ブラック企業はやめられない


 

 

エピローグ


 営業3課の親睦会を開くことにする。週に一度の親睦ランチではない。昼の懇親混浴会とも違う。お酒の入る、夜の宴会だ。週休3日制に変えたり、有給休暇をぐっと取りやすくしたせいで、3課の全員が一堂に会することは珍しくなっていた。なので今日は特別な親睦の場だ。ホテル・ウォルナット東京のパーティールームを貸し切って、ケータリングは隣の飲食店ビルに任せる。若い社員たちが喜ぶように、派手な音楽を大きめにかけて、皆で乾杯した。

「楽しい飲み会を始めましょう。かんぱーい」

 幸輝の言葉を聞くと、乾杯もそこそこに、グラスをテーブルに置いた女子社員たちはストッキングを両手で掴んで、思いっきり破る。なんでそんなことをしているのか、自分ではわからないが、とにかく力いっぱい破る。男性社員たちも手伝って、みんなでストッキングを細かくビリビリに千切って重ねて天井に向かって思いっきり投げる。なんだか雪か桜吹雪みたいに、OLさんたちのストッキングの生地が舞った。みんなで歓声を上げて眺める。もう一度乾杯をして、音楽にノリながら、シャンパンを一気に飲み干した。

 男女でチームを分けてゲームをする。代表者は男1名、女1名、アイマスクをつけて服を全部脱ぐ。同僚たちに手を引っ張られて、目隠しをした裸の男女が抱き合った姿勢にされたところからゲームがスタート。手探りで愛撫をし合って、自分が同じ課の誰と触れ合っているのか、先に当てた方が勝ち。6対8で男性社員の方が少ないから、女性チームの方が当てやすいという面もあるが、真剣に愛撫をし合うと、先に声を漏らしてしまうのが女性というケースも多い。3本勝負のために3人ずつの男女が選抜されるが、お互いの反応を確かめ合いながら、無言で体をまさぐりあうアイマスクの仕事仲間というのは、意外に普段より増して、やらしい光景だ。ギャラリーたちも、思わず息を潜めて見守ってしまっていた。

 親睦ランチですら下着姿になっているのだから、夜の親睦会では全員、ほとんど裸か、半裸の状態になって、同僚同士、ご飯を食べさせあったり、お酒を注いだり、BGMにのって踊ったりと、すっかり警戒心ゼロの姿を見せあう。短い時間でこの課は急速に親密な仲になった。特に女子社員たちの社内検定のための特訓に、男性社員たちも体を張って手伝ってくれたことが、男女の仲を急速に近づけた要因だったのだろう。おかげで、一番若手で奥手だった澄川美帆も、フェラチオB級、パイずりB級、ディープキスA級、オナニー披露A級まで取得することが出来た。つきっきりで練習に付き合ってきた井塚さんまで、なんだか最近若返ってきたようだった。

 その美帆と、実子、来海の3人がゲームの合間を縫って、井塚さんに近づく。美帆が大事そうに折りたたまれたナプキンを両手で差し出す。両脇の実子と来海は自分たちのショーツを下ろした後で、真ん中にいる美帆のショーツも下ろしてあげた。

「井塚さん。私たち、日頃の感謝を込めて、下の毛を剃ってここにまとめました。よろしければ、これでカツラを作ってください」

 喜んでいいのか迷っている井塚さんは、とりあえず笑っている。来海が遠慮なく、井塚さんの禿げ頭に事務用のノリをベタベタと塗りたくる。赤ちゃんみたいな可愛らしい股間になった澄川美帆が、井塚さんの頭の上に、ナプキンに包まれていた3人分の陰毛を、思い切って振りかけた。細かったり縮れていたりする3種類の陰毛の混合物が、井塚さんの頭にパラパラと乗る。趣向を理解したギャラリーたちが爆笑している。幸輝もお腹を抱えて笑っていた。

 ショーツから足を抜きながら、完全な裸になった澄川美帆は少し複雑な笑顔で井塚さんにお辞儀をする。月坂君へのうまい言い訳を、また考えなければならないのだった。

 ケータリングコーナーの中央に、荒縄で縛られた秋森望課長の体が宙吊りになっている。両足が横一文字に開かれて、背中と腰、そして足首で吊られている。両手は後ろ手に縛られて、お尻の割れ目にも荒縄が食い込んでいるが、ヴァギナ周辺だけは縄が二手に分かれて迂回している。体を亀甲に拘束している縄はオッパイの大きさを強調するような模様になっていた。口には猿ぐつわを噛んでいる。そして秋森望は全身を拘束されて喋れなくされている時だけ、完全な正気を取り戻すという人格と記憶を学習していた。

