ブラック企業はやめられない


 

 

前編


 究文堂出版の本社ビルはJR水道橋駅と御茶ノ水駅の中間くらいの場所にある。営業3課があるのは5階の営業部フロア。深見幸輝にとっては、この前まで通いつめ、泊まりつめた、勝手知ったる我が家のような場所だ。いや、確実に我が家よりも長い時間、過ごしてきた場所だった。

「秋森課長、お願いに参りました」

「深見。………貴方、今日は開発課で缶詰めだと聞いたけれど、また外回りを手伝う時間でも出来たのかしら?」

 スタッフの机が並ぶ島から、少し離れた課長席。この席の横で、幸輝は営業課時代、何度となく秋森望課長の叱責を受けてきた。スケジュールボードと営業成績表の前に立つと、今でも鼓動が激しくなる。

「こちら、開発課の池淵課長からのメモです。開発中プログラムのレビューを、営業の前線に立って、日々顧客と接するマネージャーの方々にもお願いしたいということです」

「忙しいんだけどね…………。30分。打合せ部屋を押さえてくれるなら、伺うわ」

 秋森課長がPCのスケジューラーを見る。この会社の全社員のスケジュールは、機密案件を除いて、イントラネットで共有されて、互いに見られるようになっている。

「お部屋は512号室を押さえております。会議の開催提案メールも送らせて頂いております」

「512に30分だけね。わかりました」

 組んでいた足を床に下ろして、肘置き付きの椅子を引いて、秋森課長が立ち上がる。まだ28歳の若い課長だ。


<<ブラック企業の注意: 全てのブラック企業が保守的な旧来型日本企業ではない>>

 就職活動をしていた頃の深見幸輝は、「ブラック企業というものは旧習を頑固に守る、古臭い中小企業に違いない」という勘違いをしていた。それと比べて究文堂出版という会社は、まだ創業20年程度の新興企業で、現在急速に経営規模を拡大している成長株。成績が良ければ若い社員でも女性社員でもどんどん出世するし、成果給の比率が高いから、どんどん給料も増える。20代の課長、30代の部長も珍しくないと説明を受けた。そして社員の65%が女性という男女比からしても、とてもオープンで進歩的な会社に思えた。

 しかし、新興の、経営拡大中の成長企業にもブラック企業は多く存在するし、若い女性マネージャーの中にもブラック上司はちゃんといる、という事実を、営業部の4年の間、日々、身を以て学ばさせられた。

 3課の課長、秋森望さんは28歳。一流の大学を出たけれど就職氷河期だったので、女性の四大卒は有名企業には敬遠されがちだったようだ。出版という名のつくこの会社に、繋ぎのつもりで入ったが、頭脳明晰で交渉力があって、何より鋭い美貌がオヤジ世代にどストライクだったようで、月間契約数の記録を打ち立てた。留学中に磨きをかけていた流暢な英語とネイティブっぽい発音を武器に、英会話学習キットのセールスで圧倒的な実績を積んで、課長にまでなった。けれど部下にとっては、最凶最悪のプレイング・マネージャー。自分が当たり前のように出来ることを、モタモタしている部下たちが我慢できないようで、手厳しく、理路整然と、そして徹底的に叱責する。

「本当にこの課は、私がいなくなったら、どうなるの?」というのが口癖だが、どれだけ人員を補充しても、秋森課長に気に入られない部下は次々と「心の風邪」をひいていく。課が課長なしに成り立たないような状況を作っているのも、秋森さんではないかと、幸輝は思っている。確かに今の3課があるのは、学習CDの法人への大規模納入という、秋森望が切り開いた販路のおかげだ。これまでの地方の家庭への訪問販売などの旧態然とした営業を大きく革新した。しかしそのスーパープレイングマネージャーが、今も一人で大活躍。スタッフたちのほとんどは、脇役か黒子の役しか、させてもらえていなかった。

 打合せ部屋に入ると、秋森課長はセミロングの黒髪に指を通して、その後、机を人差し指と中指の爪で、コツコツコツと小さく鳴らす。彼女が苛立っている証拠だ。元部下の幸輝はPCのセットアップを急いだ。

「今回は、ヘッドホンとそれからスマホを組み込む形の安価なヘッドマウントディスプレイを使います。英会話のスピードラーニングですが、脳内をリラックスさせて教材の内容がスムーズに深層意識に入って来る効果と、勉強に対してやる気を出させる効果をプログラムで組み込んでいます」

「営業課が確固たる自信を持って売りにいけるような教材。開発課が独自に出せた試しがあったかしら? ………まぁ、この会社のリソースでは、どれだけ言っても無駄よね。早く再生してもらえるかしら」

 秋森課長は前髪をかきあげてオデコを出すと、ヘッドマウントディスプレイを付けて、ヘッドホンも装着する。怖い上司だが、非の打ちどころのないような整った美貌が隠れてしまうのは、少し残念でもある。

「再生始めました。………音、大きいですか?」

「………環境音楽みたい………。そんなに不自然な感じはしないけど………、映像………。この、テクノアイドルのPVみたいなコンピューターグラフィックと、BGMは、合ってないと思う。………講義の声はいつ始まるの?」

「今回は、全部、聞き取れない周波数の音にしました。なのでBGMを聞いていてもらうだけでいいんです」

「………それは、ハードル低いって思ってもらえるかもしれないけれど、実際にはユーザーは退屈しちゃうんじゃない? ………すぐに…………、眠くなってくるんだけど…………」

 幸輝が息を飲む。

「あの、眠くなっても、聞いていてもらえば、いいんです。学習効果はちゃんとあると思うので」

「……………ん………………………ふぅ……ん………………………………………………………………」

 音楽と映像の確認に集中してくれているのだろうか、秋森課長は返事をしなくなっていた。3分経過するのを待つ。まだ秋森望は反応を示さない。

「あの………、課長………。秋森さん………」

 一切、返事をしない課長。深見幸輝は意を決して、座っている課長にグッと顔を近づけてみた。呼吸をそばで聞く。

 深く、安定した呼吸。寝息そのもののように聞こえた。異性の寝息をこの距離で聞くのは久しぶりだったので、幸輝は密かに興奮してしまった。しかし、相手があの鬼課長だと思うと、また少し気持ちは萎える、というか落ち着く。本当に寝ているのか確かめるために、幸輝はそーっと課長のかけているヘッドマウントディスプレイをずらしてみることにした。

 こめかみのところでゴムバンドに指を入れて、ゴーグルと課長の顔との間に少し隙間を作る。その隙間をもう少しだけ大きくして、空間を覗き込んだ。

 課長の目は、開いている。ドキッとして幸輝は、声を出しそうになってしまった。課長は寝息のように呼吸を安定させて、体はリラックスして深く椅子に沈みこませているが、両目は開いていた。いや、半開きと言うべきか。ボンヤリとだが、まっすぐ前を見ている。それなのに、この距離で触れている幸輝に対して何の反応も返さない。長いまつげをよく見ると、わずかにプルプルと痙攣するように震えていた。

(これが、深層意識学習中の状態なのかな?)

 幸輝はおそるおそる、スマホが組み込まれたゴーグルを元通りにし、課長から離れた。時間が過ぎるのを、腕時計の針を見つめながら待つ。
 23分たった時、画面が切り替わり、BGMもトーンが変わる。深い眠りから覚めた人のような仕草で、秋森課長は肩をすくめて、顔を左右に動かすと、次に両手を上げて大きな伸びをする。

「今、5分くらいたった?」

「………いえ、20分です」

「えっ、嘘!」

「すみませんっ。………あ、いえ、今、再生開始から25分たっています」

 急に秋森課長が大きな声をだすので、幸輝は反射的に謝ってしまった。長年にわたって染みついた習慣は、部署を異動してもなかなか抜けない。

「20分もたったような感じ、全然しなかった………。私、………寝てた? …………集中してたのかしら?」

「あ、あの、両方だと思います。…………お気分は悪くないですか?」

 ヘッドホンを机に置き、ヘッドマウントディスプレイを外して髪を直した課長が、左右をキョロキョロと見回す。考えことをするように、黙り込む。まだ幸輝の緊張は続いていた。

「気分は、………凄く、いいかもしれない……。心の整理がついたような、すごくすっきりしている感じ………よ。………英語が上達したかどうかは、まるっきりわからないけれど」

「あの、課長はもともとネイティブスピーカーなみですから、英語力アップの効果測定には向きません。でも、使用感は悪くない、という認識で正しいですか?」

 ヘッドホンを受け取ろうと机に伸ばした幸輝の腕を、秋森課長が手首のところで上から握りしめた。

「深見。これは今までの商品や試作品と比べて、使用中の没入感から使用後に残る感覚まで、まったく別物だと思う。開発課が問題なければ、今日、午前中の定例会議の後で、もう一度、試させてもらいたいの。良いかしら?」

 幸輝が緊張して腕を引っ込める。

「あ、ありがとうございます。それでは、午後にまた伺います」

「えぇ、スケジュール、入れておいて」

「はい」

 椅子を引いて立ち上がった秋森課長は、少し考えごとをした後で、深見の方へ2歩進んで、至近距離で幸輝に言った。

「貴方、営業より開発の方が向いているのかもしれないわね。もちろん、貴方自身がプログラム組んだり設計したりした訳じゃないと思うけれど、貴方が関わって出来上がったこの開発品は、これまでとは段違いのものよ」

 いつも自分にも他人にも厳しい秋森課長の目が、少しだけ笑っている。幸輝は返って緊張が高まってしまった。至近距離にいた課長が、さらに顔をもう一段階、近づけてくる。前髪同士が触れ合いそうな距離だった。

「これからも頑張りなさい」

「は、…………はい」

 幸輝は下を向いて返事する。この距離で自分の息を上司の顔にかけるのが躊躇われたからだった。

 ガチャン

 ドアを開けて、颯爽とキャリアウーマンが部屋を出ていく。打合せ部屋に取り残されると、幸輝は深い安堵のため息をついて机に突っ伏しながら、ヘッドホンを握りしめた。圧迫的とも言えるほど狭い打合せ部屋には、まだ、秋森望さんの高級そうな香水の匂いが漂っていた。

(シンペイの残した、深層意識学習プログラム………。やっぱり本物だ!)


