戻れない、あの夏へ


 

 



Preceding Stage サヤカ 仕込み編


前編 欺きの夜





 ※登場人物(ただ、このお話は本編よりも数年前が舞台のお話なので、本編を読んでいなくても単独のお話として読めます)
 津雲雄司(つくも ゆうじ)……輸入ブランド品を扱う"ラ・プッペ"とレストラン"メゾン・ドゥ・プッペ"を経営。好みの女性を催眠術を使って自分のものにして店で働かせ、また、自分に奉仕をさせている。
 秋月紗耶香(あきづき さやか)……『戻れない、あの夏へ』本編ではサヤカ。本編第1話およびExtra Stage アスカ 後編に登場。本編では津雲によって"ラ・プッペ"を任されている。





 ……それは、『戻れない、あの夏へ』本編から遡ること3年と少し前。
 




 ――津雲雄司
 5月16日、PM6:55 ミラノ・マルペンサ国際空港。


 いつもと同じ、代わり映えのしない入国審査。それを滞りなく終えると、国際便の到着ターミナルを出てタクシーを拾う。

 運転手に行き先を告げて向かったのは、ミラノでの定宿にしているホテルだ。
 それほど有名ではなく、ガイドブックでも大きく採り上げられてはいないが、落ち着いた雰囲気でサービスの行き届いたそのホテルを俺は気に入っていた。

 とりあえずチェックインを済ませると、部屋に荷物を置いてからホテルの近くにあるなじみのレストランで晩飯といくか……。

 俺が日本で経営している店で扱っているのは、海外のブランド品ばかりだ。とはいえ、一口に海外ブランドといっても有名ブランドの大会社から、少人数の職人が丁寧に作っているような日本ではほとんど知られていない小さなブランドまでその数は多い。
 うちの店は、まだ日本に紹介されていないようなイタリアの中小ブランドの製品をいち早く取り入れているのを売りにしていた。
 そのために、こうやって自分で現地に赴いて取引の交渉を行うのもいつものことだ。

 だが、今回は初めての会社との交渉がメインなので、いつもとは違う緊張感があった。
 まあ、その緊張感さえも俺にとっては楽しみのうちなのだが。

 しかし、さすがに俺もその時はまだ気づくはずもなかった。
 今回の旅行が、思いも寄らぬ収穫をもたらすことに。






* * *







 ――秋月紗耶香
 5月17日、AM11:30 ガルマリーニ社。

 手許に揃えた資料に入念に目を通す。
 今日の14時に交渉のアポが来ている会社に関する資料だ。

 それが日本の会社ということもあって、交渉の担当が私に回ってきてからというもの、ずっとその会社の調査を続けてきた。
 もちろん、あくまでもビジネスだから、同国人だからといって甘い評価をするつもりはない。
 だが、日本にいる知人のつても頼って徹底的に調べたが、特に問題は見当たらなかった。

 経営者の名前は、津雲雄司……。
 ただ、会社とはいっても店舗をいくつも展開しているわけではない。
 東京の、ブティックや海外ブランドが比較的多いエリアに店を1軒構えているだけだ。
 それも、人気店が軒を連ねる表通りからは外れた裏通りに。
 それにしては、調べた限りではその店の業績はかなり優良な部類に入っていた。
 贔屓にしている固定客が多いことが窺われ、店の評判も悪くない。
 それになにより、その店で扱っているブランドには私も思わず唸るほどだった。
 こちらではそこそこ知られているが、おそらくまだ日本では知られていないブランドや、こちらでも通好みの小さなブランドを多く扱っている。
 おそらく、日本ではここでしか扱っていないものもかなりあるだろう。
 共通しているのは、どれもセンスが良いのはもちろん、技術や品質の高さが評価されているブランドばかりだということだ。
 きっと、この会社にはこちらの事情に精通した、かなりの目利きがいるに違いない。

 もう、何度も目を通してきた資料を読めば読むほど、その店の品揃えのレベルの高さに感心してしまう。
 経営状況も良好ではあるし、会社の規模が小さいことを除けば非の打ち所がなかった。

 それに、会社の規模が小さいというのは、我が社にとってはむしろ都合が良かった。
 うちは、デザインはもちろん、素材にもこだわり、スカウトしてきた熟練の職人が手作りで造り上げた高品質の商品がアピールポイントになっていた。
 その反面、生産量はそう多くはないのは致し方ないところだ。
 加えて、うちの会社の上層部は新興のブランドにしては職人気質が強く、商品を買ってくれる顧客の姿が見える相手と取引するのをモットーとしていた。
 だから、大量の商品を扱う量販店とは、それだけで契約を断ることもあった。
 その点、規模が小さくて固定客が多くついている今日の交渉相手は、我が社の方針とも適っている。
 これまでも日本に我が社のブランドを紹介したいという思惑はあれど、経営方針と合った取引相手が見つからなかったという経緯もあり、上層部は今回の契約にかなり前向きになっているようだった。
 あとは、今日の交渉の結果、私が問題なしとの結論を出せばおそらくこの契約は成立するだろう。

 まあ、会社に関しては問題がないし、直々に交渉に来られる社長さんがどんなの人なのか、じっくり見させてもらうとするわ……。

 私は、デスクの上に資料を置くと、ランチを取るために席を後にした。






* * *





 ――津雲雄司
 5月17日、PM1:45 ミラノ、ヴィア・モンテナポレオーネ。


 一夜明けて、俺はミラノのモンテナポレオーネ通りに出向いていた。
 大小様々なブランドショップのひしめくこの通りは、まさにミラノファッションの心臓部と言っていい。

 そのうちの1軒、1階が店舗になっているビルに入っていく。
 今回の俺のミラノ訪問は、この、ガルマリーニ社との交渉のためと言っても過言ではない。
 比較的新しい会社で、まだまだ日本では知られていないが、流行を先取りした斬新なデザインでヨーロッパでは密かに人気となりつつあるブランドだ。

 2階にあるオフィスの入り口に行き、来訪の目的を告げる。

"本日2時から新規契約の面談のアポイントメントを取っていた津雲雄司ですが、担当の方をお願いします"
"津雲様ですね、少々お待ちください……"

 対応してきた受付の女はそう言うと、受話器を取る。
 そして、電話の相手と幾度か言葉を交わすと俺の方を向く。

"……津雲様、すぐに担当の者が参りますのでそのままお待ちくださいませ"

 そう言われて、待つことしばし……。








「ようこそいらっしゃいました」

 いきなり日本語で話しかけられて、驚いて振り向いた。

 そこには、落ち着いたダークグレーのスーツに身を包んだ女性が立っていた。
 その顔立ちと、なにより、腰まである真っ直ぐな黒髪が、彼女が日本人であることを雄弁に物語っていた。

 こんなところで日本人に会えるとは思っていなかったため吃驚している俺にニッコリと微笑むと、彼女は握手を求めてきた。

「津雲雄司さんですね?アポイントの連絡があったときに、名前で日本人だとすぐにわかりましたわ。私は、あなたとの交渉を受け持たせていただきます、秋月紗耶香です」
「あ、ああ……よろしく……」
「こちらこそよろしくお願いします。……それでは、こちらへどうぞ」

 穏やかな笑みを湛えながらそう言うと、彼女は俺を別室へと案内する。



 彼女、紗耶香の後について行きながら、俺は感心していた。

 切れ長の目に涼やかな笑みを湛え、小ぶりでやや細めの顔立ちの、申し分のない美人だ。
 そんな美人に微笑みかけられて、気分が悪いわけがない。
 しかし、俺が感心していたのは、あくまでも業務用のはずである笑顔が、ごくごく自然な雰囲気を漂わせていたことに対してだった。

 ビジネスの場では感情のコントロールと、それを表情に出すことは重要である。
 その場の状況に応じて強く出ることも、笑顔ひとつでその場を和ませることも必須のスキルだ。
 彼女は、自分がどのような表情を見せたら相手に好印象を与えるのかよくわかっている。
 そして、それをごく自然に装う術も。

 明らかに営業用とわかる笑顔ほど、興醒めなものはない。
 そんなことを感じさせない彼女の立ち居振る舞いに俺は感心したのだ。












「……なるほど、お話はよくわかりました」

 交渉の席で、俺は自分の店のこと、その店でここのブランドを扱いたい旨を説明した。

 うちの店は、日本ではまだまだ知名度の低い新興ブランドや中小ブランドの製品を、現地で直接交渉して仕入れているのを売りにしていた。
 だから、今やっていることもこれまでしてきたことと変わらない。
 ただ、現地での交渉担当者が日本人だったのは初めてだが。

