愛欲の鬼


 

 



 今は昔、染殿后(そめどののきさき)と申すは、文徳天皇の御母也。良房(よしふさ)の太政大臣と申しける関白の御娘也。形ち美麗なる事、殊に微妙(めでた)かりけり。
 而るに、此の后、常に物の気に煩(わずら)ひ給ければ、様々の御祈り共有けり。其中に世に験しある僧をば召し集て、験者修法(げんじゃしゅほう)有ども、露の験し無し。
 『今昔物語集』、巻第二十、第七話【染殿の后、天宮の為に悩乱せられたる語】より




 それは、桜の花も終わろうかという季節だった。
 藤原朝行(ふじわらのともゆき)が、時の民部卿にして左近衛大将である大納言・藤原良房に出仕するようになって一年近くが過ぎ、家中の雑用にようやく慣れた頃。
 朝行は、雑事の合間を縫って邸内の庭にある桜の木の下で得意の笛を吹いていた。
「笛、お上手ですのね」
 不意に声をかけられ、朝行が振り向くと、
「あっ」
 そこに立っていたのは……そう、出仕に際して、一度だけ挨拶させて頂いたことがある。この家の姫君、名はたしか、明子(あきらけいこ)様……。
 朝行は一瞬言葉を失っていた。その端整な顔立ち、玉の様に滑らかで白い肌、烏羽玉の髪。輝くような美貌ながら、まだ幼さを残す姫君は、朝行を見ると、涼やかに微笑んだ。
「これは、姫様!上手などと、そんな、滅相もございませぬ」
「いいえ、その笛の音、とても風情があって、わたくし、好きですわよ」
「有り難いお言葉にございます」
「そういえば、あなたは……?」
「こちらに出仕して一年ほどになります。藤原朝行と申します」
「……そういえば、以前に挨拶いたしましたわね」
「左様にございます」
「では、朝行殿」
「はっ」
「また時々、その笛の音を聞かせて頂けませんか」
「……は、……かしこまりました」
 
 それが、朝行と明子が初めて交わした、会話らしい会話であった。

 それからしばしば、人目を忍んで朝行は明子と言葉を交わし、笛を聞かせた。
 ただ、それだけのことの筈であった。藤原家の傍流の出である自分は、本家である良房に仕え、その家司として一生を終える身。
 それに対して本家の姫君である明子は、いずこかの名門、大臣家、もしくは、帝の后にでもなるべき人であったから、自分と親しくなっても、それ以上は望むべくもない。
 そのことを朝行は理解していた筈であった……。

「わたくし、朝行様のような方の妻になれればよいのに」
「姫様……」
 笛の音を聞かせ、親しく会話を重ねるうちに、いつしか、明子は朝行のことを、朝行様と呼ぶようになっていた。
「名誉ある家でなくても、裕福な家でなくてもよい。朝行様のような優しい方と共にいられたらどんなに幸せでしょうね」
「姫様!それは……」
「……ごめんなさい。わたくし、朝行様を困らせるようなことを言ってしまって。わたくしもわかっておりますのよ、それは叶わぬ事だと」
「……」
 朝行とて、それが叶わぬ事であるのはわかっていた。
 しかし、朝行にはもうひとつわかったことがあった、自分が明子を心底愛おしく思っていることが。

 そして三年の歳月が流れ。
 朝行は、遠江国の掾(じょう)に任ぜられ、新任の守に従って任国の遠江に降ることになった。
「姫様……この度、遠江に行くこととなりました」
「朝行様……」
「掾の任期は四年、その頃には姫様は御歳二十二になられます。おそらく、もう会うこともございますまい」
「そんな、朝行様……」
 明子は、すでに大人の美麗さを備えた貌を曇らせる。
「いえ、もとより、私と姫様では結ばれるのは叶わぬ事でございます」
 しばらく、押し黙っていた明子が、頭を上げて朝行を見つめる。
「……朝行様、……それではせめて、その笛をわたくしにくだされませぬか」
「この笛を……?」
「その笛を、朝行様との思い出にいたしとうございます」
「姫様……」
「朝行様……ぜひ……」
「……かしこまりました。それでは、これを」
「かたじけのうございます、朝行様」

