BLACK DESIRE


 

 



2.


 放課後、三繰と校舎裏の渡り廊下で落ち合った僕は、連れだって東の星漣学園文化系エリアに向かった。冬月から哉潟家の能力で情報を聞き出すにしても、できるだけ人目に付かない場所が良い。昼休みの時点で七魅とともに現れた三繰と3人で情報交換し、話し合った結果、どうにか冬月を誘い出すか、哉潟家の力を使って操り、後方支援役を請け負う七魅の指示で確保した空き教室等に連れ込むのが良いとなった。

 冬月と接触するポイントはどこでも良いが、できれば1人で居る時が望ましい。七魅の情報によると、今日は火曜だから通常ならば冬月は放課後、まず風紀委員会に出席して1時間ほどの委員会活動を行った後、武道場へ移動して剣道部に参加する予定だ。夏の大会が終わっているので既に引退しているが、後輩の指導と自身の練度向上のために頻繁に顔を出しているようだ。
 星漣の五亡星会議に出席する5大委員会のうち、風紀委員会、放送委員会、そして図書委員会はそれぞれの委員会会議を図書館の会議室を借りて行うから、委員会終了後の冬月の移動ルートとしては図書館を出て、銀杏通りを北上して文化部エリアを通過し、星漣学園の敷地の北西部にでんと構えた武道館を目指すはずだ。その中に剣道部が主活動場所としている武道場が存在しているからだ。お座敷の在る文化会館を抜けた先は人通りも少なくなる。狙うなら、武道館からある程度離れたその周囲だろう。

「ナナちゃん、今の副会長の位置はわかる?」

 電話越しに三繰が七魅に問う。七魅は今回の作戦で、この学園のどこかにある哉潟家星漣学園支配システムのコントロールルームにて、隠しカメラや現在地の予測機能を駆使して僕らに情報を送ってくれることになっている。すでにターゲットの位置を把握済みだったのか、回答はすぐに返ってきた。

<まだ図書館内ですね。ただし、もう剣道着に着替えていたので自分は顔見せだけしてあとは副委員長に任せて退席する可能性も有ります>

 アプリの機能で会議モードにしていたので、僕のスマホからも七魅の声が聞こえている。僕もその会話に口を挟んだ。

「それって、良くあることなの?」
<データでは4割くらいの確率になってます>
「ふーん……」

 冬月は掛け持ちが多いから、それも仕方が無いのかもしれない。でも、今はもう剣道部の方は引退したんだし委員会を優先した方が良いんじゃないのか? と、思ったのだが、僕の思惑はともかく今日は七魅の予想の方が当たったようだった。直後に七魅から、冬月が図書館を出た旨の連絡が入ったのだ。

「急ごう」

 頷く三繰と並び、歩く速度を上げる。彼女の方はもうほとんど小走りだ。

「ねえ、本当に達巳君の本の力を使わないでいいの?」
「うん。できれば使いたくない」

 ブラックデザイアの力が使えるなら、予め効果範囲になるように三繰にドミネーションをかけることで冬月をコントロール下に置く事もできる。だが、本の能力は宮子の得体の知れない予測能力に対して非常に相性が悪いことは既に体験済みだ。
 例えば、「宮子について知っている情報を洗いざらい郁太に話す」ように認識変換を行ったとしても、その前に宮子が冬月に「私の話を聞かれたら、話すのは構いませんがその時は一度場所を変えるようにして下さい」とでも言い含めていたら、それだけでドミネーションの効果範囲から逃れる事ができる。「支配中の記憶は必ず消去されるが、それ以前の記憶に干渉することはできない」というブラックデザイアの弱点を突かれたからだ。
 或いは単に「達巳君と2人きりになってから喋って下さい」と頼むのでも良い。僕単身では僕に対して興味の薄い人間や、ペルソナガードのある生徒会の面々を操るのは難しい。

 それでも、保険としてドミネーションをかけておいた方が良いかもしれない。そう思って作戦立案中に姉妹に提案してみたのだが、それについては三繰が首を振った。

「もし、私の力をあてにしてるならそれは止した方が良いよ」
「何故さ」
「感覚の共有くらいだったら良いけど、相手の記憶を探ったり、行動をコントロールするくらい深く『力』を使うなら、他の能力の影響が有ると危険だから」
「そういうものなんだ……」

 と、そういう経緯が有ったので、今回は三繰の「舞」の力の一択となった。

 スタート位置が冬月より武道館にかなり近かったおかげで、向こうが相当急いで走って来たりしない限り先に到着されることは無い筈だ。小道を抜け、銀杏通りから続く環状道路と合流したところで一息つく。ここから北に行けば武道館、南に行けば文化会館、さらに行けば文化部棟、図書館と続く。ここで冬月と接触できれば、どこかに連れて行くにしても都合が良い。

