戻れない、あの夏へ


 

 



第7話 戻れない、あの夏へ




〜23〜





 ――ガシャン!

 フロアに、皿の割れる大きな音が響く。
 ここは、レストラン”メゾン・ドゥ・プッペ”の店内。
 店の入り口には、”準備中”の札が掛けられていた。

 中では現在、新人研修の真っ最中だった。



「もう、食器ぐらいちゃんと運んでよね」
「ご、ごめんなさい、先輩」
「いったいこれで何枚目なのよ。ほら、そっちにも破片が飛んでるわよ」
「は、はいっ」

 ホウキとちりとりを持ってきて、割れた破片を集めているのは、ウェイトレスの制服を着たユイだ。

「掃除が済んだらもう一度最初からやり直しね」
「はいっ、先輩」





 結依に指示を出すと、ミホは隅の席に座って研修の様子を眺めていた津雲の方に歩み寄ってきた。

「もう、こう毎日食器を割られたら堪らないですよ。……”チャイム”で働いていたときはもうちょっとましな動きをしてたんですけどねぇ、あの子」
「いや、あそこまで不器用だったとは僕も思わなかったよ。あの店ではテキパキ働いていたから、てっきり手際がいいものだと思ってたんだけどね」
「やっぱり、あの子の記憶を消しちゃったのはまずかったんじゃないですか、社長?」
「いや、あいつをこっち側に連れて来るには過去の記憶なにかと邪魔だだったからね。まあ、頑張って仕込んでくれよ、おまえの専門だろ」
「もう、社長ったら……それはたしかに私は元インストラクターですけど、ジャンルが違いますよ」
「まあそう言うなって」

 呆れ顔でぼやくミホを、苦笑しながら津雲が宥める。

 ”チャイム”では、長年働いてきた慣れで手際よく仕事をなしていたものの、バイトを始めたばかりの頃の結依は、いつもドジばかりでしょっちゅうカップを割っていたことを、津雲もミホも知るはずがなかった。

「それと、社長」
「ん?なんだ?」
「昨夜、社長に言われたとおりあの子の部屋に行ってきました」
「で、わかったか?」
「はい。実家から届いた郵便がありましたから。椙森なんて名字、そうはないですからね」
「それで」
「あの子の実家、岐阜みたいですね」
「岐阜か、遠いな」
「で、早速例のあれをやるんですか?」
「いや、”チャイム”の方は片が付いてるし、まだしばらくは大丈夫だろう」
「そうですね……」



 津雲とミホが、声をひそめて話していた、その時。




 ――ガシャン!

「もうっ、またぁ?」

 再び皿の割れる音が響き、ミホはため息をつくとユイの方に駆け寄っていく。

 だが、ミホに叱られて頭を下げているユイを眺めている津雲の表情は、どこか楽しそうだった。





〜24〜






 いったい、どこに行ってしまったのよ、結依。
 ……とにかく、あの津雲っていう男さえ見つかればっ!

 夕暮れ時、飛鳥は商業地区の周辺を歩き回っていた。
 それが、このところ、仕事終わりの彼女の日課になっていた。
 宏平の前から結依が姿を消してから、もう3週間が経つ。
 その間、飛鳥はこうやって結依と、そして、あの津雲とかいう男の手がかりを探し続けていた。

 ここ2、3日、宏平は飛鳥の前では元気そうに振る舞っている。
 だが、長年のつき合いのせいで、宏平が無理をしているのが手に取るようにわかる自分が恨めしかった。
 それに、宏平が辛い思いをしていても、自分ではどうすることもできないことが歯痒かった。
 宏平に笑顔を取り戻すためには、結依を取り戻すしかない。
 だから、飛鳥には、こうやって結依の手がかりを探すことしかできなかった。





 たしか……この辺りであの男を見かけたっていう話が多いんだけど……。

 あの男の目撃情報を手がかりに、飛鳥が商業地区の外れにある通りに入り込んだ時のこと。

「……あれはっ!?」

 1階に輸入ブランド店が入っているビルから出てきたふたりの人影。
 スーツを着た、背の高い、がっしりした男と、その男に寄り添うようにして歩いていく小柄な女性。

「……結依!」

 後ろ姿でも、飛鳥がその相手を見間違えるはずはなかった。
 ずっと心配していた、そして、ずっと探していた親友の姿がそこにあった。

 早く、宏平に知らせないと。

 ふたりの後ろ姿を見失わないように慎重に後をつけながら、飛鳥は携帯を取りだしていた。





* * *






「どうなっちまったんだよ、結依……」

 夕方、薄暗くなった中、灯りも点けずに宏平は膝を抱えてうずくまっていた。
 目の前には、結依の誕生日に渡すはずだったネックレスの入った小さな包みが、装飾のリボンもそのままに置いてあった。

 もう、結依の誕生日はとうの昔に過ぎてしまった。
 だが、宏平には、その、渡すことができなかった誕生日プレゼントだけが、自分と結依を繋ぎ止める儚い糸のように思えた。

 飛鳥が、結依の手がかりを探して奔走していることは宏平も知っていた。
 本当は、自分こそがそうしなければならないことも。

 しかし……。

 落ち込んでいないといえば嘘になる。
 だが、結依があの男と一緒に姿を消した直後ほどではない。
 正確に言うと、宏平はまだ現実を直視できないでいた。

「結依……」

 プレゼントの小さな包みを手に取って、ぼそりと結依の名前を呟く。

(「じゃあね、宏平。もう、私の前に姿を見せないで」)

 最後に会ったときの結依の言葉が胸につかえたままになっていた。
 その言葉、そして、あの時の態度、どれをとっても結依のものとは思えない。
 それに、すぐに好きな男ができるというのも……。
 宏平の知る結依は、ほんの1日2日で好きな男を作るほどに尻が軽い女ではなかった。
 自分とつき合っていながら、別な男と二股をかけていたなどいうのはもっと考えられなかった。
 だから、あの時、結依が男とふたりで姿を現したことはあまりに現実離れしていた。

 しかし、あの日から結依が姿を消してしまったのも事実。

 やっぱり、飛鳥の言ったとおり、あの男が結依に……。

 どう考えても、結依が簡単に心変わりしたとは思えない。
 だったら、飛鳥が言うように、あの男がなにかしたのかもしれない。

「……くぅっ!あの……あの男が!」

 結依と一緒に現れた、あの、髭面の男の姿を思い出して、床に拳を叩きつける。

 あいつがっ!あの男が、結依になにかしたのか!?

