BLACK DESIRE


 

 



10.


 ……夢を見ていた。
 それが夢だと気が付いたのは、夢の中の僕は僕では無い、誰か別の人物だったからだ。

 夢の中の主人公である僕は今よりちょっとだけ歳を重ねた青年で、黒髪であることは同じだけどその両目は見たことも無い色合いの黄金色だった。まるでそれ自体が輝いているような、そんな金色。
 そして、そんな金色の瞳を持つ僕は、とても悲しんでいた。憤っていた。苦しんでいた。僕は、ほんの最近、誰かとても大切な人を亡くしたのだった。
 自分の半身のような大切な人を亡くした僕。自ら死を選ばなかったのは、その死に理不尽を感じ、辛うじて怒りのエネルギーが行動するだけの燃料になっていたからだった。それが尽きれば、後はもう真っ逆様に絶望の崖へと落ち込んでいく、そのギリギリの所で僕は彷徨っていた。

 僕はずっと旅を続けていた。
 亡くした大切な人を、どうにかして取り戻したいと、在るはずの無い方法を探して長いこと旅をした。世界のへそと言われる最も暗き穴にも潜った。天界へと繋がっているという無限の絶壁も登った。日の光届かぬ海の底も、極寒の氷原も、燃えさかる溶岩の洞窟すら探索し尽くした。
 だが、何処にも見つからなかった。亡くした大切な人を取り戻す方法など、何処にも存在しなかった。

 そして、僕は遂に禁断の地へと足を踏み入れた。世界の果てと言われる、神、あるいは魔の領域へと向かったのだ。
 想像を絶する困難な旅であった。これまでの冒険が幼児の遊戯のように思えるくらい、桁違いの試練が僕に襲いかかった。

 だが、それでも僕は諦めなかった。何故なら、僕にとってあの人の居ない世界など意味が無かったから。この世界に僕の望みを叶える方法が無いなら、その時こそこの世界に用など無くなるのだから。

 そして、暗い、深い、地獄の底へと繋がるような洞窟の先で、遂に、僕は「この世の理と異なる可能性を発現する存在」、すなわち、「悪魔」と出会った。

 悪魔は、凍えた僕の身体を暖めるために何も無い空間から「火」を起こして見せた。僕は、それこそが失ったあの人を死という運命から解放する「可能性」を汲み上げる手段だと思った。僕は悪魔に必死になって頼む。その技を、可能性を現実にする術を教えて欲しい。引き替えに何でもする、旅の間に手に入れた宝も、欲しければ全部あげる。そう言って、悪魔の力を欲した。

 悪魔は、僕の提示した物は何もいらないと言った。その言葉に僕は絶望する。ならば、どうしたらその力を教えてくれるのだ。
 すると、悪魔はこう言ったのだ。

「私は、私を表す言葉が欲しい。世界でただ1つ、私自身を示す事ができる言葉――『名前』が欲しい」

 そうだったのか。そんな事だったのか。
 僕はその悪魔の希望を叶えてあげると言った。君を表す、ただ1つ、唯一無二の言葉をあげよう。

 そう、君はこの世界で初めて名前を持つ悪魔になる。だから、君は皆に「最初(TOBALI)」と、呼ばれるだろう。





「……つみ……ん……たつみくん……」

 僕の右手に、細い指の感触があった。ちょっとひんやりした手の平。しかし、ぎゅっと握る手には驚くくらい熱が籠もっている。

「……たつみくん……戻ってきて……私の所に……帰ってきて……」

 僕はその感触に、ほっと息を吐いて身を任せた。もう少し、僕では無い僕のお話を見ていたかった。悪魔の力を得た僕がどうなるのか。名前を貰った悪魔はその後どうするのか。そして、大切な人は定めに逆らい、蘇ることができるのか。
 しかし、僕には何となく分かっていた。それを見続けてもこの物語の結末は、どう足掻いても悲劇的な終わりを迎えるのだということが。だから、それを見ないで済んで、僕は安堵の息を吐き出したのだ。

 急速に意識が浮上していく。洞窟の奥で最初の悪魔の手を取り、入り口へと引き返していく黒髪の青年の姿が、どんどん霞んでいく。瞼の裏に、眩しい外の世界の光が溢れる。

 フラッシュのように、その後の2人の光景が一瞬で浮かんでは消えていく。海を初めて見て驚く悪魔。空を飛ぶ乗り物を作った青年と、それに乗り目を細める悪魔。戦争に駆り出され、やがて人々を指揮する立場になる青年。その帰りを青年の館でじっと待ち続ける悪魔。そして、青年は王となり……悪魔はその王のために尽くし……。

 ――そして、僕は目を覚ました。





 最初に視界に飛び込んできたのは、白い天井に張り付いている2列に並んだ蛍光灯の姿だった。ぼんやりとそれを見つめ、やがてゆっくりとそれが僕の目を刺す光源では無いことに気が付く。
 頭を動かし、光の方へと首を左に傾けた。ベージュ色のカーテン越しに、陽の光が室内に強く射し込んできている。窓が少し開いているのか、端の方がゆらゆらと揺れていた。昼……いや、日差しが斜めだから、朝なのか。そして、ついでのように僕は白いシーツのベッドに寝て、薄い青色のタオルケットが掛けられていることに気付く。ここは何処だろう? 少なくとも、僕の寝泊まりする高原の別邸ではない。

