黒と白

−終章−


 

 



06.孤独の暴君



「おかえりなさいませ、こしゅしんさま。おつかれさまれした。」

 そう言ってにこやかな笑顔を向けているあゆみの頬に、思いがけない鋭い痛みが走った。

 驚いて顔を見上げたあゆみの目に、昔..あゆみを壊した時と同じ荒んだ主人の瞳が映る。

「なにが”お疲れさま”だ。お前、俺が2〜3日で帰ると言ってあったのに1週間もほったらかしにしやがって..危うく死にかけたじゃねぇか」

「もっ、もうしわけあいませんっ!こしんぱいはしていたのれすが、ちょうさのものがさきほどもろったぱかりでして...」

 先程の怒った様子を急に鎮めると影一は、あゆみの赤くなった頬を撫でながら優しい声で囁いた。

「ああ、そうだったのか、そりゃぁすまなかったな、あゆみ..俺の知らない間にお前、成長したんだなぁ。この俺に口答えできる位に...俺無しで生きられる程に...」

 あゆみにとっては影一が闇に心を委ね、自分を責め嬲るのは恐れるような事では無い。それよりもあの時..主人に捨てられかけた時の恐怖があゆみの胸に蘇る。

「い、い、いっ、いえっ..とっ、とんれもないっ、わっ、わたしが..そのような...もっ、もっ、申ひわけごらいまふぇんっ、お許しくらさいっ!」

 あの日と同じように全身をガクガクと震わせ、野良犬となる恐怖に涙をボロボロと零している。

 そのあゆみの様子を見ていても以前のように同情や憐憫に心が痛む事も無く、逆に高揚すら憶える自分を影一は疎ましくも思っていた。

「ふん、いつまでも甘々なつもりでいるとまた痛い目を見るぞ」

 そう言葉を吐き捨て、館の中に入っていった。



「小夜子、お前は今日から亮子の代りをやれ。それから例の研究資料を今日中に俺の所へ持ってこい。特に闇の力を中和する力場の原因と発生方法だ。」

「はい、かしこまりました。ご主人様、少々お時間がかかりますので今日は失礼させて頂いてもよろしいでしょうか」

「ああ、構わん。急げよ」

「はい、失礼します」

 部屋を出ていく小夜子の揺れる尻を見ていると、ヒトでありながら闇の如き業虐を犯してしまった鮫島の気持を理解できなくもない影一だった。

(まあ、あいつはあいつで今頃は家族団欒の頃だ...くくっ)


 影一は冷ややかな失笑の後、つまらなそうに指先をクイッと曲げ一人のメイドを呼び寄せた。
 初めての主人の呼びつけに”信じられない”といった表情を一瞬は浮べながらも彼女は満面に浮ぶ喜びを隠さず駆寄る。
 やや緊張に固まったまま直立するその体を、舐め回すように隅々まで眺めた後、先日警備員の血をたんまりと吸ったバタフライを器用に開いた影一が、一閃で胸元を切開いた。
 それでも立ち位置を変えないメイドのふくよかなその谷間に刃先を当てると、目を合わせたまま下まで一気に切り降ろす。
 はだけた前身には、僅かに血の滲む直線が引かれていたが、そのメイドは切裂かれる恐怖などは微塵も感じさせず、初めて主人に嬲られる期待感に瞳を潤ませている。

「はぁ、はぁ、はぁ...はぁ、はぁ、はぁ.....」

 喘ぎではなくただ息を荒げ、息を呑んで次の歓虐を待ちわびている。

 彼女の透き通る素肌に当てられた刃先が、ワルツを踊るように真っ白な肌をゆっくりと滑り始めた。
 
 震える肩に引っ掛かっていたメイド服がスルリと落ち、美しく均整の取れた裸身が浮び上がると影一の口元が不気味に吊上がる。

 腹から乳房、脇、背中、尻、太股と、ほんのりと赤い線を残しながら全身をまさぐる切っ先の愛撫にも、彼女の股間は歓喜の証を垂れ流し、ふるふると震えながらも直立した姿勢を崩そうとはしない。
 やがてそれが誘うように蠢く淫裂に辿り着くと、冷たい金属の感触と共に痺れるような快感をもたらした。

「うっ!んんん...はぁぁぁっ....うっ、あああ、あっ、あっ、あっ、あはあぁあぁ......」

 しばしナイフの背で彼女の敏感な部分がやわやわと揉み込まれた後、刃がその柔らかい部分を傷つけない様にゆっくりと沈められていく。

 その時初めて、彼女の中に僅かな恐怖が生まれた。

「どうした....怖いのか?」

 掠れるような、陶酔しきったような声で影一が尋ねる。

「い、いえ...この..体は..ごっ、ご主人様の..ものです。どのように..使われようと...ご自由に....なされて....くっ、ください...」

「ああ、その通りだ。だが、ここが使えなくなるとお前はもう要らなくなるが...それでもいいのか?」

 少しでも動くとその通りになってしまう状況に彼女の全身は硬直し、小刻みな振動だけが支配している。

「そ、そっ、それは...悲しい..の..ですが...ごしゅ..じんさまの...お望みを..妨げる...事は...でっ..出来ません......」

 影一はニヤッと口元をゆるませると股間にナイフを深々と挿れたまま、彼女の顎先から額までをベロッと舐め上げ、眼球までを大蛇が獲物を味わう様にチロチロと蹂躙する。

 いつも思い焦れていたその舌の感触を、目で、見ずに感じながら、頭の頂をピリピリと痺れさせていたが下半身から神経を切離す訳にいかない彼女は、硬直したまま只受け入れる事しか出来ないでいた。

 残った片手で彼女の頭を優しく掻き懐くと、嬉しそうに、子供が菓子をねだるような声で影一はそっと問いかける。

「夏美...お前の瞳は美しいな...俺は..これが欲しい...なぁ、こいつを俺にくれないか?」

 影一の貌に優しそうな、しかし心底冷たい微笑みが浮び、瞼の裏側にまで舌が差入れられてゆく。

「...?!...は、は、はい...おっ、おすきな..ところで...お、おたのしみ...くっ、くだ、さい」

 影一はその答えに目を閉じながら背筋をブルッと震わせた後、ナイフをゆっくりと引抜くとエッヂから滴る官能の滴をねっとりと嘗め上げた。
 再びその切っ先がゆるゆると瞳の周りを蹂躙し、空いた柔肉には影一の膝がズリズリと押し当てられる。

 夏美は、これまでは決して見せてはくれなかった心底嬉しそうな主人の貌を、怯えた子猫のような表情で今まさに眼前に迫った切っ先と共にじっと見つめていた。
 しかし彼女の股間はその頭の中とは正反対の反応を見せている。
 上半身を支配する恐怖が下半身を浸食する官能に次第に駆逐されてゆく。

 影一が惚れ込んだその瞳からやがて恐怖の色が徐々に抜け落ち、切っ先にまで媚びるような視線が向けられ始めると、ふとその遊びに飽いたように影一は「フンッ」と鼻息を一つ漏し、ナイフを弄びながら再び椅子に腰掛けた。

「今日から俺の世話をさせてやる。指示はあゆみに貰え」

 一気に弛緩し、へたり込む様に正座すると夏美はヘナヘナと額を床に擦り付けた。

「はっ、はいあとうごらいますっ!ひっしょうけんめいつとめめさせていたらきます。よろしくおねがいひます!」

 感涙の涙を流す夏美の言葉にも無表情のまま、影一が指を二本立てると、すぐに他のメイドがそこへ煙草を挟み、傅いて火を着ける。
 影一はそのメイドの服もナイフでチクチクと切込みながら

「お前ら、犬は服なんざ着ねえんだ。まぁた一から躾直しかぁ?ったく..あゆみっ!お前は分ってんだろぉが、こいつらをしっかり調教しとけっ!」

「はいっ!もうしわけありませんれした。こしゅしんはま」

 あゆみは右足を引きずりながら影一の前に駆寄り、深々と頭を下げると周りに居たメイド達を引連れ部屋を出ていった。

「どいつもこいつもつけ上がりやがって...」

 だが、力が漲る程に募る苛つきは牝犬達にいくらぶつけた所で晴れはしない。
 
 影一は正座したままこちらを見上げている夏美に向かい顎を少ししゃくり合図した。

 しかしその意味を理解出来なかった夏美は、影一の足元まで近寄りもう一度見上げる。

「はい、ご主人様..なにか御用でしょうか?」

 ドカッと蹴り飛ばされ2メートルは転がっただろうか?その先で再び正座し直し謝罪する夏美に向って、無言でもう一度、今度は自分の股間へ視線を送りながら合図する。

 それでようやく主人の意志を理解出来た夏美は、影一に駆寄り足元に跪く。

「申しわけ有りませんでした、ご主人様...失礼致します。」

 慌てて..しかし細心の注意を払いながら大事な一物を取出すと、夢にまで見ていた主人の股間へ舌先を延ばした。
 
 調教されていない夏美のその稚拙な奉仕は主人を満足させるには程遠いものだった筈だが、その時既に影一の思考は他の事に囚われていた。




「いかがですか?ご主人様...」

 影一は傅く夏美の背中に両足を乗せたまま、小夜子に手渡された書類に目を通していた。

「なかなか面白い...すると所内の電源を全て落とせば”力場”は無くなるのか?」

「あ、いえ..申しわけ有りませんが、こちらの方は私の仮説にすぎません。ご主人様のお力がどのような物かは判りかねますが....先日のあの黒い..霧の様な物がカプセルの中では有効だった事と、昇るエレベーター内での発生の仕方から考察致しますと、地下部分の外殻に仕込まれております放射能を遮断する為の鉛と外からの電磁波を誘導する銀が影響して内部で発生した磁場や電波が乱反射した結果、あのような”力場”が発生したのでは無いかと推測します。
 事実地下の研究施設では偏頭痛や細胞の癌化等、被爆に近い症例の報告も残っておりました。隠蔽されておりましたが...」

「ふん、もう一度あそこへ戻る必要がある..と言う事か....」





 真ん中に蝋燭が一本だけ立てられた闇のホールで、影一はじっと待っていた。

 待ち人がいつ、どこに、どうやって現れるのかも知りはしなかったが、今は何故かそれを確信出来ていた。
 それは影一が、彼ら闇の住人とより同調した..という事なのかもしれない。


「ふぉっふぉっふぉっ...随分と良い貌になったようじゃの...お主がそうあってくれればこのわしも話がし易いというものじゃ」

 いつもと同じ所....影一がその為に創った闇の中から聞き慣れた掠れ声がホールに響く。

「けっ、調子にのんなよ..お前らを嫌ってるのは変っちゃいねぇんだ」

「まあよいわ。...で、首尾はどうじゃな?」

 影一は足元に置かれていた円筒型の金属製カプセルを足で寝かせると、無造作に部屋の隅に蹴り転がした。

 ゴロン、ゴロン、ゴロン、ゴロン.....

