戻れない、あの夏へ


 

 



Extra Stage アスカ 後編

歪められる絆




〜5〜




「あ、お帰りなさい、社長!」

 病室に戻ると、飛鳥の弾んだ声が津雲を迎えた。
 ベッドの上で、体を起こして津雲を見ている飛鳥は、さっきまでとはうって変わった笑顔を見せていた。

 だが、津雲がベッドの傍らまで近づくと、急に真顔になって顔色を窺ってくる。

「あんな感じでよかったですか、あたし?」
「うん、なかなかの演技だったよ、アスカ」
「ああ、よかったぁ」

 ポンポンと頭を叩いて褒めてやると、飛鳥はほっと胸をなで下ろす。

 すると、部屋に控えていた女医が津雲の手を取った。

「あら、社長の演技もすてきでしたよ。白衣を着たその姿、何度見ても本当のお医者さんみたいですわ」

 そう言って、飛鳥のベッドにふたり並んで座る。
 
「見た目だけはな。なんたって僕は偽医者だから、こうやってユカリのフォローがないとすぐにボロが出るに決まってるじゃないか」
「あら、今日だって私は特にフォローはしてませんよ」

 そう言って、ユカリと呼ばれた女医が笑みを浮かべる。

「そうですよ、社長ったら、本当にお医者さんみたいで、あたし、びっくりしたんですから」

 ふたりの会話に、飛鳥もにこにこしながら割り込んでくる。

 と、その時、病室のドアが開いた。

「入ってよろしいですか、社長?」

 そう言って部屋に入ってきたのは、黒のレギンスにベージュのブラウス、その上に淡い茶色のショールを巻いた女性だった。
 年の頃は30代半ばくらいだろうか、長い髪を結い上げて、落ち着いた雰囲気を漂わせている。

「あ……理事長……」
「あら、いいのよ、ユカリさん。社長の前ではそんな他人行儀名呼び方をしなくても。ミサって呼んでくれれば」

 その女性は穏やかな微笑みを湛えながら歩み寄ると、ユカリとは反対側に、津雲を挟むようにして腰掛けた。
 津雲がその肩を抱くと、しなだれかかってきて津雲の肩に頭を寄せる。

「もう、全部終わったんですか、社長?」
「ああ。なんだかんだといつも無理を言ってここを使ってすまないな、ミサ」
「よろしいんですよ、社長。社長のお役に立つことが私たちの喜びなんですから。それに、私は社長にここの理事長をしてもらいたいと思っているんですよ」
「ふ、こんな大きな病院の理事長なんて僕には荷がかちすぎるよ」
「あら、そんなこと……。社長なら大丈夫ですよ」
「いや、僕はあの小さな店のオーナーで充分さ」

 にこやかに会話を交わす津雲とミサ。




「あの、ところで社長……」

 と、その時、ふたりの会話におずおずと飛鳥が割り込んできた。

「ん?どうした、アスカ?」
「さっきの人たちって、本当にあたしのお父さんとお母さんなんですか?」

 首を傾げながらそう訊ねてくる。

「なんだ?なんか気になったのか?」
「いえ……それが、ぜんぜん何も感じなくて。顔を見てもなにも思い出さなかったし、懐かしい感じもしなくて……だから、本当にお父さんお母さんなのかなって……」
「じゃあ、はっきり言っておくか。あのふたりは間違いなくおまえの両親だ」
「ああ、やっぱりそうなんだ。ふーん……」

 そう言われて、飛鳥は顎に手を添えて考え込む。
 だが、特にショックを受けた様子はなさそうだ。

「どうした?やっぱり親のことが気になるか?」
「うーん……。それがなんとも思わないんですよねぇ、自分でもびっくりするくらいに。あの人たちがあたしのお父さんお母さんだったからって、あの人たちのところに戻りたいとも思わないですし。でも、記憶喪失ってそんなものなんですかね?」

 飛鳥は、まるで他人事のようにそう言いながら何度も何度も首を捻っている。

「お父さんお母さんのことだけじゃなくて、本当に今までどうしてたのかも思い出せないし、なんか、全部真っ白になったみたいな感じなんですよね」
「何も思い出せなくて悲しいか?」
「いいえ、それが、全然悲しくも辛くもないんですよね」

 飛鳥の口調は、悲しげどころかむしろあっけらかんとしていた。

「だって、社長のことを考えてるだけですっごく幸せなんですもの。それは、記憶はないのは変な感じですけど、むしろ、何もない方が、あたしの心の中が社長だけでいっぱいになるみたいで……。他のものは何も要らないって思っちゃうんです」
「うふふ、いい子ねアスカちゃんは。そうよ、私たちは社長がいるだけで幸せなんですもの」
「ミサさん……。あ、ありがとうございます」

 ミサに褒められて、飛鳥ははにかんだ笑みを浮かべる。
 そこに、横からユカリも口を挟んできた。

「それに、記憶が戻らない方がいいってこともあるわよ、アスカさん。もし、記憶が戻ってしまったら社長のことが好きだっていう気持ちが消えてしまうかもしれない。いえ、それどころか社長のことを嫌いになってしまうかもしれないじゃない」


 ユカリの話を聞いた途端に、飛鳥の表情が変わった。


「いやいやいやっ!社長のことを嫌いになるなんて、そんなの絶対にいやですっ!そんなことになるんだったら、記憶なんて戻らない方がいいっ!あたしが社長のこと嫌いになるなんて、そんなことありませんよねっ、社長!」