 そして、四年の任期が過ぎて、都に戻ってきた朝行は知った。明子が帝の女御に入り、すでに皇子も生まれていることを。
 朝行が出家したのは、それから程なくの事であった。
 それから数年、出家して法名を智泉(ちせん)と名乗った朝行は、都近くの山門で修行を積んでいたが、やがて、都での思い出から逃れるかのように、都から遠く離れた大和国の南、葛城(かつらぎ)の山へと去っていった。

  ――それから、幾年の歳月が流れたであろうか。

 その頃、都では、皇太子の母后として、染殿后と呼ばれていた明子は、しばしば憑き物に悩まされるようになっていた。
 帝をはじめ、太政大臣となっていた父親の藤原良房も、名のある僧を呼んで祈祷させたが、快方に向かう気配は見られなかった。
 中納言・伴善男(とものよしお)が、大和国は葛城の山中に聖人が隠れ住んでおり、近頃その高名が知られつつあることを進言したのは、そのような時であった。
「その聖人の験しは比類無く、飛鉢遣瓶(ひはつけんぺい)の秘術を使う程の験者らしいですぞ」
「成る程、大和の葛城と申せば修験の根本ともいえる地、そのような聖人も隠れ住んでおろう」
「左様な聖人がいるのであらば、早速に召して御后様のために祈祷させ、陛下に安んじていただこうぞ」
 このようにして、その聖人を招聘することで朝議は一致し、早速使者が派遣された。



 そして、智泉は、葛城山中にて朝廷の使者の訪問を受けた。
「陛下のお召しとあれば、誠に畏れ多いことなれど、わたくしは未だ修行中の身にて、左様な任には耐えられますまい」
「なれど、聖人様の高名は都にも届いておられますぞ」
「わたくしは、聖人と呼ばれるほどの者ではございませぬ」
「されど、これまでも幾人もの験者が祈祷しておりますが、験しはございませんでした」
「なればこそ、高僧の方々が験じて効果のないものを、野の一隠者にすぎぬわたくしごときになにができましょうか」
「霊験を顕わし、悪霊を調伏するのは、地位ではなくて、その者の験力であると存じます、さればこそ、山中にて行を修める聖人を探し求めて参ったのでござる」
「わたくしは聖人ではござらん、と申し上げたであろうに」
「しかれども、陛下のみならず、御后様の父君にあらせられる良房の大臣におかれましても、是非とも、との願いなれば、重ねてお願い申し上げる」
「良房……様が……」
(なれば、御后様というのは、姫様……明子様のことではないか……)
 ――魔がさした。後になってみれば、そうとしか言いようがなかったであろう。
 都での、明子との思い出から逃れるために、遠く葛城の山中へ籠もったというのに、智泉は、使者の言葉に明子のことを思い出してしまっていた。
「……そこまで申されるのならば、やってみましょうぞ」
 思えば、この時すでに、道を踏み誤っていたのであろうか。



 久方ぶりに都に上った智泉は、まず、太政大臣・藤原良房と対面した。
「おお、そなたが葛城の聖人か、后のことくれぐれも頼むぞ」
「もったいなきお言葉にござります、殿様」
「殿……とな?」
 良房は、訝しげな表情で智泉を見つめる。
「わたくしに見覚えはござりませぬか、殿様?」
 しばしの間、智泉を見つめていた良房が膝を叩く。
「……!もしや、そなた、朝行ではないか?」
「左様にござります。殿様には、出家の際には御無理を申し、誠に申し訳ございませぬ」
「うむ、あの時は……、儂もそなたには失望したものだが……。しかし、これも何かの縁であろう。赦す、今は后のことが大事じゃ」
「かたじけのうございます」