 。。。


 二日前の夜(というか早朝)、6年ぶりくらいに連絡を取ったニートが、PCのデスクトップ上に残していった圧縮ファイル。解凍すると、フォルダーの中にはEXEファイルと白紙のWORDファイル、EXCELファイル。そして映像や音楽ファイルを格納するためのフォルダーがあった。”READ ME”と名付けられたノートパッドを読むと、
『WORD、あるいはEXCELファイルに、対象者の深層意識に焼きつけたい情報、指示事項、新たな思想信条や動機づけたい行動を書き記し、音楽ファイルや映像ファイルを格納した上で、ディスクにフォルダごと焼きつけるか、そのままPC上で統合動画ファイルとして対象に鑑賞させること。開発者、妹尾晋平が解明している範囲の脳の動きと同調させた電気信号を駆使して、人間の深層意識にまで踏み込んでプログラミングを行う。FAQはネット上で探すこと。』

 とだけ書かれていた。半信半疑で自分自身に試してみようと思った幸輝が

『元気が出る。少し前向きな思考が出来るようになる。』

 と書き込んで、ネット上から無料で落とせたアマチュアバンドの能天気なロックをMP3にフリーソフトで変換。EXEを起動させて統合ファイルを作成した。CDに焼きつけずにそのまま統合音楽ファイルを聞いてみたら、これが笑ってしまうほどあっさりと、元気が出た。さっきまでのワーキングデッドが、ずいぶんと生気を取り戻すことが出来たのだ。いわゆる、ノロノロ歩きの正統派ゾンビから、猛ダッシュする新しいタイプのゾンビへの昇格だ(まだゾンビだが)。

 幸輝はそれでも、まだ疑いを消せずにいた。それは、さっきまでの異常な現象(シンペイとの接触)を体験した自分だからこそ、このプログラムが本当に「効いた」ように感じたのではないかということ。いわゆる、プラシーボ効果だったのではないか、という疑念が残ったのだ。そして今日、意を決して、幸輝の知っている中で、もっともプラシーボ効果から無縁と思える、頑固で理知的で周囲に流されずに自分の意志を押し通す人、秋森望課長で、このプログラムを試させてもらったのだった。

 統合動画ファイルには、
『この試作品を気に入る。とても良い気分になる。そして開発者の深見幸輝に一時間の間、少しだけ好意を持つ』

 という教育内容を書き込んであった。結果は、試作品の評価に非常に辛口なはずの課長が、「これまでの当社の商品、開発品とは別物」という評価をくれた(良いとは言っていなかったが)。そしてチェック後の、深見との距離感はどうだっただろう。かつてこれほど幸輝の近くに、秋森望が接近したことなどなかったのではないだろうか。

 正確には、一度、幸輝が報告書を持って行ったところ、それを一読した課長に、その報告書で頭を叩かれ、職場のみんなの前で報告書を破られて投げつけられたことはある。あの時もそれなりに物理的に接近されてはいたのだが、彼女の心理的には非常に遠くから見下ろしていたような気がする。今回のケースは、物理的にも心理的にも、かなりの接近。そして接触があったと思う。

 秋森望は、幸輝に好意を持ってくれた。深層意識学習プログラムが効果を発揮していなかったら、天地がひっくり返っても、起きていなかったはずのことだ。よくよく考えると悲しいことだが。

(秋森課長が、午後にはもう一度、試作品をチェックしてくれる。………だったら、もう少し、実験を進めてみよう。)

 幸輝は普段の自分だったら考えられないほど、勇気を持って次のステップのことを考えていた。いつの間にか、彼の心身には元気が溢れ、『前向きに考える』ようになっていたのだった。


 。。。


「さて、さっきの試作品。もう一回、きちんとチェックさせてもらおうかしら。朝はバタバタしていたこともあって、確認中にうっかり気を抜いてしまったみたいなの」

 秋森課長は椅子に座って足を組む。朝に一瞬だけ幸輝に見せてくれた。親密な態度はすでにかき消されていた。徹底的に駄目な部下をやりこめる。冷徹な美人マネージャーのオーラを、鎧のように纏っている。幸輝はまた息を飲んだ。

「何度もご協力頂きまして、ありがとうございます。今度は、気分の改善だけでなくて、学習効果についても少しだけ確認できるように、試行プログラムをちょっと修正しました」

「この後のカネシタ企画さんへのご挨拶、今江に任せてきたから、60分はレビューに当てることが出来るわ」

 秋森課長はポーカーフェイスのまま、ヘッドホンを付けて、ヘッドマウントディスプレイを装着する。固い表情ではあるが、ヘッドホンが絡まって結び目が出来ているのにも構わずに、さっさと身に着けてしまうあたり、内心、この試作品をとても気に入ってくれているのかもしれない。

「再生します」

「…………映像、変えたの? さっきのコンピューターグラフィックじゃなくて、自然の風景になってる」

「はい。課長に映像と音楽が合っていないとご指摘頂きましたので、出来る範囲で改編しました」

「………仕事、早くなったわね。………営業やってた頃より…………………」

「はい。今まで沢山、ご迷惑おかけしました」

「…………………」

 秋森課長は返事をしてくれない。早くも学習モードに入ってしまったのだろうか? …………前回よりも、2分も早く、幸輝の呼びかけに気がつかなくなった。このプログラムは、繰り返すことで没入を早めるのかもしれない。だとしたら、学習効果も強まるのだろうか? 幸輝は頭の中に次々と考えが浮かぶ。秋森望の反応を早く確かめたかった。それでも彼女は映像と音楽の世界に行ってしまった。こちらの世界で幸輝がどんなに呼びかけても、返事もしてくれない。気がつきすらしない。

 この『学習中』に一体何をしたら、秋森望は正気を取り戻すのだろうか?

 幸輝はあれこれ妄想して、思わず熱くなった体を冷ますかのように、生唾を飲み込んだ。一度、大きく息を吸い、吐き出す。打合せ部屋の扉を見た。中が覗き込めるように、大人の目の高さあたりがガラスになっている。

 幸輝は部屋の角にある電話台まで歩いて行って、筆記用具立てからメモ帳とセロハンテープを手に取った。もう一度、深呼吸をする。メモ用紙を一枚剥がして、打合せ部屋のドアにある覗き窓をメモ用紙で塞いでしまう。セロハンテープを上辺の左右に張り付ける。目隠しが出来た。

「課長………。あの………秋森課長………?」

 ビジネススーツの肩を、ポン、ポンと触れてみる。秋森望は一切、反応しない。

「ちょっと、失礼します………。映像がきちんと出ているか、確認したくて………」

 不要かもしれないが、あえて言い訳をしながら、バンドに指を入れて、ゴーグルをそろそろと上にずらす。ヘッドホンを一瞬だけずらして、その間にヘッドマウントディスプレイを完全に課長の頭から抜き取る。秋森望は今も、半開きの目でボーっと前を見ていた。目の前で幸輝が手をヒラヒラさせても視線がまったく動かない。反射的に幸輝の手にピントを合わせるという自然の反応すら、していないようだ。

(今回は、音楽ファイルにだけ、プログラムを統合してあるから、ディスプレイはダミーだ。これを外して、課長の反応を一個ずつ、確認したい。)

 セミロングの髪は、つやつやと光沢を放っている。整った眉と切れ長の目、深い瞳。高い鼻は彫像のようだ。唇は横一文字に結ばれている。口紅は控えめな赤。あごは細い。全体のバランスが均整にとれているところが、彼女の完璧主義の性格を表しているようだった。

(課長の顔を直接、こうやってじっくり見るのは、初めてかもしれない。………綺麗な人だな。)