 俺の話を聞き終わると、紗耶香はおもむろに口を開いた。

「失礼とは思いましたが、アポイントを取られてから今日までの間にあなたの会社のことを調べさせていただきました。……経営は堅実、贔屓の固定客がそこそこあって、お店の評判も悪くないですわね。日本ではメジャーではありませんがセンスのよい品を扱っていると評価されています。……それにしても、これも……それにこのブランドも、本当にセンスがよくて、技術の確かなブランドばかり……。どれも、日本ではあまり知られていないのに、よくこれだけのブランドの商品を揃えることができましたね?」
「それは、小さな会社ですがその分自由はききますし、こうやって僕が自分で現地に赴いて交渉を積み重ねた結果です」
「なるほど、津雲さんの情熱の賜物というわけですね……」

 感心したように、紗耶香は俺の話を聞いている。

 穏やかな雰囲気の中で交渉は続いているが、俺は内心で舌を巻いていた。

 俺の会社のことを、よく調べてやがる。
 たしかに、うちの店は公式ページも作っているのでそれを見れば扱っているブランドや会社の概要はわかる。
 それにしても顧客の評価まで、よくもまあイタリアに居ながらにしてここまで調べたもんだ。

 まあ、経営自体には真面目に取り組んでいるつもりだし、実際に順調ではある。
 その点に関しては自信があるが、実はうちの会社には、俺しか知らない、おおっぴらにはできない秘密がある。
 さすがに、そこまでは知られていないようだ。

 これが上からの指示ではなく、彼女が独自に調査したのだとしたらかなりのやり手と言っていい。
 こっちの会社では、任された業務にはその担当者の裁量がかなり大きく認められていることが多いので、おそらく彼女が独自に調査したものだろう。
 それに、彼女のその、ヨーロッパの中小ブランドに関する知識の豊富さもたいしたものだ。

 これは、こちらも真面目に対応しないとまずいな……。

 イタリアという土地柄のせいか、こういう場合は調子のいい話をして会話を盛り上げると案外スムーズに話がまとまり場合があるのだが、日本人である彼女にはそれは通じないだろう。

 こういう相手には、ビジネス論や、流行の流れといった美的センスに訴える話をした方がいいか……?

 そんなことを考えながら、うちの店におけるこのブランドの必要性を訴える。

 面会の間、紗耶香はずっと穏やかな笑みを絶やさないが、俺としては一時も気が抜けなかった。

 だが、それと同時に。

 彼女をうちに欲しいな……。

 彼女の話を聞いているうちに、そんな思いが鎌首をもたげてきていた。
 こちらのファッションブランドにかなりの知識を持ち、かつ、調査力、交渉力など行動力もある。
 語学にも堪能だし、こういう人材がいてくれたら俺の仕事もかなり楽になる。
 それに、彼女の容姿はうちの"社員"と比べてもかなりレベルが高い。


 そして、さらにいくつか意見を交わした後で。


「ところで、津雲さんはいつまでこちらにご滞在ですか?」
「そうですね。……ここ以外にも数社ほど回る予定もありますし、こちらでの最新のトレンド情報も仕入れておきたいので10日ほどはこちらにいる予定ですが」
「そうですか。では、2、3日のうちにご返答をさし上げたいのですがよろしいですか?」
「ええ、大丈夫です。僕としても、こちらとの契約を最優先させたいですし」
「私からも上の方に強く推しておきますわ。私も、日本人として我が社の製品を日本に紹介したいとかねがね思っていましたし、これは願ってもない機会ですわ」
「ありがとうございます。それでは、よろしくお願いします」

 そう言って、俺は頭を下げる。

 まあ、すぐに結論が出るとは俺も思っていなかったが、俺の方も相手によい印象を持たせることには成功したようだ。



 とりあえず、その日の交渉はそれでお開きになった。



 その帰途、俺は久しぶりに興奮していた。
 商売の話とは別に、こんなところで思わぬ掘り出し物を見つけたことに。

 どうやったら彼女を俺のものにできる……?

 ホテルに戻りながら、俺は紗耶香を手に入れる算段について考えを巡らしていた。






 そして、彼女から連絡が来たのはその2日後だった。






* * *







 ――津雲雄司
 5月20日、PM4:05 ガルマリーニ社。

「我が社の製品の日本における販売を、あなたの会社にお任せすることになりました」

 連絡があった翌日、先だって交渉した部屋で待つこと数分、入ってきた紗耶香が笑顔で握手を求めてきた。

「ありがとうございます」
「いいえ、あなたの会社の実績が評価された結果ですわ。それに、我が社は職人の手作りによる高品質の製品を売りにしていますから生産量もそれほど多くはないですし、それが津雲さんの店で扱っている量とうまくマッチしたということでしょう。それに、津雲さんの、顧客を大切にする経営方針が上層部にも高く評価されたのです」

 立ち上がって礼を述べると、紗耶香はそう言って小さく頭を振る。
 まあ、多分に社交辞令だろうが、実際に契約を結べるわけだし悪い気はしない。

「それでは、契約の手続きと参りましょうか」
「はい」




 俺は席に座ると、彼女の提出した契約関係の書類に目を通していく。





 そして、契約のサインが終わって。

「秋月さん、契約の成立を祝して、祝杯などはいかがですか?」

 俺の方から、そう切り出す。

 こちらでは、日本でのように契約を取るための接待をすることはまずない。
 だから、俺も契約成立前に彼女を接待するようなことはしなかった。
 だが、契約が成立した後の打ち解けた雰囲気の中で会食をすることはよくあった。
 一種の打ち上げのようなものだが、その傾向は大きな企業よりも中小の方が強い。
 まあ、日本人の彼女はともかく、多くの場合はイタリア人の気質もそうさせていたのだろうが。
 ただ、なんとなくではあるが、彼女のここでの仕事への馴染みぶりから、誘えば乗ってくるような気がした。

「祝杯ですか、いいですね」

 案の定、彼女も気さくに応じてくれた。
 仕事に手慣れた彼女の様子から察するに、これまでもそういったことはよくあったのだろう。








 そして、彼女の仕事が終わるのを待って待ち合わせる。

「お待たせしました、津雲さん」
「いえ」
「それで、どこに連れて行ってくださるんですか?」
「こちらに来たときによく行く、僕のお気に入りのレストランがあるんですよ」
「まあ、それは楽しみですわ」



 そんな会話を交わしながら、俺は宿の近くのなじみのレストランに彼女を連れて行く。



「あら?もしかして、この店ですか?」

 "リストランテ アントネッリ"と書かれた小さな看板の立つ前まで来ると、彼女が小さく声をあげる。
 その顔は、少し驚いたような、それでいて子供の悪戯を見つけたような楽しげな笑みを浮かべていた。

「ご存じでしたか?」
「ええ、何度か来たことあります。たしかに、ここは雰囲気がいいし、料理も美味しいですよね」
「そうなんですよ。僕はこの店が気に入ってまして。さ、どうぞ中へ」



 彼女を伴って店の中に入ると、カウンターの前を通って奥の部屋に通される。



 ここのマスターとは馴染みだし、予約をして中庭の見える奥のテーブル席を取っておいてもらっていた。

「……へえぇ。こんな席があったんですね。知らなかったわ」

 席から見える、ライトアップされた小体な中庭を眺めながら、紗耶香が感嘆したように呟く。

「ここのオーナーシェフとはもう長いつきあいですからね。なにしろ、僕がいつも泊まるホテルに近いですし、ミラノに滞在している間は必ず何度かはここで食事をしてますから」
「この近くのホテルというと……」
「ホテル・グラツィアーノですよ」
「あら?あのホテルはガイドブックではそれほど大きく扱われていませんよね?」
「日本語のガイドブックでは特にそうですね。まあ、ヨーロッパ各地からの宿泊客がメインのようですしね。でも、あそこは小さなホテルですけどきめの細かいサービスが行き届いていて、僕はこちらに来るときは必ずあそこに泊まっているんですよ」
「へえぇ。さすがに津雲さんはよくご存じでいらっしゃいますね。この店だって、地元の人間にはわりと知られていますけど、観光客が来るような店でじゃありませんもの」
「まあ、この店も最初はホテル・グラツィアーノのスタッフに教えてもらったんですけどね。それからすっかり気に入ってしまって何度も通い詰めまして。オーナーシェフともすっかり顔なじみです。今日はお任せで料理を頼んでますから、彼も腕によりをかけてメニューに載ってない料理を出してくれるかもしれませんよ」
「まあっ、それは楽しみですわ」

 俺の話に、紗耶香は表情を輝かせる。
 日本から遠く離れた国で、己の才能を頼りにキャリアを重ねている彼女のようなタイプの女性でも、こういうのには弱いらしい。




 実際、その日の料理は素晴らしかった。
 会話も弾み、深酔いするほどでもないがワインもグラスを重ねた。





「そういえば、秋月さんは何がきっかけで今の会社に勤めようと思ったんですか?日本でもまだ知られていないブランドですし、あそこのスタッフで日本人は秋月さんくらいなものでしょう?」
「ええ、そうですね。まあ、きっかけは、簡単に言えばヘッドハンティングです。私がもともと勤めていたのは……」

