BLACK DESIRE


 

 



4.


 翌日、僕はいろいろ思うところが有ってなかなか寝付けなかったにも関わらず、幎に起こされるより前に目が覚めた。窓のカーテン越しの屋外から全く光が射しておらず、まだ暗闇と思われたのでもう1眠りしようかと寝返りを打ったが、唐突に昨日した宮子との約束を思い出して目がぱちりと開く。

(今……何時だ?)

 ベッドサイドに置いてある携帯を手に取ろうとして空振り、そう言えばまだ返してもらっていない事も思い出した。軽く舌打ちし、どうしようかと一瞬悩む。だが、すぐに時間を気にする必要もないのだと思い当たった。宮子は僕が何時に学校に向かおうが、待ち合わせに間に合うタイミングで行動を起こす事が出来るのだから。
 そんな事を考えているうちにだんだんと目が冴えてきた。こんな風にふと目を覚ましてしまうのも何かの予兆だと思うことにし、体を起こす。布団が肩から落ちて、すうっと涼しい空気が半袖シャツだけの上半身を潜り抜けた。ううむ、朝方はもうこの格好じゃ寒いくらいだな。

 顔を洗おうと部屋の扉を開けるとたったっと珍しく慌てた様子で幎がスカートをちょっと持ち上げながら駆けてきた。僕が起きた気配を感じて作業を中断してきたのかな? 袖を腕まくりして怪我したままの右腕の肌が剥き出しになっている。

「ああ、いいからいいから。今日は僕、朝食はとらないでこのまま学校に行くからさ」

 幎は居住まいを整えてこくりと頷くと、「では、制服と鞄をすぐお持ちします」とクルリと振り返ってまた小走りに戻っていった。一応、昨日のうちに「起きたらすぐ学校に行く」とは言ってたけどこんなに早いとは思っていなかったんだろう。僕もこんなに早く目が覚めるとは思わなかったし。
 魔力の心臓のお陰で僕は無尽蔵な超人的体力を持っているから、少々の寝不足程度でも体調を壊すことは無い。例外は魔力が枯渇して十分に身体にそれが行き渡らなくなった時だが、ここのところはエアリアや黒猫のメッシュ達の協力もあって十分な量を確保している。ゲームじゃないけど、ほんの数時間眠るだけで体力は全快だ。顔を洗うとしゃっきり気力も湧いてきた。これなら宮子と対峙してまたぞろ難しい話になっても頭が回ってくれるだろう。
 部屋に戻ると幎が用意してくれた星漣の制服がぴっちりとアイロンがかかった状態でハンガーに掛けてある。手早く身に付け、階下に降りると鞄を手にした幎が玄関で待っていた。

「いってらっしゃいませ、郁太さま」
「うん」

 鞄を受け取り、恭しく礼をする幎に見送られて屋敷を出た。まだ空は真っ暗で、これは早朝と言うより深夜にカテゴライズされるべき時間帯なのではないかと若干不安になる。だが、宮子の言葉を信じるならこれで問題無いはず。迷いを振り切り、星漣への通学路を辿った。

 歩道橋を渡り、公園を突っ切って大通りに出て「公民館前」バス停の交差点で道を曲がる。やがて星漣学園の威容が山の上の木立の隙間から覗き始める頃、いよいよ道は正門まで続くノンストップの登り道がスタートする。その坂道の開始点となる道路の分岐点の、「←至 星漣女学園」の道案内表示の下に白い星漣の夏服を身につけた少女が佇んでいた。宮子だ。ちゃんと約束通りに僕に合わせて来ていたんだ。
 僕が少し小走りになって近寄ると、宮子は微笑んで「おはようございます」と挨拶した。両手でいつもよりも大きくかさばる四角い形の鞄を下げている。

「おはよう、安芸島さん。もう来てたんだ」
「私も今来たところです」
「それ、何?」
「一緒に朝食をとろうと思って、サンドイッチを用意しました」

 僕が「それ、持つよ」と手を差し出すと宮子は「気になさらずに」と首を振った。

「重くない?」
「では、エスコートしてもらえますか」

 と、宮子は僕に向かって片手を差し出す。「え?」と戸惑いながらその手を取ろうとすると、笑いながら宮子は「やっぱりこっちが良いです」とその手を持ち替えた。

「さ、行きましょう」
「あ、ちょっと!?」

 この手の持ち方じゃ、エスコートと言うより単に手を繋いだだけなんじゃ……! 宮子の方は僕の狼狽にまったく取り合わず、手を握ったまますたすたと歩き始めていた。それに引っ張られるように着いていく僕。人目が無いとは言え、同級生の女の子と手を繋いで学校へ向かうなんて恥ずかし過ぎるぞ……!
 軽く手を引いて宮子の意識をこちらに寄せる。「どうかしましたか?」と横顔を見せる彼女に、僕はぶんぶんと繋がった手を振った。

「これじゃエスコートじゃないでしょ! 手を繋いで登校なんておかしいよ!」
「そうですか?」
「僕と安芸島さん、そんなに仲のいい関係じゃないでしょう?」
「私と達巳君の仲……ですか?」

 首を傾げながらも、手を離さずそのまま坂道を上り続ける宮子。

「達巳君は、私たちの関係をどう捉えています?」
「はあ?」
「同じ学校の同級生というだけですか?」
「そりゃ……生徒会長とヒラ役員?」
「主従関係だと思っている?」
「いや……秘密を分かち合った仲、かなぁ」
「共犯者ですね」

 うーん、それも違うなぁ。宮子の方には答えがあるのか、しっかり握られた手は正解するまで解放してくれそうもない。僕は藍色から紅色へとグラデーションのかかった東の空を見ながら首を捻った。

「共犯って言うと違うな。僕の方は、君の過去には興味無しで見て見ぬ振りをするだけだし」
「それは私も同じですよ。正直、那由美さんがどうなろうと興味はありません」
「冷たいね。同じ学校の生徒だったんでしょう」
「言い方を変えましょうか」

 宮子は僕の顔を見つめ、微笑みを浮かべた。

「居なくなった那由美さんより、目の前にいる達巳君の方が私にとっては重要です。少なくとも、達巳君にはこうして手を触れることができるのですから」
「僕ってそんなに大事? むしろ居ない方が学校の平穏には良いでしょ」
「達巳君が女の子で、あなたの力を使わずに星漣に居てくれたら最も良かったんですけど」
「無理な相談だ」
「ですね」

 坂道を2人で辿って行くと、途中の大きなカーブで東側の空が一望できる地点がある。そこで宮子は不意に足を止め、僕はその隣に並んで立ち止まって彼女の方を向いた。

「どうしたの?」
「もうすぐ朝日が昇ります」

 言葉通り、視界の中の空は彼方の稜線と接する辺りで薄紅色の輝きを増しつつあった。

「ここで日の出を見るの?」
「達巳君は見たいですか?」
「別に、今日見る必要性は感じないけど」
「そうですね。元旦の方が適してると思います」

 そう言いながら、宮子は動き出そうとしない。

「いつも早起きすれば、毎日だって日の出を見ることは出来るでしょう。昨日と同じ太陽が、今日もまた昇ります。明日だって、間違いなくそうです。だけど、昨日の太陽を今日見ることはできませんし、今日の日の出を、明日見ることもできません」
「そうだねぇ。明日は雨かもしれないしね」
「雨の日が有るから、なおさら太陽の光が恋しくなる事もあるでしょうね」

 僕の軽い口調に答え、宮子はこっちを向いた。横顔に街灯とは違う暖かい光が射し込み、ほんの少しだけ彼女の表情をその色に変えていた。

「毎日同じ様に日は昇ります。だけど、今日の日の出を見ることができるのはたった一回きりなんです……。私の『記憶』も同じなんですよ、達巳君。知っていても、何度も同じ事を追体験していても、それでもその瞬間の価値はかけがえのないものです。いえ、雨の日が続く事があるのを知っているからこそ、晴れた日の朝日を大切に心に残したくなる事もあるのでしょう」
「……今、この瞬間は安芸島さんにとってはかけがえのない価値が有るの?」
「もちろんですよ」

 そう言い切ると宮子は軽く手を引いてまた歩き出した。黙ってそれに着いていく。前方の上り下りの道の境目からさらに山の上に延びるマリア坂へと続く分かれ道が見えてきた。そこに向かって歩を進めながら、宮子は前を向いたままで言葉を続けた。

「……昨夜も伝えましたが、達巳君には2学期の初頭にこの学園から姿を消さざるを得ない危機が有ったようですね」
「うん。まあ……説明すると長くなるけど」
「何が有ったかは気が向いたらでいいですよ。私が今伝えたいのは、達巳君には今後もそういった危機が訪れる未来が幾つか存在しているという事です」
「また!?」

 緊張して思わず背筋が伸び、宮子の手をぎゅっと握り締めてしまう。だが、宮子はその手を安心させるようにやんわりと握り直してくれた。

「ですが、それらの危機は、私の力で知る事が出来ました。つまり、私の選択次第で容易に回避ができるものなんです」
「……えっと、助けてくれるってこと?」
「はい。どの様な危機かは事前にお知らせすることはできませんが、後からこちらの意図を説明することならできますよ」
「それは、僕が知ってしまう事で未来が変わってしまうから?」
「私の主導権の無い未来は見ることすらできませんので」

 ……ああ、そういう事か。僕がその危険に対して何らかの「対策」ができる様になってしまうと、宮子の選択だけで未来が確定しなくなるから、能力自体が働かなくなってしまうって事なのか。「未来記憶」は強力無比だけど、前提条件を崩すと案外脆い能力なんだなぁ。

「現在、私に見えている最長の未来は……」

 宮子は星漣学園の正門まで丁度100mのマリア坂に足を進めながら話を続ける。

「……達巳君の姿の在るものでは、来年の卒業式までです」
「僕達の卒業式って事だよね」
「はい。そして、達巳君と私が無事に卒業できた場合、それ以後の未来は一切見ることができません」

