戻れない、あの夏へ


 

 



Extra Stage アスカ 中編

Rub out




〜3〜




 ……今は、朝?それとも昼?

 目が覚めた飛鳥は、全身を異様な気怠さに犯されていた。
 頭がくらくらして、今が何時くらいなのかもわからない。
 
 あれ?あたし、昨日どうしてたんだっけ?

 なんだかぼうっとして、昨日何をしていたのか、記憶がはっきりとしない。

 そうだ、起きて仕事行かなきゃ……ふあっ!

 寝ぼけたまま、とりあえず起き上がって仕事に行こうとする飛鳥
 と、その肌に触れる温かい感触、それと同時に電気のような快感が走った。

 やっ、なに?
 ……すごく気持ちよくて、体が、熱くなる。

 気づくと、同じベッドの中で肌を触れ合うように寝ている相手がいた。
 その快感は、今、自分の体が触れている相手から伝わってくる。
 なんで自分のベッドに一緒に寝ている相手がいるのか、頭が朦朧としていて思い出せない。
 ただ、こうやって体を触れ合わせているのがとても心地いい。まるで、夢の中にいるような気がする。

 ……ああ……気持ちいい。
 ずっと、こうしていたい……。

 寝ぼけてぼんやりした意識の中、無意識のうちに相手に体を擦り寄らせた。
 そうすると、蕩けそうなほどに気持ちよくて、全身が熱を帯びてくる。
 特に、アソコのあたりがじんじんと熱くなって、足を相手に絡ませるとアソコを擦るように押しつける。

「あっ、ふああっ!」

 抱きついたまま下半身を揺すると、クリトリスが擦れて思わず喘ぎ声が漏れてしまう。
 でも、そうするのが堪らなく気持ちいい。

「あん……んふう……」

 そうやって体を擦り付けていると、相手も自分の体をそっと抱きしめてきた。
 体いっぱいに、ほんわりした甘い快感に包まれて、切なそうな吐息が漏れる。

 ん……本当に気持ちいい……。
 あたし、この人が好き……。

 ……え?
 この人って誰?

 不意に、飛鳥は我に返った。
 まじまじと、自分が抱きついている相手の体を見てみる。

 引き締まった筋肉質の体に、赤銅色に焼けた肌。
 自分の体を抱く、がっしりとした腕。
 そして、その顔を見上げると……。

「あっ!きゃああっ!」

 あの男の髭面がこちらを見つめていた。

「おはよう、アスカ」
「い、いやっ……」

 薄笑いを浮かべる男の言葉に頭を振って、体を離そうとする。
 しかし、自分を抱く男の腕がそれを許さない。
 それどころか、男は力を込めて飛鳥を抱きしめてきた。

「ひあっ!ふああああああっ!」

 力強く抱きしめられて、飛鳥は悲鳴を上げる。
 いや、それは悲鳴というよりもむしろよがり声といった方が良かったかもしれない。
 どこか、悩ましげで艶のある、官能的な響きが混じっていた。

 頭のてっぺんまで突き抜けるような強烈な快感に、体が、ピクン、と震える。
 その快感が、飛鳥の記憶を呼び覚ました。

 や……あ、あたし……この男と……。
 この感じ、そうだ、あの時と同じだ。

 憎いはずのこの男に触られただけで、全身が蕩けそうになる。

 そうだわ、昨日、あたしはこの男と……。

「ふ、いやらしい声で鳴くようになったね、アスカ」
「ち、違うっ……」
「でも、昨日はあんなにいやらしくしていたじゃないか」

 男の言葉が、目を背けようとしていた記憶を飛鳥に突きつけてくる。
 そう、自分はこの男とセックスをしていた。
 それも、自分から男に跨って、激しく、そして情熱的に。

 でも、あれは……。

「そんな、あれはあたしじゃない……」
「でも、あれはきみだったよ。いやらしく腰を振って、何度もイって」
「違うっ!あたしはあんなことしない!あれはあたしじゃないのっ!」

 そう、あの時のあたしは自分じゃない。
 あれは、あの”誰か”がやっていたこと。

「あっ、むふうううううっ!」

 また、きつく抱きしめられて、飛鳥の体がビクビクと震える。

「こうしただけでそんなに気持ちよさそうなのに?」
「いやっ、やめてっ!あうんっ、ふわあああああっ!」

 まるで、全身が性感帯になってしまったみたいに、肌の触れ合ったところから痺れるほどの快感が走る。
 連続して与え続けられる刺激に、頭の中がショートして、目の前がぐにゃりと歪みはじめた。

 だめっ、快感に飲まれちゃだめっ!
 だって、この男はっ……いあああああっ!

「ああんっ、んふううううううっ!」

 抗おうとしても、飛鳥の口からは狂おしげな喘ぎ声が漏れる。
 潤んだ瞳がふるふると震え、時々、意識が飛ぶように光が失せる。

「”人形になれ、アスカ”」



 その時、その言葉が聞こえた。

 

 飛鳥の中で、ぞくり、とそれが頭をもたげ、むくむくと広がっていく。
 同時に、男に対する愛情と、快感を素直に受けとめようとする感情が染みのように大きくなる。

 い、いや……この感じ、もしかして?

 自分の中で何かが蠢くこの感覚。
 それもあの時と同じ……。

(やっと私の番ね)

 頭の中に、あの声が響く。

 あ、あなた……。
 いや……出てこないで。

(だめよ。もうあなたの好きなようにはさせないわ)

 いや……やめて……。

(あなたはいい子でおねんねしてなさい)

 い、いやよ…………。

 だだっ子のようにいやいやをする飛鳥。
 だか、怯えたように目を見開き、動向が弱々しく震えている。
 そして……。




 一瞬、飛鳥の瞳が翳ったかと思うと、すぐに妖しい光を湛えて微笑んだ。




「アスカ、きみか?」
「はい、社長。……ん、ちゅ、んむ」

 津雲の問いかけに、飛鳥は、社長、と答えて淫靡な笑みを返す。
 そして、腕を伸ばして津雲の首に絡めると、その唇に吸いつく。

「ん、ふむ、んふ……んふううぅ」

 口づけを終えて大きく息を吐くと、飛鳥は津雲の目を見つめる。
 その、潤んだ瞳は緩みきって目尻が下がり、ほんのりと頬を染めて、はぁはぁと熱い息をしていた。

 はじめから感じていたことだが、やはりこの、アスカの人格は随分と積極的で、そしていやらしかった。

「ああ……社長……んむ、えろ……」

 飛鳥は、堪えかねたように津雲の肌に舌を這わせる。

「ぺろ……えろ……んふ、れろっ……」

 ぴちゃぴちゃと湿った音を立てて飛鳥の舌が動く。
 まるで、赤い軟体動物のように、チロチロと伸び縮みしていた。

 体をくねらせながら、飛鳥の舌は津雲の胸から腹、そして腰へと舐め下ろしていく。
 飛鳥の顔が、ゆっくりと股間へと近づいていく。
 そして、そこにあるものに手を伸ばした。