 ヒントを探して顔を反対に向ける。そしてそこで、ようやく僕は夢の中からずっと僕の右手を握っていたものの正体を見つけた。身体の横に置かれた僕の手に指を絡め、反対の手でそれをぎゅっと掴み、そしてその手のすぐ側に頭を置き、椅子に座ったまま眠っている少女が居たのだ。
 七魅だった。顔を僕の手を見つめる方向に向けて頬をシーツに付け、今は目を閉じて静かな寝息を立てている。まるで僕の手にでも縋りついていないと不安で堪らないといった姿勢だが、不思議なことにその表情は穏やかだった。そっと身体を起こし、顔にかかっていた髪の一房を左手で退けてやる。

「……達巳君、起きた?」

 少し離れた場所からの声に、僕は七魅から目を離してそちらに顔を向けた。そこには、陽の光の作る陰の中に七魅と良く似た顔付きの少女が同じように椅子に座り、こっちを向いている。

「……三繰?」
「あ、静かにしてて。ナナちゃん、一晩中達巳君のこと待ってたんだから」

 僕は無言で了承の頷きを返した。
 ぐるりと周囲を見渡す。どうやら、ここは星漣学園の保健室のようだった。少し見た覚えがある。僕はそこのベッドで寝こけていたらしい。
 前後の記憶がはっきりしない。あの魔女に契約の印を押そうとしたところまでは覚えている。その後、僕はどうなったんだ?

「……あのコが、屋上で待ってるよ」

 首を捻っていると、三繰がそれを見越したように声を掛けてきた。

「目を覚ましたら、すぐ来させるようにって」
「……エアリアが?」
「そう」
「……わかったよ」

 そっと七魅の手を外す。よほど疲れているのか、その動きや僕がベッドを降りる振動にも目を覚まさない。僕はタオルケットを取って七魅の細い肩に掛けてやった。

「……急いだ方がいいよ。何か、すごい怒ってた」
「……それなのに、叩き起こさないんだな」
「よく分からないけど、魔力が行き渡るまではあまり無理に意識を回復させるのは良くないんだって」

 それは、どういう事だ? あの魔女が僕の身体を気遣うなんてあり得るのか? もしかして、僕はエアリアに助けられたのか?
 疑問の表情の僕に、三繰は「行って行って」と身振りで僕を追い払った。今度は七魅に、三繰が付いていてあげるのだろう。

 そうっと保健室の扉を開けて外に出る。音を立てないよう、静かにドアをスライドして締め切る瞬間、ぽつりと何か、三繰が呟いた気がした。

「……ちょっと、危ないかな……」

 それが誰に向けての、何に対する言葉なのか。エアリアの事へと頭が向いていた僕には、気付く余裕は無かった。





 屋上に出ると、ひときわ強い東からの日差しが僕の眼を貫いた。新しい一日を告げる朝日だ。だが、まだ登校時間にはなってはいない。学園内はまだ静謐な夜の冷気が残っていて、それがゆっくりと晴れていくところであった。

「来たか、ボーヤ」

 相変わらずエアリアは黒マント姿だった。あれ、さっき燃えなかったっけ? 何着もあるのかな?

「呼ばれて来たけど……そのボーヤっての止めてくれない?」
「ボーヤはボーヤだ。ボーヤは幾つになった?」
「……君とそんなに変わらないと思うけど」
「この世界内ではな」

 そう言ってニヤリと笑う。精神年齢は夢世界の分上だって言いたいのかな? 「ロリババア」という言葉が喉元まで出掛かった。危ない危ない、せっかく思ったより怒ってないみたいなんだし、ここで機嫌を損ねるべきではない。

「君が助けてくれたの?」
「借りだとは思わんことだ。命の恩人だ、一生恩に着ろ」
「あー……うん。まずはありがとう」
「よろしい。さて……」

 エアリアはマントの中をごそごそすると、その手に例の黒い本を取り出した。

「僕の本だ」
「違う。私の本だ」

 そしてエアリアはその本を人差し指で宙に浮かせると、ふいっと僕の方を指さした。すーっと空中を移動して僕の手元まで来た本は、差し出した両手の上にどさっと落ちる。

「ボーヤが使い終わるまで、『貸しておく』」
「はあ……?」

 なんだそりゃ。

「思っていたよりもボーヤには知恵が在るようだし、この学園内に味方も多い。ならば、私が直接本を使うために出てこないで、ボーヤに代わりにやらせても最終段階まで進めることは可能だろう。だから、それまでの間、ボーヤに使わせてやろうと言うのだ」
「……はあ」
「命の恩人が誉めているんだぞ。喜べ」
「……わーい、嬉しいなー」