 翌日から、智泉は、后の几帳(きちょう)の前で、護摩を焚き、加持を唱えた。
「オン バサラ クシャ アランジャ ウン ソワカ……」
 加持を唱えはじめてから間もなくして、后に仕える侍女のひとりが、狂い哭きつつ、走り出した。
「キエーーッ!ケェーーーンッ!」
(これは……狐か!?さては、后に憑いていたものが侍女に乗り移ったか?)
 智泉は、神懸かりになって叫ぶ侍女に狙いを定め、さらに力強く呪を唱え、祈祷を行う。
「オン バサラ クシャ アランジャ ウン ソワカ、オン バサラ クシャ アランジャ ウン ソワカ……」
「グエッ!キエエッ!」
 すると、奇声を発して暴れ回っていた侍女の体が痙攣をはじめ……。
「ケエェーーンッ!」
 一声大きく叫ぶと、侍女の体から一匹の老狐が転がりだした。そのまま、狐はうずくまって動かない。
「今だ!その狐を縛り上げるのです!」
 智泉の指図で狐は縛り上げられた。そのまま、連れて行かれる狐を見遣りながら、智泉は言った。
「これで、御后様に憑いていたものは祓われたはずです。おそらく、近い内に快方に向かわれるでしょう」
(それにしても……、釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩の力を合わせるという蔵王権現は、あらゆる魔を調伏するというが、その信仰は山岳修験に特有のもの。その中でも、葛城・金剛山に伝わる金剛蔵王の呪は、都の近辺では使う者はあるまいと思っていたが……)
 胸の内で密かに安堵しつつ、智泉は后の御前を退出する。
(ともあれ、効果があって良かった。姫様の役に立てたのだから。……それにしても、几帳の中におられて中を伺い知ることはできなかった。……せめて、一目お目にかかりたかったものだが……)
 安堵する一方で、智泉は心に、何かつかえのあるような、靄とも澱ともいうようなものも感じていたのであった。


「改めて礼を言うぞ、朝行……いや、今は智泉と申すのであったな」
「礼には及びませぬ。世俗を捨てたとはいえ、わたくしも藤原の家の者なれば、殿様のお役に立てればそれでようございまする」
(……本当は…本当は姫様のためではないのか。いや、詮無きことを……私と姫様は人目を忍んで会っていた身、そのことは殿様もご存じではあるまい)
「うむ、そなたがかように霊験のある験者になるとは。儂の目は節穴であったな」
「滅相もございませぬ。本来なら、家人として、殿様のためにお仕えせねばならぬところを、勝手に出家いたして、詫びの言葉を申さねばならぬ所でございます」
「よいよい、これも宿世というものであろう。陛下もいたくお喜びじゃ。追って恩賞がくだるであろうぞ」
「わたくしは、山中に隠れ住む修行者にすぎませぬ。恩賞などには及びませぬ、平にご容赦を」
「うむ、そのことじゃがの、どうじゃ、しばらくの間、都に滞在せぬか?」
「と、申されると?」
「うむ、后には、入内した時からも、しばしば煩うことがあっての。この度ほど重くなるのは初めてじゃが、またこういう事があるやも知れぬ。それに、我が家に仕えていた者ならば后としても心安かろう」
「わたくしは、世俗を捨てた隠者にござりますれば、都に留まるなどとてもとても。それに、わたくしは殿様に仕えていた時から、御后様との面識はございませぬ。左様な心遣いは無用にございまする」 
(嘘だ……仏門に身を置きながらかような嘘を……しかし、ここに留まれば、いずれ姫様にまみえることもあるやも知れぬ……それが私の本心なのか?……いや、それも有ってはならぬ事だ。そうならぬために遠く葛城の山中に籠もったというのに……)
「どうしたのじゃ、智泉?まあ、今しばらく都におるが良い。本復すれば、后からも直々に礼の言葉があろうぞ」
 結局は、都に留まりて仕うるべし、という、帝の宣旨を持ち出されては背き難く、智泉はしばし都に留まることになったのである。


 智泉は、都に留まるにあたって、帝から僧正の称号を賜り、しばしば召されて、后の話し相手になることがあった。
 剃髪し、山中での修行を経た智泉には、かつての青年貴族の面影は無く、自分が朝行であると后に悟られることはなかった。
 一方で、対面の際には、后は常に几帳の中におり、その姿を一目見たいという智泉の願いが叶うことはなかった。そのような対面を重ねるにつれ、智泉の心の中の澱の様なものが、少しずつ膨らんでいくように感じられた。
(私はいったいこんな所で何をしている?そもそも、私が出家して山中に籠もったのはなんのためか?二度と姫様に会うのも叶わぬ身なら、せめて世を捨てて、ひっそりと暮らそうと考えてのことではないのか?それがなぜ?もはや、名乗る気もないのに、このようなところに留まって、千々に心を乱れさせているのだ?)