「んー。んんーー。んぅぅんんんっ」

 首を振りながら、皆に何かを訴えようとしている課長だったが、脇のテーブルに並べられた多種多様なディルドーやバイブ、ローターやクスコなどの器具を、暇になった部下が並んで課長の体で試していく。怒気を含んだ課長の訴えかけも、途中から切なそうな、よがり泣きに変わっていく。クリトリスを摘ままれてローターを押しつけられると、ケータリングの料理にまで飛び散ってしまいそうな、派手な潮噴きを見せてしまった。

「ノゾミちゃん、も1回、潮噴く? ………イキ足りない感じ?」

「エッロいよね、このお尻。デカケツって、ちゃんとマジックで書いておいてあげよっか」

 2ヶ月前までの恨みをまだ抱いているのか、課長を苛める手は女性の部下の方が容赦ない。望は郷原郁美に助けを求め、目で探したが、若手男子たちの膝の上で居眠りしながらペッティングしてもらっている郁美は、幸せそうに口を開けて寝ていた。

「みんな、ちょっとどいてくれる? ………お腹が膨れたら、向こうの方で4Pでもしててよ」

 猿ぐつわと屈辱、そしてどうしようもなく押し寄せてくる快感を噛みしめている秋森課長の前に、深見幸輝が現れる。目が合うと、秋森望ははっきりと深見幸輝を敵視した。幸輝は望の耳元に顔を寄せて囁く。

「小声でなら喋っていいよ。課長」

 そう言いながら、猿ぐつわを外すと、両頬にもくっきりと跡の残った状態で、口元は涎と泡でまみれた状態だったが、秋森望の顔は自由になった。

「皆を自由にしなさい。……もう充分でしょう。この、……洗脳から解き放って」

 幸輝の注文通り、小声で話してくれる。意識の上では正気を取り戻したとしても、体の所有者はまだ幸輝と認めてくれているようだ。幸輝はどう反応しようか迷ったが、考えているうちにおかしくなって、吹き出してしまった。

「ふふっ。洗脳っていうほど、大仰なものではないですよ。これはあくまで、深層意識学習でして……」

「これが洗脳じゃなくて何なの? ……皆の自由な思想も信条も、無理やり書き換えて、貴方の思い通りに弄んでいるじゃない」

「あれっ。皆って、僕がこのプロジェクトを始める前、そんなに自由に思い通りにしてましたっけ? ……僕の記憶が正しいなら、他にももっと、自分の考えを押しつけてくる人たちがいたような気がするんです。誰だったかな?」

 怒気に満ちていた秋森望の眼差しが、冷徹なものに変わる。幸輝の言いたいことを素早く察知したようだ。やはりこの人はシャープだ。亀甲縛りで吊るされて、体中に卑猥な落書きをされていたとしても、知的な輝きは隠せないものなのだ。幸輝は尊敬の念すら抱いていた。

「‥何が言いたいの?」

「小さなミスに対して2時間お説教をしたり、大の大人に繰り返し反省文を書かせたり、来る日も来る日も大勢の人前で叱責したり上司の立場から人格を否定したり。僕には洗脳としか思えませんでした。人を押し潰す洗脳組織です」

「だから、それ以上の手段で復讐しているつもりなの?」

 秋森望は、まだ怯んでいない。それでこそ秋森望だった。

「僕は今は、ただ観察しているだけです。このプログラムで人を壊さずに突き進めるのはどこまでのラインなのか。このプログラムにどこまでのことが出来るのか。貴方はどうなるのか。そして僕自身は何をどこまでしたいのか。……やっぱり、ただのプログラムじゃないんです。学習となった瞬間に、教えた側の想定以上の効果が起きてくるんです。きっと貴方も、それを目撃することになります。いや、身を以て、実感することになります」

 秋森望が、やっと怯えた表情をわずかに見せた。幸輝の目を見て、何か恐ろしいものに行き当たったというような視線だった。

「私は、そんなことを体感したくない」

「貴方の体は、違う判断をするかもしれない」

 望の左足を吊り上げている荒縄を、右手で何気なく押してみる。望の体がクルクルと回り始める。落書きされても縄が至る所に食い込んでいても、いやらしい体はさらに香気を放って回転していた。