 なんだこれは。つまりこれが、エアリアなりのプライドのギリギリのラインなのか。なんというか……ちょっと可愛いかな。
 その気持ちが顔に現れていたのか、エアリアは露骨に顔をしかめた。

「何か、気持ちの悪いことを考えているな。ボーヤ」
「いいえ全然、まったく」
「言っておくが、余りに進展が遅いようなら返して貰うからな。その時は、ボーヤの命がかかってようが容赦はしない」
「肝に銘じます」

 これは……どういう状況なんだろう。少年マンガに良くある「昨日の敵は今日の友」パターンなのだろうか。知恵比べで僕に負けて改心した? いやいや、そんな性根が有ったら最初から夢世界に潜んでこっそり学園の様子を覗き見るような姑息な事はしないでしょう。
 僕がよっぽど変な顔をしていたのか、エアリアは明後日の方にぷいと向いて呟くように言った。

「……あの娘に感謝するんだな、ボーヤ」
「? 誰のこと?」
「身を投げ出してまでボーヤの事を守ろうとしたんだ。例えボーヤがいなくなっても、あの娘に恨まれて敵に回すのは少々やっかいだ」

 幎? それとも七魅かな? どちらにしろ、エアリアは今回の件で多勢に無勢という言葉を学んだって事か。

「……じゃあ、僕に協力してくれるってこと?」
「協力じゃない。ボーヤの事を『監督』してやろう」
「うわあ……」

 あれか、口は出すけど見返りは出さないって事か。一番タチが悪いぞ。
 エアリアは僕の不満をまったく気にすること無く、きりりと眉を釣り上げるとビシッと僕の鼻先に指を突き付けた。

「早速だが、ボーヤの進行度は遅い。遅過ぎるぞ」
「……夏休みが明けたら頑張るつもりだったのに、ちょっかい出してきた人が何を言う」
「馬鹿が、小学生の言い訳か。この時点で契約者がたった3人というのはやる気が無いのか」
「でも、粒はそろってるでしょ?」
「まあ、それは確かだ。するとボーヤ、お前は向こうから言い寄ってこなければ手を出せない軟弱ボーヤという事だな?」

 うわ、何か呼び方が下方修正されましたよ?

「そうは言ってもね、君も見たんじゃないか。僕にとって魔力を全放出する契約は命がけなんだよ。これは、という時じゃないとなかなかチャンスなんて回ってこないよ」
「ふむ……それもそうか」

 エアリアは顎に手を当てて何かぶつぶつと思案している。意外と素直なんだな。憎まれ口は単に高いプライドのせいか。
 やがて妙案が浮かんだのか、にやりと笑みを浮かべてこちらに向く。

「そういえば、ボーヤの左眼の中におもしろい機能を持った人工精霊(オートマトン)が潜んでいたな」
「おーとまとん?」
「いや、悪魔の作った物だから使い魔か。糸が付いているとやっかいだからコピーを取って潰しておいたが、丁度いい。あれに機能を付加してやろう」
「改造? するとどうなるの?」
「まあ、待ってろ。1日に数回は契約しても大丈夫になるはずだ」

 自信たっぷりに胸を張るエアリア。そんなに張っても、胸のでっぱりはストーンと虚しいままなんだけど。

「まあ、期待しておくよ」

 僕は気のない返事を返してパラパラと戻ってきた本の中身を確認した。エアリアには、当然全部見られちゃったんだよな……。くそう、もうよっぽどのチャンスが無いとエアリアと契約なんてできないぞ。
 そう思いながらページをめくっていき、ふと手を止めた。

「あれ?」
「言っておくが、私と契約したところでボーヤにはほとんど利用価値など無いからな」
「どういうこと?」

 問題の箇所は、もちろんエアリアのページの中にある。一旦は契約寸前まで行ったお陰か、そこには契約者にしか現れないはずのステータス情報が表示されていたのだ。
 だが、しかし。

「統制権(ドミナンス)0?」
「そう言うことだ」
「……友達いないから?」
「違うっ! 私は既に一度ブラックデザイアを使っているからだっ! 契約の代償として世界との繋がりが絶たれてしまったんだよっ!」

 へえ。それは初めて聞いた情報だ。どういう意味なんだろ?

「繋がりが絶たれるってどういう事? 願いを叶えると、まさかみんな本の使用者の事を忘れちゃうの?」
「なんだと? まさかお前の悪魔はそこまでボーヤに説明もせずにブラック・デザイアを使わせているのか?」
「いや……うん……」

 幎のことだから、聞けば教えてくれるんだろうけど……なにせ必要な事以外ほとんど喋らないからなぁ。そのワリに行動力は有るし、こちらの意図を読んだりするのは得意みたいなんだけど。
 エアリアが僕の口ごもりをどう解釈したか分からないが、やれやれと溜息がちに首を振った。

「……それで良く心臓を代償とすることを了解したものだ。その悪魔が嘘をついていたかもしれんのだぞ?」
「幎は嘘をつかないよ。演技はするけど」
「ボーヤはやっぱり馬鹿なのか……いや、向こう見ずの自殺志願者となじってやるべきか?」
「なんでさ」
「このボンクラボーヤの何処がいいのだ、あの娘は……」