 きっぱりとしたその言い様に僕は眉を動かし、少し驚いた風に宮子の方を振り返った。首だけ動かして彼女もこっちを向く。

「そこから先の未来は変化が無いって事なの?」
「……違うと思います。卒業式後に変化が起こる様に調整を行っても、式を境にすっぱりと記憶が途切れるんです。おそらくは……」

 僕の視線を正面から受け止め、真剣な表情で宮子は断言した。

「私の能力が、そこで終わるのだと思います」
「へ?」
「達巳君が学園生活を全うし、望みを叶えた場合……卒業式をもって私の未来記憶の力は失われるのだと思っています」
「な、何でさ!?」
「達巳君が居なくなった未来なら、そのまま先まで見通すことができるからです」

 訳が分からなくて首を捻りまくる僕に対し、宮子の方は「きっと、私の能力は達巳君の能力とどこかで繋がっているのでしょう」と確信しているように頷いている。

「私がこの星漣に来て、あなたが転校してくるように選択したのも、もしかしたら達巳君の方の力の影響なのかもしれません」
「ぼ、僕が力を使えるようになったのは、今年の5月からだよ?」
「でも、達巳君が来るのは昨年から見えていましたよ?」
「だって、あの本に過去に影響するような力は……」

 そう口走りかけて、はっと口を噤んだ。別に、宮子にブラック・デザイアの事を内緒にしておこうと思って黙ったのではない。エアリアの言葉を思い出したからだ。
 この黒い本には、確か「未来扇」とかいう人の未来の可能性を探知し、操作する力が備わっているとあの魔女は言っていた。そうやって人の寿命を操るのだと。なら、過去はどうだ? 現在から見て未来も過去も時間軸に沿って遠い場所だというのは同じ事だ。ならば、ブラックデザイアが過去を変える力が有ったとしても不思議ではないのではないか。そもそも、この黒い本の最終到達地点は過去も未来も物理法則も無視した全能の力の発揮なのだ。それらの力がある程度備わっていると考える方が自然だ。

 考え込んでしまった僕は、いつの間にか坂の途中で足を止めていた。立ち尽くす僕の側で、宮子はじっと僕を見つめている。

「……先ほど、達巳君は私達が共犯だと言いましたね」
「あ……うん、まあ、ちょっと違うと思うけど」
「私も違うと思います」

 宮子は1歩前に進み出て、僕の真正面に立った。坂の高低差が僕と宮子の身長差を埋め、丁度視線が真っ直ぐ同じ高さで交わった。

「達巳君と私は……運命共同体だと思います」
「運命……?」
「達巳君はこの学園に最後まで残り、那由美さんを生き返らせる……そして私は」

 1つ1つの言葉に意志と、確信を乗せるようにして宮子は僕に告げる。

「私は、達巳君と一緒に卒業して……未来を見る力を捨てる事ができます」
「力を捨てて……惜しくないの?」
「切り捨てられ、実現しなかった未来を思い出すのはもう沢山です。それに……見てください」

 宮子が僕の後方に視線を移したので、首を捻ってそちらに目を向けた。山の稜線に、ようやく昇り始めた太陽の欠片が眩しく美しく煌めいている。その輝きに胸が押されたように、自然とため息が出た。

「朝だ」
「朝ですね」

 じりじりと高度を上げる太陽の姿に、2人でしばらく息を呑んで視線を奪われていた。そして、ふと同じタイミングで顔を見合わせる。吹き渡る朝の風に宮子の髪がふわりと浮かんでいた。そこに浮かんだ微笑みを、素直に綺麗だ、と感じた。

「今この瞬間を、大切にしたい」
「……」
「同じ一瞬を、こうして手を触れられる人と同じ様に感じたい。未来を知らない者同士で、感動を共有したい。それはきっと、とても……嬉しい事のはずですから」
「そう……だね」
「だから達巳君。私を連れていって下さい。あなたの望む未来へ。私たちは、運命を共にしているんです」
「……わかったよ」

 僕が頷くと、宮子は今度は嬉しそうに微笑んだ。そして、手を繋いだまま前方に見えている星漣の正門を指さす。

「さあ、達巳君。今のうちに通ってしまいましょう。守衛さんは日出、日没に合わせて明かりの操作のために門の裏手に回りますから、今なら用件を聞かれずに学園に入ることができますよ」
「入ったら、どこに行くのさ?」
「とりあえず、生徒会の執務室へ」

 宮子は繋いだ手の反対に持っていたバッグを少し持ち上げて見せた。

「そこで一緒に朝食にしましょう。お腹、空いてませんか?」
「もうペコペコだ」
「では、急ぎましょう」

 そう言い、お互いに頷くと宮子と僕は歩く速度を上げ、並んで星漣の正門を通過したのだった。





5.


 宮子の言った通り、まんまと誰にも見つかることなく堂々と正門から星漣学園に入った僕らは、まだ昇降口の開いていない校舎を迂回して生徒会執務室に向かった。朝の誰もいない薄暗い校舎は、下校時刻後のひと気の捌けた夜闇の不気味さとは別世界な静謐さと真新しさに満ちている。ここに来て5ヶ月経ったが、この学園にはまだまだ僕の知らない顔が有ったって事だな。
 時計塔会館のマスターキーは当然宮子が持っているので開けるのに支障は無い。フリーパスで2階の奥の執務室に入ることができた。電気を付けると、「すぐ用意しますね」と宮子はエプロンを身に付け、執務室の隣でお湯を沸かす。その間に僕は頼まれた通り食事場所となる応接テーブルを布巾で拭いておいた。

「達巳君は何にします?」
「んー……ホットミルクもできる?」
「じゃあ、レンジで暖めましょうか」

 宮子は牛乳をマグカップに注ぎ、レンジに入れてスイッチを押す。そして、ブーンとそれが稼働している間にトースターをこっちへと持ってきた。

「はい、達巳君。こっちにズレて下さい」
「え? うん」

 なんで隣に? と思ったけどコンセントがこっち側にしかないのか。テーブルにトースターを据え、軽く膝を曲げて身を屈めて壁際のコンセントに差そうとすると、宮子のスカート越しのお尻が丁度僕の目の高さに来る。慌てて持ってきたバッグを開いて中身を検分するフリをした。
 バッグの中にはサンドイッチ用に切ってあるパンやハム、野菜、それにフルーツ缶まで入っていた。なるほど、出来合いの物じゃなくてその場で作って食べるサンドイッチか。プラスチックケースに入ったそれらの蓋を開けてテーブルに並べていく間に、トースターの余熱を兼ねてバターも暖めておく。すっかり並べ終わる頃にはトースターから香ばしい匂いが立ち上り始めていた。宮子はさっさっと2人分のパンをトースターに並べて焼き始める。
 最後に宮子は紅茶、僕はホットミルクを持ってきて準備完了。宮子はしれっと僕の隣にくっつくように座ってきた。だから、どうしてこっち側なんだよ?

「それでは、いただきます」
「あ、はい。いただきます」

 キツネ色に色の付いたパン2枚にバターを塗ってレタスやスライスしたトマト、キュウリ、ハム、玉子なんかを乗っけて、お好みでマヨネーズやケチャップ、塩胡椒なんかで味付けして挟んで口に放り込む。パリ、サクッと良い具合に焼けたパンの食感と同時に口に広がる挟み込まれた食材のハーモニー。お腹が空いていた事もあって唾がぶわっと湧いてくるくらいの美味しさだ。

「美味い! これいいね」
「ハム、少し焼いたらもっと美味しいですよ」

 アルミホイルの上に乗せたハムを少しトースターで炙ってやるとこれまた浮いてきた油と合わせて格段の美味さだ。ウマウマと僕がハム野菜サンドイッチを口に詰め込んでいる間に、宮子はどこから取ってきたのかクリームを持ってきてフルーツ缶の中身を合わせてフルーツサンドなんかを作っている。

「はい、どうぞ」
「あ、ありがと」
「ジャムも有りますからね」

 執務室の隣に冷蔵庫もあるのかな? 持ってきたのはオレンジマーマレードにイチゴジャム、それにブルーベリージャム。パンが美味しいから全部いけちゃいそうだなぁ。
 結局、僕たちは宮子が持ってきた材料はほぼ全て平らげ、ホットミルクは2杯お代わりし、マーマレードの瓶は空にして朝食を終えた。ふう、満腹だ。そして大変満足である。



 隣で宮子が片付けしている音を聞きながらぼんやりしていると、外からサーッと雨粒の音が聞こえてくることに気が付いた。ソファーから立ち上がって生徒会長席の後ろのブラインドの隙間から覗くと、外の樹の葉っぱが水滴で跳ねてサワサワしてるのが見える。そこに「雨、降ってきましたね」と宮子がエプロンを脱ぎながら戻ってきた。

「うん。でも、どうかな。空が見えてるからすぐ止むと思うけど」
「まだ始業のチャイムまで時間は有りますからここに居ればいいですよ」
「そう言えば、今日は役員会議無いの?」
「昨日の間に明日にずらす旨を伝えておいたので大丈夫ですよ」

 全て計画通りってか。隣に来た宮子が僕の真似をして指でブラインドをずらす。そして、ちらりと僕の方に目を向けた。

「……那由美さんが亡くなった日も、こんな風に朝から雨が降ったり止んだりしていました」

 どきりと僕の指が震え、ブラインドがかさりと音を立てる。僕は指を抜いて反対の手でそれをごしごしと擦ると、宮子の方を向いた。彼女もいつの間にかこっちを向いて僕を見上げている。

「達巳君はその日のことを覚えていますか?」
「……僕は、那由美が死んだのを後から知ったんだ。3週間も経った後で、その日がどんな天気だったかなんて全然覚えてないよ」