 そう言って彼女が口にしたのは、日本でも名前が知られている有名ブランドだった。

「それはすごい。あそこのスタッフの優秀さは有名ですからね。そこからヘッドハンティングされたというのは一流の証明みたいなものですよ」

 少し大げさなくらいに驚いてみせる。
 いや、実際に少なからず驚いていた。

 なるほど、あそこで働いていて引き抜かれたのなら、よほど仕事ができるのだろう。
 ますます紗耶香を自分のものにしたくなる。
 とはいえ、まともなやり方では手に入らないのはわかっている。

 とりあえずは、和んだ雰囲気の中でタイミングを見計らうとするか……。

「そんな、一流だなんてとんでもないですわ」
「謙遜しなくてもいいですよ。僕なんかが言うのもなんですが、今回の契約にあたっても秋月さんの優秀さはよくわかります。それにしても、ずっとこっちで働こうと思っていたんですか?」
「いえ、学生の頃は普通に日本で就職するつもりだったんですよ。それが、旅行で来たイタリアがすごく気に入ってしまってこっちで働きたくなって留学したんです」
「いやいや、こちらで働きたいといってもなかなか実現できることではありませんよ。それも、立派にキャリアを積み重ねていますし」
「そんなことありませんわ。私もまだまだ未熟者ですし」

 日本人らしく謙遜しながらも、言葉の端々や表情に自信が窺えるのは、ある程度成功体験を積んできた証拠だ。
 こういうタイプの人間は、持ち上げて自尊心をくすぐるのが効果的だ。

「しかし、そうは言っても日本から遠く離れた場所で女性がひとりで仕事をこなしていくのは簡単なことではないでしょうに」
「あら?その点に関してはこちらの方がいいかもしれませんよ。こちらでは、能力次第では女でも大きな仕事を任せてもらえますし、女が働く環境としては日本よりいいんじゃないかと思っています」
「なるほどね。でも、日本が恋しくなったりはしませんか?」
「それは、あまり感じませんけど……。ただ、大きな湯船にゆっくりと浸かりたいなって思うときはありますね。できれば、日本の温泉みたいな……。なにしろ、普段はそれこそシャワーだけですませていますし」
「でも、温泉はヨーロッパでもないわけではないでしょう?」
「ええ。しかし、こちらの温泉は日本のものとは全然雰囲気が違いますから」
「なるほど……」

 アルコールも入って少しうち解けてきたのか、いかにもクールビューティーという雰囲気だった紗耶香の表情が柔らかくなっていた。
 その笑みも、ごく普通の20代後半の女のそれと変わらない。
 ただ、ものすごく美人であるのは間違いないが。

「それにしても、秋月さんは他のブランドに関してもお詳しいし、よく勉強なってますね」
「それは、もともとそういうのが好きでこの業種を選びましたから。それに、その方面の知識に関しては津雲さんの方がよく知っていらっしゃるんじゃないんですか?津雲さんのお店で扱っているブランド、どれも流行をリードしているようなセンス溢れるブランドばかり。それも、日本ではあまり扱われてないものばかりですもの。こちらでの流行に常にアンテナを巡らせていないと扱えない品ばかりで、津雲さんの情熱には頭が下がりますわ」
「まあ、そのためにこうやって僕が自分でこっちに出向いてきて契約交渉をしてますから」
「でも、社長自らこうやって精力的にヨーロッパまで出向いて交渉されるなんて」
「それは、うちは小さい会社ですし、僕が道楽でやってるみたいなものですから」

 実際、うちの店は俺の道楽だ。
 彼女はその実態を知るはずもないが。
 そんな俺の話を、紗耶香は感心した表情で聞いている。

「それでも、津雲さんは本当にすごいと思います。特にこの街の会社はそれぞれプライドが高いですから、交渉も一筋縄ではいかないでしょうに堂々としていらっしゃって」
「いやいやとんでもない。僕は実は小心者でしてね、人前で話すのも本当は得意じゃないんですよ」
「本当ですか?とてもそうは見えませんけど?」

 紗耶香は、驚いたように目を丸くしている。
 まあ、もちろんそれは彼女を誘うための嘘なのだが。

「本当ですよ。もともとは、初めて会う人ともまともに話ができなかったんですから」
「ご冗談でしょう?それではとてもそんなお仕事をこなすことはできないじゃないですか?」
「それはそれ、自分はできるって気合いを入れて頑張るんですよ」
「まあっ、気合いでなんとかなるものなんですか?」

 そう言って、紗耶香は楽しそうに声をあげて笑う。

「いえ、まあ気合いというのは冗談ですけどね。僕の場合、自己暗示でそれを克服したんです」
「自己暗示って……?それは、そう思い込むっていうことですか?」
「うーん、単なる思い込みとは違いますね。ちゃんとした自己催眠法を使って、自分に催眠暗示をかけるんです」
「自己催眠法、ですか?」
「ええ。催眠術っていうのがあるのをご存じありませんか?」
「聞いたことはありますけど……詳しくは知りませんが」
「まあ、簡単に言えば、精神状態を眠っているような、意識レベルの低下した状態にすることです。それはつまり、心の中の意識の壁を取り払うということです」
「意識の壁を取り払う……。そうすると、どうなるんですか?」
「意識というのはその人の人格を形成する重要なファクターです。しかし、意識には苦手意識やコンプレックスのような負の側面をもったものもあります。人が自分の悩みや苦手を克服しようとする際に、大きな障害となるのがこのマイナス面の意識なのです。そこで、催眠術を使って意識の壁を取り払うことによって、マイナスの意識もいったん取り払われることになります。その上で、前向きな暗示をかけることによって苦手を克服ができるという仕組みなのです」
「そうなんですか……」

 と、紗耶香は感心した様子で俺の話を聞いている。
 この感じだったらうまくいきそうだな……。

「で、その催眠術を自分にかけるのが自己催眠法です。現代社会はなにかとストレスが多い社会ですから、自己催眠をつかってリラックスしたり、仕事の上でのストレスを解消するとか、自分の苦手を克服するというのは最近ではわりとポピュラーになってるんですよ」
「私、そういうのには本当に疎いですから、そんなすごい方法があるなんて初めて聞きました。でも、それでも苦手を克服するのにはけっこう時間がかかるんでしょうね」
「まあ、苦手克服にはかなり深い催眠状態に入る必要があるので、自分でやるにはそれなりに練習する期間は必要ですけどね。でも、人にやってもらうならわりと簡単にできますし、それこそ、リラックスやストレス解消くらいなら今ここでもできますよ。ちょっと、私がやってあげましょうか?」
「え?今ここで、私にですか?」
「ええ、本当に簡単ですから。あ、もちろん嫌だっらいいですよ。それに、なにも悩みがなければこんなのは必要ありませんし」

 あくまでも善意を装って、判断は向こうに任せる。
 下手に強く勧めるよりも、この方がかえってうまくいくものだ。

「だったら……少しだけやってもらおうかしら?」

 食いついた!

 うまく紗耶香が俺の提案に乗ってきたので、早速取りかからせてもらうことにした。

「そうですか、じゃあ、ちょっとやってみましょう」
「本当にここでするんですか?」
「そうですよ。特別なことは何もいりませんし、それに、ここにはちょうどいいものがありますしね」
「ちょうどいいものですか?」
「ええ……これですよ」

 俺は、テーブルに置いてあったキャンドルランプを手にとって、彼女の顔の高さまで持ち上げる。

「実は、催眠導入法のひとつに炎を見つめるっていうのがあるんですよ」
「炎を見つめるって、それだけなんですか?」
「そうです。ただし、すごく集中して見つめるんです。……じゃあ、始めましょうか?」
「あの……危険なこととかはないんですか?」
「その点なら心配はいりません。危険は全然ありませんから。では、テーブルの上に右手を置いてもらえますか?」
「え?……こうですか?」

 紗耶香は食器を寄せてスペースを空けると、テーブルの上に右手を置く。

「そう、そんな感じで。では、この炎を見つめてください」
「はい」

 片手を卓上に置いた姿勢で、紗耶香はキャンドルの炎を見つめる。

「集中して見つめるんですよ。ゆらゆら揺れる炎をじっと見つめるのは、催眠状態になるのにとても効果的らしいですから」
「はい」

 視線を中央に寄せて目の前の炎を見つめる彼女の真剣な表情から、かなり集中していることは見てとれた。

「いい感じにに集中してますね。では、次はそうやって集中したまま、気分を楽にしてください」
「気分を楽に……ですか?」
「そうです。少し難しいと思いますけど、肩の力をすとんと抜くような感じで、でも、炎は見つめたままで」
「こんな感じですか?」