 ぶつぶつと不満か罵倒か良く分からないことを呟いたエアリアは、マントの内から20センチ位のちっちゃいステッキを取り出す。そしてそれでクルリと空中に円を描き、宙に浮いた。
 スルスルと飛び上がった少女は僕を飛び越し、すたっと屋上の建物の上に立つ。あー、上から目線大好きっ子かー。意味の無いエアリアの移動に僕は首を曲げて見上げつつ、そんなことを考えていた。もちろん、頭の上を飛び越す瞬間に目撃した白い布の部分を脳の保護記憶領域に保存しつつだけど。なんというか、意外とウカツなんだよな、エアリアって。

「そもそもだな。ボーヤは悪魔と契約するとき、その代償として『自分の寿命の半分』か『身体の一部』で選ばされなかったか?」
「……そうだけど? それが一般的な契約の代償なのかなって思って」
「そこで何故疑問に思わないのだ」
「?」
「『寿命の半分』の『寿命』とは何だ? どうやってそれを計る?」
「え。悪魔なんだからそれくらい調べられるんじゃないの?」
「できる悪魔もいるだろうが、一般的ではないな」

 ……衝撃的事実だ。僕は屋上の風にひらひらと揺れるエアリアのスカートのはためきに気を取られかけていたが、改めてその話に集中した。

「じゃあ、幎はそれができる悪魔なんだよ」
「人の未来が読めて、さらに干渉までできる悪魔がこっちに出てきてたら、とっくに国の1つくらいはそいつの領域になっている。そんな危なっかしい怪物を閉じ込めておくために、魔術師は苦労して魔法世界を封印したんだ」

 エアリアは講義のようにステッキを振り振り話を続ける。

「それに、ボーヤが本を使用開始して1ヶ月でドジを踏んで心臓が停止したら、その1ヶ月が寿命だったことになるのか? 心臓ではなく寿命で契約してたらそれが半月になる? あり得ん、契約しなければもっと長く生きられた命だ」
「へえ……僕には分からないな。何でなのか教えてくれる?」

 僕は降参のお手上げジェスチャーをした。エアリアは満足そうに頷いて勿体ぶって話し始める。……こいつ、もしかして昔教師かなんかやってたんじゃないか? どうも知識を披露するのが楽しくて堪らないという雰囲気がある。

「答は簡単だ。悪魔にその力が有るんじゃない。ブラック・デザイアに『寿命』に相当するものを読み、操作する力が有るのだ」
「ほうほう。それって何?」
「ボーヤにも分かりやすく説明してやろう。ある人間が現在を起点として時間軸に沿って未来に進む時、辿る未来はルートの分岐した樹系図状ではなく、もっとシームレスな扇形の面となる。これを未来可能扇(みらいかのうせん)または単に未来扇と呼び、その面積がいわゆる人間が未来に持つ可能性の総量となる」
「ふむ。その広がりが可能性の広がりってわけね。でも、三角形にはならないの?」
「どの時点で死ぬか不定だからな。扇形の円弧部分に到達すれば可能性から外れ、その人間の人としての時間は終わる。一般的にはこれが『死』だ」
「なるほど」

 ということは、今問題になっている「寿命」も、一定ではないって事か……。

「じゃあ、『寿命』なんて決められないね」
「その通り。『普通の人間』ならばな」
「……『普通じゃ無い人間』もいるの?」
「本と契約できる人間の条件を思い出せ。ブラック・デザイアは、ある特殊な条件を持った人間を選び出して使用者とする」
「……」
「そう、『黒い欲望』を胸に秘めた人間だけだ」

 『黒い欲望(ブラックデザイア)』……。
 他の何と引き替えにしてでも叶えたい、それのためなら死すら厭わない究極の願望。幎は、理性のストップを受けずにそれを為すことができるのは、特別な人間だけだと言っていた。ある意味、人間失格の者だけだと。

「黒い欲望を抱く人間の未来扇は扇形にならない。そいつの人生はその欲望によって捻くれ、可能性の面が作る形は棒状、あるいはレンズ状のひどく狭い範囲に限定される。可能性が時間軸を芯に圧縮されているんだ」
「……そうなんだ」
「その結果、黒い本がアクセスする『世界の記憶』からはそいつの可能性が未来記憶としてかなり正確なところまで参照可能となる。本は、時間軸に近い未来を選り分け、その可能性の半分に相当する部分を断ち切って悪魔に引き渡す事ができるのさ」
「失敗して不履行になったら?」
「命を落とした結果そうなったのなら、ボーヤに見ることのできた世界では何の変化も無い。何しろ、ボーヤの辿り着けなかった未来ですでに支払いが済んでいるのだからな。これを『寿命の半分』と呼ぶのが適当かは判断しかねるが」
「……そう……か……」