 宮子は僕の答えに俯いた。? 何だろう、今の表情。悲しみ? 失望? 当惑? ほんの少しだけ寄せられた眉と逸らされた視線は、僕に違和感を覚えさせるのに十分な仕草だった。宮子は何を言いたかったんだろうか。僕にどんな答えを期待してたんだろう。
 だが、宮子は一瞬のその表情を即座に消して顔を上げると、すぐに次の質問をしてきた。

「達巳君にとって、那由美さんはどんな存在なんですか?」
「僕にとっての……?」

 何故、今その事を聞くのだろう。そして、正直に答えた方が良いのか、それともごまかした方が良いのか。だが、結局のところ宮子には僕の考えの先まで知る事が可能なのだ。ここは信頼を得ておいた方が得策か。

「……正直、あいつには恨み言しか出てこないよ。僕はさ、本当なら那由美と同等の立場に立てるはずだった。だけど親父のせいで引き離されて、別々の人生を歩いた。その結果、あっちはこの学校で憧れの的、僕と言えばしがないただの三流男子学生だからね」
「那由美さんの事が羨ましい?」
「いや、むしろ妬ましい、かもしれない」

 僕は1歩下がり、会長の執務机に斜めに寄りかかった。

「いない方がまだましだった。同じ出発点で、どうしてこうも違ったのかって自分の中で比較しちゃうんだよ。僻みだってのはわかってるけどさ、理屈じゃないんだ。どこかで繋がってる気がするから、どうしてもその糸を手繰ってみたくなっちゃう。その先に深い断崖があるから何をしたって渡る事なんてできやしないのにさ」
「……繋がっている気がする……それが、達巳君が那由美さんに拘る理由なんですか?」
「まあ、ね」

 口を歪め、皮肉っぽい笑いを作って見せる。

「せっかくあっちの方が勝手に崖下に転げ落ちてくれたんだ。こっちに引っ張り上げて、僕の側に来てくれたっていいじゃない?」
「那由美さんと立場を交換したいのですか」
「違うよ」

 宮子の言葉に、僕は少し苛立って口を尖らした。何故だろう、僕は那由美の事になるともやもやざわざわ胸が騒いで感情を抑えることができない。

「那由美は生きていてくれないと駄目なんだ。あいつは僕と違って恵まれた人間だろ? 僕なんかよりずっとずっと幸福に不自由無く人生を謳歌するべき立場にいるんだ。那由美が事故か事件か知らないけど、死んでそのまま忘れ去られるなんて僕が許さない。那由美は僕のように他人の都合で踏み潰されるような事があっちゃいけないんだ」
「……」
「僕は許さない」

 言葉を繰り返す。ムキになって心情を吐露してしまう。

「絶対にだよ。那由美の生死はあいつにだって決めさせてやらない。僕が決める。僕はあいつの影だ。今までずっとそうだった。だけど今度はこっちに主導権がある。那由美を生き返らせて、今度はあいつが僕の影に収まる番なんだ」

 少し息を荒げながら、僕はそう言い切った。宮子はそんな僕の呼吸と気持ちが落ち着くのを待つように、黙って窓際で待っていた。そして、不意にぽつりと呟いた。

「……羨ましい」
「……え?」
「亡くなってからもそこまで想われて、那由美さんが羨ましい、と。達巳君は昨日言いましたよね? 会った事も無い私の兄より、今こうして目の前にいる私の方が重要だと。だけど、達巳君にとっては……こうして」

 宮子は一歩僕に近づくと、少し膝を曲げて僕の手を取り、胸の前まで持ち上げた。愛おしげにもう片方の手もその上に重ねる。

「……手で触る事もできる私より、彼方の那由美さんの方がずっとずっと重要なんですね」
「……だから、理屈じゃないんだってば」

 僕はもぎ取るように強引に手を引いて宮子の手から逃れた。離された彼女の手が、一瞬空中でそれを追うように揺れ、そして力を失ってすとんと落ちた。同じように彼女の視線も揺らぎ、床に向けられる。

「……私にとって那由美さんは、一言で言うなら『勝手なひと』です」
「勝手? 君には無茶な事を言ってたのかい?」
「あの人が来てから、星漣の中は騒動ばかりでした」

 那由美の転入を火種として紫鶴やハルを巻き込んだ「七月事件」。生徒の失踪を調査しようとした那由美の未来を見た宮子は、その結末を変えようと生徒会長に立候補した。そして、今年度のセイレン・シスター投票直前の死……。宮子から見たら、星漣学園をひっかき回すだけしていきなり無責任に消えたようにも見える。

「ずいぶんと辛辣な評価だね」
「那由美さんは正しいとその時信じた事に、反射的に身体が動いてしまう、そういう人でした。脊髄反射的に『正義の味方』になってしまうんですよ。紫鶴さまが昨年、生徒総会で倒れられた時も誰よりも早く駆け寄って、抱き上げて保健室まで運んだんです。計算も深い思慮も無く、誰かに認められたいとかの私欲も無く、ただ正しく在ろうと行動する。私から見れば、かなり危なっかしいと感じた場面も多数有りました」
「へえ……何というか、安芸島さんは流石に見るとこを見てるんだね」
「ですから、七月事件の際に後援会が危惧したような思惑など有ったはずも無かったんですよ。それに、そういう人だからこそ私が何をしようとも結末を変えられなかったのだと思います」

 昨日の話だと、宮子は那由美が失踪生徒の調査の末に命を落とすことを知ってそれを変えようと生徒会長になったって事だった。だけど、この星漣のトップ程度の権力では那由美は押さえきれなかったって事か。どんだけ自分本位だったんだよ、那由美って。

「やっぱり育ちのせいかな? 高原のお嬢様なんて十何年もやってるとみんなそんな風になっちゃうのかな」
「私も、那由美さんのそういう気性は家の教育方針によるものかと思っていました」
「思っていた? 違ったの?」
「ええ、違ってたんです」

 死という結末に向かって突き進む那由美に、宮子は無駄とはわかっていても干渉せずにいられなかった。時に生徒会長の権限で、時に友人としての忠告として、ある時は慕う者の一人として懇願気味に。那由美の行動をストップしようとした。しかし彼女は自分の調査を止めようとせず、その代わりある時根負けして宮子にだけ自分の性分について語ったのだという。

『私の命は、半分はもう私の物では無いの』

 そう、那由美は言ったのだという。どの様な意味かと問う宮子に、那由美は幼い頃に遭遇した火災で危ないところで一命を取り留めた話を語った。

『その火事のあった時、私と母はこの近くの別邸に遊びに来ていて、丁度私は夜中で1人で寝ているところでした』

 そして、充満する煙と熱気に目を覚ました那由美は怯えて逃げ出すことも出来ずにベッドの上で泣き叫んだ。そこに、当時親しかった同年代の少年が部屋に飛び込んできたのだという。

『隣の部屋で寝ていたんでしょう。私の声で目を覚まし、状況を理解してすぐに助けに来てくれました。そして、目の痛みや息苦しさで動けない私の手を引いて部屋から連れ出してくれたんです』

 廊下にも煙がいっぱいでどっちが火元なのかもわからない。そんな中、那由美とその少年は肩を寄せ合い、時に這い蹲って何とか玄関口の方へと脱出しようとした。だが、階段を下りてようやく1階に辿り着いたところで完全に火に取り囲まれ、逃げ道を失ってしまう。

『熱気で髪や衣服はくすぶり、呼吸をしようと口を開けても入ってくるのは煙だけ。声も出せず、目は痛んで何も見えない。このまま死ぬんだと気が遠くなかけていました。そんな時、彼は階段の下に石造りの小部屋が有る事を思い出し、私をその中に押し込んだんです』

 その中は火が回っていなかったため煙も無く、またどこか地下の方と繋がっているのか床付近に十分酸素が漂っていた。倒れ込むようにそこに入った2人は、扉を閉めると折り重なるようにして意識を失った。

『次に気が付くと、私は布団の上にいました。夢の続きを見ているようで、助かったのだと理解するのにかなり時間がかかったらしいです。何しろ、火事があったことすらその時の私はすっかり忘れてしまっていたらしいですから』

 那由美は九死に一生を得た。別邸は燃え落ち、その場所の管理人だった人物はとうとう死体も見つからなかったのだという。おそらく、業火の中で骨まで燃えてしまったのだろう。不幸中の幸いで、那由美の母は火事に気が付いた使用人の1人によって最も早く救出されてていたため、身体には怪我らしい怪我もしていなかったのだという。
 では、その那由美を救った少年はどうなったのだろう? 宮子も当然そう思い、尋ねてみた。すると、那由美は首を横に振った。

『わからないんです。いえ、生死不明とかそういう事ではなく、私の家ではその別邸での火事の件が完全に口止めされてしまって、誰もその時誰が亡くなり、そして誰が怪我をしたのか、それすら口外することが出来なくなってしまいました。別邸の管理人の方が亡くなったのも、ようやく拾い聞きした内容からそう判断しただけですから、その子が火事の後どうなったのかも結局わかりませんでした』

 そう言いながらも、那由美の口元にはほんの少しだけ笑みが浮かんでいたという。

『でも、私が助かったのですから一緒に逃げたあの子もきっと助かっているはずです。どこにいるのか、何をしているのか、それを知る手段は有りませんけど……でも、私はあの時ベッドの上から連れ出してくれた手の感触を、火の中で肩を抱いて守ってくれた腕の力強さを……焼け縮れた髪の間から、諦めない意志を込めた眼差しを覚えています。私の命は……この身体の半分は、彼がくれたものなんです。私の中には、彼の強さと、意志が今も息付いている。だから、私はもうベッドの上でうずくまっている事も、諦めて倒れ伏したままでいる事も辞めました』

 宮子はその話を聞き、大いに驚き、そして同時にその那由美の命を救った少年に興味を抱いた。その少年の行方は全くわからないのか、という宮子の問いに、珍しく那由美は少しはにかみながら答えたという。