 日々を重ねるほどに、智泉の中の暗い澱は積もり重なっていき……。
 このままでは、己自身が耐えられぬと、いよいよ、葛城の山中に戻ろうと智泉が決心した翌日。
 折しも、夏の暑い日であった。
 いつものように、后に召され、この機に御前を辞して山に戻ることを告げようと、智泉が参上した、まさにその時。 
 一陣の狂風が吹いて、后の几帳の帷を吹き上げたのである。
 そこに智泉が見たのは……。
 昔と変わらぬ白い肌、烏羽玉の髪、そして、その端正美麗(たんじょうびれい)と謳われた美貌は、ますます輝くばかりで、すでに三十路を越えて、皇太子と内親王の二人の御子がいるとは思えぬ若々しさであった。
 夏のこととて、単衣の薄衣のみにて座していた后が、ハッとした表情で智泉を見つめていた。
 そこまでは、智泉も覚えていた……。

「そ、僧正様!な、なにを!」
 智泉は、弾かれたように几帳の中に飛び入り、后を押し倒す。
「だ、誰ぞー!僧正様がご乱心ぞ!」
 侍女達の叫び喚く中、智泉は后の単衣をはだけて胸を揉み、口を吸う。
「んん!だ、誰ぞ!」
 后の目は恐怖に見開き、力を込めて逃れようとするが、押さえつける智泉の力が強く、逃れられない。
「僧正様!なにをしやるか!」
「早く、誰ぞ!誰ぞおらぬか!」
 侍女達も怖れて近づけず、ただ叫ぶのみ。
 そして、智泉が后の単衣を完全にはだけようとした時。
「何をしておるか!この破戒僧めが!」
 走り入ってきた一人の男が、智泉を投げ飛ばした。
 かねて、后の病の際には療に当たるべく、控えの間にいた、侍医の当麻鴨継(たいまのかもつぐ)であった。
「御后様に狼藉を働くとは不逞な輩め!」
 鴨継は、したたかに智泉を打擲(ちょうちゃく)し、取り押さえる。

 その後、駆け付けた衛士(えじ)に智泉を引き渡し、鴨継は事の次第を帝と大臣に報告した。
 帝は大いに怒り、即刻智泉の処刑を命じ、太政大臣・藤原良房も、苦虫を噛みつぶした顔で頷く。

 ――その頃、智泉が繋がれた獄中では。
「さあ!疾く我を殺せ!さすれば忽ちに鬼となりて、御所に仇なして、后を手に入れてやる!」
 智泉がそう叫んで、なにやら呪詛を唱えていた。
 獄司からその報告を聞いて、廷臣たちは皆蒼ざめる。
「い、いや、所詮は乱心者のたわ言であろう」
「貴殿は何を震えておられる、お、恐ろしいのではないのか?」
「き、貴殿こそ震えておろうに!」
「御両名とも落ち着きなされ」
「左様にござる。しかし、確かにたわ言やも知れぬが、御后様の憑き物を簡単に祓ったほどの者、何をするかわかったのではござらぬ」
「左様でござるな。ここで処刑しては、真に鬼と化してしまうやもしれぬ」
「それではどうなさるというのか!?」
「遠流刑にするか、それとも、どこかに閉じこめて監視するのがよいのではないか?」
「左様であろうな、鬼ならば抑え難いが、人間であるならば、まだいかようにも抑えようがあろうて」
 朝議の結果、最終的に下された決定は、智泉を、もといた葛城山中の小堂に幽閉し、衛士を監視に付ける、というものであった。



