蒼い月の夜に


 

 

プロローグ


 父は知らない。
 物心ついた頃にはもういなかったから。
 母に尋ねるといつも少し困ったような顔をしていた。
 だから私はそれ以上何も聞けなかった。
 それでも良かった。
 美しい母と私より少し背の高い姉。
 そして黒猫のアルテ。
 私たち三人と一匹は静かに慎ましく生きていた。
 私たちは何も望まなかった。
 ただ、平和に暮らしたかった。
 それなのにその願いは叶わなかった。
 魔女狩り――そう呼ばれるただの虐殺。
 一族の特徴の緋い瞳のせいで異端者――魔女として私たちは追われた。
 生まれ育った大きな館の焼け落ちる音。
 優しかった母が目の前で犯される姿。
 真っ赤に焼けた鉄が姉の胸を焼く匂い。
 心を切り裂くような鋭い悲鳴。
 狂気に彩られた人々の嘲う声。
 そしてその奥で静かに見届ける隻腕の男。
 私はただ隠れてそれを見てるしかできなかった。
 
「また……あの夢……」
 じんわりと沸いた生温い脂汗を拭う。
 あの夜から見続けている悪夢は今夜も例外なく私を苛んだようだ。
 体を少し起こす。
 窓から覗いた蒼い蒼い月はあの夜と変わらない。
 もぞり。
 お腹のあたりで何かが蠢く。
「お嬢。うなされてたで?」
 闇に溶ける体を少し起こして心配そうな声が響いた。
 その頭を静かに撫でる。
 ちりんと首につけられた鈴が静かに鳴った。
 おもむろに頭を――掴み、壁に投げつける。
 ちりんちりんと鈴が激しく鳴って、やがて壁に無様に叩きつけられる音。
「勝手に部屋に入るな……」
 毎晩のように行われる行為。
 彼は何度言ってもそれをやめない。
 彼なりに心配してくれているのだろう。
 その心遣いは嬉しい。
 それでも私はお子様で不器用だから彼に甘えることはできなかった。
「お嬢のそのドSっぷり。俺、ますます惚れてまいそうや」
 ずるずると壁を這いずりおちてしばらくするとどこか嬉しそうにハァハァと息を荒げて彼は言った。
 ふぅと息をつく。
 彼は私の使い魔。
 普段は黒い猫の姿をした立派な悪魔だ。
 本当の姿を私は知らない。
 彼はどこがいいのか私に惚れているらしい。
 それでも彼はその力で無理やり私を抱こうとはしない。
 いつでもできるだろうに。
 悪魔の癖に意外と紳士なのかもしれない。
 表向きはただの変態にしか見えないけど。
「また、あの夢か?」
 しばらくして落ち着いた私を見据えて彼はそう言った。
 こくりと小さく頷く。
「すまんな。俺の封印がもう少し早く解けてれば」
 本当に悔しそうな彼の声。
 ふるふると首を振る。
 彼はあの時ただの仔猫だったのだ。
 仔猫に封印されていたと言う方が正しいのかもしれない。
 あのあと、どこをどう走って逃げたのかはわからない。
 それからはずっと二人で生きてきた。
 辿り着いたこの屋敷――もうずっと昔に亡くなった祖父の家でいつ追っ手がくるか怯えながら暮らした。
 数日たって蒼く満月の輝いた夜。
 抱き抱えた黒猫がぼんやりと光り、その封印が解けた。
 私はただただ、その神秘的な光に魅入られた。
 それが彼の目覚め。
 その日私たちは契約を交した。
 私は彼に力を。
 彼はその代償に私の名と幸せだった頃の記憶を求めた。
 その日から私は優しかった母と姉のことをほとんど思い出せない。
 それでもよかった。
 ただ私の大切な家族の仇さえ取れれば。
 力は目覚めなかった。
 悪魔の力を使用するたびに呪いが掛けられる。
 その呪いを押さえられるようになるまで封印してあるらしい。
 私は早く仇を討ちたいのに……。
 そう言うと彼はいつも少し悲しそうな目をして俯いた。
「今夜は月が蒼いな」
 回想に浸っていた私を引き戻す声。
「……そうね」
 顔を向けずに答える。
「お嬢もそろそろ力に目覚めるやろ」
 彼がこのときどんな顔をして言ったかは私にわからない。
 ただ、闇に溶ける静かで平坦な声がした。
「そう……」
 小さく頷く。
「どうしても復讐するんか?」
 あの日から何度も同じことを尋ねる彼。
 その声を無視して窓枠に座る。
「何度も言うてるやろ、お嬢には復讐なんて似合わん。やめとけ」
 膝に乗った黒猫が私の顔を見上げた。
 その頭を撫でる。
「……どうしても……許せないの」
 ただの飼い猫だった頃から彼は私に弱い。
 昔から私が決めた私の意思が変わらないことを彼は知っている。
 それでもその彼の心遣いは嬉しかった。
 今までと同じく私の意思がかわらないことを確認すると溜息をついて「……そうか」とこぼした。
 ゆっくりと彼の自慢の毛並みを撫でつづける。
 見上げた空には高く、蒼い蒼い月が浮かんでいた。

 
 


 

 

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