BLACK DESIRE


 

 



0.


 高く、頭頂を吸い寄せるような聖堂の天蓋。
 その下で、一心にひとつの聖典に心を寄せる300名あまりの乙女達。
 何列も連なった年代物の長椅子の背もたれは、すっきり伸ばされた背筋にピタリと張り付くよう緩やかにカーブして彼女たちの心と体を天へと導いている。

 広大な聖堂内には朗々と聖典を読み上げる1人以外には僅かな衣擦れの音も響かない。初夏の青蒸した外気でさえ隔絶されたこの聖域には浸透することができないのだろう。夏服の剥き出しの腕を小鳥の吐息のようなささやかな風が撫でていく。

 現在時刻、午前8時15分。普通の学校ならまだ朝のホームルームも始まっていない時間だろう。だけどこの星漣をそこらの凡百の学校と一緒にしてはいけない。
 制服を見てもわかるように修道院の生活スタイルを基調としたこの学園は授業の開始も8時と早く、さらに水曜の1時間目はこの様に生徒全員参加のミサまで行われる。これで遅刻者が皆無というのだからこの学園の規律正しさにはまったく恐れ入るね。

 転校時に貰ったこの聖典も最初の内は世界で最も流通している本なのだからどれだけ心を打つお話なのかと小指の爪くらいには期待してみた。だけど残念なことにその内容は奇想天外で童話とたいしたレベルの違いはなく、僕は早々に興味を失っていた。

 僕がこの学園に来たのはこんな3流ファンタジーを聞かされるためじゃない。この学園は僕の牧場、そしてそこに通う由緒正しいお嬢様方は欲望の畜牛達だ。この格調高い礼拝堂もまた悪魔好みの混沌を引き込む格好のアクセントだ。早速「欲望(デザイア)」を発動してやろう。

 仕込みは既にしてある。この間のP作戦以来、僕と哉潟三繰とは協力関係にある。彼女には僕がまだこの異能の力をうまく使いこなせないことを正直に話し、その為の実験に付きあうことを承諾してもらっている。今回はあらかじめ三繰にインサーションキー「ミサ」、設定エリア「礼拝堂」でドミネーションを設定してある。「神様の前で隠し事をしてはならない。だからミサの最中、最前列の女生徒は下着を膝下まで脱ぐのが決まり」ってね。

 もちろん三繰1人ではこの礼拝堂にいる全員をコントロールする事はできない。彼女の統制権(ドミナンス)は23だから、300名余りの生徒全員をドミネーションの対象にするには数が全然足りない。
 だが、「23人より多い人間に同時に能力を使えない」と「23人より多い人間の存在する場所では能力を使えない」はイコールではない。なぜならドミネーション能力は規定人数まで順に伝播するというだけで、それ以降の人間には何の影響も与えず能力の発動を知らせることもないのだから。

 ミサの時、生徒達は特にクラス毎に席が決まっているわけではなく前から順に詰めて座る決まりになっている。だから労せずとも最前列の少女達にはドミネーションの効果が及んでいるはずだ。そこで下着を降ろしても後ろから覗き込まない限り背もたれが邪魔になって後列からは何をしているかわからない。
 僕にはこの学園内であればどこにいようと不審に思われない「存在優先権」があるから、各クラスがそれぞれミサに移動を始める前に先回りして最前列の一番左に座っておいた。その理由は、ミサの最中に僕よりも前に出る可能性のある者にドミネーションの効果が及ぶことを確認するためだ。

 ミサの間に生徒達の正面に立つ人物は3人。派遣のシスター、オルガン演奏者の生徒、そして今演壇で書物を読み上げている朗読役の生徒の3人だ。
 この3人は僕が到着したときにはすでに礼拝堂内で打ち合わせのために集合していた。だから真っ先に能力の影響を受けているはず。彼女らが最前列の少女の異常行動に疑問を抱くことは有り得ないのだ。
 後ろの生徒達もまさかシスター達が見ている目の前でそんな不埒が許されるはずがないと思っているだろうから、これはある意味で保険にもなっている。

 さて、状況確認はこれ位で良いだろう。
 そろそろ次の行動に移る時だ。

 僕は手の中の分厚い本をめくって最後の方のページを開く。そこにはあらかじめ用意しておいた2枚の紙片が挟まっていた。こいつが今日の実験のメインだ。

 ブラックデザイアで他者をコントロールするにはキーワードとなる言葉を認識させる必要がある。しかし、一概に言葉と言っても例えばそれはその人間の理解できない言語でもかまわないのか、録音した言葉でも良いのか、また手紙やメールのような文字でも通用するのか、その辺の区切りがいまいちハッキリとしていなかった。
 そこで、そこに存在するルールを確認するために何度か実験を繰り返した結果、わかったことは──

・インサーションキーを含む使用者自身の言葉であれば、たとえスピーカー越しであっても書き込みは成功する。ただし、実際に言葉を発してから4秒以内に対象者がブラックデザイアの効果範囲に入らないとその書き込みは無効になる。

・書き込む内容は使用者と対象者が両方とも数秒間で理解可能な内容でなくてはならない。

・紙などの媒体に記入された内容に書き込み能力は無い。ただし、例外としてブラックデザイア自体に書き込まれた文章には、使用者がそれを破棄する意志を持つまで効力を発揮する。この時、筆記具は文字を残せるものならば何を使ってもかまわない。またこの場合は対象者が文章を目に入れた瞬間に書き込みが発動する。

・切り取られたブラックデザイアの紙片も本体と同じ能力を持つ。ただし、情報を表示させる場合はその大きさによって内容の制限を受ける。

──と、こんな具合だ。

 今回は特に3つめと4つめのルールを確認するために、小さく切り取ったブラックデザイアのページ2枚にそれぞれ1つずつインサーションの内容を鉛筆で書いて持ってきていた。1つめは──「ミサの間、下着を降ろしている者は座っている時スカートをめくって下半身を正面に露出する」。僕はそのメモを隣の娘にだけ見えるようにそっと差し出した。

 その娘はメモを読んで一瞬目を見開いたが、すぐに合点がいったという風に小さくうなずく。そしてまるで指摘してくれてありがとうと言わんばかりに小さく僕に笑いかけると、本を持ってない方の手で膝にかかっていたスカートを引っ張りそのまま下腹部が見えるまでたくし上げたのだ。当然、下着を降ろしているのだから膝の下で小さく丸まっている白い布切れや柔らかそうな太腿、なめらかな曲線のお腹とその下の影になっている茂みまで全てが露わになる。

 それは最前列の者全員に伝播し、次々と、しかしこのミサの厳粛さを壊さぬように静かに自らの手で決して他の者の目に触れるべきではない秘部を露出していく乙女達。
 そのような光景を前にしても聖書を読み上げる少女は一滴の雫ほどの動揺も見せずにすました顔で言葉を続けていく。

 うん、予想通りだ。この聖堂内の誰もこの異常行為に気付けない。
 それじゃあ、朗読が終わる前にもう一枚の方も見せておこう。こっちは先程のものよりずっと過激だ。「ミサの間下着を脱いだ者は、お祈りの言葉を口にすると快感を覚えその終了と共に性的絶頂を迎える」……と。これは常人なら簡単には実行できないことだが、さてどうなるかな?

(お……やっと終わりか)

 所定の箇所を読み終えた生徒が本を閉じて演壇から離れる。代わってこの4月に前任者から交代したらしい若いシスターが進み出る。
 その場にいた全員が自然に手を合わせ、目を閉じた。

「天にまします我らの父よ──」
『願わくは御名の尊まれんことを。御国の来たらんことを』

 シスターの言葉に続き、女生徒達が声を揃えてお祈りの言葉を謳いあげていく。その途端、微かに触れている隣の少女の肩がぴくぴくと痙攣しているかのように震え始めた。
 うっすらと横目で様子を確認してみると、僕の隣に並んでいる少女達の顔は一様に耳まで真っ赤に染まり、苦痛を堪えるかのように眉をぎゅっと寄せている。
 まあ、みんな目を瞑っているからバレることはなさそうだな。

『──我らを試みに引きたまわざれ。我らを悪より救いたまえ……アーメン』

 締めの言葉が発せられた瞬間、僕の腕にドンと隣の少女の肩がぶつかってくる。必死に目を瞑り、涙さえ浮かべて官能の波に耐える乙女達。口に手をやって声が出ないよう必死に押さえつけている娘もいる。靴の踵を浮かせ、僅かに開いた太腿の隙間に手を差し込んで股間を押さえている娘もいた。
 ふふ、どうやら全員指定通りに達することができたようだね。

 パイプオルガンの前奏が始まる。終わりの賛美歌を歌うために全員が席から立ち上がった。
 起立すれば捲れていたスカートは自然に膝下までを覆い隠し、降ろされている下着を他者の目から隠してくれる。最前列の何人かは立ち上がるときにふらついていたようだったけど、まあ問題は無いだろう。
 上気し陶然とした眼差しの少女達の横顔を確認し、満足した僕は笑いを噛み殺しつつ神を讃える歌を一緒に歌い上げるのだった。




 星漣学園の図書館は校舎と隣り合って建っている。最近僕は自習や休み時間など、時間の余ったときにもっぱらここで過ごすことにしていた。
 と言っても全国最多という蔵書量に興味があったわけではない。図書館の自習室の一角、ブースで区切られている情報検索用のインターネット端末を利用するのが目的だ。

 ブラックデザイアの使用実験を繰り返したおかげで副次的にわかったことがもう1つあった。
 同じシチュエーションの書き込みを同じ対象者に行った場合、魔力の回収量が減少する、というルールだ。一度崩した秩序は能力を解除しても元の厳粛さには戻らないということなのか。

 僕1人で少女達を操るネタを考え出すにも限界がある。それにこの学園のレベルについて行くためにも学業の方もあまりおろそかにする訳にもいかない。
 幸い、今はネットを利用すればその手のネタに困ることはない。小説、アニメ、漫画、ニュース、掲示板。「催眠」「MC(マインドコントロール)」「露出」などの単語で検索をかければ幾らでもそういった趣味の連中が考え抜いたシチュエーションを見つけることができる。彼らもこんな風に再利用されるとは思っていなかっただろうけどね。

 自習室に静かに入室する。僕の他に生徒はほとんどいないようだ。
 前任者と違い今のシスターはミサを短時間で終わらせてしまうため、この水曜の1時間目の後半はほぼ完全なフリータイムになっている。しかし、真面目な星漣の生徒は大体が自分のクラスに戻って授業の予習をしたりするので、この時間に図書館を訪れる人間は数えるくらいしかいない。

 僕がいつも使用するのは端末机の最後列の一番端っこの席だ。ここなら後ろから覗かれる心配をする必要もない。今日もその席に座るべく、僕は迷うことなくブースの間を素通りしていく。

(……あれ?)

 何の警戒もなく壁際で指定席の方にターンした僕は虚を突かれて立ち止まった。
 思いがけず、そこには白い星漣の制服を身につけた少女が席について1冊の文庫を開き読書中であったからだ。

 椅子の座面から伸びる背筋はすらりと優雅なS字を描き、細い顎は両掌の中の本に視線を向けるために軽くひかれている。可憐な唇の下のそのラインを辿っていけば、少女の形良くまとまった耳朶の後方から生える細く柔らかそうな髪。後頭部の左右2カ所でまとめられ、そこから一旦緩やかに流れ落ちて少女の細い肩を撫でつつ、椅子の背もたれを越えて背中側に静かに広がっている。

 それは、いつも選択教科の授業で見ていたはずの光景だ。その少女はいつでもその時間帯、僕の隣の席で寸分違わぬ姿勢で教科書に向かっていたのだから。
 だがどうしたことだ。今日の彼女は何か違って見える。
 こめかみから垂れた髪をかき上げる仕草に、僕は身動きすることも出来ず視線だけが吸い寄せられていた。

 僕が無言で立ちつくしていると少女は本にしおりを挟んでそれをゆっくりと閉じた。そしてその緑がかった灰色の瞳を僕の方に向け、控えめな笑顔を見せる。

「おはようございます。何かご用でしょうか?」
「あ……いや」

 咄嗟にこれからしようとしていたことを思い出す。意味もなく前回履歴を削除し忘れなかったかどうか心の中で再確認してしまう。その娘がそんなことわざわざ調べるはずがないのに。

「……どうしてその席を?」

 結局、動揺した僕は話の繋がりとしては下の下の質問で返してしまった。

「この時期、あちらは日差しが強いので……」
「あ、そうですね」
「達巳君はこちらで調べ物ですか?」
「ええ、まあ……」

 えっと……この娘の名前、何だっけ。そう言えば、聞いてみよう聞いてみようと思ってたのになんだかんだで尋ねていない。

「もしかして、ここ、お気に入りの席でしたか?」
「え? いや、そういう訳ではないですよ。隅っこが好きなだけです」
「まあ、猫みたい」

 そう言って、少女は声に出して笑った。

「私は夕方暇なときは良くここで読書をしてから帰るんです」
「クラブには入ってないのですか?」
「クラブ……ええ、まあ、近いものには所属してます。最近は忙しくてなかなか本を読む時間が無くて。こんな時間ですけれど我慢できなくて来てしまいました」
「よほど本が好きなんですね。どんな本をいつも?」
「えっと……」

 僕の何気ない質問に少女は言葉を濁す。なんだ、人に言えないような本か?
 まさかやおい本ってことは無いだろうけど……それはそれでおもしろい。

 その時、僕のポケットの中で携帯が振動した。なんだ、誰だこんな時に。すぐ止まったということはメールかな。
 一応この星漣の中で携帯電話の使用は禁止されているから、この娘の前で確認する訳にはいかないな。

「あ、ちょっと用事を思い出しました」
「はい。では、また後で」
「ええ、それじゃ」

 挨拶もそこそこに早足で通路に出る。その時、僕は携帯の事に心を奪われていたせいで、その少女が僕の後ろ姿をじっと見詰めていたなんてことにまったく気が付くはずがなかった。




「あ、きたきた。イクちゃんこっち!」

 案の定、この星漣で授業時間中にメールを送信するような馬鹿はハルだった。「1F掲示板で大事件Σ(゚Д゚) 出頭セヨ(`・ω・´)ゝ」と、顔文字をふんだんに使った内容に僕はそこはかとなくむかつきを覚えながら指定された掲示板前に到着する。
 とりあえずハルの頭は叩いておいた。

「いったー!? 何するのー!」
「とりあえずの風紀的な処罰だ。気にするな」
「私的制裁だよ、イクちゃんのは……」
「気にしたら負けだと思っている。それより大事件って何だ、幽霊事務員でも見つけたのか」
「何それ?」
「知らないのか? 何時行っても休憩中の謎の受付を」

 そう言いながらも、僕はどうやらハルの言う「事件」というのは人だかりのできている問題の掲示板にあるらしいと見当をつけ、歩み寄る。

(?)

 何故か周囲にいた女生徒達が、僕の顔を見るなり思わせぶりな顔つきで道を開ける。……なんか、嫌な感じだ。
 少女達の間に僕のため開かれた道を辿り、掲示板の正面に立つ。そこには、確か朝登校した時には無かったはずの新しい掲示物が画鋲でとめられていた。

「……な──」





  校則改正案



 星漣学園校則 第4則12項に以下の項目を追加する。


 第4則12項 異性交遊に関する心構

  付則1 学園敷地内に於いては教諭からの指示のない限り親族以外の異性間での会話を禁止する

  付則2 学園外に於いて異性との交遊には保護者もしくはそれに準じる者の許可を必要とする

  付則3 授業時間外に於いて不必要に異性と行動を共にすることを禁止する
  (※ この付則の施行に伴い男子生徒用の校舎通用口を設置する)

  付則4 男子生徒は女子生徒専用区画への立ち入りを禁止する
  (※ 別紙参照)


 以上。



  (星漣学園生徒会長捺印)





「──なにぃいいいいいいいいいいいい!!?」

 な、なんだこれはっ!?
 親族以外の異性って……この学園には男は僕しかいないんだろっ!?
 こいつは、明らかに僕個人に向けての締め付けじゃないか!