 智泉が落ち着きを取り戻したのは、葛城山中に戻されて数日してからであった。
(なぜ?……なぜ私はあのようなことをしてしまったのか?)
 断片的ではあるが、己のしたことの記憶が残っている。
(かようなあさましき真似を……悪鬼にでも憑かれていたのか?)
 智泉が、そのように考えるのも道理であったろう。
 しかし、真の理は、智泉には考えも及ばぬものであった。
 そもそも、智泉が出家したのは、仏道に深く帰依したものでもなく、衆生を救うためでもなかった。
 智泉はただ、明子への想いという、己の煩悩を断つためだけに出家を選んだのである。
 過去の想い出を、もはや終わったものとして、平凡な下級貴族として生きることを、智泉自身が許せなかったのである。
 ただ、この時代、破れた恋の傷心から出家した貴族というのは、そう珍しいものではない。
 しかし、彼らの多くは、僧体の身でありながら、都で貴族的な暮らしをし、浮き名を流す者も少なくなかった。
 智泉の様に、遠く都を離れ、山中に籠もる者は稀であった。それ程、智泉の想いは真剣であった。
 それだけではなく、明子に憑いた老狐を祓ったことからもわかるように、智泉には、験者としての資質、すなわち霊力が充分にあったのである。
 もし、智泉が心から仏に帰依し、衆生のために尽くしていれば、後世に名を残す稀代の名僧となり得たであろう。
 しかし、智泉が出家した動機はあまりにも個人的であり、僧としての智泉は、あまりにも脆い土台の上に成り立つものだったのである。
 智泉が、己の煩悩の核心である明子と関わったことが、そもそも過ちであった。
 いや、都からの使者を迎え、明子の事を思い出し、その想い出にとらわれてしまった時点で、歯車が狂いはじめていたのかもしれない。
 一度は捨てた筈の煩悩が、明子の身近に接していることによって、鎌首をもたげ、修行によって研ぎ澄まされた霊力と結びついたものが、智泉の中に生じた、暗い澱の正体であった。
 いわば、智泉は魔に取り憑かれたのではなく、自ら魔を生じさせてしまったのである。

 それからしばらくの間、智泉は己の行いを悔やみ、愧じ入るばかりであった。
 己の過ちを、無かった事には出来ないが、せめて、再び隠者として、世を捨てて生きようと、そう考えた。
 しかし、一度増幅された煩悩は、簡単に掻き消せるものではなかった。
(もう一度……もう一度姫様に会えぬものか。……いや、あんな事をして、私は何を考えているのだ。外には衛士もいるというのに……)
 煩悶と過ごすうちに、暗い欲望が頭をもたげる。
(ああ、あの時の姫様の肌の滑らかだったこと。あの肌にまた触れることができぬものか……くっ、なんということを!やはり私は悪鬼に憑かれているのか?)
 それは、己の内なる魔との戦いであった。しかし、己自身が産み出した魔性にうち克つには、智泉の心はあまりにも脆かった。
(姫様に会いたい……どうすれば会えるものか……)
 やがて、そればかりを考えるようになり、ついには、
(やはり、鬼になるしかない……)
 そう決意した智泉の目には、どこか狂気の光が宿っていた。

 そのまま、智泉は食を断ち、十日ばかりにして息絶えた。

 すると、智泉の体を黒い瘴気が包み込み……。
「グアアアァッ!」
 一声叫んで瘴気を払い、現れたその姿は……。
 膚の色は漆を塗ったように黒く、髪はざんばらの大禿(おおかむろ)、その中心に短く太い角が一本生え、目は金の碗を入れたように大きく爛々と光り、口は耳元まで裂け、上下に二本ずつ牙が飛び出し……。腕は膝下まで届くほど長く、手先には鋭い爪が生えており、全身を剛毛の覆った鬼が、赤い裕衣(とうさぎ)姿に、腰に槌を差して立っていた。

「……おい、今、中で大きな声がしなかったか?」 
「うむ。あの坊主、近頃目をつぶって座しているばかりで、食事もほとんど摂らず、そのような元気があるとも思えぬが……」
「この夜中に薄気味の悪い……どれ、ちょっと中の様子を見てみるか?」
 と、智泉を閉じ込めた堂を見張っていた衛士の一人が、扉に手を掛けようとした時。
「かはっ!」
 扉を破って突き出された何かが、衛士の喉笛を捉える。
「……!」
 鋭い爪で喉を掻き切られ、その衛士は言葉もなく倒れる。
「おい!どうした!なにがあった!」
 慌てて駆け寄るもう一人の衛士が、松明をかざすと……。
 そこには、扉を突き破って出てきた、なにやら黒い陰が松明の炎にいかにも禍々しく揺れ、そこには明らかに人の物ではない大きな目が二つ、獣の目のように爛々と輝き……。
「ひっ!ひいぃっ!」
 それを見て、恐怖から逃げ出そうとした衛士の背後から、人間とは思えぬ速さでそれは迫り、
「ぎゃあああぁ!」
 その、何者かが腕を一閃させたかとおもうと、衛士は背中を裂かれて倒れていた。
 そして、それは夜の闇の中に静かに消えていった。

 
 


 

 

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