『家の者は誰も教えてくれません。ただ、どうやら私には、行き別れた双子の兄がいたようなんです。家の都合で高原の家に居られなかった兄が。私は、その子がそうだったんじゃないかと思っています。だって、母と私が遊びに行く別邸でいつも待っている男の子なんて、それぐらいしか考えられないでしょう? きっとその子も……兄も、どこかで生きていて、私といつか会える日を待っていてくれているんじゃないでしょうか。会って、あの時私を助けてくれた手を握って……そして、ありがとうって伝えたいんです』





「そんな馬鹿なっ!」

 宮子の話を途中で遮り、僕は叫んでいた。

「那由美が僕に感謝していただって!? そんな馬鹿な話があるかよ! だいたい、何だよその火事って!? 僕はそんな事覚えていないぞ!」

 宮子に僕と那由美の血縁関係をバラしてしまっている事にも気が付かず、喚くように怒りをぶちまける。それだけでは収まらず、ドン、と執務机に拳を叩きつけた。血が頭に上っているせいでその痛みも脳に伝わってこない。
 宮子の方は混乱した僕とは対照的に、注意深く繊細な口調でやんわりと確認してくる。

「達巳君には、その火事の記憶は無いんですね?」
「当たり前だよ! 家が燃えたらそれだって覚えているはずだろ!?」
「そうですね……普通なら、そうです」
「普通ならって、何さ!?」
「では、達巳君、別のことは思い出せますか? 子供の頃、ちょうど小学生くらいの事で、何か今思い出せる事はありますか?」
「な、何さ? それくらい……」
「達巳君と源川さんは幼なじみでしたよね?」

 急に、すっと宮子の目が細まり笑みが消える。

「源川さんと一緒に過ごした頃の記憶はありますか?」
「え……」

 僕は呆気にとられ、言葉を失う。ハルの名が出てきた事に驚いたわけではない。その宮子の指摘が、思いがけず胸の急所を的確に抉っていたからだ。
 僕には、子供の頃の記憶が無い。それは、その頃の嫌な事を早く忘れようとして脳の中から追い出してしまったからだと今まで思っていた。だけど……そういった忘れた記憶の中に、ハルとの事以外の重要な事、例えば火事にあった事、あるいは幼い頃に別れたままだった双子の妹の事まで含まれていたとしたら?

「あ……あり得ない……あり得ないよ……それ……」

 笑い飛ばそうと歪んだ口元がひきつった様に震えているのが自分でもわかる。わかってるんだ。あり得ないっていう言葉自体、単なる僕の願望で、十分あり得ることだって本当は理解しているから。

 思い起こせば、僕とハルの間には不自然に食い違うお互いの記憶内容が幾つも有った。ソフトボールの練習の時に判明した僕のサイン。幼い頃の出会いと別れの思い出。それらは全て、ごっそりと抜け落ちた僕の記憶の中の出来事だ。そして、那由美が遭遇したという火災もその期間の中に紛れ込んでいたとしたら? 忘れている事に、今まで気が付かなかった、気が付こうともしていなかったとしたら? 那由美と僕が、死に別れる前に接触し、交流する機会が本当は有ったとしたら?

 そう思い当たった時、不意に脳裏に会った事の無いはずの少女の声が蘇った。曇りガラスが砕けるような一瞬の甲高い騒音と、ぱっと開ける光景の様に何もかもが渾然一体となって解放される。僕と、知らないはずの少女の、遙か遠い日の記憶――。

(どうしても、やらなきゃいけないの?)
『誰かがやらなきゃ、止めなきゃいけない事よ』
(専門家に任せよう。そこまでしなくちゃいけない?)
『この件は、事件としてはもう終わっている。社会の何者も、善意によって起きた不慮の事としか取り扱ってはくれないでしょうね』
(悪意が無い者を、裁く必要が有るのかな)
『歯止めの利かない善は、結局のところ害悪にしかならない。それは歴史が証明しているわ』
(この行為だって、見方によれば善にも悪にもなるさ)
『もちろん、それは承知していること。ただし、人として善悪を越えて許せない事も有る』
(私的な恨み?)
『私的な正義感よ』
(……わかった。ただし、絶対に1人で動かないで欲しい。万が一の事態が起こらないとも限らない)
『ええ。もしそうなったら後は任せる』
(そうじゃない! 無茶をしてもしもの事が有ったら……! 何かあったらじゃ遅いんだよ。君を守るには力不足かもしれないけど)
『冗談よ。そうならないと信じてるし、頼りにしてる』
(君の始めた事だ。決着は君に譲る)
『そう、感謝してる。だけど、貴方にも言えることでしょう?』
(どういう事?)
『危ない橋を渡るのは一緒なの。一蓮托生よ、私と貴方は』
(だからバックアップはさせてくれ。ここまで一緒にやってきたんだろう? 勝手にいなくなるなんて……許さないよ)
『……それなら、私も貴方に言っておくわ』

 そう言って、長い黒髪の少女はすっと姿勢を正す。急激にその身に宿す雰囲気が変わり、その少女本来の血統に相応しい威厳と格調の空気を身に纏う。だが、その眼差しに宿した信頼の光は、変わらずに輝いたまま僕に向けられていた。

『貴方の背中は、私が守ろう。其れが、相棒(パートナー)と言うものであろう?』





「がっ!! はぐ……っ!!」

 強烈な頭痛と胸のムカつきに、僕は喉の奥から臓物が飛び出そうな激しいえづき声を迸らせた。膝を折り、口元を押さえてしゃがみ込む。それだけでは押さえきれず、さっき食べた物が胃を絞られるような激痛と共に喉を駆け上って吐き出された。

「達巳君!」

 どこか遠くの方で少女の声がする。手が差し出され、脇を支えつつ背中を撫でてくるがその程度で僕の身体と意識の奥底で暴れ回る暴風は治まりはしない。げえっともう一度口からこぼれた汚物が白い制服をぐちゃぐちゃに染めた。苦しさに、閉じた両眼から情けなくもぼろぼろと涙が落ちる。隣の少女の気配も狼狽して言葉を失った。嘔吐するだけで収まらず、胸の奥にわだかまっていたモノが呻きと共に言葉として唇からこぼれ落ちる。

「……な……」
「何ですか!?」
「……何でなんだよ……?」
「え?」
「何で死んじゃったんだよ……!」
「達巳君……」

 これは、誰の言葉? 僕の、達巳郁太の言葉なのか? 吹き上がる過去と、妹への恨みと、半身を失った痛みと、悔恨と、不条理と、愉悦と、憤怒と、絶望と、欲求と、願望と、恐怖と、我欲と、哀惜と、希望が。一度にごっちゃに混ざり合って僕の、達巳郁太という空のヒトガタの中を荒れ狂っている。臓腑の中の物を吐く苦痛か、それとも空白の胸中を混沌とした記憶が埋め尽くす窒息か、僕は耐えきれずひざまずき、身体を折って額を床に押し付けるようにして泣いた。

「僕のせいだ……!」
「……」
「僕が、死なせちゃったんだよ……! 那由美は……!」
「……達巳君……」
「那由美は……僕のせいで……死んだんだ……っ!!」

 粉々になり、砕け散った記憶の断片。それは1つ1つが鋭いガラスの破片となり、僕の内面を切り裂き、抉り、ズタズタにしていく。
 だが、血みどろになったそこからは、剥がれ落ちた皮膚の下に覗くもう1つの皮膚が覗いていた。怯え、うずくまり、全てから眼を閉じ耳を塞いでぺっちゃんこになるまで重圧に押しつぶされた僕。「罪悪感」を忘れるため、偽りの記憶を身に纏って隠れた本当の僕。那由美を死地に陥れ、卑怯にも逃げ出した僕。自分の罪を隠すため、理不尽な妹の死を彼女への恨みで正当化した僕。作り上げた卑屈で小心者のイメージで名門の血から無関係を装った僕……。
 切り裂かれた達巳郁太というヒトガタの内側に、もう1人、僕とは違うタツミイクタという名の少年が隠れていた。





 呆然としたまま、シャワーを浴び続けていた。
 宮子に腕を引かれ、執務室の外の通路を歩いたことは覚えている。泊まり込みをする場合のため、宿泊する事も出来るようになっているのだと説明をされたような気がする。汚れた制服もいつの間にか脱がされ、シャワーが1つとちょっとだけ広めな浴槽が存在する浴室に背中を押されて入れられた事も、微かに覚えている。「掃除しておきますから、気にしないで良いですよ。」これは、宮子の言葉だったろうか。他に人は居なかった筈だし、そうなのだろう。だが、見て、聞いていた筈なのに、それが脳の中に記憶として定着していない。

 それは、身体の中にざらざらと堆積した「もう1人」の砕けた記憶の欠片のせいだ。その欠片のざわめく音が、きらきらと脳裏を跳ねる幻影が、僕の思考を1つところにまとめさせず千々に乱そうとする。
 浮かび上がってくる光景や言葉は、全て断片だ。そこに時間的な連続や因果の繋がりは失われてしまっている。だから、一度何かを思い出し、それの意味を考えようとしても、次の断片を思い出す内に掬った砂のように思考の手のひらからこぼれ落ちていく。だけど、それらは全て意味は分からないのに、暗くて眼を背けたくなるような色合いに染まっているのはどれも同じ。
 それは、「罪悪感」という感情。僕が那由美に向けていた様々な陰鬱な感情を発揮させ、自らを覆い隠させたものの正体。詳細はわからないが、はっきりとこれだけは言い切れる。

 僕は、那由美の死に何らかの形で関わり、その罪悪感を隠すために彼女に様々な負の感情を抱いて自分を守っていた。

 何故、同時に那由美と共にいた時間の出来事を忘れたのか。それは僕の心が自己防衛のためにやったことなのか。それとも外的な要因があったのか。那由美は何をやっていて、僕はそれにどう関わっていたのか。全部、わからない。わからない事だらけだ。全てが真っ白だ。目の前の浴室の壁の様に。

 視線を動かし、シャワーの横に据え付けられている鏡に目をやる。真っ青な顔色をした、見た事も無い少年が呆然とした顔つきで僕を見ている。
 これが僕? これが高原那由美の双子の兄の達巳郁太? 全く、身に覚えが無い。ここに映っているのは、悪魔に唆されて那由美の守ろうとした学園を乱している卑劣漢じゃないか……!

