゆ...)

 が、その瞬間、影一の上に正に食らいつこうとしていた数匹の淫魔が真一文字に切裂かれ、緑の体液を吹出して飛散した。

 その突然の刺客に驚いて引下がる淫魔達。

 だが、それ以上に驚いたのは思わず見上げた影一の方だった。

 うなだれる影一の前に立ち塞がるその美しい肢体は.....

「こっ、香蘭!そ、そんな...どうしてお前が?戻ったのか?どうやって...?」

 夢であれば醒めないで欲しい、死の前の束の間の幻であっても...そう願いながらフラフラと立上がり、その清らかな素肌に手を掛けようとする影一。

 そんな影一の願いを遮る様に、またもや数匹の淫魔が襲いかかる。

 だが、獣の如き単純な動きのそれらを舞を舞うような美しい太極拳で軽やかにいなし、床に落ちるまでの一瞬で華麗な後ろ回し蹴りが真っ二つに切裂いた。

(これは...間違いない...この優雅で美しい舞が、他の者に真似が出来るものか。こいつは、確かに俺の...香蘭だ)

 ほぼ諦めかけていた影一の目の前に、再び守りたい者が現れた。その事がもう殆ど尽きたと思っていた内なる力を漲らせていく。
 さっきより薄くはあるが、もう一度全身から瘴気を吹出させ周りの淫魔を攪拌しながら香蘭を庇うように歩を進めて行った。
 
 だがその時、確かに香蘭の透き通る声で思いもかけない台詞が飛出した。

「あー、あかんあかん、あんさんそないな無駄な使い方しとったら力なんぞなんぼあっても足りひんがな」

「なっ、何っ!?お前香蘭じゃ...お、お前はいつかの、淫魔か?....てっ、てめぇ、俺の女を勝手に使いやがって、てめぇも一緒に消されてぇかっ!香蘭を返しやがれっ!」

「はぁぁぁっ...あんさんこの状況、判ってはんのかいな?こないな中にわしが生身で突っ込んで来てもアッちゅう間にヤられてまうやんけ。このねぇちゃんはいわば武器やがな、ねぇちゃんの身体に染込んどる武道のおかげでさっきみたいな芸当も出来るっちゅう訳なんやで。あんさんもここで死ぬ訳にいかんのやろ?それやったらちょっと位貸してくれてもええやんけ。
 ほんでなぁ、ちょこっと言わせて貰うけどな、あんさんの力の使い方、あれはホンッッッマに、なっとらん!相手の数見てやり方位考えん事にはいくらごっつい力持っとってもいつかは尽きてまうんやで。やるんやったら、指とかナイフとかの先っちょにだけ力を込めて一気に切裂くんや。そしたらなんぼ淫魔でも復活でけん。あんさんえらい強いんかと思たけど、闇の戦はホンマに素人やなぁ」

「あ、ああ、そうか...って、てめぇ調子に乗りやがって...いいか!香蘭にちょっとでも傷つけたら承知しねぇからなっ!」

「はいはい、わかってまんがな。わしかてあんさんとの約束守る為に命がけで来とるんや。もうちょっと優しい言い方っちゅうもんもあるやろに....」

「約束?」

「あん時言うたやろ。”わしに出来る事があったらなんでもするさかい、頼んまっさ”っちゅうてな。一体あんさんがどないするつもりなんか判らへんかったさかい今まで黙って見とったけど、どうやらわしら共通の目的っちゅうのんがあるみたいやさかいな。ま、ちょこっとわしの命でも賭けたろかと、こういう訳や」