 ぶるんぶるんと何度も何度も、飛鳥は大きく頭を横に振る。
 ぎゅっと津雲の腕を掴んだその目には、大粒の涙が浮かんでいた。

「だめよ、ユカリさん、あんまり意地悪しちゃ」

 ミサがユカリをたしなめると、腕を伸ばして飛鳥を抱き寄せる。

「大丈夫よ、アスカちゃん。ユカリは冗談を言ってるだけなんだから」
「うっ、えくっ、ミサさん……」
「よしよし……もう泣かないの、アスカちゃん」

 背中を丸め、ミサの胸に顔を埋めてしゃくり上げる飛鳥。
 まるで、幼い子供でもあやすようにミサは優しくその背中を撫でてやる。

「ごめんごめん、アスカさん。いじめるつもりはなかったのよ」

 ユカリも、謝りながら飛鳥の手を取る。

「でもね、もし記憶が戻ったら、そういうこともあるかもっていうことなの」
「もうっ、ユカリさん!」
「うっく……いいんです、あたし、絶対に思い出しませんから」
「アスカちゃん?」
「あたし、このままでいいです。こうやって、社長やミサさんたちと一緒にいられるなら、記憶なんか戻らなくていいです」
「うふふ、本当にいい子ね、アスカちゃんは」

 まだ、目尻に涙の跡を残して見つめてきた飛鳥を、ミサは柔らかい微笑みを浮かべて抱きしめる。

「でもね、私はアスカちゃんといつも一緒にいるわけにはいかないの。だって、アスカちゃんにはやらなければいけないことがあるんですもの」
「あたしが、やらなきゃいけないこと、ですか?」
「そうよ。でも、それはきっと社長からお話があるわ。きっと、明日あたりに。だから、今日は……」
「え……?ミサさん?」

 飛鳥を抱きしめていたミサの手が、飛鳥の寝間着にかかる。
 驚いて見つめる飛鳥に構うことなく、その細い指が服のボタンをひとつずつ外していく。
 そして、露わになったその控えめな乳房を、慈しむようにそっと撫でた。

「とっても可愛らしいわ、アスカちゃん。それに、とってもきれい。肌も、きめが細やかでなめらかで……」
「あ、あの……ミサさん……んむっ!?んんん!」

 目を閉じたミサの顔がゆっくりと近づいてきて、戸惑う飛鳥の唇に柔らかいものが当たる感触。
 口をミサの唇で塞がれて、飛鳥の言葉が半ばで途切れた。

「んふ……ん……くちゅ……んむ……」
「んんっ?んむっ、むっ」

 するりとミサの舌が滑り込んできて、飛鳥の口の中をかき回す。
 ほんのりと温かくて柔らかい生き物のように、優しく刺激し、飛鳥の舌に絡みついてくる。

「んふ……む……ちゅむ……」
「んふう……んん……ちゅ……」

 次第に飛鳥の表情がトロンと蕩けてきて、やがてうっとりと目を閉じた。
 そして、ミサに抱かれたまま、その口づけに身を任せる。

 ねっとりとして、それでいて柔らかい刺激に、飛鳥の白い肌がほのかに染まっていく。
 心地よい、夢のような時間がずっと続くかと思えた。

「ん……ぷふぁあ……」
「んん……むふううう……」

 長い口づけをようやく終えると、飛鳥の顔に少し名残惜しそうな表情が浮かんだ。

「アスカちゃんは、こうやってみんなでやるのは初めてでしょ?せっかくだから、今日ここで教えてあげるわ。みんなで社長に可愛がってもらうのがどんなに楽しいことか。……ね、社長?」

 ミサの言葉に、津雲は黙って頷く。
 その口許に楽しげな笑みを浮かべて。

「ミサさん……社長……きゃっ!」

 白衣を脱いでベッドに上がり込んでいたユカリが、飛鳥の背後からそっと耳元に息を吹きかけてきた。
 彼女がやったのか、いつの間にか窓のカーテンが閉じられ、灯りも消されて部屋の中は薄暗くなっていた。

「ゆっ、ユカリさん!?」
「ふふっ、泣かせたお詫びに私もいっぱい気持ちよくして上げるわね」
「あら?ユカリさん、お仕事はしなくていいの?」
「私は今日は午前だけの勤務ですから。だから、今日はお仕事はおしまいです。だから、アスカさん……ぺろ、えろ……」
「ユカリさん!?そこはっ……あっ、あふうんっ!あんっ?ミサさんまで!?」

 ユカリが後ろから飛鳥の首筋を舐め、ミサが乳房にそっと口づけする。

「あんっ、やあっ、そこっ、感じちゃう!」
「んふ、もっと感じていいのよ、アスカちゃん。この部屋は社長のための特別室で、防音もしっかりしてるから……んふ、ちゅ……」
「だから、どれだけ大きな声で喘いでも大丈夫なの……えろろ……」

 まるで、じゃれ合う猫のようにミサとユカリが飛鳥の体を舐め回す。
 ふたりの巧みな舌使いに翻弄されて、飛鳥はなす術もなく体をよじらせて喘ぐことしかできない。
 すっと、ミサの手が飛鳥のズボンの中へと潜り込んでいく。

「ふあっ、ミサさんっ、そこおおおおっ!」
「あらあら、アスカちゃんのここ、もうこんなに濡れちゃってるわよ。じゃあ、最初にアスカちゃんに入れてもらいましょうね。社長、いかがですか?」
「というか、おまえたちだけで楽しみすぎだぞ」
「申し訳ありません、社長。でも、アスカちゃんがあんまり可愛いから。さあ、アスカちゃん、社長にちゃんとおねだりするのよ」
「はい。社長、どうか、社長のおちんちんを入れてください。あたしの、いやらしいところに……」 