 飛鳥は、あの男が結依におかしなクスリかなんか飲ませたのだと言って騒いでいた。
 だいぶ前に、テレビで見た洗脳騒動の話なども宏平の頭をよぎる。
 
 ……結依を…結依を助けないと。

 拳を床に押しつけたまま食いしばった歯が、ぎりり、と鳴る。

 そうだよっ!こうしていられるか!俺もっ、俺も結依を探さないと!



 そう心を決めると、プレゼントの包みをポケットにねじ込んで宏平は立ち上がった。
 と、その時。



 携帯が鳴った。
 見ると、飛鳥からだった。

「……俺だけど、何?」
「宏平!結依を見つけたわよ!」
「結依をっ!?どこだっ!?」
「大崎通りの3丁目あたり!すぐに来てっ!あの男も一緒よ!」
「あいつも!?わかった!すぐ行くっ!」
「とりあえず大崎通りの方まで来てっ!詳しい場所はまた電話するから!」
「わかった!」

 通話を切って部屋を出ようとした宏平の視線が、キッチンのラックに収まっている果物ナイフを捉えた。 
 男の一人暮らしには不似合いな、可愛らしいデザインの鞘に入った華奢なナイフ。
 結依のお気に入りで、宏平の家で料理を作った後に、よく食後のフルーツをそれで切っていた。

 さっきの飛鳥の電話。
 結依と一緒に、あの男もいると言っていた。
 いや、それは予想できたことだ。

 絶対に……絶対にあの男から結依を取り戻してやる!
 もしもの時は腕ずくでも……。

 宏平は果物ナイフを手にすると、ジャケットの内側に隠すように仕舞い込んで部屋を出ていった。





〜25〜






「宏平!こっちこっち!」

 宏平が飛鳥と合流した場所は、商業地区からは外れ、住宅地の多いエリアにさしかかってきた辺りだった。
 マンションや一戸建てが並ぶ路地の交差点で、陰に隠れるようにして飛鳥が手を振っていた。

「結依はどこにっ!?」
「ほら、あそこ」

 息せき切って駆け寄ってきた宏平に、飛鳥はそっと頭を出して指を差す。
 その指の先、路地の向こう側を歩いていくふたりの人影。
 その、背の低い方……少しウェーブのかかった淡い色の髪、トコトコと狭い歩幅で、慌てるように男のペースについていこうとするその歩き方。
 間違いない、いや、その相手を宏平が見間違えるはずがなかった。

「結依!」
「ちょっと、宏平!」

 飛鳥が止めるのも聞かずに、宏平は前を行くふたりに向かって駆け出していく。



「結依!」

 ふたりに近づいてもう一度大声で呼んで、やっと結依がこっちに振り向いた。
 しかし、結依はきょとんとした顔で宏平を見ると、不思議そうに首を傾げる。

「なんだ、またきみか?」

 その代わりに、一緒にいた津雲とかいうあの男が、結依を背後に庇うように一歩進み出て口を開いた。

「あんたじゃない!俺は結依と話をしに来たんだ!」
「ユイはきみと話すことはないと思うがね」
「そんなことっ!おまえが決めることじゃないだろうが!」
「ちょっと、宏平……」

 やっと追いついてきた飛鳥が、少し落ち着けと言わんばかりに興奮している宏平の腕を引く。
 男が、そんな飛鳥の方をちらりと一瞥して、ふん、と鼻を鳴らしたように思えた。
 だが、すぐに宏平の方に向き直る。

「きみもしつこい男だね。道端だと他の人の迷惑になるじゃないか。……そうだな、あそこの公園で話を聞こうじゃないか」

 そう言って、少し先にある公園を指さすと、男は結依の肩を抱いてその方向に歩いていく。
 結依は、何も言わずにおとなしく男に従っていた。

 やむなく、宏平と飛鳥もその後についていく。

 ふたりとも、さっきから結依の妙によそよそしい態度に違和感を感じていた。
 いや、それはよそよそしいというよりも、まるで初めて会う相手を見るかのようだったからだ。





* * *






「さてと、で、今日は何をしにきたんだい?」

 街中にしてはかなり大きめの公園の中を少し歩いて、ようやく男が振り向いた。
 夏とはいえ、もう、完全に日の暮れたこの時間帯の公園の中、特に、木々と植え込みの間を縫う遊歩道には、他に人影はまったく見られなかった。

「あんたに用があるんじゃないと言っただろう!俺は、結依と話をしに来たんだ!なあ、結依!俺の話を聞いてくれ!」

 男には目もくれず、真っ直ぐに結依を見つめて宏平は話しかける。

 だが、結依が首を傾げながら返してきた返事は予想外のものだった。

「あの……どちら様でしょうか?」
「なっ、結依!?」
「ちょっと、なに言っているのよ、結依!?」

 一瞬、宏平と飛鳥には結依の言っている言葉の意味が理解できなかった。
 結依は、ふたりの顔を交互に眺めて、また首を傾げる。

「私、あなた方とどこかでお会いしましたか?」
「なに言ってるんだよ、俺だよ、俺!」
「本当に、あたしのことがわからないの、結依?」
「はい。おふたりとは今日初めてお会いします」
「そ、そんな……」

 予想だにしなかった結依の態度に言葉が出ない宏平と飛鳥。
 そのまま、ふたりとも茫然とした表情で、首を傾げている結依を見つめている。
 だが、飛鳥がほんの少し早く我に返ると、結依のかたわらに立つ男を睨み付けた。

「あんた!あんたが結依をこんなにしたのね!いったい、この子になにをしたのよ!?」
「なんだ、元気のいいお嬢さんだな。それに、僕がなにかしたなんて、ご挨拶だね」

 自分を睨みながら声を荒げる飛鳥を、男は軽くいなす。

「ふざけないでっ!あんたが結依をっ!」
「社長は、私に何もしていません」

 凄まじい剣幕で男に食ってかかろうとする飛鳥の間に割って入ったのは、結依だった。

「え、結依?それに、社長って……?」
「はい、社長です。私は社長のところで働いているんですから」
「馬鹿なことを言わないでよ!あんたは”チャイム”で働いていたでしょう!?」
「”チャイム”……?どこですか、それは?」
「そんなっ!学生時代にはあたしと一緒にバイトしてたじゃないの!?」
「申し訳ありませんが、人違いではないのですか?」
「なに言ってるの!?あんたとあたしは大学で同じサークルだったじゃないの!」
「でも、私はあなたのことを知らないんです」