「……もう、これ以上は‥無理。……生殺しはやめて」

 望の声が震えている。幸輝は耳を彼女の顔にグッと近づけた。

「体を所有されながら、心にだけ責任を持たされて抗い続けるなんて、やっぱり無理。……私の体を解放してくれないなら……、私の心も、貴方が所有して」

 幸輝は、それを聞いて、ゆっくり目を閉じた。そして時間をかけて微笑み、おまけに涙も2粒流した。

「ありがとう。秋森課長、ありがとうございます」

 幸輝の手がポケットに伸びると、プライベート携帯を取り出す。繋がっているイヤホンを、宙吊りになって回転している秋森望の両耳に着ける。課長は穏やかな顔をしていた。携帯を操作して、音楽ファイルを再生する。秋森望の表情がさらに緩む。どこか遠くを見ていた。


「みんな、バスローブか何か一枚だけ羽織って、今から会社に戻ろう。会社でパーティーをしてやればいい。まだ職場で残業している人たちも、スケジューラーでパーティーに招待しようっ。いいね、皆」

「はいっ。喜んでっ」

 ゲーム中の同僚たち、踊っていた先輩たち、イチャついていた課のメンバー。みんなが声を揃えて同意してくれる。幸輝は歩いて5分のホテルから職場までの距離を、携帯の操作をしながら3分足らずで駆け抜けた。夜の8時に残業している究文堂出版の同僚たちと、ホテルの親睦会から戻ってきた営業3課のメンバーたちとで、会社を文字通りひっくり返すような、どんちゃん騒ぎを起こすことにする。大音量のダンスミュージックをかけて、邪魔な仕事着も下着も放り投げて、椅子を蹴り飛ばして、机をみんなで押し倒して、資料を天井に向けて放り投げて、パソコンを床に投げつけてやった。固定電話の受話器のコードで井塚さんと今江をグルグル巻きにしてやった。全裸の経理部女性陣たちがロッカーに保管されている重要書類を片っ端からシュレッダーしたり手で千切って撒き散らしたりしてくれる。シュレッダーされた紙の破片をモグモグと頬張る、生真面目な全裸経理女子もいる。ぐっちゃぐちゃになった社内の、紙きれの積雪の上で、裸の男女50人近くで片端からかわるがわるハメまくった。今日はとにかく激しいファックを。全員で足腰立たなくなるまで、今日出せる精液、愛液。最後の一滴を絞り出すまで、ハメ狂おう。在社中の社員全員にそう予定を入れた。男も女も嬉々としてお互いのお尻をスパンキングする。1日くらい跡が残りそうな強さで歯形をお尻につけ合う。コピー機もシュレッダー機も蹴り倒して、長机の上で知ってる同僚、知らない同僚、お構いなしに、まぐわう。お互いの体を貪りあう。

「誰でも犯してやるっ。誰か、僕にヤラれたい奴はいないかっ!」

 5Fの窓から東京の夜景を見ながら、幸輝が吠える。何人もの女の子たちが黄色い声を上げる(教育が行き届いているようだった)。そしてフロアの出入口から、良く通る声を、幸輝は聞いた。

「私を犯して。私を完全に貴方のものにして」

 振り返ると、秋森望が体に一枚、バスローブを肩にかけただけの姿で、立っていた。

「望。……セックスしよう。今から、お前の心も体も、全部僕の色に染める」

 秋森望がバスローブを床に落とす。体中に縄目の跡がついていたり、悪戯書きが残っていた。それでも、秋森望がフロアで一番綺麗だった。輝いていた。何人かの体を跨いだり、踏みつけたりしながら、フロアの中央で幸輝と望が、ぶつかるようにして抱き合った。そしてお互いを吸い上げて飲み込んでしまうつもりかのような、激しいキス。鼻息が顔にぶつかる。それにいっそう欲情した。張りのあるオッパイ。緊張感のある腰回りのくびれ。成熟した大きめのお尻。全て幸輝のものだと感じた。両手の10本の指と舌でそれを確かめるようにまさぐった。

「乱暴に、……自分勝手に入れてよっ。私の所有者様。………私の体と心に、全ては貴方の所有物だということを刻み込んでっ。……私を……もっともっと、教育して」

 感極まったような声で、秋森望が懇願する。幸輝は獣のように強引にペニスを挿入して、荒々しく腰を振る。そして望のペースや気分を気にすることもやめて、一方的なタイミングで射精しようと決めた。膣の締めつけの中、早いペースで性器を擦りあって、快感が高まってきたところで、おもむろにペニスを引き抜く。そして望の美しい顔の前で思いっきり放出して見せた。陶酔するような表情で幸輝の精を受け止める望。まだヒクついているペニスで、彼女の頬を叩いてやる。その瞬間に、彼女も上を向いて痙攣する。やっと達したようだった。


 。。。


「………なんか、ここまでぶっ壊す必要、なかったかな? ……酷いことになっちゃった」

 ひっくり返された机や椅子と、叩き壊されたOA機器。そしてかつて重要書類だった紙の破片が積もっている上に、裸の男女たちが寝そべって、抱き合ったまま気を失っていた。全員、失神するまでセックスを繰り返した結果だった。