「課長………あの、お嫌でしたら、おっしゃってくださいね。………あの、スピードディープラーニング中は、脳内もいつもよりも過熱して、体温が上がるかもしれないので、…………ジャケット、脱ぎませんか? ………何も仰らないようでしたら、………その、手伝いますね」

 幸輝の言葉に一切反応せずに、ただ無表情で前を見つめている秋森課長。その課長のビジネススーツの、シックブラックのジャケットに、幸輝がおそるおそる手をかける。

「暑いだろうから………という、だけですからね」

 ジャケットの襟元から光沢ある白のワイシャツが、目に触れる面積をグッと増やす。肩口から右腕、そして左腕を抜き取る。秋森望はその幸輝の動きに手伝うような動きも見せないが、それを拒むような動きもしない。ジャケットが抜けると、身をそのまま椅子の背もたれに寄りかからせる。表情は両目が半開きの無表情のまま。自分が今、元部下の手で、ジャケットを脱がされたということにも気がついていない。頭を少し左に傾けて、課長はヘッドホンからかかるライトなBGMを聞き続けていた。

「課長………、まだ起きないですか?」

 彼女の前で、また手のひらをヒラヒラと扇がせて、風を送る幸輝。それでも秋森望は、瞬きすらしなかった。ツンと高い鼻の頭に、人差し指を伸ばしてみる。課長の鼻の頭。触れてみて、少しひんやりとした彼女の肌に気がつく。表面の体温は、平熱よりも少し落ちているのだろうか?

「唇…………。触ります………。すみません」

 元上司には聞こえていないだろうとわかっていても、行動する前に、いちいち断ってしまう。幸輝は長年の人間扱いされないような生活が身に染みてしまっていることをイヤというほど自覚させられた。

 望さんの唇は、思ったよりも柔らかくて弾力があった。上司として接してきたから、ずいぶん上の人だと思ってしまうが、学年で言えば2つしか違わない。まだ20代の女性だということを思い出す。秋森望の唇。今はまったく無防備な状態。そこに自分の唇を重ねようかと迷ったが、やはり止めることにした。チャンスだとばかりにキスをするには、秋森望課長という人は幸輝にとって、あまりにも特殊で特別な存在になってしまっていたからだ。一体、何度この人の叱責の声を聞いて、胃が痛くなっただろうか、汗がとまらなくなっただろうか。頭の中が真っ白になってしまったことだろうか。

「課長、本当に聞こえていないんですか? 僕に何をされても、わからないんですか? ………このままいくと、僕は貴方の、胸を触ってしまいますよ。僕なんかに悪戯されたくなかったら、トランス状態のふりなんて止めてください」

「………………」

 幸輝はそれ以上、言葉を発することなく、おもむろに彼女の白いワイシャツの鎖骨の下の膨らみに手を伸ばして掴む。布の下に柔らかい刺繍の感触。そしてさらにその奥の柔らかい肉の感触を、確かに指の腹に感じ取った。手のひらを添えて、包みこむように指を開いて掴む。柔らかい肉のかたまりは、幸輝の手の動きに逆らわずに形を変える。しっかりとした質感の感触を返しながら、ムニュムニュと動く。

 今の今まで、自分で信じられなかった光景。営業部きっての才媛、秋森望女史の胸を、落ちこぼれ部下の深見幸輝が好き勝手に揉んでいる。鬱屈とした平社員の妄想が、突然現実のものとなっている。幸輝はあまりの出来事に、かえって現実感を無くしていた。気づくと両手を使っている。秋森課長の両胸を、鷲掴みにした状態で持ち上げるようにして揉んでいた。ボタンを外したい。それでも、幸輝にはまだわずかに、冷静な判断力が残っていた。

(そろそろ、再生時間が終わる。ジャケットを着せないと、大変なことになる。)

 幸輝が慌ててシックブラックの上等なジャケットを、課長の体に覆いかぶせる。無反応の手をジャケットの袖に通すのには、少し、もたついてしまう。幸輝は焦った。

(急げ急げ。もうすぐ曲が止まるっ。)

 何とかジャケットを着なおさせると、ヘッドマウントディスプレイを装着させて、幸輝は慌てて課長の席から離れる。

「……ん……」

 課長がくぐもった声を出す。ディスプレイを外し、目をゆっくり閉じて、じっくりと時間をかけてもう一度開くと、表情に生気が戻って来る。キョロキョロと周りを見回して、また大きな伸びをした。その瞬間、幸輝は突き出された望の胸に目がいってしまった。

「また、20分もたった? ……まだ5分くらいの感覚なんだけど」

 課長が少し寝起きのように聞こえる、鼻にかかったトーンで尋ねる。

「あ、もう、40分たってます」

「本当に?」

 課長が手首をひっくり返して、高そうな腕輪を見る。

「…………また、凄く入りこんじゃってた。全然、時間が過ぎていくのが、わからなかった」

「お気分は、如何ですか?」

「……………」

 秋森課長は少し眉をひそめて、しばらく自分で考えている。幸輝を射通すように見つめる視線は険しい。幸輝は背中をジトッとした汗が流れていくのを感じた。

「あの、学習効果も測定させてください。一つだけ、質問を」

「………なぁに?」

 秋森がやっと口を開く。幸輝は声が震えるのを精一杯抑えながら、質問した」

「リ……、リンゴは英語で何と言いますか?」

 秋森課長はさらに眉間にシワを寄せて、訝し気に幸輝を見つめる。これまで会議の場でも何度もさらされた、詰問するような、対象を分解するような、鋭い視線。幸輝は降参して、すべてを投げ出し、打ち明けたくなった。

「アッポレ」

 一声。秋森部長は真面目な表情で回答する。

「もう……少し、訊かせてください。iPhoneを作っている会社の名前は?」

「アッポレ社……でしょ? それがどうしたの?」

「アメリカのニューヨーク市の愛称は何ですか?」

「ビッグ・アッポレ。ねぇ、これは何のためのクイズなの?」

 課長が少し、苛立ったように言う。

「あの、課長。……リンゴはアップルではありませんか?」

 幸輝が尋ねると、秋森課長は今まで見せたことがないくらい重い命題を抱えたような表情になって、首を振る。

「アップル………。そうだったような気もする………けれど、……やっぱり、アッポレ。私の中で、アッポレという言葉がリンゴと確固とした結びつきになっていて、アップルだということにすると、座りが悪くて、気持ち悪いの。もしかして、これが、実験の中身?」

 さすがに秋森課長は鋭い。それでも、結果は成功だと言えるだろう。

「はい。リンゴはアッポレだと、わざと間違えた情報を入れさせて頂きました。正しい情報はいくら学習頂いても、教養豊かな課長にとってテストにならないと思いましたので。大変失礼しました。もう一度、今度は解除するプログラムを聞いて頂いて、元通りにさせて頂きます」

 課長は真剣な表情で、口の中で独り言を繰り返している。自分自身になんども「アップル……アッポレ……アップル………」と唱えている。そして幸輝を見上げる。

「これが、学習効果? ……こんなに強力な効果は、今まで聞いたことがないわ。正解がアップルだと種明かしをされても、……まだ私の中では、絶対的にアッポレのままなの。これって、ただのスピードラーニングの次元を超えていないかしら?」

 課長の呼吸が荒くなっている。幸輝の目の前で冷徹な秋森望が、明らかに取り乱しつつあった。部下や同僚、時に上司をサディスティックに叱責している時ですら、解剖医のように冷静沈着に作業を進める、あの秋森望が、息を荒げて混乱していた。

「課長、少し休憩されますか? ……その後で、すぐにさっきのアッポレの学習は修正します。全て元通りに……」

 幸輝の言葉を振り払うかのように席を立った秋森課長が、退室しようとドアノブに手をかける。そこで彼女の動きが止まった。

 幸輝の心臓が凍りつく。
 秋森望は、扉の覗き窓を塞ぐために貼り付けられている、メモ用紙をまっすぐ見ていた。

 振り返る秋森望の顔は、美しいが、法廷の検察官のように鋭いものになっていた。もう、呼吸も乱れていない。

「深見、……貴方。学習中の私に、何か、したでしょ」


 巨大な氷柱に、胸から背中まで貫かれたような気がした。目の前の世界が色を無くしていくような感覚。秋森課長の追求からは、逃れることが出来ない。そう思うと、深見幸輝はその場にヘナヘナと崩れ落ちそうになった。


「……確かめさせてもらおうかしら……」

 次に出てきた課長の言葉は、意外なほど、トーンが変化していた。幸輝のことをからかうような、悪戯を画策する、子供のような口調。口元を見ると、クスクスと笑っているようだった。