「……畜生ッ!」

 力任せに白い壁を殴りつけた。ドガン、と思い切りの良い音が狭い浴室内に反響する。「畜生!」と、もう一度、今度は頭を壁に打ち付けた。痛みなんか感じない。怒りのせいで、どこかの神経が焼き切れているようだ。そのままこの頭蓋が砕け、中身をぶちまけてしまったらどれだけせいせいするだろう。

「……ぐっ……ぶ……!」

 再び、吐き気がぶり返してきた。打ち付けた額を押し付けたまま、両手の爪でひっかくように壁を掻いて堪えようとする。足の指先から冷たい氷の様な寒気が骨の中を這い上がってくる。膝まで登ったところで、力が入らなくなりシャワーの蛇口にもたれ掛かるように倒れかかった。
 頭と背中にぎょっとするくらいの冷水が打ち付けられる。どうやら手が滑ったときに温度調整を捻って冷たい方に一杯に回してしまったらしい。だが、それすらも僕の身体は打ち捨てたはずの記憶の呼び水とする。

 雨水の溜まった泥の海の中、壊れた人形のように手足を投げ出して倒れ伏した少女の姿。僕はその光景を、「知っていた」。

「あ……あぁああああっ……!!」

 喉の奥から、壊れかけの魂が断末魔のような悲鳴を漏らす。その瞬間、やにわに僕の肩は細い手に引き起こされ、柔らかな感触に抱きすくめられた。

「達巳君!」

 それは、宮子だった。宮子が、僕の濡れそぼった身体を細い手と身体を一杯に使い、押さえ込むように抱きしめていた。少女に抱かれ、初めて僕は自分の身体が瘧のように激しく震えている事に気が付いた。

「ぼ……僕は……僕は……!」
「大丈夫、達巳君。大丈夫ですよ」
「違う! 僕は卑怯で、臆病で……! 何の力も無いのにっ……!」
「落ち着いて、達巳君。今は思い出してすぐで、達巳君は混乱しているだけなんですから……」
「違う……違うんだよ……」

 嫌々をする子供のように首を振る。前髪から滴が飛び、周囲にまき散らされる。腕を振り回して逃れようとする僕を、しかし宮子は懸命に腕に力を込めて逃さない。
 制服のまま浴室に飛び込んできた宮子は冷水のシャワーに打たれ、濡れ鼠だ。髪が顔に張り付き、衣服も乱れて太股のあたりまでスカートから剥き出しになっている。その上何度も僕の振り回す手が肩に当たっているのに、怯むことなく僕を押さえ込んでいる。

「聞いて……聞いて下さい、達巳君。私は、知っていたんです……! 本当は、達巳君が那由美さんと一緒に行動していたって事を」
「そうだよ! そして僕は、那由美を助けられなかったんだ!」
「達巳君がそれに罪の意識を感じているのはわかります。だからこそ、あの人を必死になって取り戻したがっているのも、理解しています」
「り、理解だって!? そのために僕がやっている事だって知っている癖に!?」

 僕に出来たこと、僕に出来ること、それはどこまで行っても卑怯者だ。那由美を身代わりに生き残り、記憶を捨ててしゃあしゃあと恨み言で身を守って、そして彼女の守ろうとした星漣学園でウジ虫のように秩序を乱して混沌の力を啜る。浅ましく、下劣で、救いようの無い存在。何故、こんな僕が、那由美の代わりに生き残った? 死ぬべきは、泥にまみれて沈むべきは僕の方だったのに!
 その瞬間だった。

「達巳君は間違っていない!!」
「っ!?」

 宮子の一喝が、僕の思考を止めた。聞いたこともない彼女の声、見た事も無い彼女の必死の形相、それが僕の抵抗を一瞬、固縛する。宮子は重ねて言い募った。

「間違っていないんです、達巳君。あなたは、間違っていない」
「そんな訳……無いだろ! 僕のやったことは!」
「間違ってません。何度でも言います、達巳君は間違っていません」
「そんなの……」

 少女は断言する。額に張り付いた前髪の間から、僕の目をしっかりと見据え、その眼に強い意志を宿して。不思議なことに、その視線は様々な負の感情で曇った僕の視界を突き破り、すっと脳裏に彼女の言葉を届けてきた。

「私の眼を見て下さい、達巳君」
「……どうして、君は……」
「達巳君は、間違ったことをしたと思い込んで全て自分の責任にしたいだけです。思い違いしないで下さい。那由美さんは、あなたでは無いのです」
「……で、でも……今僕がしている事は、」
「だから、今の達巳君の事は、私が全て受け入れます」

 驚き、動きを止めた僕の肩を掴み、宮子は腕を伸ばして正面から僕の顔と向き合った。咄嗟に、言いようの無い敗北感を感じて目線をさまよわせる。

「眼を逸らさないで」
「う……」
「あなたは自分の罪によって那由美さんが死んだと思いたがっている。だけど、それなら私は何なんですか? 実の兄を手に掛けた私は……あなたに告白したその罪は、どうなんですか?」
「君の……」
「達巳君。昨日あなたは私がここに居ることを『嬉しい』と言ってくれた。私がいろいろなものを犠牲にして選択を行い、あなたと星漣に通っていることを肯定してくれた」
「それは……だけど、君は自分を守るために……」
「だったら」

 宮子はすうっと息を吸い、全霊の気迫を込めた重く、鋭い言葉を僕に突きつけた。

「私も、あなたと同じように言います。……どの様な経緯があれ、あなたが自分を守り、こうしてここに居てくれて……良かった、と」
「!」
「あなたがやった事、今やっている事……これからやる事。達巳君が私を『信じる』と言ってくれたように、私もあなたを信じます。全て……肯定します」
「なんで……なんでだよ……」

 毅然とした少女の態度に、僕はうなだれた。どうして、この娘はこんなに強いんだ。僕なんかのため、何故ここまで言い切ることが出来るんだ。僕なんかが口にした同じ言葉が、何という重みの違いだろう。こんな娘が僕の事を「信じる」なんて、勿体なさ過ぎるだろ。

「僕にそんな価値なんて無いよ……」
「違います、達巳君。あなた1人では無く、あなたと私が共に居る事に意味があるんです」
「僕と、君……が?」
「いくつもの可能性を切り捨て、私とあなたは今、ここで同じ時間を過ごしている。それは、私とあなたの選んだ幾通りもの選択肢による微少な可能性がバランスを取った結果です。選ばれず、実現しなかった可能性としては私が兄と共に堕ちていった未来と同じです。今、この瞬間の2人にしか私の欲しい価値なんて存在しないんです」
「……」
「達巳君が那由美さんを救えなかった事を『罪』と感じるなら、それを私にはどうする事もできません。『赦す』事なんて、自分自身以外の誰にもできませんから。でも、昨日達巳君は私のことを『信じる』と言ってくれましたね? そして、『信じる』事の出来る相手には罪を告白できると」
「……そう、かも……」
「なら、達巳君……私の、今からの言葉も『信じて』ください」

 僕の身体を白い浴室の壁に預けると、宮子は肩から手をずらし僕の両手を包み込んだ。ざあざあと、2人に雨のようなシャワーが降り続けている。額から流れ込む水滴にも怯まず、宮子は瞬きもせず真っ直ぐに僕を見つめた。

「達巳君は間違っていません」
「……無理だよ。君1人が言ってくれたって……」
「私以外の10人が達巳君を否定するなら、私は100回でも言い続けます。達巳君は、間違っていません」
「だって、僕がやってるのは犯罪行為なんだよ? みんなの意志に関係なく、嫌らしい事を……」
「世界の全てが達巳君を否定するなら、私はその全員と敵対しても達巳君を肯定します。達巳君は、間違っていません」
「……っ! 君がどんなに言っても、僕自身が僕を赦す事なんて出来ないんだよっ!!」
「なら、達巳君が考えを変えてくれるまでずっとずっと言い続けます。何回でも、何百回でも、何千万回でも。何年でも。何十年でも。達巳君は、間違ってません」
「……!」

 知らず知らずの内に、僕の両目から涙がこぼれていた。宮子の言葉が、胸の内に突き刺さっている。だがそれは、大きな痛みと共に僕の薄っぺらな自我を辛うじてつなぎ止めようとしてくれていた。冷え切った僕の身体に、同じように冷え切った宮子の腕から、握られた手のひらを通して彼女の芯から暖かみが染み渡ってくる。真っ青になった宮子の唇が震え、そして懸命に言葉を紡ぐ。

「……達巳君は、兄さんを死なせた私が星漣にいる事は間違っていると思いますか?」
「……間違ってない……」
「未来を知る力を持つ私が、幸福のために選択をするのは間違っていますか?」
「……間違って、ない……」
「今こうして、達巳君に触れている私に、居てくれて嬉しいと言ってくれたあなたは、間違ってましたか?」
「間違いなんかじゃ……ない」
「……ええ」

 宮子は静かに微笑みを浮かべた。すうっと、その灰色の瞳に溜まっていた滴が流れ落ちる。後から、後から切れ目無く流れ落ちていく。

「……だから、あなたは間違ってなんかいない。そして……こうして私と出会ってくれて……ありがとう、達巳君」





6.