 僕はエアリアの顔を、その身体をじっと見つめた。

「君は……その、自分の未来を契約の代償としたんだ」
「そう言うことだ。私の未来扇はすでに断ち切られている。たまたま縁があったためにこの学園に夢世界から干渉する事もできるが、今の私は幻……いや、記憶の残滓から構成される夢みたいなものだ。だから、他者の認識に影響を及ぼすことはできない」
「その、君の失った可能性は、君の悪魔が持っているの?」
「……いや、ラミアとは違う悪魔だ。もういない」

 そう言うエアリアの顔は、少しだけ陰って見えた。それは後悔? 哀惜? 慨嘆? それとも、ただの陽の作る影? 今の僕とエアリアの距離では、その本当のところを知る術は無い。

「……ともかく、君に統制権が無いのは別に友達がいないからって訳でも無いって事は理解したよ」
「そうだ。私に友達がいないからでは無いぞ。本を使ったせいなのだ」

 そこ、胸を張る所なんだろうか? まあ、少し元気を取り戻したみたいだからいいけど。だけど、あれ? ちょっと待てよ?

「……ねえ、あのさ」
「何だ。言っておくが、一度説明したことはもう二度と話さん。めんどうだからな」
「いや、そうじゃなくて。確か、幎は願いが成就したら契約の代償は返してくれるって話だったと思うんだけど……それに、君も契約の強制解除なら代償を取り返せるって言ってなかったっけ?」
「……返すことのできる悪魔が残っていればな。私の場合、大封印が有った」
「大封印?」

 何だろう? さっき言ってた怪物退治の話かな。

「魔法の残留物によって誕生した魔物を世界から消滅させるため、魔法そのものを封じ込める試みだ。その結果、私の寿命を奪った悪魔も契約の半ばで消えてしまったのだ」
「ああ、なるほど……問屋に質を入れたら、その問屋が夜逃げしたって訳か……」
「私の計画は完璧だったのだ。だから、もう一度その本を発動状態にすればアイツを呼び出して、絶たれた未来扇を繋ぎ直す事だってできる筈だ」

 だから、この本を欲しがったのか。でも、完璧と言うワリには今回も僕に負けてる気がするけど……。生来の性格なのか、ちょっと真っ直ぐ過ぎてこの娘は視野が狭いのかもしれない。ハルとかと相性良いんじゃないかなぁ。
 僕がそんなことを考えていると、エアリアは「私のことはいい!」と慌てて言葉を付け足した。

「それより、ボーヤの事だ! まさかとは思うが、『ガジェット』についても知らないのではあるまいな?」

 またも新しく聞く単語が飛び出てきた。なんだそりゃ。

「残念ながら、記憶にございません」
「やはりそうか……お前の悪魔は一体何をやっているんだ……いや」

 「まさか契約の悪魔自身何をやっているのかわかっていないなんて事が……」とブツブツとひとり言を呟くエアリア。何なんだ、勿体ぶらずに教えてくれよ。

「『ガジェット』って、何さ?」
「……ボーヤは最終段階に到達したブラック・デザイアの能力を何と言われている?」
「えっと……確か……」

 幎先生用のノートが手元に無いからうろ覚えだけど……。

「精神変容(トランスフィギュレーション)って能力で、世界を変える力が有るって聞いたよ」
「それは半分正解で、半分間違っている」
「そうなの?」

 うーむ、記憶があやふやだ。後で復習しておかないと。

「正確には、『世界』に繋がる扉と鍵を創りだす能力なのだ。おかしいと思わなかったのか? 人の認識を操る能力に特化されたブラック・デザイアが、どうして世界の変革などと大それた事が行えるのか」
「いや、まあ……それは何となく。秘められし『ぱうぁー』的な何かかと」
「あきれたものだ」

 言葉だけでなく、本当にエアリアはヤレヤレと肩を竦めて見せた。だってさぁ、魔法が本当に在ったんだよ? 悪魔が居たんだよ? それならその2つの力で世界を変える事だってできそうじゃない? 納得しちゃうよ、僕じゃなくたって。

「世界レベルで、例えば今日『雪が降る』と認識させたとしてもそれはボーヤから見れば単にこのクソ熱い中寒い寒いと厚着をしたり、何もない地面で自ら滑って転ぶ人々を見るだけだ。それだけでは『世界を変える』という程の力とは言えん」
「まあ、そうだね」
「『ガジェット』を用い、『世界の記憶』を書き換える。それを行うことで、初めてありとあらゆる森羅万象・原理原則・物理限界を無視した改変が実現するのだ」

 ほあ?……なんか、とんでもない話になってきたぞ?
 ブラック・デザイアってそんなスゴイ本だったのか……!