「PC全部、ぶっ壊れてたら、次の学習内容もセット出来ないし、シンペイのFAQサイトにも入れないかな……」

 裸のまま、幸輝はデスクの上に胡坐をかいている。転がっていた缶ビールを開封した。

 ブオォォオオオオオン。

 ひっくり返っていた固定PCとプロジェクターが、急に起動して激しい作動音を出し始める。プロジェクターに至っては、3台、七色の光を放っているのだから、明らかに誤作動に見えた。

『お前がアクセスしたいと思えば、俺とはいつでも話せた。……ニートという概念に昇華したんだからな。俺は。』

 久しぶりに聞いた声。シンニィ………。シンペイの声だった。

 頭を左右に激しく振って、シンペイの姿を探す幸輝。異変は3つのプロジェクターが放つ光が交差する点から起きた。立体の、人の形の造形が現れたのだった。光の塊。それは人の大きさよりもはるかに大きい。そしてそれは少しずつ、肥満体の男性の裸の上半身といった形を成していった。三段腹になっている。髪の毛は癖の強い天然パーマ。その頭が振られると、フケのような粒子までが飛ぶ。凄まじい技術による、凄まじい再現度だった。そして完全に無駄だった。

 光の巨人は、右手を宙に掲げる。その手の上に、光が集まると、ぶ厚いレンズの眼鏡の形をとる。その眼鏡をはめた巨人は、ゆっくりと幸輝を見下ろした。

『これが、お前の居たかった会社の姿か?』

 幸輝はシンペイに言われて、振り返ってフロア中をよく見回す。暴動が起きた後のような、酷いフロアに、ハメ疲れて気絶している全裸の同僚50人。自分を見ると、こちらも全裸で胡坐をかいてビールを飲んでいる。そして胡坐の太腿の間には、寝そべる秋森望の頭があった。憑き物が落ちたような、安らかな顔をしている。幸輝は乾いた笑い声を上げた。

「ははははっ……。そう……だったら、俺、相当ヤバい奴だな」

『その物的証拠は、深層意識学習プログラムのログにもはっきり残っていそうだぞ。』

「ログ……。とってんだな。……ま、ご覧の通り。俺、ヤバい奴だったのかもな。……でも、これは別に、俺が居たかった会社の完成形とかじゃないと思う。ただの、腹いせと、一時的な欲求の発露かな」

『腹いせに2ヶ月。……ずいぶんと時間がかかったな。』

 光の巨人が、ムフゥーっとため息をつくと、口臭まで吹きかけられたような気がした。

「数年分の歪みの蓄積だったからな……。でも、今日、スッキリした。俺、ずっと、辞めたがってる自分が弱くて情けない存在なんじゃないかと、悩んでいたんだ。……それが今日、俺がこの会社で一番鋼の精神を持ってるに違いないって思ってた人の、心を折った。立場とか、シンペイのその信じられない技術とか、色々チートもあるんだけど、やっぱ、折れない心は無いんだな。……それでなんだか、安心した」

 無意識のうちに、幸輝は自分の股間の上に寝そべっている頭の、長い黒髪を撫でていた。

『性格最悪だな。お前は。』

「やっぱり? ……自分で言ってて、俺もそう思ったわ。アハハハ」

 幸輝はまた、笑いながら少し泣いていた。

『それでお前は、腹いせを終えて、自己肯定感も多少は回復出来て、自分の職場を理想郷に変えたのか?』

 光の巨人が聞く。この構図だと、まるでギリシャ神話かニーチェの物語のワンシーンのようなセリフに聞こえた。

「いや………。やっぱりこれも、別の種類のブラック企業……だよな。僕にとっては最高でもあるけど、皆は、これもちょっと、……違うよなぁ……。やっぱ」

『幸輝。俺は意外と忙しい。お前の結論を聞こう。お前はこれからも俺のプログラムを使って、この会社を変えていきたいと思っているのか? この会社を潰して、新しいことを考えるか? ただ、会社を辞めたいのか? それとも、全てを元通りにすることでも望んでいるのか?』