 生徒会の浴室にある浴槽はほぼ正方形の形で、僕はそこに入り口のスリガラスのドアに背を向けて浸かっていた。真ん中にでんと、では無く、左に寄って縮こまる様に、である。予め張られていたお湯は僕好みに温めで、冷水を浴び続けて底冷えした身体には言葉では言い尽くせない心地よさだ。浴槽も清潔で、足の裏が少し動く度にきゅっきゅっと小気味良い音が水中に響く。匂いも石鹸の良い薫りがほのかに漂うだけで、この場がきちんと管理され清掃されている事を知らしめている。そんな快適な環境に置かれているのに、僕はそれこそ沈んでそのまま湯の中に溶けるか、壁に張り付いて2次元の存在になるかというぐらい所在無く縮こまっていたのであった。その理由は、僕とは正反対にゆったりとした様子で隣で湯船に浸かるもう1人の存在があったからだ。

「……落ち着きましたか?」
「え!? あ、ああ……まあ、うん。そ、そこそこかなぁ……」
「まだ寒いですか?」
「い、いやいや全然! 平気!」

 ちら、と眼を向けかけて慌てて視線を反対向きに逸らす。そこには、微笑みながら少し首を傾げるようにこちらを覗き込んでいる宮子の顔があったのだ。風呂のお湯は特に入浴剤など投入されていないので透明、当然顔より下の部分もちらりと視界に入りかけ、というか本当はばっちり見えてしまった。だって仕方が無いじゃない、狼狽えてるとは言え視野狭窄になっている訳じゃないんだし。すっきりとしたラインを描く彼女のうなじから繋がる肩と、その前方になだらかに膨らんだ膨らみが今も僕の脳の短期記憶部で残像として残っている。
 そうなんだよ。今、僕は宮子と一緒に、裸でお風呂に浸かっているんだ。

 先ほどシャワーに打たれながら僕を懸命に慰めてくれた宮子は、僕の身体が冷え切っているのですぐに湯船に入るように指示した。いや、指示だけでなく、腕を取って僕を立ち上がらせ、ふらつく僕を支えてくれたんだ。
 (余談だが、この時初めて僕は素っ裸で宮子に抱えられている事に気が付き、大いに狼狽えた。だって僕のアレは、寒さのせいで見事に萎縮して可哀想なことになってしまっていたんだもん。)
 宮子の視線から身体を隠す目的も有って宮子に背を向け、湯船に肩まで潜った僕。情けなさで顔をまともに見ることもできやしない。そんな時、宮子が小さく「くしゅん」とクシャミをしたんだ。そう言えば彼女も僕ほど長くはないけど冷水を浴びていたんだと思い出し、僕はすぐに出るつもりで宮子に「安芸島さんもお風呂に入った方がいいね」と言った。すると宮子は、

「じゃあ、制服を乾かしますからちょっとだけ中で待ってて下さい」

 と、風呂場の外に出て……すぐにタオル一枚持って戻って来ちゃったんだ! それも、裸になって! その上、シャワーで軽く流したら「入りますね」だって!? 何でだよ!? 慌てて端に寄ったその隣に綺麗な形の足の指先からちゃぷん、って入ってきて、色々と見えそうになってしまったじゃないか!
 手に持っていたタオルは今は彼女の細く優美な髪をまとめる為に頭に巻かれている。当然、身体の方を隠す物は何も無く、水面を透かしてほんのりと暖まって血色の良くなった彼女の素肌が眩しく僕の視線を誘っている。さっきの縮こまり具合も何処へやら、まともに見なくても脳内に残ったさっきの画と彼女の吐息、そしてちゃぷちゃぷと肌に跳ねる水音だけで股間のものが無責任に首をもたげようとする。どうしてこうなったんだよ!
 首を反対の壁側に90度ねじ曲げ、ただひたすらに数式や化学式やアダムス先生の訛り英語を反芻して平常心を取り戻そうとする。が、こんな時に限って平常の勉強風景は脳裏に浮かんで来ず、ハルや春原達クラスメートが「特別制服」でチラチラとそのお尻やお腹を見せつけてくれている光景ばかりが思い出される。うがーっと1人で煮詰まっていると、背中から呟くように声が掛けられた。

「……はしたないと、軽蔑しますか?」
「……は? え?」
「婚姻したわけでもないのに、肌を見せて一緒に入浴するなんて、不しだらだと思いませんか?」
「あ……え?」

 恐る恐る、ちょっとずつ頭を回して宮子の方に横目で視線を向けていく。ちらっと視界に入った彼女の横顔は、湯に当てられたのか頬が赤くなっていてそれが何とも色っぽく見え、僕は慌てて視線を元に戻した。

「そ、そんな事無いよ! 裸を見られたのは僕の方が先だし君はその後に風邪を引く前に仕方なくお風呂に入ったんだし!」
「そうですよね……私、達巳君の裸を見てしまったんですよね」
「不可抗力だよね! シャワーで倒れたのを君はほっとけなくて助けてくれたんでしょ!?」
「その前に、達巳君の服を脱がせたのも私ですよ?」
「そ、それも僕の制服が汚れたからで気持ちが悪くてぼーっとしてたのを助けてくれたからで……」
「ごめんなさい。上着だけ脱いでもらって横になってもらった方が良かったですよね。私の判断ミスです」
「だ、だから……!」

 僕は思わず身体ごと振り返ってしまった。

「安芸島さんは悪くないんだってば!」

 振り返った先には、にっこりと笑った宮子の顔があった。

「え……?」
「やっと、こっちを向いてもらえましたね」
「……? あれ?」

 もしかして僕、騙されました?

「え、だって、裸なのに……」
「ええ。裸ですよ?」
「恥ずかしく……無いの?」
「恥ずかしいですよ、それなりに」

 笑いをはにかむような物に変え、しかし身体を隠す様子も無く、それどころか宮子は僕に身体ごと向き直った。必然的に彼女の上半身を正面から見ることになり、形良く膨らんだ乳房の先の方まで眼に飛び込んでうぐっと息が詰まる。その反応を見てもなお、宮子は笑ったままだった。

「でも、言いましたよね? 私は達巳君のすることを何でも受け入れるって」
「そ、それが……?」
「この先この学園で達巳君がする事……それを私は、予め知っているんですよ?」
「……あ……そうか」
「だからです。一度そう決めた以上、肌を見せるくらいで狼狽えてはいられませんよね」

 そう言うと、宮子はざばーっと水を滴らせながら立ち上がった。「わっわぁっ!」と慌てて眼を覆う(が、指の間からしっかり観察してしまう)僕。その目の前で、宮子は僕のもたれた浴槽の縁の反対側にこっちを向いてお尻を乗せた。ちょうど、僕の目線と彼女の整った形のお臍が同じくらいの高さになる。両手は腰の左右に置かれていたため、宮子の全てを僕は見ることが出来た。
 少女の肌は、今まで見てきた星漣の女の子の誰とも違っていた。お風呂に入っていたせいか血色良く赤みを帯びているが、それは余計に元の肌の色合いの薄さを想像させる。紫鶴の様な白百合の可憐な白さとも違う。七魅の無垢な新雪の白さとも違う。静香の白磁の滑らかな白さとも違う。
 宮子の肌は、まるで光が内から輝いている様な眩しさのある白さなんだ。それは決してこの浴室の照明のせいなんかじゃない。宮子の皮膚の下で躍動する血肉や芯、魂、そういった物が彼女を内から支えている、その清らかで豊かなエネルギーが白光として感じられる、そういう色合いの肌。
 その体つきは紫鶴ほどすらりと手足が長い訳でもなく、梓ほど豊満という訳でもない。どちらかというとくびれの控えめな安産型だが、さりとて女性らしさを主張する膨らみや腰回りは十分な色気を漂わせている。そう、彼女の身体の印象を一言で語るなら、とても良いバランス、ってのが一番しっくりくる。崩れや劣化の想像できない安心感のある姿形なんだ。
 お尻を縁に乗せた反動でふるんと揺れた彼女の胸。鏡に映ったように左右均等に形良く、少し上向きで、頂点部は目がはっと引きつけられるような瑞々しい桃色。小振りな突起部は彼女の呼吸に合わせて僅かに震えながら上下している。それらの丸みを帯びた表面を、首筋から流れてきた水滴がするすると滑らかに流れ落ちていっている。鳩尾でいったん沈み込み、お臍の窪みに捕まらなかったものはお腹を通過し下腹部へ。閉じられた太股の付け根に張り付いた、髪と同じく細く柔らかそうな茂みの部分へと落ちていく。僕はその様子を、いつしか両手を下ろし息を詰めて見つめていた。
 手を頭にやり、巻いていたタオルを取った。はらりと清水の流れのようにこぼれた細い髪の束が肩や胸を撫でながらお風呂の縁まで届く。いつも見ていた髪留めで留まっていない、ロングストレートの少女の姿。宮子は丁寧にタオルを畳んで脇に置くと、その髪を僅かに揺らして首を傾けた。

「……どう見えます?」

 穏やかな声にはっとして視線を逸らす。見てはいけないものを見たのだという罪の意識にも似た羞恥心が僕の顔をかーっと火照らせる。これまで、どんな娘の裸を見ても感じなかったはずの衝動だ。だけど、少女はそんな僕の素振りを気にする様子も無い。

「見てもいいですよ、達巳君」
「いや、やっぱ駄目だよ! 何かわからないけど、君がそんな風にしちゃいけないって気がする!」
「どうしてですか?」
「だって、だって、安芸島さんが進んでこんな事するなんて……変だよ!」
「イメージと違うから?」
「君はそんな風にする娘じゃないでしょ!?」
「それは、達巳君の知っている『今の私』ですよ?」

 ばちゃばちゃと慌てている僕に対し、少女は唇の端をきゅっと上げて嫣然と微笑んだ。片手を上げ、下腹部に持ってきた指先でつうっとそのなだらかな丘をさする。体重が片側に寄り、僅かに膝が緩んだ。

「私の『未来記憶』では、選ばれなかった世界での出来事も同じように記憶に残っているんです。わかりますか? 兄さんが死んで現在の未来を選択したとしても、『兄さんが生き続けた』別の未来の記憶は私の中で淀み続けるんです」
「別の未来……君の……?」
「そう。達巳君の知らない、別の私。……兄さんのグループや、薬を取り扱う者達に捕らえられ、いいようにされた私……」
「!」