 密閉された室内に鈍い金属音が響き渡り、闇の中に吸い込まれていく。
 
 そのカプセルの蓋を開け、中身を確認した老人は独り言の様につぶやいた。

「ふむ...やはりそうであったか...」

「そう...そいつは元々はお前さんの主人..”あいつ”が創った物だ。おそらくどこかの淫魔がヘマをやらかした..ってトコだろう」

「まあ、そういう事じゃな...研究所の内部についてはどうじゃ?」

「ヒトは全て支配した..あそこはもう俺の物だ。それと多分お前さん達が一番欲しがってる情報もここにある」

 影一は冷笑を向けながら数枚の書類をヒラヒラとなびかせた。

「...と言うと?」

「けっ!しらばっくれやがって。あそこが闇の力を無力化するってのは知ってたんだろ?それを黙って行かせたのはこの間の仕返しかい?それとも俺はまた捨て駒だったってとこか?」

「あ、いや..そういう訳では無いんじゃ....幾らかの使い魔があそこから戻らん、といった位の事は知っておったのじゃが..お主なら何とかするじゃろうと思うてな...いや、苦労掛けたかの?」

「ま、苦労って程大したもんじゃ無かったがね...ビジネスはお互い信頼が大事だ。隠し事は無しにしようぜ」

「わ、わかったわい...早うそれを寄こさんか」

「おっと、その前にお前達が今度は何を企んでるのか教えて貰おうか...さっき言ったろ?お互い信頼が大事だってな」


 老人はしばし額に皺を寄せ苦渋を浮かべていたが、やがて”仕方が無い”といった仕草を見せるとゆっくりと話しだした。

「”あの日”以来、お方様は随分と回復なされた..お主の働きのお陰での...」

「お世辞はいらねぇよ」

 背筋が寒くなるような老人の言葉に影一は吐き捨てるように言った。

「ん?ああ、いや...コホン...しかし力が戻るにつれ、お方様の天に対する渇望も段々と昔の様に大きくなってこられたのじゃ...。
 しかしまだまだ天に戦を仕掛けるには力が足りん...昔、共に反逆を企てた他の天使達もすっかり毒気を抜かれてしもうて、いまやお方様一人が怒りと無念に打震えておられるといった状況じゃった。
 そんな折、使い魔の一人がある情報を持ち帰りおった。”ヒトが我らの力を手にした。それを使ってヒトの支配を企てておる”という事じゃった...
 当初お方様は、生意気な人間共に天罰を下されるおつもりじゃった...じゃがその人間共の企みは『天に知られず、あくまでヒト同士の争いの中で、ヒトを支配下に置ける』物である事に気が付かれた。
 そしてその数十億の人質を盾に天界への復帰を企てなされておるのじゃよ。いくら神じゃとかて言うておってもあやつらはエゴイズムの塊じゃ...崇め奉る者が居なくなるのは辛抱出来んじゃろうと思うての」

「ははあん...お前ら普段偉そうな事言ってる割には、子供の仕返しか会社員のストライキ程度の事しか考えてねぇなー...そんであの研究所を墜としに行ったら中和されて死んじまった、って訳だ。
 ...と言う事は他の兵器関係の施設は既に御用達済みって事か?」

「無論じゃ...いつでも世界中のどこにでもあの液体をぶちまける事ができるわい。ただこいつは一気に全世界に同時に打ち込む必要がある...対策を講じられては面倒じゃからの..後はそれだけの量になるまでそいつの培養を待つばかりという訳じゃ...」

「そんなもの待たんでも”あいつ”に創って貰やいいじゃねぇか」

「いや、あれだけの量をお創りになられるのはお方様とて結構なお力が必要じゃ。もし首尾が旨くいけばその後には大きな仕事が控えておるというのに、そんな事で力をお使いになる訳にはいかんわい」

「なるほど...大体の事情は飲み込めたぜ。まあヒトがどうなろうと知ったこっちゃねぇが、”俺の物”には手を出すなよ」

「判っておるわい...どのみち闇に魅了された者があんな物でどうにかなる事もなかろうが」

「ああ..そうだったな...」

 影一の頭に、未だに館の集中治療室で眠り続ける亮子の無惨な姿がよぎる。

「それで...あいつが量産された暁にはまた俺があそこに入って電源を落とさにゃいかんという事か?」

「ん..電源?あの”力を拒む物”は電気なのか?」

「まあそんなとこだな...」

 影一はそう言って持っていた書類を投げ渡した。

「ふむ.....ならばそういう事じゃな。その時に”お前の女達”は戻して頂く事にしようかの....」

「信用していいんだろうな?」

 影一は老人の方へ歩み寄り、睨む様に見下げる。

「むっ、無論じゃわい。お主言うておったろう...びじねすは信頼が大事..とな...」

「へっ、お前らの口から”信頼”とはな...”あいつ”が聞いたら泡でも吹くんじゃねぇか?」

 老人はムッとした怒りを噛み殺し、何も言わずに闇に溶け込んだ。







07.守るべき者



 影一は再びあの研究所に戻ってきた。
 
 今は主を変えている所長室の豪華な椅子にゆったりと腰掛け、机の下に居る夏美に奉仕させている。
 しばしその舌技を目を閉じて噛みしめていたが、ふと思い出した様に見開くと前で震えている男を睨みつけた。

「堂島..お前、ここの責任者だったな。俺に報告して来なかったのはどういう訳だ?まさか知らなかったとは言わねぇよな..」

 そう言って影一は全裸で堂島の靴に頬を擦りつけながら一心に股間をまさぐっている女に視線を流す。

 その女、三田詩織は財閥の息女である事からも一度は茜の”堕とすリスト”に上る程の容姿ではあったが、若干の幼児体型の為に影一の趣旨に合わず除外されていた。
 今は堂島の執拗な調教によって妖艶なフェロモンを発するようになってはいたが、素人の堂島に調教された詩織は所構わず発情するただの淫乱野良犬に過ぎなかった。

 「あ、その..申しわけありませんでした、天野様...ただ..一応これは国家プロジェクトと言える物では無く、私の個人的な先走りと言うか...使い物になるかどうか、まだまだ先の見えない研究で..天野様のお耳に入れる程の事は無いかと....」

「ほう..先の見えない研究だが女の墜とし方だけは完成済みって訳か?」

「こっ、これは..私の趣味で..その...」

 ガッシャァーーーンッ!!

 机の上にあったガラス製の灰皿が堂島の背後の壁で粉々に砕け散った。
 堂島の頭目掛けて投げつけられたそれは、耳の上辺りをかすっただけでダラダラと血を流させていたが、直撃していれば間違いなく只では済まなかったろう。無論影一はそのつもりだったのだが....。

「てめぇっ!俺の命令を聞かねぇばかりか、ダラダラと下らねぇ言い訳ばかりしやがって..ここは国会じゃねぇぞ!」

「もっ、申しわけございませんっ!お許し下さい!」

「けっ、こんな野郎が俺の駒だったとは...綾香の方がよっぽど役に立ってたぜ」

「あ..綾香は、今も天野様の所でお世話に?あれからどちらに...今はどうしているのでしょう?」



 ...あの時..娘の綾香が初めて”自分の一番大事な人”と言って家に招待した男が影一だった...
 可愛い一人娘には自分で相応しい相手を探すつもりでいた堂島にとってその出来事は甚だ面白くない物であったが、娘と家内の説得に負けて開いた晩餐で、堂島の家族は影一の手に墜ちた。

 いつもは暖かい家族の団らんが交わされる豪華な食卓の上には若い女中達の裸身に盛られた様々な料理が並び、一人食事をしている影一の股間で一心不乱に肉棒を舐めしゃぶる愛娘を床に正座した家内と共に眺めていたものだった。


 その後も男を細かく仕込むのを嫌った影一が自分への忠誠心と幾つかの指示だけを埋め込んだまま放置していたのだが、まさかこんな事態になろうとは...



「そんな事はお前には関係ねぇよ。お前も俺の駒になったんだ、もうちっと働かねぇと次の選挙は通さねぇからな」

「はっ、はい..かしこまりました」

 ”さっさと出て行け”と手で合図すると、夏美を机の中から引きずり出し先程よりは少し声のトーンを落として言った。

「ったく...おまえもいつまで経っても上手くならねぇな。館に帰って麻里の爪の垢でも飲んできやがれ」

「もっ、申しわけ有りませんっ!」

 声を震わせて謝罪する夏美だったが、影一の手に墜ちてからまともに調教など受けていなかった彼女にとって、口淫奉仕の細やかな機微など判る筈も無かった。

 と、その時...卓上の電話が鳴り響くのを聞いた影一は、受話器を取り無言のまま耳に当てる。

「ご主人様、準備が出来ました」

 小夜子の報告を聞いた後、またしても無言のまま受話器を置き、身支度を整え足早に部屋を出て行った。





 実験室の中央にある、緑の塔を見上げながら影一は一人物思いに耽る。

(こいつが..ヒトを支配する....)

 ヒトが全て闇に取込まれたらどうなるのか、あまつさえ神々が要求をはねつけたなら...ヒトも只ではすまないだろう事は判りきっている。
 だがこのまま手を拱いている訳にもいかない...あの時俺は誓った。あいつらを救う為に俺の命をも遣うと...ましてや他人の命など...

 結論など在る訳が無い堂々巡りの中、影一は逡巡を繰返す。

(やるしか無い....か...)


 唇の片端をキュッと結ぶと、真横に伸ばされた右腕の指先がパチンと鳴らされた。

 途端に全館の照明が切れ、全ての機械音が止む。

 正に真の闇と静寂の中、影一の中に再び力が漲っていくのがありありと感じられた。
 自らの心音以外に入力される情報は全く無かったが、影一の感覚は視覚に頼っていた時よりも遙かに鋭敏で、部屋の隅々..機器の裏側まで認識出来る程になっていた。

(ふっ、あいつらが闇を好むのも分らんでも無いな...)

 数十秒後、微かな機械音と共に補助の電源が入り、幾つかの非常灯とモニターだけが光を放ちだす。
 だがその状態ではさして”場”に影響を及さず、僅かに感じる目眩はただ眩しいだけの為かもしれない。

 その後も何度かスイッチを入切りし効果を確認した後、影一はこの鬱陶しい場所から逃げる様に出口に向った。



「ご主人様...別の部屋に監禁されておりました被験体の女達はいかがなされますか?」

「ああ、あいつらなら俺も一通り見たが特にめぼしい女は居なかったな」

「あ、いえ...そうではなく..彼女達はあのままあそこに?」

「ん?お前、あいつらを助けたいのか?」

「はい、あ...いえ..差出がましい事でした。申し訳ありません」

「まあいい、お前がそうしたいなら構わんが...あいつらの洗脳を解くという事は今度は俺に縛られるという事だが...」

「はい、あの娘達は今何を為すべきか、誰に仕えるのかも知らされておりません。このまま無為にあの部屋で過させるよりはその方が彼女達にとっても幸福なのではないかと考えます。私にしても鮫島などに仕えていた頃とは比べ物にならない程の幸福をご主人様に戴いておりますので」

「ふん...ならそうしてやろう。案内しな」



 影一の入室を見てとると、皆思い思いの格好で媚びを売り始めた。胸を強調する者、股間を割り開いて見せつける者、机の上でオナニーショーを繰広げている者もいる。

「ご主人様ぁ、どうか私をお傍に..一生懸命ご奉仕いたしますわ」
「いえ、私をどうか..こちらの穴もよい具合ですのよ」
「あら、私の胸ならいろんなお遊びが楽しめましてよ」

 皆 主人に選ばれ、飼われる事で幸福になれるのだとでも刷込まれているのか、必死で身体を擦り付けてくる。
 
 影一は一歩下がり、指を一本立てると彼女達の注意と共に眉間に引き寄せた。

 途端に固まった女達はふらふらと視線を彷徨わせ、次の指示を待っている。

「これからお前達は各自元居た場所に帰る...ここでの事は全て忘れる...ただしこれだけは忘れるな...お前達には仕えるべき主人が居ることを...その時まで元の生活に戻り俺のために出来る事をしろ」

 女達は先程までよりも一層嬉しそうな顔で影一に頭を下げるとそれぞれに散って行った。


「....あの..ご主人様...ありがとうございます」

「何故お前が礼を言う...俺がお前の為にやったとでも?」

 小夜子は影一を見透かしたかの様な微笑みを返しただけだった。

「ふん、生意気な...」

 影一はふてくされた表情のまま他の部屋も順に廻り、女達を解放し...いや、より強い力で縛っていった。


「ん?ここには男も居るのか?」

 見ると小さな独房の中に一組の男女がいた。
 酷く傷つきベッドに横たわる女の傍で、男が手を握ったままぶつぶつと何か呟き続けている。

「そちらにはこの液体の発見者...例の監禁暴行事件の被疑者が収容されております。女の方は被害者なのですが、かなりの深度まで洗脳されているらしく、引き離すと二人共が自傷してしまうのでこうして一つの房に入れられています。....ご主人様のお力で治す事は..出来ますか?」

「女は...無理だな。頭までイっちまってる。男は自閉してるだけだから治せなくは無いが...それを果たしてこいつが望んでいるのか....」

 影一の頭に昔の麻里の言葉が浮かんだ。

「そう..ですね...心を閉じるのは精神を守る為の自衛手段だと聞いた事があります」

「そういう事だ。イヤな事は忘れちまうに限るってな」

 そう言いながらも影一はその情けない男の姿に自分を重ね合わせ、哀れみの様な、羨みの様な、不思議な感傷を禁じ得なかった。
 「フンッ」と鼻息を一つ吐き、出口へと向かった影一の中に理解できない苛立ちが湧き起こるのも感じながら...。