 足を交差させるように歩み寄ってきた課長は、今朝の再現のように、幸輝にグッと顔を近づける。口を開いた課長が何か言うかと思って待ち構えていた幸輝だったが、課長はそのまま瞼を閉じながら、幸輝の唇に自分の唇を重ねた。温い鼻息が幸輝の顔にかかる。彼女の舌が、幸輝の唇を割って口内に入ってきた。そのまま幸輝の体を押し出すと、幸輝は背中が壁にぶつかる。さらに体を押しつけてくる秋森課長。今朝の試作品チェックの時のように、彼女の香水の匂いが幸輝の鼻孔をくすぐる。今度は、その高そうな香水の香りの他にもう一種類、別の種類の匂いが漂ったような気がした。


 深見幸輝は今回の実験には、以下のプログラムをWORDファイルに記入していた。

『リンゴは英語でアッポレ(appore)と言う。そして秋森望は、深見幸輝の存在に興奮する。発情する。』

 課長は、リンゴの下りは見事にプログラム通りに学習してくれていた。それ以外は効いていない、そう幸輝は解釈していた。しかしどうやらプログラムは全て効果を発揮していたようだった。課長は刷り込まれた感情を必死で押し隠し、抑制し、抵抗して、そのために今まで自分のペースを失って取り乱していたのだが、さっきのメモ用紙の目隠しを見て、課長のなかで何かのスイッチが入った。今、幸輝はそのように理解した。

「課長、あの、何か問題がありましたら、すぐにプログラムを修正します。今は……」

「貴方に……、深見に、私を制する資格があるの?」

 強い眼力に射貫かれると、幸輝は言葉を失う。

「貴方に不届きな下心があって、業務に相応しくない開発をしているという疑いがあります。今からその調査をするから、あなたは一切、抵抗しないこと。逆らうと、解雇どころでは済まないと思った方がいいわよ」

 言い切ったあとで、秋森課長はまた、クスリと口元を緩ませる。さらに体を幸輝に押しつけてきたかと思うと、両手を自分のシャツの襟元に伸ばす。シャツの襟を掴んでグッと拳を作った秋森望は、両腕を一気に、斜め下に引き下ろす。ブチブチブチッとプラスチックの白いボタンが飛んで、幸輝に当たった。乱暴に引きちぎられたシャツの隙間からは、しっかりとした質量を包み込む、淡いヴァイオレット色のレースをあしらったブラジャーが顔を出した。白い胸の谷間も見える。胸は幸輝に押しつけられて、少し形を歪められていた。

「業務中に、不謹慎なことを考えていなかったか、精査させてもらうわよ」

 秋森課長に、股間を触られた。感触でわかる。幸輝のモノが固く勃起していたことも、触れられてわかってしまっただろう。課長は鼻息で笑い声を小さく漏らすと、幸輝の両目を見据えながら、またも顔を近づけてくる。わずかに左に傾けた顔が、幸輝の顔と重なる。またディープキスをされるかと思ったが、今度は課長は舌を伸ばして幸輝の頬を舐めた。吸いつくように頬に唇を当てると、やっと舌を絡ませて、ディープキスをする。その間に幸輝はズボンのチャックを下ろされていた。課長の少し冷たい、長い指が、トランククスのゴムを押し下げて、幸輝の起立した性器を探り当てる。チャックからモノを取り出すために握られただけで、膨れ上がった幸輝のペニスは暴発しそうになっていた。

「あまりこういうこと、慣れてないんだけど、これは必要な調査だから。取り調べを受けていると思って、我慢しなさい」

 課長はあくまでも部下に接する命令口調で話しながら、片足ずつ膝をつく。幸輝の真正面で膝立ちになった課長。一度、ゴクリと生唾を飲み込んで、おもむろに口を開け、チャックから露出された幸輝のペニスをその口に含んだ。両目を閉じて、まるで味わいを堪能するかのようにじっくりと舌を這わせる。両頬をすぼめて顔を前後に動かす課長の顔は、これまで見たことのない、オンナの顔になっていた。幸輝の顔の位置からは、秋森望の胸の谷間をじっくり見下ろすことが出来る。仕事と結婚しているような女性と思ってきたが、その胸は豊満で肌は白く木目細かそうに見えた。

 ペニスの裏筋を包み込むように舐められると、幸輝はすぐにでも自分のモノの暴発を許してしまいそうになる。口の中でさらにグッと膨張する、幸輝のモノの反応は、注意深い秋森課長には、即座に気づかれているだろう。課長は幸輝の亀頭付近、カリ首の裏のあたりを舐め上げて、同時に頬をいっそうすぼめてペニス全体を吸い上げる。最初はギコチないように思えた彼女の動きは、幸輝の反応を見ながら急速に上達している。この人は、きっと何をやらせても、優秀なのだろう。何をやらせても。

「課長、もう……出ますっ。イキますっ」

 幸輝がそう言えば、秋森望は口を開けて幸輝のモノを解放すると思った。しかし、彼女は口でのペニスへの愛撫をいっこうに止めてくれない。このまま、口に出して良いとも言わない。我慢しろとも言わない。ただ幸輝の言葉を無視するように、ペニスへの刺激をさらに強めてくる。幸輝の我慢は限界だった。

 ビュッ。ビュッ、ビュビュッ。

 おもむろに、幸輝のペニスがこれまでの我慢を一気に放出する。望は口の中に収めて飲み込もうとしたらしいが、慣れない勢いに、思わず口を開いて、精液を漏らしてしまう。ペニスがこぼれ出ると、秋森課長は喉の奥にへばりつくような粘液に、えずきを覚え、両手を床について咳きこんだ。

「ゴホッ……、グホッ、……エェエエエエッ」

 カエルの鳴き声のような、ひしゃげた声を喉から出しながら、床に両手をついた秋森望が、苦しそうに咳きこむ。幸輝は慌ててモノをズボンから出したままの姿でしゃがみ込んで、課長の背中をさすろうとした。

「……いいっ。……あっちいってっ」

 肘で幸輝の腕を払いのける。秋森課長。顔を上げると、両目に涙を溜めていた。胃液が逆流した時などに、こうした表情になる。慣れないことをしたためだろうか? それとも彼女の体が、自分の行為に対して、反乱を起こしたのだろうか?

「はぁ、はぁ、はぁ……はぁ。あぁあっ」

 両手をついたまま、背中を大きく上下させて、呼吸を整える秋森課長。少しずつ呼吸が落ち着いてきた。

「……ボタン」

「はい?」

 幸輝はよくわからなくて聞き返す。いままで何度も職場で繰り返された。叱責のパターンだ。

「私のシャツのボタンよっ。拾いなさいっ」

「あっ、はいっ。申し訳ございません」

 条件反射のように、幸輝が飛びあがって床に這いつくばる。散らばった4つのボタンを拾い集めて、課長に手渡す。課長は手だけ伸ばして受け取ると、幸輝の方に顔も向けずにふんだくった。

「今日中に貴方に、指示があると思います。勤務時間が終了しても、待機しておくように」

 課長が元部下に言い渡す。もとより、定時で退社出来たことなどなかった幸輝は、直立して返事をした。立ち上がった秋森課長は、幸輝に背を向けて、しばらく服装や髪を整えると、こちらを振り返ることもなく、打合せ部屋を出ていく。ドアを閉める瞬間だけ、幸輝を一瞥した秋森課長。その眼は、先ほどのような熱は一切こもっていない、氷のような眼差しだった。

 PCとヘッドホン、ヘッドマウントディスプレイを持って開発課のフロアに戻った幸輝は、現実の世界を歩いているような気がしなかった。秋森課長が今、何を考えているのか、わからない。幸輝のたくらみのうちの、何がバレていて、何がまだ気づかれていないのかも不明確だ。だが、わかっていることは、たった今、打合せ部屋512号室で、異常な事態が発生した。秋森望が元部下と職場で、性的な関係になるなんていうことは、通常であれば、絶対にありえない。そのことは、冷静沈着で切れ者の秋森課長が一番良く分かっている。そして、彼女はその異常事態は、幸輝が試した開発中の施策プログラムに原因があるということを、十分承知しているはずだ。幸輝は逃れられない。何かの重大なペナルティを受けることになるだろう。

 そのペナルティは解雇かもしれない。最悪の場合、逮捕されて、刑法上の裁きを受けるかもしれない。そうなれば、二十代にして、深見幸輝の社会生命は重大なダメージを受けるだろう。

 しかし、不思議なことに、今、幸輝の心中を率直に分析すると、心にあるのは倒れ込むような絶望感ではなかった。これが良くわからない。全て終わったかもしれないと思うと、妙に平穏な静謐に心が休まる。嬉しいのではない。なにか遠いところから映画の登場人物の運命を見ているような、透徹な視線で、今の自分を見ている自分に気がつく。

 解雇されるかもしれないということは、この会社から、会社の命令で弾き出されるということだ。もう、足を引きずって、胃痛をだましながら出社してこなくても済むのかもしれない。そう考えると、幸輝にとっては逮捕ですら、皮肉な救済として受け入れられそうだった。

(結局、シンペイのプログラムに、僕は命を助けられることになるのかもしれないな。……当初の計画とは、ずいぶん違う、アッサリとした展開になったけど。)