「ふん、足手まといにはなるなよ」

「なぁぁぁにをえっらそうに。さっきは『もうアカンおかーちゃーん』ってな顔しとったクセに、あんさんこそさっきわしが教えたったやり方、ちゃぁんと出来るんやろな」

「おい、無駄口叩いてる間にすっかり取囲まれてんぜ。やるんならとっととやりやがれ」

「あんさんホンマに性格わっるいなー。ヒトのトモダチ、おらへんやろ。わしでもおんのに...わっ!」

 そこまで言いかけた時、影一のバタフライが香蘭の頭の上数センチの所を掠め、黒髪が数本宙に舞った。

「なっ!なにすんね....」

 驚いてしゃがみ抱え込んた香蘭の頭に、その背後から飛びかかろうとしていた淫魔の体液が降り注ぐ。

「ほう、こいつはいいな。この短い刃で淫魔が真っ二つだ。力もそんなにいらねえし、もっと早く教えろってんだ」

「かーーーっ!やっぱりあんさんは性格悪いなぁぁっとぉっ!」

 軽口を叩きながら今度は影一の背後の淫魔を香蘭が切り裂く。

「おい、ちっと真面目にやった方がよさそうだぜ」

 二人を取り囲む淫魔の輪が次第に狭められていた。

「みたいでんな。ほな、軽〜く朝の運動、いきまひょかーっ!」

 未だに廊下にまで溢れている淫魔の群に向かい、背中をぴったりと合わせた二人が一斉に気を吐いた。







14.光の戦士



 地下一階、エレベーターホール前
 
 屍と硝煙、阿鼻叫喚の地獄絵図の只中で、命の取り合いは今も尚続いていた.....。
 

「隊長、残ってるのは我々を含め7名。ここが落ちるのはもう時間の問題です」

「7人...そんなになっちまったか.....しかしここがデッドラインだ。易々と空け渡す訳にはいかん。最終トラップはまだ生きてんのか?」

「はい、恐らく気付かれてないと思います。しかしそうなると下に居る天野様も上がって来れなくなりますが...」

「ああ、だが当初からそういう指示だ。あの方の事だ、簡単に生き埋めって事にはならんだろう...お前らには貧乏くじを引かせちまったがな」

 最後の戦闘を前にして、ほんの僅かな休止を得た戦士は煙草に火を着け、ゆったりと煙を吐出した。

「ははっ、隊長、最後の最後に弱音、吐いちゃいましたね。私ならとっくに覚悟は出来てますって。満足してる位です。
 どっちかって言うと、北海道に飛ばされた吉村の方が可哀想に思えて来ますね。
 今日のニュースを見たあいつの悔しそうな顔、目に浮かびますよ。たった一つ心残りがあるとすればあいつにポーカーの借金返して貰って無い事っすかね」

「そう言えば俺もこないだの飲み代、返して貰ってねぇな。ちっとその辺に遺言でも残しとけや」

「そうっすね。借金、墓にでも供えて貰いますか」

「....おっと!お客さんのお出ましだ。遺言は後回し、狙撃手は残ってんのか?」

「確か、隣に川田が残ってる筈です」

「んじゃ重火器から落としてけ。他の歩兵は引き付けてから。トラップにはもう引っ掛かんねぇだろ」

「ラジャー」

「テレビの見過ぎだよ、お前」


 あちこちで炎が時折パチパチッとはじける他には、不気味な静寂が漂うエレベーターホールに規則的な数人の靴音が響いてくる。

 ドキューーーーーン........

 最後尾でランチャーを肩に提げた兵士がホール前の廊下に足を踏み入れた時、一発の銃声と共に再び局地的な戦闘が再開された。

 ズガガガガガガガッ!
 兵士の放つ銃弾の雨が目の前に積み上げられた土嚢の束をどんどんと削り取ってゆく。

 ズキューーーーンッ!
 先行の兵士の膝が血飛沫と共にはじけ飛ぶ!
 その肉を引きずりながらも銃を構える兵士を押し倒し踏みつけながらも、後方からの進軍は止まる事は無い。

 グリュッ、ズリュッ....
 数発の弾が貫通した脇腹に内蔵をぶら下げた兵士があらぬ方向へマシンガンを放ち続けている。

 スチール写真のように、時折湧き起こる閃光に照らし出されるその異様な光景は、ヒトの心を持つ者達の背筋を凍らせるには充分な物だった。

「う、うわっ!た、隊長、こいつら...ヒトじゃねぇっす」

 ズガガガガッ!

「んなコトぁ分かってんだよ。頭を撃つんだ、頭をっ!お前バイオやってねぇのかよ」

「そそ、そんな、俺ナイトスコープやられちまって...くっ、うらぁぁぁっ!」

 ズガガガガガガガッ!ズガガッ、ガガガガガッ......カチッ、カチッ...