 はっと僕は息を飲み、動きを止めた。僕は、自分の勘違いに今更気が付かされたのだ。
 宮子の能力は、決して未来を客観的にその光景を見て選択する力なんかじゃない。それらの変化する未来を実際に体験したものとして「思い出す」能力だったはずだ。それはつまり……どの様な未来を選ぶにしろ、彼女は全ての選択結果を知らないで済ます事など最初から不可能な事を意味する。

「達巳君。その私にとって、要求に従って素肌を晒したり、複数の男性に抱かれる事も日常の光景でした。それを私は忘れていません。何時でも、その時の私を思い出す事ができるんです。だから、あなたがこの学園でやる事、変えていく事ぐらい、そういった出来事に比べれば何でもない事と思えるんですよ」

 そして宮子は、「あまり、聞いて気持ちの良い話ではありませんが」と前置きしておいてから、余りにも惨い「もう1人の宮子」の記憶を更に告白した。

「その私は、今の私と同じ年齢までに子供を1人産んでいます」
「な……」
「残念ながら父親は誰なのかはわかりません。候補となる方が多すぎてDNA鑑定でもしないと特定できないのです。……そもそも、それは初めての事ではありませんでした。ただ、それまでに何度も父親のわからない様な妊娠と処置を繰り返した結果、次はもう身体が子供を宿す能力を維持出来るか保証できないとお医者さまに言われました。それを聞いて、私をその様にさせた方達に涙を流し懇願して、その子を産ませてもらったんですよ」

 すうっと、内蔵が吸い出されたような空虚な寒気を感じた。それは、目の前の少女が語るには余りにも無惨なこの世の汚濁を孕んだ話だ。平静を保ったまま口にするにはどれだけ悲惨な経験をしなければならないのだろう。とてもじゃないが、信じられない。信じたくない。だけど……宮子が嘘を語るはずも無いのだ。
 少女は淀みなく、視線を彷徨わせることも無く「体験」を語り続ける。腹を撫でていた手が離れて髪をかきあげ、半ば隠れていた乳房が再び露わになった。

「私が彼らのモノとなって4年間、いえ4年半の間に彼らが私にやった事は、先ほども言った通りただ子供が出来る類の行為だけではありませんでした。それを煽り、あるいは欲求を代替し、または単に支配欲を満たしたり単純な興味本位の行為を要求し、私が拒否すれば暴力で強要しました。たぶん、達巳君が思いもつかない様な狂気じみた行為もやりましたよ」
「や……」
「でも、私がそういう環境で常に悲嘆に暮れ、自分の不幸を呪っていたと思って同情する必要はありません。そんな異常な環境にも、数ヶ月程度で慣れるものなんです。反抗するより、素直に従順に人懐っこい犬の様に従う方が苦痛や悲鳴から逃れられる事を覚え、私は進んでそうしました。そうする事で、少なくともその行為の間は誰かを呪ったり、その運命を逃れた『今現在ここにいる私』を羨んだりしなくて済みましたから」
「やめてよっ!!」

 ばしゃん、と水面を叩いて僕は叫んだ。飛び散った水滴が宮子の膝と僕自身の頭に降りかかり、ぽたぽたと滴となって再び浴槽内に帰って行く。

「……」

 宮子は僕の要望通りに言葉を止め、じっとしている。僕は威勢良く怒声を上げた癖に、その表情を見るのが怖くて見開いた眼を水面に向け続けた。

「だ……だって、それは本当に有った事じゃないんでしょう? ただそうなる可能性が有ったってだけで、君が実際に体験した事じゃない。そうでしょう?」
「……そうですね」
「なら、それはただの妄想と変わらないでしょ? 忘れちゃっていいんだよ、そんなの。だ、だって、だって……君は、今の君はここに、ちゃんと居るんだから……!」

 ぐっと言葉に詰まり、僕はそれ以上続けることが出来なくなった。それが如何に無責任な台詞であるのかわかっていたからだ。

 宮子の体験した未来が「妄想」だって? じゃあ、彼女はその「妄想」の為に実の兄を殺したって言うのか! 彼女が兄を殺す決意を固めるまで、どれだけ悩んだか、僕は想像する事も出来ない。いや、想像して理解しようとする事すら烏滸がましい。兄を殺し、未来を変える。その選択を実際にする頃には、もうとっくに彼女の心は起こり得る「未来の自分の姿」の記憶に擦り切れてしまっていたのだろうから……。

 4年前、まだ星漣学園にも来ていない頃の宮子。そんな彼女に突きつけられた非情な選択と無惨な未来。彼女は決して安易に自分を救うために兄を葬る決意をしたんじゃなかった。未来の自分に、その兄も含めた周囲を取り巻く男達に嬲りものにされる「もう1人の宮子」に怯え、苦しみ、哀願され、恨まれ、呪われ、そして、堪えきれなくなり綱から手を放すようにしてその運命から決別した。その綱に兄がしがみついている事を知りながら、自らの意志で切り離したのだ。

 僕にその決断を「罪」と断じる事なんて出来ない様に、それを「無かった事」として忘れさせる事も出来るはずが無い。それは、「未来記憶」の力を持つ宮子自身にしか判断の機会が無いからだ。未来の到来を告げる秒針の音を孤独の中でずっと聞き続け、怯えながら懸命に時計の針を進め続けた、この世界でたった1人の……「時計仕掛けの少女」。

 水面に力なく漂う僕の手を、何かがすうっとすくい上げた。誘われる様に目線を上げると、上体をこちらに倒して僕の手を両手で握った宮子の顔が見えた。泣いているようにも、笑っているようにも、憤っているようにも見える、色々な感情が入り交じった不思議な表情。宮子が背筋を伸ばすと、その手に引かれるまま僕の背は浴槽の縁から離れて彼女の方に近付いた。重ねられた彼女と僕の手が太股の上に乗り、膝頭の上に鼻先がくる。……こんな気分の時なのに、視界の中央で広がった彼女の腹部から秘部にかけての光景にどきんと心臓が鳴り、自己嫌悪する。

「達巳君……」
「……」
「達巳君?」
「……ゴメン」
「どうして謝るんですか?」
「僕には……どうする事もできないから。……君の記憶をどうする事も出来ない」

 僕の持つ黒い本は、あくまで現在のその人物の認識を変えるだけだ。過去の記憶に干渉して消去したり、改変する事はできない。それは、どうしようも無い絶対的なルールなのだ。僕の力は、宮子の能力に対して呆れるくらい無力だった。
 彼女の顔を見る事ができない。無力な僕は、気力すら無くして水面を見続けるだけだ。この手が離されれば、その瞬間が僕の彼女に対する意識の切れ目となる。きっと僕はもう宮子に手を出し、自分のものとする下卑た欲望を抱くことも無いだろう。それが彼女の烙印の様な、消えない記憶を呼び覚ますと知ってしまったから。この手が、離れたら……。

 だけど、宮子は僕の手を放そうとしなかった。逆に、たおやかな感触の宮子の手に少しだけ力が籠もり、僕の手をきゅっと握る。

「達巳君……そんな顔をしないで下さい」
「……」
「あなたは、今とは別の可能性の記憶に囚われた私を不幸だと思っていますか?」
「……え?」
「体験しなかった出来事の分まで悲しみや苦痛の記憶を背負い、そのために兄さんの命を奪う選択を行った私を哀れだと感じていますか?」
「な、何を……?」

 宮子の声には僕が最後に見た不思議な色合いの表情の残滓は感じられない。奇妙に透き通った……透明な、色の無い問いかけに僕は僅かに顔を起こす。

「不幸と言うのは……幸せがそこにある事を知りながら、手が届かない事を悟ってしまった時こそ、そう言うのだと私は思います」
「手の届かない幸せが……不幸」
「そして、幸福は……不幸に陥る可能性を知らないままでいる事、知ってしまったなら、それが実現しないように遠ざける努力ができる状態にある事。それが、幸福だと思います」
「不幸を遠ざける事……」
「ええ。それが、きっと大事なんです」

 くいと手が引かれ、その拍子に僕は驚いて顔を上げて宮子をまともに見た。そこには、先ほどの色々な表情は溶けて消え、静かな切れ長の瞳に僅かに微笑みを浮かべた、綺麗、としか表現のしようのない宮子の顔があった。

「私は幸福です、達巳君。だって、私にはまだ努力するチャンスが有るんですから」
「チャンス……? 君が今から何をしようというのさ?」
「先ほど達巳君は、自分には何もできないからと私に謝りましたね?」
「え……うん」

 宮子に手を引かれ、静かな表情に見つめられつつコクリと頷く。

「なら、おあいこなんです」
「え……?」
「私も、達巳君の心の傷をどうする事もできませんでしたから。未来を知っていても、那由美さんを救うことができませんでしたから」

 その言葉を聞いた瞬間、彼女の眼差しが僕の脳裏にぽっと光を灯した。それは彼女たち星漣の生徒を「駒」とかつて言い捨てた僕には有り得ない思い。罪悪感を押し殺しながら彼女たちに寄生する僕に余りにも場違いな……「願い」。

「那由美さんを助けられなかった事を『罪』だと思うなら、私も同罪です。だけど、達巳君にはまだチャンスが有りますよね? その不幸を払い退ける力を持っているんです。それはとても幸運な事ですよ」
「僕の……力? 良いの? この力を使うって事は、結局僕は罪を重ねるだけなんだよ? それに、君だって……!」
「私は、達巳君の選択を受け入れます。そしてもし、あなたが迷うなら……また、何度でも言います」