「ああ……社長のおちんちん……ふうう……」

 もう、赤黒く膨らみかけている肉棒の根元を掴んでうっとりとした表情で眺めると、飛鳥はふっと息を吹きかける。

「もっと、大きくして差し上げますね、社長……んふ、えろ」

 玩ぶようにそれを握った手を上下に扱きながら津雲の顔を一度窺うと、飛鳥は舌を伸ばして竿に絡ませた。

「むふう、んむ……んふ、れろぉ……ぺろ、ちゅむ、あふ……」

 すらっとした長い肢体を屈め、長い睫毛を伏せて静かに目を閉じて肉棒をしゃぶる飛鳥。
 ちゅぱちゅぱと、わざと音を立てて舐め回し、時々、じゅるると大きな音を響かせて唾液ごとカウパーを吸う。
 背中を丸めて、尻を軽く振っているところは、まるで猫かなにかを思わせた。

 そんな飛鳥の姿を、目を細めて見ていた津雲が、真顔になって声を掛ける。

「アスカ、いいか?」
「んむ、んふ……はい、なんでしょうか、社長」
「今、あいつはどうしてる?」
「……え?ああ、あの子なら、おねんねしてますよ。……ん、ちゅむっ、ぺろっ」
「あいつを起こすことはできるか、アスカ?」
「んむ……え?社長?」

 津雲の言葉に、飛鳥は肉棒から口を離して顔を上げる。
 そのまま、その言葉の真意を計りかねたように津雲の顔を見つめていた。

「きみがあいつを呼んで、起こすことはできるか?」
「……あの子に、用があるんですか?」
「ああ」
「だったら、社長があの子を起こしたらいいじゃないですか。あの言葉で」

 そう言うと、飛鳥は肉棒を掴んだまま、拗ねたように頬を膨らませる。
 見た目は同じなのに、その表情、仕草、全てが目覚めたときの飛鳥とは全然違っていた。

「そうじゃない。おまえの意識があるままで、あいつを起こすことができるのかを聞いているんだ」
「なんのためですか?」
「うん、これは、あいつから僕を憎む心をなくさせるために必要なんだ」
「そう……なんですか?」
「そうだ。きみがどんなの僕のことを好きなのか、そして、僕とのセックスが気持ちいいかをあいつにわからせてやるんだ」
「……あの子に?」
「今のきみは僕のことだけを考えて、それだけで幸せだろう?」
「はい」
「でも、あいつは違う」
「……はい」
「それはつまり、きみは本当に僕のものじゃないってことだ」
「そ、そんな……」
「だってそうだろう?あいつが僕のことを好きになって、そして、あいつも僕のことだけを考えるようになってはじめて、きみは本当に僕のことを好きになる。本当に僕のものになるんだ」
「そう……ですね」
「きみだってその方がいいだろう?」
「はい、社長」

 津雲の言葉に、真剣な顔で飛鳥は頷く。

「だから、あいつにも僕とセックスすることの素晴らしさを教えてやるんだよ。そのために、あいつを起こすんだ。出きるかい?」
「はい、できると思います。昨日も、社長とセックスしている途中で、あの子はちょっと目を覚ましていましたし……」

 そこまで言って、飛鳥は表情を曇らせた。

「ん?どうしたんだい?」
「……でも、あの子は社長のことを憎んでいます」

 そう言って、不安そうに津雲を見つめる飛鳥。
 そんな彼女を励ますように、津雲その頭を撫でてやる。

「うん、そうだね。だから、あいつが僕のことを憎んでいる原因を取り除く必要があるだろうね」
「あの子が、社長を憎んでいる原因、ですか?」
「その原因になる記憶をあいつから消す。それを、きみにも手伝って欲しい」
「私が、ですか?」
「ああ、きみの意識があるときにあいつを起こすことができるように、あいつが起きているとき、きみの意識は眠らずにいてくれ」
「は、はい……」

 相変わらず不安そうな表情で、飛鳥は返事をする。

「で、彼女の中から、僕のことを憎んでいる原因を消し去って欲しい」
「……わかりました。できるかどうかはわかりませんが、やれるだけやってみます」
「うん、まあ、一回ではダメでも、またチャンスはあるかもしれないしね。気を楽にするんだ」
「はい」
「それと、あいつの記憶をい弄るということは、つまりきみの記憶を弄るということなんだけどね」
「私は……かまいません」
「アスカ?」
「だって、私には社長が全てなんですもの。過去のことなんてどうでもいい。それに、社長のことを憎んでいる記憶なんて、私には要らない。そんなもの、ない方がいいです」
「そうか、よく言ってくれたね」
「……はい」

 頭を撫でると、飛鳥はようやく笑顔を浮かべ、嬉しそうに頬を赤らめる。

「じゃあ、あの子を起こしてくれるかい?」
「はい、社長。でも、その前に……」
「ん?どうした、アスカ?」

 首を傾げた津雲に向かって、にやっと、いやらしい笑みを浮かべると、飛鳥はまた肉棒に顔を近づける。

「私をもっと気持ちよくして下さい。ん、あむ、ちゅる、えろぉ……」

 飛鳥は、肉棒を口に含むと、音を立てて熱心にしゃぶり始めた。





* * *






(起きて、ねえ、起きてったら)

 ……誰?誰なの?

(私よ、私。ねえ、起きてよ。せっかくいいところなんだから)

 何よ……ひあああっ!
 あうっ、まっ、またっ!?
 いああああああああああっ!

 飛鳥の意識が目覚めると、またこの間と同じ状況だった。
 自分の体が、自分の思うままにならない。

 そして、今度は、向き合う体勢であの男に抱きつき、激しく腰を動かしていた。
 アソコの中いっぱいに固くて熱いものが入ってきている。
 下からずんずんと突き上げられると息が詰まりそうになるが、全身を犯す快感に体はひくひくと悦びにうち震えていた。 

 そして、口からは……。

「ああっ、すごいいいいっ!いいっ、気持ちいいですっ!もっと、もっと奥まで突いて下さいっ、しゃちょおおおっ!」

 快感を感じていることをはっきりと言葉にして、男にしがみつく。
 そして、腰を揺すり動かす動きをいっそう大きくしていく。

 いやっ、そんなのっ、ああっ、ああああっ!

(なんで?こんなに気持ちいいのに?)

 だって、こんなのあたしじゃない!

(嘘よ。私とあなたは一緒。こうやって社長とセックスをして気持ちよくなってるのもあなたなの)

 ち、ちがうっ!
 ああっ、ふあああああああああっ!

(ほら、こんなに気持ちいい)

 ちがうっ!ちがうのっ!
 ふあっ、いいいいいいいいっ!

(さあ、もっと気持ちよくなりましょう)

 やめてっ、もうっ、これ以上はっ!
 んくうううううううっ!

 抱きついていた腕を放し、後ろ手に手をついて腰をくねらせると、角度が変わってより深いところまでごつごつと当たる。

「ああんっ、はああんっ!あんっ、そこっ、いっぱいにっ!んはああんっ!」

 んふうんっ!そっ、そんなに奥まで入ってきちゃ、だめえええっ!
 あああっ、やああっ、だめえっ、気持ちいいっ!ダメなのにっ、ふあああっ!

 飛鳥の意識は、快感の奔流の中で流されそうになっていた。

 そこに、男の声が聞こえてきた。

「本当にいやらしいな、アスカは」
「はいいいいいっ!私はっ、いやらしいっ、女ですうううっ!」

 足を大きく開いて、男の腰に押しつけてくねらせながら男の言葉に答える。
 もちろん、返事をしたのは飛鳥自身ではなくて、体を動かしている”誰か”だ。

 ちがうっ、あたしはいやらしくなんかないのにっ!
 こんなっ……はうっ、んふうううううんっ!