 ふたりの愛撫からようやく解放されると、飛鳥は津雲の傍らに這い寄って、そのベルトに手をかけた。

「お願いします、社長。あたしのアソコ、社長のが欲しくて、さっきからドクンドクンて、熱くなってるんです」
「うん、いいだろう、アスカ」

 飛鳥がベルトを外すと、津雲は立ち上がった。

「あ……社長の、こんなに……」

 目の前に屹立する肉棒をうっとりと眺める飛鳥。
 そして、それに向かってゆっくりと手を伸ばした。

「この感触……固くて、ごつごつしてて、そして、すごく熱いです……まだ、大きくなるんですね……」

 両手でそっと肉棒を包み、さするように優しく扱いていく。
 その手の中で、ピクピクと震えながら目に見えて膨らんでいく様を、飛鳥は嬉しそうに見つめていた。

「ああ……先からこぼれてきて……ぺろ、じゅるぅ……」

 肉棒の先から漏れ出てきたカウパーを舌先で舐め取ると、キスをするように口を付けて、音を立てて吸い取っていく。

「じゅる、ちゅ……んふ、ぺろっ……ちゅるっ」

 まるで、搾り出すように両手を使って肉棒を扱きながら、軽く目を閉じてその先にしゃぶりついている飛鳥。
 つんと突き上げた尻を軽く振って、夢中で肉棒を舐めている姿は、完全に発情した牝のものだった。
 時おり、こぼれた汁を赤い舌先でちろりとすくい取る。

「ほらほら、アスカちゃん」
「じゅっ、じゅるうぅ……えっ?ミサさん?」

 肉棒をしゃぶるのに夢中になっていた飛鳥の体を、ミサが背後から抱え込んで津雲から引き離した。
 いつの間に服を脱いだのか、大人の色香の漂う肢体と、ボリュームのある胸を惜しげもなくさらしている。

「お口でご奉仕するのもいいけど、いつまでそうしているつもりなの?」
「そうよ、アスカさん。ほうら……」
「きゃっ!ユカリさん!?」

 同じく、服を脱ぎ捨てて、ほっそりとした裸を露わにしたユカリ、が飛鳥のズボンを一気に脱がせると、さらにショーツも脱がせていく。

「もう、アスカさんのここ、こんなにお汁を溢れさせてるじゃないの。社長のが欲しくて、ひくひくしてるわよ」
「やあ、そんなに見ないで……恥ずかしいです、ユカリさん…………あ、社長……」

 その時、ベッドの上に上がってきた津雲が、飛鳥の両足を掴んだ。
 はっとした表情で津雲を見上げる飛鳥。
 潤んだ瞳で津雲を見つめ、上気して赤く染まった胸が大きく上下している。

 すると、両脇からミサとユカリが飛鳥の膝を抱えて、M字に大きく広げさせた。

「きれいよ、それに、とってもいやらしいわアスカちゃん」
「本当に。もう、こんなに乳首を勃てちゃって、かわいらしい」
「さあ、社長に入れてもらいましょうね。こうやって、みんなで社長にご奉仕するのもとっても楽しいんだから」
「そうよ、アスカさん。3人で、社長にいっぱい気持ちよくしてもらいましょうね」

 小さな子供を諭すように囁くふたりの言葉に、飛鳥はコクリと頷く。
 そして、真っ直ぐに津雲を見上げた。

「社長、お願いします。社長の、固くて、熱いおちんちん、アスカに、入れてください……」

 はぁはぁと大きく喘ぎながら、飛鳥は途切れ途切れにねだる。
 その眼差しは、期待と欲情に満ちて妖しく輝いていた。

「いいだろう、アスカ」

 飛鳥の体に覆いかぶさるようにして、津雲はひくひくと震える裂け目に肉棒を宛う。

「んんっ……ふあああああっ!」

 ぐちゅ、と肉を掻き分ける卑猥な音を立てて、肉棒が中へと入っていく。
 飛鳥は、軽く頭を反らせ、喉を震わせてそれを受けとめる。

「あ、あああっ……社長のおちんちんが、中に……入って……う、嬉しいっ、です。ううん……もっと、もっと……」

 津雲が、はじめはゆっくりと、焦らすように腰を動かしいく。
 その効果は覿面だった。

「あふう……もっと、激しく、してください。お願いします……あんっ、んふうっ!」

 我慢できなくなった飛鳥は、自分から腰を動かしはじめた。

「しゃ、社長!もっと、もっと……はんっ、あっ、大きいっ!」
「ふふっ、本当にいやらしいのね、アスカちゃん。ちゅ……」
「んっ!んむむっ!んんーっ!」

 飛鳥が乱れていく様子を楽しそうに眺めていたミサが、右脇からその頭を抱え込むようにして唇を吸う。
 左側からはユカリが、飛鳥の乳首を指先で弾き、摘んでこね回す。
 きゅ、と強く摘むと、体がビクッと跳ねて、ミサの唇で塞がれた口からくぐもった声が上がる。

「乳首も、こんなにピンと勃てちゃって。ホント、かわいい、食べちゃいたいくらい……ちゅ、んむ。……どう?気持ちいい?」
「んむむっ、んんんっ!んーっ!んんっ、んっ、んっ、んんんんんっ!」

 膣に肉棒を咥え込んだまま、口と乳首を同時に責められて、飛鳥は涙目で呻くだけで、もちろんユカリの問いに返事ができるはずもない。
 それに加えて、津雲がグラインドを大きくしていったものだから、体を痙攣させながら、くぐもった声をあげて悶えている。

「あら?もうイキそうなの、アスカさん?社長、この後は私たちもお願いしますね。……あっ、んふうううっ!」

 津雲の手が伸びて、ユカリの股間に忍び込んでいく。
 すると、体をビクンと震わせて、飛鳥の乳首を弄っていた手が止まる。
 そして、津雲のもう片方の手がミサの方へと伸びた。

「んむっ!?んはあっ、ああっ、しゃ、しゃちょおおおっ!」

 敏感なところを刺激されて、飛鳥の唇を吸っていたミサが、堪らずに口を離すと甘い声をあげた。
 ミサとユカリに押さえつけられていた体を解放されて、飛鳥が津雲にしがみついて激しく腰を動かしはじめる。