 そしてドアノブを握りしめた瞬間、影一の頭に同じように傷つき心を無くした女達の骸がよぎる。

 突然動きを止めた主人の動向を、小夜子は不思議そうな目で見守る事しかできないでいた。

 少しの間そのドアノブを見つめ思案している様子の影一だったが、突然それを離し振り返ったかと思うとその男の顔を片手で掴み壁に叩きつけた。

 そして指の隙間から覗くその男の眼前に自らの吊り上がった目を寄せ、視線を絡みつかせながらその思いを吐き捨てる。

「おい!女をここまで墜としといててめぇだけ逃げはねぇよな。もうちっと苦しんでやってもいいんじゃねぇのか!」

 男は突然目覚めた場所がどこなのかも判らず、呆然とするばかりだったが、思い出したようにベッドの方を目の端で捉え、影一の掌の中で叫んだ。

「香!香...大丈夫なのか?香..どうした?返事をしろ...香!」

「女は壊れちまったよ。お前が壊したんだ。どうする?お前に何が出来る?...なんにも出来ねぇよな...どうだ?辛ぇだろ。その辛さが罰って奴だ。もっと噛み締めろ...逃げんじゃねぇ!」

「香を...壊した...俺が....やっぱりあれは夢じゃ...」

「夢ならいい夢だったがな...」

 影一は顔を掴んでいた片手で男を女の方に投げつけると、振り返りもせず足早に扉を潜った。

 そんな不機嫌極まりない影一に付き従いながらも、その怒りの中に主人の愛情を垣間見た小夜子であった。




 それからずっと押黙ったままの影一は、ようやく解放し終えた最後の女達を引き連れ、いらいらしながら長いエレベーターの到着を待っていた。

 ....と、その時..薄暗いエレベーターホールのゴミ箱の影から、妖しげな..しかし影一のよく知っている気配が湧き出した。

「ちっ....おい、出て来やがれ?そんなとこで隠れてるつもりか?」

 促され、その影から出てきたのは、闇の者...と言っても最下級の存在。どろどろと皮膚をぬめらせる肉の塊に、ただ切れ込みを入れただけの口、子供が粘土細工でくっつけた様な不細工な手足。ヒトが嫌悪するのも無理はない...あまりにも醜く、あまりにも下賤だ。
 そして下卑たその仕草は影一ならずとも唾を吐きかけたくなる物だった。

「なんの用だ。”あいつ”から俺の監視でも命じられたか?それにしても損な役を引受けたな...俺は今至極機嫌が悪い...」

 影一が片手を振上げ青白い閃光と共にその淫魔を周りの闇ごと攪拌しだす...

「ちょ、ちょっ、ちょっと待ってえな、あんさん。話ぐらい聞いてくれてもええやんけ!」

 影一はその間の抜けた言い様に一瞬毒気を抜かれてしまい、手を振上げたまま固まってしまった。

「ふうぅー...あーこわっ。死ぬかと思たがな。...あ、あのな...実はあんさんにごっつええ情報持って来たったんや」

「情報?」

「せや!うっとこの”お方”はんが今やっとる悪巧みやがな。あんたそらえっぐいでぇー。な、な、ちょっと聞いてぇな」

「”お前らの体液を使って人類を支配しようとしている”ってんじゃ無いだろうな...」

「えっ、えええーーーーっ!なんで知ってるんや、そんな事?”お方”はんが人間如きに言わはる訳ないやんか」

「如き?」

「あ、いや..えらいすんまへん、悪気は無いんやで..。あ、そしたらそいつら使うて戦仕掛けるっちゅうのんも知ってはるん?」

「...人質じゃないのか?」

「へっへー、やっぱり全部は聞かされてはらへんみたいでんな。あの傲慢な神さんがヒトの命程度で”お方”はんの脅しに屈する訳ありまへんがな。大将、こいつは聞いといて損の無い話でっせ」

「けっ、お前らの話しなんぞどのみち全部嘘臭ぇんだ。用があるならさっさと言いやがれ」

「なんや、せっかちなおヒトでんなー。まあええわ、耳の穴かっぽじーてよう聞きや。
 ”お方”はんがわしらの体液を使うてヒトを全部イワしたるっちゅうのんは間違いおまへん。自衛隊基地を墜としに行く時わしも一緒におったさかいな。ミサイルはいつでも発射オーライや。
 肝心なんはその後でんがな。”お方”はんはその支配したヒトらを使うて神さんに戦を仕掛けよと思てはるんや。百年前に失敗した計画をまぁたやったろっちゅう訳やな。
 せやけど今度ばっかりは絶対に失敗する訳にはいきまへん。なんせ次にばれたら出来心では済まされへんからな..神さん連中にアッちゅうまに消されてハイさよならや。
 あくまでヒトの反逆っちゅう形で戦を仕掛けなあかん。このニッポンちゅう国が、ヒトの科学兵器を使うて、ヒトが創ったこの液体で、自分の国の利益の為に世界を支配する...ほんでうまい事いったらまた欲が出てきて、今度は神さんに攻め込んだろかっちゅう筋書きや。
 せやけどあんた、そんな事したらヒトはドえらい目に遭いまっせ。神さんはそいつらを闇に操られた駒とは知りまへん...神さんに反逆したヒトらは未来永劫の炎獄行きや。ただ死ぬのんと訳がちゃうで...あんさんは見た事無いやろけど、そらエッぐいんやでー。もうわしなんか半日は飯が喉通らへんかったがな...あ、半日ゆうてもな、朝ご飯から昼ご飯の間とかとちゃうで、せっかくありついたとっておきの.....」

 バチバチッ

 淫魔の足下の闇がはじけて消えかける。

「わっわっわっ、ちょ、ちょっと、待っ.....」

「続き....」

「分ってるがな...ったく、これやからヒトは......あっ、あっ、やめて...ほっ、ほんでな、ヒトの総攻撃でちょっとでも神さんを弱らせた所をたっぷりと力を温存した”お方”はんらの出番や。そうなったら今までイモ引いとった他の天使らも続々と加わって来て、ハルマゲドン勃発や!
 そうなったら操られてへんヒトらも無事で済む訳ありまへんがな。あんさんもヒトの端くれやったらこないな事止めといた方がええんとちゃいまっか?」

 影一は迷っていた...確かに”あいつ”なら考えそうな事だ...しかし信用に足らないと言う点ではこの醜い生き物も同じ様な物に違いない。

「それで...なぜお前がそんな話を持ってくる?」

「..あのな...実はな...このニッポンにな...一人守ってやりたいヒトが居るんや...そいつ...トッ、トモダチやねん....」

「トモダチ?淫魔にヒトのトモダチだと?てめぇ、どうせならもうちっとマシな嘘考えてきやがれっ!」

「わっ!ほっ、ほんまやがな!話せば長うなるけどホンマやねん、信じてぇな!
 ....あっ、あっ、そや!あんさん、春蘭の姉ちゃん知ってはるやろ?なんや嗅いだ事のある匂いやと思てたんやけど、あん時横浜のマンションで会うた綺麗なねぇちゃんや。マリンシティ横浜509号室..どや?」

「.....香蘭か?」

「あ、そうそう、それ!そないな名前やったがな。その香蘭の妹に春蘭っちゅうのんがおってな、わしとそのトモダチと一緒に住んどったんやで。もうそいつの記憶は消してしもたけど、あんさんやったらそいつにいっぺん会うてくれたら分るがな.....なっ、なっ?頼むわ、こないな計画やめといてぇな。わしに出来る事やったら何でもするさかいに」

「仮にそれが本当だとして、お前、それが”あいつ”にばれたらどうなるのか分ってんのか?」

「ああ、分ってるつもりだす。わしなんぞアッちゅう間に消されて塵も残らんやろな...せやさかいにこんな危なっかしい所で待伏せしとったんやがな」

「それが分ってて、どうしてこんな事を...」

「死んでも守りたいモンって、在るもんや。ホンマはあんさんもよう分ってはるんやないでっか?」

「............」

 影一の中にポツンと僅かな同情が芽生えた。先程の男の件が無かったなら、この醜い生き物は見つかった瞬間に消されていたのかもしれないが、その生き物の言葉は先程から影一の中で渦巻いている逡巡に又一つ波紋を投げかけた。

「どうするかは俺が決める...が、お前の言葉も覚えておいてやる。さっさと消えろ...さもないと、もうじきここの電源が入ればお前など消し飛ぶぞ...俺が手を下さんでもな...」

「へっ、へい、ほんならよろしゅうたのんまっさ」

 淫魔は引きつった口元で媚びた笑みを表現すると、再びゴミ箱の影へと飛び込んだ。







08.女



 とある駅前の噴水広場

 明るい日差しの中、一人の女が座っている。

 彼女の美しさは、道行く全ての男達の視線を集めていたが、しきりに声を掛けてくる若者達をしげしげと眺めてはこう言って追返していた。

「貴方ではありません...」

 そして又、人混みの中に視線を戻す。

 毎日の様に同じ場所、同じ台詞でそれを繰返す彼女は、やがてヒソヒソと囁かれるばかりとなり、遠巻きには眺めても声を掛ける者は少なくなっていた。


 そんなある日、彼女の前に一人の青年が立ち、無遠慮にじっと見つめかけた。

 彼女もそんな男の目を引込まれる様に見つめていたが、スッと立上がると初めて違う言葉をつぶやいた。

「あなたが私の探していた人ですか?」

「いや...俺とあんたは初対面だが...」

「そうですか...貴方には私が探している人と、多分同じ..懐かしい匂いを感じたのですが...」

「誰を探している?」

「分りません...どこかにいる..誰か...でも私には..とても大事な人です」

「とても大事....か...」

「はい、その人は私を救ってくれました。身体も...心も...そんな気がするんです...でも..分からない....」

 視線が外される事は無かったが、全く無表情な二人の会話は傍目には機械のそれを思わせる。

「お前には姉が居たな..憶えているか?」

「?...はい、あなたは香蘭のお知合いですか?」

「ああ、そうだ...俺もあいつに...救われた....」

「そうですか...姉は元気にしてますか?彼女と最後に会ったのは...3年前..私の部屋の..寝室で...だった様な気がします。でもその時交わした言葉も..その時の彼女の顔も...思い出せません。
 ....私の大事な人がみんな..私の中から消えていくの...」

「消えた方がいい事もあるさ....」

 彼女はイヤイヤとでも言いたそうに首を横に振ると寂しげな視線を下に落とした。

「....あなたは私に会いに来られたのですか?」

「ああ、まあな...話をするつもりは無かったんだが...」

「ならどうして?」

「さあな...俺もあんたに懐かしい匂いを感じたのかもしれん....」

「教えてください...あなたはどうして...私の大事な人の匂いがするの?...あなたがそうじゃ無くても、その人の事を知っているんじゃ無いの?」

「いや、それは知らないが....俺にも一つ教えてくれ。もし叶うのならそいつと..不幸になると分っていても会いたいか?それとも全て忘れて普通の幸せの中で生きるのも...悪くないと思うが...」

「そんなの..分かり切ってるわ。...あなたなら大事な人の事を忘れたいなんて思うの?その人の存在さえ忘れてしまって幸せだって言えるの?」

「ああ、その通りだ。だが、その想いが創られた物だとしたら?そしてその相手にはもうあんたが必要で無くなってたとしたら?それは不幸ではないのか...?」

「そうね..そうかもしれないわ...でも私の想いがどこで創られたかなんて、そんなのは重要じゃ無い...大事なのは、今の私を幸せに出来るのはその人だけって事よ」

 影一はその答えに苛つく素振りを押し隠す様に、煙草に火を着け、吸込んだ。そしてそれを自分への不信と共にゆっくりと吐き出す。

「よくわかった.....俺にはあんたの願いを叶える事が出来るかもしれんが、それをする気は無い。あんたがここで一生待ち続けようが、それもあんたの大事なヒトの意思ってヤツさ。
 ....だがもしそいつの事を忘れて、他の幸せを探したくなったら...ここへ連絡しな」

 女は手渡された紙切れを見つめながら、何故か涙をこぼしている...迷っているのだろうか?