「あっ」

 驚いたと言うより、僕の気を引くために三繰が小さく呟く。その声に南側に目を向けると、僕にもこちらに向かってくる剣道着姿の女子生徒が見えた。前髪まで含め、自前で適当に切ったようにしか見えないざんばら髪。顔の半分までその不揃いな前髪が隠しているので目も片方しか出ていない。身長は僕とほぼ変わらず、女子としては高い方だが春原のように長身とは言い難い、そんな中途半端な背。ただ、癖なのか体の重心がほとんど動かない不思議な足使いで歩いているのに、その速度は驚くほど速かった。

「さ……相良さん!」

 あっと言う間に近づいてきたその少女は、見えている筈なのに僕らを気に留めることもなく脇を通り過ぎようとする。おかげで僕はその後ろ姿に慌てて声をかけて呼び止めなければならなかった。
 すっと、まるでブレることなく冬月は歩みを止め、首だけ曲げてこちらを横目で見る。

「……何でしょうか」
「あの、ちょっと話が……時間、いいですか」
「……」

 冬月はそのまま僕らを一瞥し、そしてくっと前に向き直った。

「……なるほど」

 ? 何が、「なるほど」なんだ?

「……宮子お嬢さまのお話ですね」
「えっ!?」
「……着いて来て下さい。隠し立てなくお話しするよう言いつかっています」

 そしてそのまま、予備動作無く先ほどと同じスピードで北へ向かって歩き始める。僕と三繰は、狐に摘まれたような様な表情で顔を見合わせた。



 今度は僕まで小走りになって剣道少女に着いていった先は、予想通りに武道館だった。だが、木々に囲まれたその巨大な外観の威容は相変わらずであったが、不思議な事に内部から武道を行う生徒達の声も聞こえずひっそりと周囲は静まりかえっている。冬月はそんな武道館の正面の段差をスタスタと登ると、僕らの方をちらとも振り返らず、その中に姿を消した。僕と三繰もその後に続いて武道館の中に駆け込み、靴を脱いで板間へと上がる。
 外から感じた通り、武道館の中はしんと静まりかえっていて、しかも木造建築のせいか空気もヒンヤリしているようだった。既に冬月の姿は見えず、開け放された扉から板張りの武道場をのぞき込むと、その奥の方に僕たちに横顔を見せながら冬月が背筋を伸ばして正座していた。

(ほら、あそこ)
(ここで話をしようって事じゃない?)

 三繰と目配せで意志疎通し、おっかなびっくり武道場へ入る。電気は点いていないが明かり取りの窓からの光で十分な光量があり、内部の様子は良く分かる。真っ先に額縁に入った巨大な横長の筆書き文字が目に入ったが、一体全体何を書いてあるのか僕にはさっぱりだ。高名な書道家の物なのだろうか?
 冬月が何も言わないので、その正面に向かい合うように三繰と並んで座る。僕らが腰を落ち着けると、後は本当にこの武道場に聞こえる音は外からの木々のざわめきだけで、この場所が静寂に満ちている事を実感した。

「……予め言っておきます」

 静かに、冬月が口を開く。その声は、凛と武道場内に反響して八方から僕らに響いてくる。

「……先ほども言った通り、お嬢さまからは何も隠し立てせず、知っている事は全て達巳さんとその付き添いの方に話して構わないと言いつかっています。……私自身、その指示に抗うつもりは有りませんので、『特別なこと』をされる必要は有りません」
「……」
「……また、今の話を信じていただいても、あるいは信じていただかなくても結構です。達巳さん達がどのように感じ、どのようにこの場で行動するか、それはあなた達の自由です。……その事を理解されたら、どうぞ聞きたい事をお尋ね下さい」

 「特別なこと」ね……。いったい宮子陣営はどこまで僕らの能力について理解しているのだろう。
 三繰が物問いたげな視線を送ってくるが、僕は黙って首を振った。まだ、能力を使う場面ではない。冬月が嘘を付いていたり、何かを隠していると感じる事態になってからでも遅くはないだろう。

「それじゃ、聞くけど……」
「……」

 さて、何から聞こうか。

「まずは……そうだ、君は今日ここに部活に参加しに来たんじゃないの? 誰もいないけど」
「……今日は対校試合で剣道部は遠征に向かっています。私は引退した身ですので参加しませんが、鍛錬を休めばそれだけ鈍りますので場所だけ借りるつもりでした」
「1人で?」
「……剣を振るには竹刀と適当な場所が有れば十分ですから」
「そうなんだ。じゃあ、ここには今日もう誰も来ないの?」
「……遠征が終われば、道具を置きに戻ってくるでしょう。……しかし、午後7時より早くなることは無いと思います」
「なるほど。じゃあ、それを知っていたから僕たちをここに呼んだんだね?」
「……武道場なら、落ち着いて話ができますから」

 それは意見が分かれるところだろうけど。僕なんかこの場所に座ってまだ10分も経っていないのに、もうお尻が痛くなってきたよ。もぞもぞと腰を動かしつつ、さて、次は何を聞こう。核心に迫る前に、さっきから気になっていた事を聞いておこうか。