 デスクに向かいながらも、手を動かさず、ボンヤリと自問自答している幸輝は、不意に着信メールのベル音で、現実に引き戻された。発信者は、営業3課、秋森課長だった。メールを開こうとする幸輝。アイコンで、これが通常のメッセージメールではないことがわかった。スケジューラーと繋がる、会議提案メールだ。

『19:00−20:00 学習プログラムテストの効果取り消し 場所:2F 応接室209号室』

 承諾ボタンを押すと、幸輝のスケジューラーに登録される。デフォルト設定では予定の15分前、つまり18:45にはリマインドの通知が出るはずだ。GPS付の会社携帯とも同期化されている。テクノロジーでどこにいても補足される、デジタルプリズナー。現代日本のゾンビ。ブラック企業の社畜。それが深見幸輝だった。ここから解放されるなら、懲役刑でも受け入れて良いのかもしれない。

 スケジューラーをボンヤリ眺める幸輝。明日からのビッチリ隙間なく入ったスケジュールを全て削除して真っ白にしてやったら、痛快かもしれない。

 そう思いながら、残業時間19:00の、秋森課長との予定を見直す。幸輝。

「……あれ?」

 ほんの僅かな、違和感を覚えた。無視して、残された時間、書類と私物の整理でもしようかと思った幸輝だったが、かすかに心が違和感に震える。

「仕事は細部に命が宿るの。相手先が何を考えてこんな行動を取っているのか、営業は裏の裏まで読みなさいっ」

 厳しかった秋森課長のご指導の声が甦る。もう一度、幸輝は新しい予定の項目を見てみた。

『19:00−20:00 学習プログラムテストの効果取り消し』タイトルの右上に、鍵のマークがついていた。非公開の予定ということを示している。この予定は、会議提案者の秋森課長と、参加者として承諾した幸輝以外の社員が共有スケジューラーで確認しても、『非公開の予定』という表示が出て、中身がわからないということだ。

(もしかして、もしかして……。)

 万に一つの可能性にかけることにして、幸輝はシンペイからもらったプログラム実行ファイルを、起動させた。


 。。。


 コンコン。

「入りなさい」

 2階にある応接室の重厚なドアをノックすると、部屋の中からはいつもの落ち着いた課長の声が聞こえた。ドアを開けると、いつも通りの秋森課長が座っている。応接室のソファーは、5Fの打合せ部屋の背もたれ椅子よりも上等で、課長の体はレザーのシートに包まれるように沈み込んでいる。

「私が予定時刻に席に戻らなかったら、保安課に連絡を入れるように、今江に言ってあるの。変な気を起こさないようにね。一応、言っておきます」

 究文堂出版という会社は、扱っている商品のせいか、契約に問題があるのか、たまに顧客が激昂することがある。保安課が応接室に1分で駆けつけるということは、営業マンだった幸輝も良く知っていた。こうした時に来るのは屈強な若い保安員と決まっている。夜勤の高原さんという温厚でヨボヨボのオジイサンでは、絶対にないはずだ。

「……はい。ご心配のようなことは起きません。先ほどは本当に、申し訳ござ………」

 秋森望が手を上げて幸輝を制する。

「もう、部下の謝罪と言い訳は沢山。こちらから用件だけ伝えさせてもらえるかしら?」

 幸輝は口を閉じて頭を上げる。お辞儀も謝罪も受けとめる気がないようだ。

「まずは、さっきの実験学習。リンゴの英語名を解除するプログラムを見させてちょうだい。さっきから、私、ウィキペディアもSiriも和英辞典も、何度も見返して確認しているの。恥ずかしかったけれど、課の女の子にも聞いてみたわ。みんながリンゴはアップルだという。私も、頭のどこかでは、それが正しいってわかってるの。でもどうしても、頭の中で公式が正しく当てはまらない。アッポレだという自分の中の答えを、塗り替えることが出来ないの。検索してみたけれど、こんな強力なプログラム、論文すら出されていないわ」

 幸輝は俯き気味に話を聞く。秋森課長が話したがっている時に、腰を折ってはいけない。これまで体に染み込んだ、営業課でのルールだった。

「素人の貴方が、自分で組んだとは思えない。どこか第三者機関が開発したものだと思うのだけど、これは上手く取り扱えば、大きなビジネスチャンスになるわ。いえ、業界のパラダイムを塗り替えることになるプログラムだと思うの。……深見。このプログラムの出所を教えなさい。安全に私の管理下に、この試作プログラム自体と、今後の開発計画が移管された時点で、貴方をクビにすることなく、訴えることもなく、解放します」

「僕を、解放する?」

「そう。……きっと来月、一関の営業所に配置転換になるわ。貴方はそこで定年まで過ごす。路頭に迷うよりも、ずっとマシだと思うけれど、どうかしら?」

 ソファーの肘置きに肘を当てて、指でこめかみを触りながら、尋ねる秋森課長。その尋ね方は、いつものように、質問ではなくて一方的な通告のように聞こえた。美しい美貌。幸輝とは住む世界が違うのだと言い渡しているような、整いきった顔立ち。シャツは新しいものに着替えたのか、ボタンを縫い直したのか、綺麗に取り繕われていた。徹夜仕事の後で得意先を回ることもあるので、きっと予備の服を何着か職場に置いているのだろう。

「………答えを僕が決める前に、学習プログラムの効果を取り消しますか?」

 幸輝がPCを机に置いて、ヘッドホンを差し出そうとする。

「別にリンゴの英語訳を間違えるくらい、身の安全と比べたら、大したことないわ。……あなたの開発ソースの連絡先を、今すぐ教えなさい。通報されたくなかったらね」

 秋森課長はさっきとは要求の順序を変えてきた。彼女は本気だ。欲しいものを完全に掌中に収めるまでは、どんな油断も見せるつもりはないらしい。

「開発者の、性格がとても複雑だから、僕が間に入って、取り持つしか、ないと思います」

 幸輝はため息をつきながら、胸ポケットからプライベートのスマホを取り出す。電話帳を検索して、自分でコールボタンを押そうとすると、課長に止められる。

「電話をこちらに渡しなさい。私が直接、話します。今の貴方の何を、私が信用できると思うの?」

 秋森望は立ち上がって、俯いた幸輝の近くまでゆっくりと歩いてくる。そして優雅な手つきで携帯電話を幸輝から奪い取ると、アドレスを確認した。『名無しの開発者』という名前をみて、クスリと小さく笑うと、コールボタンを押して、スマホを耳元に近づける。留守番電話のメッセージと、単調なメロディが流れる。そして、ほくそ笑むような表情を保ったまま……、
 秋森望課長は、動きを止めた。



 俯いたままだった幸輝が、ゆっくりと頭を上げて、口を開いた。

「課長。今日、貴方が深層意識学習を受けるのは3回目です。1回目は映像とヘッドホンのサラウンド音源。2回目はヘッドホンのステレオ再生だけで、深層意識を開口させました。3回目は、片耳からの電話越しの電子信号音でも、トランス状態に没入出来るみたいですね」

 表情はあまり変えず、両目の瞼だけが半分閉じたような、虚ろな顔になる秋森望。携帯電話に耳を傾ける姿勢のままで、動きを止めて、立ち尽くしていた。


 。。。


 夜の応接室。さすがにこの時間帯にクライアントや提携会社が商談をしているということはなく、2Fの応接フロアはガランとしている。209号応接室だけが灯りをつけて作業を行っていた。ソファーには力なく深々と座っている、営業3課の秋森課長。ヘッドホンをつけて軽音楽と電子音を聞きながら、遠い目を前に向けていた。ヘッドホンが繋がっているのは、秋森の斜め前に座る、開発課の深見幸輝が機械的にキーボードを叩いているノートPC。現在彼らは、深層意識学習プログラムの設定と学習をリアルタイムに同時並行で進めていた。

『秋森望は深層意識学習中でも、深見幸輝からの質問には回答することが出来る。全て正直に、包み隠さず回答をする。』

 入力をして、20秒ほど待つ。幸輝は乾いた唇を開いて、声を出す。

「……課長、この部屋に、僕が入る前に、何か特別な仕掛けをしましたか?」

 ぼんやりと前を眺めていた秋森課長が、寝言を言うような様子で、気だるそうに答える。

「棚に……、ビデオカメラ。………机の下に、ボイスレコーダー………」

 言われて幸輝が戸棚を見上げると、扉がわずかに開いていた。背伸びして戸棚を開けると、小型のビデオカメラがまだ録画中だった。角度から見て、幸輝をというよりも、秋森課長自身を撮っていたようだ。机の下には、養生テープで張り付けられた、会議用のボイスレコーダーが録音中の状態だった。どちらも、個々のデバイスは録画、録音をしているが、どこかに送信しているような様子はない。それを確認して、幸輝はこれらの機器の電源を切った。