 その様子を、さも自分の女の事の様に苦渋を浮かべて見つめていた影一だったが、何かを睨む様な目つきで振返り、踵を返した。
 ...が、少し離れ、ふと立ち止ると、俯いている彼女に向ってきっぱりと告げる。

「香蘭は返してやるよ....いつか....必ず」

 一見理不尽なその言葉にも彼女はその男に不信などは抱かず、暖かな笑みで謝礼を返した。





(ったく、あいつは....中途半端な記憶操作しやがって....)

 一人憤慨した様に足早に歩きながら、先程の女の言葉を思い出していた。

(あいつらも同じように思うのだろうか?あいつらの中から俺を消したとして、その後には何かが残るのか...他の幸福を見つけられるだろうか?あの女の様に穴が空いたまま彷徨うのだろうか?)


 らしくない感傷に苛つきながら歩いていた影一がふと見上げると、そこは港の近くの公園だった。

(ここは...そうか..あの公園か...)

 感慨深げに辺りを眺めながら一人遊歩道を歩き、居並ぶカップルの途切れた..繁みの前で立ち止まる。

(ここで、あいつと...)

 そこであの時の名残を探してみたい衝動に駆られたが、あまりにも無意味で理解の出来ないそれを一瞬で振り払うと逃げるように遊歩道を抜けた。
 そこで落日の灯りに照らされる港を眺める内に影一は、今まで想う事すら封じてきた感傷が湧き起こり、押さえる事が出来ない程に膨れ上がっていくのを感じていた。

(なんで今頃あいつの事を....)

 そう思った瞬間、街をオレンジ色に染めていた光が渦を巻き、影一に目眩と不快感をもたらしながら近づいて来た。
 やがてその渦はヒトの形を、それも極上の女のそれを創りあげていく。

「ちっ、やっぱりか...らしくねぇと思ったぜ。あんたがここまで呼んだのか?」

「天野影一...私を知っているのですか?」

「俺と恵を掌で踊らせてくれた奴だろ?用があるならてめぇから来やがれってんだ」

「あいにく私は、あなたがたの居る様な所で実体化する事はありません。それと貴方の様な身分の者が私にそのような物言いは許されませんよ」

「ほう、そうかい?なら俺を消しちまうかい?口の利き方一つで殺っちまう位ならとっくの昔にそうしてたんだろ?」

 その女は目を細め、額に皺を寄せながら呆れた様に言う。

「貴方が今も生きていられるのは彼女...相原恵の嘆願のお陰です。でなければ闇に荷担したヒト風情が生きて..ましてや闇に手を貸そうとしているのを黙って我々が見過ごす筈がないでしょう」

「恵か....どうしてる?」

「彼女はヒトを救う為に世界中を飛び回っています。貴方は彼女が必死の思いで為してきた事を...それも貴方の為にしてきた事を全て無に帰そうとしているのですよ。

 闇の者達がここ数年で急に力を付けて来ている事は分っています。その手引を貴方がしている事も。
 貴方は今、闇に取込まれようとしている...ですが今ならまだ間に合うのです...貴方にはまだ心がある。ヒトを...限定された女性に対してのみですが...愛する心が。
 彼らが何かをしようとしているのなら、話すのです。あの者達に取り入っても幸福になれる事など無いのですから...もう闇に魅入られるのはやめなさい。こちらの側に来るのです」

「誰も好き好んであんな気持ちの悪りぃ連中と付き合っちゃいねぇよ。俺の望みは知ってんだろ?あんたがそいつを叶えてくれるってんなら話は別なんだがな」

「貴方が天の意思に従い、それに相応しい行いを積み重ねればいつか貴方の願いも叶うでしょう。相原恵もその為に働いています」

「そんなには待ってられねぇな。恵が2年かかっても出来ねぇもんを今更俺にやれってのかい?
 俺は俺のやり方でやる...どっちが正解か、なんてのは分からんがあんたにその気がねぇんならとっとと帰んな。それとも俺とヤりてぇってか?」

 女は影一を侮蔑するような視線で見下げ、冷ややかに言った。

「天野影一、後悔しますよ。闇はいつか滅びる運命です。貴方もその時消え去るでしょう。」

「そうかい、好きにしな...」

 周りを包んでいた光が拡散し収束した後には、沈みかけた陽の光が微かに残るだけだった。





 館に戻った影一は一人寝室で寝転がり、天井を眺めていた。

 いや、正確にはあゆみが足元で正座していたが、微動だにすることは無く、主人が望まない限り彼女は只の置物に徹している。

(恵か...あいつなら”おにいちゃん目を覚まして”って言うんだろうな。麻里なら”ご主人様のお望みのままに”ってとこか。茜なら....もうちっとマシなやり方を考えたかもな...)

 いつになく感傷的な自分を振払う様に影一は足元に目を向けた。

「あゆみ」

「はい!こしゅしんさま」

 全裸に真っ赤な首輪だけを着けた置物が、嬉しそうに影一の元にすり寄って来る。

「俺が死んじまったら、お前はどうする?」

「もちろん、こいっしょいたします」

 死を仮定した話だというのに、あゆみの表情はまるでその時を楽しみにしているようににこやかだ。

「お前がそんな事言ってるから、俺はとっとと死ねねぇんだよ。
 あゆみ、命令だ。俺が死んだらここの者達と生きて行け。他に幸福が見つけられるなら、そうしろ」

 まるで離別を宣告されたかの様にすがる視線を向けるあゆみは、今にも泣きだしそうだ。

「こしゅしんさま...それは..あんまりれす。こしゅしんさまなしれ、いきるのは..むりれす...ろうか..いっしょに...わたしも、いっしょに....」

 しばし苦渋の表情を浮かべながら、あゆみのすがりつく瞳ををじっと見つめていた影一だったが、長い瞑想の後、軽く目を閉じた。

「あゆみ、ちょっと来てみろ」

「はい!」

 何をして貰えるのか、先程とは打って変わってあゆみは心底嬉しそうに擦り寄ってくる。

 にこにこと笑いながら真っすぐに見つめるあゆみの顎をそっと掴み、そっと開かれた影一の眼には至極優しげな光が宿っていた。

 あゆみの鼓動は高鳴っていた。まるで少女が初めて交わす口付けを待つ様に、愛しい人を見つめながらその時をじっと待っている。

 しかしやがて、その幸せそうな表情が少しずつ抜け落ちると、放心したように脱力し、頽れた...。

「あゆみ、俺が判るか?」

 キョトンとした表情でしばらく影一を眺めていたあゆみだったが、辺りを見回し、自分の素肌に目が触れると驚愕の悲鳴が響き渡った。

「キャァァァーーーーッ!あっ、あなたは...たれ?...ここはろこなの?わたしに何をしたの?ふっ、ふくを返してっ!」

 自らの素肌を少しでも隠そうと部屋の隅で丸まり、背中を向けて打ち震えだした。
 憐れむ様な視線で自分の裸体を眺めている男に、恐怖と悪寒を感じながら....。

 けたたましい悲鳴を聞き駆けつけた夏美が、ドアを開いた。

「ご主人様、どうかなさいましたか?」

「ああ、夏美。こちらのお嬢さんが家に帰りたいそうだ。服を用意して差し上げろ」

 部屋の隅で恐怖の表情を浮かべながら、あれ程慕っていた主人から逃げ出そうとしているあゆみを見つけた夏美は、驚きの表情で影一に尋ねる。

「あ、あの、ご主人様...ま、まさか...あゆみさんを...」

「ああ、そうだ。ちょっと生意気になってきたんでな、捨てる事にした。こいつのマンションまで送って行ってやれ」

 ”信じられない”といった顔で主人とあゆみを交互に見つめる夏美に向かい、影一は苛ついた口調で言う。

「なんだ、お前まで俺に文句を言うつもりか?」

「いっ、いえ。すぐにご用意いたします」




 今も尚小さく丸まって震えているあゆみを後部座席に乗せ、夏美の運転する白い乗用車が国道を走っている。

 いつまでも止まらない嗚咽の意味を、彼女は知っているのだろうか?

 男に何をされたかも憶えていない...気が付いた時にはただ、首輪を付けられただけの全裸で男の部屋に居た。
 確かにそれだけでも陵辱を受けた証と言えなくもないが、胸の奥からこみ上げる悲しさは、体やプライドを傷つけられた所から来るものではない気がしていた。
 それが先程の館から離れる程にこみ上げ、大きくなっているのは何故なのだろうか?

 それだけではない。今、前で車を運転している女性も自分と同じく、いや、自分以上に激しく涙を流し続けている。
 恐らく自分の意志であの館に留まっている筈なのに...あの涙は誰かの為に流しているのだろうか?

 言いしれぬ不安と悲しみを抱え、あゆみはいつまでも嗚咽を漏らし続けている。






 チュンチュンチュン

 気持のいい朝の日差しと雀の鳴声、車や人の喧噪など耳にも入らない清々しい筈の時間。寝室のベッドの上で半身を起しただけのあゆみはぼんやりとその女を眺めていた。

「少しは元気が出ましたか?」

 夏美がカーテンを開け、朝の光を取り込みながらあゆみに向かう。

「あ、いえ...なんらか気力がつづかなくて...すみません」

「やだ、謝らないで下さい。勝手にお邪魔しに来てるのは私の方なんだから」

「いえ...そんな。こっちこそ、いつもお世話なんてひて貰っちゃって...」

「お世話だなんて思わないでください。私があなたにして貰った”お世話”に比べたらこんな事くらい...」

 あゆみは不思議な館で会ったこの女性に確かに好意を抱いていた。あの異常な状況で出会ったにもかかわらず...。

(あの時は彼女も全裸だった。そして首輪も...。今でも薄いワンピース一枚で、下着の類いは一切身につけていない...そしてあの男を”ご主人様”と呼んでいた。
 いわゆるSMというやつだろうか?...そして私も同じ格好だった.....。
 記憶を失っていた5年の間、私もあの男に従属させられていたのだろうか...全裸で...犬のように...)

 そのおぞましい筈の風景が頭をよぎった瞬間、あゆみの中の女が無意識に反応し、股間が湿り気を帯びるのを感じた。

(!!...そっ、そんな...なんで..私が?)

 あゆみは自分の体が自分の物では無くなってしまった気がして、言い知れぬ不安に包まれる。

「ねえ...やっぱりあそこれの事は、おしえて貰えないのかしら」

「ええ...ごめんなさい..これはあなたの為なのよ..理解出来ないでしょうけれど...」

「れも..そんなのってないわ!わたしは5年もの間の記憶をうばわれたのよ!
 その間にわたしが何をされたのか、ろうして私の舌とみき足がうまくうこかないのか、知る権利は有るはつよ!れなきゃこれから普通に生きていく事なんてれきないじゃない!」

 夏美はひどく悲しげな視線を向けていた。
 しかしそれは決して憐れみのような物ではなく、まるで自らの不幸を外から眺めるような、そんな瞳だった。

「ごめんなさい..私には何も言えないの...でも、たぶん..もうじきそれも忘れてしまうわ。あなたの疑問も..あの方の顔も...。
 それまでにあなたが普通に生活ができるようにしてあげたいの。
 もちろん仕事なんてしなくてもそれなりのお金は口座に入ってるし、人手が必要ならいつでも手配します。
 でもあなたが失った5年間はお返し出来ません...だから..どうか、これまでの事は早く忘れて...普通の幸せを掴んで下さい..お願いします」

 自分の事を心から心配しているこの女性に、これ以上責める言葉は言えなかったが、釈然としない気持ちは今も重くのしかかっている。

「...わかったわ..でも一つらけ教えて...その5年間は私にとって良い物らった?..それとも悪い物らったの?」

 夏美はしばらく悩み、迷っているようだったが、思い切ったように顔を上げてあゆみの肩を抱き締めた。

「間違いなく..あなたは幸福でした。私や、他の誰よりも...」







09.交錯の中で



 コンコン

「ご主人様、小夜子さんが戻られました」

 夏美がやや伏目がちに顔を覗かせた。

 影一は寝転がり、ぼんやりと天井を眺めていたが、人差し指だけを軽く折り曲げ夏美を呼び寄せた。
 嬉々として近寄る夏美の股間へ強引に手を差し入れ、指を2本最奥にまで突き入れる。
 元々湿り気を帯びていたそこは瞬く間に愛液を滴らせ影一の手首までをも濡らしだした。