「相良さん、生徒会長のことさっきから『お嬢さま』って呼んでるけど……2人は学校の役職外では、ホントはどんな仲なの?」
「……そうですね。では、先に私と宮子お嬢さまの関係をお話ししましょう」

 冬月は背筋を伸ばして座ったまま、微動だにせず語った。

 宮子の実家は、日本西方の名家である安芸島家である。安芸島家は文武両道をその教育方針としていて、その家に生まれた男児は幼い頃から護身術を兼ねて剣術を習うしきたりがあった。その顧問役をやっていたのが、相良流剣術道場であり、冬月の家はその剣術家系の分家筋にあたる。
 2人の出会いは今からおよそ4年前の事であるらしい。事情により実家を離れ、星漣学園の中等部に編入することになった宮子を、冬月の家で預かる事になったのがその切っ掛けであった。つまり、冬月と宮子は2人が星漣学園に入学し、宮子が学生寮である正星館に入るまでのおよそ1年半、同じ屋根の下で暮らしていたのである。
 と言っても、2人の関係は対等なものではなかった。冬月にとって、宮子は本家の仕える名門の家系の姫君である。本家からも、そして両親祖父母からも宮子に対し決して失礼の無い様、分を弁えることを叩き込まれた。宮子の方も家と家の間での約束事を尊重したため、冬月とは一線を引いた関係を保つよう務めた。それは冬月が星漣女学園の入試に合格し、同じ学校に通う同級生となっても変わらなかった。現在でも宮子と冬月は公私において主人と従者の関係を保ち続けている。

「……家の間柄が子供達の関係を決めるのは、一般的な感覚では奇妙に思われるかもしれません」

 冬月は、僕がその話の間ずっと眉を寄せていた事に気が付き、弁明するように言った。

「……ただし、安芸島家と相良家の間においては、それが普通のことなんです。両家とも、古いしきたりを現代までずっと大切に守ってきましたから」

 例えば、安芸島家では当主の座を継ぐ者は、現当主の息子か、その兄弟に限られる。どれほど人望が有り、有能であっても娘や姉妹、あるいはその夫は当主となる事はできない。宮子は確かに現当主の長女であり、家族から大切にされているが、決して当主の相続に関わる事は無いのだ。
 その分、安芸島家の男児は幼い頃から厳しい教育が施される事になる。相良家による剣術指南もその1つだ。現当主の教育方針は非常に厳しく、基本的に勉強や運動は何でもやらせるが、その代わり1位を目指す才能を持たないと分かったところで不必要な習い事は全て禁止とされてしまうらしい。どれほどそれが好きであっても、他人に負けるようでは……それは同じ家の兄弟であっても……やっている価値が無いと判断されるのだ。そうやって他から見れば異常に厳しい競争の果てに、既に社会に出ている宮子の2人の兄は、共に若くしてこの国の重要なポストに食い込んでいるのだという。

「……その話を聞かされたとき、失礼ながら初めてお嬢さまに共感を覚えました。相良流剣術も、習う事は禁止せずとも、婦女子が師範となる事は許されていませんでしたから。……それに、私がいくら剣の鍛錬をしようとも、父や兄にはまったくかないませんから」

 優秀な2人の兄の存在に守られた姫である宮子と、才能有る兄の後ろ姿を見ながら剣を振っていた冬月。家の格は違うが、その家風による立場の相似が、生活の距離を離したとしても2人の主従関係をつなぎ止めた。だからこそ宮子は生徒会長に立候補するとき、自分の腹心として真っ先に冬月を右腕とする事を望んだのだろう。冬月としても、その要請を断る理由など有る筈が無かった。

「なるほど。君と安芸島さんは家同士の関係を元にしてるとは言え、お互い固い信頼関係が有るって事だね?」
「……はい」

 やはりこの学園において、冬月が一番宮子に近しい存在であるという僕の予想は当たっていたわけだ。宮子との関係に確証が得られたところで、次は僕がその疑惑を持つに至った出来事の詳細を聞いておこう。

「では、次の質問、というか確認なんだけど」
「……どうぞ」
「昨年度の生徒会長選挙の前、君は一度剣道部を退部しようとしているよね?」
「……そうです」
「その時、君は当時の運動部連合自治会長に、剣道部を辞める理由は『運動部を裏切る事になるから』と答えて、その詳細については……つまり、安芸島さんの側につく事がなぜ『裏切り』行為にあたるのかの詳細の説明はしなかった」
「……ええ、その通りです」
「もしかして、君はその前に運動部内に早坂さんを生徒会長にして、その副会長に君を推す動きが有った事を知っていたんじゃない?」
「……」

 冬月は僕の質問に数秒目を伏せ、そして首を振った。

「……いえ。その動きがある事を知っていたのではありません。……ただ、やがてそういう流れになる事を、『知らされて』いました」
「……それは、安芸島さんに?」
「……そうです」
「もしかして、それを教えてもらった時に、聞かれてもそれを答えないで欲しいって頼まれたんじゃない?」
「……はい。お嬢さまからは、『まだ、決定ではないので誰にも話さないでください』、と……」