「なんだこれは、ハルっ!?」
「わ、わからないよ。私もさっき初めて見たんだし……」
「こんな、こんな横暴が通るのかっ、この学校は!? 明らかにターゲットは僕じゃないか!」
「そうだよね。おかしいよね、変だよね……」
「おかしいって、お前。じゃあなんでこんなのがここに張られてるんだよ?」

 それも、この学園の生徒達の最高権力者、生徒会長の承認済みで!

 別紙として張られている性別毎に区分けされた学園内の地図なんか酷いものだ。7割までが女子生徒専用の区画として塗り分けられ、共有区画と合わせても男の行動範囲はこの学園の3割にも満たない。食堂まで席が指定されてるってどういうイジメだ!

 僕達の声は興奮もあってそうとう高くなってしまっていたんだろう。その時、遠方からそこにいた全員に向かって鋭い叱責の声が飛んできた。

「静かに! まだ授業時間中です!」

 騒いでいた全員が動きを止められ、そちらに目を向ければ2人の女生徒がこちらに向けて近づいてくる。その内の小柄な方は小走りに先行して僕たちの前まで駆けつけてきた。

「みなさん、まだ休み時間ではありません! こんなところでたむろしてお喋りに時間を浪費せず、星漣生としての節度ある行動を心がけてて下さい!」

 僕より頭ひとつ小さな体に三つ編みお下げが2本、そして大きな丸っこい眼鏡。どこかあのミドリと被った外見ながら遙かに強烈な視線にこの場に居た生徒達が皆萎縮してしまう。
 その瞳が何故か僕に向かって注視した。明らかに敵意の込もった目付きで顎を上げながら僕のことを威嚇してくる。

「この掲示内容については後ほどクラス委員を通して説明があります。それまでは余計な邪推などで騒ぎ立てることの無いように。皆さん、解散してご自分のクラスにお戻り下さい」

 ……邪推だって? 喧嘩売ってるのか、こいつは?

 僕もまたまなじりに力を込めて睨み返してやる。
 今の物言いでこいつが件の生徒会の関係者だということはわかった。どんな地位にあるのか知らないが、僕だって男だ。ここまで言われてはいそうですかと尻尾を巻いて引き下がれる訳無いだろう。2人の間に一触即発の気配が満ちる。

 だが、そんな気勢も1人の人物がこの場に到着するまでのことだった。その人物の姿に僕は飛び出しかけた言葉を思わず飲み込んでしまう。

「──マナ、あなたも少し声が高いようですね」
「あ……も、申し訳ありません!」

 え……?

 後から到着した少女に指摘されて慌てて謝る眼鏡お下げの女生徒。僕はそのもう1人の少女に目を釘付けにされている。

「会長……」
   「会長……」

 後ろで掲示板前に集まっていた生徒達がざわざわと囁きあっている。その言葉の節々に混ざるある人物を示す呼称。
 え……? だって……えっ?

「──安芸島さん……」

 僕の隣で、ハルがぽつりと呟く。
 え……この娘が……? だって……この少女は……。え、嘘、でしょ?

 呆然としている僕に、その緑がかった灰色という不思議な色合いの瞳を持つ少女は向き直る。優雅に一歩踏み出し、僕の視線を真正面から捉えた。

「そういえば、初めてお会いしてから一月も経つのにまだ自己紹介をしたことがありませんでしたね?」

 その少女は、いつもアドバイスをくれる時のようにあの自信に満ちた微笑みを浮かべた。

「今年度星漣学園生徒会長、3年榊組 安芸島宮子(あきしまみやこ)と申します。──どうぞよろしくお願いしますね」




BLACK DESIRE


#7 達巳裁判 I




1.


 雑草に覆われたなだらかな丘を早足で登っていく。初夏の日差しはその程度の運動でも僕の体温を急上昇させ、頂上に着く頃には背中はべったりシャツに張り付かれてしまっていた。

(……ここならいいか)

 丘の一番高い場所に孤独に生える大樹の木陰で一息つき、額の汗をおざなりに腕で拭うと僕は携帯を取り出した。蓋を開いてアドレス帳から親父の番号を呼び出してコールする。

 この場所は七魅に教えてもらった三繰用プレイスポットの1つである。いつからここにあるのかわからないこの桜の樹は星漣の生徒から「ヤシロザクラ」という愛称で親しまれている。だが、校舎から歩いて8分、そのうち登り道5分弱という立地条件の悪さからここを訪れる者はよっぽどの暇人か変わり者に限られる。それが授業時間中ともなればなおさらだ。
 それに、見ての通りこの丘にはヤシロザクラ1本を除いて背の高い木が生えていない。だから、もし誰かがこの場所目指して登ってきたら一目瞭然なのだ。内密の話をするに絶好の条件と言えるだろう。

 より影の濃い場所を目指し、幹にもたれかかりながら相手が出るのを待つ。きっちり2回、呼び出し音を鳴らした後に軽いノイズと共に電話が繋がった。

『──はい、達巳です』
「僕だよ。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
『はい、郁太様。どのようなご用件でしょうか』

 電話に出たのは当然のことながら悪魔メイドの幎(とばり)だ。姿は見えないけど、僕には受話器を耳に当てた彼女がお得意の小首をかしげるポーズで次の言葉を待っている姿が容易に想像できた。

「つい今さっきの事なんだけど……」

 僕は掲示板に貼られていた通知の内容をかいつまんで伝える。そして、念のためここ最近で実験したブラックデザイアの使用法についても細部に渡って説明した。今更幎には隠したって意味がないし、判断材料は多い方が良いだろう。

「幎、君は以前言ったよね? 僕の都合のために自動的に環境と理由が整うって。だけど今回のこれは僕に対して明らかに締め付けを行ってきている。本当に『存在優先権』は有効なのか? 何か不具合があるのならその力をもう一度使って欲しいんだけど?」

 そもそも僕がこの学園に在学することがきちんと優先されるならこんな校則案は発表されなかったはずだ。今からでも遅くない。幎の力でこの発表を撤回させればこれまで通り、僕の日常は保証されるんだ。

 だけど、わずかな沈黙の後に電話の向こうから届いた言葉は、僕の期待する了承の返答ではなかった。

『残念ながら、郁太様。その要求に応えることはできません』
「な……え? どうして?」
『郁太様の存在優先権は正常に働いているからです』

 予想もしなかった回答に僕は絶句してしまった。言葉が見つからず黙り込んでいると、淡々とした口調で続く説明が携帯から流れ始める。

『郁太様。存在優先権はブラックデザイアの使用者が私からの要求である秩序の破壊を行うに不足の無い環境を整えるために行使されます。郁太様が能力を行使するに必要な条件は唯一≪その場所にいても良い学園の生徒であること≫だと認識しています。ですから例えその規則が郁太様に適応されたとしても問題はありません』

 ……何だって?

「ちょっと待ってくれ。だから、校則のせいで僕の行動が制限されるのが問題なんだよ」
『ですから、郁太様が制限事項にかかる事を行っても、存在優先権は自動的に発動して郁太様の存在を≪学園の生徒である≫他は認識できないように書き換えを行います』
「はぁ?」
『郁太様の存在は誰にも認識されません。先程の規則に当てはめるならば、郁太様と会話した女性は誰と出会ったのかを覚えておらず、校外で出会ったならば同じ学園の生徒であることしか判別できず、行動を共にしたならばその終了と同時に一人きりであったと記憶が書き換えられ、立入禁止区域内ならば郁太様は霧に包まれたかのように姿を確認されることはないでしょう』
「な……」

 僕が僕であることを、誰もわからなくなるってことなのか!?

「それじゃ、僕はここに存在していない様なものじゃないか!」
『いいえ。ブラックデザイアと接続している限り郁太様はそこに存在し続けます。ただ郁太様のことを皆、』

 温度を感じさせない電話の声は、機械仕掛けのように単調に告げた。

『忘れるだけです』




 ヤシロザクラの根本に寝転がると、一気に青苦い草と土の匂いが周囲を取り巻いた。色濃く育った今年度分の葉っぱが空を覆い隠し、表面を透過した緑色の光のみが陽光の残滓を伝えてくる。ぼんやりとそれを見上げ続けた僕は、世界を占める光と影の対照の刺激にいつしか目を閉じていた。
 先程の電話の会話がエコー付きで脳裏に舞い戻ってくる。

『──そもそも、ブラックデザイアの能力を行使した後は対象者はその間の出来事を自動的に忘れます。新たな認識を書き込むよりも消去した方が魔力の消費も少なく、人間の記憶の仕組みから見ても負担が少ないからです』

 ……それは、前も聞いた。

『──規則が施行されれば、それはブラックデザイアの能力外の事柄になりますのでこれを忘れさせる事はできません。新たにその秩序と相反する情報を書き込むことは可能ですが魔力の効率が悪く、また連鎖的に他の目撃者への書き込みが必要な状況が発生する可能性も存在します』

 ブラックデザイア発動前の記憶を改変することはできない。これはこの禁断の書の唯一と言っても良い弱点だ。だからこそこれまで僕は目撃者を作らないよう念入りにTPOを模索して実行してきたんじゃないか。七魅の不意討ちを除けば失敗は無いはずだ。

『──ブラックデザイアは効果範囲内の人間の情報の出入力を記録読出し(アクエインタンス)の能力で常に監視しています。その中に使用者をキャプチャリングフィールドから排斥しようとする意志を発見したならば即座に存在優先権が発動し、いくつか用意された処理基準の中から最適なものが選択され実行されます。これはキャプチャリングフィールドを設定した時点から自動的に働き、その処理内容は変更することはできません』

 ……幎の力でも、無理なのか?

『──環境の維持は私の勤めです。しかし、その改善は契約の範囲外の要求であると判断します』

 僕が……頼んでも?

『──郁太様、私は悪魔です。人間の情を操ることはあっても感情に訴えられて契約を崩す行動は行いません。それが人間と異なる地平に立つ者がこの世界に存在する絶対条件です』

 ……そしてその後、幎は今回の出来事が僕という男子生徒の編入による潜在的な拒絶、不信、恐怖といった抑圧され蓄積した感情が噴出した結果、あるいはその予兆である可能性を警告すると、僕に伺いを立てた後に電話を切った。
 僕にはそれを引き留める理由も、そしてその気力も無くただ曖昧な返事をしただけだった。

 なんだか、体の底に穴が開いたような気分だった。昨日までの充実がそこから全て流れ出していく。……裏切られるって、こういう気分になるものなのか。

(……何言ってんだ?)

 裏切られるも何も、最初から信頼関係なんて無かったじゃないか。しょせん僕は幎のことを便利な道具をくれた有能な家政婦くらいにしか考えてなかったし、安芸島宮子だって名前を知っていれば魔力回収の手段として利用していただろう。

(こうなって当然……か)

 転校初日、帰り道で無邪気なハルに対して抱いた感覚が蘇ってくる。人間にだって免疫が有るんだ。いくらお嬢様学校といっても全部が全部ハルみたいな脳天気じゃないだろうさ。入り込んできた病原菌に抗体が働くのも健全な組織の条件だ。

 それなら僕はさりげなく集団の中に紛れ込むだけだ。大昔に細胞に潜り込んでまんまと酸素の供給源にありついたミトコンドリアのようにひっそりと、個性を出さず、ただ魔力を回収する器官のようにこの学園に寄生してやろう。

 目を閉じたままそんな思考に沈んでいると、サクサクと草を踏む音が下の方から近づいてきた。校内の見回りの教師だろうか。だが七魅の情報ではここを巡回するような変人教師はこの学園にいないはず。なら僕と同じサボりの生徒か。それなら言いつけたりはしないだろう。この星漣にサボりという概念が存在しているかはなはだ疑問だけど。

 一人きりの時間に乱入されたような気分になった僕は、せめてそいつの事をそれ以上考えないよう寝たふりで無視を決め込んだ。しかしそいつは目を閉じて横になっている僕の姿を確認したはずなのに、いったん立ち止った後すぐに木陰の中に入って来て、そしてわざわざ僕の頭のすぐ側の草に腰を下ろした。
 その馴れ馴れしい動きで僕はそれが誰なのか何故だか理解できてしまった。

「……授業抜け出して何やってんだ、サボリ犯」
「それはこっちの台詞だよ。イクちゃんこそこんなところで何やってるの?」

 薄目を使って見てみれば思った通りハルがいつものアンパン顔で膨れていた。額に汗をかいているところを見ると途中まで走ってきたか結構な早足だったのかもしれない。ご苦労なことだ。

「僕はいいんだよ。判決が下るまで下手に動かない方がいい」
「なにふて腐れてるの?」
「ふて腐れてなんかいない。たまには自然と親しむことも人間にとって重要なんだ」
「そんなことは日曜日にやってよ。ほら、クラスに戻ろう?」

 ハルは僕の手を取って引っ張り起こそうとする。それを僕はめんどくさげに振り払った。何と言われようと今はここを動く気はない。

「一人で行けよ」
「あっ……」

 ごろりと転がってハルの反対の方向に向く。威勢の良い雑草が頬をつつくが、今日の選択授業にのこのこ出て行くことを考えれば何百倍もマシってものだ。
 そのまま黙り込んで再度無視を決め込む。今度はもう何をされようと反応するつもりはない。

 だいたい、こいつは他人の事なんてちっとも考えないお節介焼きなんだ。話しかけるなという態度を見せているんだからこれ以上関わるなよ。
 幎の話によればこの学園にとって僕は潜在的な恐怖の対象らしいじゃないか。そんなのに関わってたらお前だってただでさえ少ない友人がますます離れていっちまうぞ?
 僕に構うな。

「……あのね、イクちゃん、」

 無視無視。

「もしかしてイクちゃん、安芸島さんのこと好きだった?」
「……はぁ?」

 あっ! くそ、あんまりアホな事を言うから思わず応えてしまったぞ。

「イクちゃんいつも授業中ぽけーっと安芸島さんのこと見てたよねー。授業の後もいい雰囲気でラブラブモード? 二人だけの世界作っちゃって話しかけるのもためらっちゃうってさ」

 おいこら。それはいったいどういう尾ヒレの付き方だ。僕は少なくとも授業中は隣を見ている時間より黒板を見ている時間の方が圧倒的に多いぞ。それに相談にのってもらったのも2回だけだ。
 っていうかなんでハルがそれを知ってる?

「安芸島さんみたいに優しくて綺麗な人と隣の席になるなんてイクちゃん初めてでしょ? もしかして一目惚れしちゃった? 嘘っ、もしかして初恋!? イクちゃんにも春が来たのかなー?」

 強引なハイテンションで話を進めるハル。こいつの魂胆はわかっているさ。どうせ僕を煽って反応させようっていうんだろ。

「少し黙れよ」
「あ、図星? スミにおけないねぇコノコノ♪」
「 だ ま れ 」

 ガサッと背後で草の揺れる音。僕に覆い被さっていた影がビクッと震えたのが見えた。
 ふん、ようやく静かになったか。後は追い払うだけだ。

「僕は誰も好きになったりしない。根本的に他人に興味が無いからな」
「……なにそれ、マンガ? 人付き合い苦手なことそんな風に言ってもカッコ悪いだけだよ」

 まだ言うか。

「うるさい、お前に言われたくない」
「あれ、やっぱりそれ……私のせいなのかな……?」
「当たり前だ。今更何言ってるんだ」
「……イクちゃん、あの時のこと怒ってるの?」

 ? なんか、おかしいぞ? 話がズレてきてる?
 僕がハルに怒っているのは今この時だ。いくらハルでも現在進行中の出来事を「あの時」なんて言ったりはしないだろう。だとしたらハルは以前にも僕を怒らせるようなことをしたってことだ。いつ?