 大学に通っていた頃、飛鳥はいつも結依と一緒にいた。
 宏平には敵わないだろうが、自分は結依のことを誰よりもよく知っている。
 いや、女の子同士でしか話せないこともあるから、宏平よりも彼女のことをわかっている自信があった。
 それなのに、結依と飛鳥の会話はまったく噛み合わない。

「そんなっ!……本当にあたしのことを覚えていないの?」

 感情の高ぶりに、飛鳥の目から涙が流れ落ちてくる。
 だが、結依は困ったような顔で頭を下げるだけだった。

「すみません。本当は、昔のこと、よく覚えてないんです。ですから、もし、本当にあなたと会ったことがあるのでしたら申し訳ないとは思います」
「結依……あなた……」

 丁寧で、すまなそうな口調だが、他人行儀な態度で結依は何度も頭を下げる。
 だが、次の瞬間、毅然と頭を上げてきっぱりと言った。

「でも、私はずっと前から社長にお仕えしていたんです。いままで、そのために生きてきたんです」
「そんなはずはないわっ!」
「いいえ、間違いありません」
「そ、そんな……」

 自信たっぷりに言い切られて、飛鳥は絶句する。
 胸を張ってそう言った結依の表情が、これまで飛鳥が見たことのないものだったからだ。
 一瞬、自分の目の前にいるのが本当に結依なのか疑いたくなるほどに。




 結依と飛鳥のやり取りを聞いていて、信じられない思いなのは宏平も同じだった。
 その姿は、自分のよく知る結依そのままなのに、自分のことも飛鳥のことも全くわからない様子だ。

 いや……。
 さっき結依は、昔のことをよく覚えていないと言っていた。
 記憶喪失、という言葉が宏平の頭に浮かんだ。
 だから、自分たちのことを覚えていない。
 しかし、だったら、なぜ今この男と一緒にいる?

 答えはひとつしかない。

 この男に何かされて、自分たちのことを忘れさせられた。
 簡単には信じられないがそうとしか考えられない。

 でも、忘れたことなら、思い出させることができるかもしれない。
 結依の心に強く訴えることさえできれば。




「飛鳥……今度は俺がやってみる」
「宏平……」

 飛鳥の肩に手をかけると、後ろに下がらせる。
 涙で濡れた顔で何か言いたそうな様子だったが、宏平の思い詰めた表情を見て飛鳥はおとなしく宏平の背後に回った。

 実際、宏平ははらわたが煮えくり返りそうな思いだった。
 目の前の結依の姿を見れば、何かされたことは明らかなのに、当の本人がそれを自覚していない。

 それでも、なんとか冷静を装って低い声で訊ねる。

「結依、本当に、飛鳥のことを覚えていないのか?」
「はい」
「俺のことも誰だかわからないのか?」
「はい」
「そうやって、昔のことを覚えていないことが、自分が何かされた証拠だと思わないのか?」
「さあ、それはよくわかりません。でも、社長のことはよく覚えていますし」
「そうやって、この男のことしか覚えていないのは不自然だとは思わないか?」
「でも、私がずっと社長にお仕えしてきたことは事実ですし、むしろ当然のことだと思います」
「おまえは、他のことを覚えていないのをおかしいと思わないのか?自分がそういう風にさせられたんだとは思わないのか?」
「それがなにか問題でもあるんですか?」
「そんなっ!自分の記憶が変えられたとしても何とも思わないのか!?」
「でも、社長はとてもよくして下さいますし、私にはそれで充分です」

 なにも覚えていない、今の自分が置かれた状況が不自然だということをわからせようとしても、結依には全然伝わらない。
 それどころか、宏平の問いかけに結依はいったいなにが悪いのかと言わんばかりに首を傾げている。

 どうしたら、結依に思い出させることができる?
 どうしたら……。

 苛立ち混じりにポケットに手を入れた宏平の手に、小さな包みが当たった。

「そうだっ、これ!」

 少しひしゃげた包みをポケットから取りだして、結依の前に差し出す。

「これ、おまえへの誕生日プレゼントだよ。あの日、仕事の後にプレゼントを買おうと思って、でも、なにを買うか決めてなかったから遅くなるってメールして、飛鳥に相談しようと思って。もしかして、あの時、俺が飛鳥とふたりでいたところを見てたんじゃないのか?おまえはなんか勘違いしてたみたいだけど、これを買うためだったんだよ。ほら、おまえあんなに怒ってたじゃないか!」

 なんとか結依の記憶を取り戻そうと、縋る思いでまくしたてる。
 飛鳥と幸せに、という結依からのメールの意味があのときはわからなかったが、あの直前に宏平が飛鳥と会ったのその時しかない。
 もしかしたら、結依がその時のことを誤解してあんなことになったんじゃないかと思い当たった。
 だったら、その時の怒りでもいいから思い出してくれれば、それが、記憶を取り戻すきっかけにさえなってくれたら、今からでも誤解を解くことはできる。
 手の中の、くしゃくしゃの包みに、自分と結依を繋ぐわずかな望みを託した。

「なんのことですか?」

 だが、宏平の願いも虚しく首を傾げる結依。

「怒るもなにも、私、あなたと会ったことありませんし、そもそも、あなたに誕生日プレゼントをもらう理由がありませんから」
「……ゆ、結依」

 結依の反応は、あまりにも素っ気なかった。
 結局、そのプレゼントが自分と結依を繋ぐ糸だと思っていたのは、宏平の一方的な思いこみに過ぎなかった。




「どうだい、これでわかっただろう?」

 肩を落としている宏平に、男が声をかけてきた。
 嫌味な感じはしない、なにか、諭すような口調で。
 だが、それが余計に気味が悪い。

「あんたには用がないって言ってるだろうが!」
「でも、彼女はきみのことは知らないと言ってるんだから、今はこれ以上話をしても埒があかないんじゃないか」
「だからってあんたと話すこともないね!」
「ふむ、それはどうだろうね?まあ、たしかに今の彼女は普通の状態じゃないけど……」
「なんだって?それはいったいどういうことだよ?」
「そうだな……ちょっとふたりだけで話をしないか?彼女たちはここで待たせておいて」
「何をするつもりなんだ?」
「いや、彼女になにがあったのか、本当のことを教えてあげようと思ってね」

 思わせぶりにそう言うと、男が顎をしゃくって植え込みの向こうを指す。

 いったいなんのつもりだ?
 本当のことって、こいつがなにかしたんじゃないのか?
 いったいなにがあるって言うんだ?