「きみは僕のものだよ、アスカ」
「んんっ、ふぁいいいいっ!私はっ!社長のものですっ!ああああっ!」

 ちがうわよっ!そんなっ、そんなあああああっ!

「だから、僕のことだけ考えていればいい。他のことは考えなくていいんだ」
「はいいっ!私っ、社長のことしか、考えません!あんっ、んふううっ!」

 ちょっ、ちょっと!?
 なっ、なに約束してんのよ!?

 いああああっ!
 いやああああっ!止めてっ!止めてええええっ!
 これ以上気持ちよくなると、あたしっ、おかしくなるううううっ!

「だから、僕以外の人間のことは忘れてしまうんだ」
「はいっ、はいいいいっ!社長以外の人間のことはっ、わすれますうううっ!」

 ふあああああっ!
 やっ、え!?なに?何を忘れるって?

 あんっ、あはあああんんっ!

 いやっ、もうっ、何も考えられないっ!
 ああっ、熱いのっ、アソコの中っ、熱くてっ、きもちっ、いいっ……。

 体が感じている快感に翻弄されて、飛鳥の意識は混濁してくる。

「んん……はあああぁ、ん、しゃちょおおぉ……んむ、ちゅ……」

 再び腕を男の首に絡めて、その唇を吸う。
 舌と舌が絡み合い、柔らかい感触が口の中を刺激する。
 飛鳥は、半ば夢見心地でキスを受け入れていた。

「ん、ぷふぁあ……」

 口づけを終えて、津雲を見つめる飛鳥。
 その目の前で、ゆっくりと津雲が口を開いた。

「”目を覚ませ、アスカ”」
「え……?」

 一瞬にして、飛鳥の表情が固まった。

「や……あたし……。あうっ、あふんっ!やっ、やああっ!」

 下から突き上げられて、飛鳥は悲鳴を上げる。
 途端に、固まっていた表情も崩れる。

「ふ、いやらしい声を出すじゃないか」
「やあっ、ちっ、ちがうっ!これはっ、ああぅ、あうんっ!」

 頭を振って、飛鳥は必死に否定しようとする。
 でも、体は素直に反応してしまう。

 潤んだ目尻を下げて、突かれた体が跳ねるたびに甘ったるい声が漏れていた。

「本当は僕のことが好きじゃないのか?」
「ちがうっ!だってあんたは結依と宏平のっ!」

 快感に飲まれそうになりながら、飛鳥は必死で叫ぶ。

 そうよ……この男はっ、あのふたりの!



 飛鳥の脳裡に、あの時公園で最後に見た、血の海の中で折り重なって倒れている結依と宏平の姿が浮かぶ。



 と、その時。

(見ぃつけた!)



 頭の中で声が響いた。
 次の瞬間、はっきりと脳裡に焼きついていたはずの、結依と宏平の最後の姿がふっと掻き消えた。

(こんなところにあったのね、やっと見つけたわ。こんな邪魔なものは捨てちゃいましょうね)

「えっ!?なにっ!?なんなの!?」

 突然のことに、飛鳥は戸惑いの声をあげた。

 結依と宏平に何か大変なことがあった気がするのに、それがなんだったのか思い出せない。

 えええっ!?どうして!?
 結依はっ!?あの子はどうしたの!?

(もう、ダメよ。他の誰かのことを考えたりしちゃ)

「えええええっ!い、いやっ、なにっ!?」

 飛鳥の頭の中に、結依と遊んだ時の映像がはっきりと浮かび上がった。

(他の人のことは捨てちゃいましょうね)

 頭の中に響くその声に合わせて、まるで、フィルムを巻き戻すように結依との想い出が浮かび、そして消えていく。

 結依の部屋で、朝までおしゃべりしていたこと、宏平と3人で遊びに行ったこと、結依とふたりで”チャイム”でバイトしていたこと、そして、大学に入って、結依と初めて会ったときのこと……。

 それらが巻き戻されて、その後に残ったのは何もない空白だけ。

「い……いやっ、こんなのいやああああっ!助けてっ、宏平っ!」

(まあっ!他の男のことなんてもってのほかよ)

 頭の中で、不機嫌そうな声が聞こえた。
 そして今度は、宏平との記憶が浮かび、そして消え始める。

(これはいらない、と。これも……ああ、これもいらないわね)

 まるで、アルバムの整理でもしているみたいな調子の声とともに、宏平との想い出が次々と失せていくのがわかる。

(あ、こんなところにもあった。これも捨てちゃえ)

 頭の中でそう言う声には、どこか楽しそうな響きすらあった。

「いやああああっ!あたしの頭の中っ、弄らないでええええええっ!」

 飛鳥の喉から絞り出された声。
 それは、悲痛な叫びだった。

 大切な人との想い出が、自分の中からどんどん失われていく。
 飛鳥には、それを止めることすらできず、大きく見開かれているその瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちてくる。

 しかし、そんな彼女に構うことなく、宏平との記憶は巻き戻されていく。
 高校生の時、飛鳥から宏平に別れを告げたのに、ひとりになってから大声を上げて泣いたこと、まだつき合っていた時、一緒に遊びに行ったときのこと、宏平につき合おうと言って、OKをもらったときの嬉しい気持ち、まだ子供の頃に、いつも泥だらけになって遊んでいたこと……。

 飛鳥にとってかけがえのない想い出が、ひとつ、またひとつと頭の中から消えていく……。

 いや……。そんなの、いや……。

 なくなってしまったものは、どうしても思い出すことができない。
 でも、失ったものが、なくしてはいけない大切なものだったことはわかる。

「いやっ……忘れちゃダメ……なくしたらダメなのに……助けて……お父さん、お母さん……」

(もう〜、他の人のことは考えたらダメって言ってるでしょ)

 その声に合わせて、今度は父の面影が、そして、母の顔がだんだん霞んで、記憶の中から消えていく。

「あ……あああ……うっ、ううっ」

 茫然とした表情で、飛鳥は小さく呻くことしかできなかった。
 見開いたその目から、涙が流れ続ける。

 自分にとって、大切な人との想い出がなくなってしまった。
 何をなくしてしまったのかは思い出せないが、ぽっかりと穴があいたような喪失感が、止め処なく涙を溢れさせる。



 しかし。



(悲しまなくてもいいのよ。だって、何かをなくしたということすら忘れてしまうんですもの)


 その声がした途端に、喪失感も悲しみも嘘のように消え失せてしまった。
 

「うううっ……え、ええ?」

 きょとんとした表情で、飛鳥は首を傾げる。
 さっきまで泣いていた気がするのに、どうして自分が泣いていたのか、その理由がわからない。

 あれ……あたし……?

 何もない、まっさらな気持ち。
 あまりに何もなくて、ちょっと心細く思う。でも、不快感はない。

「あんっ、はああんっ!」

 不意に、艶めかしい声が飛鳥の口から漏れた。
 バランスを崩しそうになって、相手にぎゅっとしがみつく。

 自分の中を、なにか熱くて固いものが出入りしている。
 それが、今まで感じたことがないくらいすごく気持ちいい。
 
「ああんっ、はんっ!……あ、あたし?あんっ、ああんっ!」

 飛鳥は潤んだ瞳で、自分がしがみついている相手を見る。
 自分とセックスをしている、口髭を生やした男の顔。
 自分は、この人のことを知っている、と、そう思った。
 その顔だけは、記憶に残っている。

 あれ?この人……?