 ぞくぞくっと僕の背筋に震えが走った。ぴたり、僕の予想が当たった。隣の三繰も同じ思いだったのか、緊張気味に背筋が伸びる。

「『決定ではない』。安芸島さんは、なにが決まってないと言っていたの?」
「……運動部連合の、選挙活動の方向性です」
「でも僕の聞いた話だと、君が退部の意志を話した時はまだ連合側に生徒会長立候補者はいなかったんだよね?」
「……はい。ですから……」

 ゆっくりと、言葉の意味を自分でも確認しているかのように冬月は言葉を続ける。

「……お嬢さまは、私がお嬢さまの味方となって選挙に立候補すれば、運動部連合は早坂さんを対抗に立てる事になると考えていました。……その予測通りに連合が動くよう、私の真意を秘密にするよう指示されたのです」
「やっぱり……そうだったのか……」

 僕の予感も当たっていた。宮子は、冬月の不可思議な離反を演出する事で早坂の出馬を狙っていたのだ。

「だけど、どうしてわざわざそんな煽るような真似を? その時立候補者は他に一人も居なかったんでしょ? そのままでも安芸島さんが当選してたんじゃないかな」
「……お嬢さまは、それまで生徒会に深く関わる意志を持っていませんでした。しかし……」

 昨年の冬休み直前に起きた、1年生女子生徒失踪事件。それが彼女の考えを変えたのだという。突然、星漣学園の中枢に食い込んでいく事を宮子は決めた。
 だが、それまでまったく生徒会にも、委員会にも距離を取っていた宮子は学園内ではほぼ無名生徒の扱いであり、例え会長選挙に当選しても求心力を得られるとは思えなかった。無名の宮子が役職に伴う名声を得るには、何か大きな手柄が必要だったのだ。

「……それが、早坂さんでした」
「当て馬って事か……」

 運動部連合が推薦する次期自治会長のスター、早坂英悧。それと真っ向から対決して下せば誰もが宮子の実力を認めざるを得ない。そのために、敢えて宮子は冬月を使って連合を挑発するような真似をしたのだ。
 そして、今なら宮子が冬休み前に早坂に挨拶に行った意味がはっきりと分かる。宮子の「運動部に迷惑をかける事になる」とは、その言葉通り運動部連合と、そして早坂自身を利用する事に対しての謝罪だったのだ。

 「時計仕掛けの生徒会長」安芸島宮子は、まさにその称号通りに完璧に時流を読み、寸分の狂いもなく駒を動かすことで目的通りに確固たる地位を築き上げた。そんな人間離れした予測を可能にしたのは、いったいどんな力だろう。僕は、いよいよその答えを聞くときが来たのだと感じた。

「相良さん。君はどうしてそんなに安芸島さんが正確に手を打つ事ができたのか、理由を聞いたことがある? いや、もしかして君はもっと前からその理由を知っていたんじゃないの? だから安芸島さんの予測が外れないよう、口を噤んでいられたんじゃない?」
「……ええ。……かなり以前から、私は宮子お嬢さまの秘密を、ご本人から聞かされていました」
「その秘密を、僕たちに教えて欲しい」
「……はい」

 一息つき、冬月の口が再び開くのを僕らは固唾を飲んで見守る。

「……有り体に言って、お嬢さまは『予知能力』のような力を持っているのです」
「予……知?」
「……お嬢さまご本人のお言葉通りに言うなら、『目の前の選択に対し、まるでデジャヴのように未来の出来事を思い出す力』……未来の記憶を持っているのだそうです」

 「未来記憶」……それが宮子の魔女の血がもたらした能力名。

「……両手に1粒ずつ違う種類の花の種を持っている様を想像して下さい。……そのどちらかを花壇に植えようとする時、お嬢さまはどちらの種を植えたらどのような花が咲くか、『思い出す』事ができるのです。……或いは、どちらの種が腐っていて『芽を出さないか』……。とにかく、お嬢さまは選択の際、異なる結果が待つ場合のみ、それを事前に知る事ができるのだと聞いています」
「……むぅ」

 呻き声しか出てこない。なんと凄まじい力なんだろう。
 黒い本の力が効かないのも当然だ。あの本は能力発動中の記憶を消すことはできても、それ以前の記憶をいじることはできない。だからだったのだ。宮子の見るブラックデザイア発動中の「未来の記憶」は、本の力では消すことができないから、彼女には筒抜けとなっていたのだ。

 そんな馬鹿なことがあるかと、半年前までの僕なら言っていただろう。しかし、今は僕の手に黒い本が在る。隣には超常的な舞の力を持つ三繰が居る。そして、ついこの間まで僕らは失われた魔法の力を使いこなすエアリアと戦っていたのだ。それらの力を出し抜く能力の持ち主が居たとしてもおかしくない。

 宮子はその「未来記憶」によって自分の望む結果を得られる選択を繰り返し、この学園を動かし続けてきたのだ。それは自身の選挙を有利に動かし、7月の総員投票では紫鶴を演説のために壇上に上げ、そして今回は僕の力を封じ込めて見せた。もしかすると、エアリアが以前気まぐれに椿組に顔を出した時に苦言を呈したのも、その力でタイミングを計っての事かもしれない。