 さっきまでやや持ち上がりぎみに張っていた紗耶香の肩が心持ち下がってくる。
 しかし、まだ少し力が入っているように見えた。

「もっと、腕をだらっとさせるくらいに肩から力を抜いて」
「こう……ですか?」

 紗耶香が力を抜いて、テーブルに置いた腕がダランとなる。

「そうそう、そんな感じです。では、そうやって炎をじっと見つめて、そうそう、もっと集中して」
「はい……」

 言われるままに、じっと炎を見つめる紗耶香。
 よほど集中しているのか、炎が大きく揺れると瞳孔もそれに合わせて揺れている。
 それに、少し瞼が重そうになってきていた。
 
「では、そのまま、右腕が重たくなる、と強く念じながら繰り返してください」
「はい。……右腕が重たくなる、右腕が重たくなる、右腕が重たくなる、右腕が重たくなる……」

 紗耶香は、じっと炎を見つめたままで俺が言ったとおりに繰り返していく。

「もっと繰り返して。そう言ってると、本当に右腕が重たくなるよ」
「右腕が重たくなる、右腕が重たくなる、右腕が重たくなる、右腕が重たくなる……」
「じゃあ、僕があなたの肩に手を置くと、きみの右手は重たくて動かなくなるよ」

 そう言って、紗耶香の肩に手を置く。
 もちろん、軽く触れる程度で抑え込んだりしたわけではない。

 それでも。

「さあ、右手を動かしてごらん」
「はい……えっ!?そ、そんなっ……本当に、動かない!?」

 紗耶香が驚いたように自分の右手を見る。
 本人は動かそうとしているつもりのようだが、指先のひとつも動かせないようだった。

「そんなっ、どうしてっ!?腕が鉄の塊になったみたい!?」
「少し落ち着いて、秋月さん」
「津雲さん?」
「一度深呼吸をしましょうか?」
「は、はい……」

 俺に言われて、紗耶香は一度すうぅっと深呼吸をする。

「では、肩に置いた手を退けると、あなたの手は動くようになるよ。……さあ、どうですか?」
「……あら?本当だわ……」

 彼女の肩に置いた手を退けると、なにこともなかったみたいに紗耶香の手は持ち上がる。
 そんな自分の手を、紗耶香は不思議そうに見つめていた。

「さっきはあんなに重たくて、動かすこともできなかったのに……?」
「それは、あなたが僕の催眠術にかかっていたからですよ」
「えっ?でも、私はずっと意識がはっきりしていたし、眠ってたわけでもないし……」
「催眠状態になっても、必ずしも眠るわけではありませんよ。さっき僕が説明したでしょう。催眠状態とは、眠ったような、意識レベルの低下した状態だって」
「ええ……」
「意識レベルが低下するのは、いろいろな状態があって、もちろん眠るのもそのひとつですけど。他にはリラックスする、注意が散漫になるとか色々ありますけど、なにかひとつのことにすごく集中するのもそのひとつなんですよ」
「集中することがですか?でも、集中すると意識レベルが上がってるんじゃないんですか?」
「それは逆ですね。ひとつのことに集中しすぎると、他のことに意識が回らなくなるでしょう?それはつまり相対的に他のことへの意識レベルが下がっているっていうことなんですよ。そして、催眠術にちょうどいい意識レベルの下げ方というのはなにかに集中することなんです」
「それは、どういうことですか?」
「催眠術って言うのは、意識レベルが下がったとこに暗示をかけるものですが、眠ってしまったら暗示は聞こえなくなりますし、注意力が散漫になっていると暗示を受けいれることも散漫になってしまってうまくいきません。なにかに集中している状態と暗示を重ねると、非常に効率よく暗示をかけることができるんです。そうやって、集中して意識レベルが下がっている状態は、被暗示性がすごく高いんです」
「あっ、だから、さっき私に腕が重くなるって繰り返させたんですね」
「そうです。さっきあなたはすごく集中して炎を見つめていましたから、その集中した意識を腕が重くなるという暗示に向かわせたんです」
「でも、さっきは本当に腕が重たくて、動かそうと思ってもできなかったです」
「それは、腕が重たくなったというよりかは、力が入らなくて動かすことができないっていう方が近いですね」
「どういうことなんですか?」
「さっき、僕はあなたに肩の力を抜くように言ったでしょう?」
「はい」
「人間の体で、一番緊張している箇所は首と肩だと言われています。だから、首と肩の力を抜いてやると、体全体の筋肉が弛緩してすごくリラックスしてくるんです。で、意識はすごく集中して、体はリラックスしている状態っていうのが催眠術には理想的な状態なんです。ある意味、そのままでも意識と体が切り離された状態に近いですから」
「意識と体が切り離された状態ですか?」
「ええ。少なくとも、体を動かそうとするのはそう意識しないとできないですから。しかし、実際には腕が重くなったんじゃなくて、肩の力を抜いた状態で、力が入らないまま動かそうとしたんですよ」
「よく、わからないんですけど?」
「今さっき秋月さんは炎にすごく集中していて、すでに軽い催眠状態になっていたんです。その時点でもう、腕を動かすという方向に意識が向きにくくなっていた。それに加えて、腕が重たくなるという暗示をかけた。そのことで、あなたの集中した意識は腕が重たくて動かないという方向に固定してしまった。実際には、体から力が抜けた状態だったので、力が伝わらなくて重く感じていただけなんです。そうやって力が抜けた状態だから、腕を動かそうとするとまずは力を入れることを意識しなければいけないのに、催眠状態になっていたあなたは、それをすっ飛ばして意識だけで腕を動かそうとした。当然、腕に力が伝わらないから重たく感じて動かないんですけど、それを秋月さんは動かそうと思っているのに動かないと感じてしまったんです」
「へえ、そうだったんですか……」

 と、紗耶香は俺の説明を感心したように聞いていた。
 もちろん、俺の説明は大まかなところでは催眠導入の理論をかみ砕いて話しているが、大事なところは伏せてある。
 これだけ詳しく話すのは、彼女みたいなタイプは理屈を理解させたほうが催眠術への抵抗感や恐怖を払拭させることができるだろうと思ったからだ。

「でも、これで催眠状態になっても自分の意識ははっきりしてるってことはわかりましたか?」
「ええ。今のが催眠術にかかった状態なら、ずっと意識ははっきりしてましたから」

 そう、納得した表情で頷く紗耶香。
 催眠術に対して抱く抵抗感や恐怖というのは、多くの場合が全く催眠術のことを知らなくて、ただ未知の行為へ恐怖を感じているとか、知識は多少あるものの、催眠術とは意識がなくなってなにかおかしなことをされるというイメージを持っていて、そのことへの恐怖を伴っているというパターンだ。
 だから、こうやって催眠状態になっても意識ははっきりしているということを体験させると、驚くほどに催眠術への抵抗が薄れる場合が多い。

「で、本当なら、催眠術を使って被暗示性を高めてから、プラス思考の暗示や成功体験の追体験をさせて苦手を克服したり、過去の楽しかった思い出や、一番好きなことをしていることをイメージさせることでストレス解消やリフレッシュしたりするんですよ」
「そうなんですね」
「では、今ので練習はできましたから、これから実際にそれを体験してもらいましょうか?」
「え?」
「さっき、秋月さんは大きな湯船にゆっくりと浸かりたいっておっしゃってましたね。では、これから僕が催眠術で秋月さんを温泉に招待しましょう」
「催眠術で、温泉に?」
「そうです。催眠暗示で日本の温泉を体験するんですよ」

 俺の提案に、紗耶香は戸惑った表情を浮かべて首を傾げた。

「でも、ここでですか?まさか、裸になったりとかしませんよね」
「はははっ、そんなことありませんよ。別に、実際に入るわけじゃないですから。それに、さっきも経験したでしょう、催眠状態になっても意識はありますから。本当に嫌なことは催眠術でもさせることはできないんですよ」

 そう言って笑い飛ばす。
 いや、そうさせようと思えばできるが、日本の俺の店でならともかく、ここで彼女を裸にさせたらさすがに大騒ぎになる。

「秋月さんは、ただそこに座っているだけでいいんです」
「本当にそんなことができるんですか?」
「ええ、任せてください」
「だったら、お願いします」
「じゃあ、もう一度この炎を見つめて」