(そうよ、この人が私のお仕えする人。私たちの社長よ)

 私たちの、社長……?

(そう。私たちはこの人のものなの)

 この人の、もの……。

 自分がこの男のものだと思うことに不快な感じはしない。
 むしろ、それはすごく素敵なことのように思える。

 あれ……でも……。

 飛鳥の心の端に、少しだけもやもやしたものがあった。
 でも、なぜそんなことを思うのか、今の飛鳥には見当もつかない。

 それよりも。

「あっ、あふうっ、はんっ、ああんっ!」

 自分の中に入っている固くて大きいものが動くのが気持ちよくて、自分から腰を動かしてしまう。

(私たちはこの方のことだけを考えていればいいの。だって、私たちはこの方のことを大好きなんですもの)

 そう語りかけてくる声には、うっとりとした響きがあり、男に対する愛情が飛鳥にも流れ込んでくる。
 その感情が、飛鳥の胸を、ぽっと熱くさせる。

 それになにより、この人とのセックスは、すごく気持ちいい。
 肌を重ね合わせて、相手の体温を感じているだけで夢の中にいるような幸福感に包まれる。
 そして、その固くて熱いものがアソコの中で擦れて、奥を突かれる快感に天にも昇りそうな心地になる。
 この世界に、こんなに気持ちのいいことがあったなんて。

 あれ……あたし、この人のことを嫌っていたような気が……?
 ……そんなの、気のせいよね。
 だって、あたしはこの人のことがこんなに好きなんだし、この人とのセックスはこんなに気持ちいいんですもの。

 最後に、ほんの僅かに残っていたわだかまりも、快楽のうねりの中で儚く消えてしまった。
 そして、飛鳥は快感と男への愛情に身を任せる。

「あん……んふう……ああっ、きもちっ、いいですっ、社長!」
「僕のことを社長って呼んでくれるのかい、アスカ?」
「だって、あなたはあたしたちの社長だって言われたから……ああんっ、そこっ!いいですううっ!」

 すっかり蕩けた顔で、腰をくねらせる飛鳥。
 その姿に、津雲はふっと表情を緩ませる。

 彼女の変化に、アスカがうまくやったことを確信していた。
 もう、彼女は完全に自分のものだ。
 津雲は、黙ったまま飛鳥を固く抱きしめると、ぐいっと腰を突き上げる。

「ふああああっ!そこっ、すごいっ、すごいですうううっ!」

 飛鳥もそれに応えるようにさらに大きく腰を動かしていく。

「あんっ、はあんっ、あん、あんっ!社長!しゃちょおおっ!」 

(ふふふ、いい子ね。これでやっと私たちもひとつになれるわ……)



 恍惚として腰を振る飛鳥の頭の片隅で、その声が満足げに呟いていた。





* * *






 何度も絶頂に達し、完全に果てて泥のように眠っている飛鳥。
 彼女をベッドに残すと、津雲は立ち上がってリビングへと向かう。

 そして、飛鳥の携帯を手に取る。
 そこには、不在着信を示すランプが点っていた。

 津雲が携帯を操作すると、録音されたメッセージが流れる。

『……朝日奈さん、連絡もなしに休んで、どうしたっていうの?あなたのことだから無断欠勤はないと思ってたけど、もし、勘違いしてるのなら折り返し連絡して……』

 少し年配の女性の声。
 おそらく、職場の同僚か上司といったところか。

 そう判断してメッセージを途中で切ると、津雲は、次へと進む。

『……もしもし、飛鳥?お母さんだけど。さっき、会社の人から電話があって、あなたと連絡が取れないって。いったいどうしたの?心配してます。すぐに電話してちょうだい……』

 ……こっちは実家の母親か。
 どっちにしても、そろそろ手を打っておかないと問題が大きくなりそうだな……。

 津雲は、そのメッセージを入れた相手の番号を確認する。
 ”うち”と登録されていたその番号は、北関東エリアを示す市外局番から始まっていた。



 その番号をメモすると、津雲は飛鳥の携帯を置いて自分の携帯を手に取る。

「……ミサか?僕だ。ああ、いつもの用事だ。部屋をひとつ開けておいてくれないか。うん、担当はユカリで。詳しいことは明日になってまた連絡する」

 電話に出た相手に簡単に用件だけ言うと、津雲は電話を切った。





* * *






 翌朝。

「ん……んん……あ……おはようございます、社長!」

 目を覚ました飛鳥は、愛しい人の姿を見つけて表情を綻ばせる。

「うん、おはよう、アスカ」

 弾けるような笑顔でおはようの挨拶をする飛鳥に、相手も笑顔を返してきた。

 男の笑顔の本当の意味を、飛鳥は知らない。

 もう、本当の飛鳥が出てくることはない。
 いや、今となってはそれが本当の彼女。
 大切な人との想い出を失い、津雲のことだけを考えるアスカ。
 それが、今の彼女だった。
 目が覚めて、自分のことを、社長、と呼んだことが全てを語っていた。

 それが、津雲の笑みの理由だった。

「ん、こうしてると、あたし、とっても幸せです……」

 裸のままで、津雲に体を寄せてくる飛鳥。
 うっとりと目を閉じて、体を押しつけて擦り寄せている。

 その頭を撫でながら、津雲が口を開いた。



「アスカ、きみにやってもらいたいことがあるんだけど、いいかな?」
「はい……なんでしょうか?」
「うん、なんていうか、ちょっと難しいことなんだけどね」
「なんなりと申しつけて下さい。あたしは社長のものなんですから」

 そう答えて、飛鳥は屈託のない笑顔を見せる。

「わかった。じゃあ、これから僕の言うことをよく聞くんだよ」

 津雲がうって変わって真剣な表情になる。

「は、はい……」

 飛鳥も、神妙な面持ちでその言葉に耳を傾けていた。





〜4〜






 ――群馬。
 街の中を利根川が貫き、遥かに榛名山を望む地方都市。
 ここは、飛鳥と宏平が生まれ育った町。

 住宅地の一角にある、赤い屋根の家。
 そこが、飛鳥の実家だった。



 リビングで、電話が鳴っている。

「はいはい、今出ますよ」

 中年の女性がキッチンから出てくると、いったん両手を拭いてから受話器を取り上げる。

「はい、朝日奈ですが……」
「あ、朝日奈飛鳥さんのご家族の方ですか?」

 受話器の向こうから、低い男の声が聞こえてきた。

「あなた、飛鳥のことをご存知なんですか?あの子は今、どこに?何があったって言うんですかっ?」

 連絡の取れない娘の名前を聞いて、女性の表情が変わった。
 返事を待つのももどかしそうに聞き返す。

「いえ、あの、申し遅れましたが、私は東京の、医療法人愛隷会高津病院の津雲といいます。飛鳥さんのお母様ですか?」
「そうですけど?」
「実は、飛鳥さんは今、こちらに入院しておりまして……」
「ええっ!?どうして!?あのっ、娘にいったい何があったんですか」
「はい……それが、あの……」