「……ハルがあの時の事をちゃんと覚えてるなんて驚きだな」
「私は忘れないよ……イクちゃんに会えなかった時もずっと、この7年の間、忘れた事なんてない」

 ……なるほど。どうやら「あの時」というのは僕らの幼少期、ハルが引っ越す前の出来事らしいな。そしてハルはその事で僕が今だに怒っていると思っている、か。

 あいにく、僕はそんな事なんか綺麗さっぱり忘れているよ。お前の価値なんてその程度のものさ。
 それにハルのことだ。どうせその内容もマンガを破いたとか、約束に間に合わなかったとかその程度の些細な事をいつまでもうじうじと引きずっているだけに決まっている。

 だけど今の僕がハルの不躾な態度に苛ついているのも本当の話。少し教育してやる必要がありそうだな。
 手をついて上体を起こし、やれやれと苦笑いを演出する。ここで話を進めるための布石を打っておかないとな。

「……あのな、僕ももう子供じゃないんだ。いつまでも昔のことで怒ってたりしないよ」
「うん……」
「それだけじゃない。本当のところを言うとね、ハルには結構感謝しているんだ」
「え?」
「星漣に来てすぐの頃、僕にここの案内をしてくれたじゃないか。さっきのだって僕が選択授業の最中に困ってないかそれとなく聞いてみただけなんだろう?」

 穏やかな微笑みを浮かべる。アカデミー主演男優賞ものだな。
 ハルは僕の表情に顔を赤らめてうなずいた。

「う、うん。ごめんね、勝手な事して」
「いいってば」

 僕は会話を続けながら今までの会話を頭の中で整理・分解し、キーワード候補となる言葉を選別していく。インサーションキーは言葉の中に紛れ込む違和感のない単語でなくてはならない。そうでなければ相手に強く刻み込む事ができないからな。毎回この選別には気を遣うよ。

「信じるよ、ハルのこと」
「ありがとう、イクちゃん……」
「例えみんなが僕のことを除け者にしても、ハルは信じてくれるよね?」
「うん、約束する。私はいつでも、最後までイクちゃんの味方だよ、絶対!」

 絶対、ね。いいのかな? この僕にそんな安請け合いをしちゃってさ。自分の言葉には責任を持てよ? 何しろお前は今、僕の必要としていた単語を口に出してしまったんだから。

 今はここには無い黒の本へ呼びかける。距離は関係ない。魔術に理屈は通用しないのだから。

(インサーションキーを「味方」に設定、目標「源川 春」)

 ハルは僕の視界内にいるのだから当然書き込みの有効範囲にいる。後はただ一言、念じるだけでいい。

(ブラックデザイア──発動)

 ドクン、と魔力の心臓が鼓動し、確かに能力が発現した事を僕に伝えてきた。

「いいよ、わかった」

 心の底から湧き上がる笑いを噛み殺しつつ、表情だけは一見真面目風を装ってハルに応える。

「ハルは僕の味方だ」

 この場合の「味方」は一般的な友軍の意味ではない。ブラックデザイアの力で歪められていく「常識外の何か」のことだ。

「ハルは僕を信じてくれるんだね?」
「当然だよ」
「本当に?」
「絶対に」
「味方なら、僕の言ったことは何だって絶対に必要なことだって信じられるよね? 例え変だと思ってもさ」
「え? あ、うん、信じるよ? 何だって」

 一瞬不思議そうな表情を見せたがすぐに真剣な表情で肯定する。認識書き換えが始まったのだ。「味方」というキーワードをバックドアとしてハルの常識が破壊されていく。

「味方の言う事を疑ったり、ましてやないがしろにするのは悪い事だ。それは信頼を裏切っている事になるからね」
「私はイクちゃんの言う事だったら何でもするよ?」
「でも、もしも味方が裏切ったら僕はもう二度とその人を信じることはできない」
「そんなこと絶対にしない!」
「うん、わかってる。でも、もしもそうなったら、僕はきっとその人の事を思い出すのも辛くなって、全部忘れようとするだろうね。いや、きっと忘れてしまうし、もう口も聞かないだろう」
「……うん」

 ……これくらいにしておくか。何でもハイハイと言う事を聞く人形にしてしまっては教育の意味がないからな。あくまで、ハル自身の意志で味方であり続けようとするのがミソなんだ。

「それじゃあね、ハル……」

 さて、どこまでついてこれるかな?

「まずは今着けてる下着を見せてよ」
「え?」
「味方なら信じられるよね? 今の僕には必要な事なんだ」

 お前に腹いせする為にね。

「えぇと、えっとぉ……」

 案の定、ハルは顔を真っ赤にしてワタワタしている。だけど、この程度でリタイアできると思うなよ。ブラックデザイアの魔力が支配している以上僕の言葉に逆らう事は裏切りと同義なんだからな。

「できないの?」
「ま、待って! やるから……今、見せるから」

 慌ててハルは立ち上がる。そして上体を起こしたままの僕の顔のすぐ側でスカートの裾を握り、躊躇した。黙ってそれを見つめる僕。

「あんまりこっち見ないで……」
「見てないと見えないじゃん」
「それは、そう、だけど──、〜〜〜〜っ!」

 突然、バサッと頭に何か布のような物が被せられた。急に周囲が陰って視界が黒ずむ。しかし、その中で生白く目立つモノがある。

『……み、見える?』

 くぐもったいっぱいイッパイのハルの声。
 ああ、ばっちりだよ。木陰とは言え星漣の白い制服が幸い(あるいは災い)したな。生地を透けた光だけでもハルの縞模様パンツやつるっとしたお腹、健康的にすらりと伸びた太ももの様子がくっきりと見えている。

 だけどな、ハル。僕が女の子のスカートに頭を突っ込んでパンツを見る程度で満足するはずないだろう? 僕は覆い被さる白布から頭を引いてずるりと外に顔を出した。

「いや、暗すぎる。それに僕は下着、って言ったよね? これじゃパンツしか見えないじゃないか」
「う……」
「そっちの日の当たってるとこに出て……そう、そこ。そこで下着姿になってみせてよ」

 僕の指定の場所に立つハル。そこはちょうど木漏れ日がスポットを作り、おあつらえ向きのストリップショーの舞台を形成していた。

「……イクちゃん……」
「なに?」
「あの……ちょっと、後ろ向いてて……」

 なんだよ、どうせ見せるなら同じ事だろ。だけど、下着を見せろとは言ったけど確かに脱衣シーンを見せろとは言ってないんだよな。どうせこれだけで終わりにするつもりはないし、これくらい譲歩してやるか。

 僕が無言で反対方向を向くと、しばらくして背中側から僅かな衣擦れと草を踏む音が聞こえてきた。……毎回思うけど、第3者が見たら一体何だと思うんだろね、これ。

「……いいよ」

 消え入りそうな声に振り返ってみれば、先程までその躰を覆っていた制服はきちんと折りたたまれて雑草の上に置かれ、そこには靴と、靴下と、そしておそろいの縞模様の下着しか身につけていないハルが立っていた。
 両手は後ろに回され、お尻の辺りで揃えられている。そのおかげで前に座っている僕にはハルの体つきや下着の柄が何のさえぎりもなく見る事ができる。

 今日の縞々はライトグリーン色。なるほど、この若草萌ゆるヤシロの丘にはお似合いの色だ。それとは対照的に耳まで真っ赤にして立ちつくすハルの姿がなんとも倒錯的だ。今すぐその両手で身体の部位を隠したいだろうに、ポーズを崩さないよう必死に左手で右手首を保持しているのが健気だ。
 だけど。

(……つまらないな)

 あっさり脱ぎすぎだ。もう少し困って欲しかったのにな。
 そういえばハルには転校初日にストリップをしてもらったことがあったな。それに僕の前で裸になるのもこれで3度目だ。

 ブラックデザイア使用中の記憶は残らないが、それは思い出せないだけで脳には情報が蓄積されているらしいし、もしかしたら無意識レベルで衣服を脱ぐことに対する羞恥心が薄れてきているのかもしれない。

(まあいい。それならそれで次の指示を出すだけだ)

 僕はおどおどとした眼差しで僕を見ているハルに向かって口を開く。次の瞬間、その表情が絶望に曇るのを期待しながら、ね。




2.


「やっぱりね、こういう事には準備段階からこだわるべきだと思うんだ。僕は」

 戸棚の鍵を合い鍵で外しながらハルに蘊蓄をたれる。別に答えが返ってくることを期待してはいない。単に絶対的な優越者の特権として一方的な意見の押しつけをしてみただけだ。

 スチール製の扉をスライドさせるとそこにはP作戦の時に使ったバッグがそのまま納められている。床に引っ張り出し、チャックを開ければ隙間から布にくるまれたゴツゴツした機材が姿を覗かせた。七魅から借りっぱなしの高級ブランドデジカメとビデオカメラのセットだ。
 とりあえずビデオの方をバッグから取り出して電源を入れる。電子音と共に液晶画面が点灯した。うん、バッテリーも十分だ。
 その様子を見ていたハルがおそるおそる背後から話しかけてくる。

「あの……イクちゃん?」
「ん? なに?」
「えっと……それ、なに?」
「ビデオカメラ」

 これが目覚まし時計に見えるなら眼科か精神病院に行くことをお勧めするね。

「それは見ればわかるけど……何でそんなのが戸棚から出てくるの?」
「あのな、ハル。僕のやることにいちいち疑問を抱くなよ」

 僕の「味方」ならな。

「それじゃ、それでこれから何するの?」
「さっき言ったろ?」

 僕はやれやれと肩をすくめながら振り返った。そこには元通りに制服を着込んだハルが、膝に手を当てて中腰の姿勢できょとんとこちらを覗き込んでいる。
 こいつは本当にほんの15分前の会話も忘れてしまったのか?

「これからハルの露出プロモーションビデオを撮影するんだよ」




 15分前、ハルにそう告げた僕はいまいち理解してないハルの手を強引に引っ張って運動部棟に向かった。そこの4階、例の空き部屋に僕はカメラ等を密かに隠していたからだ。
 (僕と哉潟姉妹は合い鍵を作ってこの部屋を私物化していた)

「なんでイクちゃんが鍵持ってるの?」
「すごいだろ」

 当然の疑問をナチュラルに流し、ハルを達巳郁太・哉潟姉妹同盟共同作戦室(仮)に連れ込む。そこから先は先程の流れの通りだ。

「よし」

 機器のチェックを終了し、僕はビデオ片手に再びハルに向き直った。

「それじゃ、撮影の流れを説明するよ」
「え、うん」
「まずここではその格好のままで自己紹介、その後でまた下着姿になってもらう」
「また脱ぐの?」
「嫌なの?」
「う……」

 無言ってことは了承するってことだな。僕は話を続けていく

「で、下着撮影が済んだら次は野外露出だ」
「や、やがい!? おそと!?」
「当たり前でしょ。僕の『味方』ならそれくらいはしてもらわなくちゃ」
「う〜〜〜ぅ〜〜」

 無意味なうめき声。はいはい、これも了承っと。
 僕はハルに簡単な自己紹介文を作るように言うと、今回使えそうな小道具が無いか考えた。

 三繰先生の持論によると、露出羞恥に必要な要素は「視線」らしい。現実の観客でも良いし、今回のようにビデオでも良い。あるいは上手く煽っていないはずの第3者を想像させるのも良い。目隠しなんかはその為の絶好の小道具だ。
 だけど残念ながら今はそういった道具はここにはない。用心深い七魅が誰も知らないところに毎回隠して保管しているのだ。
(三繰が発見して突発的発作を起こさないようにだけど。)

 まあいい。道具が無いなら無いで羞恥心を煽る方法ならいくらでもある。そこは僕の腕の見せ所だ。僕はカメラを構えた。

「そろそろ始めるよ。まずは自己紹介からね」
「うん」
「『うん』じゃないだろ。僕はディレクターなんだから返事は『はい』だ」
「う……はい」
「よし。じゃ……スタート」

 液晶画面に所在なさげに立つハルの姿を捕らえ、録画ボタンを押す。

「星漣学園3年椿組、出席番号19番、源川春です。えっと、えっと……」

 目線を彷徨わせ、挙動不審気味にぱたぱたと手足を動かすハル。少しは落ち着けよ。

「えっと、特技はお料理、趣味は特にありません。あ、運動は結構得意です。でも勉強は苦手で、特に数学が駄目です」
「目を反らすな。カメラを見ろ。ついでに笑え」
「うん……あ、はい!」

 一度話し始めれば口の軽いハルのことだ。小学校の頃は給食を食べるのが男子より早かったとか、カナヅチを克服して中学の時に県の水泳大会で2位になったとか、10年間日記を書くのを一度も欠かしたことが無いのが密かな自慢だとか、本当にどうでも良いことをペラペラ喋りまくる。こいつ、やっぱりこのビデオの趣旨がわかってないな。

「もういい」
「後ね、なんで星漣に入ったかだけど……」
「もういい、ストップ!」

 いつの間にかタメ口に戻ってるし。やっぱり5分以上物事を記憶できないんじゃないか?

「ここからは質問タイムにする。ハルは聞かれたことに正直に答えること」
「は、はい」
「まずは……ハル、お前って何カップ?」
「へ?」
「カップだよ。胸のサイズ」

 一瞬あっけにとられたようだったが補足説明で理解できたのだろう。見る見る顔が赤くなる。

「お前だとC以下って事は無いな。Dか?」
「えっと…………です」
「もっとはっきり答えろよ」
「い、Eです!」

 むう。クラスメイトの中でも目立ってはいたけどまさかEとはね。日本人女性でEカップ以上なんて10人に1人位じゃないか? 良かったな、ハル。それはもう立派な取り柄だぞ。

 その後も幾つかプライベートな質問を繰り返し、ハルの秘密を暴き出してやった。ま、こんなものだろう。それじゃお待ちかねの脱衣タイムだ。

「あの……今度も後ろ向いてくれたりは……」
「するわけないだろ。カメラマン兼務なんだから」
「そうだよねぇ……」
「憂鬱そうな顔をするな。お前のプロモーションビデオだぞ」

 僕の言葉に慌てて笑顔を取り繕うハル。なぜ露出プロモーションビデオが必要なのかは疑問を持たない。いや、疑問を考えないようにしているのか。

「それじゃ、今から制服を脱ぎますね。私の着替えシーン、見逃さないよう、ちゃんと見ててくださいね?」

 つっかえながらそう言って制服のファスナーを下ろす。いいぞ、言葉遣いもそれらしくなってきたじゃないか。
 星漣の夏服は冬服と違ってブラウスとの二枚構成になっていない。スカートまで一続きになっている白い制服を脱いでしまえばその下にはもう乙女の柔肌や下着を隠すものは何もないのだ。

 袖から腕を抜こうとしたところでハルが一瞬躊躇した。だが僕が無言でうなずくと、覚悟を決めたかのように一気に上半身をはだける。肩が通過してしまえば後は引っかかるものもなく、純白の制服はするすると少女の表面を滑って羽のように床面に舞い落ちた。

「え、えへへ……脱いじゃいました、制服」

 赤い顔のままで引きつったような笑顔を見せるハル。僕にとっては先程見たのと大して代わりのない光景、しかしハルにとってはビデオカメラという第三者の存在する初めての羞恥舞台だ。

 僕はハルに次々と指示を出して色々なポーズの撮影を行った。胸を両腕で持ち上げたようなポーズ、腰に片手を当てて腰をくねらせたグラビア立ちポーズ、壁に手を付いてお尻を突き出した立ちバックのポーズ、四つん這いにさせて女豹のポーズ、毛布にねそべらせて片足を曲げたポーズ、うつぶせで両膝を曲げたビーチで日光浴中みたいなポーズ、体育座りから膝を開いたM字開脚ポーズ。この辺はミドリや静香たち写真部との撮影練習が役に立ったな。

「わ、私のここ……よく見えますか?」

 脚を投げ出すように長机に寝そべらせ、開脚した上でパンツを両手で持って股間に食い込ませるポーズ。僕はもうちょっとで生地からはみ出そうになっているハルの大事なところを舐め上げるようにカメラで接写し、顔を上げて録画を止めた。

「ま、ここではこんなもんかな」

 ほっとして脚を閉じて上体を起こすハル。
 携帯電話で時間を確認する。あまり時間がかかって昼になってしまうと道を人が行き交うようになる。それはそれで僕は構わないけど、後の処理が面倒なことになりそうなのでさっさと事を進めるに越したことはないだろう。
 僕はビデオカメラの付属品やレンズふきの布など細々とした物をハルの制服と一緒にバッグに放り込んでチャックを閉めた。

「時間も無いし次にいくよ」
「本当に、外に行くの……行くんですか?」
「当然。他に質問は?」
「……ありません」

 床に降りて靴を履く。ま、裸足で歩かせて怪我されると後々面倒だからこれはしょうがない。

 僕は次にソフトボールグラウンドに行くように命じた。それを聞いてハルはちょっとほっとしたようだ。なぜならソフトのグラウンドは運動部棟の裏手にあり、校舎からは高い4階建てのこの建物が邪魔になって見ることができないからだ。だけどねぇ、ハル? 他人に見られる確率が減ったからってほっとするのはまだ早いんじゃないかな?