 深見幸輝がもう一度、フロアを見回す。そして膝の間でクークー寝ている、秋森望の顔を見下ろす。最後に、光の巨人を見上げた。

「今夜はちょっと結論出すには遅いから、明日決めちゃ駄目かな? ……結論は継続検討。というのが、今日の結論。……駄目?」

 光の巨人がしばし停止する。やがて口を開いた。

『幸輝。……お前は今では完全なサラリーマンだ。俺はこれまでに、趣味の世界でも、フリーランスをしている同好の士からも、そんな答えを聞いたことはない。』

 幸輝は、笑いながら、ビールをもう一口飲む。望の髪を撫でていた手を上げて、拝むような姿勢をとった。

「ほんとゴメン。おれ、しょうもない社畜サラリーマンだな。やっぱ」

 巨人の顔が近づいた。ニキビの跡までくっきりと見える。

『別に悪口として言ったんじゃない。そういう世界があってもいい。俺とは違うがな。明日でも、いつでも構わん。お前の結論はいつか聞こう。』

 幸輝は笑顔で頷いた。

「あのさ、シンペイ。………もうちょっと、普通のかたちで会いたいんだけど、どこかで一緒に飲めたりしないのかな?」

『俺は既に、ニートという概念自体に自分を昇華させている。俺は別次元にも同時に存在し、この次元でもNASAにいる時もあればベルリンにいる時もある。ネットは広大だ。俺は幕張と晴海に同時に存在することもある。………しかし、強いて言うならば、基本的には、常に実家にいる。』

「あ………実家なんだ」

 幸輝が呟くと、光の巨人の上半身が、ゆっくりと後ろを向く。ピントがぼやけるように、光の造形が解けていく。そして最後に、その巨人は振り向いた。

『覚えておけ、サラリーマン幸輝よ。俺は、常に、実家にいる。』

 その言葉を最後に、シンペイの虚像は光の焦点を失い、スパークするように形を失う。そしてその光の乱反射はフロアを一時、昼のように照らした。


 。。。


 シンペイの去り際の光の炸裂のせいで、半数くらいの社員が目を覚ました。幸輝は落ち着いて、全員に怪我がないことを確認して、適当に言いくるめて1人ずつ、服を着させて退社させた。疲労困憊に見えた社員には、ウォルナット東京に泊まってもらうことにした。体力、気力が回復するまで、特別休暇を取得していいということも通達しておいた。まだ意識が不明瞭な秋森望は、郷原チーフと桐原、笹山、澄川たちが、ホテルに届け、一緒に寝てくれるということになった。

 全員の退社を見届けた幸輝がそろそろ帰ろうと思った時には、もう23時を過ぎていた。さっき会社に戻ってきた時に使った正門ではなく、従業員通用口から幸輝は出ていこうとする。出口で従業員証を探す。予備のスーツのポケットには、従業員証が入っていなかった。今夜のパーティーの中で、どこかに落としてしまっていたようだった。

「大丈夫ですよ。深見君の顔はわかってますから」

 守衛の高原さんが言ってくれる。頭を掻きながら、幸輝がボソボソと礼を述べた。

「総務部長に、きつく言われてるんですよ。部外者が侵入したのを発見した時以外は、基本的にオフィスで何が起こっていても、目をつむっておけってね。……今日も相当な乱痴気騒ぎだったみたいですが、まぁ、私ら、何にも見てないですから」

 ヨボヨボの高原オジイサンが、誰に言うとでもなく、話してくれる。この人はいつも温厚で、究文堂のようなブラック企業すら、達観して見守ってきてくれていた気がする。幸輝は少し迷ったあとで、思い切って高原さんに疑問をぶつけてみた。

「あの、高原さんって、失礼ですが、前のお仕事は定年になって、今、このお仕事なんですよね」

「……はい。そうです」

「その、お仕事は生計をたてるためなんですか?」

 立ち入ったことを聞いてしまっているかもしれないが、高原さんは少し黙って幸輝を見た後で、シワの入った笑顔で答えてくれた。

「いえ。もう年金も出ていますし、子供たちは独立していますから、家内と2人で生活する分には、お給料がどうしても必要という訳ではないです。ま、あって困るものでもないですが……ね」

「では、生活のための仕事ではなくて、高原さんが働いている理由は何ですか? 自分の価値を確かめるためですか? 自己表現ですか? 社会に良いことをしようとしているのですか? それとも……」

 守衛さんは慌てて首を左右に振る。

「いやいや、あの。私、そんな大それたこと、考えたことございません。仕事も……夜勤の守衛ですしね」

「はぁ………」

「………なんだろなぁ? ………ま、強いて言えば、はりあい……ですかね」

「はりあい。……はぁ………」

「お気をつけてお帰りください」

 ヨボヨボのオジイサンに敬礼で見送られるのは、いつも微妙な気分になる。が、幸輝はとりあえず家に帰って、また明日。今後のことを考えることにした。朧月夜の東京23時。気がつくと深見幸輝の足取りは意外と軽やかなものになっていた。



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< おわり >


 

 

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