 電話口の声は妙に歯切れが悪かった。

「いったい、どうしたというんですか?あの子に何か!?」
「娘さんは、階段で転倒したらしいとのことでこちらに運ばれてきました」
「それでっ、怪我はっ!?」
「いえ、怪我の方はたいしたことはないのですが……」
「何があったって言うんですか!?」
「いいですか、お母さん、落ち着いて聞いて下さい。娘さんは、階段から落ちたときに頭を強く打ったらしく、記憶に障害が残っておりまして……」
「記憶に……障害?それは、いったい……」
「はい、わかりやすく言いますと、記憶喪失ということになります」
「記憶喪失ですって!?」
「ええ。そのことで、ご両親にこちらにお越し願いたいのですが……。詳しい話はその時お話ししますので」
「あ、は、はい……」

 受話器を握ったまま、茫然としている飛鳥の母親。

「あの、大丈夫ですか?」

 受話器の向こうから心配するような声が聞こえてくる。

「は、はいっ」
「あの、こちらの住所と連絡先をお伝えしておきたいのですが……」
「はいっ、お願いします」

 飛鳥の母は、ペンを取ると、電話の横のメモに、告げられた住所と電話番号を書き留めていく。

「……はい……はい、わかりました。それでは、娘のこと、どうかよろしくお願いします」



 受話器を置くと、飛鳥の母はしばらく茫然と立ちつくしていた。
 この数日、飛鳥と連絡がつかなくて心配していたところだった。
 もちろん、離れたところで一人暮らしをしているし、そんなにまめに電話をよこす娘でもなかったから、しばらく連絡がないということはよくあることだったのだが。
 飛鳥の勤め先から、無断欠勤が続いているという連絡があったばかりで、警察に相談した方がいいのでは、と思っていた矢先だった。

 突然のことに、まだ気持ちの整理がつかない。



「そうだわ!お父さんに連絡しないと!」



 不意に我に返ると、飛鳥の母はまた受話器を取り上げた。





* * *






 ――東京。

 飛鳥の両親が病院に来たのは、その翌々日のことだった。

「朝日奈さんのご両親でしょうか?」

 受付に来院を告げてから10分ほど待っただろうか。

 エントランスに現れたのは、白衣を着た一組の男女だった。
 ひとりは、背が高くがっしりした体格の髭面の中年男性。
 もうひとりは、細身で、ウェーブのかかった黒髪を結った30代前半くらいの女性。

「私が、先日お電話を差し上げた津雲雄司です。こちらは、私と一緒に飛鳥さんの治療に当たっている医師の高橋由佳里です」

 そう言って、男が頭を下げた。
 その後ろで、女性も小さく頭を下げる。

「あ、あの、それで飛鳥は?」
「案内します。どうぞ、こちらへ」

 飛鳥のことが心配で仕方がないといった様子のふたりを、津雲と名乗った男がエレベーターへと案内する。





「昨日、飛鳥さんの勤め先の方もいらっしゃいましたが、そちらには連絡があったでしょうか?」
「い、いえ……」
「そうですか、まあ、先方もだいぶ困っておられるようでしたから……」

 エレベーターの中で、津雲と名乗った男が話を始める。

「実は、階段の下で倒れている飛鳥さんが最初に運ばれたのは現場からすぐ近くの病院でして。外傷は大したことはなかったのですが、電話でもお話ししたとおり、頭を強く打っていたらしく、なかなか意識が戻らなかったそうです。そして、ようやく意識が戻ったら記憶に障害があるということでこちらに運ばれてきたのですが、なにぶん、記憶がないので本人の確認に手間取りまして、連絡するのが遅くなってしまったのは申し訳ありませんでした」
「あ……いえ、そんな……」

 津雲の説明に相づちは打つものの、気もそぞろで、心ここにあらずといった様子のふたり。
 エレベーターが止まり、病室に向かって歩き出してもまだ説明は続いていた。

「頭に強いショックを受けて、記憶に何らかの影響があることはよくあることなのですが、ほとんどは一時的な記憶の混濁程度ですぐに回復するものなのです。ただ、飛鳥さんのように、ある程度の時間が経っても記憶が戻らない症例が稀にありまして。当院は、精神科と心理カウンセリングが専門ということもあって、飛鳥さんのように、事故などのショックで記憶が戻らない患者さんが他の病院から運ばれてくることがたまにあるんですが……」

 そこまで話をして、津雲は立ち止まった。

「ここが、飛鳥さんの病室です。中に入る前に、おふたりに言っておきたいことがあります」
「……なんでしょうか?」
「今の飛鳥さんは、おふたりの姿を見ても自分の両親だということがわからないかもしれません。ただ、もしかしたら、おふたりの姿を見て記憶が戻るということがあるかもしれません。しかし、そうならない可能性も充分にあります。おふたりにとっては辛いことでしょうが、もし、あなた方のことを飛鳥さんがわからなくても、取り乱さないようにお願いします。こういう症例は、時間をかけて記憶が戻るきっかけを掴むのが一番いいんです。無理に思い出させようとすると、それが心理的なストレスになって逆効果になることもあります。こういうことを言うのは酷だとは承知していますが、どんなことがあっても、おふたりには落ち着いて行動していただくようお願いします」
「……は、はい」

 相手の口調に気圧されて、ふたりとも真剣な表情で頷く。
 津雲も黙って頷くと、病室のドアに手をかけた。
 そして、ゆっくりとドアを開く。





 陽の当たる部屋の中に、飛鳥がいた。
 病院で用意されたらしい、白い寝間着を身につけて、頭には包帯を巻いている。





「あ、飛鳥……」

 ベッドの上で上体を起こして、こっちを見ている娘の姿に、ふたりは思わずその名を呼ぶ。
 しかし、彼女はきょとんとした表情でこちらを見つめているだけだ。

「飛鳥……私たちがわからないのかい?ほら、お父さんと、母さんだよ……」

 飛鳥の母が、そう言って彼女の方に歩み寄る。



「お父さん……お母さん……?」



 そう言われてもなお、飛鳥は首を傾げてふたりの顔を見比べる。
 まるで、ふたりのことがわからないと言わんばかりの表情で。

「飛鳥……本当に私たちのことがわからないの?」

 飛鳥は、悲しげに顔を伏せると、黙ったまま首を横に振る。

 飛鳥の母の目から、涙が溢れてくる。
 父親も、涙こそ流さないもののショックは隠せない様子だ。





 そのまま、しばし沈黙の時間が流れる。





 それに耐えきれなかったのは、飛鳥の母親の方だった。

「飛鳥っ!ほら、よく見てっ!私よっ、あなたの母さんよっ!」

 涙を流しながら、飛鳥の肩を掴んで、ゆさゆさと揺さぶる。

「ねえっ、思い出してちょうだいっ!お願いよっ!」

 どうにかして自分のことを思い出させようと、必死の形相で飛鳥に顔を近づける。

「うっ、ううっ……!」

 不意に、飛鳥が苦しそうな呻き声を上げた。

「飛鳥?」
「痛いっ、頭が痛いのっ!うううっ!頭が……割れそうっ!」

 苦しそうに頭を抱えて、ベッドの上で体を丸める飛鳥。

「いけません、それ以上は!」

 津雲が慌てて駆け寄ると、飛鳥の母親をベッドから引き離す。

「飛鳥っ、お願いっ、母さんのことを思い出してっ!飛鳥っ!」
「だめです、今は彼女を安静にさせないと!高橋くん!飛鳥さんの方を頼む!」
「落ち着くんだ、良江!」

 高橋という女医に飛鳥を任せて、津雲は、飛鳥の父親とふたりで飛鳥の母親を抱きかかえるようにして病室を出ていく。

「お願いっ、飛鳥にっ、あの子に!」
「落ち着いて、落ち着いてください、お母さん!」





 まだ興奮状態の飛鳥の母をカウンセリングルームに連れて行くと、椅子に腰掛けさせる。





「だめじゃないか、良江。さっき先生もおっしゃっていただろう。飛鳥に負担をかけるようなことはするなって」
「でもっ、でもあなたっ!飛鳥が、あの子がっ!ううっ……うううっ!」