 いつもより尚荒々しい愛撫を受け、惚けた瞳で息を荒げる夏美に向かい、影一は何事も無いかのように口を開いた。

「お前、あゆみの所に行ってるらしいな」

「はっ、はひ..少し..心配だった...ので..空いている..時間に...いけなかったで..しょうか..?」

 腰ごと揺さぶる程にぐちゃぐちゃと掻き回しながらも影一の視線は今だに夏美を捉えようとはしない。

 しばらくの間夏美の股間を弄んだ後、余った左手で器用に煙草に火を着け、ようやく夏美の方に顔を向けると煙をゆっくりと吹きかけた。

「俺よりあゆみの方が気になるって訳だ」

 飛び掛けていた夏美の頭から冷水が掛けられたように血の気が引いていく。

「そっ、そんな...そのような事はありません!!私はただ...」

「”ただ”何だ?」

「あゆみさんが不幸になられるのはご主人様もお望みでは無いのではないかと....」

「お前如きに俺の考えが分かるとは思えんがな。分かって欲しいとも思っていない。これ以上勝手な事をしたいならお前も出て行く事だ」

「もっ、申しわけ有りませんっ!以後気を付けます」

 夏美は怯えた子犬のように次の言葉を待ちながら、少しでも媚びを売ろうと主人の口に咥えられた煙草の先から今にも落ちそうだった灰を掌に受ける。

 影一の不適な視線をじっと受入れていた夏美の身体がビクンと跳ね、身体が小刻みに震えだした。

「どうだ?2倍の快楽は?」

「あ、あっ..きっ、きもち..いいっ..です」

 股間に挿入された指の動きに全ての神経が囚われ、膣内を大蛇が這い回る様な錯覚さえ憶える。

「あがっ!あっ、あっ、あああっ!かはっ......」

 再び夏美の身体が跳ねた時、既に彼女の中に正常な思考は失われていた。

「3倍だ...だが俺の許し無しにお前はイけない」

 いつもなら数十回はイってしまう程の快感でも達する事を許されず、夏美は夢幻地獄を彷徨い続ける。

「5倍....野良犬じゃあこんなキモチイイ事は味わえねぇな」

 全身をガクガクと大きく震わせ、白目を剥きながら髪を振乱していても腰から下は崩れ落ちる事も出来ない。
 喉の奥をガァガァと震わせながらただ愛しい主人の指先から与えられる止めどない快楽を受入れ、いつ訪れるとも知れないその時をじっと待ちわびている。

 と、不意にその快楽の中心から指が引抜かれると、頭に登り切っていた血が徐々に下がっていく。

 何が起ったのか分らず、夏美はようやく焦点の合ってきた目でもう一度主人の瞳を見つめた。

 影一はずぶ濡れた手を夏美に差出し、”舐めろ”と合図する。

 ただ言われるままにその手を取り、今自分から分泌されたばかりの愛液を舐め清める夏美。
 だがそのいやらしく潤んだ瞳はねだるような視線を主人に流し続けている。

「夏美、よかったか?」

「は、はい。とても気持良かったのですが、その...最後までは、頂けないのでしょうか?」

 影一の顔から冷たげな笑みがこぼれた。

「お前、俺から餌を貰えるような事を何かしたのか?」

 夏美の目が見開かれ、瞬く間に涙があふれ出す。

「そっ、そんな...お願いです。私、私..このまま放って置かれたら...どうかお願いです。餌を..お恵みください」

「駄目だ。お前にはしばらく野良犬の辛さを味わって貰おう。捨てられねぇだけ良かったと思え」

 小刻みに膝を震わせ、まっすぐに立つ事すら出来ずにいる夏美を置去り、軽く身支度を整えると影一は部屋を出て行った。




 この館にしては小さめの、しかし溢れる気品ではメインホールに遜色の無い応接室に三人の男女がいた。

 この数週間、研究所に泊り込んで研究に没頭していた小夜子が先日影一に進言し、この館に初めて”ヒト”の入館が許されたのだ。


「遅いですね」

「申しわけありません...もう間もなく来られると思いますので」

「ああ、そうでした。待ち遠しいのは私よりも貴方の方でしたね、所長」

「あ、いえ、そんな....」

 少女の様に顔を赤らめるこの女性に、男は初めて美しさ以外の魅力を見つけた。


 ガチャッ

 ようやく開いたその扉の前に数週間ぶりに会えた最愛の主人の姿を見留めた小夜子は、飛上がるように立上がり数歩駆寄ると心底嬉しそうな笑顔で深々と頭を下げた。

「ご主人様、長い間留守をいたしまして申しわけありませんでした。ただ今戻りました」

「ああ、ご苦労だった。成果は上がったのか?」

「はい、お陰様である程度の収穫が在りました。こちらの坂本氏のご協力も在りましたので」

 影一が初めて反対側のソファに腰掛けている男に目を向けるのを受け、その男が立上がり右手を差出した。

「ご無沙汰してます。取りあえずは先日の事、お礼申上げておきましょう」

 しかし影一はその右手に一瞥をくれただけで手を合わせようとはせず、そのままソファに腰掛ける。

「お礼?俺は別にあんたの為にやった訳じゃない...気にくわなかったんだよ、あんたがな。あんたも余計な事だったと思ってんだろ?」

 男は宙に浮いたままの右手を広げ、呆れたような仕草の後、同じく腰を降ろす。

「いえ、私は”余計だ”などとは思っていませんよ。本当に感謝しているんです。あの時の私は確かに逃げていました。貴方のおっしゃる通り、私はもっと苦しむべきだったんです。それに私にもまだ出来る事が在る様な気がしています、こいつの為にね」

 そう言うと男は、傍らで車椅子に腰掛け、光の無い瞳でじっと男を見つめ続けている女に視線を流す。

 その女の右手は常に男のどこか一部を掴んだまま片時も離さず、左手には汚らしい靴下を大事そうに握りしめ鼻先にあてがっている。

「それも取り敢ずはこの研究からですかね。
 大体の所は野島所長から伺っています。俄かには信じられない話ですが、あの物質を知れば知る程”闇の力”とやらが実在するのは疑いようが無くなってくる。そしてその”闇の計画”が成功すると私や香も只では済まなくなる、という事らしいのでね。
 ここは一つ同じ利害と言うことで、微力ながら御協力させて頂くとしましょう」

 健児のビジネスライクな話し方に影一は先程から若干の苛つきを感じていた。

「ちょっと待ちな。俺は今日小夜子がどうしても会って欲しいと言うからあんたを呼んだ...しかしあんたと組むとは言ってないぜ。
 研究に必要なら、小夜子が誰を使おうが構わんさ。金も人も好きなだけ使えばいい。だが俺は誰とも組む気はねぇよ。俺にあんたが必要ならとっくに”駒”にしてるさ」

 恐らく自分より年下であろう影一にひどく横柄な物言いをされても、健児は感情を表に出す事なく、淡々と話を続ける。

「天野さん、一つはっきりさせておきましょう。
 先程私が貴方に”御協力”と言ったのは、あくまでも社交辞令です。できればスムーズに話を進めたかったのでね。私が貴方と組みたがっていると思われてるのなら、とんだ思い違いですよ。
 野島所長は本当に優秀な方です。ただ全てに於いて彼女の独断では決められないとおっしゃるので、今後の研究の為に私が同行いたしました。彼女の口から貴方に対して”私にまかせろ”などとは言えないようでしたのでね」

 平静を装ってはいるが影一の髪の幾らかが逆立ち、片方の目が吊り上がるのを見て、小夜子が心配そうにオロオロと二人を見比べている。

「つまり俺が邪魔だ...と言う訳か?」

「まあ大筋そういった所です。ただ最終的には貴方の力が必要である事は間違いないし、この研究のボスが貴方だと言う事も判っていますよ。しかしもう少し効率的に研究を進める為にはある程度我々にお任せ頂きたいと考えているのです」

 流石に科学者は論理的思考のプロフェッショナルだ。確実に立場が上の影一にも反論の余地を与えずに自らの主張を押込んで来る。
 しかし横で聞いている小夜子には生きた心地がしていない。彼女にとって研究の進展などは二の次であり、このままでは彼を連れてきた自分までもが主人の怒りに触れてしまう事になりかねない。
 たまりかねた彼女が床に跪き主人の膝に手を延し掛けたが、影一はそれを制し健児の前に顔を寄せた。

「てめぇ、もう一度壊れてみるか?大事な彼女を俺の便所にしてやってもいいんだぜ」

 影一のドスの利いた声と心まで凍らすような視線を軽く受け流し、健児は続ける。

「ああ、そうしたいならどうぞ。
 貴方はもう一つ勘違いをなされているようだ。私が望んでいるのは”彼女の幸福”、これ一点です。私の命や、幸福などは考えていません。
 貴方がもし私を壊せば恐らく香は貴方の物にして頂けるのでしょう。そうすれば香は今までと違う人格を植えつけられ、貴方を慕う事で幸福を感じるようになる...たとえ貴方の精液や小便を受け入れる便所と化したとしても、それはそれで私の望む結果なのですよ。彼女に幸福を与えるのは誰であっても同じ事です。
 どのみち、私を思う心も...創られた物なのですから....」

 影一の背後でバチバチッと黒い火花が飛び散り、壁の装飾品がカタカタと揺れだした。

 決して健児の物言いに腹を立てている訳ではない。共感を禁じ得ないこの男の言葉に隠してきた心の奥底を覗かれた気がして許せなかったのだ。



 コンコンッ

 三人の視線がお互いに交錯し、重たく漂う空気をノックの音が遮った。

 静かに開けられたそこにはコーヒーカップをトレイに乗せ、皆の刺す様な視線に驚いた夏美が立っている。

「し、失礼いたします」

「ちっ」

 まず影一が不満げながらも、ソファに背を倒し煙草を咥えた。
 心底ほっとした様子の小夜子が慌てて影一の煙草に火を着ける。

 そのままゆっくりと煙を吸い込み、フゥーッという煙をはく音と共に重苦しく淀んでいた部屋の空気が一気に流れ出した。
 健児もやはり緊張していたのか溜息と共に深く座り直し、額をハンカチで拭っている。

 その窮地を救った本人..夏美は、そんな事情も露知らず軽く足を引きずり、カップをカタカタと鳴らしながら、震える指でテーブルに並べている。
 彼女が足を一歩踏出す毎に、姿勢を傾ける度に熱い吐息が漏れ、腰をモジモジと揺すりながら太股を擦り合わせる。

 彼女のその不振な様子に小夜子だけは思い当たっている様だったがそれについては触れようとせず、他の件を切り出した。

「あっ、あの...そういえばご主人様?今日はあゆみさんの姿が見えない様ですね、彼女がご主人様のお側を離れるのを私初めて見ましたわ...どこか具合でもお悪いのですか?」

 小夜子がなんとかこの場を取り繕う為に言った言葉だったが、それが部屋の空気を一層の深みにはめてしまう事など彼女には思いも寄らなかった。

「ああ、あいつなら捨てた。言っとくが俺に文句をぬかすなよ」

 小夜子は予想外のその返答に声すら出せず大きく見開かれた目で主人を見つめている。

「そっ、そんな..あの人は..あの人だけは...」

 小夜子の向けた視線に悲しげに頷く夏美を見てようやく冗談では無い事を知り、なんとか主人の口からその理由を聞き出せないかと、もう一度視線を投げかけた。

 立場を弁えず、自分を責める目付きをする牝犬に影一が吊り上がった目を合わせると、途端に小夜子の腰がビクンと跳ね上がり、顔が紅潮し初めた。

 健児は、もぞもぞと擦り合わされる太股の上で手を強く握り締め、何かに耐えている小夜子の様子に気付いたが、何が起こったのかまでは分からずにいる。

 そして妖しく蠢く腰つきをぼんやりと眺めている内、再びそれがビクビクッと跳ね上がり「あ、あぅぅっ...」という声が漏れ出すと、その変化が何なのかようやく理解出来た。
 彼女は発情しているのだ。それもかなりの激しさで...。
 この男の目に”力”が宿っているのは聞いていた。しかし手も触れずに今まで全く毅然としていた彼女を一瞬でここまで墜とせるものなのか?