「すると、こうして僕たちが相良さんに話を聞きに来ることも当然安芸島さんは『知って』いたんだよね?」
「……はい」
「いつから?」
「……いつからかはわかりません。ただ、今朝の役員会議前、本日発効の通達2件が通過することで、達巳さんとその連れ添いの方が私の元へお嬢さまの事を聞きに来る件の事、そしてそれに対し包み隠さず知っている事をお伝えするようにとの指示を話されました」
「そうか……」
「……それと同時に、お嬢さまからの伝言を預かっています」
「へ!? 僕に?」
「……『今朝発効の生徒会通達第○×号と第○△号については、達巳君の活動を妨げることがないよう、その期限を本日限りとし、いったん廃案とします。明日、その点を踏まえた修正案を出しますのでご安心を』……との事です」
「はあ?」

 折角僕のやった本の支配を封じ込めたのに、それをすぐ修正するって? 宮子はいったい何を考えてるんだ?

「……宮子お嬢さまに、達巳さん達と敵対する意志は無いのだと、お考え下さい。今後は今回のような目的で権限を使う事は無い、と」
「それじゃ、今日の通達は何のために出されたのさ?」
「……さあ。私もそこまでは伺っていません」
「……相良さんは、僕のやってる事について、会長から聞いているの?」
「……何かの目的のため、生徒会の関与しない特別な活動を行っている事は聞いています。……ただ、達巳さん以外の参加者や、その内容については知らされていません」
「そうなんだ……」

 僕は俯いて内心首を捻りながら思案し、横目で傍らの三繰に目線を送った。彼女の方も僕の視線に首を振って答える。

 宮子の目的は何なのだろう? 僕に対する警告なのか? だが、それなら冬月に敵対意志について伝えさせる必要が無い。本当に宮子は僕にもうちょっかいをかける事は無いのか? 僕がブラックデザイアの力で星漣の生徒達にどんなに非道いことをしているか知っているのに? それを黙認するって?

 ……それじゃまるで、あべこべだ。
 僕の行動を止めるために力を行使したのでは無く、僕に自分の「未来記憶」能力を知らしめるために妨害をしてみせたみたいじゃないか。僕にわざわざそれを知らせて、何を狙っているんだ? 彼女の能力に合わせて言うなら、どんな未来での結果を期待し、僕に能力を明かすという選択をしたんだろう?

 考え込んだ僕は黙り込み、それを見守る三繰も声を発しない。冬月も伝えるべき事を終えたのか、じっと座ったまま口を結んだままだ。
 1分が過ぎ、2分が過ぎ……そして、5分ほども両者が沈黙を続けたところで、ようやく冬月の側にアクションが有った。ホンの少しだけ首を傾げ、口を開いたのだ。

「……もう、よろしいでしょうか?」
「ん……え、何?」
「……これ以上質問が無いのでしたら、鍛錬を始めたいのですが」
「ああ、えっと……」

 横を向くと、「私はいいよ」と三繰が頷いた。僕は正面の冬月に向き直り、改めて彼女から得られた驚きの情報を頭の中で整理した。そしてふと、当初の目的とは違うが宮子の過去について興味を持った部分が有ることに気が付いた。

「ああ、そうそう。さっきの君の話だと、安芸島さんは今から4年前に星漣の中等部に入るために家を出てこっちに来たんだったよね?」
「……はい、その通りです」
「それも、安芸島さんのその、『未来記憶』に従って何か目的が有って来たのかな? その辺は聞いたことがある?」
「……いえ。お嬢さまには伺ったことはありません」
「ふーん……」
「ただ……」

 ここで初めて、冬月は目線を惑わせ、一瞬言いごもった。あれ? 超能力の話よりも言い辛い事なんて有るのか?

「ただ?」

 僕が促すと、冬月も宮子に「隠し立て無く話す」ように言われていた事を再度認識し直したのだろう、視線を戻し、先ほどのように不動の体勢で内に止めた話の内容を言葉に出した。

「……私の母から聞いた話です。私の家に来る前の春……つまり、今から4年半ほど前に、何か不慮の事態に巻き込まれてご実家の近くの学校に通い続けるのが難しくなったそうです」
「不慮の?」

 地元に居られなくなるって……何か不穏な雰囲気だな。

「……詳しくはわかりません」
「それは聞いていないんだ?……で、事情はともかく安芸島さんは夏休み明けに星漣に転校したって事でいいのかな」
「……星漣学園に移ったのは、宮子お嬢さまの意志ではなかったそうです。……お嬢さまご本人は、修道院に入ることを希望されていたと」
「しゅ……修道院って……」
「……それを、安芸島家当主のお父上が説得し、ようやくカトリック系の星漣学園に転入することで納得していただいたのだとか」
「……安芸島さんって、そんなに信心深かったの?」

 それは三繰にとっても初めての情報らしく、目を丸くしている。だが、僕の疑問に対して冬月は首を横に振った。

「……いえ。むしろ、その逆だったと思います」
「逆? 信じてなかったの?」
「……よく分かりません。ただ、星漣の中等部には『聖書』の授業が有ったようなのですが、一度だけ批判のような言葉を呟かれたのを聞いたことがあります」
「何て言ってたの?」
「……『キリストは、狡い』と」
「ズルい!?」

 おわぁ、信徒に聞かれたら怒られそうな意見じゃないか。そんな事を呟くようなら、間違いなく信心深かったわけじゃないな。でも、どうしてそんな意見を持ったんだろう?