 男の口調が妙に柔らかいのが、宏平を戸惑わせる。
 結依がこうなった原因はこの男にあるとしか考えられないのに。

 俺を言いくるめるつもりか、それとも、脅そうとでも言うのか?
 いや、それならそれで……。

 宏平は、ジャケットの内側に忍ばせたナイフをそっと握る。

 相手の意図はわからないが、これが突破口になるかもしれない。
 そう思って宏平は一歩踏み出そうとした。



「だめよ!宏平!」



 飛鳥が、大声で宏平を呼び止めた。

「飛鳥?」
「その男と一緒に行っちゃだめ!なんか、嫌な予感がするの!」

 この男と宏平をふたりきりにしたらいけない。
 直感的に飛鳥はそう感じていた。

 たしかに飛鳥も、男が宏平とふたりで話をしているのなら、その間に結依を連れて逃げることができるかも、とは考えないわけではなかった。
 だが、それ以上に男の雰囲気に危険を感じていた。

「だいいち、ふたりだけで話をするなんておかしいわ!あたしだって本当のことを知る権利はあるはずよ!」
「そうだね、じゃあ、きみには彼の後に話すとするよ」
「どうしてひとりずつじゃないといけないのよ?今ここで話をしたらいいじゃないの!そうよね、宏平!」
「あ、ああ、そうだな」

 冷静に考えたらその通りだ。
 この場にいるのは4人。
 わざわざ、宏平だけに話をする必然性はない。
 当の結依に聞かれたらまずいという話ならともかく。

「まったく、しかたがないな」

 そう言った男が、忌々しげに小さく舌打ちしたように思えた。

 その一瞬、飛鳥を睨んだ男の射るような冷たい視線。
 その時の、全身の毛が逆立つような嫌悪感と言いしれぬ恐怖に飛鳥の足が竦む。


 やっぱりこの男は危険よ。


 そう警告を発しようとする前に、男の方が口を開いた。

「じゃあ、本当のことを教えてあげよう、ユイ自身の口からね。……さあ、ユイ、僕にしてもらってることがどんなに素晴らしいか言ってやるんだ」
「はい。社長は私を愛してくださっています。社長とのセックスは本当に気持ちよくて、私、とっても幸せで……」

 男と自分を交互に眺めながら結依が口にした言葉に、宏平は耳を疑う。
 それに、自分を見るときの表情とは違って、男を見るときにはうっとりした表情すら浮かべている。

「な、なにを言ってるんだ、結依!?」
「私のことを軽々しくユイと呼ばないでください。私のことをそう呼べるのは社長だけなんですから」

 そう言って、結依は男の腕をしっかりと掴む。

「社長のおちんちんは、本当に逞しくて。私、お口でしゃぶるのも大好きなんですよ」
「ちょっと、なに言ってるのよ、結依!」

 愕然として飛鳥が悲鳴を上げる。
 そんなことを結依が口にするなんて、飛鳥には到底信じられない。

 だが、飛鳥に構うことなく結依は言葉を続ける。

「そして、社長のおちんちんがアソコの中を抉ってくるときの気持ちよさといったら、熱くて固くて、私の中が社長でいっぱいになって……」

 宏平も飛鳥も見たことがない、いやらしい笑みを浮かべながら、結依は男とのセックスがいかに気持ちいいか語り続ける。

 とても聞くに耐えない話に、途中から飛鳥は耳を塞いでいた。



 そして、宏平は……。



「……もういい、黙れ」

 低く、呟くような宏平の声が結依の話を遮った。

 ふつふつと滾る怒りが爆発寸前で、憤りのあまり、さっきから耳の奥で、キーン、と耳鳴りがしていた。
 
 どう見ても今の結依は普通ではない。
 一刻も早く、この男の手から救い出さなければならない。

 宏平は、結依に歩み寄るとその腕を掴む。

「おまえが本当の自分を取り戻せば全部はっきりするんだ、結依!」
「きゃあ!何をするんですか!?」

 いきなり腕を掴まれて、結依が悲鳴を上げた。
 そのまま腕を引っ張って、宏平は結依を連れていこうとする。

「病院へ行こう、結依!おまえの記憶を取り戻すんだ!それと、警察に行ってこの男をっ!」
「いやっ!やめて下さい!いやあああっ!たすけてっ、社長!」
「あっ!おいっ、結依!」

 激しく暴れて宏平の手を振りほどくと、結依が男の方に駆けていく。
 そして、その背後に逃げ込んだ。
 そのまま、男の陰からおそるおそる顔を出してこちらの様子を窺っている。


 自分の恋人が、違う男の後ろから怯えた視線を自分に向けている。
 そして、自分を見下すような、勝ち誇った男の表情。

 そして、男が嘲るような笑みを浮かべて口を開いた。

「ふん、だから言っただろう、ユイはもう僕のものだって」





 その瞬間、宏平の怒りが沸点に達した。





「貴様ああああああっ!」

 激昂に前後の見境を失って、宏平は男の方に駆け出していた。
 走りながら、隠し持っていた果物ナイフを取り出す。

「あっ!だめっ、宏平!」
「ああっ、社長!」

 飛鳥と結依の、それぞれの悲鳴が交錯する。



 宏平がナイフを手に、体ごと男にぶつかろうかという瞬間。



「……あああっ!ぐふっ!」
「……なっ!?ゆ、結依!?」


 宏平の突き出したナイフは、間に割って入ってきた結依の腹に深々と突き刺さっていた。
 結依の表情が痛みに歪み、着ている白いブラウスに、みるみる赤い染みが広がっていく。