「はんっ、ああっ、熱いっ!社長の熱くて固いのがっ、奥まで当たってますっ!あんっ、ふあああんっ!」
「んふううううっ!気持ちいいですっ!もっと、気持ちよくしてくださいいいい!」
「はああああんっ!あふうっ、私たちをもっと、可愛がってください、しゃちょおおおっ!」

 飛鳥の動きに合わせて腰を打ちつけながら、津雲がミサとユカリの秘部を愛撫すると、それぞれの喘ぎ声がハーモニーを奏で、完全に発情した牝と化した飛鳥、ミサ、ユカリの3人は、恍惚とした表情で快感に身を任せ続ける。

 だが、快楽の宴はまだ始まったばかりだ。

「ふあああっ!あっ、くださいっ!もっと、あたしをっ、気持ちよくしてください!」
「はああんっ!私たちっ、社長にお仕えできてっ、本当に幸せですっ!」
「これからもっ、精一杯ご奉仕します!んふううううっ!」

 病室の中に響く、甲高い喘ぎ声は、いつ果てるともしれなかった。





〜6〜






 翌日。

「ほら、着替えろ、アスカ」

 病室に入ってきた津雲は、外出用の服をポンと投げて寄こした。

「……え?社長?」
「もう、病人のふりはしなくていいだろ」
「えっと……いちおう記憶喪失なんですけど、あたし」
「バカ。体は元気だろうが。それに昨日、記憶なんか戻らなくていいって言ってたのはどこのどいつだ?」
「へへへ、そうですよね」
「ほら、とっとと着替えて行くぞ」
「行く……て、どこにですか?」
「おまえの新しい職場だよ」
「あたしの職場?」
「昨日ミサも言ってただろうが、おまえにはやらなくちゃいけないことがあるって。それを教えてやる」
「は、はい……」
「ほら、何をしてる。行くのか、行かないのか?」
「あっ、はい!行きます!」

 飛鳥は、慌てて寝間着を脱ぎすてる。
 津雲の見ている前で裸になることに、恥ずかしがる素振りは全く見せない。
 そして、津雲が持ってきた服を身につけていく。





* * *






「ほら、ここだ」

 津雲が飛鳥を連れてきたのは、商業地区の外れにある、とあるビルの1階。
 ”ラ・プッペ”という看板が出ているのが目に入った。

 歩道に面したショー・ウインドウの中を見ると、紳士物の洋服、雑貨、小物などを扱う店らしかった。

 大きなガラス戸を開けて津雲が中に入ると、飛鳥も急いで後に続く。

「いらっしゃいませ!あっ、社長!」

 入ってきた津雲の姿を認めて、ひとりの店員が歩み寄ってきた。
 白いワイシャツにベスト、蝶ネクタイといういでたちで、長い髪を腰まで下ろした長身の女性だ。
 すらりとした体と、長い手足、白い肌は飛鳥と似ているが、髪が短く、一瞬、少年と見間違うようなあどけなさを残す中性的な顔立ちの飛鳥とは違い、ほっそりとした顔の輪郭、すっきりと通った鼻梁、切れ長の目、津雲に向けて柔らかな笑みを浮かべているが、どこか鋭さも感じさせる大人の女性の魅力を漂わせていた。

「おはようございます、社長!」

 津雲に向かって深々と礼をしたその声は明らかに弾んでいた。
 そして、もう一度頭を上げたとき、心なしかその頬はほんのりと紅潮しているように思えた。 

「おはようございます、社長」
「おはようございます」

 他の店員たちも、次々と津雲のもとに歩み寄って頭を下げる。
 皆、一様に男装した美人ばかりで、津雲に熱っぽい視線を向けていた。

「あら、社長、もしかしてそちらの子が?」

 最初に声をかけてきた店員が、津雲の背後に立つ飛鳥に気づいた。

「ああ、話をしておいたアスカだ」

 そう言うと、津雲は店員の前に飛鳥を立たせる。
 彼女は、値踏みするように飛鳥の姿を眺めた後、にっこりと微笑んだ。

「私は社長からこの店を任されているサヤカよ。よろしくね、アスカさん」
「社長から?」
「ああ、この店は僕が経営してるんでね」

 首を傾げる飛鳥に、横から津雲が口を挟む。

「ええっ?あっ、そうかっ!だから社長なんですね!」

 今、はじめて意味がわかったという風に素っ頓狂な声をあげる飛鳥。
 目を丸くして感心しているその様子に、さすがにサヤカも声をあげて笑う。

「あなた、それも知らなくて社長、って呼んでたの?」
「でも、社長って呼ぶように言われたし……あれ?誰に言われたんだっけ?でもでも、他の人たちもみんな社長って呼んでたから……」
「ふふふ、面白い子ね。とにかく、あなたはこれからここで働くことになってるのよ。社長から、あなたのことも任されてるんだからよろしくね」
「は、はいっ、よろしくお願いします!」