「つまり、その『ガジェット』が扉で、最終段階のブラック・デザイアの能力が鍵なわけだね。さっきの例えだと」
「その通り」

 エアリアは初めて満足そうに肯いた。楽しそうにステッキを振り、ノリノリで講義を続ける。

「最も、ガジェットを創りだすのはブラック・デザイアだけの専売特許ではない。今は殆どのものが失われたが、伝説級の宝具にはガジェットを生み出す力が有った。いや、ガジェットを生み出す力が備わっていたからこそ伝説になったと言うべきか」
「宝具?」
「ボーヤも知っている有名ドコロと言えば、西欧の伝説に名高い『王を選んだ剣』などがあるな」
「え、それって……」

 僕はゲームなんかでも良く出てくる伝説の聖剣の名前を思い出した。エアリアは「それだ」とニヤリ笑いを浮かべる。

「だが、その剣はせいぜい自身を岩から抜いた者を王にするよう世界改変を行うガジェットを創っただけだ。ブラック・デザイアのように何でも有りな訳では無い」
「何でも有りなんだ……」
「宝具はそもそもガジェット作成の機能を期待されて創られたものではないからな。強力な武具に人々の権力欲などの願望が纏わり付き、結果的にその目的のためだけに世界の記憶に干渉するガジェットを生み出しただけだ。だが、ブラック・デザイアはそういった宝具の機能を研究した魔術師によって、意図的にガジェットを生み出す目的で創られた。魔法を原動力とし、魔術の究極の到達点の1つを完成させたのだ」

 そう言うエアリアは、どこか懐かしそうで、嬉しそうに言葉を続けた。

「聞け。魔術とは、究極的には世界の記憶たるアカシック・レコードにアクセスし、創世から終極への因果を読み解く事を目的とする純粋な叡智探求の学問だ。世界の様々な事象……例えば、物理法則、歴史、人の魂の在り方、物語創作など、ありとあらゆる事象は、アカシック・レコードがヒトのDNAの様にその発現する時期や地域を定めている。発現した事象の一部である我々にはその様を観察してレコードを推測する事しかできないが、魔術師は『ガジェット』を発見し、初めてそれにアクセスし、事象改変が人間の力で可能な事を証明したのだ」
「……魔法と魔術って、違うの?」
「魔法は魔術の一部だ。魔法を発見した事で魔術は飛躍的に発展して理解を深め、系統整備されたが、レコードの解析を目指した原始的神秘学はそれ以前から存在していた」

 エアリアは良くわからない難しい言葉を並べたてて説明を続ける。なんだか煙にまこうとしているみたいだけど、彼女の使う魔術の存在した世界では当たり前の知識だったんだろう。エアリアの、本当のいるべき世界、か……。

「じゃあ、そのガジェットってのも魔法とは別物なんだね?」
「うむ。いいぞ、ボーヤ。魔法は悪魔の力を借りてこの世界に存在しない可能性を汲み上げ、発現する技術だ。ブラック・デザイアも第5段階までの力は魔法の一部と言える。だが、ガジェットは違う。ガジェットは世界の記憶そのものに干渉し、それを変更して物理法則すら捻じ曲げることができる。言うなれば、魔神レベルの世界干渉を可能をするのだ。もちろん……」

 そこまで言ってエアリアは言葉を一旦止め、ニヤリと笑う。

「……1人の人間を生き返らす事も。いや、その人間の死の歴史そのものを変更する事くらい、容易いものだ」
「……」

 ……本を読んだなら僕の最終目的も知ってて当然か。
 胸の中心辺りで、蠢く気配が有る。それは僕の黒い欲望の塊で、達巳郁太という人でなしを活動させるもう1つの心臓だ。今それは、初めて実感を伴う実現の可能性に大きく喜びを主張し鼓動していた。

「……まあ、わかったよ。とにかく、まずは本を最終段階にする。そしてその力でそのガジェットっていうのを創る。それで僕の妹は生き返るんだね?」
「そうだ」
「それで。結局のところそのガジェットってどんな物なのさ。宝石みたいなの? それとも武器みたいな形とか」
「……どのような方法を使ったとしても、可能性の壁を突破する原動力はたった1つに集約される。もちろん、ガジェットもその力を使う」
「? 何の事?」
「悪魔の力も、伝説の聖剣も、そしてブラック・デザイアの生み出すガジェットも、全て同じ。その大小や集める数の違いこそあれ……たった1つ、人間の欲望のみがその壁を打ち破るのだ」
「え、なにそれ……」

 僕の戸惑いを打ち払うように、エアリアは杖を横に振った。バサリとマントが翻る。

「ガジェットとは、人間だ。人間の想像力が生み出す強い願望が、世界のありとあらゆる法則を突破して別の可能性を引きずり出す。そしてブラック・デザイアとは、『使用者以外の黒い欲望を持つ人間を、ガジェットへと変換する力を持つ宝具』なのだ」
「黒い欲望を持つ人間を……ガジェットに」
「その本を創ったヤツは間違いなく天才だよ。無数の魔術師が最終段階の力を模倣しようと時間をかけたが、結局生み出されたのは醜悪な欲望具現装置程度のモノだった。その、ボーヤの手の中の1冊の本だけが、神にも等しい世界改変能力を持つガジェットを生み出す事ができるのだ」

 黒い欲望を持つ人間……それはブラック・デザイアを使用する権利を持つだけで無く、ブラック・デザイアに使われる可能性のある人間だったって事なのか。その中から、僕が使用者に選ばれたのは幸運だったのか。