 感情を抑えきれずに、飛鳥の母は手で顔を覆って泣き崩れる。

「どうやらお母様はかなりショックを受けておられるようですね。処置室にベッドがありますから、そちらの方で少しお休みいただいた方がいいかもしれません」

 顔を覆ったまま嗚咽しているその姿を見て、津雲が看護士を呼ぶ。
 すると、数人の看護士が入ってきて飛鳥の母を優しく抱え起こすと、部屋を出ていく。






「すみません、先生。いや、あれが見苦しいところをお見せしまして」

 ふたりだけになると、飛鳥の父が津雲に向かって頭を下げた。

「いえ、自分の子供が親のことを思い出せないのですから、そんなことになったらショックを受けるのは人の親として当然のことです」
「……すみません」

 いたわるような津雲の言葉に、飛鳥の父はもう一度頭を下げる。
 そして、顔を上げると、沈鬱な面持ちで津雲に訊ねてきた。

「あの……それで先生、飛鳥は、あの子の記憶は戻るんでしょうか?」
「そうですね。たいていの場合、こういった記憶障害は一両日中、つまり、一晩寝たら回復するものなのです。その次の目安は、1週間前後。この間に記憶が戻らなければ、記憶が戻るまで長引く傾向があります。飛鳥さんはこのタイムリミットもほぼ過ぎようとしています」
「そ、それではあの子は?」
「もちろん、何かのきっかけで記憶を回復する可能性もないわけではありません。しかし、かなり長い時間がかかるかもしれないことを覚悟しておいた方がよろしいでしょう」
「もしかして、このまま記憶が戻らないなんてことは……?」
「ええ。その可能性もゼロではありません」
「く……そんな……」

 飛鳥の父は、唇を噛んで下を向く。
 その拳は固く握られて、肩が小刻みに震えていた。

「希望を捨ててはいけません、お父さん」

 津雲は立ち上がると飛鳥の父に歩み寄り、励ますようにその肩をたたく。

「飛鳥さんの記憶はきっと戻ります。このようなときには、ご家族の方が、必ず記憶が戻ると信じて待つことが大事です。医者の私がこんな非科学的なことを言うのは不適切かもしれませんが、きっと、その想いは飛鳥さんにも伝わるはずですから」
「くっ、ううう……ありがとうございます、先生」

 津雲の言葉に、飛鳥の父は目を潤ませる。

「ほら、もう少し肩の力を抜いてください、お父さん。ずっと気を張っていてはお父さんの方が先にまいってしまいますよ」
「す、すみません……」
「いえ、このような場合にはご家族の方が受けられるショックも相当のものですし、そちらの方のメンタル面でのケアも不可欠なのです。飛鳥さんの記憶はいつ戻るかわかりません。ただ、それがいつのことになるかはわからないとしても、それまでの長い時間を、飛鳥さん本人はもちろん、ご家族の方と、そして私たちと、力を合わせて歩いていく。それも含めて治療だと思っています」
「……ありがとうございます、先生」

 津雲の言葉に、飛鳥の父は目に涙を浮かべて謝辞を述べることしかできない。

「それでは、ちょっとこれから気分を落ち着かせる練習でもしてみましょうか」
「え?」
「この先、飛鳥さんの記憶が戻らないことで不安になったり、心が挫けそうになることがあるかもしれません。そんなときに、飛鳥さんを信じる心を取り戻すための自己コントロール法の練習をしましょう。この方法は、心の動揺を除く効果もありますから、今、飛鳥さんのことで受けたショックを多少は和らげることもできるはずです」
「は、はあ……」

 津雲は、何を始めるのかまだよくわからないといった様子の飛鳥の父の背後に回った
 そして、その両肩に手をかけると、緊張を解すように軽く揉み始める。

「やっぱり、カチカチに凝ってますね。いいですか、心が緊張すると体も強ばります。反対に、張りつめた心を解すには、体の緊張を解すことが効果があるものなのです」
「そうなんですか?」
「ええ。じゃあ、両手を下に降ろしてもらえますか。力を抜いてだらんとぶら下げる感じで。……そうそう、そんな風に。では、肩をいったん上げて、ふっと力を抜いて、両腕をだらん……。そうです、ではもう一度……肩を上げて……力を抜いて。もう一度、今度は力を抜くときに上半身の力を抜くような感じで……そう、そうです。はい、肩を上げて……力を抜いて……。力を抜くときに、大きく息を吐いて……そう、そんな感じです。どうです?気分が落ち着いてきたでしょう」
「……はい、少し」
「では、もっと気分を楽にしましょうか。力を抜いたまま、深呼吸して下さい。大きく吸って……吐いて……。もう一度……そう、もっと楽な感じで……息を吐くときに、ゆっくりと沈んでいくイメージで。はい、吸って……吐いて……そうそう、それを繰り返して下さい」

 飛鳥の父は、だらりと両腕を降ろして静かに深呼吸を繰り返している。
 津雲は、その前に回り込むと、目の前に手を突き出した。

「それでは、深呼吸をしながら楽な気持ちでこの手を見て下さい。息を吸って……吐いて……そーうそう、息を吐くと、心がゆらゆらとして、すごく楽な気分になります。吸って……吐いて……。そうしていると、どんどん気分が楽になって、この手しか見えなくなってきます」
「……はい」

 次第に、津雲の手を見つめる飛鳥の父の表情がぼんやりとしてくる。
 そうやって、深呼吸を何度も繰り返しているうちに、生気のない瞳で津雲の手のひらを見つめるだけになった。
 頃合いと見て、津雲が静かに口を開く。

「いいですか、そこはあなたの心の一番深いところです。そこで聞くことは、あなたにとって何よりも大事なことです。だから、あなたはそこで言われたことを絶対に守ります」
「……はい」
「では、よく聞いて下さい。飛鳥さんを治して記憶を取り戻すことができるのは津雲先生だけです。ですから、あなたは津雲先生の言うことは必ず信じ、その言葉には必ず従います」
「……はい」
「だから、あなたは津雲先生の治療方針に疑いを持ちません」
「……はい」
「では、これから、私がいいと言うまで”私は津雲先生を信じる”と繰り返し言って下さい。繰り返せば繰り返すほど津雲先生への信頼が深まっていきます」
「……はい、私は津雲先生を信じる。私は津雲先生を信じる。私は津雲先生を信じる。私は津雲先生を信じる。私は津雲先生を信じる……」