 そう言うと、俺はまたキャンドルランプを持ち上げて彼女の目の前に差し出す。

「さっきと同じ感じで、集中して炎を見て、肩の力を抜いて」
「はい」

 紗耶香がじっと炎を見つめ、両腕をだらりと下げる。
 さっき一度やっているおかげか、いい感じに肩の力が抜けてるように見える。

「そう、もっと気分を楽にして、集中して炎を見つめて」
「はい」

 炎を見つめたまま頷いて、紗耶香はぞのまま目の前で揺れている炎を見つめ続ける。



 少しすると、さっきと同じように瞼が少し閉じかけてくる。



「炎を見つめてると、すごく気持ちが楽になってくるよ」
「はい……」
「ほら、すごく楽な気持ちで、とても気持ちがいい」
「はい……」

 紗耶香の返してくる返事が、次第に鈍くなってくる。
 いかにも瞼が持たそうに薄めを開けて、かろうじて炎を見つめているような状態だ。

 そんな頃合いを見計らって、紗耶香の目の近くにキャンドルを寄せて、ゆらゆらとわずかに炎を揺らしてみせる。

「目の前で、なにかゆらゆら揺れてるね。これはなんだろう?……ああ、よく見たらこれは篝火じゃないかな?」
「かがり……び……?」
「そうだよ。ほら、やっぱり篝火だ。きみは、山奥にある温泉に来ているんだよ。今きみは、そこにある雰囲気のいい露天風呂に入っていて、お風呂を照らしている篝火をぼんやりと見つめているんだ」
「う……ん……」

 そう言いながら、目の前でキャンドルを揺らす。
 すると、紗耶香がぼんやりと炎を見つめたまま、微かに頷いた。

「その温泉は、温度もちょうど良くてすごく気持ちいいよね」
「う……ん……」
「今、そこには他の入浴客はいないし、そんな雰囲気のいいお風呂をきみが独り占めしてるんだ。そこはとても静かで……ほら、篝火の向こうに赤く色づいた紅葉が見えるよ。本当にいい景色だね」
「う……ん……」

 紗耶香の視線が気怠そうに動いて、炎より少し上のあたりを見る。
 しかし、その焦点は全く合っておらず、このレストランの部屋は目に入っていないかのようだ。
 そればかりか、本当に屋外の景色を楽しんでいるかのように、わずかに笑みを浮かべた。

「本当に気持ちがいい湯だね。ちょっと肩までつかって目を閉じてみようか」
「う……ん……」

 紗耶香は、ぐったりと体を背もたれに預けさせて目を閉じた。
 両手はだらんと下がって、完全に体が弛緩しているのがわかる。

 その肌に、うっすらと汗が浮かんできていた。
 まるで、本当に湯につかっているときのように。

「その温泉はすごく気持ちいいから、そうやってじっくりとつかっていると、疲れがすっかり抜けていくみたいだね」
「う……ん……」

 力なく椅子に身を預けて、わずかに下を向いて返事をする紗耶香の口許は心地よさそうに緩んだままだ。

「じゃあ、のぼせる前にお風呂から上がろう。そのまま肩までお湯につかったまま10まで数えると、きみはお風呂から上がって、すごくリフレッシュしていい気分で目が覚めるよ。……1、2、3、4、5、6、7、8、9、10。はいっ、目を覚まして、秋月さん」

 合図をすると、ピクッとわずかに体を震わせて紗耶香が体を起こした。
 そして、ゆっくりと目を開けると驚いたようにキョロキョロと周りを見回す。

「んっ……あれっ、私、今お風呂に入っていたんじゃ……」
「どうでした?久しぶりの日本の温泉は?」
「やだっ、津雲さん!?……あ、そうか、私……」
「ええ。僕の催眠術で日本の露天風呂を体験してもらったんです」
「すごい……さっきの、本当にお風呂に入ってたみたいだった。山の中の、すごく静かな露天風呂で、照明の代わりに篝火が焚いてあってすごく雰囲気が良くて……そうだ、ちょうども紅葉の時期で景色もすごくきれいだったわ……」
「深い催眠状態になると、そうやって本当に体験したような感覚になれるんです。それこそ、五感全体でね」
「すごい……すごいです」
「それだけじゃないですよ。まるで、本当に温泉に入ったみたいに、疲れが取れてリフレッシュしたような感じがするでしょう?」
「ええ。すごくすっきりして、体が軽いわ。……きゃあ!?私、こんなに汗をかいて……!」

 スーツのブラウスに滲むほどに汗をかいている自分にようやく気づいたのか、紗耶香は慌てて汗を拭き始める。

「汗をかくのは本来不随意反応で、自分の意識では左右できないものですけど、感覚まで暗示にかかるくらいの深い催眠状態になると、そうやって体が反応してしまうんですよ」
「そうなんですね……」
「でも、そこまで深い催眠状態にならないと、リフレッシュ効果も薄いですからね」
「いや、でも、これは実際に体験したからわかるような気がします。だって、さっき私は完全に温泉に入ってるつもりでしたもの」
「ね、面白いでしょう?こういうことを自分で活かせるようになると、日常のストレスはかなり軽減できますよ」
「そうでしょうね……私もそう思います」

 まだ汗を拭きながら、紗耶香は感心したように何度も頷く。




 ちょうどそのタイミングで、ウェイターがドルチェを持ってきたので、催眠術の話をいったん引っ込めることにした。




 そして、食後のエスプレッソを飲みながら、再び催眠術の話を持ちかける。

「さっきの催眠術、もう一度やってみませんか?」
「え?」
「催眠術は、何度か繰り返しかけるとかかりやすくなって効果が大きくなるんです。それはつまり、リフレッシュ効果も大きくなるということなんです」
「そうなんですか?」
「ええ。それに、さっきくらいの深さの催眠状態を一度経験することができたら、次からはもっと簡単に同じくらいの深さの催眠状態に入ることもできますし、効果も大きくなりますからもっとすっきりリフレッシュできますよ」

 彼女が催眠術のことをほとんど知らないのをいいことに、催眠術をかけられることに良いイメージを持つようにプラス面だけを並べていく。

「だったら、お言葉に甘えてもう一度してもらいましょうか……」

 案の定、最初の時よりもずっと軽い調子で紗耶香が話に乗ってきた。
 きっと、実際に体験してみたことで催眠術への警戒心が薄れたのだろう。
 俺の狙った通りだ。

 さっそく、キャンドルスタンドを紗耶香の目の前に持ち上げる。

「では、この炎を見つめて肩の力を抜いて」
「はい」

 炎を見つめて、紗耶香がすとんと肩の力を抜く。

「炎をじっと見つめて、気分を楽にして。そう、さっき、温泉に入っていたときの心地いい感じを思い浮かべるように」
「はい……」

 じっと炎を見つめる紗耶香の目が、さっきよりも早く曇っていく。
 もう3度目とあって、だいぶ催眠状態に入りやすくなっているようだ。

「ほら、温泉にゆっくりとつかっていて、とても気持ちいいよね?」
「はい……」
「とても気持ちがいいから、目を瞑って寛いでみようよ」
「はい……」

 いかにも瞼が重たいというように紗耶香は目を閉じ、上半身をぐったりと背もたれに寄りかからせる。
 早くも、その額に汗が浮かび始めていた。
 さっきやったときよりも、ずっと早く彼女が深い催眠に入ったということだ。

 それを確かめると、俺はさらに深い催眠状態に彼女を誘う。

「ほら、すごく気持ちいい。温かなお湯に、ふわりと浮いているような感じがするよ」
「はい……」
「いや、もしかしたら本当に浮いてるんじゃないかな?ほら、周りにあるのは温かくてお湯みたいだけど、お湯よりももっと気持ちよく感じないかい?」
「きもち……いい……」

 目を閉じてぐったりしている紗耶香の表情が、心地よさそうに緩んでいく。

「うん、そうだね。温かくて、なんだか靄がかかったみたいで、ふわふわした中に浮いていて、とても気持ちがいいよね?」
「うん……」
「もっと気持ちよくなろう。なにも考えずに楽にして、全てを受けいれてしまうんだ」
「うん……」

 さっきまで、俺の言葉に、はい、と答えていた紗耶香が、頷くだけになった。
 緩んだ笑みを浮かべて、いかにも気持ちよさそうにしている。

「ここにいるのはすごく気持ちいいから、今なら何でも受けいれてしまうよね?」
「うん……」

 そう頷く紗耶香は、瞼を軽く閉じて、穏やかな笑みを浮かべたままだ。
 まるで、眠っているみたいに。
 彼女の反応のひとつひとつが、催眠状態が十分に深いところまで堕ちた手応えを感じさせる。