「……どうすればいい?」
「適正を持つ人間をガジェットとするには、まずその人間をボーヤの契約者としなければならない。そして、当然ブラック・デザイアに魔力がフル充填された最終段階にしておかねばならない。その上で、トランスフィギュレーションの能力を使い、その者の『黒い欲望』を実現する欲求をもって世界の記憶と繋げてやるのだ。それで、その契約者は世界の記憶にアクセス可能なガジェットとなる。そうすれば、そのガジェットをコネクタとして世界のあらゆる事象は変え放題だ」
「なるほど。契約者を増やせって言ったのは、そういう意味も有ったんだね」
「まあ、そうだな」
「でも、黒い欲望の持ち主をどうやって調べる? 本の力で聞いて回る?」
「いや、それについてはボーヤには簡単に調べる方法がある」
「そうなの?」

 それなら、さっさと見つけて確保しておかないとな。いざ本が使えるようになったのに肝心のガジェットの適正を持った人間がいないんじゃお話にならない。

「やり方を教えてよ」
「うむ。ブラック・デザイアと関わる資格、と言っていいのか、黒い欲望を持つ人間は限られている。だが、不思議なことに……これは実体験もあるのだが、黒い欲望を持つ人間は、同じく黒い欲望を持つ人間に引かれるのだ。興味にしろ、敵意にしろ、な。恐らく、ボーヤに近づいてくるこの学園の生徒の中にも、1人か2人、素養を持った者がいる筈だ」
「そんなに居るものなのか……」
「後は、片っ端から契約を行ってその黒い本を触らせればいい。その本は欲望の持つ力に敏感だ。自分を使う事のできる黒い欲望持ちの人間が触れば、本は自動的にその人間の精神探索を開始する。そして、魔力の左眼を持ち、本の使用者であるボーヤには、その人間の持つ欲望の根源となる記憶が視える筈だ。つまり、ボーヤの契約者で、本を持たせた時におかしな幻覚の視えた相手がガジェットとなる資格を持っている事になる」
「記憶が視える……?」

 ふと、僕はその言葉に引っかかりを覚えた。確か、左眼だけにどこか知らない場所、知らない時、知らない人物の登場する光景が映った事が有ったはずだ。あれは、何時の事だった……?

 ……

 ………………

 …………………………! 思い出した!

「……心当たりがあるようだな」
「……」

 ……七魅だ。
 夏休み前、あの総選挙の運動中に七魅と契約した際、本を読みたいと言った彼女に手渡した時に間違いなく何かおかしな光景を見た。あれがそうだったとすると、七魅もまた黒い欲望の持ち主で、あの光景が彼女の欲望の原初の風景って事なのか……? もしこの想像が当たりなら、七魅をガジェットとすれば僕の願いが叶う?

「……」
「ボーヤ、例え1人2人契約者の中に心当たりがいたところでやることは変わらんぞ」
「……うん……」
「契約者を増やせ。学園をお前の意思で支配しろ。本を最終段階とするための魔力はとてつもなく大きい。当たり前だ。今までの人の心を操作するのとは訳が違う。世界の認識への風穴を打ち開けるのだからな」

 そうだ……な。どちらにしろ、まずは魔力集めだ。今の僕の契約者だけでは、学園全体を領域支配する事すらできない。エアリアも1日の契約回数を増やせるようにしてくれるって言うし、それなら契約者をどんどんと増やしていくのもアリだろう。
 それに……。

「……それにさ。契約者をガジェットにするって事は、黒い欲望を叶えてやるって事なんだろ? そりゃ僕の目的を邪魔するような物は御免だけど、僕の役にも立ち、自分の願いも叶う。万々歳じゃないか」
「……」

 そうだよ。七魅がどんな願望を持っているのかは知らないけど、長年変えたかった現実が僕のお陰で叶うんだ。喜ぶべき事じゃないか。
 だが、僕のその脳天気な考えにエアリアは目を閉じて首を振った。

「ボーヤ……残念だが、人がガジェットに成るという事は、そんなに甘いモノじゃない」
「……どうなるのさ」
「世界と繋がるということは、その者が世界の記憶の一部となるということだ。先ほど言った未来扇は失われ、時間軸に沿った世界の定めた一本の線上の未来しかガジェットには存在しない。人という定義から外れ、それはガジェットという概念に近いものに成る」
「良くわからないな。その人間が消えて無くなる訳じゃないんでしょ?」
「……ボーヤにも理解できるように言うと、ガジェットと成ったその瞬間から、その人間だった者は死の瞬間、いや死の先まで運命という呪いに囚われる事になるのだ」

 「言い伝えに残る英雄たちの末路を思い出してみるがいい」と、エアリアは言った。

「英雄たちは、そのほとんどが宝具と関わり、ガジェットと成って世界の都合によって運命を決定された者達だ。彼らが平穏無事な生涯を送ったか? 世界は、己の記憶を修正するために好き勝手に英雄たちを駆り出す。それは運命という名の世界の紡ぐ物語の必然だ」

 僕は絶句した。七魅が、伝説や物語の中の主人公達のような存在になる……?