「たっ、隊長、弾っ、たまぁっ!」

「ホラッ、こいつで最後だ。しっかり狙え」

 見れば隊長もさっきから単発射撃に切り替えているようだ。

「くっ....」

 転がるように地面を這い、同僚の死体からスコープをもぎ取ると頭に填め、銃を構えた。
 途端に狭くなった視界を振り回し、緑色に光る動体を探しながら銃口が彷徨う。

 だが、さっきまで居た筈の所に蠢く物はない。
 懸命に敵の行方を追うその警官が、這いつくばった姿勢からふと視線を上に向けると、そこには真上から見下ろすマシンガンの銃口があった。

「へっ....へへっ...隊長、あっちでもよろしく.....」

 目を閉じ、頭に浮かぶのは二人の子供と一人の女...今頃はきっと.....
 そんな一瞬の感傷の中、じっと最後の時を待つ。

(..........................?)

 だが一向にその時は訪れず、周りに響き渡っていた銃声もパッタリと止んでいる。

 不思議そうに、恐る恐る開いたその視界に飛込んで来たのは...地下一階のここではあり得ない、照明などとは比べ物にならない程の、”陽の光”...それがあらゆる所へ降り注ぎ、全てのヒト々を飲み込んでいた。

「な、なんだ...?」

 生き残った警官達は言うに及ばず、使命のみを瞳に携え殺戮を繰返していた兵士達も、ただ立ち竦み、闘争心の消えた目で徐々に廊下の奥から強まってくる光の元をぼんやりと見つめていた。






「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ....あんさん、まさかくたばっとらんやろな...」

「....やがれ、てめぇこそ....息が...切れてんぜ....香蘭...大丈夫なんだろうな...」

「あきまへん...やっぱりこのねえちゃん、ヒトやなぁ...わしの方はじぇんじぇん大丈夫やけどな...もうこれ以上やったら体中の腱が切れそうやわ....どないする?」

「どないするっても、他に出来る事、無ぇじゃねぇか、くたばるまでやるしかねぇだろ....なんかちっとは減ったような気もするしな....」

「ああ、確かに...4分の1位は減ったんやおまへんか?もう湧いてきぃひんみたいやし...オカタはんもこんなモンやったんやなぁ」

 香蘭が感慨深げに見上げると、お方様と呼ばれていた人型は、若干薄まり、体の端々をその粘液に侵食されているようにも見える。

「あとたった4分の3か...楽勝じゃねぇか....」

「へへっ、ほな後もうひと踏ん張り、行きまっか.....」

 ふらふらの足を無理矢理引きずり、立上がった二人に未だ無数の淫魔達がじりじりと躙り寄る。

 だが香蘭が初めに飛びかかって来た少し大きめの淫魔の足下を払った時、その右足の踵がプチンというはっきりとした音を立て、頽れた。

「香蘭っ!」

 影一が香蘭に覆い被さるようにして数匹の淫魔を薙払い、周囲を必死に睨付ける。

「あんさん、ええかげんに香蘭よりわしの心配もして欲しいわ」

「あ、ああ、そうか....だがお前の名前、聞いてなかったな」

「ははっ、そういえばわしに名前なんぞなかったわいな。やっぱり香蘭でよろしわ」

「ああ、お前の心配、してねぇ訳じゃねぇよ」

 片膝立ちの香蘭が残った左足で数匹の淫魔を切裂く。

「そうでっか、おおきに。あんさん、けっこう優しいトコもありまんな。よかったらわし、トモダチになったるわ」

 香蘭の背後を庇う様に影一がナイフの切っ先を十文字に走らせる。

「けっ、余計なお世話だ。淫魔のトモダチなんぞ持っても自慢にゃならねぇよ」

 円を描くように舞う香蘭の両手が周囲の淫魔を一斉にはね除け、浮き上がったそれらを影一が一気に切裂いた。

「あ、あかん...大将すんまへん...香蘭の肩の腱までイってもうたわ。ボチボチ潮時みたいでっせ」

「そうか....もうお前、そのまま転がっときな。お前も死んだら地獄ってのに行くのか?」

「行きまっかいな。今そこに住んどるのに...わしが死んだらただ消えるだけでんがな」

「なら、これきりだな...短い間だったが結構楽しめたぜ」

「わしもや....ま、地獄もそんなに悪いトコやおまへん。ゆっくり楽しんで来なはれ」

「ああ、そうしよう...じゃぁな」

 そう言い残した影一は散歩でもするかのように淫魔の群れの中に歩を進め両手を上げると、最後に残った力を一気に解放した。渦巻く瘴気を部屋中にまき散らしながら、真っ赤に彩られた喉の奥で獣のような叫びが放たれる。