 宮子の顔がぼやけている。歪んだ視界の中で、彼女の姿が光に包まれている様に輝いて見えている。

「達巳君は……間違ってません」

 その言葉で、決壊した。ぼろぼろと熱いものが両眼からこぼれ落ち、それをそのままに僕は叩きつけるように叫ぶ。

「でも……でも! 君は僕をこの学園に居させてくれた! 僕のやっている事を知りながら、この僕を迎え入れてくれた! そして助けてくれたんだ!」
「達巳君……?」

 初めて宮子の瞳に波が立つのを見た、と思う。僕の両眼はみっとも無く子供の様に感情のまま視界を歪めていたから、はっきりとはしなかったけど、それでも彼女の声に震えが走るのを、聞いたんだ。
 僕は自分の手の小指の先が彼女の胸中の襞に僅かに触れたことに勢い付き、それを決して逃さぬようしゃにむに彼女の手を振り払い、膝を立てて彼女の肩を掴んだ。

「僕がここに居られるのは君のお陰だろ!? 君が今ここにいてくれたから僕も居るんだ! 君は居るんだ! 居る事が大事なんだ! それなのに、居ない自分の為に君が苦しむなんておかしいよ! そんなの忘れちゃえよ! 君はとても強い人だろ、出来るはずだよ!」
「私は強くなんてないんですよ、達巳君。……強かったら、兄さんを殺す事だってなかったかもしれない」
「そんなの強さとは言わない! 君の強さは……」

 今なら、はっきりとわかる。時計仕掛けの未来予知機構の奥に息付く宮子の本質。先ほど目覚めた、僕の「願い」。その2つが重なるところ。僕が感じていた、彼女の美しさの芯となっているもの。それは。

「……そんな自分の『罪』を自覚しながら、どれほど辛い体験を抱えながら、それでも『救われる』よりも『救いたい』と願う気持ちを持ち続けている事だ!」
「……!」

 宮子が、息を飲んだ。

 キリストは狡いと嫌悪した彼女。那由美の未来を変えるために生徒会長となった彼女。僕の消滅を防ぐために達巳裁判を起こした彼女。それらの行動の根っこが彼女の4年前の罪の意識に有るのかどうか、それは関係無い。僕が彼女を信じられると感じた理由、それは宮子の本質が限りなく純粋な他者救済という「願い」にあったからだ。

「あいこなんかじゃないだろ……。君は、僕を救うことで那由美をも救おうとしているんだ。僕と君が運命共同体だって言うのも、ついでの様な事で、本当の目的じゃないんだろ? だって、例え卒業までにその能力が消えたって、君の記憶まで消える訳じゃないんだから」
「……」
「だけど、そんな風に一方的に救いたがっていたら、君自身はどうなんだよ? 誰かを救って、そのために切り捨てられた可能性があって……君は独りで喪われていく未来を看取っていくだけなのか?」
「……私の力は、誰かに伝えてしまっては上手く働かなくなってしまいます。私が決めなきゃ、いけないんです」
「君は、誰でもない君だろ! 他の誰かじゃない! 安芸島宮子っていう1人の女の子だ! 他の誰かの分まで背負い込むな!」
「!」

 目を見開き、驚く宮子を僕はぐっと自分の方に引き寄せた。彼女の緑がかった灰色の瞳を、その奥に秘められた強く眩い魂ごと捕まえようと強く力を込めて睨みつける。

「苦しい、助けて欲しいって弱音を吐けよ! 何でもかんでも自分一人で責任をとろうとするな! 喋った事で未来が見えなくなるならそれでも良いだろ! 後から独りで抱え込むよりずっとずっと悩まないで済むはずだよ!」
「……達巳……くん」
「僕にも……僕にだって……君を……」

 ……言葉に、できない。勢いに任せて怒鳴りつけたが、とてもじゃないが僕ごときが彼女と同じ言葉を使って良いはずが無い。
 黙ってしまい、目線を逸らせた僕の胸に、宮子はそっと手を置いた。

「達巳君……」
「……ゴメン……僕なんか……」
「いいえ。達巳君、聞いて下さい……」

 宮子は自分から動いて僕の額に頭を寄せた。前髪がその表情を隠し、見えなくなる。

「それなら……私を、受け入れてくれるというなら、1つだけお願いがあります」
「……何?」
「私を、あなたの物にして下さい」
「……………………は?」
「この場で、私を抱いて下さい」
「だっ……!」

 え!? 抱くって!? 今肩に手を置いている、この状態の事……じゃないんだよ……ね? はぁ? 耳がおかしくなったかな? 頭はかなり前からネジが外れたようになってるから、もしかしてそっちか? そーだそーだ、そうに違いない。

「き、聞き間違えたかな? ゴメン、もう一回言ってくれる?」
「では、もう一度言いますね……私を抱いて、達巳君のモノにして下さい」
「ぶふっ!」

 吹いちゃいましたよ、笑い事じゃないんだけどさ。昔何かで言ってたよね、どういう顔をすれば良いかわからなかったら、取り敢えず「笑えばいいと思うよ」って。これ、間違いだね。本当に感情が抜け落ちるくらいの衝撃を受けたら、思わず笑っちゃうってだけなんだなぁ。

「と、とちゅじぇん、にゃ、にゃぬをおっさるのでせうか……!?」

 思わず日本語がおかしくなるくらい僕は動揺している。

「理由は……まだ、話せないと言ったら信じられませんか?」
「う……ず、ずる……で、でも、そんな大事な事……」
「大事なのは、私の貞操? それとも、達巳君の負い目ですか? 達巳君にとって恋人でもない私を抱くのは大きな負担でしょう。ですが、それを承知でお願いしたいのです」
「いや、そんな! 負担とかそんな! だけど……」
「お願いします。この選択は、私にとっても大事なことなんです。こう言うしかないのですが、信じて下さい。そして、私にも……」
「!」

 すっと宮子が肩に手をやり、僕の右手を拾い上げた。そして握った僕の手を導き、自分の胸の間に押し当てて自らの鼓動を僕に伝えてくる。

「……達巳君が信じてくれているという事を、信じさせて下さい」

 柔らかな膨らみに挟まれた僕の手のひらに、トクン、トクンと宮子の脈が伝わってくる。言葉ではなく、体感で、温もりで。僕自身を触れ合うことで感じさせて欲しいと、その命の器官は無言で主張しているようだった。
 唐突に、目の前の少女に対して強い欲求が僕の中に生まれた。この美しく、精密な少女に僕の跡を残したい。永久に消えない僕の印を刻み込みたい、そういう身勝手な欲望。彼女の生命が続く限りそれをその体内に楔の様に記したいという、雄の願望だ。
 淡泊だ、とかつて知り合いの女の子に評され、自分でも認めていた僕の中にそんな獣の様な強い欲求が潜んでいた事に狼狽する。戸惑い、自分でも扱いきれないその想いをどうする事も出来ず、僕はひとまずの逃げを口走った。

「だ、ダメだよ! そんなの、僕が単にズルして君の事を好きにしちゃうかもしれないじゃないか!」
「……それでも、私は構いませんが」

 そう言いながら首を傾げ、宮子は微笑んだ。

「自分からそう言うって事は、達巳君にそのつもりは無いって事ですよね?」
「うう……」

 見抜かれてる。僕の心中は完全に宮子の手の上なんだ。でも、もう1つ僕には女の子を抱けない理由が有るんだよ。それを説明してわかってもらうしかないのか?
 が、それすらも彼女にはお見通しだった。胸に当てていた僕の手を下に降ろし、太股の辺りでぎゅっと両手で握る。

「それと、達巳君の身体の都合の事なら知ってますから、大丈夫ですよ」
「え!?」
「処女と交わる事ができないんですよね?」
「し、知ってたの?」
「……そういう能力ですので」

 宮子はそう言うと、手を離してくるりと後ろを向き、風呂の壁に片手を突いた。照れたように頬を赤らめながら上体を捻り、こちらに横顔で微笑む。

「こっちを使って下さい。準備……してありますから」
「じゅ、準備?……っ!?」

 宮子は空いている手をこっちに突き出された自分のお尻にやって、くいっとその窄まりの周辺を引っ張って晒して見せた。形良く整った皺の周辺が引き延ばされ、色付いた部分が遮るもの無く露わにされる。一瞬指で引っ張られて口を開いて内壁が風呂の照明に光ったのが、きゅっと元通りに閉じる様が見て取れた。思わずびくんと僕のモノが反応して震える。こ、ここで……お尻でやって……いいの?
 くわんくわんとその光景に僕の頭が飽和状態になる。やって良い事と悪い事、やりたい事とやっちゃいけない事。それららがぐらぐらと頭の中で渾然と煮詰まり、僕の脳を溶鉱炉のように赤熱させている。

 宮子はさらに、僕を沸騰させるようなとんでも無い事を自分から提案してくる。顔を赤らめまま少し首を傾げ、お尻にやった手を一度離すと悪戯っぽく笑みを浮かべて、こちらに再度向き直ってこう言ったのだ。

「それとも、本当に今の私に男性経験が無いか、ちゃんと確認してみますか?」
「かくにんっ!?」

 お尻を縁に乗せ、長い脚を片方僕を誘うように持ち上げ、そして指を使って剥き出しの股間の割れ目をくいっと開いてみせる。吸い寄せられた視線の先に、宮子の女性として最も重要な器官へとつながる小さな口が見えた。ズームがかかったように視界がその空洞部で一杯になる。ひくっと恥ずかしそうに、水気で光っているその穴の縁が震えるのが見え、はっとして僕はがーっと両手を振り回して慌てた。

「い、いやいやいいよ! 信じるよ! 安芸島さんの言う事信じるから! 見なくても大丈夫だってば!」
「じゃあ、お願い、聞いてくれますか?」
「あ! ぐ……」

 僕は言葉に詰まり、この少女からはどう足掻いても逃れられない事を悟る。そして、とうとう観念したのだった。

「よ、よろしく……」

 もう少しで「ふつつか者ですが」って頭に付けちゃうところでしたよ? 僕のそんな内心の動揺はたぶん彼女は十分承知してるんだろうけど、素知らぬ顔で眼を細めて宮子は僕に笑いかけた。

「こちらこそ。……優しくして下さいね、達巳君」

 ……なんか、立ち位置逆じゃないかい?


 
 


 

 

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