「ガジェットと成った者に、まともな幸福など有り得ないと思え。死すら、自身の思い通りにならん。英雄を殺すには、その役目の重みに見合うだけの悲劇の物語が必要とされるからだ。ガジェットはその役目が尽きるまで、永久に運命の奴隷として世界に良いように操られ続ける。その生涯は、例え一時黒い欲望を叶えたとしても私には幸福とは思えん」
「……でも。めでたしめでたしで終わるお話だって有るじゃないか」
「ボーヤ。薄々感じているのだろう?」

 エアリアは、憐れむような、諭すような、不思議な表情で僕に静かに語りかけた。

「勇者は姫を救出し、結婚して幸せに暮らしました。めでたしめでたし。……だが、それはそのお話が幸せな所で区切られただけで、当然現実は続いていく。なのに、それが語られることは無い。何故だ?」
「言い伝えるほど、面白く無いからだろ?」
「違うな。言っただろう、ガジェット化とは呪いのようなものだと。『世界が必要とする限り』、死すら回避不能の運命として容赦なく断行される」

 何が言いたいんだ。僕は目が覚めて早々の難しい話題でいい加減混乱してきたので、投げやりに思った事を口にした。

「じゃあ、必要なくなったんだよ。だから物語にも残らないんだ」

 だが、それにエアリアは「ほう」と感心したように肯定した。

「その通りだ。世界はそのガジェットを必要としなくなり、その者の未来扇……いや、一本しか無いから、未来『線』か、それを断ち切ったのだ」
「え? それってなんかヤバそうな感じだけど、どうなるの?」
「私と同じ事になる」

 エアリアはステッキをくるりと回し、その先で地面の下を指す。

「消えるんだよ、幻のように。名声とそれが残した結果だけを痕跡として」
「!? はぁ?」
「物語はハッピーエンドで終わった。ならば、それ以降に物語が存在しては困る。だから、死の語られない英雄の物語は、線の終端で可能性の繋がりから開放され、消滅する。そうやって、必要の無くなったガジェットをまるで飽きたオモチャの様に切り捨てるんだ」

 なんだ……それ。
 僕が七魅をガジェットにしたら、彼女はとんでもない運命に巻き込まれて死ぬか、それとも役目を果たして何処へとも知れずに消えるか、そんな未来しか無いってことなのかよ? それじゃ……あまりにも、残酷過ぎないか。

 僕は腕を持ち上げ、抱えていた本に視線を落とした。黒い表紙に、金の文字で黒い欲望を示す文字が並んでいる。人の欲望が、世界を変える? その結果、那由美も生き返る? そして、その代償として、1人の少女の人生が、陳腐な物語の様に消費されていく……。

「矛盾が……有るだろ……」

 混乱した頭で考えられたのは、それくらいの言葉だった。

「この学園の生徒からその、ガジェットになる奴を選んだとする。もしそいつがすぐ用済みになったら、消えちゃうんだろ? せっかくそいつの黒い欲望を叶えたのに、その結果は何処に行くのさ」
「何処にも行かない。ガジェットとなった者に関する事柄は、ボーヤを除いて歴史の再編成の対象となる。ただ、世界の記憶の断片として、類似した事象が再生される事も有るかも知れない。そこに当事者が存在しないだけで」
「……」
「……どうした、ボーヤ。今更怖気づいたのか?」

 ……怖気づく、だって?
 自分でもわからない。何故だろう、僕は例え何と引き替えにしてでも那由美を生き返らせるんじゃなかったのか。その為に、自分の心臓を幎に差し出したんじゃなかったのか。何で、こんなに頭がぐちゃぐちゃになって纏まらないんだよ!

 ……七魅が。

 七魅が。

 七魅が。

 階段の上から半眼で睨みつける七魅が。
 教室で姉にからかわれる七魅が。きりりと引き締まった眉で僕に話しかける七魅が。
 恥ずかしさで耳まで真っ赤になった七魅が。拗ねてプイと顔を背ける七魅が。
 愛おしそうに僕の指を舐めた七魅が。肩を震わせて僕に別れを告げた七魅が。
 僕の手を必死に握っていてくれた七魅が。僕をずっと待っていてくれた七魅が。

 ……僕の手で、この世界から居なくなってしまう。

「……哉潟……七魅といったか、あの娘は」
「……!?」

 エアリアの言葉に、僕は驚いて顔を上げた。少女の透き通った碧眼が、まるで僕の考えを全て見通すかのようにじっと見つめている。静かに、僕の脳裏に響くような口調でエアリアは言った。

「……何にせよ、時間は有る。だが、それでも必ず選択の時はやってくるのだ」
「……選択の……時」

 風が吹き、少女のマントが一瞬翻ってふわりと浮く。それがゆったりと元通りに身体を覆い隠したところで、エアリアは何かを思い出すように空を見上げた。

「……果たして、その娘を世界の生贄に捧げるのか……本当に、それで良いのか……良く、考えることだ」

 ……僕は、その言葉に何も返すことはできなかった。

 ただ、今まで頼もしいだけだった手の中の本に、急にその素材が変わったかのような……ミシリと腕が引きちぎれそうな程の重みを、感じていたのだった。

 
 


 

 

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