 恐る恐る階段を下りたハルは柱や自販機の影に隠れながら慎重に運動部棟の裏手に回っていく。僕は当然、その様子を撮影するためにハルの後ろ姿をビデオ片手に追っていった。風に吹かれた木や僕が踏んだ草の音に反応して体を震わせる姿が無性におかしく、僕は笑い出すのを堪えるのに必死だ。きっとビデオは手ブレで大変なことになっているだろう。

 そうこうしている内に誰にも見つかることなく到着してしまった。ハルはバックネットの土台のコンクリの壁にもたれてほっとしたような表情を見せる。だけど僕にとっては全然おもしろくないよ、これじゃ。僕はビデオを下ろしてここでの撮影内容を考えた。やっぱり露出ものの定番と言ったらアレ、だよなぁ。よし決めた!

「ハル、ここでの撮影だけど」
「は、はい」
「放尿プレイにしよう」
「え?」
「もちろんこんな見渡しの悪い壁の側でじゃない。する場所は、」

 僕はグランドの中央、土の盛り上がったピッチャーマウンドを指さした。

「あそこ」

 ハルは何度か僕の言葉を反芻して賢明にその意味を解釈しようとしているようだった。10秒くらいじっと見ていると、ようやく理解したのかみるみる顔が赤くなってきた。

「い、イクちゃん……」
「ん、なに?」
「そ、そんなの……そんなの、おかしいよ、変態だよ!」
「露出ってのはもともと倒錯者の変態行為なんだよ」

 だからこそ悪魔はこんな事でも秩序崩壊として認めて魔力を供給してくれるんだから。

「やだ! そんなことまで出来ないよ!」
「ハル……」

 僕は目を細め眉に力を入れてハルを凝視する。

「僕をあまり失望させないでくれよ? 『味方』ならさ」
「! う、うぅ……」

 振り回していた手から力が抜け、ゆるゆると下ろされる。がっくりと肩を落として俯いていたが、やがて力なく「やる……やります」と呟いた。
 そのままハルは地面を見つめたままマウンドの方に行こうとしたので僕は呼び止める。

「ハル、パンツはここで脱いでいけよ」
「……どうして」
「別に。パンツは邪魔だろ?」
「……」
「ほらほら、笑って」

 ビデオを構えた僕に、やけくそ気味の笑顔を見せるハル。

「い、今から私は、野球グランドの真ん中でおしっこしますね。た〜くさん出すから最初から最後までじっくり見てください」

 そう言って、パンツの両サイドに手をかけた。肩が僅かに震えている。だが、一呼吸ほどのためらいの後にそれを一気に膝下までずり下ろした。髪と同じく茶色がかった股間の茂みが陽光の下にさらされる。
 ハルは下ろしたパンツをしゃがみ込んで脚から抜こうとしたので、そこで初めてリテイクを出した。今度は文句を言わず、2度目の撮影で指示通り立ったまま腰を曲げて大きく開脚するようにして足首からパンツを抜くハル。僕は秘部もお尻も見せつけるように丸出しになった様子を余すところ無く撮影した。

 ハルのトレードマークともいえる縞パンを一旦バッグの中にしまい、撮影を再開する。下半身を覆うものの無くなったハルはおぼつかない足取りでマウンドの中央に立った。
 僕が視線で促すとハルはもう泣き笑いとも言って良い表情で口を開く。

「こ、こんな隠すものも何もない場所ですけど、お、おしっこしちゃいます。どうぞ、ゆっくりご覧ください」

 そう言ってほとんど腰が砕けたかというようにストンと座り込む。僕とカメラもそれを追ってしゃがんだ。もうハルは何も言わずとも膝を開いてその奥の部分が見えやすいようにする。

 だが、その後いくら待っても始まらない。ビデオの画面のハルの秘部とお尻は羞恥のせいかぶるぶると震えるだけで、一向に変化が訪れる兆しもない。

「まだ?」
「あ……う……も、もう少し」
「あんまり時間かけると誰か来るかもよ?」
「うぅ〜〜〜」

 プレッシャーがきつすぎたか。ちっ、ハルじゃやっぱりこの程度なのか。

「テープがもったいないなぁ。いったん止めてもいい? 僕、あっちで涼んでるから出そうになったら呼んでよ」
「あっ、待って、待って! イクちゃん、今すぐ出すから、もうちょっとだけ!」
「もうちょっとって、何秒? 30秒までなら待つけど」
「う、うぅ〜〜〜」

 またその唸り声か、もう聞き飽きたよ。

「い、イクちゃん……お願い」
「なんだよ、ハルはお願いなんてできる立場じゃ……」
「お願い!」

 苛立ちながら言いかけた言葉をハルの叩きつけるような言葉が遮る。顔を上げたその目には涙が溜まっていた。

「お願い、イクちゃん……頭、撫でて……」
「……え?」
「そうすれば、落ち着けるから……イクちゃんの言うとおり、何でもできるから……」

 その表情は、なぜだろうか、僕の意志とは無関係な深層の何かをひどく揺さぶった。考える前に僕の手は動き、くしゃっとハルの頭に置かれる。

「ぅん……」

 まるで子犬が出すような甘えた鼻声。マッサージ中の美容院客のように目を閉じて僕の手から与えられる感触に思考をゆだねきっている。

「はぅふ……あ、出そう……イクちゃん、離れて」
「え?」
「おしっこ……でる……」

 僕が慌てて一歩下がるのとほぼ同時だった。ハルの股間の下から地面に跳ねる激しい水音がたち始める。カメラを構えれば目を細めて気持ちよさそうに放尿するほぼ全裸に近いハルの姿。
 僕の視線に気がつくと、ハルは照れくさそうに、しかしどこか視線の合っていない陶然とした表情で笑顔を見せた。

「あは、私イクちゃんに見られながらおしっこしてます。こんなみんなが使うところで、変態みたいにビデオを撮られながらしちゃってます。えへへ……えっと、ぴ、ぴーす♪」




 ……その撮影の後、ハルは腰が抜けたようになって自力で歩くことも出来なかったので僕はその体を引きずるようにバッグの場所まで連れてきていた。今はバッグひとつ挟んでコンクリの壁にもたれかかって座り込んでいる。

(……さっきのは、何だ?)

 僕は先程の撮影の様子を思い出す。途中までハルは諦めと羞恥と悲しみの混ざった悲壮な表情を無理矢理の笑顔で覆って僕の指示に賢明に従っていた。
 だが、ある時点で突然それが反転した。まるで痴態を見せるのが快感だというように、それこそあの哉潟三繰のような本物の露出狂のごとく積極的になったのだ。

(……)

 左手を持ち上げてじっと見る。あの時、僕は訳もわからない何かの衝動に突き動かされてハルの頭を撫でた。その時だ。ハルが変わったのは。あれは、何だ。

「……イクちゃん」
「……なんだよ?」
「ティッシュ、持ってる?」
「何に使うんだ」
「おしっこしたから、拭かないと」

 今更か? もう渇いちまってるよ。
 僕が答える前にハルはふらふらと立ち上がった。

「やっぱいい。お尻も汚れちゃったし、あそこで洗うから」

 そう言うハルの視線の先には、グラウンドの側の水飲み場の蛇口があった。おいおい、マジか?
 僕は慌てて立ち上がる。それをハルは待っていてくれた。

 いや違う。ハルが待っていたのはそうじゃなくて……。

「イクちゃん、撮って」
「あ、うん」

 ハルの言葉に促されてビデオを構える。これじゃあべこべだ。
 録画ボタンを押すと、ハルは先程の表情を浮かべながら口を開く。

「私のおしっこ姿、見てもらえましたか? でも私、制服を脱いできてしまったのでおしっこの後に使うティッシュを忘れてきちゃいました」

 そこで「てへ」、と舌を出す。

「だから、あそこの水道でおしっこを洗い流そうと思います。私の大事なところも指で開いて綺麗にしますから、見ていてくださいね♪」

 何の台詞あわせもなくビデオに向かってそう告げるハル。さらには「濡れちゃうからこれは脱いじゃいますね」と残ったブラと靴と靴下を脱ぎ捨ててしまった。これでハルは完全に生まれたままの姿になったことになる。

 ハルがふらつく足取りで水道に近づく。倒れ込むようにそこにたどり着き蛇口を掴むと、確認するかのように僕の方をちらりと見た。そしてビデオに近い方の脚を高く上げて水飲み場の段差に乗せ股間を撮影しやすいようにする。もう一度ハルがこっちを見た。

 僕がうなずくとハルは一気に蛇口を捻った。勢いよく水が迸り柔らかそうな下腹部に降りかかっていく。

「気持ちいいよ〜」

 ハルがころころと僕に笑いかける。そして両手を使って股間部を洗い始めた。指を使って秘所を割り開き、その中まで届いているのではないかと思えるくらい激しいストロークで手を使って全体を擦り上げる。それはなんだか前に見た七魅の自慰の様子を彷彿させた。

「ついでだからこっちも」

 ハルはその場で後ろを向き、今度はお尻に付いた土を洗い落とし始める。手を動かすたびに前屈みになったハルの上体でEカップの胸が揺れている。

「もう全部浴びちゃえ〜♪」

 ついにハルは蛇口を指で押さえて上半身にも水をかけ始めた。お前、最初からこれやるつもりだったな? だからブラも取ったのか。
 勢いのある水流が乳房にぶつかって形をかえさせる。弾けた水滴が僕の方まで飛んできて、慌ててビデオを逃がすためにその場所から飛びすさった。

(あ……!)

 見上げれば、初夏の青空の中に虹。その下では笑い声を弾けさせる無垢な少女が水遊びに興じていた。




 運動部棟への帰り道、ハルは往路での様子が嘘だったかのように上機嫌だった。
 いや、上機嫌というのはおかしいか。別にハルは鼻歌を歌っていたわけでも、スキップしていたわけでも理由もなくニヤニヤ笑いを浮かべていたのでも無いのだから。ただ、時折僕の方をじっと見つめるのでうなずいてやると安心したかのように目を細めてうなずき返してくるのだ。

「後はさっきの部屋に戻ればお終い?」
「そうだな……」

 正直、迷う。ハルの様子も変だし時間も押している。ここはもう切り上げるべきなのかもしれない。
 だが、この撮影を止めるということはブラックデザイアの力を解除するということであり、それは同時にここまでのハルの記憶を消し去るということでもある。その前に、どうしてハルの様子が変化したのか探っておきたい。

「……いや、屋上に行こう。そっちの非常階段を上れば行けるから」
「髪を乾かしたかったし、ちょうどいいよ」

 コンクリート製の非常階段までたどり着くと、ハルは「先に行くね」と言って上り始める。その意図に気づいて僕は再びビデオを構えた。

 少し上体を前に倒し、お尻を突き出すようにしてハルがゆっくり一段ずつ上っていく。僕はその様子をまるでパンチラ写真を狙う犯罪者のように階段に張り付いて追いかける。もっとも、このアングルであっても少女の下着が見えることはない。なにしろハルは下着はおろか衣服を何も身につけていないのだから。見えるのはハルのむき出しの尻とその中央の窄まり、そしてその奥の秘部だけだ。そんな格好にもかかわらず時折ふり返って僕を見るハルは嬉しそうに笑っていた。

「ねえイクちゃん」
「何?」
「気がついた?」
「何が?」

 2階分ほど上ったところだろうか。荷物持ちな上に無理な姿勢で上っているせいで息が切れ始めた僕はハルの問いかけに面倒くさげに応えた。

「あのね、私ね」
「うん」
「さっきね、水道のところでね」
「うん」
「お尻の中まで、洗ってたんだよ」
「は?」

 驚いて顔を上げる。ハルは踊り場で立ち止まり、僕の方にふり返って艶然と微笑んだ。

「水を当てながら、指を入れて、こう、ごしごしって」
「……なんで?」
「男の子って、女の子のここだけじゃなくて、」

 ハルは自分の股間部を指さした。

「こっちの、お尻の方も興味あるんでしょ?」

 ……なんと答えたらいいんだろう? だが、僕が迷っているとハルはそれが答えだと言わんばかりにまた微笑んだ。

「今なら見せてあげられるよ? 特別サービスでちょっと引っ張って、中の方まで」
「な、中まで……?」
「見るだけじゃなくて、ビデオで撮影してもいいんだよ? ズームして、ライト当てて、指で拡げて、普通なら一生見れないような女の子の体の一番恥ずかしいところを全部録画しちゃってもいいよ?」

 頭の中がぐらぐら煮立っている。なんだ、なんだ、なんだこの淫蕩な誘いの言葉は? これを本当にハルが言っているのか? 僕が言わせた言葉じゃない。僕はただハルに僕の要求に逆らえないように楔を打ち込んだだけだ。だから、こんな要求をしていない以上これはハルが望んだ言葉って事だ!