「そ、そんなっ……」



 予想もしていなかったことに茫然とする宏平。
 その一瞬、ナイフを握っている宏平の力が緩んだ。

 と、次の瞬間、自分の手からナイフを奪われたかと思うと、腹に鈍い衝撃を感じた。
 次いで、腹のあたりが灼けるように熱くなった。

 自分に起きたことが理解できずに宏平は下を向く。
 そこには、宏平の手からナイフを奪い取った結依が、自分の体ごと預けるようにしてナイフを突き立ててきていた。

「そんな……結依……どうして……?」

 なぜ、結依が自分の体にナイフを突き立てているのか、なぜ、そんなことになったのか、全く理解できない。

 だが、宏平の言葉に、結依からの返事は返ってこなかった。
 黙ったまま、その小さな体の全体重をかけて押し込むようにして、宏平の腹から胸にかけて深く抉る。

 不思議と、痛みは感じなかった。
 ただ、ナイフの刺さったところが灼けるように熱く、はらわたをかき回されるような異様な感覚がしていた。

 自分にぐいぐいと体を押しつけてくる結依を振り払おうとして、宏平はその体に手をかける。
 だが、その時自分の腕に伝わってきた、柔らかで暖かい感触。
 それは、小柄な結依の体を抱きしめる時にいつも感じていたもの。
 ついこの間までごく当たり前のことだった感覚。

 無意識のうちに、宏平は結依の背中に手を回して抱きしめていた。

「ああ……ゆ、結依。……くっ、ぐふっ!」

 愛おしそうに、結依の名前を呼んだ宏平。
 だが、結依はそれにも答えることなく、もう一度体を突き上げてきた。
 喉の奥から、熱いものがこみ上げてくるのを宏平は感じた。

 それでも、宏平は結依の名を呼び続ける。

「結依……ごぼっ!……結依!」

 意識が混濁して、もう、周りの風景が霞んできていた。
 ただ、結依のことだけははっきりとわかる。
 感覚が麻痺して、痛みも苦しみも感じない。
 むしろ、結依と抱き合っているように錯覚して、幸せな思いすらしていた。

 宏平は、結依を抱く手に力を込める。



 しかし、結依はもう、自分のことを見ていなかった。
 宏平の腕越しに、結依が向けたその視線の先にいるのは……。



「……逃げて……逃げて…ください……社長。……ごほっ!」

 最後に、男に顔を向かって弱々しくそう言った結依の口から、血が溢れてくる。
 そして、ナイフを宏平に突き立てたまま倒れ込んできた。

 宏平もそのまま押し倒される。
 もう、全身が痺れて力が入らなかった。
 そのまま、周囲の景色がどんどん暗くなって、意識が遠のいていく。

 だが、宏平は、まるで、夢の中にいるような気がしていた。
 ただ、結依を抱きしめている幸せだけを感じていた。
 それさえも次第に薄れていき、そして、全てが真っ暗になった。




 自分に覆いかぶさるように倒れてきた結依を抱いたまま、仰向けに倒れている宏平。
 その、見開いた瞳は虚ろで、もう、なにも映していなかった。















 目の前で起きた、その、突然の惨劇に、飛鳥はなにもできなかった。

「ちょっと……宏平……結依……」

 折り重なって倒れ込んだふたりに、茫然としたまま、よろよろと歩み寄る。
 その顔は、たった今自分の目の前で起きたことが信じられないといった様子だ。



「ねえっ!宏平!結依!」



 だが、ようやく我に返ったようにはっとした表情を浮かべると、次の瞬間、しゃがみ込んで激しくふたりの体を揺さぶる。

「ねえっ、起きてよ!起きてったら!宏平!ねえ、宏平!結依もっ、返事をしてよっ、結依!」

 何度も何度もその名を呼びながら、体を揺するが、もう、宏平も結依もピクリとも動かない。

「宏平っ!宏平ったら!ねえ、結依っ!起きてよっ、結依!」

 夥しい血が赤い水溜まりを作る中で横たわった親友の名を、飛鳥は呼び続けていた。
 しかし、ふたりの目が開くことは、もう、なかった。

「どうして……?どうしてこんなことになったの?なんであんたたちがこんな……」

 目の前の状況をようやく理解した飛鳥の目から、ぼろぼろと涙が溢れてくる。

「うそ……こんなの嘘よ……だって、宏平と結依が、そんな……」

 それでも、その現実を受け入れられないでいる自分がいた。




 と、その時。




「まったく。すっかり計画が狂ってしまったじゃないか」

 不意に頭上から降ってきた声。
 だが、飛鳥はその言葉を聞き逃さなかった。

「計画?計画ですってっ!?」

 きっ、とその声の主を睨み付ける。
 だが、相手は事も無げな表情で飛鳥を見下ろしていた。

「ユイみたいな可愛らしいタイプが欲しかったのに、台無しだな」
「なっ、なにを言ってるのよ、あんた!?」
「この男が余計なことをしなければこんなことにはならなかったんだけどねぇ」
「ふざけないで!あんたでしょ!結依も宏平もあんたがっ!あんたさえいなければこんなことにはっ!」

 激昂して、相手を睨み殺そうかという形相で怒鳴る飛鳥。
 だが、その男は平然として、言葉ほどに残念そうな素振りも見せていない。
 それどころか、舐め回すように飛鳥を見ている。

「だいいち、きみも悪いんだよ。あの時、この男と僕をふたりだけにしていればこんなことにはならなかったっていうのに」
「あんた、なに言ってるのよ……?」
「うん、でも、ユイとはタイプが違うけど、きみも素材はいいじゃないか。……そうだな、今回はきみの体で償ってもらうことにするか」
「なに言ってるの?素材って……それに、あたしの体で償うって……?」

 背筋に寒いものを感じた飛鳥が、立ち上がって後ずさろうとした。

「きゃっ!?」

 いきなり、目の前に手のひらを突き出されて飛鳥は悲鳴を上げる。

 だが、一瞬のことで、思わずその手に注意を取られた。
 そこに、すかさず男が鋭く言い放った。

「ほら、きみはもうこの手から目を逸らすことができない!」
「な、なにをっ!?」

 言葉の勢いに気圧されて、目の前の手のひらを見つめてしまう飛鳥。
 男は、間髪を入れずに言葉を続ける。

「ほら、この手を見つめるんだ。この手を見つめていると、きみは体を動かせなくなる」
「なにを言ってるのよっ……ええっ!?体がっ、動かない!?」

 男の手のひらを見つめながら、自分の体が動かなくなっていることに飛鳥は気づく。

「い、いやっ、なんでっ!?どうしてこんなっ!?」

 なんとか体を動かそうとしてもがく飛鳥。
 だが、恐怖と動揺で大きく見開かれた目は、男の手をじっと見つめたままだ。

 本当は、体が動かないのではなくて、手を見つめることに意識が集中しすぎて、能動的に動くことができなくなっているだけ。
 ひとつのものに集中させて意識水準を低下させる、催眠術の基礎なのだが、そんなことが飛鳥にわかるはずがなかった。
 最初に、飛鳥が男の手を見つめてしまった時点で勝負は決まっていた。
 それだけ、相手のタイミングが絶妙だったということなのだが。