 それを確かめて、俺は囁くように暗示を仕込んでいく。

「じゃあ最初に、この気持ちいいところにいつでも来ることができるようにしておこうか。また、この気持ちいいところに来たいよね?」
「うん……」
「なら、こうしよう。"靄に霞む森で美女は眠る"……この言葉を聞いたら、きみはいつでもこの気持ちのいいところに戻ってこれるよ」
「うん……」
「もう一度言うよ。"靄に霞む森で美女は眠る"……その言葉を聞いたらきみはすぐにこの気持ちがいいところに来て、この状態の時に言われたことはなんでも受けいれてしまうよ」
「うん……」

 俺の言葉のひとつひとつに、紗耶香はコクッと頷いてくる。
 眠ったように静かに目を閉じてそうしている様は、なるほど眠れる森の美女もかくやという趣がある。

「きみは、津雲雄司という男のことはどう思う?」
「特には……。たしかに……日本の男にしてはセンスはいいし……話も面白いけど……ただの仕事上の取引相手だわ……」

 ぼそぼそと、紗耶香の口から洩れてくる俺の評価。

 ふむ……まあ、そんなものだろうな。
 なにしろ、それ以上の関係は持ってないのだから。

「では、彼と一緒にいることが不快かい?」
「それは……別に不快ということはないわ……」
「うん、それはとても大切なことだよ。きみは彼と一緒にいても、不快には感じない」
「うん……」

 実際、それは重要なことだ。
 今の時点で、俺に対してマイナスの感情を持っていないことを固定させておけば、後々プラスの感情を植え付けやすくなる。

「きみは、津雲雄司という男と一緒にいても、何をされても、不快に感じることはない」
「うん……不快に感じない……」
「それどころか、きみの体は、彼に何かされたり、何かしたりするとすごく気持ちよく感じるよ」
「気持ちよく……うん……」
「今言われたことを、きみは目が覚めたときに思い出すことはできない。でも、思い出すことはできなくてもその通りになってしまうよ」
「思い出すことはできない……でも、そのとおりに……うん……」

 紗耶香が、俺の言葉を反芻するように頷く。
 さっき、俺は彼女に対して、催眠状態になっても自分の意識ははっきりしてると説明したし、そのことを体験させた。
 たしかにそれは本当のことで、催眠状態とはいっても眠っているわけではないから実際には意識はあるし、催眠状態の時に言われたりされたりしたことは、そのままだと覚えている。
 しかし、そのことを忘れさせたり、思い出せないようにさせることはできる。
 そのことは、さっきは伏せておいた。

 さてと……これで、下準備はできた。

「それでね、津雲という男は、きみに催眠術をかけて自分の思うとおりにして楽しもうとしているんだ。だから、それを逆手にとってきみが楽しんでしまおう」
「逆手にとって……私が楽しむ……」
「そうだ。彼は、合い言葉を言うときみが彼の思いのままになるような催眠術をかける。だけど、彼の催眠術は不完全だからその催眠術にはかからないってきみは思うんだ。そこで、彼が合い言葉を言ったらきみは催眠術にかかったふりをしててきみが楽しむんだ」
「催眠術にかかったふりをして……うん……」
「その合い言葉は、"ミーア・マリオネッタ(私の操り人形)"だよ」
「ミーア……マリオネッタ……」
「そうだ。その言葉を聞くと、きみは催眠術にかかったふりをする。彼は、きみが思いのままになると思っているから、きみはそれにかかったふりをして軽く遊んでやるんだ。なに、本当に嫌ことをされそうになったらきつく断ってやればいいんだから、何も心配いらないよ」
「うん……」

 深い催眠状態の紗耶香は、俺の言葉に素直に頷く。

 ……これは、目を覚ましたときの顔が見物だな。

「じゃあ、きみは目が覚めたらきっとそう考えて、その通りに行動するよ。ただし、目が覚めたときのきみは、彼が、合い言葉を言うと自分の思い通りになるっていう催眠術をきみにかけたことしか覚えていないよ」
「うん……」
「それじゃあ、僕が手を叩いたらきみは目を覚ますよ」

 そう言って、俺はパチンと手を叩く。
 すると、紗耶香は我に返ったように目を開く。

「どうしたんですか、秋月さん?食後のコーヒーも飲みましたし、そろそろ行くとしましょうか?」
「え……あ、はい……」

 頷きながら立ち上がろうとした彼女は、いかにも腑に落ちないといった様子で、浮かない顔をしていた。






* * *







 ――秋月紗耶香
 5月20日、PM21:37 リストランテ アントネッリ前。



「うん、風が気持ちいいですね、秋月さん」
「ええ……そうですね……」

 彼、津雲雄司の言葉に、適当に相槌を打つ。
 胸の中に、もやもやとしたものがわだかまっている。

 だって、この男は……。

「秋月さん?」
「なんですか?」
「僕の部屋に来て、もう少し飲みませんか?ね、"ミーア・マリオネッタ"」

 ……これだ!

 さっき、彼は私に催眠術をかけて、その合い言葉で私が彼の思い通りになるようにした。
 それも、私が警戒しないように最初はなんでもないことを催眠術でやって見せたりして。

 しかし、きっと彼は催眠術は自分で言うほど上手くないのだろう。
 その証拠に、そんな催眠術になんか私はかからない。
 彼の思い通りになんかならない。

 ……でも。
 そうね……かかったふりをしてみせるのも面白いわね。

 イタリアの男に比べたら日本の男は退屈だと思っていたけど、彼は日本人にしてはセンスがこっちの男に近いし、話も面白い。
 それになにより、こんな悪さをしてくる男は今までいなかった。

 だから、それに免じてもう少し遊んであげようじゃないの。
 それに、これはあくまでもかかったふりなんだから、もし彼が本当に酷いことをしようとしたら頬をひっぱたいてやればいいんだわ。
 その時の彼の顔も見物よね……。

「ええ。いいですよ」

 そう思ったから、私は彼の申し出に頷いていた。

「嬉しいなぁ。それじゃあさっそく……」

 本当に嬉しそうに言うと、彼は何気なく私の肩に手を回してくる。
 彼の手が体に触れた瞬間、不思議と胸が高鳴るような気がしたのは気のせいだろうか……?

「どうしました?」
「え?いえ、なんでもないです」
「そうですか。それじゃ、行きましょう」
「はい」

 彼に肩を押されるようにして歩き始めた私の胸は、やはりすごしドキドキしていた。









 そして……。

 彼が宿泊しているホテル・グラツィアーノの一室で少しワインを飲んだ後、今、私は部屋付きのお風呂に入っている。
 そうするように勧めたのは彼だった。

「ふうう……すごいわね。このホテル、こんなバスルームがあるなんて……」

 お湯に浸かりながら見回して、思わず嘆息してしまう。

 彼が泊まっているのはどうやらスイートルームみたいだけど、それにしてもかなり立派な、大理石造りの広いバスルームが付いていた。
 このホテルは、それほど大きくもないし、この街でも特に目立つわけではない。
 それなのに、いくらスイートでもここまで豪華なお風呂が部屋に付いているなんて思ってもいなかった。
 そうでなくてもヨーロッパでは大きな風呂はあまりないし、私の部屋のバスルームのバスタブも、日本人から見たら悲しくなるような代物だ。
 さっき、彼の催眠術で温泉につかった気分になれたけど、やっぱり、手足を伸ばせる大きな湯船にこうやって実際につかるのには敵わない。



 ……その時だった。



「どうですか?秋月さん?」

 バスルームの外から、彼の声がした。

「ええ。気持ちいいですわ。本当に、久しぶりにこんなに大きなお風呂に入った気がします」
「そうですか。それはよかった。じゃあ、僕もご一緒させてもらっていいですか?」
「ええっ!?」

 さすがに、それには大きな声が出てしまった。

 そんなの嫌に決まっ…………え?
 ……あら?嫌じゃ……ない?