「な、なんで……」

 混乱した僕が絞り出すことができたのは、たったそれだけの言葉だった。ハルは上気した表情で微笑む。

「だって、イクちゃんは私の恥ずかしくて、変態みたいなとこをビデオにしたいんでしょ?」
「……!」
「私はイクちゃんの味方だもん。イクちゃんの言うことなら何だって信じるし、イクちゃんがやりたいことだったらどんな変態みたいな事だってやるよ?」

 そう言うと、ハルは壁の方に向き直って片手をつき、こちらにお尻を突き出した。

「ほら、撮って、イクちゃん」
「あ、ああ……」

 促されるままにビデオを構える。それを確認し、ハルは空いている方の手をお尻に近づけていった。

「今から、私のお尻の中を見せますね。ちゃんと洗ったから汚くないと思いますけど……」

 そう言いながら、ハルは自分のお尻の中央の窄まりに、ためらいもなく指を一本突き立てた。まるで窄まりそのものが吸い込まれたかのように指ごと沈んでいく。と、そこでハルの動きが止まった。

「い、イクちゃん……」
「ハル?」
「どうしよう……片手じゃお尻、開けない……」

 ハルのもう一方の手はこの狭い踊り場でバランスを取るために壁についている。確かにこの体制でその手を離すのは危険だ。

「イクちゃん……」
「何? やめる?」

 だが、ハルは僕の問いにかぶりを振った。

「イクちゃん、多分大丈夫だから……」
「どうするのさ?」
「ちゃんと洗ったから……」
「それは聞いたよ。だからどうす……」

 そこまで言いかけて、僕の脳に落雷の様にあるイメージが到来する。まさか?
 ハルは潤んだ目で僕の方を見た。

「お願い……イクちゃんが、やって」

 やって? やってって……今、この、目の前のハルの、ハルの指が突っ込まれているお尻の穴に、僕が、僕の指を……突っ込んで左右に開けって言うの!? そ、そんなことが許されるのか!? 女の子の、それもお尻の、絶対誰にも見せるはずのない排泄器官なんだぞ!?
 僕の思考はもうどろどろの混沌闇鍋シチューだ。まるで先の見えない坂を転がり落ちていくように流れに身を任せるしかない。

「ゆっくり、そっとね」

 言葉に促されるまま、ビデオを持っていない左手をハルのお尻に近づけていく。ハルは尻にやっている方の手をゆっくりと動かし始めた。埋まっていた指の先が姿を現す。ハルのお尻の穴はまるで乳首に吸い付く赤子のようにその手に吸い付いて離さず、半ばめくれて紅色の粘膜色を見せていた。そこに指先を当てる。

「ね、イクちゃん」
「……なに?」
「小学校の頃のこと覚えてる?」
「いや、全然」
「あのね、これってなんかその頃流行った悪戯みたい」

 ああ、あの両手の人差し指を揃えてお尻の穴に突っ込むヤツね。それくらいは知ってるさ。確か女子にやった馬鹿がいてそいつを泣かせてしまって、それでこっぴどく怒られて廃れていったんだっけな。

「あのね、それでね。私、それでイクちゃんに泣かされたことあるんだよ?」
「……そんなことあったっけ?」
「あったよ〜」

 ……先程の馬鹿はどうやら僕だったようだ。ふっ、これが若さ故の過ちというものか。認めたくないものだな。

「なんでそんな話を今?」
「別に〜。ただね、今日は私、泣かないから」
「……」
「力抜くから、ゆっくり、一緒に入れてね」

 ハルが息をゆっくり吐くのと併せて、指先の硬いお尻の穴の感触が緩んだのがわかった。できるだけそこを傷つけないようハルの指と押しくらまんじゅうをするように揃えてそこに潜り込ませる。

 ……うあ、なんだこの感触。先程の赤子の口の例えを思い出す。口の部分は普段締まっている場所だけにキツキツで太いゴムで指をギュウっと締め付けられている様だけど、その中は全然違う。口の中のように熱いくらい火照って、そしてつるつるした粘膜が僕達の指を包み込んでいる。なんて形容しがたい感触なんだ!
 いったいどうなっているんだ。実際に見ないとわからない。こんな不思議な場所、よくこの目で見てみなくちゃ。

 左手の掌をハルの尻たぶにぺたりとつけ、残りの指を食い込ませる。指にまとわりつく乳房に近い弾力に僕はさらにその内部への興味をかき立たされる。僕は引っ掛けた指に力を込めてその穴を左にぐいと拡げた。

「ぅ……」

 微かな、ほんの微かな声が聞こえてはっとした。今のはうめき声だ。ハルが痛みを堪える押し殺した声じゃないか。
 見れば指をかけたお尻の穴の周囲は色を失って白くなり、まるで破れる寸前まで空気を入れた風船のような有様だ。掌に触れるお尻はぶるぶると細かく震えている。正気に返った僕はその様子に気がつくなり手に込めた力を抜いた。

「ぁ……? イクちゃん?」
「……はい、カット」
「え?」

 僕はビデオの録画を止め、慎重にハルのお尻から指を抜いた。

「どうして? もういいの、イクちゃん?」
「あのな、ハル」

 僕は心底あきれたという表情を作ってため息をついてやる。

「僕は露出プロモーションビデオを作るとは言ったけど、ハルのSMビデオを作ると言った覚えはないぞ?」
「あ……」
「痛いなら痛いって言いなよ。苦しんでる様子を撮ってもリテイクになるだけなんだよ」
「あう……ごめんなさい」

 シュンとしてしまうハル。……まあでも、今回のシチュエーションは実に魅力的だったけどね。だから、さ。

「ま、リテイクはまた今度それ用の道具を持ってきてからだね」
「え?」
「期待してなよ? 十分に準備して、お尻の穴どころかもっともっと奥の方まで撮影してやるからね」
「!? なんでイクちゃん、そんな物もってるの!?」
「僕のやることにいちいち疑問を抱くなよ、ハル」

 にやりと笑いを浮かべる。

「僕は変態なんだよ」




 紆余曲折の末、僕達はようやく屋上にたどり着いた。いつもの合い鍵で鍵を開けるとそこには何も遮る物のない広い青空が広がっている。高い場所に来ただけで気温が変わったのか、吹き抜ける風までもがすがすがしく心地良い。

「……なあ、ハル」
「なぁに、イクちゃん?」

 僕はバッグを開けて中から布きれを引っ張り出した。

「このお前の制服と下着全部……ここから捨てろって言ったらどうする?」
「決まってるよ」

 ハルは僕からそれを受け取ると、まるで迷いの無い足取りで風下の方の縁へと歩み寄る。そして、一瞬僕の方を見て笑いかけた。

「……とんでけ〜♪」

 ハルが両手を広げると、白布は強い風に乗って校外の方向に向かって飛び去っていく。

「これで着るものが無くなっちゃったね」
「うん。露出プロモーションビデオの最後を飾るにふさわしいパフォーマンスだよ。何しろもう、ハルは今日一日家に帰るまで裸でいなくちゃいけないんだから」
「それも、ビデオに撮ってくれる?」
「こっから先はプライベートビデオになるな」
「うん」

 ハルは後ろで手を組んで僕の方に歩み寄ると、こつん、と額を僕の胸につけてきた。

「私は、いつだってイクちゃんの味方だよ?」
「……うん」

 今なら確信を持って言える。ブラックデザイアの支配の言葉ではない、僕自身の言葉を。

「ハルは僕の味方だ」
「うん」

 そして僕もきっと、ハルの……。

 だけど、その言葉は口にすることはできない。これを口にしたら、ブラックデザイアという魔術でこの学園に存在する僕の根源を揺るがす事になるからだ。
 僕は余計な事を口走らないよういったん口を結び、ハルの肩を掴んで胸から離した。

「お利口なハルにはプレゼントをあげるよ」
「え? プレゼント? 何かな、何かな?」
「たいした物じゃないよ。ハルはよく見慣れているはずだから」

 そう言って、僕はバッグからハルの制服と下着を取り出した。

「はい」
「ぅえ? え!? ええ〜っ!!」
「驚きすぎ。ちょっとした手品だよ。ほら、撮影は終わったんだからさっさと着る着る」

 僕に促されハルは首を捻りながら自分の下着と制服を身につけ始めた。うん、これで元通り、計画通りだ。

 手品の種は、何のことはないさっきハルが飛ばした布は制服じゃなかったってだけのこと。あれはビデオカメラの包み布やレンズふきだ。ハルからは制服や下着だと認識するように書き換えたけどね。

 制服を身につけてもハルはまだその裾を摘んで首を捻っている。後は、記憶が消えても違和感を覚えないような場所にハルを移動させないとな。

「ハル、ちょっと頼みがあるんだけど」
「え、何?」
「さっき生徒手帳落としてきちゃったみたいなんだ」
「え、た、大変! 早く探しに行かないと!」
「待ってよ、一緒に行っても効率が悪い。2手に分かれよう。ハルはちょっと遠いけどヤシロザクラのところに行ってくれる?」
「わかった」
「携帯で常に連絡を取り合おう。……番号はこれで良かったかな?」

 僕が通話ボタンを押すとハルの方からバイブレーション音が微かに聞こえた。

「とって」
「はい、もしもし?」

 ハルの声が正面と電話からサラウンドで聞こえてくる。

「いい? この電話はこのまま切らないで捜索すること。常に自分の位置を知らせて」
「う、う〜ん?……うん、わかった」

 ちょっと疑問を感じたようだけど、それもすぐにブラックデザイアの魔力が打ち消してしまう。

「じゃ、よろしく」
「うん、イクちゃんも見つかったらすぐ知らせて!」

 ハルはそう言って非常階段を駆け下りていった。ふう、後は適当に返事をしながらハルがヤシロザクラに辿り着くのを待って、周囲を探し始めたくらいで電話を切るだけだ。ブラックデザイアの力が解除されればハルの記憶は僕があの時にインサーションキーを設定したときまで巻き戻るはずだから、その場所に戻るのが一番都合が良い。失った時間の記憶も自動的に補正され、ま、多分あのハルの事だからのんきに昼寝でもしてたとかそういうオチになるんじゃないかな。

 電話の向こうのハルのせっぱ詰まった声に対応しながらゴロリと横になった。薄い制服越しに焼けたコンクリートの熱が伝わって思わず顔をしかめる。
 まったく、思えばあの桜の木の下は絶好の昼寝場所だった。今日邪魔されたぶん、今度絶対にあそこでサボってやろう。

 青い天井が強い光を放っている。目を瞑っても透過してくるその眩しさに僕は左腕を目の前に持ってきてそれを遮った。唐突に、その左手の平にハルのくせっ毛の感触が蘇る。

「……くそっ」

 僕は、あの時僕の腕を動かしたものの正体に本当は気付いていた。だけどそれは、この僕がこの学園にいる以上絶対に存在してはならないものだった。
 そうだ、僕はそんなものが存在することすら忘れなくてはならない。そいつを殺し、そして消滅させなければ。そうしなければ僕は、そいつに魂を食い荒らされていずれ自分で自分を殺してしまうだろう。


 そいつの名前は、罪悪感。
 僕を殺す、僕の「敵」だ。




3.


 結局、そのまま午前中の授業を全部サボってしまった。

 あの後授業に出席するだけのやる気が出るはずもなく、僕は例の部屋に毛布を敷いて寝ることにした。冷房を強めに設定し、ヒンヤリした風を頬に感じながら毛布にくるまって惰眠をむさぼる。冷風を浴び続けるのは健康に良くないそうだが、このヌクヌク感には変えられないんだよなぁ。

 このまま放課後までここで隠れていてもいいか、とうつらうつらしながら思い始めた頃ポケットの中でヴーンと携帯が振動した。寝ぼけ眼でディスプレイを確認すればまたもやハルからメールが来てる。

『イクちゃん今どこ〜? 可及的速やかに探研部に集合セヨ(`・ω・´)ゝ』

 う〜、またハルかよ。お前ってほんと反省を知らないヤツだな。とりあえず「うるさい。学校内で携帯使うな。あと顔文字禁止。」っと。

 返信ついでに時間を見るともう昼休みの時間帯だった。いつの間にかチャイム鳴ってたのか。さて……どうしよう?

 今までハルに様々な手段で呼び出されたが探研部部室は初めてだ。それに、あの部屋の鍵はハルが管理していてさすがの七魅も合鍵を所持していない。学校側も持っていないはずだ。生徒一人にあの広大な部室の管理を任せっきりというのも謎な話だけど。
 逆に言うと、あそこはハルしか入ることのできない密室ということになる。そんな場所に僕を呼び出して何をするつもりだ?

 体を起こすと毛布が肩からずり落ちた。あくびをしながら後頭部を掻く。

(……行ってみるか)

 ハルのことだ。ここでおとなしく従っておかないと昼休みじゅう校内を駆け回って僕の行方を聴き回るに違いない。そんな事したらせっかくまだ「存在優先権」が働いているのに悪目立ちしてしまうじゃないか。
 僕は毛布とカメラの入ったバッグを元通りにしまうと、部屋に鍵をかけて運動部棟を後にした。




 星漣の運動部棟と文化部棟は敷地の中央に存在する時計塔を中心点として東西の対照地点に建っている。だからもし運動部棟から文化部棟へ移動しようとしたら食堂北側を通過する中央並木道か星漣をぐるりと周回する道を遠回りして歩いていかなければならない。

 ちょっとここで星漣学園の敷地紹介をしておこうか。
 星漣の最南端に存在する正門を通過し、5分ほど北上すれば校舎前の花壇に辿り着く。山手線でいうなら品川の位置だ。ここから左に曲がるとゆっくりと北にカーブする道が続いている。これが桜通りと呼ばれる並木道であり、同時に体育関係の施設エリアへの入り口となっている。
 道に沿っていけば体育館、運動部棟、テニスコート、第2グラウンドと並びそこから坂道を上ればプール施設と続いていく。それぞれ渋谷、新宿、高田馬場、池袋、巣鴨くらいの位置だろうか。
 校舎前で反対に曲がればそちらは銀杏通りだ。図書館をぐるりと迂回し、途中で北に折れ曲がりながら進むとこっちには文化部棟、文化会館と文化系の建物が建ち並ぶ。先程の例でいうなら東京と上野あたりが妥当な位置だろう。そして敷地を東西に横断する中央並木道は中央線といったところか。

 これだけ広大な敷地なのだから運動部棟から文化部棟への移動は中央並木道を使用したくなる。しかし今の時間帯は良くない。休み時間中は結構な数の生徒達がこの道を利用するからだ。
 今の状況でウワサ好きの女子連中を突っ切って移動するのも煩わしいし、僕は北回りのルートで文化部棟へ向かった。こっち側なら放課後にならないと人通りもほとんど無いしね

 右手に陸上競技用トラックを見ながらプール前を通り抜け、木立の中を進むと前方に木造の古い建物が見え始めた。早足で歩いたのにそれでも15分近くかかってしまったな。あれが文化部棟だ。

(靴が……1、2、3)

 玄関でスリッパに履き替えながら念のためこの建物に来ている人数を数えておく。1つは多分ハルのだろう。全部星漣指定の革靴だからどれが誰の靴なのかはわからないけど。
 ギシギシと音をたてながら階段や全ての部屋の前を通り過ぎ、最奥の両開きの扉の前に立つ。ふう、やっと到着だ。右手を上げて軽く2回ノックした。

「来たよ」
『はーい、ただ今開けまーす♪』

 ? ハル……か? 扉越しで良くわからないけどなんか言葉遣いとテンション変じゃないか?
 首を捻る僕の前でノブがカチャリと回り、扉がゆっくりと開かれた。その中には1月前に見たままの探研部部室──

「「おかえりなさいませ、ご主人様♪」」

 ──とは似ても似つかぬ別世界!? な、なぜに星漣学園内にメイドカフェが!?