 その渦に巻込まれ舞上がった淫魔達が見る見る内に分裂し、蒸発していく。

 やがてその瘴気は徐々に薄まり影一の命と共に儚く消え去ろうとしていた。
 ....その時.....廊下の奥から呻くような淫魔の叫びが轟き、反響してきた。

「ぐわぁーーっ!ぐぶぉっ、ぎゃぁぁぁぁっ.........!」

 朦朧とした意識の中でその声の方向に目を向けると、この部屋の出口、廊下の奥から朝日の如く輝く”陽の光”が地下深いこの部屋の、影一の足元にまで差込んで来た。

(陽の光?....まさか....こんな所にまで....降りて来れるのか....?)

 開け放たれていた扉の周りが一気に明るくなり、そこから溢れ出る光が部屋の隅々まで行渡る頃、その光の元から澄み渡る音色....いや、声が...発せられた。

「禍々しき闇の者達よ、お前達の策略は既に潰えた。今ここで神々の意思に従えば良し、さもなくば永遠の無の界に誘なわれる事となりましょう」

 周囲一帯から影一との戦いでは発せられなかった淫魔達の恐怖の嘶きが湧き起り、その感情に突き動かされるかのように淫魔達が一斉にその光の主に飛びかかった。

 無数の淫魔に食いつかれ、その上からもどんどんと積み重なるそれらによって、あれ程強かった光はほぼ全て遮られ、室内を再び闇に染めあげる。

 だが僅か数秒、光の主の安否を気遣う程の暇もなく、直径数メートルの淫魔の塊の隙間から数本の光の筋が抜け出し、それらの本数が次第に増えていくと、やがて爆発のような勢いでその塊を吹飛ばした。

 その爆風に飛ばされ、数メートル宙に舞う間の一瞬で全ての淫魔が蒸発し、半径10メートル内で立竦んでいた淫魔達も同じく空に消えた。

 ゆっくりと部屋の中央に歩み寄る光の主に淫魔達は、飛びかかり一瞬で蒸発する者、怯え部屋の隅や機器の影に隠れる者など様々な反応を見せている。

 ふと気づき、慌てて傍らに横たわる香蘭を抱きかかえた影一は、部屋の各所に設置されている独房のカプセルに運び入れ扉を堅く閉ざした。

 まるでそれを見定めたかの様に一気に強まった光は室内の全てを真っ白に染め上げ、未だ千匹以上は残っていた淫魔達を一瞬で消滅させてしまった。


「こっ、これが........光の...チカラ.....」


 再び室内を静寂が支配し、ゴボゴボッと塔から発せられる泡立ちの音がやけに大きく感じられる。


 そしてゆっくりと光の主が影一の目の前にまで歩み寄ると、徐々に光は薄まってゆき、その中から影一にとって懐かしい姿が浮び上がってきた。

「お久しぶりです...影一さん」

「恵か.........お前、ここの事...知ってたのか?」

「ここに入れる”力使い”は貴方だけではないわ。夜明けまで降りて来れないのが心配だったけど...今度は間に合ったみたいね」

 疑問や今までの思い、恵に告げたい事は山程あったが、昔と変らないその澄んだ瞳に影一の心は既に搦め捕られていた。

「今回の件、天使様に話さなかったのは良くなかったけど、貴方がやろうとしていた事は認めてくださってるわ...犠牲も出たみたいだけど....」

「...上は....どうなってる?」

 答を聞くのが怖いといった表情で影一が尋ねた。

「悲惨だったわ...天の戦いに人を巻込むなんて....どうかしてる」

「そうか....すまない...あいつらには悪いと思ってるよ。だがあいつらだけ、逝かせようとは思っちゃいないさ....」

「そうね、貴方の命は天の裁きに任せる事よ。もう私の嘆願は聞き届かないわ」

「ああ、そうしよう...で、こいつはどうすんだ?」

 軽く影一の顎先で示された緑の塔の中では、殆どその粘液と同化しゴボゴボと立ち上る泡で辛うじて人の形を取っている闇の当主の姿があった。

「この人は力を使いすぎたわ。もう今はこの中でしか生きられない...消されるか、永遠の無に葬られるか...間もなく裁きが下される頃よ。影一さん、貴方のもね....」