 そんな健児の疑問に答えるかの様に小夜子の喘ぎは大きくなり続け、次に彼女の体が跳ねた時、既にそこには優秀だった野島所長は消え去り、妖しく男を誘う牝犬が一匹居るだけだった。
 降ろされた腕の先は自分の股間に差し入れようとして叶わず、太股を引き裂く程に爪が食い込んでいる。膝立ちだった彼女の足元にはスカートの奥から流れ出る汁がダラダラと滴り続け、毛足の長い絨毯に濃い染みが広がっていく。
 半分開いた口元には舌がだらしなく垂れ、涎は顎まで汚し、犬の様にハッハッと吐息を漏らし続けている。

 ふともう一つの喘ぎ声に気付いた健児が影一の背後に控えている先程のメイドに目をやると、小夜子と同じ様に潤んだ瞳を宙に泳がせ、膝上丈のスカートから美しく伸びた脚をドロドロに濡らしながら、今までの足跡を絨毯に残していた。

 いやらしい牝の匂いを部屋中に充満させ、二人の美女が懸命に快楽に耐えながらも押さえきれず悶え狂う姿は健児にとって圧倒的であり、それに流されないようギュッと隣の女の手を握り締めた。

「!!」

 その時、今まで全く無反応だった香の手に力が入り、健児の手を握り返してきた。

「か、香...お前....」

 それでも返事までしてくれはしなかったが、僅かに頬が紅潮し、息が荒くなっているのが分かる。

 そう言えば部屋に充満しているこの匂いには覚えがある...そう、あの日、香が壊れたあの部屋に充満していた匂いだ...。そのせいだろうか?

 今はもう確信出来るほどにハァハァと息を荒げ、強く手を握り返す香に健児は有頂天になっていた。

(香が...反応している!...これは、彼女も興奮しているんだ。この匂いにか?それとも俺の事を...)

 健児はなりふり構わず香のスカートに手を入れ、股間に指を這わせた。

(濡れている!)

 今まではほぼ諦めていた香の回復に僅かな光を見つけ、夢中で股間をまさぐり始めた。

「...ぁん...ぁん...ぁん.....ぅん..」

 相変わらず宙を見つめ表情は固まったままだが、瞳は徐々に潤み始めており、それと共に湧き出す愛液と喘ぎ声はどんどんと大きくなってきた。

「かっ、香が、香が..声を...手を...」

 健児は涙をボロボロと流しながら片手で彼女の頭を抱きしめ、彼女の淫裂に突き入れた指の動きを激しくしていった。


「けっ!」

 さっきまでの怒りをはぐらかされた影一は、パチンと指を鳴らし朦朧としたままの牝犬達を連れて部屋を出ていった。



「ほれ、餌だ」

 再び寝室に戻った影一は、寝転がり二人の牝犬に片足ずつを与えた。

 嬌声と共に飛び上がって喜び、駆け寄るといそいそと主人の下半身を露出させる犬達。

「ああ、ご主人様の匂いが....」
 数週間ぶりの餌にありついた小夜子は左足の上に後ろ向きに跨り、足先をしゃぶりながら膝に性器を一心に擦りつけ、主人に蠢くアナルを見せつけている。

「あ、ああ、もっと、もっと奥まで....」
 夏美は右足の指を強引に自らの淫裂に押し込みながら太股にしがみつき、目の前で揺れている肉棒を物欲しそうに眺めつつクンクンと匂いを嗅いでいる。

 ただでさえ、主人の体の一部に触れただけでもイってしまう身体だというのに、今はいつもの5倍の感度なのだ。
 二人共牝の本能を剥き出しにし、全身の肌から性器から影一の体を補食せんばかりの勢いでその感触を味わい尽くそうとする。

 だが許されているのは足だけだ。二人が少しでも多く快感を得ようと夢中で蠢く中心には、心から欲っしている物が直立し、牡の匂いを発しているというのにそれが与えられる事は無く、向きを変え動きを変えても一向に目指す頂には届かない。
 それでも尚、唾液と愛液でヌルヌルになってしまった足の上で二人の女がまるで蛸の様にいつまでも絡みついていた。




 健児は別のメイドに案内された寝室でようやく香と二人きりになれた。

 潤んだ瞳で自分を見つめ続ける香を優しく抱き上げベッドに横たえると、唇をそっと重ねる。

 こんなに落ち着いた気分で香を見つめるのはいつ以来だろうか?
 今までは香を見る度に、抱きしめる毎に虚しさと悲壮感がこみ上げて来たものだったが....

「香、愛してる...」

 返事が無いのを確かめたくないという風に視線を逸らし、首筋に愛撫を施す。

 ゆっくりとブラウスのボタンを外し、はだけると、昔と変わらない美しい乳房が現れる。
 懐かしそうに舌を這わせ徐々にその半径を狭めていくと、やがてその頂きにある桜色の蕾に行き当たった。

「ぁん」

 小さく湧き起こった香の声に心からの愛しさを募らせながら、その蕾をコロコロと弄ぶ。

 光無く、ただ宙を見つめるばかりの瞳さえ見なければ、昔と同じ、可愛く恥じらいながら漏らす香の喘ぎ声だ。

 舌と左手でそれを刺激しながら、スカートのホックを外した。
 だが本人の協力が全く無い状況ではその短めのスカートですら片手で降ろすのは以外と難しい。
 舌を這わせたままゆっくりと顔が腹に下がり、へその辺りをもう一度円く滑らせながらスカートを一気に降ろす。

 薄い布で覆われたそこには既に楕円の染みが広がっており、香の身体が自分に反応してくれている事を示していた。
 それをなぞる様に舌先を滑らせると、陰部を覆う程にまで染みが広がる。
 濡れて素肌に張り付いたそこには、見覚えのある香の淫唇がくっきりと浮かび上がってくる。
 その部分を口に含み、染み込んでいる汁を少し吸い上げると、自らの唾液に混じっていやらしい香の味がした。

 あの時..ホテルで初めて香の素肌を見た時の様にドキドキと胸を震わせながら、ゆっくりと楽しみにその布きれを降ろしていく。
 ピッタリと張り付いていたその部分からネットリと愛液の糸を引き延ばしながらパンティが引き剥がされていくと、一度はズタズタに引き裂かれ傷ついていたそこが、その名残を残す事も無く、昔と変わらぬ美しさで健児を出迎えた。

「香、綺麗だよ...」

(ああっ、嬉しいっ!ありがとうございます..ご主人様)

 頭の中で、昔の香なら言ったであろう台詞を思いながら、ヒクヒクと誘いを掛けているそこにそっと舌を這わせる。

「ぁ、ぁ、ぁ、ぁ、ぁん....」

 流れる香の甘い樹液を舌一杯に拾い集めるように舐め上げ、飲み込むと、その先に隠れていた小さな蕾を弄ぶ。
 ひとしきり転がし弄んだ後、唇でついばみチュウと吸い上げる。

「ぁはぁぁぁ」

 さっきより一際大きくなった声に気をよくした健児は、一層強く吸い上げたり、軽く歯を立てたりして香の反応を大きくしようと試みる。

 彼女の身体の隅々まで知り尽くしていた健児の、初めて施す優しさに溢れた愛撫に香の無意識の官能は高められていった。

 クリトリスと淫唇への舌技奉仕を休める事無く、あの頃彼女が好きだった所、よく自分からねだって触らせたその菊蕾をやわやわと指の腹で揉み込んでやった。

 すると、今までは声だけだった反応が、全身を小刻みに震わせだした。

「香、香?...感じているのか?俺の舌が、指が分かるのか?分かるならもっと感じてくれ...あの時の様に俺を求めてくれ...香」

 健児は一端離れると、全身を紅潮させて震えている香の可愛らしい裸身を眺めつつ、急いで自分の服を脱ぎ去り、もう一度香の半ば開かれている口に舌を差込みながら、勝手知る香の淫裂にゆっくりと自身を沈めていった。

「ぁ...ぁ..ぁ、あ、あ、あ......」

 喉の奥から声は漏れてはいるが、表情を全く現さないその顔を覗き込みながらゆったりとした抽送を始める。
 次第に早められる腰の動きに呼応するかの様に香の声が少しずつ大きくなってきた。見ると、だらんと投げだされていた香の手が今はシーツを力強く掴んでいる。

 健児は思わず香を抱き起こし座位になると、香の腕を自分の首に廻した。
 そのまま激しく腰を突き上げながら、左手で乳首を、右手でアナルを優しく、激しく揉みほぐしていく。
 控えめだった樹液の量は、トロトロと流れ落ちる程になり、健児の陰嚢からアナルまでをしとどに濡らしている。
 香の指先がシーツの代わりに健児の背中に食い込み、ギリギリと10本の赤い傷を延ばしていった。
 その心地よい痛みが快感と混ざり合っていくのを感じながら、香の全身を包み込む様に優しく、貫く様に激しく腰の動きを増していく。

「香っ、香ぃーーーーっ!」

 やがて訪れた最後の瞬間、絶叫と共に香の中に爆ぜた時、香は手足の硬直と同時に頬を僅かに歪ませ、それは確かに喜悦の表情ではなかったかと思わせてくれた。






 部屋に戻ってから一時間も経っただろうか、影一は少し眠ってしまったようだ。
 ふと目をやると今も二匹の牝犬は太股を抱きかかえ、脛に股間を激しく擦り続けている。
 だが初めた頃とは違い、様々に体位や部位を変えようといった思考は無くなり、二人共呆然と肉棒を挟んで向い合い、ただ乳房と性器を主人に擦り付けるだけの機械仕掛けのオナニー人形でしかなかった。

「火」

 影一は煙草を咥えながら二人に言った。

 朦朧とした意識の中で、微かに反応したのは小夜子の方だった。
 慌てて起きあがり枕元のライターを取り上げたのだが、震える指先と手に着いたヌルヌルの樹液の為上手く着火出来ずにいる。
 慌てる程に何度も落としながらようやく火を着け終えると、無言のままもう一度脚にしがみつき、身体を擦り付け始めた。

「おい、やめろ!」

 数秒後、ようやく動きを止め意識を取り戻した二人は、それでも情けなく涙と涎を垂れ流し主人を下から見上げている。

「お前ら、いい加減にしろ。それじゃぁ犬ってより猿じゃねぇか。もうちょっと自分を制御できねぇといつまで経っても一人前の奴隷になれねぇぞ...ったく、あゆ....」

 言いかけた名前を呑み込み、所在なさげにいつまでもしがみついている二人を蹴飛ばすとゆっくりと起きあがる。

「おい、お前ら」

「はいっ!!」

 もう二度と主人の怒りに触れないように、直立し、声を揃えて返事を返す。

「これが最後だ、もう二度と俺に意見なんかするんじゃねぇぞ」

「分かりましたっ。申し訳ございませんでした!」

 再び声が揃う。

「しょうがねぇ。ケツ出しな」

 二人は見合わせ、喜色を満面に浮かべるとまたも揃って頭を下げた。

「お情け有り難うございますっ!」

 仰向けに寝そべる小夜子の上に足のM字が絡まった姿勢で夏美を重ね、二つの性器をピッタリと並べる。
 その背後から、まずは小夜子の淫裂に影一は最大に硬直したそれを一気に突き入れた。

「あっ、あああああああああああぁぁぁぁぁっ!」

 今までとは比べ物にならない快感が背筋を通り抜けたのだが、まだ念願の頂には達せない。
 数回そこで出し入れした後、今度は夏美のそれを同じく一気に貫く。

「うあぁっ、んぐっ、あ、はああああああああああああっ!」

 数回毎に両の穴を移動し、時にはアナルをも弄びながら激しく二人を追い上げていく。
 思考の無い夢の中でいつしか二人の唇は合わせられ、互いの唾液と快感を交錯しながら目の前の乳房をこね廻していた。

 小夜子の淫裂を剛直が割り開き、体中を痺れさせている時は夏美が小夜子を責め、夏美の腰が揺さぶられ、頭を真っ白にされていれば小夜子が夏美を嬲るといった事が延々と繰り返された。
 やがて誰の、どこの穴に割り入っているのか、誰が誰を責めているのかすら分からなくなりかけた頃、ようやく影一の中で最後の刻へのカウントダウンが始まった。

 どちらが誰の尻かももう分からないが、下側にある淫裂を貫いたまま上の尻をグイッと持ち上げクリトリスを指先で摘みながら両穴を指で穿る。

「イくぞ」

「あっ、はっ、はいっ、おっ、おね..がい..しま...あああああううううっ....」
「おっ..あっ、あり..がとう...ご...ざい..くっ、ぐっううぅぅっ....かはっ、あっ、あんあんっ、んむっ、あっ、あ、あ、あ、あ、あああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁっ.........」

 一層激しくなった腰と舌と指の動きに翻弄され、正に動物の本能のままに咆吼を上げる二匹の牝犬は、ようやく念願の頂きへと駈け登っていった。







10.苦悩の果て



 健児にとって、食事はおろか映画でしか見たことも無い様な豪華な食堂で、様々な料理が目の前に運ばれてくる。
 その雰囲気にさえ圧倒されているというのに、大きな食卓の向こう側には昨日一戦やらかしたばかりのこの館の主が無愛想に黙々と食事を採っている。

(まいったな....昨日はちょっとやりすぎたかな?所長があんまり初めにビビらせてくれるから構えちゃって...それに最後は俺のせいで中断しちまったし....)