「さあ、もうきみは僕の言うとおりにすることしかできない」
「なっ、なにを馬鹿なことをいってるのよ!」
「でも、その証拠にきみは体を動かすことができないだろ?」
「こっ、こんなことがっ!」

 飛鳥は、男の言葉にいちいち反論しながらあがこうとするが、男の手を見つめて突っ立っていることしかできない。

「ほら、だんだん楽になって、体の力が抜けていく。ほーら、体に力が入らない。すーっと力が抜けていく」
「……きゃ!?」

 腰が抜けたように足に力が入らなくなって、飛鳥はその場に尻餅をつく。
 それでも、視線は男の手を追って離さない。

「ほーら、もう全身に力が入らない。しゃべるのも億劫になってくるよ」
「あ……ああ……」

 男の手を見つめたまま、飛鳥の顔が恐怖にひきつる。
 声を出したくても、口がうまく動かない。

「ほら、体から力が抜けて、ものすごく楽だろう?……気持ちもどんどん楽になってくる」
「ああ……い、いや……」

 そんなわけない、この男のいいなりになんて……でも……あ、ああ……なんで……こんな気分に……。

 どことなく、ほわんとした気分になってきてたことに、飛鳥は戸惑いを隠せない。

「ほーら、どんどん気分が楽になって、僕の声を聞いているととても気持ちよくなってくるよ」

 そんな……この男のせいで結依と宏平は……いや……だめ……この声を聞いたらだめ……でも……。

 飛鳥の表情が、少し緩んできたように見えた。
 ぽかんと口を半開きにして男の手を見つめている。

 なんでこんな……そうだわ……きっとこれは夢なんだわ……今、こうしてるのも……そう、結依と宏平のことも……。
 そう……あんなの全部うそ……全部悪い夢なのよ……。

 弛緩した意識の片隅で、さっきの惨劇から目を逸らし、現実から逃避しようとする自分が頭をもたげていた。
 この悪夢から逃れられるなら、なんでもいいからすがりつきたかった。

 だが、次の瞬間、フラッシュバックのように血塗れで倒れている宏平と結依の姿が浮かび上ってきた。

 ひっ、いやっ、こんなの見せないでっ!
 そ、そうよっ、これは、夢よ……きっと、目が覚めたら、何もなかったみたいに宏平と結依はつき合っていて……。
 いや、夢じゃない……しっかりしないと……だって、ふたりは、あの男に……え?あの男って誰?

 現実から逃げようとする自分と、現実を直視しなくてはいけないと思う自分との間の葛藤。

 いや……もう見せないで……。
 もう、こんなの見たくない……誰か、誰か助けて……。

 だが、次第に逃避しようとする心が優勢になっていく。

 そこに、その声がすっと忍び込んでくる。

「ほーら、僕の声を聞いているととても気持ちいい。どんどん気分が軽くなって、楽になってくる」

 この声……とっても気持ちいい……。
 だめよ……しっかりしなさい……この男は結依と宏平の……でも……だめ……気持ち……いい。

 男の手を見つめる飛鳥の目尻が緩み、トロンとした表情になっていく。

「ほら、気持ちいいだろう?僕の声がすうっと入ってきて、すごく楽な気持ちになるよ」

 ああ……この声……頭の中に…溶け込んでくるみたい。
 だめ……聞いたらだめなのに……逆らえない。
 結依……宏平……ごめん。
 あたし……もう…だめ……。

 一瞬、結依と宏平の笑顔が顔に浮かんだように思えた。
 だが、それもすぐにすうっと消えていく。

「さあ、僕の声を聞いてるととても気持ちよくて、他のことは考えられなくなっていく」

 ああ……気持ちいい……ちがう……あたしには大切なことが……でも、なんだったっけ?
 だめ、思い出せない……もう、どうでもいい……なにも……なにも考えられない……。

 なんか、悪い夢を見ていたような気がするけど……きっと……気のせい……。
 だって、こんなに気持ちいい……もう……全部忘れて……。
 ああ、本当に……この声を聞いていると……とっても気持ちいい……。

「ほら、僕の声を聞いていると気持ちいい。もっと気持ちよくなりたいから、もっと僕の声を聞いていたい」

 気持ちいい……もっとこの声を聞いていたい……もっと気持ちよくなりたい……。

 もう、飛鳥の顔はすっかり蕩け、うっとりとした表情を浮かべて男の手を見つめていた。

「もう、きみには僕の言葉しか聞こえない。でも、それでいいんだ。僕の言葉を聞いていれば、きみはもっと持ちよくなれる。きみは僕の言うことだけを聞いていればいいんだ」

 この人の言葉を聞いていれば……あたしは気持ちよくなれる……この人の言うことだけ聞いていれば……。

「さあ、返事をしてごらん。もっと気持ちよくなりたいかい」
「……はい」
「もっと僕の声を聞いていたいかい?」
「……はい」
「じゃあ、僕のものになるんだ。そうなれば、きみは、もっと僕の言葉を聞くことができる。きみはいっぱい気持ちよくなれるんだ」

 この人のものになると……もっと声を聞いていられる……もっと気持ちよくなれる……。
 なりたい……あたし、この人のものになりたい……もっともっと気持ちよくなりたい……。

「どうだい?僕のものになりたいかい?」
「……はい」

 飛鳥は、トロンとした笑みを浮かべて微笑む。
 その視線は、男の手を見つめたまま。
 もはや、その視界には、すぐ近くで横たわる結依の姿も宏平の姿も入っていない。それどころか、その意識の片隅にすらふたりのことは残っていなかった。