「狡いって、信者もたくさん居て、後生まで称えられて、ずるいなぁって意味での事?」
「……お嬢さまの真意はわかりません。しかし私には、その時の口調や顔付きから、お嬢さまからは憧れや親しみのような感情は感じられず……」

 一瞬だけ冬月の瞳の中に傷みのような物が走ったと、僕には見えた。

「……ただ、嫌悪感だけが有ったと、私は感じました」





3.


 冬月との会合を終え武道館を出た僕たちは、七魅に連絡していつぞやの空き教室に一回集合することにした。教室に入ると既にそこには七魅が待っていて、おまけに窓辺には悪魔黒猫が日向ぼっこするように寝そべっている。メッシュの奴、いつも七魅について回ってるのかな?

「今後、どうします?」

 開口一番、七魅が率直に僕に尋ねた。即答できず、「うーん」と首を捻る僕。三繰が代わりに口を開いた。

「もう、達巳君の邪魔はしないって言ってたよね」
「それは、本心でしょうか」
「とりあえず、明日通達が解除されるのを確認してみたら?」
「時間稼ぎかも」
「そんな嘘の付き方するかな」

 七魅が物問いたげに僕を見上げる。僕はもう一度首を捻った後、心を決めた。

「相良さんの言葉に、嘘は無いと思う。信用できると感じたよ」
「……では、明日まで待ってみるのですか?」
「いや、できるだけ裏を取って、やれる事はやっておかないと」

 冬月が信頼できるのと、事実を確認するのとは別のお話だからね。

「会長が中等部2年生で編入してきたってのは本当のことなのかな」
「正確な時期は不明ですが、少なくとも入学時の名簿には会長の名前は無く、卒業時に有るので中途編入であるのは間違い有りません」
「その間、相良さんの家に居候してたってのは?」
「それも間違いないようです」
「ふうむ……」

 さすが七魅と、その配下の情報収集部隊だ。仕事が早い。三繰が横から口を挟む。

「じゃあ、会長が修道院に入りたがったって話はどう?」
「そこまでは調べられませんでした。実家の方の情報はガードが堅いようですね」
「そっか……」
「相良さんの言った会長の巻き込まれた『不慮の事態』についても、報道関係を4年半前の3月を中心に前後1ヶ月の幅で検索してみましたが、特にそれらしき情報は見つかりませんでした」

 七魅は首を傾げ、「もっと範囲を広げてみましょうか?」と聞いてきたが、僕は首を振った。

「新聞に載るような事柄じゃなかったのかもしれないよ。それに、安芸島さんの家はとても厳しい家柄なんでしょう? もしそんな事態になってたら、なおさら情報は残さないんじゃないかなぁ」
「では、この件については調査は打ち切りますか?」
「そうだねぇ……」

 手が無い以上、諦めるしかないのかな。三繰もそれに同意する。

「そうだよ。それに、会長の過去を調べるよりもっと考えないといけない事があるでしょう?」
「例えば、どんな?」
「会長自身に対して、達巳君はどうしたいの?」
「……」

 宮子への今後のアプローチか……。最善を望むならば、宮子は契約して僕の従者としたい。彼女がこの学園の最高権力者である事は間違いなく、その統制権は圧倒的な物が有るはず。味方に引き入れたら、これ以上ない決定的な支配力を発揮してくれるはず。
 しかし、ネックとなるのが宮子の不可思議な予知能力だ。「未来を見て行動できる」以上、選択権は常に宮子の側にしか無い。強引な手を使って捕らえ、拘束しようとしても、そもそもそんな危ない目に遭わないようこちらの作戦の裏をかく行動選択をすれば良いだけの話だ。
 改めて、彼女の能力のチートっぷりには呆れてしまう。ゲームで言うところの「攻略本」を見ながら生きているようなものなのだ。

「……安芸島さんには、もう一度直接、話を聞く必要が有ると思う」
「味方になってもらうように頼むの?」
「知るべきなんだよ、あの人の事を。誰かの伝聞じゃなくてさ」
「大丈夫かな」

 三繰が不安そうに言い、七魅もそれに頷く。

「……達巳君を、利用しようとしているのかも」
「それは、わからない。でも、僕の側にも利益が有るなら利用されたっていい。僕はね、今回の通達は彼女のデモンストレーションだった可能性も考えてるんだ」
「達巳君に、能力を見せつけた……?」
「僕たちに何かを伝えようとしているのかも」