「そうか....恵、後の事...頼めるか...?」

「私は元々そのつもりよ。貴方が勝手に一人で全部背負おうとしてただけじゃない。もう一人で苦しむのはやめにしていい頃だわ」

「すまんな、お前にはいつも助けられる....」

 恵の頬に一筋の滴が流れ落ち、あの時、2年前の別離の時と同じような軽い口付けが交された..が、その暖かな感触をゆっくりと味わう事もなく、影一の視界は暗転し、安堵と疲労の中に意識は沈んでいった。




 全てが終った後、堂島が率いて来た別の部隊が地下一階の発電室に踏み入った時、散らばる瓦礫の下で爆風に飛ばされた扉の下敷になり、意識を失っている小夜子が発見された。
 大事そうに両腕に抱えてられたガスボンベは辛うじてバルブが開ききっていなかったものの、小夜子の両足はあらぬ方向に折れ曲り、真っ赤な血で染まっていた。


 敵味方..いや、全ての同胞達が搬出され病院に運ばれた後には、硝煙とガソリン、そして肉の焼け焦げる匂いだけが漂っていた...。







15.終章





 ゴーーーン.....ゴーーーン.....ゴーーーン.....

 静かな山の中に荘厳な鐘の音が響き渡る。

 人里離れた山奥にひっそりと佇む小さな教会で、立会う者は神父だけというささやかな結婚式が執り行われていた。

 真っ白なタキシードを着た青年と、純白のウェディングドレスを身に纏い古ぼけた靴下を堅く握りしめる車椅子の女....そんな二人を若干は訝しげに思いながら、神父が誓いの言葉を促す。

「誓います.....」

 その言葉が発せられたのは一人からだけだったが、式は構わず続けられる。

 やがて指輪の交換...新婦は手を添えるだけの...が終り、熱い口付けが交わされるとその日初めて新婦の声が微かに漏れ出した。

「あう...ああうぅぅっ.....」

「そう...僕も嬉しいよ...香......一緒に幸せになろうね....」

 今まで見てきた数々の結婚式の中で、これ程幸福そうな笑顔を見た事があっただろうか?二人の暖かな瞳にほだされて、知らず内に神父の顔にも嬉しそうな表情が滲み出ていた。



 幸福に満ち溢れた教会の外、手入れなど殆どされていない前庭に、居ないと思われていた出席者が二人、天上の十字架を眺めていた。

「お入りにはなられませんの?喜ばれますわよ」

 車椅子の上でじっと主人の動向を見守っていた小夜子が、意を決したように沈黙を破った。

 ポケットに手を突っ込んだまま俯く主人の横顔は、少し寂しげな...そうも感じさせる物だった。

「ふん、神の前に跪くにゃ...俺はちっとばかしやりすぎた。祝福なら俺より相応しい者が居るだろう」

 小夜子の表情も悲しげに沈む。

「そう、ですか...。でもご主人様....祝福というのは自分の大切な人にして頂きたいと思う物です。坂本さんはそれがご主人様だと...」

 影一はそっと瞼を閉じ、呟く。

「してるさ.....」

 それだけで充分だった。小夜子は形式に囚われていた自らの祝福の心を少し恥じ入るように、同じく瞼を降ろした。



 神父の言葉を聞きながら互いに見つめ合っていた健児の視界の端で玄関の扉がふと動いたような気がした。

 カタン...と微かな音を残したままその気配を絶ったそこへ、嬉しそうに細めた目を向けた健児は、胸中に囁きかける言葉に耳を澄ますかのように、瞼を閉じてみる。

 そして、再び開かれた瞳に映るきらめくばかりの花嫁を抱きしめ、これから二人で紡いでいくだろう幸福に思いを馳せていった。







 ゆったりとしたジャズ、少しの歓談、そして時折グラスの合わさる音が漂うその店で、男は黙ったままグラスを傾けていた。
 虚ろう視線を隠し続けるサングラスは薄暗いその店内にはひどく不釣り合いな物にも思えたが、その男の暗い雰囲気がそれを一つのパーツとして風景に馴染ませている。