「よし。じゃあ、この手をよく見るんだ。僕がこの手を閉じたら、きみは僕のものになる。僕の言葉しか聞こえないし。僕の言うことには必ず従うようになる」

 なりたい……早くあなたのものになりたい。
 あなたの言葉だけ聞くから……あなたの言うことは絶対聞くから……。

「……はい。……あなたのものに…なりたいです」
「うん。いい子だ。じゃあ、手を閉じるよ。そうしたら、きみの意識も閉じて、僕のものになる」
「……はい」

 うっとりと蕩けた表情で飛鳥は頷く。





 その目の前で、男の手がゆっくりと閉じていく。







 そして、飛鳥の意識も完全に閉じた。





































〜25〜






 1ヶ月後。


 ”ラ・プッペ”の入っているビル。
 このビルは、1階が輸入ブランド店”ラ・プッペ”、地下1階がレストラン”メゾン・ドゥ・プッペ”、2階が津雲のオフィスと、各店舗のオフィス兼倉庫になっている。
 そして、3階から6階までは、津雲の”従業員”たちの居住スペースになっていた。




 その、6階の一室が、その日、新たな住人を迎え入れようとしていた。





 ひととおりの家具と最低限の家電はあるが、これといって装飾のない、いたって質素な室内。
 部屋に備え付けの液晶テレビが、夕方のニュース番組を流していた。

「……それでは特集です。今週のテーマは、”現代の若者の心の闇を探る”です。最近話題になった事件を中心に、現代を生きる若者たちに潜む闇に迫ります。今日採りあげるのは、先月、都内の公園で起きた心中事件です。いったい、若いふたりになにがあったのか?まずはVTRをご覧下さい……」

 ベッドに腰掛けている男が、テレビを眺めながら、ふん、と鼻を鳴らす。

「まったく、1ヶ月も前の事件を採りあげるなんてよっぽどニュースがないんだな」

 日に焼けた肌にがっしりした長身、手入れの行き届いた口髭と顎髭。
 もちろん、このビルの主、津雲雄司だ。

 そして、もうひとつ。
 テレビの音に紛れてわかりにくいが、よく聞くと、部屋の中に、ちゅば、と湿った音が響いていた。
 その音が聞こえてくる先は、津雲の腰のあたり。

「ん、あふ、んむ、んっ、んふ……。ええ?社長、なにかおっしゃいましたか?」

 津雲の言葉に、床に膝をつき、その股間に顔を埋めて肉棒をしゃぶっていた裸の女が顔を上げた。
 長身で、ほっそりとした肩と白い肌、すらりと長い手足。
 やや細めで、身長の割に小さな顔。端正な顔立ちで、短く切ったマニッシュボブの髪が、少年のような中性的な雰囲気を漂わせている。
 潤んだ瞳で津雲を見上げるその女は、間違いない、飛鳥だった。

「ほら、あれだ」

 そう言うと、津雲は顎をしゃくってテレビの方を示す。

「え?……はい」

 飛鳥が、顔を後ろに向けてテレビの画面を見る。

 そこには、宏平と結依の写真が大きく映し出されていた。

「……彼、山下宏平は事件当時、勤めていた会社を体調不良で休んでいたそうです。一方、椙森さんは……」

 飛鳥もその場にいたあの日の状況を、ナレーションが説明していた。
 そして、何度も映し出される親友の写真。
 なのに、テレビの画面をぼんやりと見つめたまま、飛鳥の顔にはなんらの感慨も浮かんでいる様子はない。
 なぜ、津雲がその画面を自分に見せたのかわからないといった様子で首を傾げた。

 そして、興味がなさそうにテレビ画面から目を逸らすと、熱っぽい視線を津雲に向ける。

「あの、あたしにはなんのことかよくわからないんですけど、社長……」
「ふ、そうか……」

 津雲がにやりと笑って頭を撫でてやると、飛鳥もわけがわからないまま笑みを返す。
 そして、そっと肉棒を握りしめて訴えてきた。

「ねえ、社長……」
「なんだ、アスカ?」
「あの、ご奉仕を続けてもいいですか?」
「ああ、続けろ」
「はい。……あふ、れろ、んふ、んっ、じゅるる」

 津雲が許可すると、飛鳥はうっとりとした表情で再び肉棒を咥えこんだ。

「んむ、えろ、ん、ちゅ、ちゅむ、ぺろ……ん、社長のおちんちん、おいしいです……ちゅるっ、じゅるるっ」

 ねっとりとした舌使いで肉棒を舐め回し、いったん口を離してふやけた笑みを津雲に見せると、飛鳥は音を立ててカウパーを吸い取っていく。
 もう、テレビの方には全く関心を示そうとしない。

「んふ、あふ、ちゅば、んふ、ん、んっ、んふっ、しゅぼっ、しゅぼっ」

 すぐに、肉棒を扱くように大きく頭を前後に動かし始める飛鳥。
 うっとりとした表情で目を閉じ、肉棒をしゃぶるのにすっかり夢中になっているようだ。


 結依と宏平の幸せを願っていた朝日奈飛鳥は、今はもういない。
 ここにいるのは、津雲の”従業員”のアスカ。
 もう、その心のどこにも、宏平との甘く切ない記憶も、結依との大切な思い出も存在していない。
 彼女の全ては、今、奉仕している主人のためにあった。

「しゅぼっ、ちゅぼっ、ちゅぽっ、ぬぽっ、ちゅばっ、しゅぽっ、しゅぼっ」

 もう、夏も終わり、すっかり傾いた夕日がベランダから射し込み、部屋の中を真っ赤に染めていた。

 飛鳥にとって夕焼けは、つき合っていた宏平と別れた日の切ない記憶を呼び覚ますはずなのに。

「んっふっ、しゅぼっ、しゅぽっ、んぐっ、ちゅぼっ、ぐくっ、んくっ!」

 射し込む夕日に横顔を赤く染めて、飛鳥は喉の奥に肉棒が当たるほどに大きく頭を振っている。
 時折、目を開けて上目遣いに見上げるその瞳は、津雲しか映していない。

 今、飛鳥がいるこの部屋が、本当なら結依が入るはずだったことなど、彼女が知っているはずもなかった。
 いや、知ったところで今の飛鳥には、そんなことはなんの意味も持たない。