「僕、会議の開催提案を見て、非公開のステータスだったことが、妙に気になったんです。だって、いつも課長はフロアで衆人環視の中で僕らを叱責してたでしょ。人事に絡む微妙な話だって、堂々と公開スケジュールにして入れていた。いつも日の当たる道を歩いてきたエリートって、隠しだてするような案件が何もないみたいですね。むしろ注目を集めるように大っぴらに仕事をしていた。この打合せだって、僕を叱責して懲罰を与えるなら、非公開にする必要はありませんでしたよね。フロアで大声で喧伝しながら怒鳴ってたっておかしくなかった」

 ぼんやりと、視点の定まらない目で、秋森課長は壁を見ていた。何か言おうとして、唇を少し開くが、何も喋らない。

「課長はきっと、理由があって内密にこの件を扱おうとしているのだということが、わかりました。こういうことに気がつくようになったのは、長年のご指導のおかげです。……理由があるとしたら2つに1つ。僕を破滅させないように、内々に厳重注意をして、それで収めようとしているのか、あるいは、僕のことなんかどうでもいいけれど、自分の成功のために、この試作品を何かに利用しようとしているのか……」

 課長の唇の小刻みな動きが止まる。幸輝は、さっき個人用の携帯を取り出した、ジャケットの内ポケットから、もう一つ、長い紙の包みを取り出した。

「もし、課長が前者の考えで、これを内密に厳重注意で収めようとしてくれているなら、僕は逆に、今日のことを全て会社に報告して、本日付で退職しようと思っていました。僕がやったことは、出来心ですが、女性の尊厳を傷つける、不埒な行動でしたから。僕は、暴行犯と言われても仕方がないですから」

 幸輝はいつの間にか、ずいぶんと雄弁になっている自分に気がつく、秋森はおろか、これまでに接したどの上司に対しても、こんなに沢山語ったことはなかった。

「でも、もし課長が、さっきの出来事なんて何でもない、訴えるまでもないことで、それよりも自分の野心の方が重要だと思っているなら、課長は僕のことを暴行魔とも、1人のオトコだとも思っていないということですよね。キャリアの中でちょっと躓きかけた、小さな石ころとしか見ていない。そういうことですよね? 道具でしかない僕なんかには、自分の尊厳を傷つけられることすらありえない。そうではありませんか?」

 こんな強い姿勢で、上司に向かったことはなかった。それでも幸輝は自分の中の堰が切れてしまったかのように、訊くべきでないことも、質問していた。

「そう……。思おうと、自分で、……決めたの。……あんな、気分に、されたことが、……今までなかった、から」

「……どんな気分だったんですか?」

「……すごく……いやらしい……気持ち。……体が、熱くて、……欲しくなる、気持ち」

「自分が、僕を求めていたことが、後から許せなくなった。僕みたいな落ちこぼれを、美人で有能な秋森さんが、求めていたなんて、恥ずかしかった。そうですか?」

「……そ……う……、です」

 深見は両目を閉じて、壁に寄りかかった。額を壁にぶつけた。わかっていたことだ。しかし、本人に本心を伝えられると、はっきりと死刑宣告をされたような気分がする。幸輝は一瞬、自分がなんでこんなことをしているのかすら、良くわからなくなった。

「ふふふっ、ふふふふ……」

 気がつくと、小さな笑い声が口から洩れていた。自分で自分を笑っているのだった。元のソファーに着席した深見は、機械的にキーボードを叩き始める。

「秋森課長のお望み通り、このプログラムは試作品には留めずに、必ず社内外で大々的に活用してもらえるようにします。僕たちの共同プロジェクトにしましょう。……ただ、秋森さんは、このプログラムの試行と改善のための、道具になってもらいます。恥ずかしい思いは、さっきの出来事の比ではないほど、沢山して頂くことになりますが、仕事のためです。ここは私情を挟むのはやめましょうか」

 カチャカチャと、キーボードが打ち込まれていく。

『秋森望は、深見幸輝の深層意識学習プログラムの開発を邪魔しない。プロジェクトの進行には必ず協力する。深見幸輝の不利益となるような行動はとらない。プロジェクトの機密は厳守する。』

 キーボードに激しく打ち込んでいたかと思うと、ため息をついて、手を止めた幸輝が、上司の横顔を見る。ボーっと前を見ている今も、惚れ惚れするほど美しい、整った顔。そして黒くきらめく髪がビジネススーツの肩にかかる様は、知性と業務に邁進する意志の強さをオーラとして醸し出していた。

「……もし、課長が、僕のことを心底軽蔑して、徹底的にみくびっていたりしなかったら、留守番電話の録音なんていう初歩的なトリックにひっかかることなんて、絶対になかったんでしょうね」

 課長の、頬にかかった一筋の髪を、幸輝は指てすくって、耳の後ろにかけてあげる。上半身を近づけて、白い頬に、幸輝は軽くキスをした。なぜそうしたのかは、自分でもわからなかった。


 。。。


「貴方の貧弱な記憶力でも覚えられるように、もう一度だけ、言っておきます。このプロジェクトは絶対に極秘に進めるの。プロジェクトの内部メンバー以外は、社員であっても、上司であっても他言は無用よ。このプログラムが原因と思われるトラブルが社内外で起きた場合は、私たちそれぞれの職能と権限で出来る範囲で、揉み消したり、誤魔化したりしておくこと。ここまでは、理解出来た?」

 課長が冷徹に言い渡す指示を、幸輝は懸命に神妙な顔つきを作って聞き入れていた。

「それから、貴方の処遇のことだけれど、………あら、ちょっと待って」

 課長の会社携帯のアラームが鳴る。光と振動で、スケジューラーの通知が届いていることが、秋森課長と深見に伝わる。

「え? ……もう、こんな時間? いけないっ。スケジュール通りに仕事が進まないっ」

 携帯の画面を見て、慌て始める秋森課長。シックブラックのスーツジャケットに手をかけて左腕を抜く。背中をずらしながら、右腕も抜いていく。光沢のある白のシャツが大きく幸輝の目に触れた。課長は一度だけ幸輝の顔を見て、何かを確かめるかのように頷くと、胸元のボタンに手をかけ、一つ一つ、外していく。今度は発情も混乱もしていない。冷静そのものの秋森望の行動に見えた。

「課長。何をなさっているんですか? 僕、ここにいますが」

「予定をこなしているだけです。打合せ前後の上司のスケジュールくらい、事前に確認しておくものよ」

 課長は相変わらず上から目線でモノを言いつつ、シャツのボタンを、へその辺りまで外していく。もう一度、淡いヴァイオレット色のブラジャーが、開放されたシャツの襟元から覗く。

 会社携帯で、営業3課秋森課長のスケジュールを閲覧する。

『18:35−18:45 服を脱ぎ、上半身裸になって、深見幸輝に乳首をチェックさせる』

 と入っている。これは、深見幸輝が入力したスケジュールだ。今しがた、課長からスケジューラーの管理アカウントとパスワードを聞き出した。今の幸輝のアカウントからは、秋森望のスケジューラーに、本人同様、承諾を待たずに直接スケジュールを入力することが出来る。彼女が元から入れていたスケジュールをキャンセルしたり別の時間帯に動かすことも自由だ。そして彼女の深層意識には、あるステートメントを学習させている。

『スケジューラーの表示する通りに、その日の予定を遂行する。その中身の内容、是非を問わない』

 とプログラムした。このステートメントは統合プログラムファイルを再生させ、特殊な電気信号の組み合わせを、耳では認識出来ない音域で脳に届かせたため、彼女の深層心理に深く刷り込まれている。ここまでが、シンペイのプログラムの学習効果に対する、幸輝の仮説。あとは、検証するだけだった。

「課長、スケジューラーが表示してるからって、その通りに行動しなければならないんですか? もしこんな予定入ってなかったら、僕に肌を晒したりしますか?」

 敢えて質問をする。秋森望の手が止まり、一瞬彼女の表情が曇る。

「そんなこと、するわけないでしょう……。仕事だから、計画通り、遂行するだけよ。……個々の判断や評価は、担当者レベルですべきじゃないわ。今は、予定をこなすだけのことよ」

 白いシャツを引っ張り上げる秋森課長。裾がタイトスカートから出て、シャツは肩からぶら下がっているだけの状態になる。

「でも、恥ずかしくないんですか? 異性の僕の前で、スケジュールに入っているっていうだけで、オッパイを見せてくれるんですか? ……ずいぶん、その、なんていうか、軽いんですね。……いや、安いというか」

 また秋森課長の手が止まる。その表情は、明らかに不快感を露わにしていた。

「何とでも言いなさい。‥今は勤務中なの。私は、仕事に私情を挟まない主義なの。ほら、見なさいよ。安い女の裸とでも、何とでも言いなさい」

 課長は顔を赤くしながら、意を決してシャツを脱ぎ払う。細い肩から光沢あるシャツが抜け、白い肌と形の良さそうで重量感のある胸が、下着に守られながら露出を増した。さっきは谷間を見て、ブラの上から触った胸。今回は全部、この目で、見ることが出来そうだ。そう思って、幸輝が思わず、生唾を飲み込む。まるで伝染したかのように、すぐ後で秋森課長の喉も、唾を飲む音をさせた。