 飛鳥が慌てて、サヤカにむかって頭を下げる。 
 クスリと笑ってその肩に手をかけると、サヤカは店内を案内しはじめる。

「いい?ここでは、輸入ブランドの洋服や装飾品などを扱っているの。それも、全部紳士用ね。ほら、このケースの中は時計、隣のケースはアクセサリーね」
「は、はい……」

 真剣な顔で、サヤカの説明に耳を傾けている飛鳥。
 津雲も、飛鳥の様子を窺いながらふたりの後について回る。

 そして、サヤカの説明が服飾品のエリアに来たときのことだった。

「あ……ここのポケットチーフ、派手さはないですけど、その分、汎用性が高くてどんなスーツにも合うから、根強い人気がありますよね……」

 ハンカチやポケットチーフの並んでいるケースを眺めながら、飛鳥がぼそりと呟くように言う。
 本人は、無意識のうちに言っている様子だ。

 そして次に、その隣の、ネクタイが陳列してあるケースに目をやる。

「あ!このブランド、この一年くらいで人気急上昇なんですよね!デザインも色遣いも斬新で、見た目は派手ですけど、うまく合わせるとすごくおしゃれなんですよ!」

 ケースの中に並ぶ、色とりどりのファッションネクタイを見ながら、興奮した様子で言う。

「あら、詳しいのね、アスカさん」
「……え?あれあれあれ!?あたし、なんでこんなこと知ってるんだろう?」

 サヤカに指摘されてはじめて自分が言ったことを意識したのか、飛鳥は腕を組んで考え込む。

「自然に出てきたんですけど……。なんでかな、わかるんですよね……いったいどこで覚えたのかな?」
「おいおい、一昨日、おまえが働いていた会社の人が見舞いに来てただろうが。話を聞いてなかったのか?おまえは、デパートで働いてたんだって」
「……あ、そうか。だって、そんな記憶全然ないから……じゃあ、なんでネクタイとかハンカチのことはわかるんだろう?……あーっ!」

 突然、大きな声をあげる飛鳥。
 そして、泣きそうな顔で津雲を見つめる。

「ん?どうしたんだ?」
「こ、これって……もしかして、記憶が戻りかけてるんじゃ……。いや……そんなのいやっ!あたし、社長のこと、嫌いになりたくない!」

 目に涙を浮かべて、飛鳥が津雲にしがみついてきた。

「おい、アスカ……」
「だって、ユカリさんが言ってたもの、あたしの記憶が戻ったら社長のことを嫌いになるかもしれないって」
「だから、あれはユカリがからかってただけだから。だいいち、記憶が戻っても僕のことを嫌いにならないかもしれないだろ」
「でも、でもっ!」

 大きくかぶりを振る飛鳥の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちる。

 どうやら、昨日ユカリに言われたことが相当気になっているらしい。
 それだけ飛鳥が自分のことを好きだということになるのだろうが、このままではここで働くどころじゃない。

 少しの間考えた後、津雲が口を開く。

「しかたがないな。……よし、じゃあ、僕がちょっとおまじないをしてやろう」
「え?社長?」

 飛鳥が、怪訝そうな表情を浮かべる。
 その耳元で、津雲はあの言葉を囁いた。



「”人形になれ、アスカ”」



 途端に、飛鳥の顔から表情が消える。

 だが、なにか様子が違った。
 そのまま、ぼんやりと立ちつくしているだけで、あの、アスカの人格が出てくる気配がない。

「おい、アスカ?」

 呼びかけると、飛鳥の視線がゆっくりと津雲を捉えた。

「社長……私……」

 ようやく飛鳥が口を開く。
 自分のことを、私、と呼んでいるのだから、アスカの人格なのは間違いない。
 だが、その目には力がなく、声も弱々しい。

「どうした、アスカ?」
「あの子が……社長のことを好きになって……私たち……やっと一緒になれると……ひとつになれると思って……」

 飛鳥は、かすれる声で途切れ途切れに津雲の問いに答える。
 どうやら、アスカの人格は、記憶を失った本来の飛鳥の人格と融合しつつあるらしかった。
 ぼんやりと津雲の顔を見つめながら、飛鳥は言葉を続ける。

「今、私はあの子とひとつですから……あの子の感じていることは……私も感じます……だから、わかります……ユカリさんの言葉が……心の奥に突き刺さって……あの子、怯えてます。思い出すことを怖がって……」

 ぼそぼそと、抑揚のない口調で話す飛鳥。
 その顔は虚ろで、なんの感情も読みとれない。

 ただ、昨日のことが飛鳥にはかなりショックだったことはわかる。

「いや、あれはだな、ユカリも悪気があってやってた訳じゃなくてだな」

 たしかにあれは、記憶を消した相手にユカリがいつもやっていることだ。
 たいていの場合、このまま記憶が戻らなくてもいいと思わせるのに役には立つのだが……。


「わかっています……。それに、あの子の想い出は……私が全部捨てたというのに……あの子には、思い出すことなんか……もう、何もないのに。私たちには社長が全てですから……あの子は……思い出したら今の全てを失うという幻に怯えているんです……。」

 はぁ……ユカリのが効きすぎたかな。

 津雲は、内心大きくため息をつく。

 もう、飛鳥の記憶は戻ることがないのに。何もかも、アスカが捨ててしまったから、飛鳥の中には何も残っていないのに。
 彼女自身にはその自覚はないから、もし、記憶が戻ったら津雲のことを嫌いになるかもしれないと想像して、漠然とした不安と怖れを抱いている。

「なるほど……。で、おまえからどうにかすることはできないのか?」
「もう、私は……あの子と溶け合った私の、残像みたいなものです。私から……働きかけることは……できません。ただ……あの子を、いえ、今の私を呼び出すことはできますから……後は……社長が……お願いします」

 そう言ったきり、飛鳥は口をつぐんだ。
 そのまま、自分からは話そうともしない。ただ、身じろぎもせずに津雲の顔を見つめている。

 さっきアスカは、後はお願いします、と言った。
 だったら……。

「アスカ、僕の声が聞こえるか?」
「……はい」

 試みに訊ねてみると、飛鳥は虚ろな表情のまま返事をする。
 その反応は、これまで何人もの相手に催眠術をかけたときの、基本的な反応と同じ。
 もう、アスカが現れる気配はない。