「さあさあ、お疲れでしょう。こちらへどうぞ♪」
「お飲み物は何になさいますか? 紅茶にしますか、それとも珈琲がよろしいですか? 冷たい物もご用意できますよ?」

 入り口で僕を迎えた2人組のメイド(?)は僕の手を引っぱって部屋の中央のテーブルに着かせた。この机にも前は無かった白いテーブルクロスがかけられ、まるでレストランか喫茶店だ。

「はい、おしぼりをどうぞ」
「あ、ありがとう」

 片方のメイドから手渡されたものを反射的に受け取ってしまう僕。初夏の日差しの下を15分も歩いたせいで汗ばんだ手の平に濡れタオルが気持ちいい……って、そうじゃなくて。
 一体何だこれは、何なんだこの状況は。にこにことあれこれ世話を焼く2人に手を焼いていると右横でカチャッともうひとつの扉が開く音がした。僕は一縷の望みをかけてそちらに顔を向け、コンマ2秒で裏切られる。

(また増えたよ……)

 同じくメイドコスチュームの女の子がお盆を持ってしずしずと、いや不慣れなのかティーセットを落とさないよう細心の足取りで近づいてくる。カチャッとテーブルの上にカップを置き、ポットを手にしてそこに琥珀色の液体を慎重な手つきで注ぐ。顔を赤らめながらその作業を行った少女の横顔を僕は冷え切った目で見つめていた。

「──どうぞ」
「……七魅まで、何してんの?」

 僕の言葉にメイド七魅は目を反らし、カチューシャ付の頭をかくんとうなだれたのだった。

「……私に聞かないでください……」




「説明して貰おう」
「あれ? イクちゃんこういうの好きでしょ、メイドさんとか」

 僕の正面に座ったハルはなんも悪びれもなくそうのたまうと中央に置かれた極厚のビスケットのようなお菓子に手を伸ばした。
 いや、確かに嫌いじゃないけどね。むしろ他の職業服シリーズより一歩先を行ってると思うけど。

「僕が好きだとこの部室はメイド時空に異界化するのか?」
「へへー、いいでしょ♪ 先輩が旅行のお土産に貰ったんだって」

 土産でメイド服とはいったいどこのメイド王国だ。っていうかそれは本当に旅行だったのか? その先輩とやらが太陽に顔向けできない行為に手を染めていない事を祈ろう。

「どうイクちゃん。ずきゅーんと来た? メイドさんで心を鷲づかみ?」

 ……ああ、来たよ、ずきゅーんと。こめかみを突き抜けるような強烈な頭痛がな。
 僕は処置なしとさじを投げて首を振り、左に座った少女に声をかける。

「三繰もこんなアホに付き合うなよ」
「そう? かわいいからいいんじゃない?」

 と、こちらもにこにこしながら紅茶を口にする三繰。今日はメイドモードなのか髪を2つお下げにしている。
 お前のかわいいってのは、もしかして僕の右に居心地悪そうに座っている七魅の事じゃないのか? 嫌がる妹を押さえつけて無理矢理メイド服を着せている姿が容易に想像できるぞ?

「ナナちゃんも髪型変えれば良かったのに。昔みたいに三つ編みにしてみよっか?」
「……お断りします」
「あ、それともこっちじゃなくてあっちの方が良かったのかな? その髪型だとメイドさんより似合ってるもんねー」

 こっちとかあっちとかいったいどっちの話をしているんだ。

「ねーねー、イクちゃんどうなのさー?」
「何が」
「ぶっちゃけ嬉しい? 幸せな気分? 撫で撫でしたくなる?」
「別に」
「あー、いけずー」

 あのな、実際に自家用メイドがいる僕がお前らのコスプレごときでどうこうするわけないだろ。っと、幎の事はまだ誰にも話した事無かったっけ。

「ふーんだ。私はイクちゃんの趣味はわかってるからね。本当は嬉しいんでしょ? だって今流行のメイドさんだよ。イクちゃん絶対そっち系でしょ?」

 だからそっちとかどっち向きの話をしているんだ。お前が僕の事を理解するなんてそれこそ僕があっちの世界に逝ってしまったって無理な話だ。
 だいたいお前はメイドの何が解るっていうんだ。たかだかテレビで秋葉系特集を聞きかじった程度のハルがメイドを語るとは片腹痛いぞ。
 ここは借り物とはいえメイド付屋敷持ち一国一城の主たる僕がハルの認識を修正しておかねばなるまい。

「いいか、ハル。浅学なお前に特別に講義してやるから感謝して聞け」
「ふぇ?」

 間抜けにビスケットもどきをかじるハルに僕はメイド基礎知識入門編第1巻序文第1節あたりを披露してやる。

「──そもそもメイドというものはな、広大な屋敷を持つ英国貴族がその維持管理の為に給金の安い平民女性を雇った事から始まったんだ。やがて多くの領地と労働力を従える事が貴族のステータスとなるとコスチュームも黒に統一されたが、それはあくまで汚れが目立たないという理由でだ。エプロンもカチューシャも立派な作業服なんだ。いいか、基本的にメイドは下級労働者だったんだよ。さらに言うとメイドが屋敷の主人に直接仕える事はあり得なかった。主人やその息子達の身の回りの世話や雑務処理は執事の仕事、奥方や子供達の世話がメイドの仕事だ。安易に『ご主人様』だの、年頃の跡取りに『坊ちゃま』だのまとわりつくメイドなんかは即刻クビだ。現実はシビアなもんなんだよ。しかしそれでもなお、古来からメイドを恋愛対象と見る物語は存在していた。そこには身分違いの恋という立派なドラマ要素が存在しているからな。だけどメイドの本質はそんな立場上のものだけじゃない。お前にそれがわかるか? わかる訳ないよな。それは奉仕の心だよ。安い賃金、時には無償であっても主人のために尽くす奉仕の真心こそがメイドを愛する者達の心を打ったんだ。金のためではなく、ただ仕えるために尽くす、その姿こそメイド最大にして至高そして至上のテーマなんだよ。だのに最近になってメイドのイメージは秋葉系の商品価値が急速に高まるにつれ崩れ始めた。安直な資金回収のために無理矢理拡大誇張されたメイドのテーマはすでに元の姿がわからないほどに変形し、今では小説やアニメやカフェに存在するメイドのほぼ99.9999999%がメイド服に身を包んだ『メイド以外の何か』だという嘆かわしい状況だ。はっきり言ってそんなのはあんこの入っていない大福、俳優人気に頼ったループドラマのようなものだ。だからな、ハル。お前は偽物にはなるな。その黒と白のツートンの職業服を身にまとったならば仕えるべき者への思慕を募らせながらも涙ぐましい奥ゆかしさで思いを口にすることなく生涯を主へ尽くし続けた100万の先人達に思いを馳せ、立派にメイドとしての勤めを果たすんだ。いや、そうする事こそ彼女らへの最高の供養になるんだ」

 そこまで一気にしゃべり、僕は一息ついて紅茶を口に含む。ふう、この僕の1%でもハルが理解できていればこんなことわざわざ言う必要ないんだけどな。
 僕はたっぷりと時間をかけてはるか英国貴族の栄華に想いを馳せながら紅茶を味わい、ゆっくりとカップを元の位置に戻した。

「……僕が言いたい事、わかったね?」
「ねえ、スコーン食べないの? せっかくあったかいのに冷めちゃうよ?」

 聞いちゃいねえし。




 それから10分。
 天然ボケのハルにポリシーをズタズタにされた僕は1人寂しくもさもさと、残り3人の偽メイドどもは衣装の事とかをキャイキャイしながら紅茶と菓子を片づけていった。くそう、半端にスコーンが美味しいのがむかつくぞ。

「……で、なんだ。今日呼び出したのはこのメイドごっこをするためなのか」
「え? そんなわけ無いじゃん。これはあくまで余興だよ余興」

 ほー、そいつは良かったな。このまま昼休みが終わったら僕は間違いなく一徹式卓袱台返しをご披露しなくてはならなかったからね。

「もうちょっと待ってね、多分もうすぐ来ると思うから」
「誰が」
「強力な助っ人、だよ♪」

 助っ人? 何の? これ以上勘違いメイドが増えたらさすがの僕だって地球中のメイドスキーのみんなからちょっとずつ元気を分けてもらって光る玉を作ってしまうかもしれないぞ? 地球の平穏の為にもそれはやりたくないな。

 だが、その懸念はどうやら杞憂だったようだ。次の瞬間、コンコンと控えめなノックと共にドアを開けて入ってきたのは僕の良く知る、そしてそういった悪ノリとはるか縁遠い人物だったからだ。

「こんにちは。遅くなりまして申し訳ありません」
「いいよいいよ無理言って来て貰ったんだから。紅茶でいいよね?」

 そう言ってハルは立ち上がる。多分もうひとつカップを用意しに行ったんだろう。
 新しく来た少女は部屋の中を見回し、そして初めて会った時のように僕の側までとことこと歩いてきた。

「こんにちは、辰巳先輩」
「うん、久しぶりだね、静香ちゃん」
「はい」

 少し顔を赤らめて上品に柔らかく微笑む少女、橘 静香。ハルを慕う写真部の2年生の1人だ。生粋のお嬢様のような風貌と物腰を持つ彼女にメイド服を着込んで悦に入る趣味は無い、と思いたい。(少なくとも「火」が付くまではね。)

「……ふふ、今日はメイドさんなんですね」

 今日「は」? うう、なんだか恐ろしい事を聞いてしまったような気がするぞ。普段この部はいったい何をやっていたんだろう。

(……しかし、それはそれとしてこれ、なんの集まりだ?)

 僕は律儀に哉潟姉妹一人一人の元まで歩いていって自己紹介している静香の姿を眺めながら腕を組む。助っ人と言うからには何らかの企みが有るんだろうけど、正直静香がそんなはかりごとに首を突っ込む様には思えない。

「はい、おまたせ〜♪」

 ちょうど自己紹介が終わったところで首謀者のハルが新しいティーカップと紅茶をいれ直したポットを持って戻ってきた。

「シズちゃんは参謀なんだから私の隣ね」
「あ、はい」

 言われたとおりハルの隣の席にちょこんと座る静香。っていうか参謀ってなんだ参謀って! またロクでもない事に僕を巻き込むつもりじゃないだろうな?

「じゃ、時間も無いしちゃっちゃっと始めるね。まずは……」

 そう前置きしてハルは突然立ち上がった。声のトーンが急に高くなる。

「じゃじゃーん! 発表します! 私、源川春はこのたび正式に星漣学園文化探訪研究会に入部いたしました! ついでに部員1名なので部長にも大抜擢です!」

 ……はぁ?

 お前いきなり何言ってんの? それに突っ込ませて貰うけど研究「会」なら部長じゃなくて会長だろ。
 勿体つけて何を言うのかと思ったら自分の就任祝いか。他の3人は適当に拍手してるけど僕はしないからな、勝手にやってろ。

「よって、この探研部部室は正門が開いている時間帯ならば部長たる私の一存で利用する事が可能になります。そこで提案なのですが……」

 僕が呆れている間もハルの言葉は続いていく。はいはい、良かったね良かったね、っと。

「……しばらくの間、ここ探研部部室を『新校則に反対する会』の活動拠点として提供することを皆さんに提案します!」

 ……はぁ? なんですと?

 事態の飲み込めない僕を尻目に拍手はますます強くなった。ハルは正面の僕に向けていつもの底の抜けたような笑顔を見せる。

「大丈夫だよ、イクちゃん」

 親指を立てて突きだしウィンク。

「私達がついてるからね。どーんとタイタニック号に乗ったつもりで構えてて!」

 ……それじゃ沈むだろ。




「新校則案を撤回するには2つの方法が有ります」

 静香はそう言って広げたノートに大きく離して1と2を書いた。僕らはテーブルの中央に置かれたそれを頭をくっつけるようにして覗きこむ。

「1つ目は普通の方法です。生徒会に対してに反対意見をかけあい、クラス委員会に議題を提出して貰います。提出された議題は通常の議題と同じく各クラスで議論され、クラス毎の意見を取り込んで最終的にクラス委員会で結論が出されます」

 1の方に「生徒会を介してクラス委員会で処理」と書き込まれた。

「この意見は実質全校生徒の総意になりますから生徒会はこれに従わなければなりません」
「それは生徒会長でも?」
「はい」

 ハルの質問に静香はうなずく。こんな真剣な表情の2人は初めて見たな。

 なぜハルが今回の件で静香を呼んだのか、それにはちゃんとした理由があったのだ。それはこの静香の星漣生徒会システムへの理解の深さだ。
 静香は去年度の生徒会でちょっとした手伝いの仕事を半年ほどした経験があるのだという。そのおかげで生徒会で行われる事務処理や校則の適応についての知識をかなりのところまで身につけているらしい。何とも思いがけない人が思いがけない事をやっているもんだ。

「ただし、今回はこの方法は使えません」
「どうして?」

 静香がつけたバッテンに質問するハル。文句ではなく純粋な疑問の口調だ。

「時間的な問題です。今回の校則案はすでに生徒会長の印が押されていますから、生徒会はクラス委員会の承認を得ずに新校則を施行する事ができます。通常クラス委員会での議題は毎週のホームルームで各クラス議論しますから、意見調整して結論が出るのにだいたい1ヶ月程度の期間が必要なんです」
「そうか、夏休み……!」
「はい、夏休み中は議論に使えるホームルーム時間がありませんから結論は2学期に持ち越しになります。それに対して生徒会は夏休み中でも臨時の会議を開く事ができますから、順当に準備を進めれば2学期から新校則を仮施行するくらいには処理を進める事ができると思います。そうなったらクラス委員会での議論は意味を持たなくなります」

 なるほど。1回既成事実ができてしまえばそれからは施行の是非ではなく「どう施行するか」に議論がシフトするのは当然だ。確かにこれでは遅すぎる。

「じゃあ、第2案は?」
「もう1つの方法は生徒会を通さない方法です。つまり、直接全学園生徒に意見を問うんです」

 なんだそれは? 一人一人にアンケートでも採って回るのか?

「生徒会総員投票……」

 それまで黙って聞いていた七魅がぽつりと呟いた。それにうなずく静香。

「はい。毎月第1水曜日に行われる生徒総会で直接討論し、全生徒参加の決戦投票にて議題の是非を採択する方法です」

 2の空欄に「生徒総会で決選投票!」と書かれてグルリと丸で囲われた。

「ただし、この方法にもデメリットはあります。まず、総員投票を行うという事は、逆に負けたときはあらゆる手順を飛ばして即座に新校則が施行されるかもしれないということです」

 ……そうか、僕達が新校則案の撤廃を求めて投票を行ったとしても、生徒会側から見ればそれは新校則を認めるか否かの投票にほかならない。それはつまり、意見が棄却されればそのまま全校生徒の意志としてクラス委員会での意見調整無しに新校則を施行する大義名分を与えることになるのか。いや、もしかするとそれこそ本当の狙いなのかもしれない。

「……まず、ってことはまだ問題があるの?」

 三繰がノートをじっと見つめながら慎重な口調で質問する。そうだ、そこは僕も気になっていた。
 静香はそれに「はい」と神妙に答える。

「総員投票を行うためには最低1週間の告知期間が必要なんです。これは議題の内容を全員が十分に理解し考えをまとめるために与えられる猶予時間です」
「え、それって……」

 三繰がぱちくりと目を瞬かせ、七魅と顔を見合わせた。ハルは慌てて自分の携帯を取り出して表示を確認する。

「……今日、6月24日だ!」
「はい、つまり今日、申請をしなければ7月1日の生徒総会で総員投票を行うことはできず、自動的に次回9月の生徒総会まで持ち越しになってしまうんです」
「それじゃ遅過ぎる!」

 ハルの声に全員が天井を仰いだ。

 なんてこった。ぐうの音も出ないくらい完璧な計画だ。このまま僕が泣き寝入りすれば何の問題も無し。僕が最後の望みに賭けて総員投票の申請をしても与えられる期間は最も短い1週間のみ、おまけに生徒総会で反対意見を叩き潰せば労せず大々的に校則を施行する口実が得られるのだ。
 呻くように呟きが漏れる。

「方法は1つだけ、期限は今日まで、機会は一歩も退けない背水の陣かよ」
「……ええと、もう1つ方法が有るには有るのですけど……」

 なんだ、それは? 今は藁にもすがりたい気分だが……ハルは冷静な口調で静香を促した。

「言って、シズちゃん」
「はい……このまま異議を出さなければたぶん2学期からは仮施行の期間に入ると思います。その期間中、新校則への反対意見を訴えていけば本施行までにある程度制限を軽くすることは可能だと思うんです。仮施行期間は本来そうやって問題点を洗い出すためにありますから」
「改正されるとして、いつくらいからになるの?」
「おそらく……早くて3学期からになるかと思います」

 それはつまり、2学期中は僕はこの学園の3割にしかいられないと言うことだ。それに静香が「早くて」と言ったからには最悪卒業までそのままの可能性も有るってことだろう。

「……そんなのは御免だ」
「うん、そうだね」

 ハルは机に置かれた鉛筆を取ると3つ目の案を2重線で消した。

「それに、軽くなるといっても校則が残ることには変わりない。それじゃダメなんだよ……ううん、こんな校則は一瞬だって星漣に存在しちゃいけない。だから、やっぱりここで決着を付けなくちゃ!」

 「生徒総会で決選投票」が再度ハルの手によってグリグリと丸で強調された。そして、パッと顔を上げて僕の顔を見つめる。

「イクちゃん!」
「あ、うん、な、何?」
「がんばって一緒にあんな校則無くしちゃおう? 大丈夫、みんな『イクちゃんの味方』だから!」
「……!?」

 な、なんでそのキーワードがここで……!?