 それも、宮子に直接聞かねばわからない。冬月だって彼女の真意を掴みかねている様子が有ったしな。

「僕は、知らないといけないと思うんだ。安芸島さんの事を……」

 もう一度、僕はそう繰り返した。七魅と三繰は黙ったまま、肯定も否定もしない。それが重要なことだと認めてはくれているのかな。

 その時、午後の日差しを浴びながら昼寝しているとばかり思っていた黒猫がむくりと顔を起こした。

「……なあ、さっきから嬢ちゃん達が言ってる『会長』って、アキシマって奴なのか?」
「何さ、急に」

 急な口出しに少し驚きながら窓の方に目を向ける。黒猫は髭をゆらゆら揺らしながら、金色の瞳をらんらんと好奇心に輝かせていた。

「もしかして、春夏秋冬の『アキ』じゃなくて、地名の方の『アキ』か? 家はこの国の西の方じゃないのか?」
「……知っているのですか?」
「そうなんだな?」

 七魅の言葉を肯定と捉え、黒猫は窓からすとっと床に降り立つ。そしてすたすたと僕らを見上げながら歩いてきた。

「その娘がマクドゥガルの血を引く『安芸島』家の娘なら、そいつの事を知っているかもしれない知り合いがいる」
「君の知り合い? 猫の?」
「裏稼業のだよ。悪魔も含めてな」

 悪魔猫は人間っぽく皮肉げな笑みを口元に浮かべた。

「普通の人間達に『昼の社会』が有るように、そこから弾かれた奴らの『夜の社会』があって、その中にもちゃんと情報網が張られてるんだ。哉潟の嬢ちゃん達みたいに『能力』を持つ者は、昼の社会じゃ存在すら認められないが、夜の中じゃ結構有名なんだぜ?」
「……」

 2人の姉妹が顔を見合わせる。突然自分が有名人だと言われても実感なんてわくわけが無い。いや、今はそんな事よりも。

「君が、その夜側の情報を知っている人を僕に紹介してくれるの?」
「知りたいんだろ? その娘の事が。それでブラックデザイアの力が強まるなら協力してやってもいいぜ」

 そうか、宮子を味方に引き込むことができれば魔力の回収効率が格段に高まる事が期待できる。それは、このメッシュにも有益って事か。

「じゃあ、その君の……知り合い? に会わせて」
「オーケィ。携帯を出しな、小僧」

 僕がスマホを取り出し、黒猫の前にそれをかざすとメッシュはその表面にふっと息を吹きかけた。自動的にマップアプリが立ち上がり、どこかの区画にピンが刺される。

「その店に……そうだな。日没後、7時にそこに行け。小僧の事はこっちから伝えておく」
「どんな人なの?」
「向こうから声を掛けさせるさ。会ってみてのお楽しみだ」

 黒猫は満足そうに髭を揺らした。





 メッシュが指定した場所は、繁華街の端の方にある寂れた敷地の小さなビルの地下にあった。通りに面した狭いコンクリートの階段を途中折り返して降りると目の前に板チョコレートのような外観の重厚な扉と、その上に掲げられた看板が目に飛び込んでくる。「BLACKCATS&CROWS」、黒猫と烏。扉には「OPEN」のプレート。何かのお店か? 店名からは全くその店種がわからない。
 こんな通りから見えないわかりにくい場所に、案内もなくひっそりと存在してて繁盛してるのだろうか。番地が合っているのに見あたらないから、かなりの時間うろうろと無駄にしてしまった。約束の時間ぎりぎりになって「まさかね」とのぞき込んだ階段の先にようやく発見できたのだ。

(なんか、隠れ家みたいだな)

 住所は合っているし、地下に在ることも一致する。ここ以外に条件に符合するお店は無いし、覚悟を決めて入るしかないな。僕は重い扉を押して開いた隙間から体を中に滑り込ませた。

 店の中は奥行きが長く横幅は驚くほど狭かった。薄暗い明かりの中、その横幅の3分の1位を縦にバーカウンターが占拠して、その中には人がかろうじて動き回れるスペースを空けて壁際に色々な瓶の並んだ棚が見える。残りの3分の2はカウンターに並んだスツール椅子と、棚の反対側のテーブル席のスペースだ。
 お客はほとんど居らず、真っ先に目に入ったのはカウンターの中で酒瓶を磨いている初老のバーテンダー風の男性だった。オールバックの髪は完全に白く、同じ色のブーメランのような口髭が口元を隠している。その男は僕の入店にちらりとこちらを見たが、手を休めずに「いらっしゃいませ」と呟くように言っただけだった。
 ここはバーだろうか? その割には狭い店内にコーヒーの香ばしい匂いが漂っている。もしかして昼は軽食とコーヒー、夜はお酒を出すカフェ・バーなのかもしれない。その割に立地が最悪で看板も外から見えない上に、ぱっと見なんの店かわからなかったんだけど。

 僕がそうやって適度に落ち着いた照明の店内を見渡して観察していると、奥の方のテーブルにこっち向きで座っていた唯一の男性客が僕の方に手を上げた。

「おーい、こっちこっち」

 そう言って、良い大人が無邪気そうにブンブンと手を振っている。まあ、他に客も居ないしどうでもいいか。僕はそれに返答することなく、体を横にしてテーブルと椅子の間を抜けてその男の席に近寄っていった。途中でちらっとカウンターの中の男性に目をやるが、手元に視線を落としたまま全く見向きもしない。これで客商売やっていけてるのか?