「私の、……乳首を……、チェックして」

 耳まで赤くさせながら、秋森望が元部下の幸輝に、ありえないようなお願いを口する。声がわずかにうわずって震えていた。今すぐ飛びつきたいような気もしたが、幸輝は我慢して、もう少し仮説の検証を補強することにした。

「い……嫌です。そんなことをして、後から、セクハラだとか、訴えるとか言われたら、僕の立場がありません」

「これは、業務命令です。私の乳首を、確認しなさい」

「命令って、……変な命令でも、従わなければならないんですか?」

「わ、私が、こうして、頼んでいるのっ。深見は、私の言うことを聞けないのっ?」

 切羽詰まったような表情で、秋森望は両腕を背中に回し、プチっと音をさせる。ホックの外れたブラジャーはストラップも肩から抜け落ち、やがて望の腕の動きに合わせるようにして、重力に負けてパカッと裏返りながら下に落ちた。反射的に両腕を、体の前でクロスさせた望は、覚悟を決めるかのように、おずおずと腕を下ろして体の横に添えた。

 大ぶりの秋森望の乳房は、重力と若さが綱引きをしている最中のような状態だった。そのボリュームのせいか、少し釣り鐘型に垂れそうでもある。しかし、体をしっかり鍛えているらしい上半身は、服の上からはわからなかった、柔らかい筋肉が必要な部分に適度についていて、大きいバストも張りをもって重力に抗しているようにも見える。そして真ん中にはやや小ぶりな乳輪と、ツンと上向いた乳首があって、自分はまだ若いと主張しているようでもある。ブラジャーからこぼれ出た、この二つの肉の隆起が、無防備なようでも秋森望の女性性と気の強さ。私生活や自分の人生もきちんとコントロールしたいという本人の性格を主張しているように思えた。

 目が離せなくなりそうな、ダイナミックで綺麗な胸だったが、幸輝は断腸の思いで視線を反らす。PCに向かって作業を始めるような素振りをしてみせた。

「少し、考える時間が欲しいです。その体勢で5分ほど、お待ち頂けますか?」

「ごっ……5分?」

 秋森の目が泳いでいる。明らかに狼狽していた。女性の心は複雑だ、と幸輝は痛感していた。幸輝が曝け出された課長の胸に喜び勇んで飛びついていたら、きっと課長は嫌悪感を持って迎え入れたのだろう。今は、胸を出しても拒絶されたことで、密かにプライドが傷ついている様子だ。きっと正解はないのだろう。だから幸輝も、好き勝手に行動をさせてもらうことにしている。

「いつも課長には、ちゃんと考えて動け、と言われてきましたし……」

 秋森望が、上半身裸の状態で、なりふり構わず、幸輝の胸に飛び込んできた。

「お願いっ。深見。もう、間に合わないっ。スケジュール通りに進まないと、困るのっ。私の乳首っ。ほらっ。乳首を見て。触ってっ。お願いだからっ」

 課長が少し女を出したような声で、懇願してくる。そして幸輝の顔に、自分の胸を押しつけてくる。この会社の社員だったら誰もが、目も耳も、顔の感触も、現実とは受け止められないであろうほどの、有り得ない状況だった。

「ふぅ……。仕方がないです。上司命令に従いますね」

 じっくりと時間をかけて、昼の打合せで見逃した、秋森望の乳首を直視する。肌色から、やや濃いめの桃色に変化する境界線。ツンと上を向いた筒状の部分。先端のすぼんだような小さな穴。上から横から下から眺めた後で、指の腹で横から押してみる。指を離すと、プルっと元の方向を向く。指で摘まむようにして、こねこねとさすってみる。不本意なのかもしれないが、プクッと起き上がってきた。さっきまでよりも伸びている。

「感度は、悪くなさそうですね」

「ん……そう……」

 課長は顔を限界まで左側に背けて、幸輝の評価などには興味がないといった態度を示そうとする。幸輝は悪戯に両乳首を人差し指の爪でパチンと弾いてみた。

「いっ……つ……。痛いわよっ」

「これが、僕流のチェックなんです。やめましょうか」

 課長が悔しそうな顔を、幸輝に向ける。

「……続けて……。まだ6分あるから」

「痛かったのは、ここですか?」

 幸輝がおもむろに乳首に吸いついて、舌で弄りながら吸い上げる。望は声が出そうになるのを懸命に堪えながら天井を仰いで、顎を震わせる。

「んっ……。んんっ……」

「ちょっとだけ、しょっぱいです。汗の味かな?」

「……それは、一日、仕事をしてたから……」

「お疲れ様です。働くオンナの乳首ですね」

 課長が顔を赤らめたまま、何か言おうとしたその時、ヴヴヴヴヴヴッと振動音が響いた。幸輝も予期していないノイズ。2人が机の上を見ると、望が机に置いたジャケットが、机の上に敷かれたガラス板と振動しているようだった。幸輝が手を伸ばす。

「課長。……今江係長からお電話です」

「出ます……。まだ時間になっていないから、貴方は今のまま、チェックを続けて」

 少し冷静さを取り戻した声で、望が手を出す。用心深く携帯を渡す幸輝。望は携帯を受け取ると、上半身裸で、両胸を元部下に弄ばれながら、何事もない様子を装って電話に出た。

「はい、秋森です……。……うん。ちょっとなら、良いわよ。……こちらは、えぇ、何も問題ないわ。……貴方も明日の資料が出来上がったら、私にメールで送ってから、帰っていいわよ。……そう……。岩本課長にはあとで、私からお電話を返すようにするわ」

 平然と業務の電話に応対する秋森課長。やはり、この人は、相当な役者だ。幸輝はわざと強めに右の乳首を吸い上げて、チュパっと大きな音を立ててやった。望の顔が少し切羽詰まったようになって、肘で幸輝の頭を抱えるように抑え込む。胸はより強く押しつけられてきた。

「……うん……。そう……。お疲れ様。でも、先方は、針生室長と係長しか来られなかったっていうことね。あとで、岩本課長にもフォローのメールを送っておいた方がいいと思うわ……ふんっ……。……針生室長は、まだ着任されたばかりで、あくまでもキーマンは……うっ………岩……本……さんだから。……えぇ。なんでもないわ」

 誤魔化しながら、電話応対を終えて、携帯を耳から話す秋森課長。深いため息をついて、両肩を下ろした。

「偉い人も、スケジュールに追われているんだから、大変ですね」

 幸輝が少し席を離れると、秋森課長はブラジャーを拾い上げて、幸輝に背を向けて下着を着け始める。急いで服を着ようとしているのが、動きからも伝わってきた。

「課長、着ながらで良いですから、先ほどの学習効果の確認をさせてください。……リンゴは英語でなんと言いますか?」

 背を向けて、シャツのボタンを留めていた望が、手を止めて、1つ大きめのため息をつく。

「アップルよ。……これで満足?」

「ありがとうございます。もう2点だけ質問を。先ほどの課長が使われていた携帯電話は課長の持ち物ですか?」

 一瞬動きを止めた課長は、服を着ながら、幸輝の方を振り返る。

「会社所有の備品よ。管理して、使っているのが私というだけ。プライベートの携帯は別で持っている。深見だってそうでしょう?」

「ありがとうございます。最後の質問です。秋森望さんの肉体は、誰のものですか」

 さっきよりも長い間があく。眉をひそめて、黒目だけ左右に動かした望が、ようやく口を開いた。

「私の体は、……深見幸輝の……所有物……よ。私は、管理、運用、しているだけ」

 幸輝はわざと、オヤッという顔をしてみせる。

「そうでしたっけ? ……課長の体なんだから、課長のものではないんですか?」

 口を開いた後で、パクパクと無音の声を出した後で、もう一度、秋森課長は表情を引き締める。幸輝の方に体を向けて、自分に言い聞かせるように、ゆっくりと、一言、一言、噛みしめながら、宣言した。

「私の……体は、‥貴方の……もの。私は、貴方の許可を得て、……動かしている……だけ。これは、貴方の、所有物。……わかった?」

 幸輝は右手の拳でガッツポーズを作るのを、ついに隠せなかった。

「そうでしたか。僕の所有物を、ちゃんとこの目で確認するのを忘れていました。課長、申し訳ないですが、着ているものを全部脱いでもらって、この机の上に立ってもらっていいですか?」

 怒ったような、泣きそうな、驚いたような、絶望するような、恥じらうような、色んな表情の変化を見せた後で、最後に秋森望は、固い笑顔を作ってみせる。こんなこと、何でもないといった、デキル女の余裕の表情を取り繕いながら、震える声で、ついに答えた。

「も、もちろん、良いわよ。‥貴方の、当然の、権利ですから……。でも、早く済ませてもらえると、助かるわ。この体が風邪をひいたら、きっと、管理者の私まで、監督責任を問われると思うから」