(い、いや落ち着け。単に状況が重なっただけだ。さっきの事をハルが覚えている訳がない。たまたまに決まってるさ……!)

 動揺した僕は辛うじてハルに応えるための言葉を絞り出す。

「う、うん……頼むよ、ハル」
「うん!」

 満面の笑みでうなずくハル。だけど、僕はそんな表情を正面から見ることができず……ノートの内容を確認するふりをして視線をずらしたのだった。




 いくつかの方針を決め、後は放課後の出たとこ勝負となった。
 少し昼休み時間が余っていたのでついでに僕は生徒会の組織について静香に質問する。はっきり言って生徒会とか委員会とかクラス委員とか前の学校では極力関わらないようにしていたんでちんぷんかんぷんだ。

「はい。では、星漣学園の生徒会の構造についてご説明しますね」

 幾分笑いをこらえる感じで静香が説明を始める。へいへい、僕はどうせ出来の悪い不良学生ですよ。

「星漣の生徒は入学してから卒業するまでの間自動的に生徒会員として総選挙や自分のクラスでの議論に1票を投じる権利を持ちます」

 うん、それはわかるよ。そしてそのクラスでの議論の結果を持って行くのがクラス代表のクラス委員だよね。

「はい、クラス委員は例えるなら国会議員ですね。そしてクラス委員会はその各クラス毎の意見を交換するための場所だから国会に相当しますね。ただし各クラスはクラス委員だけでなく他の委員も選出しますからその数だけ委員会は存在しますけど」

 静香のノートに風紀委員会、図書委員会、放送委員会などの有名どころの名前が連なっていく。そしてその委員会の文字から上方に線が延ばされまとまった先、そこに新しい組織名が書き込まれた。

「──そしてその上、内閣に相当する上層機関が今回の新校則を打ち出した生徒会の心臓部、『生徒会執行部』です。その構成メンバーは──」


  生徒会長
  生徒会副会長(風紀委員長兼務)
  体育会運動部連合自治会長
  季刊文芸誌「やまゆり」編集長


「──これに生徒会書記を加えた5名が星漣のトップ5ということになります」




4.


「それで、例のカレは本当に今日ここに来るのかしら?」

 窓から外を見つめていた少女はそう言いながら室内を振り向いた。頭の動きに合わせて2つのお下げが陽光を煌びやかに反射する。まるで少女の輝きを象徴するような眩しい金色。

「ええ、来ますよ」

 それに応えるのは対照的な黒髪の少女。日の光が直接当たらない程度に窓から離れて椅子に座り、室内灯の光で両手に持った詩集を読み耽っている。鴉の濡れ羽色と表現するに相応しい長く艶やかな髪は首の後ろでまとめられ、夏の水流の様に涼やかに背中側に流れ落ちていた。

「ふぅん、その自信の根拠は?」
「あの子には……源川さんがついていますから」

 金色の少女がちょっと癖のある口調で問えば、黒髪の方はやんわりほんのりと笑いながらそれに答える。

「みながわ……あの『七月事件』の源川春ね」
「ええ、その源川さんですよ。それにもう1人、静香ちゃんも協力するでしょうし」
「毎年毎年良く飽きないで騒ぎを起こしてくれる」

 やれやれと首を振ればそのお下げも揺れて再び光を撒き散らす。

「……私は来ないと思いますよ」

 そこに第3の少女が口を挟んだ。朝方掲示板前の生徒達に注意をした眼鏡お下げの少女である。

「あら、マナちゃんはそう思うの?」
「ええ。来ないし、だから騒ぎにもなりません」
「どうしてかしら?」
「とてもここまで乗り込んでくるような度胸があるようには見えませんでしたから」

 マナと呼ばれた少女は黒髪の質問にもきっぱりと言い放つ。

「1対1ね。あなたはどう思うの? やっぱり会長次第なの?」

 金髪がふり返り、黒髪達とは反対側の壁に向かって話しかけた。いや、違う。壁ではなく、壁と同化しようとでもいうようにひっそりと立つ4人目の少女に、である。

「…………」

 だが、その少女は答えない。まるで面倒だから適当な長さに切り揃えましたという具合のざんばらな前髪の向こうで、切れ長の瞳は闇に沈み僅かな表情を浮かべることもない。問いかけた少女は「ま、期待してなかったけど」と肩をすくめた。

「──来ますよ、彼は」

 部屋の中央部から放たれた言葉に、全員がはっと注目した。先程のざんばら髪の少女さえ僅かに視線を動かしてそこに存在する執務机についた少女に注視する。
 それだけの注目を集めてもなお、中央の少女の姿勢は変わらない。背筋を伸ばし、軽く顎を引いて手元の文庫本の文字を一定のペースで追い続ける。

「彼は、男性ですから……」

 そう呟き、その少女はしおりを今しがた読み進めたページに挟み込む。

「……だから、ここには自分の脚で来なくてはならないんです」

 ぱたん。文庫本が閉じられる。
 そしてその少女が灰色の瞳を上げるのと同時に、昼休みの終了を告げる予鈴が鳴り響いた。




5.


 放課後になり、僕たち5人は一度食堂に集まった後に生徒会執務室に向かった。総員投票の申請のためにはそこに直接必要書類を提出しなくてはならないからだ。

「……申し訳ありません、達巳先輩」

 道すがら、静香がちょこちょことした足取りで近づいてきたかと思うといきなり頭を下げた。ちょっと驚いた僕は苺ミルクのストローを口から離して「どうしたの?」と聞いてみる。

「いえ、本来なら一番言いたいことがあるのは先輩なのに……」
「ああ、そのことか。気にしなくていいよ。僕も静香ちゃんの案が一番良いと思ったから賛成したんだ」
「……ありがとうございます、先輩」

 昼休み、あの後の話し合いでは申請後の総員投票に向けての広報活動における方針も考えられた。そして僕達は、静香の提案で僕自身の名前を前面に出さない事を取り決めた。生徒総会当日での討論会においても僕は壇上には上がらない。
 その理由は、僕が男子生徒の立場でものを言うと一部の生徒から反感を買う可能性があるからだ。まあ、わからないでもないよ。僕はこの学園ではまだ余所者だ。自覚が有る。日本の企業だって外国人が交渉してきても日本人相手ほどには真面目に取り組まない気がするし。

「僕の方こそ、任せっぱなしになっちゃうけどいいの?」
「それはお任せ下さい。きっとうまくやってみせますから」

 そう言って真摯な眼差しで微笑む静香。一瞬、隣の席でアドバイスをくれたあの少女を思い出す。なるほど、裏打ちされた自信が創り出す笑みとはこの様なものなのか。普段の深窓の令嬢といった雰囲気からはまるで想像もできないが、この表情ならば彼女が生徒会の業務に携わっていたという話にもうなずける。期間中の静香はさぞかし有能だったのだろう。今の生徒会長と同じように。

 昼休み終了後、僕はやはり授業をサボった。しかし今度は単に惰眠をむさぼっていたわけではない。僕なりにこの学園のシステムについて調べてみたのだ。
 例の部屋で生徒手帳をめくりこの学園の基盤とも言える校則を1つ1つ検証する。今更と言うなかれ。今までブラックデザイアの力さえあれば何の問題も無いと思っていた僕に、そんな些末事に費やす時間など存在しなかったのだ。

(……そうか)

 メモ用紙に組織図を書き出していきながら、やがて僕はこの学園に感じていた違和感の正体に気付く。この学園には「先生」が存在しない。この学園は「生徒」によって統率されている。
 そこに見える基本理念は、有名なゲティスバーグ演説のパクリともいえる「生徒の生徒による生徒のための生徒会」だ。学園生活の基準たる校則すら生徒会によって作成されているのだ。

 驚くべき事にこの学園のシステムでは、生徒会によって決定された事柄には例え校長であっても異論を唱えることはできない。では教師達は授業以外に何をしているのかというと、学校法人としての体裁のためにカリキュラムの制定や保護者との連絡役等「周辺の業務」を行う。
 PTAが存在することを除けばその形態はむしろ大学に近いと言える。この特徴的な制服もまた生徒会からの発注でデザインされたものだという。良く100年以上も学園としての形を保ち続けられたものだ。

 だがそれゆえに生徒会の持つ権力は大きい。その定めた規則に従わなくともこの学園に学費を納めている以上授業を受ける分には文句は出ないはずなのだが、現実的に全校生徒を敵に回してやっていけるはずがない。なにしろここは星漣治外法権特区なのだ。
 それに政界に大きな力を持つ者達の子女が多数通うこの学園において和を乱すと言うことは、自分だけでなくその家族にも少なからず不利益があると考えて良いだろう。スーパーお嬢様養成学校の2つ名は伊達ではない。

(だけど、まだ1つわからない事がある)

 歩きながらポケットから取り出したメモ用紙を確認する。そこにはこの学園に存在する組織のほぼ全てがツリー構造で鉛筆書きされていた。

(……セイレン・シスターの立ち位置はどこだ?)

 今まで僕はハルの話からこの星漣はツートップの権力構成なのだと思い込んでいた。生徒会長とセイレン・シスター、この2人が役割を分担しているのだと解釈してたのだ。
 だが、生徒手帳に書かれた校則にはセイレン・シスターの「セ」の字も出てこなかった。これはどういう事だ? セイレン・シスターは本当にこの学園生徒全員に認められた存在なのか?

 唐突に紫鶴に会いたくなった。あの何もかもが完成された少女は今回の事態をどう受け止めているのだろう。紫鶴なら、今の混乱した僕の頭を微笑みと共にすっきりさせてくれる気がした。

「……ここに来るのは久しぶりです」

 隣から聞こえた静香の声に我に返った。もう着いてしまったのか。
 視線を上げれば前方にはこの学園で最も背の高い建造物がすでに上下の視界には収まらないくらい間近に存在している。食堂から駐輪場の反対側を迂回して中央並木に入り東へ3分。そこから脇道に入ってすぐ。
 いかなる場所からでも時刻が確認できるよう頂上付近4面にそれぞれ巨大な機械時計を備えた星漣の中心点。立地、時間、そして風紀の基準となるべき使命を受けた学園設立時から存在する建造物、その名も「ウィルヘルム時計塔」。その2階に生徒会執務室は存在する。

「見た目は古いですけど内装は何回か工事してますから快適ですよ」

 「それでも冬場は少し隙間風が冷たいんですけど」と静香が笑う。なるほどね、これもハルが以前言っていた古い物を残したがる人の心ってやつか。
 正面からだとよくわからないが時計塔は煉瓦造りの2階建て洋館と太すぎる煙突のような塔がくっついたような構造になっているようだった。いつもは木々に遮られて館の部分は見えていなかったんだな。
 地上から2階の窓を見上げてみるがその全てに純白のカーテンがかかっている。どこからかこちらを覗いている様子も無い。

 いや、校則案を掲示した時点で向こうは僕たちが総員投票を申請することまで予想していたはずだ。だから生徒会側にとって重要なのは今日来るかどうかの一点のみだろう。こんなところで様子をうかがっても時間の無駄だ。

 僕は苺ミルクを飲み干し潰してゴミ箱に放り込むと静香に執務室までの案内を頼んだ。扉を開け、すぐ左手にある階段を上って2階へ向かう。

 静香の言葉通り内部は小洒落た雰囲気の洋風建築になっていた。通路には綺麗に清掃された絨毯が敷かれ、足を乗せると軽く沈み込む。吹き抜けの天井には適度な照明が灯り、壁には誰が描いたかわからない絵画がいくつも展示されている。うーむ、なんかゾンビの出てくるサバイバルホラーゲームに使用されそうな建物だな。学園の敷地になぜこんな場違いな建物が存在しているかは謎だけど。

 案内に従って上った先の通路を一番奥まで進み、そして突き当たりの一番立派な木製扉の前に立った。ここがそうか。

「では……、?」

 先頭で扉をノックしようとした静香を僕は無言で止めた。

──どうぞよろしくお願いしますね。

 招待されたのは僕だ。だからこの扉は僕が開ける。右手を上げ、2回ノックした。

『──どうぞ、開いてますよ』

 記憶と変わらぬ声。やはり彼女はここで待っていた。ノブに手をかけ、扉を開く。同時に白いカーテン越しの光が視界を染めた。光量の変化に思わず目を細める。

 そこはまさしく豪奢な執務室であった。左右の壁には長年の蓄積だろうか大量のバインダーファイルや書籍がギッシリと詰まった書棚が並び、そしてその前には向かい合うように机が2つの列を作っている。その列の辿り着く先には入り口、つまり僕らの方を向くように大きな机が設置され、そこにつく少女のシルエット。……彼女だ。その両サイドには長身と小柄の対照的な2人の姿もある。

「遅かったじゃないの」

 突然脇から声をかけられた。そちらに目をやれば、まるで輝くような見事なブロンドを2つお下げにした少女が笑みを浮かべながら僕を見つめている。

「まあ、間に合ったんだから失格ではないけどね」

 その少女は立ちつくす僕の側まで軽やかな足取りでやってくると無遠慮に顔を覗きこんできた。長いまつげのツリ目の中の瞳は金色に近いブラウン。僕と身長はあまり変わらないか少し低いくらいか。
 へえ、ハーフの金髪ツリ目ツインテールなんて初めて見た。本当に実在してるもんなんだな。ツチノコ並の存在だと思ってた。

「ふうん……近くで見るのは初めてだけど思ってた通りの女顔ね」
「……初対面の人間の外見をいきなり評価するなんてどうかと思いますけど」

 否定はしない。自分でも背が高い方ではないと思ってるしな。金髪の少女は僕の言葉にくすりと笑いをこぼした。

「ごめんごめん。でも、女の子に連れられておどおど入ってくるのかと思ってたんだけどね」

 本当に悪いと思ってるのか? 誠意のある言葉とはこれっぽっちも思えない。

「自己紹介はいらないかしら、達巳郁太クン?」
「ええ、必要性は感じませんね」

 ああ、もちろん知ってるさ。この学園の100名を超える運動部部員の元締め──体育会運動部連合自治会長にして乗馬部のエース、3年柚組 早坂英悧(はやさかえいり)。体育会の団結力を鑑みれば間違いなくこの星漣でナンバー2の実効権力を持つ生徒だろう。

「それに意外ね。貴方たちまで来るなんて」

 そう言って早坂が目線を送ったのは僕の後ろにいた哉潟姉妹だ。七魅は一歩僕の横に踏み出して初めて見たときのような警戒心のこもった目つきで相手を見返す。

「あなたこそ、なぜここに」
「あら、執行部役員がここにいたらおかしい?」
「いつもなら主将会議か馬に乗っている時間ではないのですか」
「用が済んだらね」

 そうか、柚組ってことは七魅と三繰は早坂とそれなりの面識があってもおかしくないな。仲は良さそうじゃないけど。
 でも僕も柚組には何度か行ったけど早坂を見たことは一度もない。それなりに忙しい役職なのか?