 男のグラスが空いたのを見計らったように、目の前のカウンターに新しいグラスがトンッと置かれた。

 不思議そうな顔で見上げる男に向かい、店主が微かな笑みと共に二つ隣の席を指し示す。

 見ると、恥ずかしげに俯きながら精一杯作り上げた微笑みを向ける女が一人。

 そのグラスを女に向け軽く持ち上げる仕草の後、再び正面に向き直り、一口含んだ。
 そのまま一向に視線を返さない男にじれたように、店主は男に顔を寄せ、囁く。

「あちらの女性がご一緒したいそうですが、いかがですか?」

「..........飲むだけなら....」

 これだけの美女に対しても至極無愛想なその物言いに店主は訝しげな表情を浮かべつつ、一つ立てた親指を女に向けた。

 そっと一つ席をずれた女は黙ったまま、男の横顔に向けグラスを軽く掲げた。
 カランという氷の音だけが二人の間に許された会話だとでも言うように...。
 そして、一向に視線を向けない男の顔を、いつまでも飽きる事なく、眺め続ける。

「いつも一人なのか?」

 その熱い視線に耐えきれなくなったかのように男の口がようやく開いた。
 その、ただそれだけの言葉が、とても心地よく耳の奥へと染み渡る。

「ええ、わたしには、たれも居ないの...グラスを傾ける相手も、話さえ....貴方か初めてれすわ....多分...」

『多分』、その言葉を発した時の彼女の寂しそうな顔は、男の視界に入っていたのだろうか?
 ただ男の眉間に苦渋を表す皺が一瞬、刻まれた。

「もしよろしければ....」

 懸命に絞り出されたかの声が届くと、男の一つ立てた人差し指がその先に続く言葉を遮った。

「俺とあんたは住んでる所が違う、分かってる筈だ....」

 女の瞳が悲しみに塗りつぶされていく。

「なら....ここれ...お会いするらけなら.....」

 次に意を決したように上げられた女の瞳に映ったのは、同じく悲しみに彩られた男の瞳だった。

 その店で初めて外されたサングラスの下に隠されていたそれは、彼女の心の奥底を激しく揺さぶり、それ以上の言葉を失わせた。

「そう.....俺達には、これで充分だ」

 カラン....

 そう言いながら鳴らされたグラスの氷塊をじっと見つめていた女は、知らず内広がる笑顔を向け、同じくグラスを鳴らした。





 翌日、安らかに眠る影一の瞼を通り抜け、朝の光が脳の血流を促し始めた。

 彼にとってそのような目覚めは一体いつ以来だったろうか?
 だが影一の表情はその安穏の刻をまるで許されていないかのように、苦渋を浮かべている。

 トクン......トクン.....

 緩やかに速度を増していく鼓動の中、何かに気付いたようにカッとその眼が見開かれた。

 そう、闇の中で目覚めるべき影一の寝室に、朝の光を取り入れるべき窓など付いてはいない。
 とすればその光の元は一つ...。

「おはよ、おにいちゃん」

 そのまま返事を待たず影一の唇は塞がれた。

 再び夢の中に引きずり込まれたような錯覚に囚われ、影一の感覚が宙に浮く。

「仕事か?」

 投げやりに装われたその言葉に、もう少しその空気に浸っていたかった恵の唇が少し尖る。

「うん...今度はヨーロッパ。吸血鬼だって」

 まるでその安らぎを自ら拒否するかのように恵の視線から逃がれ、気怠げに髪を掻き上げる影一。

「多いのか?」

「ううん、一人....でも強いわ。もう被害は甚大なの。向こうの闇祓いが壊滅だって」

 寂しそうに俯きながらも気丈に振る舞おうとする恵。

「そうか...強いのか.....」

 その言葉を恐らく恵は勘違いしたのだろう。まるで励ますかのような口調で言う。

「あ、でもね、天使様が今度の仕事も成功したらまず一人分の精気を戻して下さるっておっしゃってたのよ。それだけ大変だって事なのかもしれないけど....」

「くくっ.....くくくくくっ....そうか...そんなに強いのか....」

 バサッとシーツを捲り上げベッドを降り立つ影一。
 何も身に纏わない影一の裸身に頬を赤らめ、思わず背く恵の視線。
 逆にその姿をうっとりと見つめつつ、傍らで主人の寝覚めを待っていた夏美が歩み寄る。
 慣れた仕草で主人の身支度を整えながら、潤んだ瞳でその横顔をそっと覗き込んでいる。