 飛鳥の父は、ぼそぼそと呟くように津雲に言われた言葉を繰り返し始めた。
 津雲が手を引いても、ぼんやりと前を見たままその言葉を呟き続けている。



 それを確認すると、津雲はカウンセリングルームを出て、すぐ隣の処置室に入る。



「落ち着いて、落ち着いて下さい、朝日奈さん!」
「飛鳥……飛鳥っ……ううっ、ううう……」

 処置室の中では、ベッドに腰掛けて、まだ顔を覆って嗚咽している飛鳥の母を看護士が宥めていた。
 そちらに歩み寄ると、津雲は優しく飛鳥の母の背中をさする。

「うううっ、うっ……ああ、せ、先生っ!あの子はっ、飛鳥はっ!?」

 津雲の姿を認めると、飛鳥の母は縋るようにその腕を掴む。
 そんな彼女に向かって、津雲は静かに頭を横に振る。

「残念ですが、すぐに飛鳥さんの記憶が戻る保証はありません。娘さんが記憶を取り戻すのにはかなりの時間がかかると思われます」
「そ、そんな……ううっ、うううっ!」
「でも、飛鳥さんの記憶は必ず戻ります。母親のあなたがそれを信じてあげなくてどうするんですか」
「うううっ、先生……」
「私も、医者として無責任なことは言いたくありません。たとえ時間はかかっても、飛鳥さんはきっと記憶を取り戻します」
「せ、先生……」
「だから、あなたもそれを信じることです。あなたの想いはきっと飛鳥さんにも伝わるはずですから」
「うううっ、ありがとうございます……でも、やっぱり気持ちの整理が……」
「いいんですよ。娘さんにあんなことがあって平気でいられるはずがありませんから。それに、こういうときは泣くだけ泣いた方がかえって気が晴れるものです」
「すみません……先生……うっ、うううっ!」

 自分に縋り付いてむせび泣く飛鳥の母の背中を優しくさすりながら、津雲は看護士に目配せをする。
 すると、彼女は黙って頷くと処置室を出ていく。

「大丈夫です。飛鳥さんは必ず治りますから、気を楽にして……さあ、肩の力を抜いて……」

 飛鳥の母とふたりだけになった津雲は、その背中をゆっくりと撫でながら、囁くように言葉を続ける。
 そうしていると、次第に飛鳥の母の嗚咽が収まっていく。

「ちょっと、大きく深呼吸してみましょうか」
「はい」
「大きく吸って……吐いて……。そう、気分を楽にしてもう一回……吸って……吐いて……」

 津雲に背中をさすられながら、飛鳥の母は深呼吸を繰り返す。
 もう、しゃくり上げる気配はない。

「どうです?少しは気分が落ち着きましたか」
「はい、だいぶ……」

 暗示にかかりやすい体質なのか、体を起こして津雲を見る飛鳥の母の目は、眠たそうにトロンとしていた。

「それはよかった。では、もう少し心を落ち着かせる練習をしましょうか。飛鳥さんのことを信じ続けていくために」
「……はい」

 津雲の言葉に、飛鳥の母は素直に頷く。





 そして、数分後。

「……私は津雲先生を信じる。私は津雲先生を信じる。私は津雲先生を信じる。私は津雲先生を信じる。私は津雲先生を信じる……」

 飛鳥の父と同じように、同じ言葉を繰り返し呟く飛鳥の母の姿があった。

「さてと、こんなものかな……」

 ぼんやりとした表情で呟く飛鳥の母の姿を見ながら、津雲は相手に聞こえないように小さな声で呟く。

「まったく、複数人に同時に催眠術がかけられるともっと楽なんだがな……それができれば、あのとき結依を失うこともなかったっていうのに……」

 ぼやくように呟く津雲。
 彼はかつて、数人の人間に同時に催眠術をかける研究をしたことがあったが、うまくいかなかった。
 それは、催眠術をかける側の問題ではなく、かけられる側の被暗示性に個人差が大きいことが原因なのでどうしよもうない。
 催眠術にかかりやすい人間とかかりにくい人間を、同じ方法で同時に催眠術にかけることなどはじめから不可能なのだ。
 それさえできれば、あのとき公園で飛鳥と宏平のふたりに同時に催眠術をかけることができたのに。
 やはり、あのとき結依を失ったのが惜しまれて、つい愚痴が出てしまう。

 しかし、失ってしまったものは仕方がない。
 今は、目の前のことに集中しないと。

 津雲は、飛鳥の母に向かって口を開く。

「もうそのくらいでいいでしょう。いいですか、私がこの手を閉じると、今さっき言われたことは、あなたの思いとしてあなたの心にしまい込まれます。それを私に言われたということは忘れて、あなた自身の気持ちになるんです」
「……はい」

 そう言うと、津雲は飛鳥の母の目の前にかざしていた手を閉じる。
 光のない目でその手を見つめたまま、飛鳥の母は身じろぎもしない。

「では、私が手を叩くと、あなたは、飛鳥さんが治ると信じ、とても楽な気持ちで目が覚めます」

 津雲が、パン、と手を叩くと、飛鳥の母の目に生気が戻る。

「気分はいかがですか?」
「……なんだか、すごく楽な気持ちがします」
「そうですか、それはよかった」
「ええ。きっと飛鳥は治ると、先生にお任せしていれば安心だと、そう思います」
「時間はかかるかもしれませんが」
「大丈夫です。私、信じていますから」
「そう、その思いが大事です。では、改めて今後の説明をしたいと思いますので。準備ができたらお呼びしますから、少しここで待っていて下さい」
「はい」

 だいぶ表情の明るくなった飛鳥の母を残して、津雲は処置室を出ていく。






 カウンセリングルームに戻ると、飛鳥の父はまだあの言葉を呟き続けていた。
 津雲は、その前に立つと目の前に手のひらを突き出す。

「もうそのくらいでいいでしょう。では、この手を見て下さい」
「……はい」
「いいですか、私がこの手を閉じると、今さっき言われたことは、あなたの思いとしてあなたの心にしまい込まれます。それを私に言われたということは忘れて、あなた自身の気持ちになるんです」

 そう言って、さっき飛鳥の母にしたのと同じようにその目の前で手を閉じ、拳を握る。

「では、私が起こすと、あなたはとても清々しい気持ちで目が覚めます。いいですか?」
「……はい」
「では、起きてください、朝日奈さん」

 津雲の言葉に、飛鳥の父の瞳に光が戻る。

「さっきから何度も呼んでいたんですが……だいぶ集中しておられたようですね。で、気分はどうですか?」
「……驚いた。本当に楽な気分で、落ち着いて現実を受けとめられます」
「それは、私もやってみた甲斐がありますね」
「全部先生のおかげです。先生にお任せしていれば、飛鳥はきっと大丈夫。そう思うと本当に気が楽になります」
「それは、私もその期待に精一杯お応えしなければいけませんね。では、今後のことをお話ししましょうか。どうやら、お母様の方もだいぶ落ち着かれたみたいですし、こちらにお呼びしましょう」

 

 津雲が看護士に飛鳥の母を呼ぶように言うと、すぐに飛鳥の母が部屋に入ってきた。
 彼女に椅子を勧めて、津雲はカルテと思しきファイルを広げる。
 黙ったまま、確かめるように書類を見ている姿を、飛鳥の父と母は固唾を呑んで見守っていた。