 緊迫する七魅と早坂をよそに、4番目に部屋に入った静香は僕たちが向いている方とは逆側の壁の方に歩み寄っていった。

「……お久しぶりです、お姉様」
「久しぶりね、静香ちゃん」

 日差しを避けるためか壁際まで引かれた椅子に座っていた少女がにこやかな笑みを浮かべながら顔を上げる。艶やかな黒髪を後ろで縛り、まるで尻尾のように背中側に流している。
 少女は今まで読んでいた緑色のブックカバーをかけられた薄い書籍を閉じると立ち上がった。紫鶴と同じくらい長い髪がさらりと流れる。

「嬉しいわ、あなたがこの場所をまた訪ねてくれるなんて。生徒会に戻ってくれる気になってくれたのかしら」

 目を細め、子供っぽく首を傾げながら静香に問いかける。静香はそれを見つめながら表情を変えることなく首を振った。

「いいえ、今日は新校則案に対する反対意見と総員投票の申請に来ただけです。申し訳ありませんが今後生徒会に復帰するつもりはありません」
「あらあら、そんなこと荒巻さんが聞いたらなんて言うかしら?」
「きっと泣くでしょうね、あの人なら」
「そうね、きっと泣いちゃうわね」

 そう言ってくすくすと笑う。小さな子供のような邪気のない笑い顔。この表情を見てこの人物を星漣で鬼とまで呼ばれて恐れられている存在だと誰が見抜けるだろう。

 星漣賛美歌隊所属 通称「星漣の歌姫」、そして季刊文芸誌「やまゆり」編集長をも勤める才女、3年榊組 天乃原などか(あまのはらなどか)。
 「やまゆり」は学生が同人的に作成する物でありながらOG達にも配布されるれっきとした伝統雑誌であり、文化系の部は皆この雑誌に記事を載せることを活動内容に盛り込んでいる。それゆえその編集長はそういった部にとって逆らうことの出来ない絶対存在なのだ。肩書きこそ編集長だがこれはもう文化系部員達のトップと言っても過言ではないだろう。
 昨年度はこの少女の容赦ない添削によって幾つかの部の記事が「やまゆり」へ掲載不可になるという憂き目に会ったらしい。その時にささやかれた第2の呼び名が「鬼百合編集長」というわけだ。人を見た目で判断してはいけないという典型だな。

 さて、この学園の文武の頂点を確認したところで僕は再度視線を部屋の中央の3人に戻す。僕から見て執務机の右手にファイルを胸に抱えて立っている小柄な人影は今朝も見た少女だ。
 生徒会書記、3年榊組 漁火真魚(いさりびまな)って静香は言ってたっけ。掲示板前の対峙の時と変わらぬ厳しい目で僕を眼鏡越しに睨み付けている。

 その反対側、机の左手に立つ長身の少女は初めて見る顔だ。不揃いの長い前髪が顔の半分を覆い隠し、片目だけがこちらを見つめている。そこには何の感情も見えず、ただ氷のような無感動さが感じられるだけだ。
 初対面ではあるが消去法でその正体は明白だ。残りの生徒会執行部役員、生徒会副会長兼風紀委員会委員長、3年柊組の相良冬月(さがらふゆつき)に違いない。ただの生徒会役員というだけでなく剣道部に所属し団体戦では副将を勤める実力派でもあるという。風紀委員と剣道部、なんともぞっとしない組み合わせだ。

 そしてその2人の中央、横に広い執務机についた少女。彼女の独特の色合いの瞳は最初から僕へじっと向けられている。僕と最後に部屋に入ったハルはその前に並んで進み出た。

「──来たよ、安芸島さん」
「ええ、お待ちしてました。達巳君」

 そう言って彼女はいつものように微笑む。

 ──第104代星漣学園生徒会長 安芸島宮子。今回の事態を招いた張本人だ。




「用件を伺いましょう」

 宮子の言葉に促され、隣からハルが一歩進み出た。

「お忙しいところ申し訳ありません、会長。今日は生徒会へ総員投票の申請をお願いに来ました」
「拝見します」

 ハルが差し出した用紙を宮子は受け取る。

「議題は今日発表された新校則についてです。私達は新校則の妥当性に疑問があると考え、その是非を全校に問いたいと思っています」
「クラス委員からの説明は聞かれたのですね」
「はい、その上での結論です」

 午後のロングホームルームで通達されたという新校則案の適応についての細部説明か。僕はそれに出てはいないけどだいたいの所はハルに聞いてある。

「討論者に達巳君の名前が無いようですが?」
「イ……達巳君は今回の新校則で一番影響を受ける立場ですから意見を貰うつもりです。でも、実際の討論会では私達が立ちます」
「そうですか……」

 ? なんだろう、宮子の視線がふと下に沈んだように見えたけど……。

「賢明な判断ね」

 突然後方から癖のあるしゃべり方で割り込まれた。この声は早坂だな。振り向けば思った通り金髪の少女は腰に手を当てて口元に笑みを浮かべている。

「確かに、今の達巳クンじゃあかえって立場を悪くするだけかもね。案外考えてるじゃない」

 どうしてこいつはこういう物言いをするんだろうな。性格が悪いのか口が悪いのか、あるいは両方なのか。

「英悧ちゃん、そろそろ……」
「ああ、そうね。それじゃ私となどかは帰るわ。仕事もあるし。いいかしら、宮子?」
「ええ、お疲れ様です」

 何だって? 帰るって……じゃあ何のためにここにいたんだ? 僕たちの反対意見を待ってたんじゃないのか?
 よほど顔に出ていたのだろうか、早坂は僕の方に再度笑みをこぼした。

「勘違いしないで。私達は執行部として反応が返ってくるか見守っていただけ。ここから先は委員会の仕事、私達が関わる問題ではないわ」

 「それに今回のはウチとも、などかのトコとも関係ないし」と呟くように付け加える。……それは暗に今回の総員投票では自分達は動かないと宣言しているのか。それとも無所属の僕や哉潟姉妹への揶揄なのか。

「じゃ、ね♪」
「それでは、お先に」

 意味深な言葉を残した早坂に続き天乃原も執務室を出て行った。結局のところこの2人にとっては申請書が提出されるかどうかが興味の対象だったということか。ちっ、舐められている気がするぞ。

「ええと、それで……」

 その退出で気勢を削がれたのか、ハルが言葉を選びながら口を開く。

「……何か問題がありますでしょうか?」
「書式に間違いは無いようですね。必要事項はきちんと記入されています。ただし、総員投票を行うためにはこの申請と共にもう1つ用意していただくものが有ります」

 宮子の顔にはもう先程の表情は浮かんでおらず、毅然とした態度で言葉を続ける。あるいはやはり僕の勘違いだったのかもしれない。

「総員投票を開催するためには在校生の15%にあたる賛同が必要です。次の生徒総会に間に合わせるためには本日中にそれを提出しなければなりませんが、用意できていますか?」
「はい、ここにあります」

 ハルがクリップで留められた紙束を差し出すと今度は横に立っていた漁火真魚がそれを受け取った。眼鏡の位置を直すと素早くそれをめくっていく。

「……49名、全員在校生で間違い無いようです」

 こいつは300名強の全校生徒の名前をすべて覚えているのか? 宮子は漁火からそれを受け取って自分も内容をざっと確認した。

「バスケットボール部の名前が多いですね」
「ええ、クラスのみんなも手伝ってくれましたから」

 ……そうか、春原が部員に署名を頼んでくれたんだな。後でお礼を言っておかないと。

「申請書を受け取る前に1つ、質問してもよろしいですか?」
「はい、どうぞ」

 宮子から質問か。何か問題でも見つけたのか? 隣のハルも身を固くする。
 しかし、次の瞬間その口から出た質問は完全に僕の予想の上をいった。いや、真上じゃないから斜め上か?

「今回あなたがこの新校則に反対する声を上げたのは、もしかして達巳君と源川さんの交遊関係に起因しますか?」

 ハルはその質問に虚を突かれたようだった。一瞬「え?」と口を開き、そして慌てて口を引き結ぶ。

「そのような個人的な理由じゃないです。私達は確かに幼い頃から親しく付き合っていますけど、私情を学園に持ち込んでこんなことをしたりしません」
「気分を害されたのなら謝ります、源川さん。しかし、私にはあなたがどうして率先して行動を起こしているのかの理由を理解しておきたいのです。昨年の7月以来、あなたはそういった事柄にことさら関わらないように立ち回っていたように思えますので。4月のセイレン・シスター選挙もクラスに呼びかけて投票を中止させましたね?」

 !? 何を言っているんだ? そんなの初耳だぞ?

「それは単なる噂に過ぎません。投票の中止も自然に出た話で私はそれに賛成しただけです」
「では、今回の件のために今まで断り続けてきた文化探訪研究会へと入部したことは?」
「その件に関してはこんな風に探研部を利用する事になって先輩方には申し訳なく思っています。でも、私は今一緒に勉強している友人の苦境を出来る事をやらないまま見逃したくはありません。必要なら私はなんでもやります。だってきっと……」

 ハルは一瞬言葉を止め、そして強い意志を込めてその名を口にした。

「きっと、那由美さんなら迷わず実行すると思いますから。今回のことも、あの時も。私とあの人は約束しましたから」

 ……執務室内が沈黙する。ハルの口から出た1人の人物の名の重みに。その重みを知らぬはずの僕すらも。

「……そうですか」

 宮子はため息をつくように言葉をはき出した。
 
 約束……か。いったい、何の?
 この場であいつの名が出てきたことも驚きなのだが、ハルまで去年生徒会と何らかの関わりがあったというのだろうか。それも、那由美も少なからず関係して。いったい去年に何があったんだろう。

 宮子は少しの間目を閉じて考えるそぶりをしていたが、何か決心したように椅子を引いて立ち上がった。

「貴方たちには少し事情を話しておきます」

 そう言って僕らの顔を順に見渡していく宮子。カーテンの側に立つと逆光の中にその表情が隠れてしまう。

「4月からの新制度の導入にともない、男子生徒が編入されてすでに1月半が経過しました。そして今、事前の説明にも関わらずご父兄の方々から男子生徒受け入れについてかなりの数の不安や要望が寄せられてきています」

 え……? 何故だ? 幎は間違いなく存在優先権が正常に発動していると断言したぞ? 僕の存在に違和感は感じないはずじゃないのか?

「もちろん、校長先生を初めとする先生方は粘り強く理解をしていただけるよう説得を続けていますが、そういったご父兄の不安に連動して生徒達にも動揺が広がりつつあるのです。発端となったのは2週間前、達巳君の主導で多数の生徒がプールを使用した時です。参加した女生徒の1人がそれは楽しそうに男子生徒と遊んだ様子を語った……と、ご家族から連絡があったそうです」

 ……そうか! 学園に僕がいることに違和感を抱く者はいなくとも、異性交遊に眉をひそめる親ならいてもおかしくない!
 なんで気がつかなかったんだ! 馬鹿!
 ここは星漣だ。単純に女友達と遊びに行く感覚でお嬢様連中とくり出したら問題が出るに決まってるじゃないか。

「私にはこの学園の風紀を守る責任があります。そして同時に、生徒達の健全な成長を見守る任を負っています」

 窓際から戻った宮子は再び椅子につき、僕に向かって静かに笑いかけた。

「達巳君の行動を責めているわけではありません。しかし、少々軽率であったように思います。……ただし、個人的には今のまま女生徒達を籠の中に囲っておく事が良い事ではないとも思っています。今回の事はいずれこの学園を卒業する者達に、少しでも男子と交遊する機会を与える事ができたとも考えています。ただ、そのためには今少し準備期間が必要なのです」

 そう言うと宮子は僕たちに考えの内を明かした。
 彼女の予想では、このままいくとやがてそういった父兄からの非難が僕に集中するのは必至。それを避けるためにまずは僕をこの学園から隔離し、その上で理解の浸透と併せて徐々に規制を緩めていく。こうすることで僕と学園、そして父兄の意志をすべて守る事ができるのだという。
 宮子は説明を終えると再度立ち上がり僕の瞳を見つめた。

「学園のため、しばらくの間不自由するかもしれませんがどうか協力をお願いできませんか?」

 部屋中の視線が僕に集まる。全員が息を詰めて僕の言葉を待つ。
 なるほどね、確かに理に適っている。うん、立派だ。

 だけど……それだけだ。舐めるな、こんな茶番に付き合ってられるか。

「答えを言おうか? 生徒会長」

 もう我慢できない、僕は机に手をついて身を乗り出す。宮子は微動だにせず僕の視線を真っ正面から受け止めた。

「嫌だね、理不尽だ」

 そうだ、誰が何と言おうと、どんな事情があろうと、僕が午前中あんな気分になったのはひとえにあの新校則が嫌だったからだ。ただ「切り捨てる」だけのあの校則が。

「この新校則は抑制し、切り捨てるばかりで何の打開策も含まれていない。準備期間? 一度待遇を悪くしてから関係が元に戻る訳ないだろ。君らしくないんじゃないか? 一歩下がって見直せよ? そんな風に性急に対応したって残るのは歪んだ不具合だけだろ」
「何か腹案があるとおっしゃるのですか?」
「生徒会のサポートは僕の仕事じゃない。そういうのは有能な部下に任せてやってくれ。僕がやるのは、明らかに間違った新校則に反対する事だけだ」

 僕の後ろで「イクちゃん……」とハルが呟くのが聞こえる。ああ、悪いなハル、静香ちゃん、それと七魅に三繰。どう反感を買おうとも、僕はこれだけは安芸島宮子に伝えなくてはならない。

「さっきハルは僕には意見を聞くだけだと言ったけど、あれは間違いだ。この申請書の提出は僕の意志も含まれている」

 そして同時に、これは僕の味方でいてくれた彼女たちへのささやかな決意表明だ。

「この申請書、受け取ってくれ」

 そう言って僕は机の中央に置かれた申請用紙を指先で宮子の方へ押しやった。

 宮子はその書類には目をやらずじっと僕の視線を受け止めている。今更僕もそれを逸らす気はない。

「──了解しました」

 次の瞬間、ほんの少し……間近で目を合わせていた僕にだけわかるくらいほんの少しだけ笑い……宮子はうなずいた。

「あなた方を今から1週間、新校則案の是非に関する討論員とすることを認めます」

 その言葉を聞いて後ろでハルがほっと息を吐いた気配を感じた。僕もついていた手を離し一歩後ろに下がる。

 すでに用意していたのだろうか、漁火はそんな僕たちに校則の抜粋が記述された用紙を差し出した。

「期間中の広報活動は規則に従い逸脱の無いよう十分にご理解をお願いします。わからないことがありましたら私の方まで。今この場で何か質問はありますか?」

 僕たちが何も言わないことを確認し、漁火は元の定位置に戻った。そして宮子は引き出しを開き、そこから四角い判子を取り出し僕たちの申請書に捺印する。

「──あなた方の総員投票申請を受諾しました。討論の場は7月1日の生徒総会において、結論は全校生徒参加による決選投票によって定められます。……よろしくお願いしますね、達巳君」
「ああ、よろしく。生徒会長」

 差し出された宮子の手を握ると同時に、時計塔館内に下校時刻を知らせる鐘が鳴り響いた。
 星漣全域に広がるその音は1日の終了を告げるもの。しかし、今この時この場所においてそれは始まりの狼煙だ。

 そう、それは……後に、「達巳裁判」と呼ばれることになる1週間の戦いの幕開けを告げる鐘だったのだ。

 
 


 

 

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