 今、アスカ自身が言ったように、飛鳥とアスカ、ふたつの人格が融合して、アスカは消えつつあるのだろうか。
 もともと、アスカが飛鳥の人格を拒み、否定していたのは、飛鳥が津雲を憎んでいたからだ。
 その原因となる記憶を失い、津雲のことを愛するようになった飛鳥を拒絶する理由は、もうアスカにはない。
 もちろん、飛鳥の記憶を捨て去り、津雲のことを想うようにさせたのもアスカ自身だ。
 アスカは、自分の役目が終わったことを知って、自ら飛鳥とひとつになることを選んだのだろう。
 ただ単にアスカが消えたのではない証拠に、たしかに飛鳥の中に、融合したアスカの姿もあった。
 今の飛鳥の淫乱さは、アスカのそれそのものだ。
 一方で、あっけらかんと、無邪気に津雲を愛する奔放さと、津雲を嫌いになることをだだっ子のように怖がるナイーヴさは飛鳥本来の性格なのか。
 どのみち、いずれふたりの人格は完全に溶け合っていくのだろう。



 だが、それは先の話だ。
 とりあえず、今は小さな子供のように怯えている飛鳥の不安を取り除いてやらなければならない。

「アスカ、よく聞くんだ。おまえは記憶が戻ると僕のことを嫌いになると思ってるみたいだけどそれは違うよ」
「……え?」
「記憶が戻って、僕のことを嫌いになるんなら、今、僕のことを好きなおまえはどこにいってしまうんだい?」
「……」

 飛鳥から、返事は返ってこない。
 ただ、黙ったままぼんやりと津雲のことを見つめている。

「記憶が戻ったら、僕を好きだったおまえは消えてしまうとでも言うのかい?それじゃあ、記憶が戻ったのに、今度は記憶がなかったときの記憶を失ってしまうってことじゃないか。そんなのっておかしくないか?」
「……はい」

 飛鳥が、自信のなさそうな小さい声で返事を返してきた。

「たとえ記憶が戻っても、今、こうやって僕と過ごしている時のことをきっと忘れないよ。僕のことを好きな気持ちはそのまま残ってるに決まってるじゃないか」
「……社長が……そうおっしゃるのなら」
「きっとそうだよ。だから、何も怖がることはない。記憶が戻っても戻らなくても、おまえが僕のことを好きなことに変わりはないんだから」
「……はい」

 ふにゃりと、飛鳥が虚ろな笑みを浮かべる。



「さすが社長、言いくるめるのがお上手ですね」

 そんな様子を黙って見ていたサヤカが、からかっているのか感心しているのかよくわからない調子で口を開いた。

「なんだい、人聞きが悪いな。記憶が戻らないことをアスカに自覚させるのよりも、こうする方が簡単なだけだ。それに、言いくるめるんじゃなくて、催眠状態にして暗示をかけてるんだから、どのみち僕の言うことに従うしかないのさ」
「あら、その方が人に聞かれたらまずいんじゃないんですか」

 口許に手を当ててクスクスと楽しそうに笑うと、サヤカは津雲に体を寄り添わせる。

「ホントに悪い人ですね、社長は。そうやって、沢山の女の子を自分のものにして、ひどいわ」
「なんだ?嫌だったら、僕のところにいなくてもいいんだぞ」
「冗談でもそんなこと言わないでください。社長のもとを離れるくらいなら死んだ方がましです。それに……私は自分から社長のものになったんですから」
「ふ……そういうことにしておいてやるか」
「贅沢を言えば、私だけの社長でいて欲しいんですけど、でも、みんなと一緒にいるのも悪くはないんですよね」
「まあ、今回のはイレギュラーだけどな。もともと、こいつを狙っていたわけじゃないしな」
「あら、でも可愛らしい子じゃないですか」
「最初はもっと勝ち気なやつだと思ってたんだけどな。僕のことを睨み付けてるときのこいつときたら」
「どうせまた、ひどいことをしたんでしょう?」

 津雲の腕に頬を擦り寄せながら、飛鳥を眺めているサヤカの眼差しは、思いのほか暖かかった。

「ふ、まあな」

 サヤカの言葉を軽くいなすと、、津雲は再びアスカに話しかける。

「アスカ、おまえは僕のことだけ考えていればいい。他のことは考えるな。そうしていれば、ずっと僕の側にいることができる」
「……はい」
「だから、なにも怖れることなんてないんだよ。僕のことだけ考えて、僕のために働く幸せだけを感じるんだ」
「……はい」

 魂の抜けたように虚ろな瞳に津雲を映したまま、飛鳥が緩みきった笑みを浮かべる。

「じゃあ、目が覚めたときには、なんの不安もなく、すっきりとした気分で目が覚める」
「……はい」

 そして、一呼吸おいた後、津雲はその言葉を告げる。

「”目を覚ませ、アスカ”」
「……あれ?あたし?」

 不意に我に返って、きょとんとした表情を浮かべる飛鳥。

「気分はどうだい、アスカ?」
「なんか、とってもすっきりしてます」
「まだ、記憶が戻るのが怖いか?」
「いえ……なんであたしあんなに記憶が戻るのが怖かったんだろう?だって、こんなに社長のことを好きなのに。記憶が戻っても、社長のことを嫌いになるはずがないのに……」
「だいたい、おまえは自分のことがわかるだろう?」
「えっ?」
「完全に記憶を無くしていたら、自分が誰かもわからなくなるけど、おまえは自分のことがわかるじゃないか。記憶喪失とはいっても、程度は人によっていろいろだし、覚えていることもあるんだよ」
「そっかぁ……だから、あたし、ネクタイのこととかがわかるんですね。……ああっ!そういうことなんだ!」
「な、なんだ?どうした、アスカ?」

 いきなり飛鳥が大声を出したものだから、津雲は驚いて聞き返す。

「あたし、社長のことがわかるし、社長のことを好きなんですよ。それって、社長を覚えてるっていうことですよね!つまり、あたしは記憶をなくす前から社長のことを知ってたってことじゃないですか!きっとそうだ!あたし、ずっと前から社長のことを好きだったから、そのことを今も覚えてるんですよ!だったら、記憶が戻っても社長のことを嫌いになるはずがないじゃないですか!」