 しばしそうしていた後、ようやく顔を上げて津雲は口を開く。

「では、飛鳥さんの今後の治療方針について説明しようと思います。基本的には、定期的に治療、カウンセリングを行いながら飛鳥さんの記憶が回復するよう努めます。ただ、今の時点では飛鳥さんの記憶がいつ戻るか、はっきりしたことはわかりません」

 津雲の説明に、飛鳥の両親は、やはり、と肩を落とす。

「大丈夫です。飛鳥さんの記憶はいつか必ず戻りますから」
「はい……そうですね」
「それと、記憶が無いとは言っても、飛鳥さん自身は元気です。そこで、リハビリを兼ねて施設に入ってもらうことになるでしょう」
「……施設、ですか?」

 施設に入る、という言葉に、飛鳥の両親はやや不安そうな表情を見せる。

「いえ、施設というよりかは、会社、といった方がいいかもしれません。この病院と提携して、飛鳥さんのように、記憶に障害はあるものの、他には特に異常のない方が、リハビリを兼ねてそこで働きながら社会復帰を目指す場、という感じですかね」
「はあ……」

 説明を受けても、ふたりはまだ、いまいちピンとこない様子だ。

「そこは、経営者がこの病院と縁のある方でして。そこにはすでに飛鳥さんと同じ様な症状の方が何人かいらっしゃいますし、飛鳥さんにとっても働きやすい場所といえるでしょう」
「へえ……そうなんですか?」
「はい。それに、これもお話ししておかなくてはいけないことなのですが、このような場合、治るまでに時間がかかればかかるほど、その治療費がご本人や家族の方の負担になってくるものです」
「それは……そうですね」
「しかし、そこに入っていれば、会社の方から給料も出ますし、後は飛鳥さん次第ですが昇給もします。飛鳥さんがたとえ記憶を失っている状態でも、自分で治療費を賄えるシステムになっています。それに、先ほども言ったように、そこはこの病院と提携しておりまして私の治療も受けやすい体制が整っています。しかも、そこは全寮制ですから飛鳥さんの生活も保証されます」 
「ほう……そんなところがあるんですか」
「病院と提携しているんだったら安心ですよね……」

 津雲の説明を聞きながら、ふたりは感心したように何度も頷く。

「はい。それになにより、そこで働いていれば、飛鳥さんの記憶が戻ったときにも、スムーズに普通の生活に戻ることができるはずです。もちろん、お父さんとお母さんが飛鳥さんにお会いになりたければいつでも会うことはできますし。飛鳥さんはそこで治療を続けながら生活していく、というのが基本方針ですが、それでよろしいでしょうか?」
「いいもなにも、私たちには全てを先生にお任せするしか……ねえ、あなた」
「うん、そうだな。飛鳥を治すことができるのは先生だけなのですから、それが飛鳥のためにいいと先生がおっしゃられるのなら、私たちからは何も言うことはありません。どうか、飛鳥のことを頼みます」

 飛鳥の両親は、一度互いに顔を見合わせると、津雲の方を向いて頭を下げた。

「私の方こそ、飛鳥さんの記憶ができるだけ早く戻るように最前の努力を尽くさせていただきます」
「どうか……どうかお願いします」

 まるで、拝むように何度も何度も頭を下げる飛鳥の母。

「いえ、どうかお顔を上げてください……それと、最後に事務的な話になりますが……」

 そう言うと、津雲はいくつかの書類を取り出す。

「こちらは、この病院への入院の書類です。なにぶん、記憶がない状態でこちらへ運ばれたので、書類上の手続きを飛ばして入院していたものですから。いえ、ここではよくあることなんですが。それと、これは先ほど説明した施設へ入るための資料と書類です。こちらとこちらに記入していただきますね」
「はい」

 津雲からペンを受け取ると、飛鳥の父は書類に必要事項を記入していく。
 普通に考えたら、医師自らが事務処理を行うことは不自然なのだが、飛鳥の両親には津雲のことを疑う様子は全くなかった。

「それと、飛鳥さんに記憶がない状況なので、そちらへの連絡はこの病院から行うことになるかもしれません。そこで、緊急時の連絡先などを教えていただけると有り難いのですが」
「わかりました……これで、いいですか?」
「では、少し、確認させていただきます……」

 記入を終えた書類を飛鳥の父から受け取ると、津雲は丁寧に目を通していく。

「……はい、記入漏れなどはないですね。それでは、この書類はこちらでお預かりします」

 受け取った書類をしまうと、津雲は立ち上がる。

「それでは、もう一度飛鳥さんに会いに行きましょうか」
「ええ?だ、大丈夫なんですか?」
「さっき、だいぶ落ち着いたと報告がありましたので、先ほどのようなことがなければ大丈夫です。それに、あのままで帰るのでは、おふたりとも気が晴れないでしょう。やはり、ここはちゃんと飛鳥さんに挨拶しておくべきです」
「……ありがとうございます、先生」
「さあ、それでは行きましょうか」

 津雲に促されて、ふたりは再び飛鳥の病室へと向かう。





 病室に入ると、ふたりの姿を見て飛鳥は表情を曇らせた。

「飛鳥……」
「……ごめんなさい」
「ええ?飛鳥?」
「あたし、さっきはあんな……ふたりのことがわからなくて……自分のお父さんとお母さんのことがわからないなんて……あたし、あたし……本当にごめんなさい……」

 途切れがちにそう言うと、飛鳥は申し訳なさそうに顔を伏せる。

「いいのよ……私こそ、あなたに無理させて……」

 飛鳥の母が、今にも泣きそうに瞳を潤ませる。
 必死で自分の気持ちを抑えているのか、さっきのように飛鳥に駆け寄ることはしない。

「ごめんなさい……あたし、頑張るから……ふたりのことを思い出すように頑張るから……」

 飛鳥の健気な言葉に堪えきれなくなったのか、飛鳥の母はまた手で顔を覆った。
 声を押し殺して、その方が小さく震えている。
 その隣で、飛鳥の父が、明らかに無理をしているのがわかる笑顔を作って口を開いた。

「うん、でも、無理はするんじゃないぞ。おまえは先生の言うことをちゃんと聞いていればいい」
「……うん」
「それじゃあ、飛鳥、父さんとお母さんは今日はこれで帰るから」
「……うん」

 父の言葉に、神妙な顔で頷く飛鳥。

「飛鳥……また会いに来るからね……」
「……うん……ばいばい、またね」

 別れの挨拶をすると飛鳥は、複雑な表情を浮かべて手を振る。
 飛鳥の両親も小さく手を振ると、名残惜しそうに病室を出ていく。








「……それでは、どうか飛鳥のことをお願いします、先生」

 エントランスまでふたりを送ってきた津雲に向かって、飛鳥の両親はもう一度深々と頭を下げる。

「私も最善の努力を尽くします。さきほども申し上げましたが、飛鳥さんの記憶は必ず戻ると信じることが大切です。おふたりとも、その日を信じて待っていてください」
「……はい」
「それと、飛鳥さんが向こうの施設での生活に慣れたら、必ず連絡先をお教えしますので」
「お願いします……それでは、私たちはこれで」

 津雲に向かってもう一度頭を下げると、飛鳥の両親は止まっていたタクシーに乗り込んだ。
 ふたりの乗った車が見えなくなると、津雲は踵を返して病院の中へと入っていった。

 
 


 

 

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