 最後に自分の髪括りを外し、影一の背後に回ると、その長髪を結わえ直した。
 その小さな輪にまるで自分の思いを託すかのように...。
 そう、あの時と同じ思いを.....。

「ご主人様...お気を付けて.....」

 夏美の全霊を込めたその言葉にも無言のまま出口へと踵を返す。
 そして、廊下の両側に居並ぶ女達を前に立った影一の、青白い頬に心底嬉しそうな冷笑が浮かび上がった。

「くくっ.....狩りが.......始まる....くくくくくっ...アーーーッハッハッハッハッハッハッ....」

 戸口の上枠に手を掛け、その感慨に思いを沈めていた影一の貌がクッと上る。と同時に、女達を震撼させる程の冷たい叫びが轟いた。

「おい、狩りの用意だっ!牝犬共っ、さっさとしやがれっ!!」

 弾かれたように広がる喧噪の中、館の中に影一の高笑いだけがいつまでも響いていた。







16.汚れた英雄



「ハアッ、ハアッ、ハアッ、ハアッ、ハアッ......」

 深夜の湾岸沿いの倉庫街...

 ヒトの目では追い切れない程の高速で、屋根から屋根へと飛び移りながら必死で逃げまどう影があった。

 路上でその影を落着いた眼差しで追っていた一人の少女の腕がゆったりと上げられると、その掌から発された光の粒が数発、男の体を貫いた。

「ぐわっ!」

 本来なら一瞬で塞がれる筈のその傷は、それどころか周囲の肉を焼け焦がしながら壮絶な痛みをもたらしている。

「な、なんなんだ、アイツは?!なんだって光使いがこんな真夜中にうろついてやがるんだ!」

 ふらつきながらようやく逃げ込んだ倉庫内の一角で、男は一人憤る。

「よう、大変そうだな...」

 一瞬、驚き身を堅くした男はその声の主に自分と同じ匂いを嗅ぎ取ると、臨戦の構えを解きはしたが、訝しげな表情のまま、睨み付けた。

「何物だ...何しに来たっ!」

「...俺か?俺の望みは、そう、あんたと同じ....”血”だ。それも、真っ黒に濁った...”闇の血”....くくくくっ....」

「何ぃっ!」

 その吸血鬼は余裕の笑みを浮かべる男に向け、伏せていた邪悪な牙を剥きだした。

「ほう、闇ん中の光使いなんぞより俺の方が与し易いとでも思ったか?いいぜ、試してみろよ」

 大きく腕を広げながら近づく同胞におびただしい敵意が渦巻いているのを感じ取ると、一気に同じ捕食者の血を沸き立たせる。

「くっ!貴様わぁっ!」

 手負いの吸血鬼の全身から瘴気と閃光が弾け飛び、窓から差込む月灯りを瞬く間に遮ると目の前の男へと襲いかかった。

「遅ぇよっ!」

 溢れる瘴気をかい潜り、男の両手に握られた双頭のナイフが一瞬でその吸血鬼の頭と胴、そして四肢を切り離す。

「ギィヤァァァァァァァァァァッッッ!!」

 僅かな静寂の後、深夜の倉庫内に轟いた断末魔の叫びが男の耳奥へと染み込むと、その口端には堪え切れない嬉々とした冷笑が滲み出ていた。


 チュィーーン

 澄んだ金属音を残し刃の収納されたナイフを冷え切った手と共にコートのポケットに蔵い込み、地の底に溶け込んでゆく吸血鬼の骸を目の端に捉えながら、男は眩しげな灯りの差し込む出口へと踵を返す。

 扉の外で気怠げにその様子を見守っていた少女が男を出迎え、無言のまま横に並ぶと、湾岸沿いの荒んだ道を夜の奥底に向け歩き去っていった。


 少女のコートの隙間から微かに漏れ出す光を、男が包み隠す様に寄り添いながら.....。






 
 
< 黒と白 全完 >


 

 

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