 ツンッとした態度を変えずに、せっかく着かけたシャツのボタンをまた一つずつ外していく。シャツを脱いで、スカートのベルトのバックルを外して、ベルトを抜いてホックも外す。スカートがスルスル落ちていくと、おヘソの下まで守っていた、黒いパンティストッキングに両手の指を入れて、クルクルと巻くようにつま先まで下ろしていく。ヴァイオレット色のレースをあしらった、上下の下着。その下着だけの無防備な姿になってから、課長は応接室の重厚な机に足をのせて、上にのぼった。そこまでの工程の間、途中、何度か動きを止めて、首を傾げる秋森課長。しかしその中断の頻度は、次第に少なくなっていった。

 高い場所で、ブラジャーを再び外して、豊満な胸を露出させる秋森望。彼女が管理、運用しているだけのものを、本来の所有者に確認してもらっているだけのことだから、これは当たり前のことだと、深層心理でも学んだ通りに考えて実行している。しかし、彼女の心は依然として彼女のものであり、異性に職場で裸を見られているという恥ずかしさ、無力感、屈辱感は当然のように彼女自身を苛んでいる。それでも脳内に組み込まれてしまったプログラムは、どれだけ彼女の意志が強くても、自分で書き換えることは出来ないようだ。小刻みに震える手で、ショーツのゴムに指をかけた望は、唇を噛みながらショーツを長い脚から下ろして、両足を抜き取った。全裸の課長は両手を体の横に付けて、気をつけ、の姿勢になる。幸輝の視線が体中を舐め回していることを意識すると、思わず両目を閉じて、羞恥心の波に耐えた。

 均整のとれたプロポーション。きちんとくびれがありながら、尻から太腿にかけてしっかりと肉のついた、大人の体の曲線。幸輝は見ていて涎を垂らしそうになった。これほどのゴージャスで美しい女体を持った人が、ほとんど男を寄せつけずに仕事に邁進していることが、大きな損失であるように思われた。このまま、放ったらかしにしておく手はない。特に、幸輝の「所有物」となった今となっては。

「課長、机から降りて、ソファーの前に立って、ソファーの背もたれに両手をついて、こっちにケツを突き出してよ」

「ケッ……ツって……。失礼な言い方をしないでっ。私は貴方の、元上司よ」

 顔色を変えて怒り出す秋森課長。しかし裸のまま、幸輝の指示には従って動く。ムチっと肉感的なヒップを、幸輝の腰のあたりにグッと突き出してきた。

「僕の所有物の呼び方です。僕が決めてもいいでしょ。ケツは、ケツです。デカケツ……。これは、望のやらしいデカケツ。駄目ですか?」

 課長の尻の右の山を手でペチペチと叩きながら、問い詰める幸輝。秋森望の尻肉は、幸輝の手のひらを離す瞬間にこちらに張りついてくるような、しっとりとした質感があった。

「さ……。……最終的には、どう呼ぼうと、どう扱おうと、貴方の勝手よ。だけど、あくまでふだん管理、運用している私には、きちんと敬意を払って行動しなさいっ。体は貴方のもでも。私の人格は、あくまでもこの会社の課長職。貴方の上位者なんですっ」

「足をもっと開いて、ぐっと腰を入れてお尻を突き出して。職場でバックの体勢でセックスしますよ。僕の所有物に限定した話ですが」

 よりいっそう。お尻が突き出されてくる。両足は限界まで開いて、つま先立ちになっていた。

「それは貴方の勝手よ。私の管理、運用に問題ない限り、これは、貴方の、所有者としての当然の権利です」

 ベルトを緩め、ズボンとトランクスを一気に下ろしながら、幸輝がもう片方の手で望の秘部に、太腿の間から無遠慮に触れる。アンダーヘアを掻き分け、割れ目に沿って指を這わせると、少しだけ口が緩んだような感触がある。指を入れると、開かれた両腿がビクンと跳ねた。その反応を楽しむように指を前後左右、上下、そして穴の入り口付近で回転させるように動かす。膣の内部が明らかに粘着性の液体で潤ってきた。

「オツユを出しているのは肉体だから、僕の所有物か。……でも、感じているとしたら、秋森課長の人格が感じているんですかね? ……ここらへんの線引きが、難しいですね」

「あっ、体を、好き勝手にされて、……クリアに、線引きなんて、はうっ……出来るわけがないでしょう」

 全裸の秋森課長は両足を開けっぴろげて、幸輝のモノを誘うようにヴァギナから愛液を垂らしている。昼過ぎの発情の余韻が残っているからだろうか? かの秋森望としては若干、ガードが低すぎるような気もする。もしかすると、自分の所有物でないと「学習」したことで、彼女の精神の鉄壁のコントロールから、肉体が逸脱しようとしているのかもしれない。

「じゃぁ、体の反応が心に響いてくる、この性的快感は、グレーゾーンということにしておきましょう。ほら」

「あぁあああんっ」

 幸輝のペニスを押し入れると、望が髪を振り乱してよがる。着実にインサート出来たことを確認しながら、幸輝はゆっくりとグラインドを始める。結合部分をじっくり見下ろしながら、幸輝がモノを出し入れして、望の膣の内壁との摩擦が与える快感を味わう。両手を前に回して望のオッパイを握りしめる。

「いっ、痛いっ」

「誰のオッパイが痛いんですか?」

 まだしつこく確認する。

「貴方、所有のオッパイなんだけどっ……、痛いのは、私だから……はぁああっ……、ズルいっ。……こんなの、ズルいっ」

 望の声は、弱々しい。抗議しているようだが、いつもの迫力がない。肉体の所有権を無くすと、人間の威厳と自信は、ずいぶんと侵食されるようだった。所有者にハメられて、抵抗すら出来ない時などは、特に。

「僕がズルいですか? では、下半身の方はどうなってるんです? 僕のチンコを、僕が所有権を持つオマ〇コに入れているだけ。全て、僕の勝手。でも、こうして擦り合わせているだけで、関係ない課長までが気持ち良くなっていませんか? 痛みはズルいのに、快感にはタダ乗りですか?」

「あぁああ、ひあぁああああっ」

「ズルいのは、課長です。謝ってください」

「あぁああんっ……ご、ごめんなさいっ……」

「何について、謝っているんです?」

「きっ、気持ち良くて、ごめんなさいっ。関係ないのに感じていて……。許してっ。……はぁああっ、ああああんっ」

 確かに秋森望は、先ほど深層意識学習中に告白したように、オンナとして強く発情するという状態自体に、あまり慣れていないようだ。男性経験自体も少ないのかもしれない。頭の良い彼女が、あっさりと、今、気持ち良くなっていることを白状した。そして幸輝に、快感を貪っていることを謝っている。完全に、深層意識学習プログラムと幸輝の企みに、陥落しようとしている。

「い……、イクッ……止めて、……イッちゃうっ」

「いいじゃないですか。僕と一緒に行きましょう」

「駄目っ。会社で、イッちゃう……なんて………絶対にぃいいいっ」

「所有者が、秋森望の体のオルガスムスを、求めているんですよ」

 幸輝のこの一言を聞いて、振り返った望の顔が変化する。目が大きく開かれて、まるで何かを諦めたかのように、背中の力が一瞬抜ける。直後に彼女の爪先から顎先まで、強い緊張と痙攣が走る。膣壁がググーッと圧力を上げて、幸輝のペニスを締め上げる。次に力を抜いた時には、秋森望はソファーに全身を預けて倒れ込んだ。受け身も全く取ろうとしない。糸の切れた操り人形のように、無力に望は沈み込んだ。股間からは幸輝の精液と望の愛液の混合物がダラダラと絶え間なく垂れ続けている。

 裸で黒いレザーの表皮に身を委ねる秋森課長。その寝顔からは普段の険は消えているように見えた。寝顔は誰でも無防備だ。幸輝は彼女のジャケットを体にかけてやった。

 横顔にかかって、涙や涎で頬に張りついていた髪の毛を、指ですくって耳の後ろに整えてあげる。秋森望の横顔は、女神の彫像のように美しい。その体を、本人公認で「所有」させてもらった。そう思うと、幸輝の胸がスッと軽くなる。まるで長年の憑き物が落ちていくように、自分の元上司を、これまでとは違う感情で見ることが出来ていた。

 これは、幸輝が壊してしまいたいものとは違う。それでは、このまま手放してしまって良いものだろうか? 幸輝が精一杯、自分の正直な気持ちを手探りで掘り起こす。

 このまま、手放してしまうのも、あまりにももったいない。もうしばらく、遊ばせてもらいたい。楽しませてもらいたい。そう思っていた。これは、仕事から逃れたいという思い以外に、久しぶりに幸輝が感じた、強い欲求だった。今の幸輝は、ワーキングデッドとは少し違う存在になってしまっていた。それが良いことなのかどうかは、まだ、わからない。

「まずは、ゆっくり休んでください。課長。……明日から、仕事と学習と実践と、前よりもう少しだけ、忙しい毎日になりますよ」

 
 


 

 

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