 息せき切って一気にそう言うと、飛鳥は津雲を見つめる。
 子供のようにキラキラと瞳を輝かせている姿に、サヤカがまた声をあげて笑った。

「ふふふふっ!本当にかわいいわね、あなた」
「え?サヤカさん?」
「さ、まだ案内は途中よ、次はこっち」
「はい。……あっ、このジャケットはイタリアのルチオーニのですね!このブランドはすごく人気があるのに、なかなか入ってこなくて幻のブランドって言われてるんですよね!」

 壁際の、ジャケットやシャツの掛けてあるエリアで、また飛鳥のテンションが上がる。

「ああっ、こっちのシャツはフランスのガニヨンですね!このブランドも、斬新なデザインなのにカジュアルすぎなくて最近人気があるんですよ!」

 掛けてある商品のひとつひとつに興奮している飛鳥。
 もう、自分が海外のブランドに詳しいことを不思議に思う様子は欠片も見られない。
 そんな飛鳥の知識に、サヤカが感嘆の声をあげる。

「あなた、本当によく知ってるわね。素晴らしいわ。紳士物のブランドにそこまで詳しい女の子はなかなかいないもの」
「ありがとうございます、サヤカさん」

 褒められて、飛鳥は少し照れくさそうな仕草をする。
 そんな飛鳥を、サヤカはぐっと抱き寄せた。

「気に入ったわ、アスカちゃん。私が教えてあげるから、早く仕事を覚えるのよ」
「はいっ!」

 頬を赤らめて、しかし、元気よく飛鳥は返事を返した。







〜7〜






 あの、夏の公園での惨劇から4ヶ月近く経ったある日。


 ――群馬、飛鳥の実家。

 朝から、ときおり雪のちらつく、寒い日のことだった。





「あなた、葉書が。飛鳥からよ」

 飛鳥の母が、午後になって配達された葉書を、折しも、土曜日ということもあって家にいた飛鳥の父に手渡す。
 その差出人は、間違えようのない娘の筆跡で、朝日奈飛鳥、と書いてあった。

 その葉書には、まだ、東京で治療をしながら社会復帰を目指している飛鳥の近況が、小さな文字でびっしりと綴ってあった。

『お父さん、お母さん
 私は今、先生に紹介されたお店で働いています。そのお店には、私の他にも同じように記憶に障害のある子が何人か働いています。それに、店の上が店員専用のマンションになっていて、そこでみんなと暮らしているので、困ったときも助けてもらえるし、なにより、みんなが私の悩みや不安をわかってくれます。お店の店長もとてもいい人で、私のことをよく褒めてくれます。私が記憶喪失になる前の仕事と同じ様な仕事らしいので、体が覚えているのかもしれません。ここで、週に1回、先生の治療も受けています。先生も、ここで働くことが、記憶が戻るのに役に立つのではないかと言ってくれています。
先生に勧められてこの葉書を書いていますが、ごめんなさい、本当は、まだお父さんのこともお母さんのことも思い出せません。だから、こうして手紙を書いていても、実感が湧かなくて、本当に申し訳なく思っています。でも、いつの日か、きっと、お父さんとお母さんのことを思い出せることを信じて、私は頑張ります。だから、お父さんとお母さんも、体に気をつけて、もとの私に戻るのを待っていて下さい。
 最後になりましたが、また、こっちにも遊びに来て下さい。夏に、悲しい思いをさせてしまったので、今度は元気な私をふたりに見せたいと思っています。
 アスカ』



 葉書を読み進めているふたりの目から、涙が溢れてくる。

 あの夏に、病院で会ってから、初めて飛鳥から届いた葉書だった。
 もちろん、娘のことは気になるし、会いたいと思っている。
 しかし、前で病院であったときの飛鳥の辛そうな様子がどうしても忘れられない。
 自分たちと会うと、また彼女を苦しめてしまうかもしれないと思うと、なかなか会いに行く勇気が持てなかった。
 なにより、自分の娘が、自分たちのことがわからないのが、辛く、そして悲しかった。

 本当は、定期的に津雲からも、経過を報告する手紙を受け取っていた。
 そこには、飛鳥もだいぶ落ち着きを取り戻しているから、また会ってみたらどうかとか、今年は無理でも来年には、治療も兼ねて何日か飛鳥を実家に帰らせてみるつもりだということも書いてあった。
 それでも、なかなか踏ん切りがつかなかったのだが、こうやって、飛鳥自身からの手紙が届くと、募っていた思いが一度に噴き出してくるように思えた。

「ねえ、あなた。今度、会いに行きましょうか」
「うむ……」
「飛鳥もこう言っていることですし、なにより、先生もおっしゃっていることですから」
「そうだな、あの先生がその方がいいと言うのなら」

 そう言って、ふたりは頷き合う。
 ふたりとも、飛鳥の葉書の内容にも、津雲の治療方針にも、疑念を挟む素振りは見せない。
 いや、そもそも、そんなことはふたりにはできなかった。

 そうやって、ふたりは飛鳥の記憶が戻るのをずっと待ち続けるのだろう。
 もう、ふたりの娘である飛鳥が戻ってくることはないというのに。





* * *






 同じ日。

 ――東京。
 そこかしこに赤や緑の装飾が溢れ、街中がクリスマスの雰囲気に沸き立っているように思える。
 そんな、商業地区の外れ、”ラ・プッペ”の前。
 


「ありがとうございます。またのお越しをお待ちしておりますね!」

 店の前まで客を見送りに出て、頭を下げているショートヘアの店員は、ワイシャツに蝶ネクタイ、ベストにスラックスという男装をした飛鳥だった。
 きっと、この時期ならではなのだろう。その頭には赤いサンタ帽をかぶっていた。
 客の姿が見えなくなるまで見送って、振り返った飛鳥の表情がパッと輝く。