「おはようございます。よくお休みになられましたか?」

 気まずい雰囲気を払拭するかの様に救いの女神が現れた。

「あ、おはようございます。昨日はどうもすみませんでした」

「あら、それはどの件についてかしら?」

「やだなぁ、所長。からかわないでくださいよ。えーと..貴方のご主人を怒らせてしまった件と、あの..打合せ中に香と..その...」

「うふふっ、そうね...昨日はホントに生きた心地がしなかったわよ。あの時夏美さんが入って来なかったらと思うとゾッとしちゃうわ。打合せが中断しちゃった方はね...おかげさまで私も可愛がって貰っちゃったから、ま、お互い結果オーライってトコね」

「そ、そうですか....」

(ここでのこの人は本当に少女のようだな....)

 研究所では見せた事のなかった、このいたずらっ子の様な笑みに彼女の主人に対する依存の深さが伺い知れた。

 昨夜の事を思い出しているのか、彼女の少し虚ろな瞳に少しばかりドキッとしてしまった後ろめたさから、思わず下で食事をしている香に目を向ける。

「ああ、ごめんなさいね。ここではご主人様の許可が無いと席には着けないのよ。一応香さんも客人ではあるんですけど...」

「いえ、気にしないで下さい。本当は昨夜もこちらに泊めていただくつもりじゃなかったんですから。それにどうも...」

 小夜子に顔を寄せ、少し声を落として囁く健児。

「今でも天野さんは怒ってらっしゃるようですし...」

「あら、どうして?」

「どうしてって...朝一応僕の方からご挨拶したんですが、返事は頂けませんでしたし...今も、ほら...」

 健児が目線だけで未だ憮然とした顔で食事を続ける影一の方を見やると、小夜子はクスッと笑みを漏らし、同じ様に小さく囁いた。

「ご主人様、朝はいつもご機嫌がお悪いんですの。お食事中にお話される事はあまりありませんし、多分昨日の事で余計お相手し辛かったんじゃありませんか...あら!分を弁えずご主人様の御心を探るなんて、奴隷失格ですわね。またおしおききされちゃう」

「そ、そうですか...」

 思わず小夜子のおしおききシーンを想像してしまい、健児は慌てて頭から振り払う。

「それにね..」

 さっきより一層落とした声で小夜子が囁いた。

「本来はこの食卓で食事が出来るのは世界中でご主人様だけって決まっていたのよ。それを許されただけじゃなくって、貴方の座っているその椅子...今までは一脚しかなかったんだけど、ご主人様とお揃いの物を昨夜急に取り寄せろっておっしゃられて、イタリアからさっき届いたばかりなんですよ、それも5時間で..。米英空軍まで使って空輸して3億掛かってるんだから」

「!!!!!!!!!.....さ..さ..さ、ん、お、く、え、ん.........」

「そ。それも運賃だけでね。絶対におっしゃられないと思うけどこれってパートナーって事じゃないの?」

 もう一度正面の影一を振り返った時、思わず目が合ってしまった。
 昨日の対決姿勢はどこへやら、健児は視線をあちこちに泳がせた後、最後にはやっぱり香の所に落ち着いた。
 香はいつものように無表情のまま食事を続けていたが、目線は常に健児を捉えているのでボロボロと下にこぼし、口の周りにはドレッシングがたっぷりとついている。
 健児は自分の態度をごまかす為にも慌ててナプキンを取ると、香の顔を熱心に拭き上げた。


「小夜子っ!」

「はっ、はいっ!!」

(やばっ!今の話聞かれちゃったのかしら...ひょっとしてまた....キャッ!)


 自分の方をチラチラと見ながらヒソヒソと会話する二人を影一が面白く思っていなかったのは事実だが、特に内容までは耳に入っていなかったらしい。しかし相変わらず機嫌の悪そうな声で怒鳴る。

「ブリーフィングは9時からだ。準備は出来てんのかっ?!」

「ははいっ!全て整っていますっ!」

 昨日の様に直立し、うわずった声で主人に大きな声を返す小夜子。

 影一は「ふんっ」と鼻息を一つ残し、大股で食堂を去っていく。
 
 慌ててそれに付き従った夏美も、部屋を去り際に二人へ軽いウィンクを残していった。





「.....と、言うわけであの液体の培養は順調にすすんでおり、と同時にその成分研究の成果も確実に...」

 まるでクライアントにプレゼンをするような調子で話す健児に「ふぁぁぁっ」と欠伸を一つかまし、影一が手を振りかざす。
 
「あんた...ここは会社の会議室じゃねぇんだ。もうちょっと柔らかく話せねぇのかよ...」

「はぁ、ヤワラカク...ですか?」

「...まぁいい..で、なにか目新しい事はなかったのか?」

「はぁ、メアタラシイ...ですか?」

 昨日程では無いにしろ、部屋の空気がどんよりとなり始めたのを小夜子が早々に察知して口を挟んで来た。

「あ、あの坂本さん。例のDNA混合による成分変化はまだご報告しておりませんでしたので」

「ああ、そうですか。ええとですね、この液体にですね、XY染色体を含むDNAを混合しちゃいますと急激な化学反応による成分変化を起こしやがりまして、ええと...その物質自体の特性をじぇんじぇん異質の物として、ええと....」

「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 小夜子と影一の溜息がシンクロし、部屋に蔓延する。
 
「小夜子....交われ」

「はい」

 一体何がいけなかったのか、理解に苦しんだまま健児がすごすごと席に戻っていく。

「つまり、この液体の中に牡の身体の一部--唾液など--そういった物を混ぜ合わせるといきなり特性が変わり、それを摂取した牝がその牡の成分--匂いとか体液とか--を欲するようになる訳です」

「ああ、やっと分かった。つまり”力”が無くとも撒き散らすだけで専用の牝犬を作れるって事だな」

「はい。今までは完全に隔離された実験室で防護服をまとった人間が調査しておりましたので分からなかったのですが...まさか未知の実験対象に唾を吐き掛ける人がいるとは思いませんでした」

 小夜子がチラと流した視線の先では健児が頭をポリポリとかいている。

「それはお前が頭の堅い官僚風情になっちまってたって事だろう。で”あいつ”もこの液体の中に自分の唾を吐き掛けようって訳か」

 若干不満そうな口元ではあるが、気を取直し小夜子が続ける。

「必ずしも唾である必要は無いのですが、DNAを絡ませて変異させるつもりなのだと思われます」

「俺のDNAを先に入れちまったらどうなる?」

「闇のDNAがどのような物かは分かりかねますのではっきりとは申し上げられませんが、我々人間と同じだと仮定しますと、後から混和された方が先の物の特性を打消すようでした」

「あ、ちょっといいですか?」

 健児がやや遠慮がちに手を挙げた。

「確かに人間や動物での実験結果はそうなりますが、この液体はその”闇の人”が創った物なんでしょ?そうすると元々”その人”の体に近い形で組成されていると見るべきです。言い換えれば彼のDNAが誰よりもこいつと相性がいいって事になりませんか?」

「ふん...なるほど」

「あら、坂本さんって見た目と話し方は堅いのに発想は随分ヤワラカイのね」

 さっきの仕返しを健児にしてしまう理不尽な小夜子。

「それって誉めてるんですよね....?」

「もちろん!」

「つまりあいつのDNAが混ざっちまったらもう元には戻せないって事だな」

「おそらくは...そうです。しかももう少し突っ込んで考えると、この液体が”その人”の身体の一部になる..つまりこれ自体が彼だと言えるのかも知れません」

「はあぁっ?液体が”あいつ”になる?」

「だって”その闇の人達”って実体が無くて、要するにエネルギー体なんでしょ?研究所の”力場”できれいさっぱり消滅するんだっておっしゃってたじゃないですか。だったら”その人”に創られた液体は闇のエネルギーの液状化した物とも言えますよね。確かに他の成分も混じってはいますけどそこから純粋な闇の部分だけを取り出せば”その人”と同じじゃないですか。そこに意思や生命が生まれるのかどうかは分かりませんけど...」

「じゃあ今あそこでは”あいつ”のクローンを培養してるって事か?」

「ん、まあ、僕の仮説が正しければの話ですけど...」

「で、そのクローンが世界中にばらまかれたらどうなるんだ?」

「さあ...細切れに薄まった”その人”がどれだけの事ができるのやら....これも僕の予想ですけど、ヒトを洗脳するってよりもみんなが闇の住人になるって感じじゃないんですかね」

 目を見開いた影一と小夜子が互いの顔を見合わせる。

「洒落にならんな...」

 悲壮な顔の二人に挟まれた健児だけが、何故かにこやかな愛想笑いを振りまいている。

「いや、そう悲観する事ばかりじゃないですよ。もしこの仮説が正しければ”その人”の弱点も見えてくるんじゃないですか?」

「何?!”あいつ”を倒せるってのか?どうやって?」

「今僕が言ったじゃないですか。『薄まった”その人”にどれだけの力があるのやら』ってね」







「少し休憩だ」

 そう言い残し影一は夏美を伴って出ていった。
 
 残された小夜子と健児は熱いコーヒーをすすりながら話し込んでいる。

「なんだか大変な事になりそうですね」

「そうね、ご主人様もお辛いのだと思うのですけれど...」

「確かに...もし僕が香と人類のどちらかを選ぶとすれば.....ダメです..そんな究極の選択出来やしませんよ、僕は普通の人間なんですから...」

 小夜子はさっきよりも少し、苦悩の色を深めて健児を見た。

「坂本さん...そんな風におっしゃらないで下さい。ご主人様だって普通の人間なんですよ。確かに普通の人が持っていない”力”をお持ちですけど、心と体はあなたと同じ..人間なんです。
 でも..私達はご主人様の身体のお世話や、ご奉仕はさせて頂けますけど、心の中は決してお見せ下さいません。僅かに心を開いてらっしゃったあゆみさんも今はおられませんし...だから、貴方がご主人様のパートナーなのだと思えたときは本当に嬉しかったんです。私達は、誰かあの方の御心を理解できる..若しくは導いてあげられる人が居ないのかと...
 こんな事...また”余計な事を”ってしかられますわね...」

「ああ....すみません。いつの間にか、あの人の事を特別なのだと思っていました。ヒトとして扱われないのは、辛いのでしょうね...?
 でも、僕に..出来るんでしょうか?...あの人を助けるなんて事が..一体、何をすれば...」
 
「出来ることは...無いのかも知れません...ただ、あなたが香さんを思って、彼女の為に出来る事を精一杯探している...その姿が、ご主人様を救っているんだと思います」