 不思議と、彼と一緒にお風呂に入ることを不快に感じなかった。

 ……考えたらそれもそうよね。
 彼の誘いに乗って、部屋に来た時点でそういうつもりだったんじゃないの?
 男の泊まってる部屋に女が誘われるっていうのは、つまりそういうことだし。
 それに、彼がどうしたいのかはともかく、私はただ彼で遊んでいるだけ。
 あくまでも主導権は私にあるんだから。
 だから、そのくらいなんともないわ。

「ダメですか?秋月さん?」
「いえ、いいですよ」

 私がそう答えると、服を脱いでいるのかバスルームの外でゴソゴソと音がして、彼が入ってきた。

 スーツ姿の時からも窺えたが、おそらく40歳を越えたくらいだろうというのに、彼の体には弛んだところがなかった。
 おそらく、日頃から鍛えているのだろう。
 筋肉質の引き締まった体に日焼けした肌が、健康で活動的な印象を与えている。

「どうしたんですか?」
「いや、こうやって裸になった姿は一段と美しいですね」
「やだ……もう、津雲さんったら……」

 入ってきた彼が、じっと私の方を見ているので何かと思ったら、臆面もなくそんな返答が返ってきた。
 でも、たしかにそんなに見つめられると恥ずかしいけど、別に嫌悪感は感じない。

「津雲さんこそ、ジムにでも通っていらっしゃるんですか?」
「ええ。まあ、僕の美学みたいなものですね。こういう商売をしていますから、商品でもある服をセンスよく着こなしたいですし、そのためには体型も維持しておかないとみっともないですから」
「そうですけど……なかなかできることではありませんわ」

 その言葉は、半分はお世辞だが、半分本音だった。
 実際、そのためにその年でも体を鍛えて体型を維持するのは、なかなかできないことだと思う。

「それでは、隣に失礼しますよ」

 シャワーで汗を流した彼が湯船に入ってきて、私の隣に腰を下ろす。

「……っ!」

 彼の肌が私の肩に触れた瞬間、ゾクゾクしたものが走って、また心臓がドクンと高鳴った。

「どうしました?秋月さん?」
「えっ?あ、いえ、なんでもないです」

 津雲さんが不思議そうに首を傾げるのを笑ってごまかす。

 だけど、いくら広くても湯船に並んでつかっていると、どうしても肌と肌が触れる。
 ただそれだけのはずなのに、ぞくっとするような軽い刺激を感じる。

「……ひゃっ!?」

 いきなり、彼の手が私の腕を掴んだ。

「本当にきめが細かくてきれいな肌ですね。胸も、美術館の彫像みたいに形が整っていて」
「はううううんっ!?」

 今度は、彼の腕が私の胸を掴む。

 嫌じゃない……。
 別にそれが嫌なわけじゃない。
 それどころか、掴まれた胸が痺れるように気持ちいい。
 それは、私の心が昂ぶっているから?
 こうなることを期待していたとでもいうの?

 ……そうよ。
 彼の誘いを受けてここに来たってことはつまり、こういうことをやりに来たってことなんだから。

「……あんっ!んふぅうううううっ!」

 やだっ?
 彼ってものすごいテクニシャン?

 乳房を掴んだ手に力を込めながら、指先で乳首を撥ね上げる。
 その力加減が絶妙で、ビリビリした刺激が胸から頭の中に弾けていく。

「あうっ!はんんんんんっ!」

 少しずつ力の入れ具合を変えながら、彼の手のひらが乳房を揉みしだいていく。
 その、わずかな力の込め方の変化のせいで、快感がうねる波のように全身を駆け巡っていく。

「はうっ!ああっ、津雲さんっ!あんっ、あああああっ!」

 快感のうねりがどんどん大きくなって、反応した体がビクッ、ビクッと勝手に震える。
 お湯につかっているのもあって、体が火照るみたいに熱くて、頭の中がぼうっとしてくる。

 やだ……彼って本当に上手。
 胸を揉まれるだけでこんなに気持ちいいなんて……こんなの初めてだわ……。

「んんんっ!はうんっ、あっ、ふぁああああっ!」

 いつしか私は、彼に胸をまさぐられながら喘ぎ声をあげて体を悶えさせるだけになっていた。
 体も、頭も、切れ目のない快感の波にすっかり飲まれて、されるがままに任せていた。

「んんっ!?ああっ!はぁああああああんっ!」

 いきなり、首筋をペロッと舐められて耳たぶを甘く噛まれた。
 自分でも信じられないことだけど、たったそれだけのことで私はイッてしまっていた。
 ずっと胸を揉まれて、じんじんと痺れるよう体が熱くなっていたところに、彼の唇が耳たぶに触れる柔らかい感触と首筋にかかる暖かい吐息の優しい刺激。
 それが引き金になったみたいに、体の芯から快感が湧き上がってきて絶頂のうねりになっていくのを止めることができない。
 不規則な震えを伴った痺れが、胸を、おなかを、そしてふとももをひくつかせていく。

「感じやすいんですね、秋月さんは?」
「ん、んん……んふぅううん……」

 絶頂の余韻に体がヒクヒクと震えるのがまだ止まらなくて、耳許で囁く彼の言葉に上手く返事ができない。

 だけど、自分では感じやすいなんて思ったことはこれまでなかった。
 少なくとも、ただ胸と耳たぶを愛撫されただけでイッてしまうなんてことは経験がない。
 きっと、彼のテクニックがそれだけすごいってことなんだわ。

「じゃあ、今度は僕を気持ちよくしてくれませんか?」
「……え?」

 水音を立てて立ち上がると、彼が私の前に立つ。

「これを、口で気持ちよくしてもらえませんか?」
「あっ……」

 その言葉とともに鼻先に突き出されたのは、まだ心持ち下を向いたペニスだった。

 それって……私にフェラチオをしろってこと……?

 男のペニスを口と舌で気持ちよくさせるフェラチオという行為があることは、知識としては知っていた。
 しかし、やはり男のそれを口に咥えることに抵抗があって、そんなことを今までしたことはなかった。
 それなのに……。

「いいわよ」

 その時は、やってみてもいいかもと思った。
 もしかしたら、絶頂の余韻でまだ頭がぼんやりしていたからかもしれない。

 それに、本当に嫌だったらすぐに止めたらいいだけのことだし。

 そんなことを考えながら目の前のペニスを口に咥えて、舌先を絡ませる。
 始めて口に含むと、いままで経験したことのない妙な匂いと味かした。
 だけど、思ったほどに嫌な感じはしない。
 これなら、全然平気だと思えるほどに。

「んむ……れるっ、ん、じゅる……」

 口の中のペニスに舌を絡める。
 それはまだ少し柔らかくて、くにゃっとするような、滑るような、なんだかおかしな舌触りがする。

「んっ!?んふっ、あふっ……えるっ……」

 舌で舐め回していると、口の中でそれがピクッと震えたかと思うと、急に膨らみ始めた。

「んふうぅ……んっふ、じゅむっ、れろっ……」

 私の口の中で、ペニスがさっきまでとは比べものにならないくらいに固く熱くなっているのを感じる。
 それに、口に収まりきらないくらいに大きくなっている。

「んくっ……んっふっ……」

 いったんペニスから口を離すと、ヌポッと音を立てて目の前で跳ね上がる。

「すごい……こんなに……」

 さっきまでくたっと下を向いていたというのに、目の前のペニスは手も添えていないのに天井を向いてそそり立ち、私の唾液でヌラヌラと光っていた。
 男とセックスはしたことあるけど、フェラチオをするのは初めてだから、こんなに顔の近くで勃起したペニスを見るのも初めてだった。
 間近に見るそれは、とても大きく見える。
 それに、それを見ているだけでなんだか体が熱くなってくるみたい……。

「ん、はむっ……んふ、じゅば……」

 体の奥から湧き上がってくる衝動に突き動かされるように、再びそれを口に咥える。
 もう、今までフェラチオに対して抱いていた抵抗感はすっかりなくなっていた。

「んふ……はふ、はむっ、れろっ、ちゅぽ……」

 大きくいきり立ったペニスを咥え、舌を絡ませる。
 自分がすごくいやらしいことしている気がして、それがかえって興奮をそそる。
 それも、フェラチオへの抵抗が薄れたせいだろうか?
 とにかく、男のペニスをしゃぶっている自分に興奮して、体が火照ってくる。

「んく、んんっ……じゅぱっ、んふっ、れろぉ……」

 無意識のうちに膝立ちになり、私は彼の体に手を添えて夢中になってペニスをしゃぶっていた。

「っふ……ん、んぐ、ぐっ、えふ……」

 それにしても、本当に大きい……。
 大きすぎて、口の中に収まらないわ。
 それに、不思議なことにこうやって口の中にペニスが当たるのが気持ち悪くなかった。
 むしろ、気持ちいいかもしれない。
 口いっぱいに頬張った弾みで喉の奥を突いて思わず嘔吐きそうになったというのに、それすら心地よく感じる。

 うん……こうやってペニスを咥えるの、気持ちいい……。

 さっきの、痺れるような刺激とはまた違った、じわっとくる、オブラートに包んだような快感。
 だけど、喉の奥に当たると、目の前がクラッとなるほどの強い刺激が弾ける。

 それに、この匂いと味……。

 ちょっと前から、ペニスの先からヌルヌルしたものが沁み出てくるのを感じていた。
 それが、口の中をドロドロにして舌に纏わり付く、苦いようなしょっぱいような味が広がる。
 それに加えて、男臭さの混じった、青臭い妙な匂いが鼻腔いっぱいに広がっている。
 しかし、その味と匂いも全然不快ではない。
 それどころか、噎せ返りそうなその味と匂いが口と鼻に充満してくると、酔ったようにクラクラしてきて、体はさらに熱くなっていく。