「あっ!社長!」

 愛しい人の姿を見つけて、飛鳥が笑顔で駆け寄ってきた。

「どうだ、仕事の調子は?」
「はい!もうばっちりですよ!」

 津雲の言葉に、飛鳥は満面の笑みで応える、

「で、あの葉書は送ったか?」
「はい。でも、やっぱりあの人たちのことをあたしの親だっていう感覚はないんですよね」
「そうか」
「社長のおっしゃるように、本当にあの人たちはあたしのお父さんお母さんなのかもしれないですけど……正直、どうでもいいんですよね。あたしには社長がいればそれで充分ですから」

 津雲に言われて葉書を出したものの、なぜそうする必要があるのか理解できずに飛鳥は首を傾げる。

「でも、なんであんなことしなくちゃいけないんですか?」
「それはあれだ、おまえが僕にところにいるためのおまじないみたいなもんだ。いちおう、おまえは記憶喪失の治療のためにここにいるということになっているからな。記憶をなくした娘が離れたところで治療を受けている親の立場だと、なにも連絡がないのは不安だと思わないか?」
「あ、そうか……そうですよね。あたしの記憶が戻れば、また違ってくるのかな?どうせ、記憶が戻ってもあたしはここにいるのに決まっているのに……あっ!そうだ!」
「なんだ?」
「あたしの記憶が戻ったことにしてあの人たちを安心させて、その上であたしが社長のところで働き続けるってことにすればいいんじゃないですか!?」
「おまえ、本当は記憶が戻っていないのに、記憶が戻ったふりなんて器用なことができるのか?」
「あ、そうか。なにも覚えてないのに無理ですよね」

 そう言って、てへっと舌を出す飛鳥。

「だから、こうやって手紙を出すのがおまじない代わりなんだよ」
「なんかめんどくさいですね。社長が書けとおっしゃったから、そのとおりに書きましたけど、あたし、あの人たちのこと、なんとも思ってませんし……。だいいち、このまま記憶が戻らなくても、社長に可愛がってもらいさえすれば、あたしはそれでいいんですもの」
「とにかく、僕の言ったとおりにしていれば、おまえはずっと僕の側にいることができるんだから。そうだ、今度また、あの人たちにも会ってやれ」
「あんまり気が進まないですけど……」
「まあそう言わずに、あのふたりを安心させてやれ。その方が後々面倒がないんだ」
「はい……社長がそうおっしゃるのなら」

 津雲の言葉に、いまいち納得していない様子だが、それでも飛鳥は素直に頷く。
 そして、気を取り直したように津雲の腕を掴んだ。

「さ、社長、いつまでも外にいるのもなんですから!今日は寒いですし、どうぞ中に!」

 そう言うと、津雲の手を引いて飛鳥は店の中に入っていく。





「あ、いらっしゃいませ、社長」

 いつものように、サヤカがすぐ歩み寄って来て挨拶する。

「社長、外で立ち話してたから体が冷えたでしょう。あたし、暖かい飲み物を用意してきますね!」

 中に入ると、すぐに飛鳥は店の奥に入っていく。

「今日はまたどうしたんですか、こんなに早い時間に」
「ああ、ちょっとアスカのケアでな」
「あ、そうでしたか。そうですよね、今はケアが大変な時期ですよね」
「まあ、実際にはアスカのケアというか、ケアが必要なのは向こうの方だけどな。アスカの場合、あまりにそういうのに無頓着すぎるから、僕が尻を叩かないと動かないからな」
「あら?社長がそういう風にしたんじゃないんですか?」
「いや、あれは本人の性格の問題だろう。で、どうだ、おまえから見てアスカは?」
「よくやっていますよ。あの子、勉強熱心だし、なにより、接客が上手ですからなにかと助かってます」
「おまえもうかうかしていられないな」
「いえいえ、まだまだあの子には負けませんわ。それに、商品を仕入れる交渉をできるパイプと語学力があるのは私だけですもの」
「おまえ、なにムキになってんだ?」
「いえ、ムキになんかなっていませんよ。だって……」

 サヤカが言葉をつけようとしたとき、飛鳥がカップを乗せたお盆を持って戻ってきた。

「はいっ、社長、コーヒーをお持ちしました!社長は砂糖なし、ミルク少なめでしたよね!」
「おう、ありがとう。……うん、おまえ、コーヒー淹れるの上手いよな」
「ありがとうございます!」

 褒められて、飛鳥が弾けたような笑顔を見せる。

 ふと、津雲は飛鳥の淹れたコーヒーの味が、”チャイム”で結依が淹れていたものと似ていることに気づく。

 ……まあ、気のせいか。

 偶然、同じような香りがしただけだろうと、津雲はそう思い過ごすにする。
 飛鳥が、学生時代に結依と一緒に”チャイム”でバイトをしていたことを、津雲は知る由もない。





「あっ、いらっしゃいませ!」

 その時、客が店に入ってきたので、飛鳥は元気よくそちらに駆けていく。
 飛鳥の感情を表すように、かぶっているサンタ帽の房がポンポンと跳ねている。

 そんな飛鳥の後ろ姿を眺めながら、サヤカがクスッ、と笑った。

「本当に可愛らしいですよね、あの子、ムキになるのもばかばかしいくらいに。いかがですか、社長?今夜あたり、私とあの子のふたりで……。たっぷりとご奉仕いたしますよ」
「ああ、それも悪くないな」

 きびきびと客の応対をしている飛鳥。
 そんな彼女の姿を笑顔で見守りながらサヤカがそっと囁くと、津雲も満足そうな表情で頷く。

 そのまま、ふたり肩を並べて飛鳥の接客を眺めている。
 津雲のために働く喜びに満ちた表情を浮かべている飛鳥は、いまや、どこから見ても立派な津雲の”従業員”だった。

 
 


 

 

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