「あの、少しお尋ねしてもいいですか?」

「いいですよ、なんでもって訳にはいきませんけど...」

「あの人があれだけ苦悩しながら為そうとしている事とは何なのか。私が香を思う姿に共感を持たれてるって事は恐らく誰かを助けようとしてらっしゃるのは分かるのですが...。
 それと昨日から度々おっしゃってる”あゆみさん”ってどういう方なんですか?聞いた感じからすると天野さんにとってとても大事な人のように感じるのですが、”今はいない”とか”捨てた”とか...邪推してるみたいで申し訳ないんですけど、その辺りに彼の本質があるように思えるんですよね」
 
 小夜子はかなり悩んでいるようだ。
 健児には話した方がいいようにも思える。だがそれを自分がする事が許されるのか...判断しかねていた。
 
「あ、無理にとは言いませんよ。どのみち私には彼に協力..いや助けて貰うしか道は無いのですから」

 だが小夜子は思い切った様に顔を上げると健児を促す。
 
「付いてきて下さい」


 長い廊下を付き従い、辿り着いたこの館の最奥にあるドアが開くと、大病院の集中治療室にもひけを取らない介護ルームがあった。
 専任の医者や看護婦が動き回るその部屋には、数十人の女達が横たわっており、彼女達の容姿が美しければ美しい程、光のないその瞳は儚さをより際だたせていた。
 
「!!..これが..彼の...」

「そう、その時の事は私もよく知らないのですが...彼女達は”闇の者”に精気を吸い取られ、生ける屍となってしまったらしいんです。
 ご主人様はその時自分の罪を悔いて一緒に死のうと思われたのですけど、彼女達を蘇らせる術があると聞かされて...ずっと模索して来られたのよ。
 そして、ここに居る人達は皆”闇の者”に壊されたけど、あゆみさんだけはご主人様が直接手を下されたの...自分の闇をより深める為に...
 そのお陰であゆみさんだけが唯一生き残れたんだけど、ご主人様はなんとかあゆみさんに償いたいとずっとお側で見守ってらっしゃったわ。そしてあゆみさんの存在がご主人様を今日まで支えてこられた...それが先日、突然に...」
 
「捨てられた?」

「そう...らしいんだけど...ねえ、どう思います?何故ご主人様はあゆみさんを手放されたのかしら...」
 
「それはもちろん..”彼女の幸福”。それしかないでしょう。私が彼の立場だとしても同じ事をしたでしょうね。
 もし香の身体が直って、僕との記憶を消せるのなら..昔の香に戻せるなら、迷ったりしません。ましてや自分が死ぬかもしれないとなれば尚更です」

「そ、そんな...私達の幸福はここにしか無いわ。そんな幸福をあゆみさんが望んでいるとは思えない!」

 小夜子はまるで影一に反論するように健児に食ってかかった。

「所長..いえ小夜子さん。もし天野さんが死んだらあなたはどうしますか?」

「もちろん、後を追います」

「多分あゆみさんも同じ事をおっしゃったんじゃないですか?このままではまた自分のせいで愛する人が死んでしまう..そんな事は耐えられません。以前同じような事を味わっているのですから...。
 もちろん他の方達なら死んでもいいって訳じゃないですよ。でも一人では仕事が出来ない....彼も苦渋を舐めているのですよ...小夜子さん、あなた達がそれを分かってあげなければ彼の苦悩は終わることは無いんじゃないですか?」

 健児はその場に泣き崩れ足元でうずくまる小夜子の肩に、手を掛けるべきかどうか決めかねていた。
 
 重苦しい雰囲気が辺りを流れ、周りの看護婦達が驚いたように二人を見つめている。
 
「すみません、小夜子さん。これは所詮男の我が儘なのでしょうね。愛する女性を幸福にしてやれたのだと...実際にはそうじゃなくても...そう思う事で自分が救われたいだけなのかもしれません。ただ、今自分に出来ることがあるのなら全てやっておきたい。そういう事なんだと思います」



 パチパチパチパチ
 
 静寂の中に拍手の音が鳴り響く。
 
「名演説だったぜ、坂本さんよ」

 入り口の戸枠にもたれながら影一が不適な笑みを向け手を叩く。
 
 小夜子は真っ青な顔で立ち上がると、必死の形相で言い訳を探している。

「あんたなんかに俺の中身を論じられるとは思わなかったよ。それに小夜子も...いくら俺が甘くなったとはいえ、奴隷にこれだけコケにされたのは初めてだ。さすがエリート官僚は違うな」

「こ、これは..その...もっ、もっ、もう...わけ...あり...ん...」

 影一は背中に軽く反動を付け、戸枠から離れるとゆっくりと小夜子の方へ歩み寄る。

 両手をギュッと握りしめ、俯いたまま全身をブルブルと震わせて小夜子は刑の宣告をじっと待つ。
 
 その時、二人の間に無理矢理割り込んだ健児が真っ直ぐに視線を合わせ影一を制した。
 
「お前は後で相手してやるよ..どきな」

「ダメです。小夜子さんはこの後の研究にも必要ですから、あなたの一時の感情で私達の計画を潰させる訳にはいきません」

「ほう、野島所長だったのが小夜子さんか。気に入ったんならくれてやってもいいんだぜ。おまえもぶっ壊れた女よりこっちの方がいいんだろ?」

 健児の顔から血の気が抜け、頭の天辺がチリチリと焼け付く。その一瞬後、影一の頬に鈍い痛みが走った。
 
 虚弱な研究者のしれた腕力では、影一の顔を僅かにのけぞらせたに過ぎなかったが、人に殴られたのは”力”を得て以来初めてだ。
 だが切れた口端を舐めながらも、影一はニヤついた顔を崩さない。
 
「こいつは驚いた、あんたにこんな度胸があったとはな。そんなに小夜子が気に入ったか?」

 小夜子は涙をこぼしながら「やめて..やめて...」と力無くつぶやいている。

 健児の身体にも小刻みな震えがまとわりつく。
 
「いい加減にしろ!彼女達はモノじゃない。お前の勝手で捨てたり、拾ったりできるものか!お前はその力で彼女達を操っているつもりだろうが、そんなに人の心は安っぽくないんだ。お前の力なんてのはただのきっかけに過ぎない。彼女達がお前の為に働くのはお前に惚れてるからだ。お前に心があるからだ。そうでなけりゃ、ただのロボットがこんなに誠心誠意尽くすものか。悔しかったら一人で生きてみやがれ。お前はまるで我が儘放題の子供だよっ。人間なら、大人の男だったらもっと女の幸福を考えるもんだろうが。お前がいくら苦悩しようが、命をかけようがそんなのはお前の勝手だ、お前が撒いた種だ。お前はママに心配してかまって欲しがってるダダッ子とおんなじだっ!彼女達に、生かされてるのはお前の方なんだよっ!」

 一気に捲し立て、ゼェゼェと息を切らしている健児を呆然と見つめる影一の頬からは、既にニヤついた笑みは無くなっていた。
 
 突然殴られ、怒鳴られた事に対しても今はなんの感情も感じてはいない。影一の頭にはただ健児の言葉が何度も繰り返し響くだけだ。

(俺が..生かされてる....こいつらに...俺が....)


 もちろん健児は影一や小夜子達を救う為に身体を張ったのだが...その行為が裏目に出ようとしている事など、その場にいる誰もが予想だにしなかった、影一を含めて...。


 今まで自分が冷徹になっていくのは闇のせいだと思っていた。それを自分の心が抑制しているのだと。
 だが自分がつけあがり、他人の心が見えなくなった事で自らヒトの部分を冷やしていたのだとしたら....。
 影一を今まで支えてきたアイデンテティが崩壊し、自分が既にヒトでは無くなっているような錯覚に陥った。
 女達の為に闇と同居し、苦悩し続けていた...それら全ての思いが否定され、自分が生きている意味が無くなった。
 今までヒトであり続ける為に、理性と感情で押さえ込んでいた闇の部分が、一気に居場所を広げだす。
 いつかの様に怒りにまかせてそれを放出する先も無く、どんどんと内なるヒトの部分が浸食されていく。

「あ、くっ、ぐぇぇっ、あ、が、があああぁぁぁぁっ!」
 
 突然うずくまり、頭を抱えた影一から喉の奥を震わせる獣の様な咆吼が上がった。
 
 全身の毛が逆立ち、肌に浮き出したドス黒い血管が網目の様に絡みつく。
 真っ赤に染まった目から血の涙を流しながらも、湧き起こる黒い瘴気を排出できず、闇が影一の心をシクシクと苛んでいる。

「や、やめろ...やめて、くれ....俺は....人間だ.....」

 小夜子が駆寄り、影一を抱き起すと、叫び、その頬に涙を落す。

「ご主人様、ご主人様っ!」

 呆然とする健児を後目に小夜子が喚き続ける。

 なすすべもなくただ腕の中で暴れる主人を抱きしめていた小夜子が、祈る様に強く閉じていた目をふと開くと、自らの落した涙に鮮やかな赤が混ざっているのに気付いた。
 
 驚き見上げたそこには、血まみれの腕をかざした夏美が立ちすくみ、悲しげな瞳で見下ろしている。

「夏美さん...どうして....」

「ご主人様..申訳ありません..ご主人様の物を勝手に傷つけてしまって...。
 でも以前あゆみさんがおっしゃってたんです。ご主人様は闇に呑込まれてヒトで無くなるのを何より恐れてらっしゃると.....ご自分の死よりも....。
 もしご主人様がこのまま闇に取込まれ、私の死にも感情を乱されないのなら、心を無くしてしまわれたなら...私がご主人様を...殺して差上げます。私がそこまでご一緒致します。あゆみさんが居ない今、それは私がやらなければならない...事だと....」

「夏美さん...」

 小夜子は黙って立上がると、夏美の手から影一に向けられていたナイフを取上げ、自分の手首にあてがった。
 そしてためらう事なく、それを引抜く。

 周りで見守っていた看護婦達もそれに従い、影一の周りにはみるみる内に血だまりが広がっていく。

 健児はただ一人香を抱きかかえ、その恐ろしい光景を見守る事しか出来ないでいた。

 彼女達の思いは届いているのだろうか?

 影一は身体のあちこちの血管をブクブクと膨らせては萎ませ、ガラガァと喉奥を鳴らすばかりでなんの反応も示さない。


 数人の男女が力無く見守る中、部屋中を支配していた重苦しい空気がやがて少しずつ流れ始めた。死を思わせずにはいられない程に跳ね回りのたうっていた身体は徐々に小刻みな振動に収束し、荒い息を繰返す程度にまで収りだした。

「ガハッ!」と溜っていたどす黒い血の塊が影一の口から吐き出されると、ゆっくりと、半身が持ち上がる。

 身体中の痛みを押え込みながら、髪から顎から滴る血を腕でグイッと拭い、凝固して瞼にこびりつくそれを指で取去ると、自分の上で手をかざす数人の女達を見回した。

「ばかやろうっ!!勝手に俺の物を傷つけやがって、とっとと修理してきやがれっ!....もう二度と..俺を...悲しませんじゃねぇ....」

 その言葉にようやく安堵の空気が広がると、互いに視線を交した女達は僅かな笑みを漏す。

 だが皆が弛緩した腕をダランと降ろした瞬間、最初に血を流していた夏美の視界が暗転し、意識が失せた。

「夏美!」

 夏美の身体を受止めた影一がそのまま立上がり、ふらつきながら隣の医務室へ駆込む。
 
 ただ事ではない主人の怒鳴り声に、奥で作業していた医者達が飛出してくると、一気に慌ただしくなり始めた。
 
 そんな喧噪溢れる部屋の片隅にうずくまり、まだ痛みの駆け回る身体を抱えながら誰にともなく影一はつぶやいていた。

「ばかやろうが...ったく..勝手な奴隷ばかりだぜ....」

 だが影一の瞳に溢れる光には先程までの邪悪な色は無く、ここ数年来見せた事の無かった清々しげな物だった。

「でも、ようやく腹が決まったって顔してますよ」

 入り口でみんなの様子を伺っていた健児が、影一の真似をするかのようにニヤッと口の片端を吊り上げて見せる。
 
 影一は目の端でそれを捉え、それに答えるように先程切れた唇をペロッと舐め上げた。

 
 


 

 

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