「んっ、ぐっ、ぐぐっ、ぐふっ!」

 自分から頭を振って、喉の奥をペニスで突く。
 そうすると、より強い快感が得られる。

「く……すごいですね、秋月さん。すごく上手ですよ」
「んっ、んんんっ」

 彼の声が、頭上から降ってくる。
 なんだか、いつもこんなことをしているように思われるのが嫌で、思わず首を横に振っていた。

「もしかして、初めてなんですか?」
「ん……ぅん……」

 驚いたような彼の言葉に、今度は縦に頷く。

「へえぇ……。そうやって、喉の奥まで入れるのをディープスロートって言うんですよ。初めての人は、なかなかできないんですけどね」
「ん、んん……」
「でも、すごく気持ちいいですよ、秋月さん。さあ、続けてください」
「ぅん……んっ、ふぐっ、ん゛っ、んぐっ……」

 促されて、私は再び大きく頭を振ってペニスを口で扱き、喉の奥を突く。
 さすがに、ずっとそうやってると少し苦しくて、思わず涙が出てくる。
 でも、それ以上に気持ちいい。

「んぐっ、ぐくっ、えぐっ、んっく!」

 とにかく、ペニスの感触が気持ちいい。
 それに、こうやって頭を振ってると脳ごとシェイクされてるみたいで、ふらふらしてくる。
 ふわりとして、夢の中にいるような浮遊感に包まれて、彼の腰に添えた指先まで快感で満たされていく。

「んっ、んぐぐ?」

 口の中で、ペニスが小さく跳ねたような気がして上目遣いに彼の顔を窺う。
 すると、笑みを浮かべてこちらを見下ろしている彼と目が合う。
 私は、彼と見つめ合うようにしながら頭を揺らしてペニスを扱く。

「んぐっ!?んむぐぐぐぐっ!?」

 彼が小さく呻いたかと思うと、口の中でペニスが跳ねて熱いものが喉奥に叩きつけられた。
 まるで、頭の中で小さな爆発が起きたみたいで、あっという間にわけがわからなくなる。

「ぐくっ……んくっ、けほっ……」

 勢いよく迸り出てくるそれを受け止めきれずに、咽せてしまう。
 ネトネトした液体が口いっぱいに広がっていて、青臭い匂いが充満している。

 しかし、不思議と嫌な感じはしない。
 目の前で光が明滅しているみたいに思え、痺れるような快感の余韻に包まれているのがむしろ心地よくすらあった。

 ……もしかして私、またイッてしまったの?

 ふわふわした浮遊感の中で、ぼんやりとそんなことを考える。
 フェラチオをするのは初めてだけど、こんなに気持ちのいいものだなんて思ってもいなかった。



「……あっ」

 彼が私の手を取って立ち上がらせる。

「とてもよかったですよ。秋月さんはどうでした?」

 やだ……。
 なんてこと訊くのよ?

 ただでさえ火照っている顔が、さらに熱くなってくるのを感じる。

「……思ったよりも、悪くなかったですね」

 本当は、悪くなかったどころかすごく気持ちよかった。
 でも、やっぱり恥ずかしくて、そう答えるのが精一杯だった。

「そうですか、それはよかった」
「きゃっ!?」

 私の体をくるっと後ろに向かせた彼が、背中から抱きしめてきた。
 そのまま耳許に口を寄せて、囁きかけてくる。

「もしかしたら、嫌なのに無理にさせたかと思って」
「そんなこと……ありませんわ」

 そう返した自分の言葉が、小さく震えていた。
 でも、本当に嫌だとは思っていなかった。
 それは、男の人のペニスを舐めるなんて、不快だったらやめようと思っていたけど、実際にやってみたらすごく心地よかった。

 私の声が震えているのは、さっきから体が熱く疼いてしかたがなかったからだ。
 お風呂に入って体が火照ってるのもあるだろうけど、それだけではない。
 下腹部のあたりが小さく痙攣して、頭の中でじんじんと響く痺れが舌の動きを鈍らせていた。

「よかった。じゃあ、もっと楽しめますね」
「もっと?……ひゃうんっ!」

 彼の指先が、ふとももから這い上ってきてアソコをなぞる。
 それに反応するようにまた下腹部が震え、体が一段と熱くなってくる。

「秋月さん、ふとももがヌルヌルになるくらい濡れてるじゃないですか」
「やだ……もう、津雲さんったら。恥ずかしいですわ」

 はっきり言われて、また顔が火照るのを感じる。

「でも、これが欲しいんじゃないですか?」
「えっ?……はうぅっ!」

 ふとももの間に熱くて固いものが、ヌルッと滑り込んできてアソコの入り口に当たる。
 それが彼のペニスだとわかった瞬間、アソコがひくついて息苦しいくらいに心臓が高鳴った。

 しかし、彼はそれをすぐには入れてくれなかった。

 先が入りそうで入らないところで、そのままじっとしている。

「どうです、秋月さん?」

 耳許で彼がそう囁く。
 ももに当たる、その熱いものが脈打つのを感じる。
 それが伝染したみたいに私の胸も高鳴り、アソコがきゅっとひくつくのを感じる。

「……欲しいです」
「何をどこに欲しいのか、言ってもらえませんか?」
「津雲さんのペニスを、私のアソコに入れて欲しいです……」
「アソコじゃわかりませんよ」
「そんな……」

 もう、恥ずかしいなんて言っていられなかった。
 自分でも、抑えが効かなくなっていた。
 今まで何人かの男に抱かれたことはあるけど、こんなことは初めてだった。
 こんなに、男の人のペニスを入れて欲しいと思うなんて、自分でも信じられない。

 ……これ以上、私を焦らさないで。

「お願いします、津雲さん。早く、そのペニスを私のお……おまんこに、入れてください……」

 我慢できずに、自分からそう懇願する。
 アソコが熱く疼いて、無意識のうちに体を揺らしてはペニスの感触をそこで感じようとしていた。

「わかりました。それでは……」

 私の腰を抱く彼の手に力が入る。
 それだけのことなのに、ドクンと胸が高鳴る。
 続いて、アソコに当たった熱い塊が、ぐっと押し込まれてくる。

「あうっ、んふぅうあああああんっ!」

 まだ、先端が入ってきただけだというのに、私の口からはため息にも似た吐息混じりの喘ぎ声が漏れた。
 さんざん焦らされた後だから、アソコ全体がものすごく敏感になったように思える。

 ……いや、実際にいつもよりもずっと感じやすくなっているみたい。

「あんっ……!あああああああああっ!」

 膣内を擦りながらペニスが奥まで入ってくると、赤い光線が弾けたように目の前がフラッシュする。
 バスタブに手をついて、背筋がピンと仰け反った。

「あうっ、はううっ、あんっ、んはあああっ!」

 私の中で彼のペニスが動き始めて、一気に体が燃え上がる。
 固くて熱いものが膣の中を擦りながら出たり入ったりする、そんな単純な動きに、全身の筋肉が震えるほどに感じさせられる。

「あんっ、はあっ!……んっ、はうっ、んふっ、あああっ!」

 彼のペニスをアソコ全体で感じながら、痺れにも似た快感に満たされていく。
 まるで、頭の中まで痺れに冒されているみたいに感じる。
 のぼせたようにぼうっとして、なにも考えられなくなる。
 久しぶりのお風呂にゆっくりとつかった後で、こんなに体が熱くなるセックスをしてるのだからのぼせるのも無理はなかった。

「んっ、はうっ……え?……ひゃううううっ!?」

 不意に彼のストロークが緩んで、カチャカチャと小さな物音がしたかと思うと、突然冷たい感触が全身を包んで思わず悲鳴をあげてしまった。

「あ、驚かせてしまったかな?熱くなってきたから、ちょっとね……」

 そう言った彼の声と、耳に飛び込んできたザアアアァァ……という音。
 それに、肌に当たる冷たい水滴の感触に、彼がシャワーのレバーを捻ったのだとわかった。

「冷たかったら止めるけど」
「あ……いえっ、私もっ……はんっ……熱いかなってっ、思ってましたからっ……んっ、はううっ!」

 彼の動きに合わせて腰を揺らしながら、そう答える。
 実際、火照った体に冷たいシャワーが心地よかった。
 それに、のぼせてぼんやりしていた頭がクリアになっていくみたい……。

「はうっ……ああっ、いいっ!すごくいいのっ!あうんっ、んんっ、気持ちいいわっ!」

 さっきよりも、熱くて硬いペニスがアソコの内側を擦りながら往復するのをはっきりと感じて、思わず大きな声で快感を口にする。
 頭のあら熱が取れると、彼のペニスに突き上げられる刺激がよりシャープに感じられるような気がして、私は夢中になって腰を振り、その快感を貪り続けたのだった。

 
 


 

 

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