「お待たせしてすみません」
「ああ、いいよ。君が達巳郁太君なのかな?」

 一瞬、ふとどこかでこの声を聞いたような気がした。だが、目の前の男は間違いなく初対面だ。心の中でデジャヴのように浮かんだ疑念を追い払い、縦に首を振る。

「はい、そうですけど」
「ま、座って座って」

 その男の勧めに従って正面の椅子を引いて座る。男の方はカウンターの方へ「マスター、彼にアイスコーヒー!」と声を張り上げた。それにマスターと呼ばれたバーテンダー風の男性は黙って頷く。

「まだ、アルコールを入れるには早いね」
「はあ……」

 それは時間の事を言っているのか? それとも僕の話? 自分はホットコーヒーで、僕はアイスか。何となく、下に見られているような気がする。僕はその男を正面から見つめた。
 第一印象として、どこか軽薄そうで飄々としたイメージを抱かせる男だった。髪は散髪をさぼったような中途半端な長髪でぼさぼさ、こめかみから繋がった顎髭も手入れのあとは無い。年齢は30代後半だろうか。しかし、髭を剃ったら以外と若いかもしれない。彫りが深い顔立ちで鼻が高く、やや垂れ目。口元には人を食ったような笑いが浮かんでいて、それがイメージを軽くすることに一役買っていた。
 服装はグレーのシャツの上に模様の入ったベストを着ていて、シャツは腕まくりして日に焼けた腕を晒している。外で被っていたのか、壁際のコートを掛ける用のフックには報道記者が被るイメージのハンチング帽が掛かっていた。

「……あなたが、その……紹介にあった人ですか」
「ああ。郁太君と私の共通の知り合いから、君への情報提供を頼まれてね」
「僕の名前は聞いていたんですか?」
「うん? まあね」
「あなたの事は何て呼べばいいんです?」

 僕が一応礼儀として名を聞くと、その男は破顔した。

「それ、郁太君からの質問って事でいいのかな?」
「え?」
「私は一応情報を扱って生活している身でね。今日ここに来たのは、郁太君に尋ねられる案件について1つだけ答えるって約束だったんだよ」
「……名前くらい、教えてくれても」
「今は個人情報も売買の対象だからね」

 飄々と悪びれる風も無く言う。その上、「どうしても呼びにくかったら田中一郎でも佐藤一郎でも好きに呼べばいい」とニヤリと笑いながら宣った。これには僕も馬鹿にされているとわかり、カチンと来た。

「名前も言えない人の情報なんて、信用できませんよ」
「その真偽を判断するのは受け取り手の問題さ」
「少なくとも、僕は『名無し』さんからの匿名情報じゃ最初から疑って掛かるしか無いと思いますけどね」
「私の情報は匿名掲示板の書き込み程度の価値しかないと?」
「違うなら、少なくとも自分を識別する名前は名乗るべきじゃないですか?」

 ぷうっと目を丸くしてその男は息を吐いた。おもしろくないな、この男、まるでオモチャを見つけたような顔をしている。イライラと言葉を募ろうとして、口を開きかけた時、ちょうど僕の目の前のテーブルにコトッと黒い液体の入ったグラスが置かれた。

「……」

 いつの間にかカウンターを出てきていた白髪の男が無言で帰っていく。マスターって呼ばれてたっけ、この人。気勢を削がれ、僕は口を噤んだ。そんな僕を、目の前の男は顎髭を撫でながら見つめていた。

「名前ねぇ……そんなに大事かな」
「どうでもいいなら教えてくれたっていいじゃないですか……」
「はてさて。それじゃ、今から私がこれこれこういう者ですって自己紹介したら、それで郁太君は納得してくれるのかな?」
「……あなたは、誰なんですか?」

 男は「ふーむ」と唸ると、急に顎髭から手を離してぽんと手を打った。

「じゃあ、こうしようじゃないか。私は今から郁太君にとって少しは意味のある名前を名乗る。それで納得したら、その時は聞きたい事を質問してくれればいい」
「……納得しなかったら?」
「まあ、その時も質問してくれていいよ。一応、そういう約束だったからね」

 この男は何が言いたいんだろう。僕にとって意味のある名前? 僕の何を知っているって言うのさ?

「誰に聞いたか知りませんけど、それであなたの胡散臭さが消える訳じゃないですよ」
「まあまあ、物は試しだ。そうだね、例えば――」

 男は身体を乗り出し、口元をニヒルに歪めながら言った。

「――草薙……ってのはどうだい?」

 
 


 

 

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