「んぐっ、んくっ、じゅるっ、しゅぼっ、んっくっ、ぐくくくっ!ぐくくくーっ!」

 津雲が、飛鳥の頭を押さえ込んだかと思うと、その体がブルッと震えた。
 喉の奥まで深々と肉棒を飲み込んだ飛鳥の目が一度大きく開き、そしてトロン、と蕩けた。

「んくくっ、んくっ、ごきゅっ、こくっ……」

 恍惚の表情で喉を震わせて、飛鳥は精液を飲み下していく。

「んんっ、ごくっ……ん、ぷふぁあ……」

 ようやく肉棒を離した飛鳥の口許から、精液と涎の混じった雫が垂れて糸を引いている。

「ああ、こんなにいっぱい飲ませてもらって。んふっ、ありがとうございます、社長。……あふ、ぺろろ」

 緩みきった表情で礼を述べると、まだそそり立ったままの肉棒に舌を伸ばして、きれいに舐めていく。

 津雲がその頬に手を当てると、まるで恋する少女のような熱い視線を向けてきた。

「今日はおまえが一人前になった祝いだ。たっぷりと相手をしてやるぞ、アスカ」
「はいっ、ありがとうございます!」
「じゃあ、ベッドに上がって四つん這いになれ、まずはバックでやってやる」
「はい」

 いやらしい期待に満ちた笑みを満面に浮かべると、飛鳥はベッドに上がって両手両膝をつき、津雲に向かって腰を突き出した。
 そして、準備は万端だといわんばかりに腰をくねらせる。
 飛鳥のそこから溢れ出した蜜が、ももを伝って滴り落ちていた。

「うん、いやらしい体をしてるな、アスカ」
「はい……あたし、さっきから社長のおちんちんを入れて欲しくて、もう、もう……」
「じゃあ、こういう時はどう言うんだ?」
「はい。アスカのいやらしいアソコに、社長の逞しいおちんちんをいれて、ぐちょぐちょに掻き回して下さい」

 津雲の方に顔を向けてそう言った飛鳥の表情に恥じらいは見られない。
 その頬が紅潮しているように見えるのは、射し込む夕日のためなのか、それともこれから与えられる快楽への期待のためなのか。

 満足そうな笑みを浮かべて、津雲が飛鳥の腰を掴む。

「うん、よく言えたね。それじゃあ、ご褒美をあげよう」
「はい。……ああっ、くふうううううううっ!」

 津雲は肉棒を飛鳥の裂け目に宛い、そのまま力強く中へ挿し込んでいく。

 深々と肉棒を突きいれられ、ベッドについた両手を精一杯突っ張って首を反らして飛鳥は大きな声で喘ぐ。
 まるで、体全体を貫かれたように背筋をピンと伸ばして、びくびくと体を痙攣させていた。

「なんだい?もうイってしまったのかい、アスカ?」
「はっ、はいいいいぃっ!でもっ、大丈夫っ、ですっ!何度でもイカせてくださいっ!もっと、あたしの中を掻き回してっ、もっともっと、気持ちよくしてくださいっ!あっ、あんっ、あああああーっ!」

 涙目で津雲に訴えると、我慢できないといったように飛鳥は自分から腰を動かし始めた。
 そして、またすぐにイってしまったのか、頭を振って大きく喘ぎながら体を震わせている。
 それでも、飛鳥は腰を動かすのを止めようとしない。

「ああっ、あっ、あっ、あくううううっ!しゃっ、社長のおちんちんがっ、中で暴れてっ!んくううううっ!ああっ、中っ、擦れてっ、奥に当たってますううううぅっ!」

 津雲の方から腰を打ちつけ始めると、飛鳥は激しく体をよじらせてよがる。
 さらに、津雲はにやりと笑うと飛鳥の尻に向かって手を伸ばす。

「はああああっ!お尻の穴ああああっ!感じてっ!むふうううううん!」

 アナルに挿し込まれた津雲の指が、ぐりぐりと飛鳥の中を掻き回す。
 膣を掻き回す肉棒と相まって、飛鳥は体をよじって愉悦に悶える。

「ふううううううっ!ああんっ!やっ、お尻もっ、アソコも掻き回されてっ、ああっ、もうっ、イキそうですううううっ!」

 アナルとヴァギナの両方を刺激されて、飛鳥の体がビクビクと震え始めた。
 津雲は、飛鳥に深々と打ちつける肉棒の動きをさらに大きくしていく。

「んくうううううっ!ああっ、社長のおちんちんがっ、子宮の入り口っ、叩いてますっ!はうっ、んふうううううっ!あっ、あああっ1」

 互いの腰と腰がぶつかる乾いた音が響き、いきり立った肉棒が飛鳥の中を行き来する。
 そのたびに飛鳥はよがり狂い、絶頂に達しているようだった。

「んはああああっ!すごいっ、すごひいいぃ!ああっ、すごく気持ちいいですうううううっ!」
「そうか。その気持ちよさをできるだけたくさん味わいたかったら、これから僕のためにしっかり働くんだぞ、アスカ」

 そう言って、津雲はちらりと壁の方を見る。
 そこには、真新しいワイシャツとベスト、そしてスラックスが吊してあった。

「はいいいいいっ!あたしっ、いっぱいご褒美いただけるようにっ、がっ、がんばりますっ!だからっ、だからっ、もっと可愛がってくださいっ!ああっ、くふううううんっ!」

 津雲の言葉に答えようと、ちらりと後ろに向けた飛鳥は、だらしなく緩んだ口から舌を垂らし、その瞳は淫靡に蕩けて潤んでいた。
 しかし、すぐにまた絶頂に達して首をぐっと反らせる。
 それでも、その体はとことん肉棒を貪ろうと、全身を使って腰を揺すり続けていた。



 もう、あの夏の日は戻ってこない。
 宏平も結依ももう帰ってこない。
 そして、飛鳥自身も。

 いや、もう彼女には戻るような過去はなかった。
 今の彼女は、津雲の”従業員”のアスカなのだから。
 今、アスカにあるのは、仕えるべき自分の主人のことだけ。

「はああああっ!アスカはっ、社長にお仕えできてっ、すごく幸せですっ!ああっ、はあっ、ああんっ、んふううううううっ!」

 もう、ほとんど日も沈んで暗くなり始めた部屋の中に絡み合い蠢くふたりの陰。
 体を重ね合う湿った音と、アスカの甲高い声だけがいつまでも響き続けていた。

 
 


 

 

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